第6話
夏期講習がやっと終わり、待ちに待った本当の夏休みがやって来た。
今日は夏祭り。夜には花火大会も控えている。
わたしは祖母の桐箪笥をひっくり返す勢いで、浴衣を厳選していた。頭の中で先輩にさまざまな浴衣を着せ替えしてみるが、どれも似合っていて選ぶに選びきれない。
先輩とはじめて約束をした。いや、はじめての約束は「花を食べるということを秘密にする」だろうか。いや、あれはわたしから先輩への誓約みたいなものだから、やっぱり今日の約束がはじめてのはずだ。
先輩とは温室で会う毎日は漫然としたもので、改めて待ちあわせをして会うというのは新鮮だ。
浴衣を選ぶのに手間取ってしまい、着付けに使う道具や小物類を用意しているうちに、あっという間に出かける時間になっていた。
浴衣を着るとなると、下駄や髪飾りなど、いろんなものが必要になる。なるべく簡単に着付けを済ませるために、最低限の道具でおさえたけど、荷物は普通に学校に行くときの3倍ほどになってしまった。
わたしは大荷物で、浴衣の女の子たちで混雑する電車に乗り、いつもの駅で降りた。駅構内にも色とりどりの浴衣があふれ、普段よりも明るい声や、軽い足音で賑わっている。
涼しさを求めてだろう、スターバックスが浴衣姿の人々で満席になっているのが、和洋折衷というか、何かおかしかった。
駅構内で先輩へのおみやげを、それから屋台で自分の夕飯を買う。鉄板から立ち上る湯気と煙、提灯の橙色が滲む夕空。お囃子の甲高い笛の音色。ときどき、知った声が聞こえた気がして、つい息を止めてしまう。
透明になりたい、と思い、そんなことを思うのは久しぶりだなと気づく。そんな詮無い願いは、いつのまにか、先輩といっしょにいたいという気持ちに変わっていた。そんなわたしらしくもない思いが、心の中にあふれている。
大荷物で人混みを抜けるのは大変で、もう5時半を回っていた。営業しているか定かでない美容室の看板についた時計だから、あっているかわからないけど、辺りの明るさはたしかに5時半くらいに思える。
ここから学校まで、早歩きで20分。この荷物では限界があるから、いくら急いでも30分はかかるかもしれない。余裕をもって来たはずなのに、意外と時間が掛かってしまった。
温室でぽつんと佇む先輩を思い浮かべる。遅れても待っていてくれるだろうか。急に、ひとりで知らないところに放り出されたような気持ちになる。
約束していない放課後は、先輩がいるか不安になんてならないのに……。誰かと約束するというのが久しぶりすぎて、何だか感情の振れ幅が大きくなっている気がする。
わたしはできる限りの急ぎ足で学校に辿り着いた。野球部のノックの音とかけ声がグラウンドに響いている。
吹奏楽部はパート練習をしているのか、学校の至るところに、バラバラになったパズルのようにメロディーが散らばっている。
急いで裏門に回りこみ、桜の木に隠れるように温室へと駆けた。ガラスの壁に夕陽の濃いオレンジ色が反射して、一瞬温室が燃えているように見えてどきっとする。
乾いた砂を踏みしめて入口からのぞきこんでみる。濃い緑色のにおいが満ちた温室の中には、いつもと変わりなく先輩の姿があった。
「遅い」
先輩は口を開いた途端、鋭く言い放った。への字に曲げたくちびるに、ふくらんだ頬。まったく怖くないというか、むしろ可愛らしいし、待っていてくれた安心感もあって笑いそうになってしまう。
「すみません。混んでて時間がかかっちゃいました」
わたしはビニールシートを片手で取り出して何とか広げ、地面に敷いた。その上に荷物を置く。着付けをするにも、地面が土ではやりにくい。
「さて、さっそく着替えますか。先輩、靴脱いで上がって、制服脱いでください」
「え、あたしが先?」
先輩の声が裏返った。わたしが鞄から浴衣や紐、帯を出すのをじっと眺めるばかりで、なかなかはだしになろうとしない。
