第13話

 新学期最初の日は、暑さのピークが去ったかと思われるような、さわやかな朝だった。

 こっそり、先輩にもらったネックレスをつけ、ワイシャツの中に隠した。チェーンが長めだから、第1ボタンを外していても見えることはなさそうだ。

 クラスにはこれみよがしにピアスをつけたり、メイクをしたりしてる生徒もいる。目立たないように努力しているわたしが、先に目をつけられることはないだろう。


 夏休み明けの教室は、いつも以上ににぎやかだった。派手に日焼けしている者もいた。恋人ができてどこまで進展した、と大っぴらにしゃべっている者もいた。

 普段は昼休みのお弁当のときにしか集まらない3人が、そのうちのひとりの席に集まっていたが、気づかない振りをしてやり過ごした。わたしが気にかけているのは、たったひとり。


 早く先輩に会いたい。


 最後に会ったのは、わたしの誕生日。1週間くらい前だ。会えなかった期間がいちばん長かったのは花火大会と修学旅行の間だけど、そのときよりも長く感じていた。

 早く夏休みが終わればいいのに、なんて自分らしくないことも思った。わたしが変わったんじゃない。先輩に変えられたんだ。言い訳じみたことを考え、さらに恥ずかしくなったりした。


 新学期初日は、始業式とホームルームだけで、昼前に下校となった。そのころには、真夏の暑さが戻り、夏の終わりはまだまだ遠いと思い知らされた。

 部活動に向かう生徒と、帰路に就く生徒のあいだを縫って、昇降口を出る。校舎の影から葉桜の影へと渡り歩き、水が染み出してきそうな苔を踏みしめ、部室棟へと辿り着く。

 はじめてここに来た日と同じくらい、心臓が高鳴っている。


「こんにちは……あれ? お疲れさまです……違うな」


 何と言って温室に入っていたんだっけ。記憶を取り戻そうとロープを手繰り寄せても、一向に見つからない。

 迷いながら歩を進めていたら、すぐに温室の前に来てしまった。先輩の顔を見たら思い出すかもしれない。うなずき、半開きのドアを大きく開いた。


 光の粒が舞うような室内に、先輩はうつむきがちに佇んでいた。花壇の縁に腰かけ、食べかけの花をくるくると指先で弄んでいる。

 長い髪は、花火大会の夜よりは明るく、松島の海よりは暗く、だけどやっぱり何色とも言えない、不思議な色に染まっていた。


「先輩」


 小さく呼ぶと、先輩ははっと顔を上げ、ゆっくりとこちらを振り返った。白すぎるくらいの肌に、ほんのりと赤みが差す。

 ……だめだ、やっぱりどんな挨拶をしていたか、思い出せない。


「久しぶりですね」

「そう? 先週、ユキノの家に行ったじゃない」


 何だか、この前とは逆になってしまった。先輩もそれに気づいているのか、笑みをこぼしかけている。


「でも、温室にいる先輩とは、久しぶりですから」


 そう言いながら、先輩のとなり――いつもの場所に腰かける。先輩は何も言わず、だけど脚だけは素直にぱたぱたと揺れている。


 心から愛しいと思える時間。

 またふたりで、小さな砂粒を少しずつためていけるんだ。


 そんなことを考えてしまい、慌てて振り払う。なんて恥ずかしい。顔に出てしまったら、何と言い訳したらいいのか……。


「ユキノ、夏休み中に1回も来なかったね」


 さっきまで脚をぱたぱたと揺らしていたのに、打って変わって先輩は難しい表情をしている。


 夏休み中に……え? 1回も来なかったって……どこに?

 話が見えずうろたえるわたしを、先輩はやわらかそうな頬をぷくっとふくらませて睨みつけてきた。いや、可愛すぎて睨まれている気がしないのだけど、たぶん睨んでいるんだと思う。


「ユキノ、1回も来てくれなかった……」

「先輩の家に……ですか? だってわたし、先輩の家知らないし……」

「違う! ここに――温室に来てくれなかった!」


 時が止まったかのようだった。わたしは目を丸くして先輩を見つめ、先輩はつり目を細くして見つめ――いや、睨みつけてくる。

 数秒後、やっと意味が分かり、ええっ、と叫んでしまった。


「先輩、夏休み中も来てたんですか!? 毎日!?」

「当たり前じゃない。1日でもお世話を怠ったら、お花たちが枯れちゃうでしょ」

「そ、そっか……そうだった……」


 今まで植物とは縁遠い人生を歩んできたから、そんな当たり前のことにも気づかなかった。

 先輩は暑い中、毎日水やりに来ていたんだ。たぶん、おやつを食べるのも忘れていないはずだ。


 そうか、会おうと思えば会えたんだ。いつもの場所で、待っていてくれてたんだ。

 そんなことが嬉しくて。でも、素直になる方法なんて知らなくて。


「まあ、そもそもわたし、園芸部員じゃないですから。お花のお世話する義務もないですし」


 そう言うと、先輩はむぅ、とくちびるを尖らせた。


「ユキノのばか。意地悪っ」


 そう言って、両足で器用にわたしのスニーカーの靴ひもを挟み、ぐいっと引っ張ってほどいた。


「ああもう……何の嫌がらせですか……」


 まあ、素直じゃないわたしがいけないんだけど。ため息をつきながら上半身を倒して靴ひもを結ぼうとし……。


 きらり、とワイシャツから光がこぼれ落ちた。

 淡い桃色のパールを抱く花が――。


 慌てて隠すが、先輩は目敏く見つけたらしい。ネックレスを押さえた右手を、力任せにどかそうとしてくる。

 先輩の全力なんてたかが知れてる。抵抗するのは簡単だけど、さっき素直になれなかったという負い目もあり、すぐに折れてあげることにした。


 あらわになったネックレスを見つめているうちに、先輩の頬はしぼみ、くちびるはやわらかさを取り戻していた。両手で握りしめたわたしの手首は離さないまま、もぞもぞと居住まいを正した。


「ねぇ……ユキノは園芸部員じゃないのに、どうしてここに来てくれるの?」


 吐息がかかるほどの距離で訊ねられる。先輩の声は花のかおりがした。


「そんなの……先輩に会うために決まってるじゃないですか」


 そう答えると、先輩はやっと腕を解放してくれた。そして、自分の襟もとに指を差し入れ、そっと細いチェーンをのぞかせた。

 色違いの真珠がついた、おそろいのネックレス。


 先輩は頬と頬が触れそうなくらい近づいてきた。そして、チェーンをつまんで揺らし、お互いの真珠をこつんと触れあわせた。


「これから毎日来てくれるんだったら、許す」


 甘い毒を持つ花のように、先輩は妖しげにほほえんだ。

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