第11話

 温泉旅館を出て明るい陽の光にさらされると、途端に暑さを感じた。さらっとしていた肌に、ぬるい潮風の湿り気を感じる。

 お湯で暖まり、さらにドライヤーで温風に吹かれつづけたせいか、先輩は赤い顔をしていた。さすがにトリートメントまでは置いてなかったため、先輩の髪はパサパサになってしまった。うなじの位置からゆるく三つ編みにして、子猫のしっぽのように揺らしている。


 最後の目的地は、福浦島。本土に近い島の中ではいちばん大きく、朱塗りの橋が架かった島だ。歩行者専用の細い橋で、海面に浮かんでいるようにも見える。


「先輩、この橋を渡ります」

「わ……長いね」

「吊り橋ではないですから。揺れないし、怖くないですよ」

「うん……」


 橋のたもとで先輩は一度立ち止まり、ちらりとわたしを見上げてきた。当然のように手を取り、ぎゅっと握りしめてくる。

 何か……手を繋ぐのが普通になってきたな。年の離れた姉妹なら、こんな感じだろうか。実際の年齢とは逆で、わたしが姉に見えるだろうけど。


 きらきらと揺れる海へと歩き出す。宝石とか鏡とか、星とか……輝くものをすべて集めたようだった。もし踏み外して落ちたら、そこだけ濁らせてしまうんじゃないかと思うほど……まあ、ちゃんと欄干があるから大丈夫だけど。

 海あり県だけど、住んでいるのは内陸部だから、海はそもそもめずらしいものだ。しかも、橋が架かっていてその上を歩けるなんて、松島に来なかったら知ることもなかったかもしれない。


「水面を歩いてるみたい」


 先輩は夢を見ているようなぼんやりとした声でつぶやいた。いつもあいまいな色をした瞳も髪も、今は海と空に染められて青色に見える。

 太陽に薄雲がかかり、かすかに翳った瞬間、水中を銀色の何かが過ぎていった。わたしの右手側から、橋の下へ。


「あ、魚だ」

「えっ、どこどこ?」


 先輩は欄干に駆け寄って、身を乗り出した。つい、先輩の手を握る力を強めてしまう。


「もう行っちゃいました」

「ユキノばっかりずるい。あたしも見たい」

「ずるいって何ですか……偶然です」


 先輩は諦めずに、水面を眺めている。あまりに光を目に映しすぎて、繊細な瞳が壊れてしまわないか心配になるほど。

 ぐいっと先輩の手を引いた。先輩、と呼んでこちらを向かせる。先輩はやっぱりまぶしすぎたのか、瞬きを多めにしながら見上げてくる。


「じゃあ……今度、水族館に行きましょう」

「水族館……?」


 あ、間違えた? 別にそこまで見たいわけじゃなくて、旅行の思い出として目に写しておきたかった……それだけ?

 今まで友だち付き合いを怠ってきたツケが回ってきたのか。先輩のことを子どもだと思ったのがおこがましいくらい、わたしも人付き合い初心者なのだ。


「あ、別に興味なければいいんです」


 早口でごまかしの言葉を口にする。すると、先輩はわたしの言葉の途中から首を振りはじめた。最初はゆっくりだったのが、どんどん速くなる。そして、ずいっと顔を近づけてきた。


「行くっ! いつ行く? 明日? あさって?」

「だ……だから、先輩は気が早いです!」


 肩を押し返そうとして触れてみるが、温泉で見た細さと白さを思い出して、力をこめられなくなってしまう。

 ただ肩に手を添えただけになり、先輩は不思議そうに首をかしげている。薄く開いたくちびるは、身体の肉づきとは裏腹にやわらかそうで……。


 慌てて先輩の顔から目をそらした。一瞬遅れて手も下ろす。目の端に映った先輩はくちびるを指でなぞり、右に、左に首をかしげている。

 そんなのは見えなかった振りをして、また歩き出す。


「ていうか先輩、受験生じゃないですか。またわたし、遊びに誘っちゃって……いいんですかね。先輩のご両親に怒られません?」


 冗談混じりに軽い口調で言うと、先輩は空いている手で前髪を梳くと、意外な言葉を口にした。


「あたし……進学はしないから」


 わたしたちの高校は、一応進学校と呼べるレベルだ。市内では4番手くらいで、有名大学への進学率は他に劣るけど、とりあえず大学には行っておきたい、という学生が集まるような高校。

