ベーテンバーグ城の高貴なる一つ花

「・・・・・・ということで元素の周期表を来週テストするので覚えてきてくださいね」

 

 普通なら教室中がブーイングの嵐になるテスト予告。しかし静けさはそのままだった。

 代わりに響くのは「分かりました、歌奈先生!」という快活な声。

 教室に居るのは一人の少女だけである。

 快活さの奥に備えた品、ゲーテンバーグ家の一つ花という愛称にも劣らず最高級のドレスを巧みに着こなす彼女の名は陽芽。

 ベーテンバーグ家唯一の娘だった。

 貴族界、そして王国中に知れ渡る両親、つまりベーテンバーグ家当主と妃の溺愛ぶりは凄まじく、学校へ出さず城内分校を作って一人学ばせる、そんな慣例破りをするほどだった。

 それはつまり、両親による軟禁に等しい処置を受けていることを示す。陽芽の人生は今、自室と教室の往復しかない。

 曰く、生活の全てに窓はなく、人との交流も無い、と。

 歌奈は分校を任されている教師だった。ベーテンバーグ領地の平民学校から派遣されている事もあり立場は陽芽より下。それでも陽芽は両親を気にしてかあらゆる者に従順かつ健気であり続けた。

 歌奈もまた、平民学校がベーテンバーグ家により運営されている以上、どのような事情があっても当主らに逆らう事は絶対に出来なかった。

 そんな二人は冷たい石造りの教室で日々、授業を続けていた。

 

 

 その日の三校時目は音の伝わり方が主題だった。

 二人は互いに実験器具を耳と口に当てる。

 ピンと張った糸が二人を繋いだ。

 

「ねぇ先生・・・・・・。先生は、私の先生なんだよね」

 

 糸を伝ってきたのはかつてないほど弱々しい声だった。

 歌奈は面倒事の予感を鋭く感じ取る。肯定するしかない質問だが、その先に何が待っているか、都合の良い話でないことは確かだった。

「うん、そうだよ。私は陽芽の先生」口から耳に、耳から口に、器具を移す僅かな時間がとても長く感じられる。

 

「・・・・・・なら、私を街の外れにある麗月花の群生地に連れてって」

 

 光取りの窓しかない、石造りの教室に目をそらすものはない。

 年相応の迷いに満ちた声に不釣り合いな美貌、それから強い眼差しに突き刺された歌奈は静けさを保ったまま少しずつ追い込まれる。

 

「連れて行くのはかまわないけど、ご両親は認めてくださっているの?」

 

 苦し紛れに交渉カードを一枚切る。両親により箱に押し込められた目の前の生徒の願いに、大人の理論で反対するのは心苦しかった。

 

――だけど・・・・・・それをやってクビになんのは私なんだよ


「だとしても」

 

 陽芽は質問に答えずゆっくりと言った。

 それから続けて「先生は私の先生なんでしょ。百聞は一見に如かず、って言葉を教えてくれたのは先生じゃない」。

 歌奈を貫く言葉の棘は、陽芽の朗らかな雰囲気によって貫かれた後に丸められていた。

 これが貴族。歌奈はそう感嘆せずにはいられなかった。だからこそ、その親である当主と妃の意向に反した行いを自分がした時、どれほどの罰が下されるのか考えずにはいられない。

 

「・・・・・・」

 

 沈黙しか出来なかった。普通の人間にとって道徳的行動というのは、自分の身分が保障される環境があって初めて確保されるのだ、と歌奈は無意識に自己弁護する。

 だがあれっきり陽芽は何も言わない。ただ、その器具を耳にあて、歌奈の回答をじっと待っていた。

 言葉が終わる事で初めて発話権が返還される。糸で繋がれた会話とはそういうものなのだ。

 つまり無言は逃避になり得ない。

 

「・・・・・・仕方ない。なんとかしてみるよ」

 

 歌奈は心の中で求職活動を、と付け加える。何か失敗すれば二度とこの国で教師は出来ないというのは覚悟していたことだった。

 そして、陽芽の願いに応えないことは十分失敗に該当することである。無論両親の願いに反することも同じ。そうであれば、既に教師としての歌奈は終了したも同然。

――ならば娘に恩を売って、将来の権利回復に繋げるのもあり、か。



 当然ながら歌奈に人身拉致の経験はない。

 だから、そういった類のやり方というものを一切心得てなかった。

 夜、天体観測の授業という名目で歌奈はベーテンバーグ城に入場した。

 当主の定めた陽芽の消灯時間を破ることになるらしく、相当な交渉を重ねたのは嫌な記憶だった。

 だが決まってしまえば案外あっさりと、馬車に不自然な大きさの木箱を積んでいても検分される事無く通される。それどころか昼間は山のように居る警備兵が殆ど居なかった。

 不審に思いながら馬車を観測地点に指定した庭まで操っていくと、陽芽が駆け寄ってくる。

 

「先生、すっごいよ。お父さんとお母さんは今日舞踏会みたいで皆付いて行っちゃった。今日は私自由!」

 

 徹底的な箱入りにする割には甘い警備。きっとそれは慢心だろうと予想する。


――というか陽芽が糸を通してしか声が聞こえない状況で私に願いをしたのは何故だ・・・・・・?


