第7話

 慣れない下駄のせいで先輩の歩幅はいつもより小さく、わたしたちはゆっくりと夕暮れと夜の間を歩いた。車通りも、人気ひとけもない道に、ふたり分の足音が揃って響いた。

 長く緩い坂道を登り切るころには、辺りは真っ暗になっていた。公園の池が、底のない穴のように暗く沈んでいる。周りを取り囲む木々は影よりも濃い黒に染まり、ざわざわと蠢いている。


 ところどころに設置された街灯を頼りに、遊歩道へと下りる。当たり前だけど、公園の敷地内にも人の気配はない。

 池に魚がいるのは見たことがないけど、ちゃぽんと何かが跳ねる音がした。わっ、と無防備な声を上げてしまう。何だか恥ずかしくなって顔を背けてしまう。

 つい、先輩の手を握る左手に力が入ってしまう。それを感じたのか、先輩も少し握る力を強めたようだった。


「ユキノ、あたしがいるから大丈夫だよ」

「な……何のことですか? この手は先輩が転ばないようにつないでるんですからね?」

「……もう大丈夫そうだから離してもいいけど?」

「ごめんなさいやめてくださいつないでてください」


 早口でそう言うと、先輩はくすくすと笑ってぐっと身を寄せてきた。いつもは先輩の方が甘えん坊なのに、何か調子が狂ってしまう。

 先輩のリードで、遊具のある広場までやってきた。昼間は小学生たちが占領しており、立ち止まることもない場所だ。ふたり並んでベンチに座る。


 遊歩道は木々に覆われて、闇に押しこめられているような閉塞感があったけど、ここは見晴らしがよくすっきりとしている。空を見上げると、雲は少なく、星がぽつぽつと見えていた。

 そして、眼下には街の明かり。夜景といえるほど絢爛なものではない。民家と、渋滞気味の国道と、橋の街路灯。すぐ目の前にはスーパーの赤と緑の看板。風情も何もない、夜の街並み。


 駅の方へと目をやると、オレンジ色の光の帯が伸びていた。風向きが変わったのか、かすかにお囃子の音が聞こえた気がした。

 先輩が、となりでわたしの顔を見つめていた。大きな瞳は、暗闇の中にあってなお、きらきらと輝いている。


「ユキノ、もう怖くない?」

「別に最初から怖くなかったですし」


 先輩は何も言い返すことなく、足をパタパタと動かしている。もう……何が嬉しいんだろう。

 わたしは平気だと主張するために先輩の手を離す。汗ばむほどに温まった手のひらが、夜風にさらされてすぐに乾いた。先輩はほどかれた手を眺めて、むぅと口を尖らせていた。

 スマホで時間をたしかめると、19時半になったところだった。花火がはじまるまでまだ少し時間がある。


「先輩、お腹すいてません?」

「あ……そういえば、おやつ持ってくるの忘れた」

「いいんです。買ってきたから」


 駅で買いものをした袋を探り、先輩に差し出す。小さなブーケだ。

 薄桃の小型のバラに、ポンポンみたいに丸っこい白のダリア。そして、メインには夏らしいヒマワリ。差し色のローズマリーの青紫が、全体の印象を引き締めている。

 ……はずなのだけど、この暗闇では色の違いもよく分からない。まだ明るいうちに、温室で渡しておけばよかったかな、と少し後悔する。


「すみません、ぜんぜん見えないですよね……」


 先輩はじっとブーケを見つめたまま、なかなか食べようとしない。やっぱり、タイミング間違えたか……そう歯噛みしたときだった。

 先輩の口もとに、ほわりと笑みが浮かんだ。だけど、眉は困ったように下がっている。


「どうしよ……食べたいのに、もったいなくて食べられないよ。ユキノがくれたお花……食べて終わりにしちゃうの……いや……」


 先輩はそう言って、ブーケに頬を寄せた。目を細め、鼻先をくすぐる花を愛おしそうに香っている。

 どうしよう。反応が予想外すぎる。それに何だかこそばゆい。わたし自身が頬ずりされ、においを嗅がれているわけじゃないのに、どうしてもそんな想像に行き着いてしまう。


「ちょ……ちょっと、食いしん坊の先輩がどうしたんですか。早く食べてください。食べてもらうために用意したんですから」


 ぶっきらぼうにそう言うと、先輩はブーケから顔を離して切なげな表情でそれを見つめた。


「うぅ……花火がはじまるまで我慢する」


 何の意味があるのか分からないが、先輩はそう宣言してブーケをひざの上に置いた。お腹が鳴っているのが聞こえるんだけど。先輩は気づかないふりをして、ぱっと表情を変えた。


