白い
「おまたせ、ごめんね寒い中待たせて」
振り向くと、白黒の地味なマフラーを巻いた優香が両手を合わせながら歩いてくるのが見えた。勝手な都合で呼び出したのはこっちなのになんで謝るのだろう。こういうバカ真面目なところが優香らしいといえば優香らしかった。
「全然。いつものとこでいいよね」
私が聞くと、優香はにっこり笑って頷いた。このまぬけな笑い顔を見られなくなるなんて、ありえない。失敗してはいけないという緊張感から、私の手は既に凍りついていた。
いつものとこ、というのは高校から少し歩いたところにあるコメダのことだ。高校に上がってから二人で話す場所といえば決まってここだった。国道に面しているくせに客はいつもまばらにしかいなくて、ゆっくり話すにはとてもいい場所だった。私はいつものチーズケーキとカフェオレを頼んで、優香もいつものように紅茶だけを注文した。最初からフルスロットルで切り出すのも何かが違うと思い、受験勉強を一日どのくらいやっているかとか(しれっと十時間と返されて流石に失笑した)、バイトは受験期間も続けるのかとかそういう他愛のない話をして、注文したチーズケーキが出てくるのを待った。
出されたチーズケーキを少しだけ食べて糖分を補給したところで、遂に私は覚悟を決めた。このタイミングを逃せばもう言える気がしない。フォークを置いて深呼吸をして、じっと優香の目を見つめる。
「どうしたの? 突然改まって」
優香も私の雰囲気が変わったのを察したのか、椅子に深く座り直して逆に私の目を見つめ返した。優香の方がこういった状況に慣れているんだろうし目力で私が勝てるわけがないだろうけど、だからといってここで目を逸らしたら負けだ。必死に睨む勢いで目線を送りつつ、一言一言絞り出すように発音した。
「優香、言いたいことがあるんだけど」
「お金?」
「そうじゃなくて。私ね――」
極度の緊張と不安で言葉が詰まる。のどに何かがつかえたような、蓋をされているような感覚。実際に何秒だったのかは分からないけど、その時間が私には永遠に首を絞められているような地獄のような時間に思えた。
「私、優香が好きなの」
「うん、私も好きだよ」
違う。優香の言う好きは私の好きとは違う。口がカラカラに乾く。ずっと一緒に過ごしてきたはずの優香が怖く見える。分かっていてわざと違う意味で言ってるんじゃないかと薄情な詮索をする。いや、心の底では分かってる。「普通」は女の子が女の子を好きになったりしない。優香は「普通」の人間なんだ。私とは違う人間なんだ。
でも。でもそれは知らなかっただけで。言えば受け入れてくれるかもしれないじゃない。そう、優香は優しいから、賢いから、きっと私の想いは届くはず。だから説明をすれば、説明すれば全部分かってくれるはずなんだ。
「私は友達として優香を好きなわけじゃないの。私は恋愛的な意味で、優香のことが好き」
優香が紅茶を口に運ぶ手を止める。特徴的な垂れ目がいつになく大きくなった。驚かれるのはまあ、仕方ない。自分ですら初めて分かったときも驚いたんだから、他人が聞いたら余計に驚くのは当然。問題はこのあと。拒絶するのか受け入れるのか、笑うのか同情するのか。耳を塞いで叫びたい気分だったけど、ここで逃げては意味がない。私は呼吸を止めて優香の唇の動きに全神経を集中させた。
「つまり……カノンはレズビアンってこと?」
頭が真っ白になった。
今この瞬間、優香の中で私はレズビアンという「普通じゃないもの」のカテゴリーに入れられた。いや分かってる、分かってるんだ。レズビアンっていうのは差別用語でもなんでもないって、ただの呼称だって、男とか女とかそういうのと同じ単語なんだって。でも、私はそうやってカテゴリー分けされるのはなんだか異物としてレッテルを貼ってるみたいで、人間じゃない何かだと思われてるみたいで、私は、私は――。
「あ、ちょっと? カノン!」