「だって、わたしが先に着替えたら、浴衣で先輩の着付けしなきゃいけないんですよ。動きにくくなります」
「う、分かった」
先輩は足もとに落とし穴があると警戒するかのように、そろり、そろりとシートに乗ってきた。靴下だけになった先輩の足は、とても小さかった。わたしの幅広で分厚い足とは大違い。いわゆる、シンデレラサイズと呼ばれる小ささだろう。
先輩は油が足りていないようなぎこちない動きでワイシャツのボタンを外し、裾をスカートから出した。が、そこでぴたりと止まってしまう。
「うぅ……」
「どうしたんですか」
「……は、恥ずかしいんだけど」
先輩は真っ赤な顔を背けて、口もとを手首で隠した。夕陽に染まった赤じゃなくて、紅潮した赤だったのか。
「いや、別にはだかになれって言ってるんじゃないんですから。こんなんで恥ずかしがってたら、修学旅行のお風呂とかどうしてたんですか」
「……行かなかった」
「え? お風呂に?」
聞き返すと、先輩は急にむきになって口調を強くした。
「修学旅行、行かなかった。小学生のときも、中学生のときも、去年も……行かなかった」
修学旅行に行かない……そんな選択肢があること自体驚きだった。わたしは小中はどっちも行ったし、来年も行くに決まっている。同じ学年で不参加だった人もいたことがない。
先輩はワイシャツの前をかきあわせ、さっきの威勢が嘘のようにうなだれた。自分を説得するようなゆっくりとした口調でつぶやく。
「だって……朝昼晩、ずっといっしょだと……ごはん食べられないこと、ごまかせないから。みんながおいしいもの食べておいしいって言ってるのに、あたしだけおいしいって言わなかったら変だから……」
そうか。先輩は大多数の「普通」じゃないことに、負い目を感じているというか、自分を責めているというか……。
お花を食べることは好きだけど、お花を食べる自分は好きじゃないのかもしれない。
わたしは、お花を食べる先輩が普通だと思うし、そんな先輩が好きだ。わたしが好きな先輩を、たとえ先輩本人だとしても否定してほしくない。
だけど、わたしがそんなことを言っても何の足しにもならないと思う。ごちゃごちゃと考えた結果「……すみません」としか言えない自分が情けなかった。
先輩は「ううん」と無表情で首を振り、ひとつ深呼吸。そして今度はうなずいて、ワイシャツを脱いだ。脱いだそれを、畳めと言うように突き出してくる。
はいはい、と受け取って、先輩の体温が残るワイシャツを畳んでいると、もう少し重い音がしてスカートが脱ぎ捨てられた。目の端に、これ以上ないほど細くて白い脚が映っている。
顔を上げると、先輩は視線を泳がせて小さくなっていた。白いキャミソールの裾を伸ばして、下着を隠そうと必死の様子だ。
だけど、あんまり引っ張りすぎて、逆に胸もとが露になっているのに気づいていないみたいだ。あばらの浮いた胸もとがギリギリのところまで見えている。
普段服から出ている腕やふくらはぎでさえ、びっくりするほど白いのだ。鎖骨周りや太ももはそれにも増して、はじめて日に当てたかのような透明感のある白さをしていた。
わたしは慌てて先輩の身体から目をそらした。なぜか魅入ってしまった。冬の終わりに人知れず咲く花のように、あまりに儚く、美しいから……。
わたしは見とれていたのをごまかすように、2枚の浴衣を顔の前に掲げた。白地に桃と紫の紫陽花が淡く描かれたものと、黒地に群青の桔梗がくっきりと咲いたもの。数ある花柄の浴衣の中から吟味したものだ。
「先輩、紫陽花と桔梗、どっちが好きですか」
「んん……紫陽花は毒があるから……桔梗かな」
さっきまでの儚さや美しさが消え去って、食いしん坊な普通の女の子に戻る。ふたりの間に漂う緊張感が、少し緩んだようだった。浴衣を下ろし、顔を見せても平然とした表情を保てるくらいには落ち着いた。
