杉ちゃんとパラカヌー
増田朋美
杉ちゃんとパラカヌー
処暑を通り越して、もう残暑見舞いの季節になるというのに、まだ暑かった。外へ出るのはうんざりするくらいだが、家の中にいるのもうんざりしてくるというので、杉ちゃんは製鉄所の理事長をしているジョチさんを無理やり連れて、富士川の河川敷へ出かけることにした。今日は、何一つ文句を言わない運転手の小薗さんが、今日は暑いですなあというくらいだから、相当暑いのだろう。とりあえず、クラウンのエアコンを最大にして、富士川の河川敷へ向かった。富士川というと、今でこそ、穏やかな河川であるけれど、昔はすごい暴れ川で、よく氾濫を起こしていたものだ。それを阻止するために、雁金堤という堤防が、江戸時代に作られたという伝説がある。それを作るために、生きている人間を生き埋めにして犠牲になってもらうという、いわゆる人柱が行われたということだから、相当ひどいものだったのだろう。
小薗さんは、河川敷の駐車場で車を止めて、杉ちゃんとジョチさんは、暑いながらも、河川敷を歩いてみることにした。河川敷には、人柱が祀られているという小さな神社も立っている。そういうときに、杉ちゃんという人は、なぜか信心深い人で、必ずお参りをしていくものであった。その神社でお参りをして、少し堤防の上を歩いてみると、
「さあ皆様、いよいよ、ラストレースのスタートでございます。応援よろしくおねがいします。」
というアナウンスの声がして、大きな拍手が響いたので、はあ何だ?と杉ちゃんとジョチさんは顔を見合わせた。
「一体レースってなんのレースだろう?」
と、杉ちゃんが言うと、
「そこの着物の方々も見ていきませんか?いよいよラストレースのスタートですよ。」
と、何やらカメラを持った女性が、杉ちゃんたちに声をかけた。確かに、杉ちゃんもジョチさんも、それぞれ黒大島と絽の着物を、身につけていたのだが。
「なんですか、レースって。」
と、ジョチさんがきくと、
「カヌーレースです。富士川を利用したワイルドウォーターです。」
と、その女性は、ちょっと興奮したような顔でそういうのだった。
「カヌーレース?ワイルドウォーター?」
杉ちゃんが首をかしげていると、何人かの車椅子に乗った子どもたちが、杉ちゃんたちの近くを通っていったため、
「ああ、パラカヌーですね。」
と、ジョチさんが言った。
「なんだよパラカヌーって。」
と、杉ちゃんがきくと、
「ええ、足の不自由な人のための障害者スポーツで、カヌーと呼ばれる小さい船を漕いで速さを競うレースですね、ワイルドウォーターとは、激しい急流を漕いで渡るレースですよ。」
と、ジョチさんが答えた。
「そうですそうです!ご理解の有る方で嬉しいです。もうすぐスタートですよ。見に行きましょう!」
と、興奮した女性に引き連れられて、杉ちゃんとジョチさんはそのレースが行われているところに行ってみた。確かにパラカヌーということもあり、車椅子の人も、何人か応援に来ている。杉ちゃんたちが到着した同時に、はい、位置について、用意、スタートという掛け声と号砲がなり、川に待機していた五人の選手が、一斉にカヌーを漕ぎ始めた。大変な接戦で、一位と二位の区別がつかないと思われたが、審判の判断で、一位は一番左端の選手ということになった。
「わあ!うちの大輔が優勝よ!わあ、やった、やった!」
女性は、カメラで写真を撮るのも忘れて、両手を叩いている。つまり、優勝した選手のお母さんだったんだなということがわかる。
「良かったですね。福山さん。優勝おめでとうございます。」
近くにいた男性が、その女性に声をかけたため、彼女は福山さんという名前なのだと言うことがわかった。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます。」
福山さんは、その男性に丁寧に頭を下げた。
「いえ、いいんですよ。少なくともいい居場所を見つけられたじゃないですか。自殺未遂をしたときは、大輔君、正直もうダメだと思っていたんですけど。ほんと、彼の精神力に感謝ですね。」
と言っている男性は、よく見ると影浦千代吉先生であった。杉ちゃんが、影浦先生と声を描けると、影浦は、ああ、杉ちゃんも見に来たんですかと言って、にこやかに笑った。
ラストレースということで、それ以上レースは行われなかったが、数分後に、その場で表彰式が行われた。選手は全員車椅子に乗っているが、車椅子も手動とか、電動とか、いろんな種類があった。
