第8話 暗転

 飯田美幸は、朝の9時過ぎに事務所にやってきた。


 扉を開いた瞬間・・・

 むっとする空気と共に鼻を刺すような異臭。



「はい。そうです・・・それは分かっています。でも・・・はい、よろしくお願いします」


 真は電話中のようである。


 美幸は、このまま逃げ出そうかとも思ったが・・・あきらめて事務所の中に入る。

 扉は開けたままで。


 息をしないようにしながら・・・事務所の窓を開け放っていく。


「あ、おはよう」


 そう呼びかけられても、部屋の窓を開けるのに忙しい。

 やがて、全ての窓を開けた時に真に叫ぶように言った。


「よくこんなにおいの中平気ね!すごい臭いよ」


 キョトンとした目で真は婚約者を見る。


 ソファの上には、昨夜と同じように座っている少年。

 その少年に真は話し出す。


「一応、血液検査には応じてもらえるようにお願いしたよ。午前中には結果が出るそうだよ」

 その言葉に対しても無言である。


「朝になったら、警察を呼ぶんじゃなかったの?」

 小さな声で、美幸が真に聞いた。


「そのつもりだったんだけど、彼がヒントをくれてね」

「ええ・・・大丈夫なの?」

「ちょっとだけだから」




 2時間後、真の携帯が鳴った。


「はい、山崎弁護士事務所です。あ!先ほどはどうも・・・結果が出ましたか!?

 え?はい・・それじゃ・・・はい、またご連絡します」


 電話を切った真は、向かいのソファに座る陽一に聞いた。


「やはり、肝臓の数字が異常に悪いようだ。すぐ入院するレベルだそうだ」


 その言葉に対しても・・・無言。


「それにしても、なんで肝臓の数値が悪いとわかったんだ?」


 やがて・・・かすれたような小さな声で返事がされた。


「・・・・DV・・を受けて・・・」

「DV?目立った傷は無かったそうだけれど・・」

「薬物・・・・注射・・」

「え?薬物によるDV?そんなものがあるのかい?」


 怪訝そうな真。


「注射針・・DNA・・・・薬品の購入履歴と・・・在庫・・・」


 もはや話すのは単語だけ。


「ねえ、君?大丈夫?」


 美幸も話しかける。


 無言のまま、ソファに座り続ける陽一。

 だが、その体は・・・ゆっくりとソファに倒れこんでいった。






 陽一の意識は、もはや断続的に途切れていた。

 やがて・・意識が真っ暗になる。


 

 陽一は、2か月の間はほとんど固形物を口にしていない。

 水に至っては、1週間前から。


 ソファに座り続けていたのは、もはや立つこともできなかったのだ。


 人間は数日のあいだ水を取らないと脱水状態になると聞いた。

 最後の手段として・・餓死ってことはありだな。


 そして、思い出すのは・・・幼馴染との幸せな日々。

”これが死の直前に見る走馬灯・・・ったやつなのかな・・”



 ままごと。鬼ごっこ。魚つり。かくれんぼ。


「もう~いい~かい!?」


 大きな声で聞く。


 すると、純子が答えてくれた。


「まだだよ」


 その声は、子供の頃の声ではなく高校生の幼馴染の声であった。

 それを最後に・・陽一の意識がフッと消えた。




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