第16話
文化祭当日。
校内は朝からにぎやかで、いつもと違う雰囲気が漂っている。あちこちに看板が立てられ、各クラスの教室のみならず、廊下のすみずみまで装飾が施されている。
校則で体育や部活動時以外は基本的に制服で過ごす、と決まっているものの、今日ばかりはみんな様々な格好をしている。
クラスTシャツを着ている者、うちの学校のものではないセーラー服を着た男子、もうすでにステージ発表のものらしい衣装を着ている者、メイド服を着た大柄な男子……なぜか、女装をよく見かける気がするのは気のせいだろうか。
わたしはいつも通りの青シャツに、タータンチェックのスカート。まだ衣替えになっていないものの、涼しくなってきたから、指定のセーターを着ている。
何か、ほんとに居心地が悪い。服装のせいだけじゃない。いつもより息苦しい。
朝一で先輩と会うのがここ1週間の日課になっていたから、よりそう感じるのかもしれない。
昨日まで、先輩とは毎朝、温室で会っていた。授業が始まるまでのたった30分。だけど、わたしにとってはかけがえのない時間だった。
始発に乗るために1時間も早起きするのも、先輩との時間のためなら苦じゃなかった。
早く先輩に会いたい。温室に逃げこみたい。
ふたりだけの時間を閉じこめたい。
昨日の放課後から内装班が急ピッチで準備を進めたようで、教室はすでにお化け屋敷に様変わりしていた。
ダンボールで作られたお墓や棺、天井から吊るされた火の玉。机を上手く使って、迷路のようにしている。まだ窓に暗幕を張っていないから、明るいせいであまり怖くは見えない。
朝のホームルームは、席順に並ぶこともできず、通路に敷きつめられたような状態で行われた。
主に文化祭の過ごし方についての注意喚起、怪我やトラブルがあった際の対応などの話で終わりだった。
唐突に、隣のクラスから大きなかけ声が聞こえてきた。どうやら、円陣でも組んでいるらしい。歓声や拍手も聞こえてくる。
嫌な予感は的中し、委員長が「うちらもやろう」と言い出した。すでにお化けの格好をした者やいつもは禁止されているメイクをばっちりきめた者なんかが、率先して動き出す。さらに息が苦しくなる。
しかし、迷路状になった教室で三十何人が円陣を組むのは無理があった。結局、通路に並んだまま、円陣ではなく数珠繋ぎに肩を組むことになる。
わたしが血糊をつけたTシャツを着たクラスメイトの肩に、恐る恐る腕を回す。自分の存在をなるべく感じさせないように、腕を少し浮かせる。
早く終わって。
わたしを先輩のもとに行かせて。
息をするのも忘れて、そう願ってしまう。
教室に大音声が響き渡る。耳をふさぎたい。目や口は閉じればいいし、息を止めればにおいも遮断できる。
だけど、両手の自由がきかないわたしには、音を拒絶することができない。くちびるの隙間からうめき声が漏れる。きっと両どなりのふたりにすら届いていない。
助けて、先輩。
そうつぶやきそうになった瞬間、身体を縛りつける鎖が断ち切られたかのように解放された。少しよろめいている間に、拍手がわき起こる。
わたしは通路の出入口付近だったのをいいことに、こっそりと抜け出した。だれもわたしになんて目を向けていない。透明になりたいと願うまでもなく、もともと透明に近いのだとはじめて気づく。
昇降口に辿り着いても、まだ声や拍手が耳に残っている気がして仕方ない。
思いっきり頭を振る。教室の迷路とTシャツの血糊を頭から追い出す。
そうなると、頭の中にあるのは先輩のことだけになる。靴を履き替え、脇目も振らずに駆け出した。
わたしの色を見てくれる、たったひとりの人がいる場所へ、駆け出した。
温室に、先輩はまだ来ていなかった。扉に鍵はついていない。園芸部員でもないのに勝手に開けて中に入った。
湿った土と、濃い緑のにおい。外との気温差は真夏のころほど大きくはないものの、ほんのりとあたたかかった。
花壇の縁に腰かけ、ひざに顔を埋める。呼吸は少し楽になったけど、まだ心臓がどきどきと速く脈打っている。
先輩、早く来ないかな。
