第5話
夏休みとは名ばかりの夏休みがはじまった。
7月中は夏期講習という名の通常授業があるのだ。午前中だけとはいえ、登下校は暑いし、ぜんぜん夏休みじゃないし、高校生って大変だなと思う。
しかも、あさっては街の夏祭りと花火大会が開催される。みんな浮き足立って、授業どころじゃなさそうだった。好意を寄せる異性を誘いたいとか、どんな服装をすればいいかとか、にぎやかなおしゃべりが休み時間ごとに繰り広げられる。
そうか、夏祭りか。小学生のころは友だちと遊びに行ったりしたけど、最近は出店を覗くことすらしなくなった。今年も自宅の窓から花火を眺めるくらいかな、と思っていた。
だけど……もし、棗先輩といっしょにお祭りを歩けたら。並んで花火を見られたら――そう考えてしまう。
先輩はたぶん、夏祭りなんて興味がないと思う。出店の大半が食べものだから、先輩は楽しむことができない。
それに、平日の帰宅時間の駅前でさえやっとみたいだったのに、それをはるかに上回るお祭りの人混みに連れて行けるわけがない。
きっと、わたしたちのあいだでは夏祭りの話題なんて出ないだろう。わたしからは到底誘えない。
わたしと先輩は、約束などせず、ただ温室でいっしょに過ごすだけの仲だ。寄り道をすることはあっても、学校外で待ちあわせをして会うところなど想像できない。
わたしたちが会えるのは、学校がある日のあの温室だけ。だから、夏期講習が終わって完全な夏休みがやってくるのが、少し寂しく思える。人と会えなくなるのを不安に思うなんて、先輩と出会ってから、わたしはずいぶん変わってしまった。
4時間目の授業が終わっても、クラスメイトたちはまだ夏祭りの話題で盛り上がっている。
最近あまりいっしょにお弁当を食べていない、あの3人も寄り集まって何か話している。それを横目に、わたしは教室を出て一直線に温室へ向かった。
じわじわと降り注ぐ蝉の声と、立ち上る陽炎。きらきらと、光のかたまりのように輝くガラスの温室。ゆるい熱風が、乾いた地面をさするように吹いていった。
半開きのドアを引くと、花壇の縁には先輩がちょこんと座っていた。細く、白い脚が露になるのもいとわず、スカートをばさばさと動かして風を作っている。
「やっぱりいた。ほんと、熱中症になりますって」
「ユキノが来てくれるから大丈夫」
「大丈夫じゃないですよ。日当たり良過ぎるんですから、ここ」
先輩はひょいっと立ち上がって、乱れたスカートを直した。長い髪はさすがに暑いのか、低めのポニーテールにしている。
先輩は中身がなさそうなぺったんこの鞄を肩にかけると、手近な花をいくつか摘んで、わたしを見上げた。
「ユキノ、帰ろ」
「はいはい」
先輩につづいて、温室の外へ。ここから遠い正門ではなく、すぐ近くの裏門から出る。その方が、下校の人混みに巻きこまれずに済むからだ。
夏の間は暑くて、温室で過ごすこともできない。去年の先輩は意地でもいたようだけど、そんなことはさせられない。
最近はコンビニでちょっと買いものをして、すぐ近くの公園に行くのがお決まりになっていた。わたしはアイスや炭酸飲料を、先輩はときどき、はちみつレモンのジュースを買う。はちみつは花の蜜からできているものだからか、おいしく感じられるらしい。
いっしょに過ごすうちに、少しずつ先輩のことが分かってきた。
冷えて固まってしまった蕾にぬくもりを与えて咲かせるような毎日を、わたしたちは積み重ねていた。
公園には大きな池があり、周囲は遊歩道のように整備してある。
途中に遊具や広場があって、小学生がブランコで遊んでいたり、お年寄りがゲートボールに興じていたりする。
わたしたちは柳の枝をくぐるようにして歩き、水際にある東屋に落ち着いた。木や草花に囲まれて人の目を気にしなくて済むし、何より温室の雰囲気と似ているから、わたしたちはいつもここで過ごしている。