「先輩ったら……食べるとしたらって話じゃないです。浴衣の柄の話」
「あ、そっか……。ユキノはどっちが似合うと思う?」
「そうだなぁ。先輩、色白だし、黒地の桔梗があうと思います。でも、髪が長いから黒っぽすぎて重くなるかなぁとも思ったり」
「じゃあ……あたしは紫陽花にする。黒はユキノの方が似合いそう」
「分かりました。そうしましょう」
白い浴衣を持って立ち上がる。先輩は少し怯えるように肩を縮めてくちびるを噛んだ。いつか、靴を脱いだら身長差が広がるだろうと思ったことがあったけど、やっぱりそうだった。先輩の頭のてっぺんが、いつもより見やすい位置にある。
浴衣を広げ、先輩のうしろに回る。細くて薄い肩が、ぴくりと跳ねた。
「先輩、袖通してください」
「うん」
浴衣を羽織らせ、前に戻る。伸ばしていたキャミソールが戻って、淡い桃色の下着が見え隠れしている。それに気づいているのか、先輩はそわそわしている。
細い身体に布を巻きつけるように、左右の前身ごろの丈をあわせる。裾はくるぶしが見えるくらいがベスト。丈が決まったら、腰紐で結んで固定する。
「先輩、苦しくないですか?」
「うん……大丈夫」
脇の開いているところから手を差し入れ、腰の上で余った布地を下ろして整えていく。中腰になると、先輩の吐息を耳もとに感じる。浴衣の着付けは、どうしても距離が近くなる。
先輩の身体は熱くて少し汗ばんでいるのに、そうとは思えない甘いかおりがしていた。自分が汗くさくないか少し不安になる。
お腹側は綺麗に整ったので、次は背中側だ。腰に手を回した瞬間、先輩の腰がびくりと沿って、平らな胸が顔に押しつけられた。呼吸が乱れ、小さく声が漏れるのが聞こえた。
「すみません、びっくりさせちゃいましたね。先輩、くすぐったがりですか?」
「別にそういうわけじゃ……ないけど」
先輩は口もとを手で覆い、苦しげに眉を寄せている。そんなに恥ずかしがることもないと思うけど……何だかわたしまで調子が狂ってしまいそうだ。
次は襟を整える。浴衣は基本、下から順に整えていくのだ。裾、おはしょり、襟の順。
襟は開きすぎず、閉めすぎず、上品でおとなっぽく見せるにはその加減が重要になる。首のうしろの隙間も、開けるすぎるとだらしなく、はしたない印象になってしまう。慎重に襟を作って、また腰紐で固定する。
これで浴衣は完成だ。あとは帯を結ぶだけ。先輩はまだ赤い顔をしているけど、やっと身体が布に覆われたからか、ほっとした表情をしている。
「帯は
「へこおび?」
わたしは、また2種類の帯を両手に持って見せる。
「兵児帯は、柔らかくてひらひらした帯です。こっちの固いのは、
山吹色の兵児帯を胴に巻き、うしろで蝶結びにする。結び目がそのまま見えているのは無粋なので、余った部分を下から通して隠せば完成だ。
ヘアアレンジも完璧にしたいのはやまやまだけど、そこまでの技術はない。わたし自身が、今までずっとボブ以上に伸ばしたことがないからだ。
髪飾りは見繕ってきたので、それを先輩に預けて自分で結ってもらう。先輩は器用に編みこみしたり、ねじったり、丸めたりして、綺麗なまとめ髪に仕上げた。花としずく型のビーズがついたかんざしが、夕方の空のように刻々と色を変える髪によく似合っている。細い首すじに残るおくれ毛が可愛らしい。
先輩の準備が完了するのを見届けて、自分の着付けに移る。自分で自分の着付けをするのは何回かしかやったことがないけど、上手くいくだろうか。
姿見があればまだいいのだが、温室にそんなものはない。暗くなってきてガラスが鏡のように映るようになってきたけど、あいにく植物で埋め尽くされて顔しか映らない。まあ、全身が映ったら外からも丸見えということだから、それはそれで困るけど。
というか、外からの視線より……。
「いや、あの……先輩? そんなに見ます?」
