第20話

 いつものように、終業のチャイムとともに温室へ向かおうとしたとき、思わぬ足止めを食らってしまった。


「生徒の呼び出しをします。1年7組、雪野さん。雪野しずくさん。生徒指導室まで来てください」


 全校放送で呼び出すなんて聞いてない。しかも、生徒指導室って。

 いつもは存在感がなく、透明なわたしが軽い注目を浴びている。急いで教室を飛び出して、北校舎への渡り廊下を駆け抜けた。


 先週――先輩から温室が取り壊されると打ち明けられた。その日から、わたしはどうしたら温室を守れるか、そればかり考えていた。


 先輩の大切な場所だから……いや、そんなのは言い訳だ。


 たぶん、すべて自分のため。先輩と過ごした特別な場所を、奪われたくない。

 先輩が卒業して学校からいなくなっても、先輩を感じられる場所。

 先輩以外に大切な存在なんてないわたしに、せめてそれだけでも残してほしかった。


 どうにか温室を残す方法はないのか――。


 そんな思いを募らせ、ついに職員室の戸を叩いたのが2日前のこと。

 相談相手に適任なのが誰か分からず、とりあえず担任にひと通り話をしたものの、自分ひとりの手には負えないと言われた。


 良い回答は、はじめから期待していなかった。いや、はじめからなら、そもそも相談していないか。少しだけ……花の種ひと粒くらいの小さな期待はあったかもしれない。

 だけど、打ち明けたあとの担任の渋い顔を見た瞬間、淡い期待の種は風に飛ばされるように消えてしまった。


 学年主任や教務主任とも話しあってから回答する、と言われて帰された。

 きっと、物語のようにうまくはいかない。いや、何かしらの回答をもらえたらいい方かもしれない……。


 そんな気持ちで職員室を後にしたのが、遠い昔のようだ。種が綿毛を広げてわたしのところへ舞い戻ってくるかのように、心が無防備に浮き立ってくる。


 期待なんてしない方がいい。


 そう自分に言い聞かせる。上がった息を整えるためにゆっくりと、職員室のとなり、生徒指導室のドアの前に立つ。

 緊張で震える手を握り、軽くノックする。中から返事が聞こえたので、そっとドアを開ける。


 生徒指導室は普通の教室の半分くらいの広さで、置いてあるものは長机と、それを挟んで対面になったパイプ椅子が数脚だけ。

 窓にかかったカーテンは、日焼けして染みだらけだ。


 窓を背に座っていたのは、ぱっと名前が出てこない女性教諭だった。少なくとも、わたしのクラスの教科は担当していない。

 彼女はメガネの奥の目を細めて、向かいの椅子を手で指し示した。


「雪野さんね。どうぞ、座って」


 恐る恐る、パイプ椅子に腰かける。ぎぎっ、と金属の軋む音が耳を引っかく。

 何だか、取調室みたい。心臓がますます音を大きくする。


「雪野さん、温室の件については聞きました。温室をなくさないでほしい、残せる方法はないのか、と……そうですね?」

「……はい」


 うまく目をあわせられない。どうしてもうつむきがちになってしまう。


「結論から言うと――温室を残すことはできません」


 先輩から打ち明けられたときと似た衝撃に襲われる。指先が冷たくなって、心臓が脈を打つたびに痛みが走る。


「でも一応、学校の敷地内の別の場所に移設しようかという案もあったんです。中庭とか、体育館裏とか。その案が結局は棄却されてしまったのは……解体、移動、組立、その作業に限られた費用を注ぎ込むべきなのか。部員の集まらない園芸部に、そこまでする必要があるのか……。職員会議の場で、移設案に賛成する方はいませんでした」


 先生の語り口は穏やかで丁寧だった。細い針を1本ずつ刺されているように、痛みが蓄積されていく。


「これまでも、部員減少で廃部になった部活はたくさんあります。新聞部、茶道部、山岳部……。惜しむ声はありましたが、やむを得ないことなんです。多くの人に必要とされるものを維持するためには、重要度の低いものを切っていかなければならないことがあるんです」


 分かってる。それは分かってるけど。

 多くの人の「大切」より、わたしにとってはわたしの「大切」の方が重要なんだ。


「それなら……」


 わたしはようやく顔を上げて、先生を見つめ返した。彼女の表情が、たじろぐように揺らいだようだった。なぜか視界が滲んで、よく見えなかったけど。


「それなら、温室をわたしに買い取らせてください。解体して、処分するくらいなら……わたしが……」


 自分でも想像もしていなかった言葉が、口から出ていた。

 のどが震え、声が詰まって言葉が途切れる。身体も震えている。


 買い取るって、お金はどうするの? お小遣いじゃ足りないことくらい想像がつく。

 それに、置き場所は? 家にも庭はあるけどそんなに広くない。


 そんな論理的な思考は、一旦頭の端に追いやる。

 今はとにかく、どんなかたちでもいいから温室を、温室の欠片でもいいから残すことを考えなければ。


 先生は机に視線を落とし、しばらく黙りこんでいた。生徒指導室の静寂が、わたしの荒い呼吸を際立たせる。

 先生はようやく顔を上げて口を開いた。


「……生徒が、学校の設備を買い取る……」


 落ち着きを取り戻した表情は冷たく、感情が読み取れなかった。

 祈る思いで、つづく言葉を待つ。


「それは……今までに前例のないことですね。この学校だけでなく、私の教員人生で一度も耳にしたことがありません」

「前例がなかったらだめなんですか」


 良い返事をもらえそうにないと感じ、つい食ってかかってしまう。それでも、先生は少しも表情を崩さなかった。


「前例があった方が、許諾されやすいものです。前例がなければ、手間がかかりますし、その後起こりうる問題も想定できません。私と雪野さんだけのやり取りでは済まなくなるんです。全生徒、保護者会、もし必要となれば市の教育委員会にも説明しなければ――」


 わたしは先生の言葉を遮るように立ち上がった。震える手を握りしめ、先生を見下ろす。


 つまり……面倒くさいということだ。

 わたしの希望を叶えるには、いろんな方面に働きかけないといけない。異を唱える人ももちろんいるだろう。


 そんな手間をかけさせるのか。

 それならいいです、と言わせたいのだろう。


 わたしを諦めさせたい――そんな思いが、先生の言葉からは透けて見えた。


「わかりました。お時間いただいてすみませんでした」


 先生は少しほっとしたように目もとを和らげた。


「じゃあ……この話はなかったことにしましょう。それでいいですね?」

「……はい」


 先生はうなずき、眉を下げてほほえんだ。面倒ごとがなくなった。そう安堵しているようにしか見えなかった。

 わたしの願いは面倒ごとか。

 じわ、と視界が滲みはじめる。まずい。涙がこぼれないように、慌てて瞬きをする。うつむいて髪で顔を隠し、傷だらけの机の表面だけを見つめる。


「すみませんでした。失礼します」


 つぶやくようにそう言って、素早く先生に背中を向けて退室する。


 もう先生には――学校には相談しない。

 少し強引で、向こう見ずなやり方で行くしかない。


 どんな手段でもいい。

 とにかく、温室を残すことができるのなら、わたしは何だってする。

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