この世界は捨てたもんじゃない


 吐く息も無いように感じていた。

 もちろん、流す涙も欠いている。

 心に色はなく。ただ、虚ろに俯く人影が一つ・・・・・・。

 

 それから、もう一つ。

 

 

「あ、すみません!」


 二人は重なった手をとっさに引っ込めた。

 まるで小説のように、同時に商品に手を伸ばし触れてしまうという現象だ。

 両者の周囲への認識が著しく下がった状態でしか発生しない極めて希有なそれを経験すると、現象に関わった者の関係は慣例的に進展する。

 二人の例もそれに漏れず、強い力に導かれながら午後五時のコンビニでエクレアを買った。

 レジ脇のコーヒーマシンの奥、椅子が数脚あるだけの飲食コーナーに二人は腰掛ける。

 

「さっきは本当にすみませんでした。私は歌奈って言います」


 制服姿の歌奈が、紙パックのリンゴジュースにストローを指しながら頭を下げた。

 

「いいの、いいの。私もちゃんと見てなかったし。あ、名前は陽芽です」


 陽芽はホットコーヒーで両手を温めながら微笑を浮かべた。

 それから二人はエクレアに齧りつく。

 チョコの苦みとカスタードの甘さ、その対立が印象的に口内に広がる。

 

「おいしい・・・・・・」


 思わず声を出した陽芽が恥ずかしそうに口を押さえる。

 クリームのコクはシュー生地の軽さに包まれ、味蕾との接触を僅かな時間差でもたらした。

 

「本当ですね」歌奈は首肯しながら答える。


 時間と性質の重層的な喜びが心地よい無言に誘っていた。もはや店内の背景音など気にならない。

 この口福とも呼ぶべき幸福の名残惜しさを強く意識しつつも、二人は表面に浮かんだ水滴に急かされて一心不乱に食べ続けた。

 背中に当たる暖房は、室温をチョコを溶かすには十分すぎる程にしていたのだ。

 

 

「私、赤点とちゃったんです」


 食べ終わった袋を結ぶと歌奈が呟いた。

 誰かに聞いて欲しいと思っていたこと。しかし、見ず知らずの人に打ち明けるつもりは皆無だった。

 

「ふーん」


 陽芽は素っ気ない返事をする。

 しかし視線は、窓の反射越しに歌奈の表情を捉えていた。

 

「頑張って、頑張って。勉強しているのに、それなのに、英語はどうしても・・・・・・。帰ったら両親にスマホ没収されるし・・・・・・。すみません、こんな話しちゃって」


 歌奈はジュースに手を伸ばす。しかし飲む気は全く起こらなかった。

 

「そりゃ辛いな。っていうか懐かしい、赤点。私も何回か取っちゃった」


 陽芽は道を行き交う幸せそうな人々を見ながら言った。

 

「私も失敗続きでさ。いつまで働いてって慣れない。でもフリーターだから、必死に働いてないと放り出されちゃう・・・・・・。ありがとう。歌奈ちゃんが話してくれたから私も話せた」


 背もたれに体重を掛け天を仰げば、案外に低い天井が煌々と照らしていた。

 

「みんな幸せそうだな・・・・・・」


 歌奈がテーブルに突っ伏して外を眺める。

 

「それ分かる! あとさ、自分だけ不幸だとバカにされたような気持ちになるよね」


 ホットスナックの香りに食欲を呼び起こされた陽芽も歌奈と同じ姿勢を取る。机に突っ伏すのは何時ぶりだろうか。そんなことを考えると、大学卒業以来だと気がつく。

 

「ですね。でも、今日、陽芽さんと話してみてお互いなんだって気がつけました。みんな心に傷を負ってる。でも話してみないとそれは分からない。だからそんな勘違いをしちゃうんです」


 青春を思い出し、仄かに感傷的な陽芽はそれを聞いてゆっくり上体を起こした。

 

「そうだね。私、素のまま歌奈ちゃん見たら学生は気が楽で良いなとか思っちゃうもん」


 他人の人生は幸福に見える。ことわざをわざわざ思い起こす必要もあるまいと歌奈は考える。


「仕事が辛いってのは知ってました。でも皆、追い出されるかもしれない、そしたら生活が無くなる。そんな可能性と隣り合わせだとはまったく」


 それを思うと途端に道行く人の背中に巨大な背嚢が見える気がした。

 誰もが背負っている。同じ重さを感じている。

 けれど、目に見えず、言葉にも明かされないそれは誰にも見えないのだ。

 

 

「じゃあどうしようか」


 歌奈のため口に思わず微笑む。敬語と丁寧語で作られた距離が自分を孤独にしていたのかもしれない。そんなことを考える。

 空は当然のように暗く、照らされた看板と光の消えないビルに阻まれて星は見えない。

 来店する死んだ目のサラリーマンと、一見楽しそうにはしゃぐ高校生達。

 しかし、二人はもう、彼ら彼女らに心を病むことは無かった。

 

「明日からどうしよう」


 無機質なレジのスキャン音は途切れることがない。

「大人らしく頑張れとか言えたら良かったんだけどね。自分が苦しくて言えないや」


 陽芽は力なく笑う。

 

「じゃあどんな言葉なら苦しくないの?」


 たとえ虚ろでも、その純然たる瞳は陽芽を堅く掴んで離さない。

 一瞬の思考。疲れた脳に「エクレア食べただろ、動け」そんなことを言い聞かせる。

 かっこいい言葉、この場を繕う言葉なら沢山出てくる。けれど、それでは・・・・・・。

 

 自分が救われない。

 

 では自分を救ってくれる言葉とは何か。その答えはもう出ていた。実行という形で。

 二人は今日出会うことで救われた。

 なぜ出会ったのか、それはコンビニ二来たからだ。

 なぜ来たのか。

 

「逃げてもいいよ、かな」


 そう、コンビニに来たのは逃げてきたからだ。

 歌奈は両親に赤点を知らせたくなくて。

 陽芽は失敗続きの一日から逃れるため。

 逃げなければ、抗ってしまえば出会えぬ関係だった。だからこそ、今日の出会いはしっかりと認めなければならない。逃げても良いのだと。逃げることで出会える救いもあるのだと。

 

「そっか、逃げてもいいんだね・・・・・・」


 自分を追い込むのは何時も自分なのだ。歌奈は考える。

 他人など所詮他人。二足歩行で喋る"動物"、劣等の存在。それ相手に気を揉むのは他ならぬ自分が、動物を、自身と対等あるいは上位の存在と認め、それからどう見られているのかを気にするからだ。

 逃げる、とは行動も指すし、自身以外の動物との対決を避けるという意味でもある。草食動物は逃げる、が生存戦略なのだ。

 

「わざわざ、動物如きの相手をしている暇はありませんからね」


「ん?」そんな声が陽芽の口から漏れたのは言葉を十分精査した後、数秒後だった。

 

 

 歌奈の思考の総括。突飛で跳躍した言葉の意味を共有した二人はコンビニの前で分かれた。

 年齢も違う私達は、互いを知らないままでいた方が神秘的で良いだろう。

 二人は話し合いの結果こう結論付けた。

 しかし、逃げ疲れた時に助け合えるように。そんな願いを込めてお互いの携帯電話番号と住所をレシートの裏に書いて交換した。

 おみくじのように折りたたみ結ばれたそれはどんななお守りよりも暖かく、繋がりを感じさせるものだった。

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