秋雨モンブラン山

 秋雨が冷たく降る昼間、二人は和栗モンブラン山に登っていた。

 

「いやしかし絶景だな」

 

 先頭を歩く陽芽が眼下に広がる、栗の棘大地を眺めながら茶化した様に言った。

 

「上を見上げらば果てしないけどね」

 

 ため息をついた歌奈の視線の先には、螺旋に絞り出されたクリームの山がある。

 振り返ればクリームに出来た深い足跡が一本伸びていた。クリームはまるで雪のようで、溶ければ消えてしまう代物だった。

 食べても美味しくないのを残念に思うか、くっついてもベタベタにならないことを喜ばしく思うか。

 陽芽は前者、歌奈が後者であることは言うまでも無い。

 

「休憩しよう」

 

 黒い雲が見え始めたところで歌奈が提案した。

 ちょうど側にはクリームの間が出来ていた。

 

「そうだね。私もお腹空いてきた所だったし、そうしよう!」

 

 雨音を聞きながら、ホットココアの入ったカップは凍えた手に握られている。

 

「どうしてそんなに一心不乱に登っていけるの?」

 

 歌奈がおずおずと陽芽に聞く。

 仲間のため、先頭で深く沈み込むクリームを踏み固めながら進むこと(いつしかラッセルと二人は呼んでいた)非常に体力のいる行為だった。

 通常は交代しながら、負担を分散して進む。しかし、陽芽は決して先頭を譲らず、そして譲る必要性を陽芽に感じさせないでいた。

 

「うーんとね、一歩進むと一歩分だけ前に進めるでしょ。それだけだよ。時間も、登山も、人生も、歩けば進む。だから歩くんだよ」

 

 結局の所、意思なのだと歌奈は思った。

 陽芽にとっては進むという行為が目的であって、その為の手段が歩くことなのだ。

 それはつまり、進むという行為が目的ではない歌奈にとって、歩くという手段だけの実行は著しい苦痛を伴うということでもあった。

 

 雨が止むと二人は再び歩き出した。

 クリームの間に出来た裂け目である焼き芋クレバスを紅葉梯子を架けて乗り越える。

 背嚢に詰め込んだ荷物がやっと役だった感動を味わう暇も無く、クレバスは次々に現れる。

 梯子を架けたとはいえ、逆に言えば梯子しか架けてない訳であり、二人は命綱を確認すると張り詰めた緊張感を伴って渡る。

 そうした事を繰り返していると陽芽はペロリ、と足下のクリームを指ですくって舐める。

 

「そんなの食べちゃ駄目だよ!」

 

 心配の声が虚空の山に消える。

 

「うん、やっぱりまだ美味しくない」

 

 前を向いて答えた陽芽の笑顔、ぎこちないそれは誰にも見えていなかった。

 

 

 どのくらい登っただろうか。

 大地に散らばる栗の棘大地はとても小さくなり、北西に開けた霞んだ青はおでん湾、後ろを振り向けば地平線に同化した所に豚汁森があった。

 だが見上げても、未だ先端にあると何故か知っているゆで栗はその先端すら見えない。

 何百週目かの螺旋クリームを回っていると反対側から人影が見えた。警戒するよりも早く相手が駆けてくる。

「あなたは?」

 

 息も絶え絶えな相手に質問するのは胸が痛んだが、せざるを得なかった。

「和希。山頂からずっと降りてきてるんだ」

 

 心底嬉しそうな様子でぎこちなく言葉を発する少女。

「下山って凄いね。こっちは登るのがキツくてさ」

 

 陽芽と歌奈、そして和希はしばらく会話を楽しみ、それから分かれた。

 ずっと一人で下山し続けてきた和希の敵は孤独だったようだ。

 名残惜しい気持ちを隠そうとしない和希との会話を切るのは苦しかったが、高所の気候と今日の二人の進行距離は長話を許さなかった。

「あの子の敵は孤独だったみたいだね」

 陽芽が雨とも雪とも思えるまだ優しさを宿す壁を体で破りながら呟く。

 それから続けて「私、気がついちゃった。登ったってどうせ降りるってこと

 分厚い防寒具もむなしく、手足はしびれたようにその機能を急速に落としていた。

 

「一歩進めば一歩前に進む、歩いた分だけ前に行く。これを教えてくれたのは陽芽じゃん」

 

 寒気が肺を痛めつける。

 歌奈はいつの間にか自分が陽芽を説得していること、そしていつの間にか自分が進むということを目的として獲得している事に気がつき驚いた。

 

 

「でも、私はそれでも、前に進む必要はないと思うんだ。私達が進まなくたって、歩くのをやめて腰掛けたって、時間は進む。季節は巡るんだ」

 

 目的を失った陽芽に、手段を説いても余計に苦しめるだけであること、歌奈は自分の経験を通してそれをしっかりと理解していた。

 

「歩きたくなった時、歩きやすくなった季節に歩いたって、それだって進むだと私は思う。歩くべき時、歩くべき季節、なんて所詮、人それぞれが持つ時機に過ぎないんだから」

 

 語りすぎた、歌奈は直感的にそう思うと文字通り穴に入りたい気分になる。

 歌奈の言葉を聞きながらも陽芽はクリームをラッセルし続けていた。

 その愚直さ、己の性格が陽芽を余計に苦しめていることもまた歌奈は知ってる。そんな陽芽を助けるために歌奈はそれが寒気であることを承知で息を吸い込んだ。

 その時、暖かい風が一吹き。

 二人を、そして二人を妨げる全てを取り除く。

 もう遠くの景色になど興味は無い。

 見上げれば、それも僅かな角度、首を上げるだけでそこにあったのだ。

 

「これが、ゆで栗・・・・・・」

 

 巨大な和栗モンブラン山に突き刺さったゆで栗。

 秋世界の頂上を支える、親指と人差し指で作った輪程度の大きさの物体。

 

「確かに、歌奈の言うとおりだ。無理して歩かなくても、いつかはこうして登るべき季節がやってくる」

 

 ゆで栗を背に腰掛けて言った。

 

「そう。でも、登るべきでない季節に、私と陽芽が登った。その事実もまた、確かなことだと私は思う。結果的にこれが私達の時機なったんだね」

 

 背中合わせとなる反対側で自分と相手の両方に言葉を掛ける。

 

 

 ・・・・・・ひ・・・・・・ひめ・・・・・・陽芽ってば!!

 そんな声が、頂上から陽芽を暖房の稼働する少し熱い教室に引き戻す。

 

「もう、じゃんけんに負けた方がファミマの新作モンブランを買ってくる、それも雨の降る中に、って言い出したのは陽芽じゃん」

 

 どうやら自分は長い夢を見ていたようだ。疲労感を感じて眉間を揉んだあと、対面にした歌奈の掌中には、どこか見覚えがある螺旋があった。

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