私は黙って店を飛び出した。それだけじゃ飽き足らず、無茶苦茶に走った。なんだよ、受け入れてくれるかどうか以前の問題じゃんか。優香の悪気のないたった一言に逆上して、逃げ出して。あのまま話を続けていれば受け入れてくれていたのかもしれないのに、私のわがままですべてが駄目になった。嫌ならその場で「嫌だからやめてほしい」って言えば良かっただけなのに、勝手に優香が私のすべてを分かっているように勘違いして、過剰に期待して、勝手に自滅した。笑っちゃうよ。お笑い種だよ。優香は何も悪くない。悪いのはすべて私。優香を好きになったのも、そのあとうまく振舞えなかったのも、全部私。
顔がさっきより冷たい。そうか、私泣いてるんだ。頬も鼻も口も、凍り付くような痛みで感覚がない。それだけでなく胸の奥の方も、棘で刺されたような痛みが走って吐きそうになる。棘が刺さっているのならそのまま貫いて殺してくれればいいのに。そう思っても痛みは増すばかりでどうしようもなかった。息が切れても走り続けるしかなかった。走り続けるしか……。
その時、誰かにぶつかった。訳も分からず走っていたから前もよく見ていなかった。少しだけ正気を取り戻して相手にあわてて謝罪する。
「駄目だったのか」
聞き馴染みのある声にパッと顔を上げると、それは明らかに拓哉の顔だった。誰も渡っていないボタン式歩行者信号が点滅しているから、渡ろうとしていたのかもしれない。私服だし、一旦帰っていなげやにでも買い物に行こうとしてたのだろうか。
「うん。駄目、だった」
「そうか」
いくら拓哉が相手でも、今は顔を見てハキハキと喋ることはできなかった。拓哉の顔を見て安心したからかは分からないけど、さっきまでの悲しみとやり場のない怒りの感覚がふつふつと戻ってきた。一度止まった涙もまた目に溜まり始めている。信号が青になって車が走り出す。私の涙も堰を切ったように溢れ出す。さっきは訳も分からず泣きじゃくっていたけれど、今は明確に悲しい。悔しい。ただただ身体を震わせて嗚咽した。
そんな私を拓哉はそっと抱き寄せた。拓哉がこんなキザなことするなんてらしくないなと思ったけど、今はそのはからいが嬉しかった。声を上げて泣く勇気はない。ただ静かに、拓哉の胸の中で涙を流した。
「なぁ、カノン」
拓哉は口を私の耳に近付けて囁く。励ましの言葉でも言うつもりだろうか。こんな状況に慣れていない拓哉が果たしてどんなことを言えるというのだろう。
――俺じゃ、駄目かな。
そう聞こえた気がして、慌てて顔を上げる。そこには、昨日の鏡の前の私と同じような顔をした拓哉がいた。
「俺なら、カノンを守ってやれる。俺なら、カノンをフる心配もない。だから……だから俺じゃ、駄目かな」
幻聴じゃなかった。それってつまり告白――。
「気持ち悪い!」
私は咄嗟に、拓哉を突き飛ばしていた。裏切られた。そう思ったからだ。拓哉は、拓哉だけは私のことをそんな風に見ていないと思っていた。純粋にお兄ちゃんのような感覚で、せめて友達のような感覚で私と付き合ってくれているんだと思っていた。父親に恋愛感情を向けられているような、そんな感覚。気持ち悪い。気持ち悪い!
じゃあ私に告白を勧めたのは失敗させて漁夫の利を得たかったからか。私の告白が失敗することをこいつは望んでいたのか。仮にそのつもりでなくても結果的にはそう。私が失敗したところで今がチャンスだと言わんばかりに告白したんだ。私の告白がだしに使われていたことにイライラして仕方がなかった。突き飛ばした両手には、その怒りすべてが籠もっていた。
――そのときの拓哉の顔が忘れられない。何も言えないような悲しい表情。今にもこの場から離れて走り出しそうな表情。私もさっきまでこんな顔をしていたのかもしれない。そう思ったとき、私は気付いてしまった。拓哉は私とまったく同じなのではないだろうか。私は優香との間に壁を感じて絶望し、拓哉は私に拒絶されて絶望している。なんだったら拓哉からしてみれば私は家族でもなんでもないのだから好意を気持ち悪がられるなんて予想のしようがない上、モロに拒絶されたわけだからむしろ私よりもつらいのではないだろうか。いや、客観的に見ればそうだ。絶対にそうだ。
私はもう分からなかった。どうすれば正解だったのか。どうすれば誰も傷付けずに済んだのか。分からない。分からない。私は、私は私は私は!
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