第9話

 先輩は結局、移動中はほとんど眠っていた。福島駅と仙台駅での乗り換えのときはかろうじて起きていたけど、わたしが引っ張ってどうにか移動させたといった具合だった。

 仙台駅から仙石東北ラインに乗り換えてしばらくすると、車窓に海が見えはじめた。すると、不思議なことに先輩は目を覚ました。まだ眠そうな瞳に陽光を受け、ぱしぱしとまばたきする。

 先輩は海とわたしの顔を交互に眺めて、んむー、と顔をしかめている。どうやら、今の状況を飲みこめていないらしい。繋いだままだった手を少し揺らし、笑いかける。


「もうちょっとで着きますよ、松島」

「……あぁ、そっか。ユキノと修学旅行だった」


 先輩は目をこすり、くたりとまた寄りかかってきた。呼吸のリズムが寝息に近づいていくのを、慌てて止める。


「もう寝ちゃダメです。ほら、日焼け止め塗ってください。陽射しすごいですから」

「ユキノ塗って」

「自分で塗ってください」


 繋いだ手をほどき、先輩の手のひらに問答無用で日焼け止めを絞り出す。先輩はふにゃふにゃと文句を言いながら、それを顔や手足に塗りたくった。わたしも自分の手足に塗り広げる。

 松島駅に降り立つころには、先輩は水をもらったばかりの花みたいにぴんっと元気になった。地図を見ようとするわたしの手をぐいぐいと引っ張って、強引に進もうとするくらいだ。


 盆地の地元とは違って、海風が吹く街は真夏でも歩くのが苦ではなかった。かいた汗がすぐ蒸発してからっと乾く。風には海のにおいが混じり、青色をしているように感じた。


 午前中は、オルゴール美術館や瑞巌寺を観光した。先輩は駅員に小人切符を買わされたのが相当頭にきていたのか、受付では背伸びをしていた。つま先立ちをしてなお、わたしの目もとまでしか届いていなかったけど、先輩は高校生料金を満足そうに支払っていた。

 お昼も近くなり、食べ物屋ののぼりが目につくようになってきた。海辺の街らしい海鮮のお店が目立つ。そういえば、カキの名産地だったか。カキ小屋に並ぶ観光客を横目に、わたしたちは海を離れて街なかへと向かった。


「先輩のごはんを買いに行きましょう」

「ユキノのごはんは?」

「わたしは公園の近くで何かテイクアウトしようかと。お店に入ったら先輩といっしょに食べられませんから」


 花屋さんの場所は事前に調べておいたので、迷うことなく辿り着くことができた。幅の広い歩道に面した店で、入口の前には店から溢れるかのように花々が並べられている。

 木のドアを開けて、店内に入る。こじんまりとした店内にも、ところ狭しと切り花や鉢植えが並んでいる。天井からはドライフラワーがつるされ、カウンターにはキャンディーを糸で繋げたような多肉植物が置かれている。

 先輩はきらきらと目を輝かせて店内を眺めている。たぶん、わたしがパン屋さんに入ったときと同じ気分なのだと思う。どれもおいしそうで目移りしている状態だ。


「先輩、わたしがごちそう……じゃなかった、プレゼントしますから、好きなの選んでください」

「金欠なのにいいの?」

「大丈夫です。誕生日はまだですけど、事情を話したら5割増にしてもらえたので」


 先輩が指し示す花を、わたしが店員さんに注文していく。先輩は猫のしっぽのように、ポニーテールをゆらゆらと揺らしていた。

 注文した花はブーケになって先輩の手に渡された。見映えよりも味を重視して選んだのかブーケはまとまりのない彩りだったけど、先輩はとても嬉しそうだった。ブーケトスで受け止めたかのように、大事そうに抱きしめている。