 それはこうして堂々と陽芽が大声ではしゃげる状況に違和感が始まりだった。

 

――状況だけで考えれば教室で教室が盗聴の対象だったからだろう。何年もそんな生活をしていれば普通は心が折れる。だが、この少女は違った・・・・・。私にできるだろうか・・・・・


 喜ばしげに飛び跳ねる少女を見て、自分が相手にしていたのは地位や血筋、容貌ではなく根源的な部分で遙かに尊敬するべき一人の人であったことを確認した。

 それは吹っ切れるという表現にも近い。

 

 歌奈の計画では本来、天体望遠鏡を納める木箱に陽芽を入れ、身代わりとして書類上の同級生、和希を置いていく予定だった。

 だが、歌奈は馬車を牽く二頭の馬のうち一頭を切り離すと自分、和希、陽芽を載せる。

 

「どうしたの先生?」

 

 和希が不安そうに聞いてくるが「大丈夫」

 そう言って非常用に持ってきた鞍に跨がるとトンと足で合図して走らせる。

 城に残置された警備兵も流石に気がついたのか一気に慌ただしくなるが、歌奈とて準備を重ねてきたのだ。

 平日も休日も問わずに重ねた練習の成果を見せるかのように最短経路で目的地に急ぐ。

 ベーテンバーグ城は湖の岬にあり、街は湖を挟んだ反対側だった。

 つまり最短経路とは湖のすぐ側ということになる。

 

「すごい! すごい!!」

 

 後ろから歓声が上がる。満月の夜、湖を囲う山々と城はしっかりと視認でき、街の明かりは宝石のようで、鏡のような湖面には星が投影されていた。

 山の木々と波打ち際の丁度狭間に作られた古道を失踪していく。

 秋の涼しく済んだ風を切ってリズミカルに駆け抜ける馬、どこからか漂う金木犀の香りもそこに華を添えた。

 その声は時代も場所も越えて大人の誰しもが共感するものだった。それが自分の地位と引き換えになったとしても。

 

「ありがとう」

 

 不意に声が漏れる。「どうしたの先生?」本当に分からない、といった様子で陽芽が首を傾げる。和希はじっと黙ったままだ。

 

「ううん、何でもない」

 

 言える訳がなかった。教師が果たすべき責任を自分に全うさせてくれて、など、とても申し訳なくて。

 

 言える訳がなかった。教師として最後に、自分より目の前の生徒が優先されるということを思い出させてくれて、などとても恥ずかしくて。

 

 

 群生地に向かう道との分岐点、街の入り口で和希を降ろすと二人は一気に駆けていった。

 和希に宿るほんの少し寂しそうな瞳に歌奈は気がつかなかった。

 群生地の直前で人気を察した歌奈は馬を静かに止める。恐る恐る獣道(これも事前に教わっていた)を通って行くと不自然な人だかりがあった。

 

「あ・・・・・・お父さんだ・・・・・・」

 

 振り返った先には唖然とする陽芽が居た。

 ベーテンバーグ家の当主と妃が参加する舞踏会とは麗月花の群生地で行われるものだったのだ。いや主催というべきか。そうであれば警備兵が多く引き抜かれたことにも説明が付く。

 

「・・・・・・帰ろう・・・・・・」

 

 陽芽が歌奈の服を引っ張る。

 普通に考えてもう引き返せないことは自明だった。この件で陽芽への締め付けはきっと更に厳しいものになるだろう。

 それでも陽芽が帰ろうと、当主と妃から逃れようとするのはこれまでの日々でその存在自体がトラウマとなっている、その証明のように思われた。

「乗り込むよ」小さく呟く。それから歌奈は陽芽のドレスの裾を切ってやり、流行の膝だしに変える。

 はさみの動く一音が鳴る度に陽芽の笑顔は満開になっていった。

 今夜がどうなるか、明日がどうなるか、二人には分からない。

 でも、今を逃せば今は二度と来ない。それだけは確かだったのだ。

 二人は藪の中から飛び出し、満月の光を浴びて純白に輝く麗月花の絨毯を駆け抜ける。

 それから舞踏会用に設けられたステージの先、少し高くなった場所に登る。

 知る者が見たら仰天するであろう貴族の顔ぶれがざわつく中、歌奈は大きく声を張り上げ、満面の笑みで言う。

「今宵の麗月花には及びませぬが、ベーテンバーグ家の高貴なる一つ花をこの満月に、添えさせて頂きます」そう言って一礼する。

 ベーテンバーグ家の一つ花、そう聞いて貴族達はほっとしたように拍手を重ねた。

 外面上は舞踏会の主宰者家族が遅れてやってきたようなものだろうと思う。少なくともこの時間、陽芽はある程度自由に麗月花を見れるはずだ。

 不埒な貴族はそれこそ陽芽の両親が徹底的に排除するだろうから。

 不埒な、にはもちろん歌奈も含まれていた。

「それじゃあ、お姫様はあちらへ」歌奈が陽芽の背中をぽんと押してステージから降ろすと、歌奈は奥に座る両親の元へ歩いて行った。

 怒りに震える当主に歌奈は懐から教員免許を取り出して渡した。その途端に破かれる。

 

「目の前の生徒が自分の手で未来を創る、その過程を共に歩む・・・・・・。これが教師の本懐でなんでしょうか。

 貴方のお子さんは今、立派に貴方の手から離れていきました。己の手で未来を創る為です。

 もちろんまだつぼみ。これからも多くの人々と出会って成長していく存在でしょう。

 そう、成長していくのです。それは誰にも止められない・・・・・・。

 私は貴方のお子さんから教師の本懐を思い出させて頂きました。ありがとうございます」

 

 歌奈はそう言うと颯爽と会場を、そして街を、ベーテンバーグ領を後にした。その先の事など何も決めていなかったが今宵の星夜は何もかもが上手くいきそうな、そんな無尽蔵の自信を授けるものだった。

 

 

 歌奈が山奥にひっそりと開設した塾へ、家出してきた陽芽が訪れる・・・・・・。

 そんな翌年の桜が咲く頃の出来事は、また別の話である。

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