第18話

 途中、中庭で突然はじまったゲリラ演劇を見たり、体育館裏の窓からステージをのぞいたり、弓道場で体験イベントをやっているのを眺めたりしながら、のんびりと温室に戻ってきた。


 先輩はひとつのことにしか集中できないタイプらしい。見るのに夢中になってアイスを食べるのを忘れてしまい、帰りつくころにはコーンがふやけていた。

 先輩は溶けかけのアイスを、今さら慌てて食べている。食べ終えると、コーンから染み出た液体で手がベタベタになっていた。


「もう……ほんと子どもみたいなんだから……」


 先輩は両手を不思議そうに見つめ、堂々と突き出してきた。


「ユキノが拭きたがってるかと思って」

「もう……変なこと言ってないでこっち来てください」


 細い手首を優しく握り、水やりのホースのところまで連れていく。先輩が差し出した手に向けて、シャワーのレバーを握りしめた瞬間……。


「わっ!」


 思いもよらぬ勢いで、水が吹き出した。先輩の手を弾き、足もとまで濡らしてしまう。早くレバーを離せばいいのに、動転してしまい、自分の足にまでかけてしまった。


「あぅ……びしょびしょ……」

「すみません、こんなに水圧高いとは思ってなくて……」

「水やりするときはこのくらいでいいんだけどね。ユキノもびしょびしょ……ごめんね」


 先輩は手を振って水滴を落とし、温室のドアを開けた。髪にも水滴が飛び散って、きらきらと輝いている。


 先輩は花壇の縁に腰かけると、ローファーと靴下を脱いだ。濡れた靴下を、日当たりのいい木に引っかける。

 わたしも真似して靴下を脱ぐ。素足を日に当てると、ほんのりあたたかくて心地いい。


「うぅ……スカートも冷たい」


 先輩は濡れて半分色の変わったスカートをつまんで、くちびるを尖らせた。ひらひらと揺らすたびに、真っ白い太ももが見え隠れする。

 目をそらしても、先輩のスカートが起こす風が、なぜか心をくすぐってくる。


 不意に風がおさまる。見ると、先輩はスカートと干した靴下を交互に眺めて、何か考えこんでいる。


「ちょっと、スカートは脱がないでくださいよ」

「でももうユキノとはいっしょに温泉にも入ったし、スカートくらいどうってこと――」

「ダメです。もし誰か来たらどうするんですか」


 いや、誰も来ないならいいってこと?

 自分の発言に、自分で突っこむ。無駄に恥ずかしくなる。


 先輩はむぅ、とさらにくちびるを尖らせた。バッサバッサとムキになってスカートを煽っている。

 言葉を裏返した意味には気づいていないみたいだ。わたしが考えすぎなだけかな。ほっと息をついてしまう。


 先輩はスカートを干すのは諦めて、ワイシャツの胸ポケットからキャンディを取り出した。花が閉じこめられた琥珀のような、綺麗なキャンディ。

 包みをそっとはがすと、先輩はキャンディを日に翳した。頬に金色を帯びた影が落ちる。


「綺麗……。宝石みたい」


 食べるのを躊躇するように、キャンディを見つめている。食いしん坊な先輩らしくない。キャンディをゆっくりと口もとに寄せ、そっとキスをするかのようにくちびるを触れさせた。

 なぜか先輩の仕草に見とれてしまっているのに気づき、バツが悪くなる。


「おいしいですか?」


 見つめていたのをごまかすように訊ねると、先輩はキャンディを咥えたまま、くぐもった声で答えた。


「ん。甘くておいしい」


 日の当たり具合が変わり、温室は少しずつ温度を上げていく。真夏の、茹で上がりそうな暑さではなく、優しく包みこんでくれるようなあたたかさ。

 わたしたちはそのぬくもりに揺蕩うように、ぼんやりと肩を寄せあった。先輩の素足に弾く陽光が、太陽そのものよりもまぶしい。


 グラウンドからはバットがボールを高く打ち上げる音と、歓声と拍手が聞こえてくる。遠い本校舎のざわめきまで感じられる。

 人混みの圧迫感が不意に身体によみがえり、思わず先輩の頭に頬を寄せてしまう。先輩はおもむろに顔を上げ、わたしの頬に自分の頬をくっつけようとするかのように、首を伸ばしてくる。


 しあわせだな。


 誰かといっしょにいて、こんなふうに思うなんて、以前のわたしには想像もできなかった。


 先輩と出会ったから変わったんだ。わたしは先輩に変えられてしまったんだ。


 あの日――この温室に辿り着いた日から。


「先輩、そう言えば、園芸部では何も企画とかイベントとか、やらなくてよかったんですか?」

「え?」


 ふと気になったので訊ねてみると、先輩はひっくり返った声を上げた。まるで、そんなこと欠片も考えていなかったというような。


「だって、他の部活は何かしらやってるじゃないですか。しかも園芸部って先輩ひとりなんでしょ? 来年のためにアピールしとかないと、部員ゼロになっちゃうじゃないですか」