頭に隙間ができると、すぐに先輩のことを考えてしまう。先輩のことで埋まってしまう。だから、いつも頭がいっぱいになる。
頬をふくらませる先輩、睨んでくる先輩。笑った先輩はちょっとめずらしい。先輩の足がぱたぱた動くと、わたしまで嬉しくなる。
視界が遮られると、想像が鮮やかに浮かんでくる。先輩の細かい仕草まで思い描ける。
先輩の顔がぼんやりと薄らいできた。そっか、眠いのか。早起き、そんなに無理してるつもりはなかったのにな。
ガラスの天井からほんのりと射しこんでくる光が暖かくて心地いい。ドアの隙間から忍びこむ風が、温室内の空気を優しくかき混ぜる。
とても落ち着く、いつもののんびりとした時間。
早く先輩がとなりに来てくれたら、わたしにはもう何もいらないくらい。
温室と、陽の光と、少しの風と先輩。
それだけでわたしは生きていける気がする。まるで、ここの植物たちのように。
――どのくらい時間が経ったのだろうか。
何となく、呼ばれたような気がしてまぶたをゆっくりと開いた。いつの間にか、微睡んでいたらしい。
ひざから顔を上げる。変な姿勢だったせいで、首が突っ張るように痛んだ。
左肩が少し重い。見ると、銀色の光を纏う細い猫毛がもたれかかっていた。頬に触れてくすぐったい。
「先輩……」
「おはよ、ユキノ」
先輩はわたしの肩にあごをのせるようにして、見上げてきた。長いまつげには、朝露のように光が宿っている。
一瞬、泣いているのかと思ってしまった。先輩はほほえんでいるし、まぶたの縁には涙はたまっていない。
先輩の目を拭おうと伸ばしかけた手を、自分の目もとに持ってくる。まぶたをこすると少しだけ涙がついて、乱反射していた視界がもとに戻った。先輩のまつげにおりた朝露も、幻だったかのように消えてきた。
「ごめんね、ユキノ。遅くなっちゃった」
「いえ、そんなに待ってませんから」
「でもユキノ、眠りながらあたしのこと呼んでたよ?」
「えっ?」
わたしは寝言なんて言わないタイプだ。いや、自分では分からないだけかもしれない。こんな浅い眠りで、よりによって先輩の前で、寝言を言うなんて……!
鏡を見なくても顔が赤くなっていると分かるくらい、熱くなってきた。言い訳も何もできずに、ただ視線を泳がせるしかない。
すると、なぜか先輩の頬まで赤くなってきた。仰け反って両手をぶんぶんと振り回す。
「う、うそうそ! 冗談! 本気にしないでよっ」
「う……うそ……?」
「ユキノは何にも言ってない。ぐっすり寝てた」
「ほんとですか……?」
「ほんと!」
やっと生きた心地がしてきた。何で先輩まで恥ずかしそうにしているのか分からないけど。
顔の火照りが冷めるまで、少し時間がかかった。先輩はまだ落ち着かない様子のまま、スカートのすそをいじっている。
やっとわたしたちに穏やかな時間が戻ってきた。教室から逃げ出したときのガサガサした気持ちが、滑らかになった気がする。
「文化祭、やっと終わりましたね」
「終わったって……さっきはじまったばっかりだけど」
「違います。わたしたちの、文化祭。準備は全部終わって、晴れて自由の身です」
「そういうことね。うん、終わったね。みんなよりひと足先に、打ち上げしてる気分」
打ち上げ……クラスでやったりするのだろうか。
「先輩のクラスは打ち上げやるんですか?」
「たしか……今日終わったあとにカラオケに行くとか言ってたけど……」
先輩はわたしの目を見つめてふわっとほほえんだ。
「あたしは行かないよ。だって、今日はやっと、ユキノをひとり占めできるんだもん」
「ひとり占めって……何ですかそれ」
嬉しいはずなのに、くちびるを尖らせ、そっぽを向き……と裏腹な態度を見せてしまう。先輩は照れ隠しと分かっているのか、やわらかい笑い声を立てている。
わたしは頬をかきながら、ちらっと先輩を見る。
「わたしも……ずっと、先輩のことひとり占めしたいと思ってました」
小声で振り絞るように言うと、先輩はくすぐったそうに肩をすくめ、にへっと笑った。
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