フィリピン航空戦
第7話 初陣
一二月だというのに飛行甲板を抜けていく風は生温かい。
俺が乗る空母「瑞鶴」が南西へと舳先を向けているからだ。
しかし、その一方で俺の心はうすら寒い。
米英との戦争がすでに避けられないものとなってしまったからだ。
戦争が始まることを聞かされたのは「瑞鶴」が出港してすぐのことだった。
艦内放送でそのことを告げる艦長の声は武者震いなのかあるいは歓喜なのか、それとも重責に伴う緊張なのかはよく分からないが、わずかに震えていることだけは分かった。
俺たちの向かう戦場はフィリピン、目的はアメリカ極東陸軍航空戦力の撃滅だ。
これから戦争が始まるのだという放送に、搭乗員の多くは沸き立った。
ついに驕敵を討つ時が来たのだと。
だが、俺は恐怖した。
米国と一戦交える?
正気の沙汰じゃない。
全国の搭乗員をかき集めてやっとこさ定数を満たした、この貧弱極まりない「瑞鶴」をはじめとした母艦航空隊の実情を見れば分かる。
戦艦を一〇隻も擁し、立派に見える連合艦隊もその内実は悲惨だ。
戦備担当部門に勤務する俺の同期から聞いた話では、軍艦の数に比べて弾薬の備蓄が危険なまでに少ないらしい。
航空隊でも特に値の張る航空魚雷なんかは要求水準の半数にも満たない有様だという。
なにより俺が驚いたのは二〇ミリ弾でさえもが不足しているということだ。
立派なのは軍艦の数だけ。
一皮めくれば人も弾薬も無い無いづくし。
そんな貧乏海軍が米国と戦争?
笑わせてくれる。
それに米兵を討つ?
お前らは自分らが狩る側で米兵が狩られる側だとでも思っているのか?
俺はいつも化け物を相手にしているから想像できる。
もし米国に武藤一飛曹や岩本一飛曹、それに西沢二飛曹のような搭乗員がいて、そんな奴と戦場で出くわしたらどうなる?
俺は間違いなく殺されるだろう。
先日模擬空戦をやった陸軍の大尉だって化け物のような腕前をしていた。
日本よりはるかに航空産業が発達している米国の搭乗員の層は厚い。
きっと数多くの手練れが手ぐすねを引いて俺たちを待ち構えているはずだ。
そんな連中を相手に薄っぺらな俺たちが戦いを挑む?
どう考えても絶望的な状況だとしか思えない。
なぜ日本はこんな無謀な戦争を始めるのだ?
一下級士官にしかすぎない俺には当時、まったくその理由が分からなかった。
その時、俺はどんな顔をしていたのだろう。
「どうしました? 柄にもなく難しい顔をして」
放送のすぐ後、武藤一飛曹がにこやかに話しかけてきたのだ。
そう言えば、こいつと岩本一飛曹は大陸ですでに実戦を経験していたんだっけ。
俺と違って、銃弾が飛び交う死線を何度もくぐり抜けてきたんだ。
米国との戦争なんて、今さらって感じか?
「なあ、武藤。お前が初陣に臨んだときってどんなだった」
俺の質問に、武藤一飛曹がやっぱりなあといった感じで納得したような顔をする。
「私の時は周りが化け物のような先輩搭乗員ばかりで、心強かったですねえ。まあ、中国軍の戦闘機が弱かったってこともありますが。
ひょっとして少尉が難しい顔をしていたのは、列機に不安があるということですか?」
そう言って嫌な笑顔を向けてくる。
そんな訳ねえだろう。
お前らが凄すぎるから不安になっているんだろうが。
だが士官たるもの、部下の前でそのような不安を口にするわけにはいかない。
「違う。米国の戦闘機とそれを駆る搭乗員がどんな連中か考えていたんだ」
胸中の思いとは別の言葉を吐く。
まあ、これも嘘ではない。
少しばかり考えていたのは事実だ。
「アメちゃんの戦闘機ですか。確かフィリピンの主力はP40って言ってましたね。液冷発動機で最高速度は我々の『烈風』と同等とみられているらしいですが」
そうなのだ。
決して最新とは言えない登場時期のP40ですら最高速度は後発の「烈風」と同等なのだ。
米国の航空技術の凄さの一端がこのことからも分かる。
だが、武藤一飛曹は俺とは違う見解を持っていた。
「まあ、最高速度が一緒だとは言ってもどうということはないでしょう。それに大切なのは最高速度よりもむしろ加速力です。そこは大排気量でトルクたっぷりの『烈風』は遅れをとることはないでしょう」
確かにそれは言える。
いくら最高速度が速くても、加速がもたもたしていたら戦闘速度に到達する前にやられてしまう。
ついでだと思い、俺は一番気になっていることを武藤一飛曹に聞く。
「米国の搭乗員の腕はどう見る」
俺の端的な質問に、武藤一飛曹は少し考えてから口を開く。
「まあ、フィリピンに関しては、中には腕利きもいるにはいるでしょうが、全体としてはたいしたことはないでしょう」
「根拠はあるのか」
「米国がいくら金持ちとは言え、植民地警備軍にエース搭乗員を多数そろえることは出来ないでしょう。それにその米国をはじめとした欧米の連中は我々アジアの人間を明らかに見下しています。
そのうえ米国は対岸の欧州大戦への備えも必要でしょうからフィリピンについては機体も搭乗員もともに一流ということは無いと思います」
「じゃあ、米国の二流と日本の二流とではどちらが強いと思う」
武藤一飛曹は一流ではないのですか? と言って笑う。
「こればかりはやってみなければ分かりませんねえ。ただ、ノモノハンで陸軍航空隊がソ連航空隊によって大打撃を被ったことをみても、欧米の連中は決して油断のできる相手ではありません。ですが、過度に恐れることもないでしょう」
ありきたりだが、恐れず驕らずってことか。
あっ、それと二流の例えを出したのは俺を例にしたかっただけのことだからね。
言わないけど。
「腕に差が無いとなると、やはり大事なのは見張りか」
武藤一飛曹も、岩本一飛曹も、そして西沢二飛曹のその誰もが大切だと強調しているのが見張りだ。
「そうですね。これまで少尉には何度も申し上げていますが、まずは見張りです。
腕が互角の場合、劣位を強いられたり機先を制されたりした日にはまず挽回は不可能です。不利な状況からの逆転はよほど腕の差があるか、あるいは小説か映画の中だけの話だとお考えください」
そう言って武藤一飛曹はいつになく優しい笑顔を俺に向けて来た。
「大丈夫です。小隊長は私がお守りします」
その屈託のない笑顔を見て俺は胸中で反省した。
ごめんね、かつて君らの事を肉壁だなんて思ったりして、と。
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