いつかプールで泳げたら

宍戸サイ

7月1日

「ほらーさっさと並べー」

 教師の間延びした指示。騒がしい生徒。炎天下。滴る汗。全部、鬱陶しい。

 冷たい机に顔をつける。普段めくらないワイシャツの袖のボタンを外した。反対の手で傷だらけの腕を露わにする。微妙に冷房が効いていない図書室。サボタージュ。嘘、不可抗力。水着もなければ晒せる体もない。

「キャー」

 バシャバシャと水がなる。生徒の叫び声。プールサイドにいる資格すらない自分。普通じゃなくなって何年経っただろうか。暑すぎる逃げ場。たいして面白くもない本。容赦無く照りつける日差し。無力感に苛まれる。


 ガタっ


 物音がした方へ目を向ける。机を挟んで目の前に人がいた。確か同じクラス。慌てて腕を隠した。気まずい。

「あっはは。別に隠さなくていいって。実は俺もなんだ」

 そう言って彼はワイシャツをまくって見せた。自分と同じように痛々しい傷だらけの腕。驚いて目を見張ってしまった。

「同じクラスだよな? 名前なんだっけ?」

「……高倉律伽(たかくらりっか)」

「へー。かわいい名前」

「……あんまり好きじゃない」

「ふーん……。じゃあリツな。俺は四方京哉(しほうきょうや)。よろしく」

 そう言って拳を出した。ちょっとだけ当てた。四方はニッと笑った。俺は窓の外に目を向けた。

「逃げてきた感じ? あそこに俺らの居場所ねぇもんな」

 輝く水面を泳ぐ健康児たち。愛されて育った人たち。虐待とは縁遠い人たち。四方はそれを見て笑っていた。

「なんで」

「え?」

「なんで笑えんの?」

「うーん。……楽しそう、だから?」

「羨ましく、ない?」

「あー……。そういうのなくしたわ。リツはあんの?」

「……多少」

 そっか、と言って四方は話を終えた。同じ経験をしているからといって考え方が同じとは限らない、か。俺は読んでいた本に視線を戻した。

「……普通だった時があんだな。リツは」

 噛み締めるように言った四方の顔は外のプールを眺めていた時より羨ましそうに見えた。俺はそのまま本を読みながら続きを待った。

「俺、物心ついた時からずっと親父に乱暴されてっからさ。でも周りの人間は知らんぷりだし、同級生なんてガキの時はもっと残酷でさ。俺の前で自分の親に「なんであの子いつも長袖着てるの?」とか言うんだ。そんなの俺が知りてぇっつうの。」

 体を伸ばしながら四方は言った。痣と傷だらけの腕が妙に痛々しく見えた。笑って話しているけれど、かなり残酷な話。どう頑張っても好転することのない、絶望的な状況で浴びせられる心ない言葉の数々。きっと反吐が出るほど経験しているのだろう。

「そんなことを繰り返してるとさ、自分と周りの溝を考えるのが馬鹿らしくなってくるんだよな。だって考えたところで無駄なんだもん。だから……、羨ましいとかそう言うの、忘れちゃった。」

「……そう」

「いや反応塩すぎ。もっと他に無いの?」

 読んでいた本のページ番号を確認して閉じる。そして四方の顔を見つめた。見つめられている本人はかなり動揺しているようだった。

「な、なに?」

「……同情して欲しくて、言ってんの?」

「……。いや……」

「なら、言うことない」

 一番言われて嫌な言葉を、知っているから。だから、俺は言わない。四方は一瞬驚いて、そして笑った。

「そっか。そうだよなー。うん」

 勝手に納得された。また本を手に取る。ページを開こうとしたら、いつの間にかページ番号を忘れてしまった。生ぬるい風がページを揺らした。

 

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