第10話
受付で日帰り温泉の料金を支払い、タオルを受け取って大浴場へと向かう。アスファルトの固さに疲れきった足を、やわらかな絨毯が優しく受け止めてくれる。
温泉旅館なんて、何年ぶりだろう。小学生のときに家族旅行に行ったという、情報としての記憶しかない。ましてや、日帰り温泉なんてはじめてだ。旅館のにおいや薄暗さが新鮮だった。
臙脂色の暖簾をくぐり、湿気の強い脱衣所に入る。靴をしまうときにはすでに気づいていたが、先客はひとりもいなかった。
幸か不幸か、貸し切り状態みたいだ。
「空いてますね。暑いからですかね?」
先輩はぎこちなくうなずいた。炎天下を歩いていたときより、顔が赤くなっている気がする。
わたしは先輩から少し離れたロッカーの前に立ち、脱衣カゴにタオルを入れると途方に暮れてしまった。すでにのぼせてしまったかのように、頭がくらくらして顔が熱くなってきた。
誘ってしまった。先輩を、温泉に。
やっとそんな自覚がこみ上げてきた。
いや、本当にわたしが誘ったのか? 誘わされた、と言った方が正確な気がする。先輩が日帰り温泉ののぼりを眺めていたから、わたしが先輩の代わりに誘う側に回ったのだ。
そう、責任をとるべきは先輩なのだ。いや、責任って何の?
背後で衣擦れの音がする。靴下ももう脱いでしまったのだろう。素足がフローリングを踏む、ぺたぺたという音も聞こえる。
花火大会の夕方にも似たような音を耳にしたはずなのに、違った響きを含んでいるみたいだ。どうしようもなく、心をくすぐられる。
わたしも意を決してシャツの裾をたくし上げた。7分丈のジーンズも脱ぎ、下着にも手をかける。借りたタオルがバスタオルだったらよかったのに。フェイスタオル1枚じゃ、隠したいところを隠しきれない。
「ユキノ、何もたもたしてるの」
先輩の不満そうな声が聞こえる。顔を見なくても、くちびるがとがっているのが分かるような声音だ。
わたしは先輩に謝ろうとして、振り返った。何の心構えもなく、振り返ってしまった。
先輩はすでに服を脱ぎ終えて、はだかになっていた。肌の色が透けるような薄っぺらいタオルを垂らして、身体を隠している。
ポニーテールだった髪はほどかれ、汗でうねりながらもわたしのくせ毛よりよっぽどましなまとまり具合で背中に垂れている。
「す、すみません。すぐ脱ぎますから」
わたしは慌てて顔を背けた。脱ぎ終えるタイミングをあわせるべきだった。待つ方も待たせる方も、恥ずかしさが募るだけなのに。
というか、何でこんなに緊張しているんだ。修学旅行の温泉は平気だった。どうせわたしのことなんてだれも気にしてないと思っていたから。
じゃあ、今、恥ずかしくて緊張して仕方ないのは、裏を返すと……先輩がわたしのことを気にしてるとか、見てるとか、そう思っているってこと?
いやいや、ありえない。自意識過剰にもほどがある。わたしのはだかなんて、何の価値もない。先輩だって何も感じるはずがない。
そうやって自分を丸めこむ。でもわたしは先輩のこと気にしまくってるじゃん、とか頭の端に浮かんだけどなかったことにして、下着もすべて脱ぎ捨てる。
何となく視線を感じる気がするけど、気づいていないふりをしてタオルを乱暴に広げる。
おそるおそる先輩を振り返る。先輩は目を泳がせて、ちゃんと視線があわないうちに浴場へと向かっていった。緊張で強ばる足を震わせながらあとを追う。
ずるい、と思った。先輩のうしろ姿は、長い髪に隠れてほとんど見えなかった。タオルを2枚使っているようなものだ。わたしの短いショートボブでは、何の役にも立たない。
浴場には湯気が立ちこめて、メガネをかけてもいないのに視界が曇った。肌にも水玉の空気を感じる。
進んでいくと視界が晴れて、青色の窓が目に飛びこんできた。湯船に面した大きな窓から、松島湾が一望できるのだ。ぽつぽつと浮かぶ小さな島と、白い尾を引くフェリー。青く晴れ渡った空にも、飛行機雲が1本、滲みながらも長く伸びていた。
「すごい……海が見える温泉なんてはじめて」
先輩は立ち止まり、ほう、と吐息を漏らした。長い髪が波のように揺れて、景色と同じ青色に見えた気がした。
一刻も早く湯船に入ってしまいたいけれど、まずは身体を洗わなければならない。先輩は、入口からいちばん近い洗い場の椅子に座った。長い髪が床につきそうになっている。
わたしはどこにしよう……あまり離れすぎても意識してると認めざるを得なくなるし、こんなに広いのに隣っていうのもおかしい気がする。
