第15話
――ねぇ、ユキノ? 朝……何時くらいに学校来てる?
昨日、先輩と電話したときの最後のひと言が、頭に引っかかっていたからだろうか。アラームが鳴る前に目を覚ましてしまった。
ベッドの中でぼんやりと先輩のことを考える。電話の泣きそうな声、あいさつだけのラインがしたいと振り絞った声。昨日の夜は、予告通り「おやすみ」とだけメッセージが届いた。
そうだ、おはようのライン……。スマホを見ると、まだ5時半。先輩からのラインは来ていない。
迷ったあげく、わたしから送ることはできなかった。送ったら喜ばれることは分かっているのに……ほんと、意気地なし。
この時間なら、まだ始発に間にあう。二度寝なんて最初から頭になかった。アラームの設定を取り消して、勢いよく起き上がった。
あまりの早起きに、母はまだご飯が炊き上がっていないと焦っていた。文化祭の準備があるのだと嘘をつき、ご飯はコンビニで買うと言い、家を出た。
始発に乗るのは久しぶりだ。いつも乗っている電車よりは空いている。ドアの近くで壁に寄りかかりながら、スマホを見る。通知が1件。はやる気持ちでタップする。
『おはよ』
先輩からのライン。
たった3文字。だけど、わたしを幸せな気持ちにするには充分すぎる3文字。
馬鹿だな、わたし。
わたしから送っていたら、先輩にこの気持ちをあげられたのに。
『おはようございます』
返信してから、早すぎたかな、と思ったけど気にしないことにした。たくさん待たせるよりはいいだろう、ということにした。
明日は絶対わたしから送ろう。今日みたいに早く起きられるか分からないけど。
わたしばっかり、心がとろけるような、景色が輝いて見えるような、幸せな気持ちをもらっていたらずるいから。
学校って、こんな静かなときがあるんだ。そう思うくらい、校舎は静寂に包まれていた。
自分の足音が校舎に反響して、つい振り返ってしまう。まるで、すぐうしろに誰かがいるように感じる。
温室までの道筋を他の誰かに知られたら困る。乱獲され、絶滅してしまった美しい鳥の姿が、またぼんやりと浮かんでくる。
何度も振り返りながら、部室棟の裏へと辿り着く。
温室は、朝の日差しを部室棟で遮られ、薄青の影に包まれていた。この前まで、汗をかきながらここに来たのに、早朝だからというのもあって、少し肌寒いくらいだ。
そっと温室に近づく。半開きのドアの隙間に、ホースが伸びているのに気づいた。ガラスの内側が水滴で濡れ、中の様子がぼんやりと滲んで見える。
ドアの隙間から、温室の中をのぞきこむ。薄手のパーカーを羽織った先輩が、シャワーで水やりをしていた。水色の水滴を降らせる先輩の髪や瞳も、同じように水色に染まって見えた。
人の気配を感じたのか、真剣な横顔が不意にこちらを向いた。
「おはようございます」
首をかしげてほほえみかけると、先輩は水をしゃわしゃわと出したまま、硬直してしまった。目を見開き、まるで幽霊でも見たかのようだ。
「……え……えっ!? ユキノ……何で!?」
驚きに身体がようやく追いついたらしい。がたがたと震えて、なぜか後ずさっていく。いや、ほんとに幽霊じゃないんだから。
先輩はレバーを離して水を止め、うつむきがちに見つめてきた。紅潮した頬を長めの袖で隠し、くちびるを噛んでいる。
「何でって……昨日あんな風に電話切られたら、さすがに気づきますよ。何かあるなって」
先輩はうう、と呻いて小柄な身体をさらに小さくした。瞳が熱っぽく潤んでいるように見える。
「先輩、いつもこんなに早く来てるんですか?」
「いつもじゃないよ。最近、昼休みも放課後も来れるか分かんないときが多くて……お花のお世話、ちゃんとできるのが朝しかなくて」
「もう……それなら早く言ってくれればよかったのに。こうやって、朝会えるんだから」
「ユキノこそ、来れてないんだったら早く言えばよかったのに。あたし、ずっと待たせてるかな、申し訳ないなって思ってたんだから」
お互いに視線をぶつけあう。だけどどちらも、すぐに口もとが綻んでしまう。
会えなかった日々の寂しさより、今、会えたことの喜びの方が大きかった。
先輩はホースを手放し、ぱしゃぱしゃと水たまりを踏みながら駆け寄ってきた。手を伸ばしたり引っこめたりするので、わたしから手を差し出すと、はわ、と息を飲んで見つめてきた。そっと指を絡めて、へにゃっとはにかんだ。
「……お互いさまですね」
「……そうかも」
わたしたちはそう言って笑いあった。
ホームルーム開始のチャイムが鳴るまで、あと30分はある。わたしたちはいつものように花壇に座ろうとし、そこがびしょ濡れなことに気づいた。
「あ、水やりしたばっかりだから……」
「じゃあ外でもいいんじゃないですか。誰も来ないだろうし」
先輩はいくつか花を摘んで、温室の外に出た。そして、草むらに放置されているブロックに、ためらうことなく腰を下ろす。わたしも少し離れたブロックに、先輩の方を向いて座った。
花びらをつまみ、口へと運ぶ先輩。静かな咀嚼と、飲みこむ音。太陽の光が部室棟の窓を突き抜けて、先輩を淡く照らしている。
何だか久しぶりだ。先輩との、こんなのんびりとした時間。
かわいいなぁ、と思いながらぼんやり見つめていると、怪訝そうに眉をひそめられた。慌てて顔の下半分を手で覆う。
「わ、わたし変な顔してました?」
「別に変では……ないけど……普通におしゃべりしてるときよりにやにや……じゃない、にこにこしてるから」