「優勝、福山大輔くん。」
と、アナウンサーがそう言った。人垣の中心に、先程の青年が現れて、主催者と思われる年配の男性から、表彰状をもらった。周りの人達は、彼の顔を見て、大きな拍手を送った。お母さんと思われる福山さんは、涙を拭くのも忘れて、てを叩いていた。それから、二位、三位の選手の表彰が行われたが、もしかしたら言葉が不自由な選手がいるのか、優勝インタビューは行われなかった。とりあえず、表彰式が終了後、解散となったが、大輔くんはローカル新聞の記者と話をしていたし、福山さんの方は、他の人から、挨拶をされていて、忙しそうだった。
「あの、優勝者は、影浦先生の患者さんだったんですか?」
と、ジョチさんが影浦にそっときくと、
「ええ、まあ、そういうことです。はじめて来たときは大変でした。もう勉強ができないから、自殺したいの一点張りで、僕たちは止めるのに、大変苦労したんです。」
と、影浦が答える。
「で、なんで、そんなやつがカヌーなんか始めたんだよ?」
「ええ、病院の屋上から飛び降りて、一命はとりとめたんですけどね。結局、足が不自由になってしまったんです。そのときに、なぜか偶然、一緒に入院していた方の中に、パラカヌーの愛好者が一人おられましてね。彼の話を聞いて、急流を船で渡るという、カヌーの世界が面白くなったようです。」
杉ちゃんの質問に影浦は、そう答えた。
「そうかあ。人間、どんなにメディアが発達していても、やっぱり人間を救うのは、人間なんだね。」
と、杉ちゃんが言うと、
「ええ、全くです。精神科医なんて何も役に立てはしません。僕たちも、大輔くんが彼に出会わなかったら、一生、入院したままで終わってしまうかもしれないと危惧していたところでした。」
と、影浦も言った。
「そうですか。なんなんでしょうね。人間っていうのは、思わぬ広いものをする才能というものがないとだめといますけど、福山さんの場合、それがあったというべきでしょうね。」
ジョチさんは、報道陣のインタビューを受けている、福山大輔くんを眺めながら、そういったのだった。
ちょうどその時、お昼の12時を告げる鐘がなる。杉ちゃんたちは、喫茶店なんかでお茶でも飲んでいくかと言って、小薗さんの車に戻っていった。
一方、製鉄所では。
「大橋さん、大事な命だけは、ちゃんと守らなくちゃだめですよ。そんなふうにね、何回もリストカットを図ったって、何も意味がないんですよ。それよりもね、命があるんだって言うことに感謝しなきゃ。」
と、仏教学校に通っている女性の利用者が、大橋ゆうかという女性の利用者の、手首に包帯をしながらそういうことを言った。
「大暴れして、リストカットじゃなくて、あたしたちは、ちゃんと話を聞きますよ。あたしたちのこと信じてくれませんか?」
と、利用者が言うのであるが、大橋ゆうかは、大きな体を小さく縮こまって、涙をこぼすのだった。
「一体どうしたんですか。今日は。いきなり大声を出して暴れだして。」
別の利用者が彼女にそうきくと、
「わからないんです。何も理由らしきものはないんですけど、急に自分のからだを傷つけたくて、仕方なかったんです。」
と、大橋ゆうかは答えたのだった。
「そうですか。理事長さんが、もう少し情緒が落ち着いたら、なにか学問するといいって言ってましたよね。あたしは今、仏教習っているけど、大橋さんも、なにかそういう学問したらどうですか?」
と、利用者は、包帯をテープで止めながらそういうことを言った。彼女が所属している学部は看護学部であるが、仏教に基づいて看護を行うという学部なので、時折仏教の授業も有るようである。
「みんな、変わるきっかけがあっていいわね。そうやって、大学に行ったりして。でも、あたしは、親に捨てられてしまって、もう家には戻れないし。」
と、大橋ゆうかは言った。
「まあまあ、変わるきっかけは誰でも訪れますよ。ただ、それを待っているしかない時期もあるんですよ。大橋さんも絶対かわれるから、大丈夫。」
と、先程の利用者は、彼女を励ましたが、彼女は一人取り残されているような顔をした。というのも、大橋ゆうかの母親は、彼女が家に帰りたいといって大暴れしたとき、こんなんではうちに置いておけない、出ていってくれと口を滑らせてしまったそうである。彼女は、そこが相当な傷になっている。確かに、父がいないで、母だけで育ってきた彼女には、そういうことばを言われたら、傷ついてしまうことは確実だろう。母は、多分、うっかり口を滑らせてしまっただけのことだと思っていると思うが、言われた方は、いつまでも気にして、悩み続ける。それも人間だ。
