第4話
7月も後半に入り、真夏の陽気が戻ってきた。本物の夏がやってきた、といった暑さだ。毎年のことだが、夏ってこんなに暑かったんだな、と感心してしまう。
部室棟へ向かう桜の木陰も、少しも涼しくない。たぶん、温室も相当暑いだろう。その名の通り……ではなく、日当たりが良すぎるせいで。
部室棟を過ぎ、直線的な日光に照らされる。思わずよろけてしまいそうな強さだ。
温室は夏のまんなかにどんと置かれたかのように、金色に光っていた。中の植物はますます勢いを増して、緑色を濃くしている。
入口のドアは半開き。まさか、この暑さでも先輩は中にいるのだろうか。頭が焦げそうなほど暑いのも忘れ、駆け足になる。
ドアを全開にして、中に足を踏み入れる。途端に全身から汗が吹き出した。さっきまでの暑さがまだぬるく感じる。
そして、当然のように先輩は花壇の縁に座っていた。温室の中央に植わった木の影に入ってはいるけど、この暑さでは日向も日陰も大した差はないだろう。
「あっつ! 暑すぎじゃないですか!」
先輩は長めの前髪を額に張りつけて、真っ赤な顔をしている。おやつの花も、摘んだばかりにしてはしおれ気味だ。先輩はその花を口に放りこみ、咀嚼しながらもごもごと答えた。
「ん……まあ少し」
「少しじゃないです。ほぼサウナ! 夏の温室はヤバいですよ」
「でも去年もずっとここにいたし」
「いやいや、熱中症で倒れますよ」
「去年は助けてくれる人いなかったけど、今年はいるから大丈夫」
「助けが必要な状態になった時点で大丈夫じゃないです。ほら、涼しいとこ行きますよ」
先輩の細い手首を掴み、そっと引っ張る。先輩は綿毛が風に飛ばされるような軽さで、ふわっと立ち上がった。黒、灰、銀……色の定まらない髪の毛が、空気の流れを描くように広がった。
先輩は汗ばんだ頬を手の甲で拭い、不満げな顔をした。その手には、しおれて色褪せた花が握られていた。
「おやつ……まだ食べてるのに」
わたしは先輩の手から、もうおいしくなくなっていそうな花を取り上げ、にっと笑った。
「先輩に食べてほしい……先輩といっしょに食べたいおやつがあるんです」
そう言い聞かせると、先輩は期待と疑問、半々の顔で首を傾げた。
*
学校から30分ほど歩いて、わたしたちは駅前に来ていた。各駅停車の新幹線なら停まる駅で、この辺りでいちばん栄えている場所だ。
人通りが多くなるにつれて、先輩はどんどん口数が少なくなっていった。スカートが何かに引っかかって前に進めないと思ったら、立ちすくんだ先輩が裾を握りしめていた。うつむいて声を震わせる。
「ねえ、どこまで行くの……? こんなに人がいるとこじゃ食べられないんだけど」
雑踏を背景に、身体を小さくする先輩。そういえば、会うときはいつもふたりきりで、他の人間といっしょに視界に収まる棗先輩ははじめてだ。
新鮮な気持ちと、絶滅した美しい鳥のことがまた思い出されて、かすかな不安がよぎった。
「わたしがいるから大丈夫です。ついてきてください」
スカートの布地を握りしめる、先輩の小さな手をほどいて、ぎゅっと包みこむ。先輩の手はびくりと震え、それからそっと握り返してきた。いや、握ると表現できるほど、力強いものではない。指先の温度がわずかに伝わる程度に触れただけだった。
ふたつある駅前の商業ビルのうち、低い方の出入口付近に、ミントブルーの小さなキッチンカーが停まっていた。
立て看板には「フラワーアイス」という文字と可愛らしいイラストが手書きされている。大きく開いた窓に、数人の女子高生が群がっている。
車と同じくミントブルーのキャスケットとエプロンをつけた店員さんが、大きな窓から手を伸ばして、先頭の女子高生にアイスを差し出す。
2段重ねの、白いアイスクリーム。それを彩るのは、カラフルなお花。アイスクリームに花が咲いたような飾りつけだ。
先輩は目を丸くしてそのアイスクリームに釘付けになっている。
アイスを手にした女の子が青いビオラを食べるのを見て、さらに目を見開いた。
「お花……食べてる……」
お花を食べる先輩が、お花を食べている人を見て驚くのは、何か不思議な気分だった。
「エディブルフラワーっていうんですよ。食べられるお花。昨日の帰りに見かけて、これなら先輩と同じもの食べておいしいって思えるなって」
「同じもの……」
先輩は呆然とつぶやいたあと、大きく息を吸って口もとを腕で隠した。赤くなった頬と、ぱたぱたと動く足。よかった、喜んでくれた。
わたしは先輩の手を引いて、列の最後尾に並んだ。車の側面に書かれたメニューをいっしょに眺める。フレーバーは6種類。エディブルフラワーのトッピングは共通らしい。一番人気はバニラみたいだ。お花の色が映えるからだろうか。
「先輩、どれにします?」
「じゃあ……お花がいっぱいのってるの」
「お花は全部にのってます。ベースのアイスの味を決めるんですよ。わたしは……カモミールにしようかな」
「あたしも……ユキノと同じの」
わたしと同じの……。先輩のさっきの気持ちが分かった。たしかに、口もとを隠したくなる。
10分ほどして、わたしたちの番がきた。先輩はおどおどとわたしの背中に隠れてしまったので、まとめて注文する。お金を払おうとして、先輩と手をつないだままだったと気づいた。
そっと指をほどいて会計を済ませると、うしろから手が伸びてきて、またきゅっと掴まれた。今度はしっかりと力を感じる。わたしたちはできあがったアイスを、空いている方の手でそれぞれ受け取って、列を離れた。
