第2話 バラバラに、崩れる。
全てを買い終わった頃には、もうすでに日は暮れていた。
土方のバイトをしていたおかげか、荷物はそう重く感じなかった。とにかく、今は早く帰らないと。結花が、僕を待っているんだ。
……みんなが、僕を応援してくれた。
「使えねぇ貧弱が来たと思っていたが……まさか別れが寂しくなるなんてな。……妹さん、おめーが、全力で笑顔にしろよ」
怒ると怖い、土方のおっちゃんも。
「これで私達の危険な関係もお終いねー? ふぅ、爆弾が消えて精々したわー! ……なんてね。大丈夫よ。今まで頑張ってきたんだもの……。成功するに、決まってるわ」
路地裏に店を構える、スナックのママさんも。
「おうおう、もうお別れッスか? 残念ッスねー。私達、この業界じゃー結構有名になって来てたんスよー? ……まあ、大丈夫ッス。頑張るッス。応援してるッス。……少し、寂しくなっちゃうけど……。あっ! なっちゃうッスけど!? ですー!」
危ない仕事の、「ッス」キャラのパートナーも。
みーんな、僕を応援しているんだ……。
失敗するわけには、いかないよ。
「絶対……良い日にしてや――」
「――誰か、誰か助けてぇッ!!」
「……え?」
病院へのショートカットに使う、薄暗い路地裏。
いつもは猫の鳴き声が聞こえるというのに、今日は……人の悲鳴が、聞こえてきた。
足を止め、ごくりと大袈裟に唾を飲む。
ピリッと肌をなめる緊張感に、少しずつ呼吸が荒くなる。
恐怖に雁字搦めになった体は、僕に次の一歩を踏み出させなかった。
「誰か……誰か、いやぁああ!!」
「ははっ!! やっぱ胸はデケェ方がいいなぁ!!」
「いやぁッ!!」
……いや、ちょっと待てって。
なんだよ、これ。え? なに……。まさか、ヤバいやつ……?
ドクン、ドクンと、激しく胸が鳴っている。
いや、何立ち止まってんだ? 僕は……。
逃げろよ、ほら。早く、逃げようぜ。助けるとか、馬鹿なこと――。
「誰か……誰か……。死にたく……ないよ……」
――考えなくって……いいのにさ……。
弱りゆく声に。死にたくないという見知らぬ誰かに。
俯き、そして、拳をぎゅっと握りしめた。
「ごめん……結花」
荷物を抱えたまま、すぅーっと大きく息を吸い込んだ。
声のする方へ走り。三人の男と、上裸の女が倒れる路地裏で。
全てを吐き出すように、叫ぶ。
「お巡りさん、こっちです!!」
「うぉわっ、逃げろ!!」
……よし、上手く――。
「おい、待てお前ら……。足音聞けよ……。明らかに、もう一人はいねぇはずだ」
「そ、それも確かだな」
――行くわけ、ないよなぁ。
すぐさま上裸の女の人の手を引き、地面を蹴ってその場から逃げ出した。
「ありが……っ」
「お礼はいいから!! 今はただ、走ってください!!」
振り返らず。角を曲がり。僕は、走る。走って、走って。
ただひたすらに、逃げていく。
背後から飛びかかる怒声に顔を歪ませながら。僕は、どこまでも、逃げていく。
けれど、元より運動神経が悪く。
挙げ句、荷物を抱えたままの僕が……逃れられる、はずがない。
「ちっと――」
肩を掴まれ、ぐいっと勢い良く引っ張られる。
逆らえず、どうしようもなく背から地面に倒れ込んだ。
「――待てやッ!!」
落とされたかかとがみぞおち辺りに突き刺さり、込み上げた胃液をぶちまける。
「ゔ……っ。これを着て……逃げてください!!」
立ち止まってしまった女の人に、結花にあげるはずだった服を投げ。
僕は、そう叫んだ。
女の人は涙を流し、「ありがとう」と言って去っていく。
それを追おうとする男の足を、這いつくばって咄嗟に掴んだ。
「行かせる……ものか」
「ッチ……。ヒーロー気取りかよ!!」
髪を鷲掴みし、男は僕を引き上げると、思いっ切り顔面をぶん殴った。
ほか二人もまた、四方から僕を痛めつける。
何度も。
蹴られ。殴られ。
そして――。
「なんだぁ、この花? きったねぇー」
男は、僕が手から離した花束を見ると、にやりと笑ってみせた。
「もしかして、大事なやつだ? まったくー。弱いくせに逆らうのが、ダメなんだ……ぜ?」
そう言って、男は花束を踏み潰す。
ギャハハと汚く笑いながら。
何度も、何度も何度も何度も。
洋服も。花も。ゲームも。本も。全部、全部……。
「ギャハハハハ!!」
やめろ……。やめてくれ……。
「ほーら、こっちもだッ!!」
頼むから……やめてくれ。
「そして、最後に残ったこの服も――」
ああ。ああ……。
「お願いします……。頼むから……それだけは……」
「――むーりーでーす!! ギャハハハハ!!」
ああ……あああああ、あああああああああ!!