「大橋さんも、いつか自分の好きな学問したり、好きなことをやれるようになれる日が来るから、大丈夫よ。あたしたちだって、そういう時期は二度とこないと思っていたけど、こうして大学にも入れたんだから。あたしなんて、バカロレアの試験で大学入ったんだし。高校言ってないことを、馬鹿にされることも結構あるけど、それは気にしないで、大学に通えるところだけ、考えるようにしているの。」
確かに、この利用者は、いわゆる大検に合格して、大学に入ったところから、たまに教授などから馬鹿にされることもあったようだ。
「大橋さんも、その日が来るのを信じてさ、がんばって生きましょうね。もうすぐ杉ちゃんたちも帰ってくると思うわ。」
利用者がそう言うと同時に、ああ暑いなあと言う声が聞こえてきた。杉ちゃんたちが戻ってきたのである。別の利用者が、玄関に急いでいって、理事長さんたちが出ている間に、大橋ゆうかさんが、また大暴れをしたと、ジョチさんに報告した。
「何だ。またやったのね。命の話をいくらしても彼女にはだめかなあ。うーん、彼女のリストカット癖は、どうやったら止められるだろうね。」
と、杉ちゃんが言う。
「例えば、外見を劇的に変えてみるとか?」
ジョチさんはそう言うが、彼女は、評判の美女という感じではない、平凡な容姿の女性だ。それに、大橋ゆうか自身がかなりそれをよく知っていて、いくら美容室でヘアスタイルを変えてみろとアドバイスしても、美容室には行きたがらないのだった。水穂さんが提案してくれた、写経会に行ってみるということもやってみたが、周りの人が裕福な人ばかりで、自分は引け目を感じて嫌だと言うことで、一度限りでやめてしまった。
「まあ、仕方ありませんね、涼しくなってきたら、彼女も落ち着いてくるかもしれません。出血多量で命を落とさないように、僕たちで守っていくしかありませんね。」
ジョチさんはそう言うが、彼女が涼しくなったら落ち着くかという保証はどこにもなかった。
「理事長さん、杉ちゃん、ちょっと来てくれませんか!水穂さんが。」
別の利用者がまたそんなことを言った。また畳を汚したなと杉ちゃんたちはつぶやきながら、四畳半に行くと、水穂さんが布団の上に倒れ込んで、咳き込んでいた。大橋さんは、何をしていいかわからないというか、表情もまるでない顔で、それを眺めていた。多分、大橋さんは、水穂さんとなにか話していたのだろう。杉ちゃんが急いで、水穂さんに薬を飲ませて咳き込むのを止めさせる。それでも、大橋さんはまだ、人を信用できないという表情をしている。
「一体、水穂さんに何を言ったんだよ。おまえさんは。」
と、杉ちゃんが大橋さんにいうが、ジョチさんがそれを止めさせた。こういうときは、言葉による説教をしてもだめだと言って、それよりも、ことが起きたらそれをどうするか、を考えましょう、と、リーダー格らしく言った。
「でもどうするよ。僕たちが、提案したことだって、ことごとく没になっているし、水穂さんまでこういう事になっちまうし。」
と、杉ちゃんがいうと、
「ええ、そうかも知れませんが方法はあるはずです。彼女が突然暴れだしたのは、医学的な援助が必要なのかもしれませんね。そういうところは、影浦先生に見てもらいましょう。」
と、ジョチさんは、大橋さんに、病院へ行く意思があるか、を聞いた。大橋さんは、小さな声でハイと答えた。杉ちゃんに付き添われて、大橋さんは、小薗さんの車に乗り込み、ジョチさんと一緒に、影浦医院に向かった。
暑い日なので、さほど患者さんはいないかなと思われたが、影浦医院には意外に人がたくさん待っていた。こういう暑い日だからこそ、医療が必要な人が多いということだろう。
三人は、飛び入りで見てもらえないかというと、ちょっと待つかもしれませんがと受付に言われた。それでもいいからといって、杉ちゃんたちは、待合室で待たせてもらった。
ちょうどその時、診察室から、一人の女性と、車椅子の男性が出てきた。誰だと思ったら、先程のパラカヌー大会でインタビューを受けていた、福山大輔くんである。
「あれ?先程、お会いしましたよね?」
と、ジョチさんが言うと、
「ええ、日に当たりすぎて、疲れてしまったようです。」
と、福山さんは言った。はあなるほど、いくらパラカヌー大会で優勝したとしても、患者の一人なんだなと杉ちゃんが言った。