先輩ははちみつレモンを飲みながら周囲に目を走らせ、温室から摘んできた花を大事そうに鞄から出した。隠していた食料を食べるリスみたいに、もぐもぐと頬張っている。
わたしも溶けはじめているアイスのカップを開けた。いちごのかき氷の真ん中にバニラアイスを入れた、いちごフロートだ。
木のヘラで氷とバニラアイスを混ぜ、ひとすくい、先輩に差し出した。先輩はお花を口に入れる直前で固まり、怪訝そうにまばたきをする。
「ひと口食べます?」
「えっ……いいよ。どうせあたしが食べても……」
「これ、ベニバナ色素が入ってるんです。ベニバナって花ですよね? もしかしたら味するかもしれないなって思って」
「ええ……するかな……?」
疑わしい目を向けてくる先輩に、あーんと言ってみると、先輩の口が反射的にあーんと開く。小さな口にアイスを含ませ、反応を観察する。うなり声を上げながら、首を右に、左に揺らしている。
「うーん……うっすら……するような、しないような……」
どうにも煮え切らない。カモミールアイスのときのような、鮮やかな反応ではなかった。
シャクシャクとアイスを混ぜて、自分でもひと口食べてみる。本物のいちごとは程遠い、「かき氷のいちご味」としか表現できない甘さ。バニラアイスのクリーミーさが絡まって、練乳をかけたかき氷みたいな味わいだ。
先輩が感じられない味を享受していることに、虚しさを覚えた。
エディブルフラワーのアイスクリームのキッチンカーは、営業場所を変えてしまったのか、駅前には現れなくなってしまった。
あの日、同じものを食べておいしいと言いあった嬉しさが忘れられず、わたしは密かに、またおいしさを共有できるものを探していた。だけど、コンビニに売っているものの中からは、なかなか見つからない。
手っ取り早い方法は、いっしょにはちみつレモンを飲むことかもしれないけど、それは何か違う気がする。先輩がはじめての味を感じて、顔いっぱいで笑うところをまた見たいのだ。
着色料がダメなら、次はどうしようか……。一定のリズムでアイスを口に運びながら思案していると、先輩がぽつりと言葉を漏らした。
「あたしも普通だったらよかったのに」
顔を上げると、先輩は花びらをつまんでまつ毛を伏せていた。
「普通……って?」
「花を食べなくて、普通の食べものをおいしいって思える人」
先輩は花びらを生ぬるい風に手放した。白い花びらはひらひらと舞って、低木に張った蜘蛛の巣に引っかかった。
「先輩には先輩の普通、わたしにはわたしの普通があるだけです。そのふたつの普通が重なるとこを探せばいいんです」
先輩は弱々しく首を振る。ポニーテールもゆらゆらと揺れる。頬が、どんな表情をすればいいのか迷うように震えている。
「だって――……うぅ」
先輩は頬を両手でおさえるようにして、声を振り絞った。
「普通じゃないから、ユキノのこと、お祭りに誘えない……!」
「えっ……」
わたしは言葉をつづけられなかった。先輩は頬を覆っていた手を目もとまで持ち上げて、もう顔全体を隠している。耳たぶが赤くなっているのだから、きっと顔も真っ赤になっているのだろう。
わたしが先輩と夏祭りに行きたいと思っていたのと同じように、先輩もわたしと……。わたしまで顔が熱くなってくる。
誰かといっしょに何かをしたいというのは、これまでの自分の中では起こりにくい感情だった。それを今、強く感じていて、しかも相手も同じ気持ちになってくれている。
心がつながるって、こういうことなんだ。
言葉にすると、あまりにもわたしらしくなくて恥ずかしくなる。高鳴る鼓動を不思議に思いながら、先輩の顔をのぞきこむ。
「……もう誘ってるじゃないですか」
先輩はまだ目隠ししているから見られているのは分からないはずなのに、びくりと肩を揺らして顔を背けた。声の聞こえてくる角度で分かったのだろう。くぐもった声で反抗してくる。