結局、背中あわせになるように、先輩の真後ろに座った。
シャワーで頭からお湯をかぶり、備えつけのシャンプーとボディーソープで全身を洗う。売店のサンプルも兼ねているらしく、シャンプーとリンスは2種類ずつあるし、洗顔料やトリートメントまであって至れり尽くせりだ。
全身の泡を流して、さて湯船に浸かろうと立ち上がったときだった。
「ううぅ……」
先輩のうめき声が聞こえてきた。ちらっと横目でうかがうと、服を脱いでいつもより小さくなった気がする先輩は、さらに小さく縮こまって頭を抱えていた。
「ど、どうしたんですか」
思わず声をかけると、先輩は振り返って涙で潤んだ目を見せた。濡れた前髪から滴が落ちる。
「ユキノ……シャンプー手伝って」
「ええ? 自分でできないんですか」
「違う! できるけど……何か髪が変になっちゃったの……!」
髪が変……とは? 首をかしげながら、先輩のところに行って床にひざをついた。濡れそぼった髪を手に取る。特に違和感はない。
甘えるための口実かな、と思いつつ指で梳こうとして……嫌な予感が指先から伝わってきた。指が通らない。濡れているとはいえ、こんなになるものか……。
いや、この感触は……。
「先輩……もしかして、石鹸シャンプー使いました?」
「石鹸じゃない。ボトルのやつだもん」
先輩が指さしたのは、2種類あるうち白い方のボトル。淡い緑色の文字で、石鹸シャンプーと書いてあるものだ。
「石鹸シャンプーは髪がキシキシしちゃうんですよ。リンスを使えば戻りますから」
「ほんと……?」
先輩は質の悪いウィッグみたいな手触りの髪を握りしめ、下がっていた眉をちょっと戻した。
「ほんとです。手伝ってあげますから」
わたしは先輩の背後に椅子を持ってきて座り、リンスを丁寧に塗りこんでいく。先輩も、前の方を自分で塗っている。
「もう……普通、こんな長い髪に石鹸シャンプー使います? 2種類あるんだから、馬油の方を使ってくださいよ」
「だって知らなかったんだもん」
「ほんとにもう……仕方ないですね」
余すところなくリンスを塗り終え、シャワーで流していく。見違えるほど指通りがよくなり、艶やかになった。
先輩は鏡越しに視線を寄越し、上気した顔を綻ばせた。わたしは慌ててタオルを胸の上まで引き上げた。
「ありがと、ユキノ」
水滴を纏った先輩は、水をもらったばかりの花のようだった。白い百合の花。鎖骨のくぼみにたまった水が揺れている。
リンスを塗っているあいだ、両手を使っていたから隠せなかったけど、見られていなかっただろうか。
先輩の真後ろにいたから、鏡にも映っていなかったはずだけど……。今さら恥ずかしくなってくる。
わたしはぎこちない動きで立ち上がり、椅子をもとの場所に戻した。先輩はもう湯船の縁に腰かけて、脚を浸している。
長い髪をくるくるとまとめ、タオルで包みこむ。あらわになった真っ白な背中は、少し骨が浮いていて、やわらかそうではなかった。
肩まで浸かった先輩につづいて、わたしもお湯に脚を入れた。熱めの温度だ。少しずつ、身体を沈めていく。頭の芯が痺れ、じわっと肌が震えた。
改めて、窓の景色を眺める。湯船の縁から天井までがガラス張りになっていて、まぶしいほどの景色が広がっている。
お湯に浸かっていると、湯船と海がつながっているように見えた。脚を伸ばせば指先が小島に届きそうな、そんな気さえしてくる。
窓に近づき、湯船の縁に頬づえをつく。小さく水の音を立てて、先輩もとなりにひじをついた。
先輩が立てた波紋が静まって、湯船は景色を映して青色に染まった。海に沈んでいくような、空に浮かんでいくような……正反対の感覚が同時に押し寄せてくる。
先輩の細いうなじを盗み見る。なめらかな肩のライン。羽のつけ根が残っているかのような、肩甲骨のおうとつ。
やっぱり、白い百合の花みたいだ。可憐で美しくて、それゆえに畏れを抱いてしまうような、気高い花。
でも、それは見た目だけの話で。
「先輩、髪は自分で乾かせるんですか?」
「ユキノ、乾かしてくれないの?」
「もう……ほんとに仕方ないんですから」
甘い毒を無理やり口に含ませてくるような、甘え方。その毒にいつも負けてしまう。
先輩は毒が効いているのをたしかめるようにわたしの顔を覗きこみ、くちびるを尖らせるようにほほえんだ。
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