空。

 中学1年生の夏休みに手に入れたスマートフォン。今私は絶賛中学2年生で明日から夏休みなので、手にしてからほとんど1年という時間が経っている。

 最初の頃に感じていた感動はもう欠片もない。あって当たり前のツールとなったスマホちゃんである。

 うーん。時代の流れは速いよね。びゅんびゅんと。

 すぺぺぺぺー、と指を動かして私が電話をかけた先は──

「はーい空ちゃんでーす」

 そうなのである。

 空ちゃんだ。

「何か用ですか、お水ちゃん」

 そう。

 空ちゃんに言わせれば私はお水ちゃんなのである。本名は全然違う名前なのだけれど。それは置いておこう。

「今日先生に呼び出されたりしなかった?」

「したよー。でも、何で呼び出されたんだっけ…。忘れちゃった」

 そっかー、忘れちゃったかー。それはそれは…。

 そうだよねえ。かもしれないとも思ったよ。

 空ちゃんは自分に関係のないと判断したことには、本当に全くと言って良いほど無関心なのだ。歩く前に忘れる。呼吸をしただけで記憶から濾過ろかされていく。

 ありがたい脳みそですこと。私もそんなじこちゅーな脳みそがほしい。

「高校は行けって言われたよ、私」

「…高校って何だっけ」

「忘れちゃったならいいよ、そんなに大した話じゃないし」

「そお?」

「うん」

「そっかあ。じゃねー、お水ちゃん」

「ばいばい。空ちゃん」

 通話を切った。

 すごいな。

 高校という概念すら忘れられるとは。大した脳みそだ。どうなっているのだろう。

 それでも大切なことはしっかり覚えているのだから、驚き桃の木霞ヶ関。

 そんなことより。

 いや、そんなことではないか。

 まあともかく。

 空ちゃんが空ちゃんである由縁。

 私がお水ちゃんである理論から考えると簡単に導き出せるものだと思うがそれは─空ちゃんはお空になりたい子なのである。

 あの、お空だ。

 私たちの頭上に果てなく広がる、あれである。

 青かったりオレンジっぽかったり、稀に薄紫っぽかったりする、あれである。

 空ちゃんはだけど、本名も空なのだ。

 蒼井空。

 それが彼女の名前である。

 なんと羨ましいことか。

 私の名前がもし仮に蒼井水だったりしたら、それはもう盛大に喜び飛び上がろうと言うものだ。

 私と空ちゃんが交流を持ち始めたのは小学生の頃。

 田舎のちいちゃな学校だったのでクラスの数が少なかったためか、私と空ちゃんは入学から卒業までしっかり6年間同じ教室で授業を受けた。

 けれども。私たちは最初から仲良しさんだったわけではない。

 きっかけと言うなら、それは1つしかない。あの授業である。

 「将来の夢」とかいうテーマの作文を音読したあの授業。

 あの授業があってから私は大半の友人を失ったのだが、しかし逆にあの授業があったから育まれた友情と言うのもまた、あったのだ。

 私が「水になりたいです」と発表したその授業で、だけど空ちゃんは「空になりたいです」とは発表しなかった。

 空ちゃんは困ったような顔をして、けーきやさんになりたいですと言っていた。

 絶対なろうと思ってなさそうな顔だった。

 今にして思えば当然のことだった。あのときから空ちゃんは空になりたいと思っていたのだけれど、それを言った先の結末を少しばかり想像できてしまうから、その想像通りの展開を避けるために誤魔化したのだ。将来の夢を。

 なりたくもないケーキ屋さんを盾にして、自分を守ったつもりでいた。

 ではなぜ数ある職業の中から空ちゃんがケーキ屋さんを選び出したかというと、これは私の推測でしかないのだけれど、普通の女の子に人気の職業を予想してのことだったのではないかと思う。

 授業が終わってすぐ、空ちゃんは私の席に駆け寄ってきた。

 クラスの何人かがちらちらとこちらを窺っていた。

 いきなり近付いてきた空ちゃんに、私は当時警戒した。

 しかしなんのことはない。

 空ちゃんは、言ったのだ。

「私は空になりたいです」

 そして、手を差し伸べて─

「よろしくね、お水ちゃん」

 この時から、私はお水ちゃんなのである。

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