第12話

 今日は家に先輩が来る。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。家を行き来するような友だちなんて今までいなかったから、どうすればいいのか見当もつかない。


 浴衣を早く返したい、というのが口実だということくらいはわたしにも分かる。玄関先で浴衣を受け取って終わり、という訳にはいかないはずだ。

 おもてなし……お花を冷蔵庫で冷やしておくとか? いや、そんなことしたら傷んでしまいそうだ。


 そういえば先輩、あのエディブルフラワーのアイス、喜んでくれたなぁ。同じものをおいしいと思えて嬉しかったのは、わたしも同じだった。

 それならやっぱり、今日も同じように……。誰もいない静かな台所で準備しているうちに、あっという間に約束の時間が来た。玄関のチャイムが鳴り、心臓がどくんと大きく鳴った。


 台所から飛び出して、サンダルを履いて一瞬足を止めて姿見に目をやる。持っている中ではいちばん新しいTシャツに、ゆったりとしたガウチョパンツ。

 あまりにもラフ過ぎる気がするけど、自分の家でお洒落しすぎるのもおかしい気がして、この無難な格好に落ち着いた。変じゃないかな、パジャマに見えないかな。急に心配になってくる。


 玄関ドアの磨りガラスに、小柄な影が映っている。深呼吸をして、ドアを押し開けた。


「あ、ユキノ……」


 先輩は緊張で強ばった顔を、少し和らげてつぶやいた。きっと、わたし以外の家族が出てきたら、と身構えていたのだろう。

 言葉を探すように視線を泳がせる先輩。ノースリーブのマキシ丈のワンピースは、真昼の入道雲のような白。低い位置でゆるく結んだツインテールに、薄い色の麦わら帽子をかぶっている。足もとは涼しげな素足に、花飾りのついたサンダル。


 可愛い。そんな言葉が、口を突いて出そうになってしまう。くちびるを噛んで堪える。

 そんなわたしを見上げて、先輩は小さく口を開いた。日陰を向いているのに、なぜかまぶしそうに目を細めている。


「久しぶり、だね」

「え、そんなに久しぶりですか?」

「久しぶりだよ。修学旅行は10日以上前だし。夏休み前は毎日会ってたでしょ?」

「まあ、たしかに」


 そんなぎこちない挨拶のあと、先輩は提げていた紙袋を差し出してきた。


「ユキノ、浴衣ありがと。あの、おばあちゃんにも直接、お礼言いたいんだけど……」

「あー……ばあちゃん、今日は美容院と歯医者と眼科を1日で済ませるって、朝から出かけちゃったんですよ。先輩からのお礼、伝えておきますね」

「うん。……お父さんとお母さんは?」

「どっちも仕事です。お盆休みも終わったし」

「そう……」


 先輩は肩をすくめ、うつむき、もじもじと足の指を曲げたり伸ばしたりしている。ふたりきりだと改めて意識させられて、必要以上に心臓が暴れ出す。


「あの……立ち話も何ですし、ええと……」


 あ、声震えてる。緊張を自覚すると、さらに身体が強ばっていく。ガチガチと関節が音を立てそうなほどぎこちなく、家の中へ手を向ける。


「あ……上がります?」


 やっと言えた。先輩はふわりとツインテールを揺らしてうなずいた。


「お、お邪魔します……っ」


 階段をのぼって2階の自室へと案内する。小さな足音がついてくる。自分の心臓の音の方が大きく聞こえる。

 部屋は8畳の洋間。ベッドと勉強机、ローテーブルが置いてある。エアコンは普段はあまりつけないが、今日はしっかり稼働させている。

 部屋に入った瞬間、ひんやりとした空気に身を包まれた。空気が水色に見える。サーモグラフィーの映像みたいに。


「先輩、暑くないですか?」

「うん、大丈夫」


 先輩は部屋を見回すのを我慢するように、首を硬直させている。でも、目は少し泳いでいる。

 もしかして……いや、きっと、先輩も友だちの家に遊びに来るの、はじめてなんだろうな。先輩の緊張具合が、手に取るようにわかる。お互いはじめてなら、そんなに恐れる必要はないかも。


「ちょっと冷たいもの持ってくるんで、適当に座っててください」

「ん」


 先輩を残して台所へと降りていく。ドアを閉める寸前まで、先輩は途方に暮れるように立ち尽くしていたけど……大丈夫かな。

 台所で氷と器、調理器具をトレーにのせる。冷蔵庫で冷やしておいたシロップを味見してみると、我ながら美味しくてついガッツポーズをしてしまう。


「あれ……これって……」


 もしかして、初の手料理……ってことになるのかな。いや、この程度で料理とは言えないか。でも、手作りということに変わりはない。

 トレーを慎重に運んでいき、部屋の前で立ち止まる。両手がふさがっていてドアが開けられない。トレーの角でドアをつつく。


「先輩、開けてもらっていいですか?」


 え、うん、と戸惑う先輩の声。ゆっくりと開くドアの隙間から、先輩が顔を出す。帽子を脱いだ髪の毛がくしゃくしゃと少し乱れていて、もし手が空いていたら撫でつけてしまうところだった。手がふさがっていてよかった。