先輩はシートの端っこにちょこんと正座をし、わたしの所作を見つめていた。先輩みたいに恥ずかしがるほどではないけど、さすがにスカートを脱ぐのを躊躇ってしまう。
「ユキノだってあたしの下着姿見たじゃない」
「そりゃあ、目を瞑ってたら着付けできませんから」
「それに、食べてるとこいつも見られてるし」
「まあ……それ持ち出されると拒否できませんけど」
にしても……わたしの下着姿なんてそんなに見たいものだろうか。わたしはお世辞にもスタイルがいいとは言えない。くびれはないし、脚は短いし、胸もそんなにないし。見ても楽しくないと思う。
それに、わたしが先輩の下着姿を見たのだって、見たいと懇願したわけじゃなくて着付けする上で避けることのできない状況だっただけで……。
いや、何をうだうだ考えているんだ。無駄に恥ずかしくなる前に、わたしは思い切ってスカートを下ろし、ワイシャツを脱ぎ捨てた。何からも守られていないような、心もとない気持ちになる。
こんな薄着で慌てて動いて、変なところが見えてしまってはいけない。早く隠したいのに、なかなか浴衣の裾が上手く決められない。手間取るわたしを、先輩は少し眠そうな、とろんとした眼差しで見上げている。
「ユキノも色白で綺麗だね」
「いや、そんなこと……ないです」
「あたしもユキノみたいに大きくなりたいな」
「大きく……あ、身長? ですよねっ? いや、ていうか、見すぎですって」
先輩の視線に翻弄されて、身体じゅうが熱くなって手が震えて、頭がぼうっとしてくる。腰紐を蝶結びにするだけで、えらく時間がかかった。
帯締めに移ったところで、やっと身体が隠れたという安心感がわいてきた。身体が露になっていると、心まで薄着にされたように不安になってしまうのだとはじめて知った。
「ねぇ、ユキノは何で浴衣の着付けなんてできるの?」
お腹側で帯の結び目を作るわたしを興味深そうに眺めながら、先輩は訊ねてきた。わたしはこっそり深呼吸をして、もう声が震えずに済みそうだとたしかめてから口を開いた。
「うちのばあちゃん、昔、着付け教室の先生をやってたんです。それで、小さいころはよく、子どもの着付けの授業に駆り出されてて……それで自然に覚えちゃったって感じで」
「ああ、だからおばあちゃん衣装持ちなんだ」
「歳だから教室はやめちゃいましたけど、今でも着物とか浴衣とか大事にしてて……でも、ばあちゃんにとってはただ保管しておくことが大事にすることじゃないみたいなんですよね。浴衣を貸してほしいって言ったら、すごく嬉しそうにしてました」
「ふぅん……素敵なおばあちゃんだね」
帯の端を折り畳み、リボンのように整えたら、回して背中側に持っていく。それを見て驚く先輩の顔は、子どものようにあどけなくて可愛らしかった。
わたしは先輩みたいにヘアアレンジを施すほどの長さがないので、そのままにする。髪飾りも、先輩の分しか持ってこなかったし。
乱れているところがないか確認していると、先輩はふわりと笑った。夕日はとうに沈み、空気は夜の色に移り変わりつつあった。その深い色に抗うように、先輩の肌はいっそう白く光っていた。
「やっぱり、ユキノには黒が似合う」
「先輩も、似合ってます」
先輩は慣れない浴衣姿で、ふらふらと立ち上がった。小さな下駄を履かせて、脱いだ制服やシートを片づける。
荷物をまとめて温室を出ようとしたとき、先輩が「ん」と手を突き出してきた。これは……手をつなげってこと?
「下駄なんてはじめてだから転びそう」
「はいはい」
荷物を右手に、先輩の手を左手に握りしめる。先輩の小さな手の温度が、わたしの手に伝わってくる。お互いのぬくもりを混ぜあうような心地よさがあった。
わたしたちは人の目を避けながら、昼間の熱が残る街へと歩き出した。
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