鯨骨生物群集

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鯨骨生物群集

クラゲの明かりを頼りに、声のするドームに向かって回廊を歩いていた。

回廊の先のガラスドーム。その向こうから巨大なクジラがこちらを覗いている。

「やあ。元気かい?」

ガラスドームが震える。ガラスには鳴き声の翻訳が表示されていた。


「うん。元気だよ」

僕がそう答えると、再びドームが震える。こちらも翻訳機を通してスピーカーから深海に向けて音がでる。

「それは良かった。ところで君は今夜、生きている予定かい?」

「うん。少なくとも今夜中は生きていると思うよ」

「実はひとつお願いがあるんだ。聞いてくれるかい?」

「うん。もちろん」

クジラがドームに顔を寄せ、僕の顔をじっと見つめた。

「私の死体の行先を見届けてほしいんだ」 

クジラはそこで言葉を切った。

振動の余韻が、耳の奥に響く。


「死体の、行先?」


やっと僕から出て来た言葉はクジラの言葉の繰り返しだった。


「そう。行先」

「どうして、」

「今夜、私は死を迎える」


僕の言葉を覆い隠すようにクジラは言った。今夜死ぬ、と。


「私が死んだ後、この体は海底へと沈んでいくだろう。私が生きた歴史は、私が骸になるまでの歴史だと思っている。だから、君に見届けてほしい。私が生きていた歴史を」


クジラは微笑むように目を細めた。


「私のわがままなお願いだ。もちろん断ってくれたっていいんだよ。」

「僕がもし、断ったら?」

「遠くへ泳いで行くだけさ。これまでのようにね。ただ、目的地はない。私はきっと、途中で息絶えることになるだろう。そしてひと知れず沈んでいく。ただそれだけだ」


•••••••


「それは、さよならが早くなるということ?」

「そうだね」

僕は少し考えた。元気なままのクジラとお別れするのか、弱っていくクジラのそばに居るのか。どちらがいいのだろう。

「ねえクジラ。僕は見届けるよ」


「だって少しでも君と一緒にいたいから」


クジラは細めた目を見開いた。そしてまた、優しく目を細めた。


「ありがとう」



それからしばらく、僕とクジラは話をした。


出会ってから、今日までのこと。クジラの旅の話。僕以外の人間の話や、ダイオウイカとの戦いに、深海で光る生き物たちの話。うれしかったこと、かなしかったこと。

 話をすればするほど、クジラが今夜死んでしまうなんて思えなかった。死なんて、どこか遠くの花の名前のように思えた。


クジラが話をやめた。僕はできるだけガラスに近づいて、クジラのそばに寄った。小さな鳴き声だった。


「ありがとう」


気泡が海面へと昇っていく。クジラの最期だった。


僕を乗せた潜水艇と共にクジラの体はゆっくりと沈み始める。

それから、弔いに来てくれたのかクジラの周りには生き物が集まり始めた。集まった生き物たちの声が、翻訳機を通してガラスに表示された。


『うれしい』


表示された言葉に目を疑った。

 クジラは死んでしまったのに。僕の話を聞いてくれた、寂しいときはいつまでも一緒にいてくれた、旅の話をしてくれた、海底の不思議な生き物や、冒険の話をしてくれた、あのクジラはもう、返事をしてくれないのに。死んでしまったのに。

 僕はガラスを殴りつけた。

ガラスはびくともしない。殴った部分がごく僅かに震えただけで、ガラスの向こうでは生き物たちがただクジラの死体を食んでいた。


•••••••

 どのくらいの時間が経ったのだろうか。ガラスを殴りつけて、泣いて、喚いて。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ガラスには変わらず「うれしい」と表示されたままで、その向こうでは少し増えた生き物たちがさらにクジラの死体を食っていた。


 翻訳機のスイッチを切って、ただガラスの向こうを眺めた。ぼんやりとした頭と、無力感。  僕はクジラの話を思い出していた。



「私はね、一度、私と同じクジラの死体を見たことがあるんだよ」


「怖くなかったの?」

クジラの死を見届けると約束してから、ダイオウイカとの手に汗握る死闘の話の後だった。

興奮冷めやらぬ僕に、クジラはゆっくりと話し始める。


「それは怖かったよ。最初は仲間だと思って話掛けたさ」


•••••••


クジラは何度も何度も話しかけた。


 しかし相手のクジラは一向に返事を返さない。まだ若かったクジラは怒りに任せて顔を近づけた。近づくクジラの勢いに、返事をしないクジラの体が水圧に押される。


押された途端、返事をしないクジラの体が、崩れた。

とうの昔に死んでいたであろうその体は、少しの水圧で崩れてしまったのだった。その崩れたクジラの肉を、小さな魚たちが奪い合いながら泳ぎ去っていく。


•••••••

「私自身がいつかそうなるだなんて、その時は信じられなかったよ。でもね、死が目の前に来ると、そうなるとしか思えないんだよ」


「私が死ぬと、私の体を食べに生き物たちがやってくる。私はその生き物の一部になるんだよ。そして、この海の一部に」


ふうん、と曖昧な相槌を打つ僕をクジラはじっと見つめた。


「私の死体に群がるものを追い払わないでいるんだよ。そうして私はこの海の一部になれるから」


そうか。クジラはこの海の一部になりつつあるのか。

僕は翻訳機のスイッチを入れ直した。再びガラスには映しだされた「うれしい」はクジラの言葉のように思えた。


ゆっくりと崩れながら沈んでいくクジラのそばで何日も過ごした。少しずつ白い骨になっていく。小さな骨が切り離されていくのを見るたびに、クジラと過ごした日々の場面を思い出していた。


 ついにクジラはその真っ白になった頭を海底の砂へ下ろした。胸鰭や尾鰭の小さな骨はもうとうになくなり、頭や背骨などの大きな骨を残すばかりになった。まだ少し肉が残っているのか小さな魚が見え隠れしている。随分と生き物たちの数も少なくなった。



「クジラ、見届けたよ。これで良かったかい?」


1人、ガラスの内側からつぶやく。ガラスドームが震えた。

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