第17話

 外がにわかに活気づいてきた。9時を回り、一般の来場者の受け入れも開始したのだろう。体育館の方からはバンド演奏が、グラウンドの方からは呼びこみの声が聞こえてくる。

 幸い、何の催しもない部室棟に来る物好きはいないらしく、温室は誰にも見つからず、ぽつんと立っている。


「ねぇ、ユキノ。ちょっとだけ……見に行ってみない?」

「文化祭……ですか?」


 露骨に嫌そうな顔をしてしまったらしい。先輩は慌ててなだめるように手を振った。


「ユキノのクラスには行かないよっ。あたしも……自分のとこには行きたくないし。でも……文化祭をいっしょに歩くって……たぶん、今日しかできないから……」


 修学旅行はふたりでもできた。だけど、文化祭はふたりではできない。

 しかも、3年生にとっては高校生活最後の大きなイベントだ。人混みが苦手な先輩が行きたいと言っているのだから、思うところがあるのだろう。


 ふたりきりの修学旅行の終わりに感じた、息苦しさ。それに似たものが、また襲ってくる。

 終わりのはじまり。

 たぶんあのときから、そんなものの気配を感じていたのだろう。


 こみ上げてくる苦しさを押し隠し、いつも通りを心がけて口を開いた。


「分かりました。わたし、今日ごはん持ってきてないし、購買は休みだし、どこかで調達しないといけないですし。ついでにちょっと見るくらいなら――」


 変に言い訳を連ねていると、ぐいっと両手を奪われた。


「じゃあ早く行こっ」


 綱引きの綱にされたかのように引っ張られる。びくともしないわたしを、先輩は恨みがましく睨みつけてくる。


「自分で立てますって。もう……どっちが年上だか分かりませんよ」

「いいよ、ユキノの方が先輩でも」

「身長的にもそう見えますしね」

「まだ伸びるもん」

「そのくらいがかわいいのでそのままでいてください」


 わたしたちは温室を出て、部室棟の陰からグラウンドに出た。グラウンドでは野球部が「人力バッティングセンター」、陸上部が「エースと真剣勝負」という体験イベントをやっている。100m走で陸上部のエースに勝てたら賞品がもらえるみたいだ。


 看板を掲げた生徒が何人も練り歩いていたり、チラシを押しつけられたり、体育館からは相変わらずめちゃくちゃな演奏が聞こえてくる。


 校舎の窓はいつもの標本のような寒々しい姿ではなく、ペイントが施されていたり、可愛らしいカーテンや三角のガーランドが張り巡らされていたり、お祭りの提灯が吊るされていたり、とても生き生きとしている。暗幕を張った教室からは、悲鳴が聞こえてくる。


 行き交う人々は、みな足取りが軽く、明るい表情をしている。わたしがいちばんみっともない顔をしてるんだろうな、と思ってしまうくらい。


「すごい……ほんとにお祭りみたい……」

「あたしたちも、少しはこの準備をしたんだよ」

「そう考えると何か……忙しかったけど悪くはなかったなって思えますね」

「あたしも」


 校舎内はあまりの人混みで、ぺしゃんと潰れてしまうのではないかと心配になるほどだった。どこのクラスにも人だかりができている。

 ふととなりを見ると、先輩がいなかった。振り返ると、少し後ろで人波にもまれている。小柄だし、人混みに慣れていないから、うまく切り抜けられないみたいだ。


 人の隙間から、先輩に手を差し伸べる。投げこまれた浮き輪にすがりつくように、先輩はわたしの手を両手で掴んだ。

 不器用に人をかき分けてようやく並ぶことができた瞬間、先輩はわたしの腕を抱きしめた。


「前も見えないし呼吸もできないし……はぁ、苦しかったぁ……」


 先輩は細い腕を絡ませるだけでなく、わたしの二の腕に頬を寄せてふにゃふにゃとうなだれた。

 血の気が引いた、青白い顔をしている。乱れた髪を指で梳いてあげると、先輩は「んうー」と安心しきった声を出した。


「先輩、外に出ましょう。つらいですよね」

「うん……ごめん、ユキノ。あたしが来たいって言ったのに」

「いいんです。ほら、戻りましょう」


 満員電車ほどの人混みの中、わたしは先輩を壁際に守りながら、人をかき分けて進んだ。さまざまな衣服のにおい、たくさんの声、押したり押し返されたりする感触。

 そんな大量の刺激よりも、わたしの腕を抱きしめる先輩の、そのかすかな震えの方が、大きく感じられた。


 ようやく昇降口まで戻ってきた。どうにか靴を履き替え、外へ飛び出す。先輩も、少し遅れて出てきた。

 1年と3年とで下駄箱が離れているから、手を離したのはやむを得なかった。それなのに、それを後悔してしまうような気持ちにさせる、苦しげな表情をしていた。


「先輩」


 優しく呼んで、手を差し出す。すると、先輩は手を取る……のではなく、ぼすっと胸に飛びこんできた。その身体はやっぱり震えていて、わたしはやり場のなくなった腕をそっと先輩の頭に添えた。