「ユキノは何か食べるものあるの?」

「はい。屋台で少し買いものしてきました」


 ビニール袋から買ったものを取り出していく。先輩ははじめて出会った動物を見るような目をしている。


「これ……何?」

「りんご飴ですよ。こっちはたこ焼き。これは大判焼きです」

「どんな味?」

「どんな? うーんと……りんご飴は甘くて、たこ焼きはしょっぱい……しょっぱいって、お花の味にあるのかなぁ。大判焼きも甘いけど、でもりんご飴と同じ味ではないし……」


 説明がむずかしくてしどろもどろになってしまう。先輩は案の定、首をかしげてうなっている。

 どうしてわたしは花を食べられないのだろう。いや、食べる気になれば食べられる。だけど、先輩のようには喜びや幸福を得られない。悔やんでもどうしようもないことだと分かっていても、考えてしまう。


 先輩はわたしの説明で納得したわけではないだろうけど、ふぅんと鼻を鳴らした。

 それぞれの「普通」が、ふたりを隔てている。そんなふうに感じざるを得なかった。


「いいなぁ……やっぱり普通のものを食べられるって。あたしも、ユキノといっしょにりんご飴食べて……おいしいって思いたかった」

「わたしも……先輩みたいにお花を食べられたらいいのにって思ってました」

「ユキノはそのままでいいよ。お花は……あのとき、アイスをいっしょに食べられただけで嬉しかったから」


 わたしたちはしばらく、黙って夜の街並みを眺めていた。ときどき、数えるほどしか見えない星を仰ぐ。食べものに手をつける気分でもなくなってしまった。

 何だかぎこちない沈黙だった。少し苦しいのは……浴衣のせいだと思いたい。


「ねぇ、ユキノ……」


 薄氷を指でつつくように、先輩はそっと沈黙を破った。目を向けると、先輩がこちらに手を伸ばしてきた。その手が頬に……いや、顔のわきの髪を優しく掴み、するりと梳いた。


「髪……少しいじってもいい?」

「え?」

「ユキノも、髪、可愛くしよう」


 先輩は立ち上がり、わたしの後ろに回ろうとする。慌てて頭を抱えて、先輩に後頭部を見せないよう身体をひねる。


「いや、いいですよ。わたしの髪、くしゃくしゃのくせ毛だし、汗かいてさらにひどいし……」


 先輩はわたしの手首に触れると、そっと頭から下ろした。先輩の髪や瞳は夜の色に染まり、今までに見たことのない深い色をしている。

 しかも、先輩に見下ろされるのははじめてだ。たぶん、いつもと同じく見上げられていたら、少しは抵抗できていただろう。

 目線が逆転しただけで、どうしようもなく従うしかなくなってしまう。


「ね、浴衣のお礼だから」


 先輩の手が肩に置かれる。魔力を秘めた花のかおりにやられたように、わたしはおとなしく前に向き直った。俯きがちな頭をくいっと持ち上げられる。

 先輩は鞄から櫛を出して、髪を梳きはじめた。割れものを扱うような、優しい力加減。頬にかかった髪を指先で後ろに持っていく。指の腹が肌をなぞる感触と、かすかに当たった爪の刺激に、つい首をすくめてしまう。


 細くて絡まりやすく、癖の強い、扱いにくい髪。それを先輩は、器用に分けたり編んだりしていく。

 ときどき頭皮に触れる先輩の指に、身体がびくりと震えてしまう。頬に髪が落ちてきたこそばゆさに、鳥肌が立つ。先輩の吐息が耳にかかり、声が漏れそうになるのを必死におさえる。


