第19話
だいぶ日が短くなってきたみたいで、5時を回ると辺りは薄暗くなっていた。日が当たらなくなると、温室の気温はぐっと下がる。
今年は残暑が厳しくなかった分、冬が長くなりそうだ。そんなふうに感じる夕暮れだ。
わたしたちは、ずっとふたりきりで温室にいた。先輩のキャンディがなくなり、わたしの涙もおさまると、温室内は無音と言えるほど静かになった。
もともと、話があうからいっしょにいるようになったわけではない。言葉を交わさなくても、居心地が悪く感じることはなかった。
濡らしてしまった靴下は、もうすっかり乾いているだろう。だけど、寄り添いあった素足を離すのが億劫で、気づかないふりをつづけていた。
このままずっと、ふたりでここに閉じこもっていたい。
文化祭が終わるまでとか、夜が更けるまでとか、そんな中途半端な「ずっと」じゃない。
わたしか、先輩か、世界か、どれかが終わるまで、永遠と勘違いしてしまうほどの長い時間を、ここにしまっていたい。
グラウンドの方から、にぎやかな歓声と拍手が聞こえてきた。ちらっと目をやると、部室棟の窓越しにキャンプファイヤーの炎と、オレンジ色に照らされた人だかりが見えた。後夜祭がはじまったみたいだ。
そっと先輩の横顔を見下ろす。わたしの肩に頬をくっつけて、うつむきがちにしているので、目が開いているのか閉じているのかもわからない。
眠っているのならそのままにしてあげたいな、と思った途端、先輩はおもむろに顔を上げた。わたしが首を動かした振動で、見られているのに気づいたのだろうか。上目遣いで見つめてくるのをまっすぐ見返すことができず、つい視線を逃がしてしまう。
「先輩、後夜祭見に行かなくていいんですか」
「今はユキノといっしょにここにいたい」
先輩は考える間を置かず、即答した。右腕に先輩の細い腕が絡みつき、ぎゅっと抱きしめられる。
「ねぇ、ユキノ……明日からもここに来てくれる?」
先輩は、わたしのセーターの二の腕に顔をうずめ、くぐもった声で訊ねてきた。
「どうしたんですか、急に」
「何か……今日バイバイしたら、そのまま最後になっちゃうような気がして」
先輩の身体が少し震えていることに、今さら気づく。わたしが受けている喪失感よりも、先輩が抱えているものはもっと大きいのだ。
そんなことにも気づかず、今まで教えてくれなかったことに怒りを覚えたり、みっともなく泣いてしまったり……恥ずかしくなってくる。
「明日もあさっても、ずっと来ます。ずっとずっと来ます。来ないわけないです」
「うん……ありがと」
グラウンドから、花火の音がしはじめた。部室棟の高さすら越えないような、小さな家庭用の打ち上げ花火だろう。小さな光が窓を抜けて、温室にも少しだけ届いてくる。わたしたちの素足をほのかに照らしている。
時間が止まるなら、今がいい。
「先輩……すみません、さっきは取り乱して」
先輩はわたしの肩に頬をこすりつけるように、小刻みに首を振った。
「ユキノにとっても、ここが大事な場所になってたんだって分かったから嬉しかった」
蝶の羽ばたきのように、ゆっくりとまつ毛が上下する。はじめて先輩を見た日……妖精のようだと思ったことがよみがえる。
空梅雨だった6月のころには、想像もしなかった。
この温室が特別な場所になるなんて。
美しくもあり、得体の知れない妖精のようだった先輩が、こんなに大事で大好きでたまらない人になるなんて――。
「先輩、やっぱり少しだけ見に行きませんか? 後夜祭」
「でも……人混みに行ったらまた……」
「人混みには行かないで、遠くからこっそり見ましょう」
先輩は小さくうなずき、立ち上がった。素足のまま出ようとするのを止めて、靴下を履かせる。
夜はすでに秋の気配を色濃くしていた。空気はひんやりと冷たく、もう咲きはじめたのかどこからか金木犀のかおりがほのかに漂ってきた。
部室棟のわきからグラウンドを眺める。燃え盛るキャンプファイヤーに、ぱらぱらと上がる小さな打ち上げ花火。
にぎやかな声は、温室で聞いたよりもなぜか遠くに聞こえ、別世界の光景を見ているような気分になる。
「わたし……先輩のひとつ下の学年だったらよかったのに」
先輩がゆっくりとこちらに顔を向ける。そっと手を繋がれ、導かれるように言葉がするすると出てくる。
「そうしたら、わたしが園芸部に入って、廃部にもならなくて、温室もなくならなくて済んだのに」
「でも、今のあたしとユキノじゃなかったら、出会えてなかったかもしれない。ユキノは園芸部に入ろうと思って、温室に来たわけじゃなかったでしょ?」
少し間を置いてうなずく。先輩は笑って繋いだ手を揺らした。
「さっきも言ったけど、温室がなくなるのはユキノのせいじゃない。巻きこまれちゃっただけ。だから、ユキノは気にしないで」
そう言われても、気にせずにいられるわけがない。
わたしは金木犀のかおりをかぎながら、どうすれば温室を守れるか……そればかり考えていた。
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