「つかれた」

「じゃあ、帰りましょうか」

「……」


 なぜか返事がない。


「帰りましょう」

「……」


 今度は首を振った。おでこをわたしの肩口にぐりぐりこすりつけるように。

 これは……満足していないってことだろうな。もう充分無理しているくせに……。


「じゃあ、正門の方の露店を回って、体育館のステージをちらっと見て帰るのはどうです?」


 少し間を置いて、こくん、と首が縦に動いた。先輩はゆっくりと離れて、うつむきがちに見上げてきた。さっきまで蒼白だった顔には、いくらか血色が戻っていた。


「行きましょう、先輩」

「ん」


 正門付近には、夏祭りに出るのと同じような出店が軒を連ねていた。学生ではなく、露天商がやっているものだ。

 焼きそば、たこ焼き、クレープなど、お馴染みのテントがそれぞれいい香りを漂わせている。


 その中に、いくつかテントではなくキッチンカーも混ざっていた。ハンバーガー、タピオカドリンク、そして――。

 見覚えのある、ミントブルーの小さなキッチンカー。


「先輩、あれ……」


 疲れきった先輩の顔に、明るい笑みが広がっていく。


「お花のアイス屋さん!」


 歩くのもやっとといった様子だった先輩が、生気を取り戻して駆け出した。繋いだ手を引っ張られ、慌てて後を追う。

 見覚えのある看板にメニュー表。キッチンカーをバックにアイスといっしょに写真を撮る女の子たちがたくさんいるのも、記憶の通りだ。


「ユキノ、新商品だって! フラワーキャンディ!」


 お花が閉じこめられた金貨のような棒つきのキャンディが、カウンターに並んでいる。金色の飴には、ハチミツが使われているらしい。


「先輩にぴったりじゃないですか」

「あたし、アイスとキャンディどっちも買う」


 先輩はすっかり元気を取り戻して、うきうきと上半身を揺らしている。先輩の8割は食欲でできているのかもしれない。そんなところもかわいいのだけど。


「ユキノ、アイスは何味にする?」

「じゃあ……お花がいっぱいのってるやつ」


 前に先輩が言った言葉を真似してみると、先輩は目を細めてくちびるを尖らせた。


「あたしのことバカにしてるでしょ」

「してません。あのときの先輩かわいかったなぁって思い出してただけです」

「あたしはローズにするけど?」

「じゃあ、わたしも同じので」


 前はおどおどして、注文するわたしの陰に隠れていた先輩が、率先してカウンターに向かった。身長が足りず、背伸びをしている姿は、まるではじめてのおつかいだ。


 何だか、先輩も変わったなぁ。人混みは相変わらず苦手みたいだけど、触れたら壊れそうなガラス細工みたいだった先輩が、こんなにしっかりするなんて。


 この変化が、わたしと出会い、ふれあったことで起きたのだとしたら。


 嬉しいような、ちょっと寂しいような。なぜか不安がわきあがってくる。


 変わっていっても、ずっとわたしのそばにいてくれるだろうか。

 先輩と出会ってからも、何ひとつ成長できていない、わたしなんかのとなりに――。


「ユキノ……ユキノってば! アイス、自分の持って! あたし腕3本もないんだから!」


 先輩は両手にアイスを持ち、店員さんに差し出されているキャンディを受け取ることができずに慌てている。わたしははっと我に返り、突き出されたアイスを手に取った。


「もう、ユキノってば何ぼーっとしてるの。そんなに疲れちゃった?」

「いや、先輩が急に元気になりすぎなんですって。ほんとに食いしん坊なんだから」


 カラフルなお花を散りばめられた、薄紅色のアイス。先輩は花束をもらったような、嬉しそうな表情でアイスを見つめてから、そっと口もとに寄せた。小さくひと口、口に含む。


「……おいしいっ」


 先輩は満面の笑みでわたしを見上げた。急かされているような気がして、わたしもひと口かじる。

 バラの甘い香りが鼻に抜ける。舌に残るのはすっきりとした甘さ。バラのブーケに顔を埋め、胸いっぱいに吸いこんだような気分だ。


「うん、おいしいですね」


 ほほえみを返すと、先輩は我慢できなかったといった様子で笑い声を漏らした。


「またユキノと同じものをおいしいって思えて嬉しい」


 先輩は少しずつ、ゆっくりとアイスを食べ進める。もう口いっぱいにほおばって、キーンとなることはなさそうだ。


 先輩は変わった。たぶん、わたしが変えてしまったところもある。

 だけど、そんなのは些細なことだ。


 同じものを食べて、おいしいと言いあうことを喜ぶ。

 そんな根源的な部分は、少しも変わっていないから。


「ねぇユキノ、早く食べないと溶けちゃうよ」

「もうそんなに暑くないからすぐには溶けないですよ」


 わたしたちはアイスを食べながらのんびりと、温室への道のりを歩き出した。

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