「幸い、軽い熱中症でしたけど、屋外で、あんなふうにインタビューされ続けたら、疲れちゃいますよねえ。」
お母さんは、にこやかに笑っている。
「みなさんはどうされたんですか?」
「いやあねえ。彼女が、あまりにも、つらそうなので、薬でも飲んだらどうかと思って、連れてきたんですよ。」
と、杉ちゃんがいうと、大輔くんが、大橋さんの手首を見つめた。大輔くんの手首にも、切ったあとがあった。
「おんなじことやってたんですか。」
と、大輔くんが小さな声で言う。
「僕ができるのは、船に乗っけるしかないですけど。」
ジョチさんと福山さんは顔を見合わせたが、杉ちゃんの方は彼が何をするつもりなのかわかってしまったらしい。すぐに手を叩いて、名案だ!と笑った。
「よし、二人で乗って見るんだな。なにか緒が見つかるかもしれないよ!」
杉ちゃんに言われて、ジョチさんも大輔くんの案に従ってみることにした。どうせ、二時間以上待つのは確実だから、影浦先生に、順番が回ってきたら連絡をくれとお願いして、一度病院を出て、大輔くんの行きつけである、大きな池のある公園に向かった。大輔くんは、福山さんに手伝ってもらいながら、公園の池に設置してある、カナディアンカヌーに乗り込む。大橋さんも、福山さんに手伝ってもらいながら、それに乗らせてもらった。
「すごいですねえ。歩けないのに、カヌーを漕いで、池を移動できてしまうなんて。」
と、大橋さんは言っている。
「いいえ、大したことありません。いつも、公園の池で練習してました。ただ、カヌーに乗って、梶をとっていたときだけは、嫌なことを忘れられた。それだけだったんです。」
と、大輔くんは言った。
「本当にそれだけなんですか?」
大橋さんは、そうきくと、
「ええ、それがずっと続いて、いるだけかもしれませんけど。人間は、どこかで必ず、一生やりたいなと思うものにたどり着けると思うんですよ。それを見つけるためには、自分の心に見つけようと思う力が必要なんじゃないかな。逆をいえばそれだけなんです。でもそれだけが、唯一の武器なんです。」
と、カヌーを漕ぎながら、大輔くんは言った。
「それ、水穂さんが言ってたわ。そのためには、生きていなくちゃって。でも私は、どうしても、死にたい気持ちが消えない。それって、悪いことだって、みんな口を揃えて言うけど、私はそう思っちゃうのよね。なんでだろう。なんか、そう思ってしまうの。なんで、そう思ってしまうのか、わからないけど、そう思ってしまうの。」
涙をこぼしながら、大橋さんは言った。
「命の大切さなんて私にはわからないわ。」
「そうですね。でも必ず、生きていてよかったと思う日は来ます。そういう日が来るのを待つために、そういう気持ちがあるんだと思ってくれませんか?そう考え直してくれれば、周りの人もちょっと楽になってくれると思うから。」
大輔くんは、カヌーを漕ぎながら、淡々と大橋さんに言うのだった。もちろん彼の言う通りなのかもしれなかった。でも、大橋さんは、どうしてもわからないという顔をしている。
「僕も昔はそう思ってましたよ。命なんて、なぜ有るのかとか、本気でいらないとか考えてました。いけないことをしたから、足が悪くなったかもしれませんが、それも、今では幸せだと思っているんです。今の苦しみはね、新しいなにかを掴むための土台なのだと考えると、ちょっと気が楽になるかもしれませんね。」
「そうでしょうか。」
大橋さんは、ちょっと、表情が変わった。
「ええ、同じ経験をした人間もここにいるんですから。」
と、彼はにこやかに笑った。大橋さんは、それにどう呼応して良いかわからなかったのか、ちょっとにこやかな顔をした。
「やれやれ、やっぱり、経験者にまさるものはなしですね。どんな医療従事者だって、彼のような発言はできないと思いますよ。僕たちも、きっとできないでしょうし。」
とジョチさんが、苦笑いをしながら、カヌーに乗っている二人を眺めていた。
「ホントだホントだ。僕たちには絶対できない技だな。やっぱり、連れてきて正解だったぜ!」
と、杉ちゃんが、でかい声でカラカラと笑った。カヌーに乗っている二人の様を、福山さんは、レースのとき撮り忘れた写真をとっているかのように、撮影し続けていた。
杉ちゃんとパラカヌー 増田朋美 @masubuchi4996
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