「今のは誘ったうちに入らない」
「変なとこで意地張って……」
先輩は頑固なところがある。いや、健気というか、ひたむきというか……。
さっきので誘ったってことにしてもらわないと困る。そうじゃないと、話を進めるためにはわたしも正直に話さないといけなくなるから。
「……わたしも、誘いたいなって思ってたんですよ。夏祭り」
先輩の手がすすっと下がって、潤んだつり目が見えるようになった。その大きな瞳を、なかなかまっすぐ見つめられない。
「でも、先輩人混み苦手だし、屋台にも興味ないだろうなって……先輩が楽しめないだろうなって思ったら、誘えなくて……」
どちらも口をつぐんでしまう。先輩の両手はやっと頬から離れたけど、表情は固いままだ。
こんなにぐだぐだになってしまうなら、最初から誘ってしまえばよかった。そんなふうに思えるのも、先輩の気持ちを知った今だからこそ、なのだけど。
「この公園……花火がよく見えるの」
先輩のか細い声が、緑に吸いこまれるようにゆるやかに消えた。先輩は拠り所を求めるように、ペットボトルをぎゅっと握りしめた。表面についた水滴が、先輩の指を濡らす。
「だから、ここで花火大会……ユキノといっしょに見たい」
そっか、その手があったか。なんて、とぼけた感想を抱いてしまう。つくづく、自分って不器用だと思う。
先輩は、そこまで言ったところで精いっぱいだったらしく、まぶたをぎゅっと瞑ってうつむいてしまった。結局は誘わせてしまったし、ここからはわたしがリードしないと。
「じゃあ、花火大会は8時からだから、7時半にここで待ちあわせでいいですか?」
先輩はこくりとうなずく。ポニーテールが控えめに揺れる。
先輩と花火大会。まさか実現するなんて。今から胸が弾んでしまう。
屋台が並ぶ通りと、花火大会の観覧席になる駅前広場は大変な混雑になるけど、会場から離れたここなら静かなはずだ。
わたしがたこ焼きやわたあめを食べながら花火を見るのと同じように、先輩も人の目を気にすることなくお花を食べながら花火を楽しむことができるだろう。
「そうだ。先輩、浴衣着てきますか?」
「浴衣なんて持ってない。着たこともないし」
「せっかくだから着ましょうよ。うちに浴衣何枚かあるんです。ばあちゃんがすごい衣装持ちで。貸してあげます」
「でも着付けできないよ」
思いつきで聞いてみただけなのに、なぜだかどうしても先輩の浴衣姿を見たくなってきた。
「じゃあ……先輩の家まで着付けしに行きます?」
「遠いから浴衣で歩いてここまで来るの大変だよ」
「わたしの家も……近くはないです」
電車に乗らないといけないし、お祭り会場を抜けないとここに来られない。
先輩は浴衣を着ることを拒むつもりはないようだ。むしろ、好奇心に溢れた目をしている。
しばらくふたりで黙って考えこむ。先に口を開いたのは、先輩だった。
「じゃあ、温室は……?」
「えっ? そんな時間、学校開いてます?」
「夏休み中は遅くまで部活やってるとこもあるから、裏門は8時くらいまでは開いてるよ」
「じゃあ、着付けに時間もかかりますし……夕方の6時に温室……でいいですか?」
今はまだ日が長いし、6時くらいなら電灯がなくても明るいはずだ。帰りは着替えられないだろうけど、脱ぐのは手伝わなくてもどうにかなるだろう。いや、脱がせてって頼まれても困るけど。
先輩はきらきらと瞳を輝かせて身を乗り出してくる。ランドセルをはじめて背負う小学生みたいだ。
「うん、楽しみ。あ、ユキノ、来るときは制服の方がいいよ。明るいうちだと目立つから」
「わかりました」
帰ったら、浴衣を選ばないと。先輩に似合いそうな、飛びっきりの浴衣を。
きっと、明日の夏期講習はみんなと同じくらい上の空になってしまうだろう。
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