 だから、先輩も当然進学するものだと思っていた。だけど、事情は人それぞれだ。


「ふぅん。じゃあ、就職ですか?」

「……さあ、どうかな」

「どういう意味ですか、それ」


 秘密……ってことかな。まあ、進路の話ってなかなかデリケートだし、決まってからの方が言いやすいという気持ちもわかる。

 それ以上は何も言わず、沈黙したままわたしたちは橋を渡り終えた。


 島に1歩足を踏み入れると、さっきまで海にいたのに、急に森になった。島を巡る遊歩道は木々に覆われて、炎天下とは大違いの涼しさだった。

 島には、茶屋や見晴台、小さな船着場があるらしい。迷子になるような広さでもないので、地図も見ずに細道を歩いていく。


 森のにおいを嗅ぎながら、波の音を聞く。どこにいるのか分からなくなるような、不思議な感覚だ。

 海沿いの道を選んで歩いてきたら、やがて小さな茶屋に辿り着いた。店先には朱色の小さな丸いものが詰まった、透明な箱が置いてある。先輩に手を引かれるまま、その箱に近づいてみる。


「ユキノ、おみくじだって。ダルマおみくじ」


 たしかにダルマだ。木でできた、小さな胡椒瓶くらいのダルマが、ごろごろと無造作に入っている。底面に穴が空いていて、おみくじが入っているみたいだ。


「凶だったらダルマを境内に置いて帰って厄除けをする……へぇ、変わってますね」

「凶なんてほんとに入ってないでしょ。あたし、おみくじで凶引いたことないもん」

「いやいや、そんなこと言ってると来ますよ」


 先輩は木箱へ100円玉をちゃりんちゃりんと放りこんで、ダルマの詰まった箱に手を入れている。底の方から取りたいらしいが、木で作られているために手が進んでいかないみたいだ。諦めて、表面のダルマを取り出した。

 わたしも料金を支払い、大人しくいちばん最初に手が触れたダルマを掴み取る。手描きの顔が、小さいおかげで可愛らしく見える。


 ダルマからおみくじを抜き取り、先輩に目を向けると、先輩もわたしを見上げていた。ふたりとも、まだ紙を開いていない。


「せーので見ようか」

「はい。せーの……」


 ばっと同時におみくじを広げる。


「……」

「……」


 先輩を見る。先輩も、わたしを見ている。泣きそうな瞳。たぶん、わたしも同じ表情をしている。

 おみくじを見せあう。ふたりのおみくじには、同じ文字が記されていた。


「凶……だった……」

「わたしも……」

「旅行の最後だっていうのに……っ。ふんっ、別にいいし! 神様なんて信じないんだから!」


 先輩は乱雑におみくじを紐に結びつけると、生け捕りした獲物を掲げるようにダルマを握りしめ、鼻息荒く遊歩道を指さした。


「行こ、ユキノ」


 道を進んでいくと、お堂に辿り着く。そこには、たくさんのダルマが並んでいた。先輩はその様子を見て、肩の力をほわっと抜いた。


「結構いるみたいじゃないですね。凶引いた人」

「……ふふっ。観光地だからって忖度しない神様なんだ」


 わたしたちはダルマをくっつけて置き、お賽銭を投げ入れてお参りした。最後の一礼をして目を開け、先輩と顔を見あわせて笑いあう。

 たぶん、吉とか小吉とか、当たり障りのない結果だったら、すぐに忘れてしまうだろう。きっと、このことはずっと覚えている気がする。福浦島の弁天堂に、わたしたちのダルマが並んでいることを思い出して、いつでもふたりで笑いあえる気がする。


 また、手を取りあって歩き出す。先輩の足取りは、今日1日歩き倒したとは思えないほど、軽いものに戻っていた。


「ぐるっと散策したら戻って、おみやげ買いに行きましょうか」

「うん」


 木陰にいながらも、日が傾きはじめているのが分かった。木漏れ日が、夕刻のオレンジ色に近づいてきた。

 修学旅行もあと少し。


   *


 松島駅を発つ電車を待つあいだ、わたしたちはお土産屋を巡り歩いた。笹かまぼこ、せんべい、海産物にずんだ餅。隣県なのでどれもそれなりに馴染みのあるものだけど、旅行の興奮も手伝って財布の紐がゆるんでしまう。