「ありがと、ユキノ。お返しに、あたしがユキノのごはんごちそうするから、好きなの選んでね」

「え、いいんですか」

「うん。あたし、普通のごはん買ってみたかったんだ」

「じゃあ、お言葉に甘えて」


 先輩はブーケを小さなショルダーバッグに入れた。活発な印象のポニーテールや、白くまぶしい四肢に、バッグからはみ出た花束がとても似合っている。まるで花の運び屋みたいだ。

 わたしは海鮮丼のお店で、先輩にねぎトロ丼を買ってもらった。お金を払い、袋を受け取った先輩は、得意げに鼻を鳴らしていた。はじめてお遣いを成功させて子どもみたいで、ほほえましかった。


 わたしたちは西行戻しの松公園へと向かった。松島湾を一望できる、高台にある公園だ。緩やかなスロープをのぼり、いちばん高いところを目指す。

 暑さのピークになるお昼どきとあって、他に観光客はいなかった。青々と茂る葉桜のおかげで直射日光は避けられるが、さすがに暑い。先輩も息を上げている。


 最後のカーブを曲がると、急に涼しい風が吹いてきた。額に張りついた前髪がふわりと舞い上がる。

 まず海と空の青が目に飛びこんできた。境界はあいまいに混じりあい、どこまでもつづいているように見える。無数に浮かぶ小島のあいだを縫うように、大小のフェリーが波を立てている。手前には青っぽく霞む街並みが見えた。


 ほわ、ととなりで息を飲む音がした。先輩は1歩、2歩と前に出て、ゆっくりと首を巡らせた。海の色を映すように、髪は深い青色が混じって見えた。

 先輩はぽつりと言葉をもらした。


「ユキノ、すごい……こんな広い海、はじめて見た」

「逆に狭い海なんてあるんですか」

「あるよ。猪苗代湖いなわしろこ

「あれは湖ですから」

「あたしは昔、海だと思ってた。向こうに山が見えるから、海って小さいんだなって思ってた」


 先輩のとなりに並んで、海風を全身に浴びる。目を閉じて上を向くと、まぶたを透かす木漏れ日が感じられた。


 校庭の片隅の、小さなガラスの温室が、わたしたちの唯一安心できる居場所だった。そこから駅前や公園へ足を伸ばし、こんなに遠く、広い場所まで来ることができた。

 温室の中ではどこにいてもガラスの壁に触れられた。だけど今、わたしたちと世界とを隔てるものは何もない。


 もともとわたしは透明だったのではないか。どこまでも途切れそうにない青色を見ていると、そう思わざるを得なかった。

 いや、透明ではないか。多少色はついている。だけど、恐れないといけないほど濃い色ではないはずだ。


 その色を人はどう思うか、自分はどう思われたいのか……そんなことばかり考えていたけど、無意味なことだったかもしれない。こんなに世界が広ければ、わたしの色を嫌う人もいれば、気に入ってくれる人もいるだろう。

 そして、何十人に嫌われたり、おかしいと思われたとしても、たったひとり、好きだと言ってくれる人がいればいいのかもしれない。


 わたしは透明になりたくてあの温室を見つけ、通うようになったけど、たぶんすぐに目的は変わっていたのだ。たったひとり、先輩だけにわたしの色を好きになってもらいたくて訪れていたのだ。

 ……なんて、自分でも正解か不正解か分からないけれど。何となく、自分の中でしまう場所がなかった感情に居場所を作ってやれたような気がする。


 先輩も何か考えているのか、黙ったまま景色を眺めていた。目を閉じてうつむき、しばらく風に吹かれたあとで、顔を上げて目を開ける。その口もとには、ほんのり笑みがにじんでいた。