――心までも、バラバラに壊される。
何かが、音を立てながら崩れてゆく。
絶望だ。それ以外何もない。ぽつりと、黒色の染みが真っ白な頭の中に一点ある。
「じゃーなー!」
「ははっ、だっせー」
「また会おうな、ヒーローくん」
遠のいていく足音に、安堵することはなかった。
かろうじて動く指先で、紐のリボンをつまみ取る。
でも……もう、ダメだ……。
立ち上がれそうにないよ……。
最後の最後に漏れ出た声は。やけに掠れていて。震えていて。
「ごめん」
……なんて、馬鹿げたものだった。
◇
「……おはよう、結花」
病室の中。
本来ならば花と装飾で埋め尽くされるはずだったそこは、依然として質素なままだ。ただ、一輪の薔薇が添えてあるだけ。ただそれだけ。
目を覚ました僕の妹――結花はにまぁっと微笑むと、薔薇を見て僕の袖をぐいっと引っ張った。
「おにーちゃん! あれって薔薇ってやつだ!?」
「うん、そうだよ……」
薔薇一本で……こんなに喜ぶのか。
なら、もし、成功していたら……。
やるせなさに込み上げそうになった涙を、僕は必死になって堪える。
「ってことは、棘があったり……」
「触ってみる……?」
「ひぎゃぁああああ!! おにだー! おにーちゃんのおにー!」
「ははは……っ」
きっと、苦しいはずなのに。
結花には……退院できないなんて教えてないけど。
でも、きっと体のことは、こいつが一番良く知っているはずだ。
きっと、今はもう……。
痛くて、痛くて。
僕よりも、辛いはずなのに。
なのに、なんで……。
こんなに、笑顔でいられるんだよ。
「ありがとね、おにーちゃん!」
「ああ……」
見せないはずだったのに。
絶対に、隠すはずだったのに。
なのにぽろりと、涙が流れてしまって。
僕は、己の弱さを、痛感する。
もし、僕がもっと強ければ……。
もし、僕にもっと、力があれば……。
今頃、幸せだったはずなのに。
「泣かないで、おにーちゃん」
「ごめん……。ごめん……」
ああ、僕は……弱い。
どうしようもなく、弱い。
のくせに、夢だけはいっぱいあってさ。
傲慢なやつだって、笑われるかもしれないな。
でも今は。
結花の温もりがあるだけで、幸せになれた。
こんな時間が、もっと続けばいいのに。
なんて思う僕に、結花は笑いかけるんだ。
「全部治って退院できたら、もっと花を見れるのかな?」って。
「……きっと見れるさ」
ああ、ああ。
心がバラバラに、崩れてゆく。
◇
それから最後の一週間は。
あまりにも音速で駆け抜けていった。
薔薇以外何もなかったけど。案外、楽しめるもんだ。
結花の最近あったヤバヤバエピーソード三選だったり、テレビでお笑いを見たり。
ずっと、結花は笑顔だった。
サプライズは……失敗しちゃったけど。
でも、幸せそうで、良かった。
なんて、思えるはずがないよ……。
薔薇以外にも、沢山の花を見せてあげたい。
懐に手を潜り込ませ、僕は残金を確かめる。
……500円。
ご飯だとか、どうでもいい。
最後に、一輪だけでもいいから。
花を、菫を、見せてあげよう。
「おにーちゃん!?」
「ちょっと待ってろ!」
病室を走り出て、僕は、花屋へと駆けていく。
鈍臭く転げても。生傷が体に増えても。それでも、止まることはない。
そして、バラを貰った店で菫を買って。
それで。
残り二日間。
もう一度、サプライズを――。
「ただいま、ゆ……い……?」
――サプライズを……。
まだ、朝のはずだ。
目覚めたばかりのはずだ。
なのに、なのに……。
なんで、眠ってんだ……?
薔薇の隣に菫を添えて、僕はすぐに結花を抱きしめた。
弱々しくて、細くて、まるで……これじゃあ、骨だよ……。
耳元で、結花の唸り声がする。
……苦しんで、いるんだ。
「大丈夫だ……。大丈夫……。お兄ちゃんが、ついているから」
だから、だから、目を――。
「泣き止んだようですねー? 夏芽さん」
真夜中。
目元がカピカピに乾き、痛くなるくらい泣いた僕に。
結花の手を握りしめながら、呆然と夜景を眺めていた僕に。
誰かが、そんな声をかけた。
ドアの方に首を向け、僕は声の正体を探る。
見たこともない少女だ。
ファンタジーチックな派手すぎる格好に、艶のある白髪のロング。
……吸い込まれてしまいそうになるほど、綺麗な人だった。
「あなたは……」
「私は、選別者。通称死神。君と取引をしにきたんだ」
可憐な少女はニッと笑うと、病室に入り、僕に握手を求めてくる。
「以後、お見知りおきを」
手をとって、僕も答える。
……随分と、冷たい手だ。
「……ど、どうも」
「でもって! 明日、君の通う学校の屋上に来るんだ。詳しい話は、そこでする……。もしくれば――」
少女は含みのある笑みを浮かべると、何もかもを見透かすような目で、僕の目の奥をじーっと見つめる。
「――すべてを、やり直せるかもしれない」
「……え?」
「それじゃ、またね」
真夜中。
病室に一人。いいや、結花と二人きり。
少女の言葉が、脳内でぐるぐると回っていた。
訳がわからない。詳しい話は、学校の屋上で……?
しかも、死神って……。
まさか、な……。
バクバクと脈打つ心臓は。
確かな、胸の高鳴りだった。
そして、どうしようもなく夜が明けて。
運命の日は、やって来た。
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