 先輩はいつか……いや、来年の3月には卒業してしまう。

 そう気づいたときから、ぼんやりと浮かんでいた考えがあった。


 最初からはっきりしたものだったわけではない。

 たぶん、さっき――しあわせだな、なんてらしくもないことを思ったとき。


 はじめて、思いがちゃんとしたかたちになった。そんな気がした。


「それか……わたしが……その」


 園芸部に入って、先輩の後を継ぎます。

 この温室を守ります。

 そんな簡単な言葉が、なかなか口から出てこない。


 だけど、先輩には何となく伝わってしまったのだろう。少し驚いた顔をして、それから優しく……そしてなぜか苦しそうにほほえんで見せた。

 どうしてそんな顔をするのか分からず、わたしの心は暗雲に包まれる。呼吸さえ忘れそうになる。


「そっか……ユキノは……知らない、か」

「……何をですか?」


 先輩はできる限り小さくなろうとするかのように、素足を折って胸に抱いた。

 うつむき、地面に視線を落としているのに、どこか遠くを見るような目をしている。


 そっと開かれたくちびるをふさぎたいという衝動に駆られる。話を聞くのが怖い。いっそ、自分の耳をふさいでしまおうかと思った。

 だけど、できなかった。不意に先輩に見つめられ、身動きを取れなくなった。先輩しか持っていない、名前もないような色の瞳に貫かれ、息がつまる。


「園芸部はね、今年で廃部になるんだ」


 はいぶ……?

 かすれた声でつぶやく。

 即座に言葉の意味を飲みこめなかった。


「あたしが卒業したら、園芸部は終わり」


 先輩は念を押すように、ゆっくりとそう言った。


「園芸部ってずっと入部希望者が少なくて、毎年ひとりとかふたりとかだったんだけど、去年はついにゼロになってさ。今年の3月には決まってたんだ。あたしが最後の園芸部員だって」

「そんな……」


 どうしようもなく声が震える。手や身体も震えてくる。今さら、素足になった肌に寒さを感じる。


「あたしの卒業を待ってくれるだけ、優しいと思うよ。あたしから、居場所を奪わないでいてくれるんだから」

「ここは――温室はどうなるんですか」

「取り壊されるよ」


 頭を殴られたかのような衝撃を感じた。


 嘘だ。

 嘘ですよね?


 笑ってそう言いたいのに、くちびるが動かない。

 先輩がこんな嘘をつくわけがない。わたしたちの大切な居場所がなくなるなんて、嘘だとしても言うわけがない。


「ここにね、新しく合宿用の施設を作るんだって。寝泊まりできたり、炊事できたりする建物。遠くに行かずに学校で合宿できるように、って」


 先輩は無理に明るい声音を作ったり、同情を誘うような表情を浮かべることもなく、淡々と口にした。


 わたしばかりが感情を振り回されているようで、寂しいとか悲しいとかを超えて、なぜか怒りがこみ上げてくる。


 どうして今まで教えてくれなかったのか。

 わたしには相談する価値もなかったということか。

 どうしてそんなに平気そうに、こんな話ができるのか。


「あ、大丈夫、取り壊しは3月……春休み中にやるみたい。それまでは自由に使えるから」


 先輩はふわっと笑って、ふたたびキャンディを口に含んだ。胸をぎりぎりと絞られるような痛みを感じながら、先輩の横顔を見つめる。


「わたしが今から入部するって言っても、廃部は覆りませんか」


 先輩は目を見開いてわたしを見返してきた。その表情が少しだけ、苦しげに歪んだ。やっと感情をあらわにしてくれた。

 だけど、その波もすぐに静まり、また先輩は落ち着いた表情に戻った。


「もし今が4月だったとしても遅かったよ。3月には決まってたから」

「今から……今から、ここを残すためにできることってないんですか」


 先輩はゆらゆらと首を横に振った。


 その姿がじんわりと滲んでいく。


 一瞬視界が明瞭になっては、またぼやけ……その繰り返しだった。頬を拭うと手が濡れた。呼吸がのどにつまり、苦しくなる。


「ユキノのせいじゃないよ……ね?」


 先輩はワイシャツの袖でわたしの頬を包んできた。


 わたしは泣いていた。

 人前で……いや、泣くこと自体、久しぶりだった。自分の卒業式すら泣いたことがないのに、びっくりするくらい涙が次から次に流れてくる。


 泣くのって苦しい。すぐ鼻がつまるし、うまく声も出せないし、気持ちが悲しい方向へ突っ走っていく。


 温室がなくなる。


 先輩とわたしの、ふたりだけの場所。


 守るためにわたしにできることは……何もない。

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