「ベンチに座って食べましょう」
「うん……あ、お金……」
「あとでいいです。溶けちゃいますよ」
モータープール沿いのベンチに向かおうとするが、左手がついてこない。先輩はアイスを見つめて、立ちすくんでいる。
「お花……ほんとに食べていいの? 変じゃない?」
「だから、食べられるお花なんですって。みんな食べてますよ」
周りに目を向けさせる。女子高生たちがアイスを……お花を食べて笑っているところを見せる。それなのに、先輩の表情は固いままだ。
「先輩、こっち来てください」
わたしは先輩の手を引き、歩き出した。商業ビルと駅舎の間の細い路地を抜け、人気のまばらな高架下で足を止めた。日陰に入り、先輩の髪は深い青色に染まって見えた。
「やっぱり、先輩は人混みには似合わないですね」
ようやく先輩の肩から力が抜けたようだ。手を離しても、不安そうな顔にはならなかった。
「ここなら、誰にも見られませんから。お花、安心して食べてください」
わたしが見つめるなか、先輩はゆっくりとまばたきをして、アイスを口に寄せた。ひと口含み、ぱちっと目を見開く。
「……おいしい」
「いやいや、今食べたのお花だけじゃないですか」
「だ、だって……ユキノと同じもの、おいしいって感じられなかったらいやだなって思ったら……何か……怖くなってきて」
先輩はうつむき、長いまつ毛を伏せた。
もしかしたら、わたしの言葉がプレッシャーになってしまったのだろうか。このアイスが本物のお花のように先輩の口に合うのか分からないのに、連れてきてしまって――そして、同じものをおいしいと思いたいなんて言ってしまって……。
わたしの視線も、自然と下を向く。先輩の手がぐっと握りしめられるのを見て顔を上げると、つり目を力強く輝かせていた。
そして、溶けはじめたアイスをぺろっと舐めた。目がさらに大きく見開かれる。
「どう……ですか?」
「……冷たい」
期待とは違った答えに、緊張が一気にゆるんだ。
「ええ、それだけですか」
「だって、お花はこんなに冷たくないもん」
先輩は立て続けにぺろぺろとアイスを舐めている。
普通の食べものは、自分が食べるものじゃないなという感じがする……そんなふうに言っていた先輩が。
高架の縁からほんのりこぼれた陽の光に、先輩のくちびるはとろりと光った。
「あと……おいしい」
そう言って、先輩は口もとを隠すのも忘れたように、ふんわりと笑みを見せた。
それから、先輩はじっとわたしを見つめてきた。まばたきするわたしとアイスを交互に見ている。
そうか、食べるとこ見せたんだから、次は見せてってことか。
わたしは思い切って、大口を開けてアイスにかじりついた。エディブルフラワーもいっしょに口に含む。その食感は、柔らかいベビーリーフのようだ。
アイスは、カモミールの花が咲くと漂う、あのりんごに似た香りがした。甘さの中にあるほんのりとした苦味が、花の味だろうか。
「ほんとだ……おいしい」
「お花もおいしい?」
「はい。おいしいです」
「あたしもね、アイスおいしい……おいしいの」
先輩は今までに見たこともない、明るい笑顔を浮かべている。瞳がきらきらと輝き、綺麗に並んだ歯が見えるほど大きな口を開けて笑っている。
先輩は今はじめて、おいしいという喜びを、誰かと共有したのだろう。そんなはじめてがわたしだなんて、嬉しくて、どきどきして、何だか恥ずかしい気もしてくる。
そんなごちゃごちゃな感情が顔に出ないように押しこめて、先輩のアイスを指さす。
「先輩、急いで食べないと溶けますよ」
アイスは表面がとろっとなめらかになっているし、ふたつまっすぐに重なっていたのに今はちょっと崩れかけている。
先輩は慌ててアイスを頬張り……急に動きを止めた。表情が苦悶に歪んでいる。
「うぅ……ひゃああっ」
「あ、キーンってなってる」
先輩は涙目で首をさすりながら、わたしのせいだと言わんばかりに睨みつけてくる。まあ、急いでって言ったし、わたしの責任も少しはある。かもしれない。
「それも夏の醍醐味です」
先輩はわたしのことをじーっと見つめて、食べるペースをあわせてきた。口に含み、溶かしてから飲みこむ。
それでも、アイスクリームを食べるのはやっぱり難しかったらしい。2度目のキーンは避けられたみたいだけど、溶けて流れた液体で手が濡れてしまっていた。
「うう……べたべた」
「先輩、子どもみたい」
「しょうがないでしょ。アイスなんてはじめて食べたんだから」
先輩は、ひじまで濡れた右手と、それを気にして拭ったせいで濡れてしまった左手を突き出してきた。両手が汚れていては、自力で鞄からハンカチを出すこともできない。
「先輩って意外と甘えんぼですよね」
わたしはポーチからウェットティッシュを出して、先輩の手を拭いてあげる。細いけど意外と柔らかい腕から、薄い手のひら。そして、指を1本1本、丁寧に。
「甘えんぼじゃないし。ユキノが世話焼きなんだし」
拭き終わった両手をにぎにぎとやって、また突き返してくる。指のつけ根の間がまだベタつくらしい。
「もう、ほんとにわがままなんだから、なつめ姫は」
新しいティッシュをつまみ出しながら笑うと、先輩はくちびるをつんととがらせて、早く、と言うように手を振った。
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