そんなに笑っていただろうか。自覚がない。わたし、そんなに表情豊かな方じゃないんだけどな。
先輩はお花を食べ終え、「ごちそうさまでした」と手をあわせた。表情筋を引き締めたわたしに目を向け、なぜか吹き出しそうな顔になっている。
先輩と久しぶりに会えたことに、自分で思っている以上に高揚しているのかもしれない。
先輩、昨日の電話では泣きそうだったくせに……と見当違いな恨みを抱いてしまう。
「ねぇ、ユキノのクラスは文化祭、何やるの?」
「お化け屋敷です。何か、1年生で文化祭あたるのかわいそう、みたいな風潮ひっくり返してやろうぜって、みんなやたら張り切ってますよ」
「他人事みたいな言い方」
先輩がかすかに笑うだけで、胸が高鳴る。ほんと、今日のわたし……おかしいかも。
そんな胸の熱さになんて気づいていないふりをして、平然とした顔を取り繕う。
「割り振られた仕事はちゃんとやってますけどね。あ、わたし衣装係なんです。Tシャツに血痕つけたり、古着をボロボロにしたりしてます」
「ふぅん、お化け役じゃないんだ」
「お化け役なんて向いてないですから。それに、裏方でいる方が面倒くさくないし、あんまり関わらなくて済むかなと思って」
そしたら、逆に毎日やることだらけで、先輩に会えなくなって後悔してますけど。
なんて、素直に言えるわけがない。
「あんまり関わらないどころか、毎日拘束されてるんだ」
「そう言う先輩だって、そうなんでしょ?」
「あたしも文化祭に本気出したいわけじゃないから……。接客とか、絶対向いてないし」
接客……ということは、カフェとか出店とか、そういうのをやるのかな。
「あ、うちのクラスは猫カフェやるんだけどね」
「猫カフェ!? 猫連れてきていいんですか!?」
「違う違う! 店員が猫耳つけて接客するってだけ」
「何それ見たい」
まずい、つい本音が……。
先輩の顔がみるみる赤くなる。
「猫耳なんて絶対いやだから内装班になったの! ダンボールでキャットタワーなんか作って……」
「猫耳の先輩、かわいいと思いますけど」
「かわいくない!」
先輩はむうぅ、と頬をふくらませる。からかいすぎるとあとが怖いし、このくらいにしておこう。
校舎の方から、かすかなざわめきが聞こえてきた。スマホの時計を見ると、そろそろチャイムが鳴る時間になっていた。
「先輩……そろそろ戻りますか」
「……やだ」
立ち上がったわたしのスカートを掴み、先輩はうつむきがちにつぶやいた。
今日いちばん、鼓動が大きく跳ねた。
「やだ、じゃないですよ。授業サボるんですか?」
「ユキノもサボろ?」
上目遣いで見つめられ、息がつまってしまう。
わたしだって、できることなら授業なんか出たくない。このまま先輩といっしょに、砂時計の中で傘を差すように、時間の流れから逃げてしまいたい。
だけど、そんなこと一度でも経験してしまったら、もう戻れなくなってしまう気がした。
「大丈夫です。わたし、明日も早く来ます。また毎日会えます。だから行きましょう」
先輩は渋々わたしのスカートを離して、立ち上がった。睨むように見上げてくるけど、その瞳は不安げに揺れていた。
「ユキノは授業とあたし、どっちが大事なの」
「何ですかそれ」
「言ってみたかっただけ」
先輩はそっけなく、だけど顔は真っ赤にしている。らしくないことを言うから……。
「先輩、文化祭当日は暇ですか?」
「え?」
「暇ですよね」
先輩は怪訝そうにななめにうなずいた。わたしの顔を見つめ、つづく言葉を待っている。いや、察し悪すぎない?
「わたしも暇なんですよ。衣装作り終えたら仕事ないし」
「うん」
「ステージ発表もないし、帰宅部だから部活の企画もないし」
「うん……っ」
先輩の表情が、じわじわと熱を帯びはじめる。わたしが言いたいことが分かったらしい。
だけど、先回りしてくれる気はないみたいだ。誘われるのを期待している。
昨日電話をくれたのも、今日こうして会うためのヒントをくれたのも先輩だった。
そっか、自分から行動するのって、こんなにむずかしいんだ。
「あの……だから……その日は! 一日中いっしょに……いましょう……いてください?」
肝心なところでつまづいてしまった。だってわたし、誰かにいっしょに過ごしたいなんて言ったことないし……心の中で止まらなくなりそうだった言い訳が、すうっと静まった。
先輩が、あまりにも嬉しそうに、幸せそうにほほえんでいるから。
「うん……いっしょにいよう……いてあげる!」
校舎の方からチャイムが聞こえてきた。ホームルームまであと5分を知らせる予鈴だ。
先輩はいきなり走り出した。こんなに速く動く先輩ははじめて見た。不思議なものを見たようにぼーっとしてしまい、はっと我に返る。わたしも後を追って走る。
「ちょっと先輩! 『いてあげる』って何ですか!? 渋々っていうか、しょうがないなぁみたいな感じ!」
「だって、ユキノがお願いしてきたんだもん!」
「でも、わたしから誘わなかったら先輩の方がお願いしてたと思いますよ?」
歩幅の違いで、わたしはすぐに先輩に追いついた。先輩は並んだわたしに視線を寄越し、少し速度をゆるめた。
「じゃあ、ユキノ、文化祭の日、あたしといっしょにいて?」
「……いいですよ。しょうがないなぁ」
「これでおあいこね?」
あ、先輩に子ども扱いされてる。笑顔がちょっと意地悪だ。
文化祭まで――先輩をひとりじめできるまで、あと1週間。
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