 さっきとまるで逆になってしまった。先輩の指に翻弄されて、心臓がおかしくなっている。髪を結われているだけなのに……。


 もう、自分の髪がどんなかたちになっているのか、想像が追いつかなくなっていた。ヘアアレンジの知識もないし、そもそも頭が湯気を立てそうなほど熱くてうまく回らない。

 ただ、先輩の指が髪に絡みつく感触はくすぐったく、恥ずかしくもあるけど心地よく、いつまでもつづけばいいなと思ってしまう。


「ねぇ、ユキノ。ちょっとだけお花……使ってもいい?」


 先輩はわたしの返事も待たず、片手でブーケからダリアを1輪抜き取った。その茎を歯で短く噛みちぎり、左の耳の上に挿した。

 先輩は首筋をくすぐるおくれ毛にそっと触れ、またわたしの感覚を弄ぶ。吐息に混じって、かすかに声が漏れてしまう。先輩はふふんと笑うと、隣に戻ってきてベンチに腰かけた。


「仕返し成功」


 先輩は歯を見せて笑う。下からのぞきこむように見上げられているのに、支配されているという感覚はなかなか拭えなかった。頭皮に感じる花の茎が、先輩の指の感触に似ているからだろうか。


「仕返しって何ですか。さっき、わたしが着替えてるとこもずっと見てたくせに……」

「それだけじゃ足りなかったの」


 もう……わがままに磨きがかかってきている。出会ったときの、あの妖しく美しく神秘的な先輩はどこに行ったのだろう。

 まあ、こんな先輩も嫌いじゃないけど。


「ユキノ、かわいい。似合うよ」

「自分ではどうなってるか分かんないです」

「ユキノのかわいさ、あたしがひとり占めしてる」


 先輩は勝ち誇った表情を見せつけてくる。わたしは力のこもっていない目で先輩を睨みつける。

 夜風がさっとふたりの間を吹き抜けた。


 そのとき。


 ピカッと夜空に光が閃いた。遅れて、お腹の底から揺らすような、重く大きな音が響き渡る。花火大会がはじまるという号砲だ。しつこいほどに、何度も鳴る。

 ようやく鳴りやみ、わたしたちは顔を見合せた。ふたりして、同じように耳を塞いでいた。手を下ろして笑いあう。


「びっくりした~。もうどれだけ鳴らすのって思っちゃった」

「音だけの花火って、本番の花火より音がすごいですよね」


 耳がまだびりびりと痺れている。でも、今の号砲のおかげでさっきまでの緊張とか恥じらいとかが、すべて吹き飛んだみたいだった。顔の火照りも、ぬるい夜風に冷まされた。

 先輩の指がするりとわたしの指に絡みついてきた。細くて、小さくて、夏なのに少しひんやりとした手。わたしはその手を握り返し、空を見上げて花火を待った。


 唐突にぽっ、と気の抜けるような音が弾けたあとに、光の筋が空を駆け上がった。頂点に辿り着くと、ひと呼吸置いて光が一気に広がった。最初の光が赤から金に変わるころ、どおんと空を割るような音が鳴り響いた。

 それを皮切りに、次々に花火が上がっていく。大きく打ち上がる菊花火に、牡丹花火。柳のように枝垂れる花火や、ハート型を描く花火。


 さまざまな花火が空に咲いては散っていく。こっそり先輩の顔を盗み見ると、打ち上がる光に照らされて浮かび上がったり闇に隠れたりしていた。

 先輩の髪や瞳は、周りの色にあわせてその色彩を変えるのかもしれない。カラフルな色を映して、一時も色を留めることがなかった。


 15分ほどのプログラムが終わったらしい。夜空は静寂を取り戻し、溜まった煙が弱い風に散らされていく。心なしか、街の灯りが息を潜めて、夜に沈んでいるように見えた。


「ユキノ、綺麗だったね」

「はい。すごく綺麗でした」


 先輩の足がパタパタと揺れている。それを見て、笑みがこぼれてしまう。

 他の誰でもなく、先輩とふたりきりで花火を見ている。誰かといっしょに花火を見ることなんて、きっとそれほど特別なことではないんだと思う。だけど、わたしにはすごく幸せに感じられた。


 先輩は3年生だから、来年の春には卒業してしまう。先輩と過ごせる時間はあまり長く残されていない。


 先輩だけを見ていられる時間。

 先輩がわたしだけを見ていてくれる時間。


 終わりを意識した瞬間、胸が絞られるように苦しくなる。息苦しさに耐えるために、つい先輩の手をきつく握りしめてしまった。逃げていくのは時間だけで、先輩のせいではないのに。