「ユキノと修学旅行に来られてよかった」

「まだお昼ですよ? そういうのは帰り際に言ってください」


 わたしたちは景色の見えるベンチに座り、それぞれのお昼ごはんを食べた。周りに人がいなかったので、先輩も遠慮なくお花をもさもさと食べていた。


「綺麗な景色を見ながら食べると、いつもよりもっとおいしく感じる」

「わたしも。同じなんですね」

「同じなんだ。ふふっ」


 たまに強い風に花びらを奪われながらも、先輩は食事を終えた。茎と葉だけになったブーケを名残り惜しそうに手で包みながら、海に目をやった。


「島がたくさんあるでしょ? 松島湾って大昔は陸地で、この島はもともと山頂だったんだよ」

「へぇ、知らなかったです。調べてきたんですか?」

「だって修学旅行だもん」

「えらいえらい」

「もっとまじめに褒めて」


 一瞬怒り顔をした先輩は、すぐに表情をゆるめてまた景色に目を向けた。だけど、今度は遠くを見る目じゃない。眼下に広がる葉桜を見ているみたいだ。


「ねぇ、ユキノ。ここって桜の名所なんだって。海と桜なんて、いっしょに見たことないよね。見てみたいなぁ」

「じゃあ、先輩の卒業旅行にもここに来ます? まあ、桜が咲くのを待ってると4月になっちゃいますけど」


 何気なく言った言葉に、先輩は目を丸くして固まった。さらさらと風に踊る前髪が落ち着いてから、ゆっくりと口を開いた。


「卒業……旅行」


 まるではじめて聞いた言葉を繰り返すかのような声音だった。わたしもつられて戸惑ってしまう。


「だって、先輩3年生でしょう? 来年卒業じゃないですか。まさか、留年なんてしないですよね」

「卒業……そっか、忘れてた。ユキノといっしょにいると、あたしも1年生のような気分で……」


 先輩の顔が、ふにゃりと歪む。笑おうとしたのか、寂しさを隠しきれなかったのか、涙を押しとどめたのか……どんな感情が表れたものか分からない。

 そんな表情を浮かべていたのはほんの一瞬だった。先輩はすぐに笑顔になった。


「卒業旅行に行くなら、京都がいい。で、その次は沖縄!」


 先輩がいつもの調子に戻ったので、わたしはさっきの翳りのある表情を意識の外へと追いやった。そして、いつもの調子に聞こえるように、明るい声を心がける。


「はいはい。がんばってお小遣い貯めておきます」




 西行戻しの松公園を降りて、また海沿いの道に戻ってきた。次はクルージングで松島湾を巡るのだ。

 船着場には船を待つ列ができていた。券売機で切符を買ってから、そのいちばん後ろに加わる。先輩の乱れた前髪を指先で直しながら訊ねた。


「先輩、船酔いしますか?」

「わかんない。船に乗るのはじめてだから」

「まあ、わたしもはじめてですけど」


 ネットの情報によると、初心者は大きめのフェリーを選ぶといいということだった。大きい方が揺れにくいのだそう。これから乗るのは、松島湾クルージングでいちばん大型のフェリーだ。


 しばらくして、低いエンジン音と激しい水の音が聞こえてきた。どんどん近づいてくる。わたしの家と同じくらいの大きさのフェリーが、ゆっくりと港に向かってくる。

 船が完全に止まる前に船員が船着場に飛び移って、突起に太いロープをかけた。畳まれていたスロープが港のコンクリートに降りてきて、船はエンジンを止めた。


 ゲートが開き、客がどんどん乗りこんでいく。じりじりと前に進む列。不意に、手を掴まれた。その細い腕を視線で辿り、先輩の顔を見ると、上目遣いでこちらを見つめてきていた。

 わたし、そんなに不安そうな顔してたかな……。それとも、年上ぶっておいて、実は自分が不安だから手を繋ぎたいだけとか? 先輩はそういうところがある。


 手を繋いだまま、わたしたちはフェリーに乗りこんだ。急な階段をのぼり、デッキの片隅に並んで手すりに掴まった。

 客の乗船が完了して、フェリーのエンジンがかけられた。船体が振動しはじめ、波の音がにわかに騒がしくなる。風が強くなったな、と思ったときには、船は進み出していた。


「おお、けっこう速いですね。でも想像してたより揺れてはいないかも」

「うん。電車よりも揺れてない」


 船内には、日本語と英語のアナウンスが交互に流れている。島の名前や言い伝え、本土の観光地についてが、エンジンと波の音に遮られ、途切れ途切れに聞こえている。


 フェリーが起こす水しぶきが太陽に照らされ、幾度も架かる小さな虹。船と併走するように飛ぶカモメ。穴の空いた島や、木が1本だけ生えた島や、彫刻作品のようなくびれのある島。