 ローテーブルにトレーを置く。ボウルに入れた氷は、すでに表面がつるりと解けはじめている。


「ユキノ……何これ?」


 先輩は、頭にハンドルがついたペンギン型の道具を指さして首をかしげた。お腹のところに大きな空洞があり、下からのぞくと大きな鉛筆削りみたいな部品が見える。


「かき氷機です。先輩、食べたことないでしょ」

「ない……あの雪みたいなやつ……だよね?」


 先輩の瞳がきらきらと輝き出す。口もとがふにゃふにゃと綻びかけている。

 わたしが、先輩にこんな表情をさせている。それが嬉しくて、わたしまで顔が緩んでいく。


「今日のために、特製のカモミールシロップを作ったんです。カモミールのハーブティーにはちみつを溶かして……」

「カモミール……あのアイスの……」

「あのときおいしいって言ってたから……あと、はちみつレモンは味がするって言ってたし……」


 先輩はぎゅうっと縦に伸びるように、身体を縮めた。それから、ふわりと力を抜いて相好を崩した。


「ありがと、ユキノ。あたしのために……」


 ボウルの中で、氷がことんと音を立てて崩れた。


「早く作りましょう。氷が解けちゃいます」

「うん」


 ペンギンの頭を外し、中に氷を詰める。お腹の空洞にガラスの器を置いて、先輩にかき氷機を向けた。


「押さえてますから、ハンドル回してください」

「こ、こう……?」


 先輩は恐る恐る、ハンドルを回しはじめた。ガリガリと硬い音がして、氷が削られていく。


「わぁ……ほんとに雪みたい」


 ガラスの器に小さな山ができはじめた。もっともっと、と発破をかけると、先輩は楽しそうに笑い、ハンドルを回す速度を上げた。こんなに速く動く先輩、はじめて見た。

 やっとひとり分ができた。シロップを回しかけたところから、かき氷は琥珀色に染まって解けて沈んでいく。


「はい、できあがりです。どうぞ」

「わぁ……ありがと」


 たっぷりとシロップがかかったところを、ひと匙すくう。結構大きめなひと口だ。先輩はためらうことなく口に含んだ。

 噛むべきか、そのまま飲みこむべきか、迷うように口を動かしている。そうしているうちに氷が解けたのだろう。ごくりと喉が鳴って、先輩の目が見開かれた。


「おいしい……っ、カモミールの香りがして、甘くて……」


 先輩は次々とかき氷を口に運んだ。しかし突然、苦々しい表情になり手が止まる。頭を押さえて身動ぎしている。


「あうぅ……痛いぃ……」

「あ、またキーンってなってる」


 それから先輩は、ゆっくりとかき氷を食べた。わたしも残りの氷でできた分を少しだけ食べた。

 食べ終わるころには寒いくらいになって、クーラーの温度を少し上げた。


 どうしよう。もう予定していたことは終わってしまった。

 世の中の人は、家に友だちを呼んだら何をしているのだろう。部屋にはテレビもないし、ゲームもない。


 おしゃべりだって、わたしたちはそんなにしない。温室でも、何を話していたかあまり思い出せないくらいだ。

 ただいっしょにいて、先輩がお花を食べる姿を見て、音を聞いている。それだけが、わたしたちのおしゃべりだった。


「あ、あの……ユキノ?」


 困り果てていたわたしを、先輩が呼ぶ。先輩はわたしの方に膝を向けて座り直した。つられてわたしも、先輩に向き直る。膝と膝がくっつくくらいの距離で向かいあう。


「ユキノ……誕生日、おめでとう」


 そうだった。今日はわたしの誕生日だった。

 先輩が家に来る。それだけで頭がいっぱいで忘れていた。


 家族以外におめでとうなんて言われたのは、いつぶりだろう。夏休み中に誕生日を迎えるから、ずっと忘れ去られてきた。そもそも、覚えてもらえるほどの友だちがいたことがない。お昼ご飯を共にしていたあの3人には、教えてすらいなかった。