 先輩は不思議そうにわたしに顔を向けてきた。まばたきをする瞳には、花火の残り火のような輝きが揺らいでいる。


「……先輩」

「何?」


 わたしは小さく息をつき、先輩の目をまっすぐ見つめた。


「先輩、修学旅行、行きましょう」

「…………え?」

「心底意味分かんないって顔しないでください」

「だって、あたしの修学旅行は終わったし、ユキノの修学旅行にはついて行けないし……」

「ふたりで行くんです。先輩が行けなかった修学旅行、ふたりでやり直しましょう」


 そう語りかけると、先輩は息を吸いこんで目を丸くした。


「松島と京都と沖縄に……?」

「小中高全部じゃないです。ていうか京都と沖縄なんて、そんな旅費ありません」

「あたしもないけど……」

「現実的な路線で行くと……松島に日帰りですかね。これじゃあ修学旅行というか、遠足レベルですけど」


 勢い任せに提案したことが少し悔やまれた。こんなんじゃ格好がつかない……。

 そんな後悔は、先輩の表情に吹き飛ばされた。花火が上がってもいないのにきらきらと輝く瞳。リボンをゆっくりと解くように笑みが浮かぶ口もと。


「いいよ、遠足でも! ユキノといっしょに行きたい! 明日? あさって?」

「いやいや、急すぎですって。来月。8月に行きましょう。わたし、今金欠で……。来月誕生日なので、少しはお小遣いに上乗せしてもらえるかと」


 恥ずかしながらそう言うと、先輩は首をかしげた。


「え? ユキノって冬生まれじゃないの?」

「あ、もしかして、ユキノって下の名前だと思ってました?」

「違うの?」

「ユキノは苗字です。冬に降る雪に、野原の野で雪野」


 繋いだ先輩の手の甲に指で書いて説明すると、先輩は目を見開いたままうなずいた。


「ふぅん……そう」

「下の名前は訊かないんですか?」

「あたしの中で、ユキノはユキノだから」

「まあ、わたしも先輩のフルネームは知らなくてもいい気がするから、お互いさまですね」


 友だちのフルネームを知らないなんて、おかしいかもしれない。普通じゃないかもしれない。

 だけど、わたしたちに「普通」なんていらないのだ。わたしたちにはわたしたちの付き合い方がある。

 というか、友だち……なのかも分からないけど。名前がないような曖昧な関係のまま、たゆたっていたい気もする。


「ユキノ……ライン交換しよう」


 だから、先輩が1歩、踏みこんできたのには驚いた。すぐさま反応することができず、スマホを出せずにいたら、先輩は早口でつけ足した。


「ほら、しゅ、修学旅行の計画……立てないとだし……待ちあわせするときとか、連絡先知ってた方がいいと思う……し……」


 先輩の声は徐々に小さくなっていく。そしてなぜか、自分のスマホをわたしに押しつけるように差し出してくる。いやいや、手紙じゃないんだから。


 わたしたちって、なんて不器用なんだろう。

 手を繋ぐより、下着姿を見せあうより、連絡先を交換する方が後だなんて。


 やっぱり、普通の友だちではないなぁ。

 苦笑しながら、鞄からスマホを取り出す。先輩はぱっと表情を明るくすると、素早く操作して画面を突き出してきた。


「ほら、早く読み取って」


 先輩のQRコードを読み取る。そういえば、登録名を雪野にしておいてよかった。さっきの今でフルネームを知られては、ちょっと格好がつかない。

 QRコードが読み取れて、先輩のプロフィールが表示される。アイコンは白い百合の花。そして――。


 名前は「棗」だった。


「修学旅行、楽しみ」


 先輩はスマホを頬に寄せて、ふふふと笑った。わたしはぼやけた返事をしつつ、表情を押し隠すのに必死だった。


 イメージ通り、棘を縦に重ねた「棗」の文字。


 早く花火が上がってほしい。こんなにやけ顔、先輩に見られたくない。

 そう思っているうちに、光が螺旋を描いて空を上りはじめた。

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