204号室の扉

きょうじゅ

本文

 2007年4月16日、朝。僕たちは講義棟の204号室で、リビウ・リブレスク教授の固体力学の講義を受けている。教授はルーマニアのご出身で祖国では宇宙開発に携わっていたらしいのだが、学者の世界では珍しくもないことではあるが何しろユダヤ人であるので、どうも祖国ではずいぶんとご苦労をされたらしい、いちどイスラエルに亡命した後、どういう事情かさらにこのアメリカに渡ってきて、以来このバージニア工科大学に奉職すること二十余年になる。御年76歳である。


「では、テキストの次のページを——」


 そのときだった。車のバックファイアのような音が響き、にわかに教室内に緊張が走った。教授も瞬時のうちに血相が変わっている。車のバックファイアに、確かにそれは似てはいるのだが、重大な問題が二つあった。一つ、車のバックファイアは、ふつうこんなにパンパンパンと、連続して響くものではない。二つ、その連発音は明らかにこの講義棟の内部から響いてきている。講義棟の中でバイクや、まして自動車のエンジンをふかす奴などあるはずがない。つまり。


 わが祖国アメリカの最悪の病巣。銃乱射事件が、また、起こったのだ。それも、僕たちがいる建物のど真ん中で。


 学生たちはパニックに陥りかけた。何人か、出入り口の扉に駆け寄ろうとした者もいた。この204号室は狭く扉は一つしかないのだから、そこから逃げる、それは当然の発想だろう。だが、教授が鋭く叫んだ。


「駄目だ! 犯人はまだすぐそこにいる、鉢合わせてしまう!」


 と言いつつ、その本人は扉に駆け寄る。それでどうするつもりなのかと思ったら、教授は扉を内側から抑えた。構造上、内側から外に向けて圧力がかかっている限りは、向こうからは開けられないようになっている。教授はさらに続ける。


「窓だ! 外へ!」


 僕は窓側の席にいたから、すぐに駆け寄って外を見た。そんなこと気にしたことがなかったから知らなかったが、204号室の窓の下にはコンクリートやアスファルトではなく芝生が広がっていた。どの道二階なのだし、飛び降りても命に別状はないだろう。僕は足を上げて、窓を思いっきり蹴った。窓枠が吹き飛び、割れたガラスが外に向かって散乱した。人が通り抜けられるだけの穴があることを確認する。


 受講生たちはそこから次々に外へと飛び降りていった。うまく抜けられないやつもいたが、そういう人間には、穴の開いた窓の脇から僕が手を貸した。


 銃声はまだ聞こえている。なおさっきから悲鳴も聞こえてくるのだが、それが徐々に減っている、というのが恐ろしい事実を我々に突き付けていた。つまりこの犯人は、無差別に流し撃ちをしながら歩いているのではなく、人間に直接照準を合わせ、狙い撃っているということだ。僕たちはいま、銃を持った冷酷で冷徹な殺人鬼と同じ建物の中にいるのだ。


 204号室は狭いのだから、そんなに大勢の受講生がいたわけではない。もう一人、尻を押して外に突き落とした。これで、教授と、僕を含めて受講生が残り4人。


 しかし、そのときだった。誰かが外から、扉を強引に開けようとしているのが物音で分かった。


「急げ、君たちも——」


 教授の言葉はそれ以上続かなかった。銃声が轟いた。教授は扉越しに撃たれていた。4発。4発だった。忘れるものか。教授は血に塗れてその場に崩れ落ちた。僕はどうしているかというと、窓から逃げるのはもう無理そうだったので、部屋の隅で小さくなっている。


 犯人が入ってきた。また銃声が何発か響いたが、すぐに止んだ。窓に開けられた穴を見る。そして、きびすを返して出て行った。見たが、顔は若かった。僕の知り合いではないが、この大学の学生かもしれない。そのくらいの年だ。顔立ちからするとアジア系のようだが、僕の認識能力ではそれ以上のことは分からなかった。


 犯人が間違いなくこの部屋を出て行ったと確信した後、僕はまず教授に駆け寄った。これが物語なら、虫の息の教授が何か僕に対して遺言めいた話を聞かせてくれたりだとか、そんなことが起こるのであろうが、あいにくこれは現実だ。教授は既に絶命していた。僕は十字を切り、ただアーメンと呟いた。教授はユダヤ人だったが、僕はユダヤ教の祈りの文句は知らないし、そんなことをするべきだとも思わない。


 それより、まだあと3人いる。3人とも撃たれていたが、ふたりはかすり傷のようだった。残りの一人は、やはり駄目だった。素人の僕にも致命傷なのが分かった。


 窓から逃げることもできたが、僕は待った。最悪の場合、もう一度扉を内側から抑えられるのは僕だけだから。教授がまだ口を利ける状態なら逃げろと叫ぶだろうが。


 しかし結論から言えば……犯人は、二度と戻ってくることはなかった。おかげで僕は英雄にはならずに済んだ。次に踏み込んできたのは警官で、事前にそれが物音で分かったので、僕はあえて部屋の中で死んだふりを始めた。そして、言った。


「犯人はどうなりましたか。僕はもう、死んだふりをしていなくてもいいですか」


 警官の一人が言った。


「もう大丈夫だ。我々が踏み込む前に、犯人は自決していたよ」

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204号室の扉 きょうじゅ @Fake_Proffesor

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