 結局、誕生日で増額してもらったお小遣いも、帰りの電車代を除いてほとんど使ってしまった。さすがに買いすぎたかなと思いつつ、出入口で先輩を待つ。


 人混みを不器用に歩いてくる先輩は、わたしの倍の荷物を持っていた。がっさがっさと、両手で紙袋が鳴っている。


「先輩、なんかすごいことになってますね」

「あ……つ、つい。お母さんたちにいっぱいあげたいものあって……」


 やっぱり、修学旅行の小学生みたい。木刀を買ってないだけマシだろうか。いや、松島に木刀はないか。

 先輩は紙袋をのぞきこんでほほえんだ。松島名物の福袋、といった具合に、お菓子や練り物が詰めこまれている。


 そのいちばん上に、底が透明の缶がいくつか入っていた。ツナ缶くらいの大きさで、水に浸かった貝がゆらゆらと揺れている。

 こんな缶詰があるんだ。わたしは貝類が苦手だから、目にも入らなかった。


「その缶詰、貝が丸ごと1個入ってるなんて珍しいですね。それもお母さんたちに?」

「あ……、うん! これも、そう……お母さんに……」


 先輩はなぜか慌てた様子で紙袋の口を閉じた。そろそろ電車が来る時間だ。先輩と並んで、でも増えた荷物の分だけいつもよりちょっと離れて、駅へと向かう。


「あっという間でしたね。もう帰らないといけないなんて」

「うん。帰りたく……ないな」


 先輩はうつむき、夕日に顔を赤く染めながら笑った。海面に反射する光も、どこか寂しげな色に移り変わっていた。


「ユキノとの修学旅行、終わりにしたくない……」

「お家に帰るまでが修学旅行なんですよ。だから、まだまだ旅行はつづきます」


 先輩は表情をゆるめなかった。思いつめた顔で、こちらに視線を寄越した。そのまっすぐな眼差しは炎を帯びた矢のように、わたしの心を貫いた。


 このまま、永遠の別れが来るというわけでもないのに。


 卒業。将来。

 そんなものを意識した途端、寂しさが背中に張りついて襲いかかるときを待っているかのような息苦しさを感じてしまう。


 わたしだって終わらせたくない。このままふたりで、時の流れから逃げ出したいくらいに――。


「ねぇ……ユキノ。あたし、ユキノに浴衣返さなきゃ」


 先輩の口から出たのは、真面目すぎる表情からはかけ離れたものだった。ああ、とこぼれた吐息が自分でも驚くくらい震えてしまった。


「別に、夏休み明けでいいですよ。急ぎで使いたい用事もないですし」


 先輩は首を振った。長い三つ編みがゆらゆらと揺れる。


「返しに行く」

「え、それって……わたしの家に?」

「うん」


 わたしの家に、先輩が。

 想像すらしたことがなかった。いや、今だって想像できない。

 そもそも、家に友だちを呼んだことがない。記憶の限り、ない。


「わざわざいいですよ。電車で来るの時間かかるし大変だし」

「大変じゃない。早く返したいの」


 でも、ととりあえず口にするが、つづく言葉が出てこない。その隙を突くようにに、先輩が前のめりで訊ねてくる。


「いつなら行ってもいい?」


 もう断るすべはない。いや、別に断りたいわけじゃないけど……どうすればいいのか分からなすぎて……。


「えっと……この修学旅行以外に予定もないですし、いつでもいいですけど。先輩が来られる日でいいですよ」

「じゃあ、ユキノの……」


 先輩はさっきまでの威勢はどこへやら、ぼそぼそと小声でつぶやいた。自分の足音にすら負けるような、かすかな声。

 耳を寄せると、先輩はわたしが近づいた分だけ遠ざかった。潤んだ目を見開いて、くちびるを開いては閉じて。


「ユキノの……っ、たん、じょうび……」

「え?」

「ユキノの誕生日にっ! 行きたい……!」


 わたしの返事を待つ先輩は、泣きそうな顔で震えている。


 わたしの誕生日に。

 先輩が。

 わたしの家に……?


「え、えええっ!?」

「ね、8月なんでしょ? いつ? もう過ぎちゃった……?」


 どうしよう、今日、心拍数上がってばっかりだ……。

 先輩の瞳を見つめ返す。夕焼けの色に染まって琥珀のように輝く瞳。


「まだ、です。18日……なので」


 先輩はふわあっとふくらむように驚いた顔をし、それから大きくうなずいて笑った。


「18日……分かった。行く!」


 先輩が卒業したら……なんて、そんな未来のこと分かるはずがない。

 だって、ほんの数日先のことだって、予想外のことが起こるのだから。

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