 誕生日を祝ってもらえるのは嬉しいものなんだ、とはじめて思い知った。


「あ……ありがとうございます」

「あのね、誕生日プレゼント、あるんだけど」

「えっ、プレゼント? そんな気を遣わなくていいのに」


 先輩は小さなショルダーバッグから、レースの模様がプリントされた包みを取り出した。両手でそれを差し出してくる。

 受け取ると、それはすごく軽かった。でも、渡されたときの先輩の表情があまりにも真面目すぎて……重さ以上のものが詰まっているように感じてしまう。


 まるで、心を半分差し出すかのような、ひたむきな瞳だったから――。


「ユキノ……開けて?」

「い……いいんですか?」


 こくん、と小さく、だけどたしかに先輩はうなずいた。結ばれていたリボンをほどき、そっと中身を取り出す。しゃら、と細い鎖がかすかな音を立てた。

 ネックレスだ。シルバーのチェーンの先には、花びらのパーツに包まれた、淡い桃色の真珠。プラスチックとか、ガラスでできた作り物……ではない。偽物がこんなとろりとした輝きをしているはずがない。


「えっ、こ、これ……え? ほ、本物……?」

「うん」


 先輩は平然と答えた。ネックレスをつまむ手が震えてくる。


「いやいやいや! そ、そんなのもらえません! 返しますっ」


 ラッピングの袋にすとんとネックレスを戻し、先輩に突き返す。その手を、先輩は押し返してくる。


「違っ……! 本物だけど、それ……松島で買った缶詰だから……!」

「え、か、缶詰?」


 急に腕の力を抜いたせいで、先輩は前にのめってわたしの上に倒れこんでしまった。先輩は飛び退くように身体を起こして、真っ赤な顔を手で隠しながらもぞもぞと口を開いた。


「ほら、ユキノ、見たでしょ? 貝が丸ごと入ってた缶詰。あの貝、真珠が入ってる貝だったの」


 そういえば……透明の底から水にたゆたう貝が見えていた缶詰があった。それを見た瞬間、先輩が慌てて隠していたのは、このためだったのか。

 先輩の紅潮した頬が、指の隙間からのぞいている。大きな瞳が揺らいで、なかなか視線をあわせられない。


 わたしは改めて、ネックレスを取り出して手のひらにのせてみた。淡い桃色の真珠は、よく見ると楕円形に近く、いびつなかたちをしていた。先輩はこれを貝から取り出して――。


「もしかして先輩、これ自分で作ってくれたんですか? 真珠を、ネックレスに……」

「うん……あんまり上手じゃないけど」

「そんなことないです。だって、見た瞬間もらっちゃダメなやつだって思いましたもん」


 お世辞じゃなく、本当にそう思った。それはたぶん、くれたのが先輩だったから。先輩じゃなかったら、高価に見えるアクセサリーだな、としか思わなかっただろう。


 先輩がわたしにくれる気持ちが、いつもまっすぐで大きくて、特別なもののように感じていたから。

 だから、本物でもおかしくないと思ってしまったのだ。……ただの自意識過剰かな。


 ねぇ、ユキノ、と優しく呼ばれる。顔を上げると、先輩の顔が思ったよりもずっと近くにあった。

 先輩の手が伸びてきて、手のひらからネックレスをしゃら、とつまみ上げた。


「つけてあげても……いい?」

「っ……は、はい」


 なぜかまぶたを閉じてしまい、いやいや、と開く。何かおかしい。心臓がばくばくと耳もとで鳴っているかのように感じる。


 先輩はネックレスの留め具を外し、チェーンを伸ばした。ちらりと上目遣いでわたしを見て、腕を伸ばしてくる。そして、まるで抱きつくように、首のうしろに手を回される。

 先輩の吐息が首すじをくすぐる。たぶん、わたしの吐息も先輩の肩にかかっている。そのくらいの至近距離だった。


 冷たいチェーンが肌に置かれ、びくりと震えてしまう。先輩の手に触れて髪が少し動くだけで、鳥肌が立ってしまう。

 ネックレスをつけ終えて、先輩はゆっくりと離れていった。わたしの鎖骨のあたりを見つめ、満足げにほほえんでいる。


「似合ってる」

「あ……ありがとうございます」


 どうしよう、まだどきどきしてる。先輩の目を見ることができず、首もとへと視線を逃がしていると……。

 白いワンピースの襟もとから、何かがのぞいていた。わたしの首につけてくれたのと、同じような銀色のチェーンが……。


 わたしは思わず、手を伸ばしていた。鎖骨のくぼみのところで浮いているチェーンを指ですくった。伸びかけの爪が肌に触れてしまったのだろう。わたしの指には触れた感触がなかったが、先輩は不意に肩を揺らして身をよじった。

 体温で温まったチェーンを持ち上げ、服の中に隠れていたトップを引き出す。


「先輩……これ……」


 花びらのパーツに収まった、少しいびつなかたちの真珠。その色は、淡い紫色。わたしと色違い。

 やっと静まりかけた動悸が、また早鐘を打ちはじめる。先輩の顔も、ますます赤くなる。


「おそろい……いや?」

「いやな訳ないです」


 嬉しいです、と小さくつけ加えると、先輩はくすぐったそうに笑みをこぼした。

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