 そして、それらを見る先輩の、きらきらと輝く瞳と、綻ぶ口もとと、赤く染る頬を、景色といっしょに脳に焼きつける。

 先輩がおもむろに左手を前に伸ばした。ひときわ大きな島を指さしている。


「ユキノ、あの島、お家があるよ」


 見ると、島には本土と同じように船着場があり、山には鉄塔が立っていた。1軒、2軒どころじゃなく、家々が寄り集まった集落がある。


「人が住んでるんですね」

「いいなぁ。あたしもあんなところに住みたい」


 先輩は手すりに頬づえをつき、ゆっくり流れていく島を見つめている。

 スーパーやコンビニはあるのだろうか。仕事や買いもののために、毎日船で本土に渡らなければいけないのかもしれない。島での暮らしが想像できない。

 きっと、不便なことの方が多いはずだ。そう言いかけて、口をつぐんだ。


 先輩に必要なのは、花を育てられる大きな庭と温室くらいかもしれない。自然の多い場所の方が、先輩にはあっている。


 卒業旅行……さっきはさらっとそんな言葉が出たけど、わたしだって忘れていた。いや、考えないようにしていたのかもしれない。

 先輩が3年生で、来年の春には卒業してしまうこと……。

 先輩もいずれは、あの温室からいなくなってしまう。毎日会うことはむずかしくなる。


 存在を忘れていた砂時計をひっくり返されたような気分だった。ゆっくりと、だけど確実に、光の粒のように輝く砂が流れ出した。




 フェリーを降り、振動しない地面を踏みしめると安心感が全身に染み渡った。先輩の足取りも軽い。船酔いしなくてよかった。ふたりとも、三半規管は強いみたいだ。

 時刻は午後1時半。予定よりもスムーズに旅程を消化してしまい、あとは福浦島の散策だけになってしまった。帰りは松島駅を6時に出る予定だから、だいぶ余裕がある。


「先輩、ちょっと時間余っちゃいそうなんですけど、どうします?」

「どのくらい?」

「えーと、福浦島とお土産屋さん見るのを抜いて……2時間くらいですかね? あ、候補に挙げてたガラス美術館にも行きます?」

「うーん……あっ」


 先輩が急に立ち止まったので、わたしは左腕を引っ張られて足を止めた。先輩の視線は、道路の向こう側の一点に集中している。

 日帰り温泉ののぼりがはためいていた。


「温泉……入ります?」

「えっ」


 先輩は繋いだ手をいっぱいに伸ばしてのけ反った。顔がみるみるうちに赤く染まっていく。

 あ、もしかして間違えたかな。そういや、着付けでさえ恥ずかしがっていたからなぁ。

 まずい、まるでわたしが温泉に入りたくて仕方ないみたいではないか。いや、だいぶ汗をかいたから流したい気持ちもあるけど、でも積極的に誘ってると思われるのは恥ずかしいし――。


「……うん。入る」

「ですよね、やっぱり……えっ?」


 先輩は繋いだ手に力をこめた。あごを引き、睨み上げるように見つめてくる。1回で理解できないわたしを責めるようだ。


「ユキノは……やだ?」


 その表情はずるい。甘い毒を塗った棘に触れてしまったかのように、身体が熱くしびれてくる。弱々しく首を振るしかない。

 触れあった指先から、鼓動の高鳴りが伝わってしまいそうだ。わたしはバレないように深呼吸をしながら、先輩に引っ張られるように温泉宿の門をくぐった。

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