第3話

 学校の敷地内の片隅にある温室。

 そこには、花を食べる妖精がいる。


 いや、もちろん妖精なんて現実にはいない。棗先輩はれっきとした人間で、この高校の3年生だ。その美しさと儚さと、花びらを食べる姿の妖しさは、まるで妖精そのものだけど。

 わたしは棗先輩と出会ってから、昼休みは週に1、2度、放課後に至ってはほとんど毎日、温室を訪れるようになった。


 空梅雨だった6月が過ぎ、7月になった。とはいえ、梅雨に降らなかった分を巻き返そうとするかのような雨つづきで、先月の方が暑かったくらいだ。

 夏休みを来週に控えた今日も、またあいにくの雨模様。肌に水分が感じられるほどの湿気だ。癖毛だから、湿度が高いと髪が広がって困る。


 放課後、わたしは髪型を気にしながら、傘を差して温室へと向かった。

 普段は運動部のかけ声や、吹奏楽部の練習の音が響く校庭は、静かな雨音に満たされている。砂地にできた大きな水たまりが、無数の雨粒に揺らいでいる。


 こんなどんよりとした空の下、ガラス張りの小さな温室は水滴を纏って静かに輝いていた。

 まるで太陽の光の粒を材料に建てたかのような印象があったから、雨の日に来るときは少し不安になる。もしかしたら、温室も棗先輩も、陽の光が見せた夢だったのではないかと――。雨の中にもちゃんと存在していることに、いつも安心してしまう。


 扉は半開きになっている。先輩はもう来ているみたいだ。傘を閉じながら、室内をのぞきこむ。先輩はいつものように、花壇の縁に座っておやつを食べていた。

 桃色の花びらを口に運ぼうとしたところで、わたしに気づいたらしい。横目でちらりと見て、くちびるをつんと尖らせた。


「こんにちは」


 あいさつしながら、閉じた傘をくるくると回して水を切り、入口のすぐわきに立てかける。それから、わたしの定位置になった、花壇の縁――先輩のとなりに腰かける。

 先輩は長い髪をしゃらしゃらと揺らして、わたしから顔を背けた。


「今日も来るなんて、ユキノって相当暇なんだね」


 先輩は手にした花をやけ食いのようにむしゃむしゃと頬張った。ふくらんだり、しぼんだり……髪に見え隠れする頬が、ほんのり赤く色づいている。

 本当は嬉しいのだ。怒っているように見せかけて、足がぱたぱたと動いている。先輩が安心したり、嬉しかったりしたときの癖。それが分かるくらい、いっしょに過ごす時間を積み重ねてきた。


 わたしはここまで歩いてくるうちに濡れてしまったスニーカーと靴下を脱いだ。はだしの踵を靴に置いて、靴下は花壇の縁に垂らす。


「棗先輩だって毎日いるじゃないですか。お互いさまです」

「あたしは園芸部員だもん。毎日来て当たり前だし」

「先輩が花の世話してるとこ、見たことないけどな。食べてばっかりで」


 そうやって憎まれ口を叩くと、先輩はばっと振り返った。


「ちゃんと食べる順番があるの。ほら、花がら……枯れた花を放っておくと株に負担がかかるでしょ。だからって枯れた花は食べられないから、咲いた順に食べるようにしてるの。ちゃんと順番を把握してるの。これだって立派なお世話なんだから」


 先輩は小さな口をぱくぱくと忙しく動かして、早口でまくし立てる。食いしん坊扱いすると、こんなふうにちょっとムキになる。そんなときの先輩は、美しさも儚さも、妖しさもまったくない、普通の女の子になる。いつもは青白いほどの腕にも脚にも、命の色が透けるように赤みが差す。

 それが可愛くて、ついついからかいたくなってしまう。


「ふーん。おかずができた順からつまみ食いしてるようにしか思えないけど」

「……そういうこと言うなら帰って」


 先輩は歯を食いしばり、ぐいぐいとわたしの肩を押してくる。でも、力がないからわたしの身体はびくともしない。


「うそうそ、じょーだんじょーだん」


 手首を掴むと、先輩はなけなしの力を振り絞るのをやめ、むうぅ、と睨みつけてきた。

 つり目がちの大きな瞳。心を許しはじめた子猫と似ているかもしれない。


 先輩は立ち上がると、温室内をうろうろと、花を摘み歩きはじめた。おかわりするのだから、食いしん坊に違いないと思う。


 水色のワイシャツの袖から伸びた、細くて白い腕。ひざ丈を守ったスカートに、足首が隠れるくらいの短い靴下。先輩はローファーだから、濡れずに済んだみたいだ。

 小さなローファーが、湿り気のある土を踏む。よく見ると、結構厚底みたいだ。上げ底してなお身長差が10センチはあるということは、はだしだったらもっと差があるのか。わたしのスニーカーの方が断然底が薄い。


 とりとめもないことを考えているうちに、先輩のおやつ調達は終わったらしい。いつもの場所で羽休めをする小鳥のように、わたしの隣に舞い戻ってきた。スカートの太ももにハンカチを敷き、そこに花を置く。

 先輩はお行儀よく手をあわせてから食べはじめた。花びらをちぎっては口へ、次々と運んでいく。紅色の花で染めたかのようなくちびるがやわらかく動き、こくり、と小さな音を立てて飲みこむ。


 やっぱり、何度見ても不思議なものだ。慣れはしても、その神秘的な光景に飽きることはない。いつまでも見ていたくなる。ずっと見ていると警戒されるからできないけど。

 わたしは手近な株の枯葉を取りながら、横目でちらちらと先輩を盗み見る。先輩は気づかない様子で、足をぱたぱたして花を食んでいる。


「先輩、花っておいしいんですか」

「全部がおいしいって訳ではない……というか、好きか嫌いかって感じかな。甘いのはもちろんおいしいけど、甘みの中にほろ苦さがあるものも好きだし。酸っぱいのが食べたい気分のときもあるし。でも、苦い上に酸っぱいものは嫌い」


 ということは、コーヒーみたいな味の花があるということか。


「普通のごはんは食べないんですか」


 先輩は花を口もとに寄せて、んー、とうなった。


「食べて食べられないことはないけど……たぶん、ユキノにとっての花みたいなものだと思う。味気なくて、あたしの食べるものじゃないなって感じる」

「ふぅん。ちょうちょかミツバチみたい」


 妖精みたい、は言ったこっちが恥ずかしくなりそうだから言わないでおく。


 しばらく、先輩はおやつに夢中になり、わたしは見よう見まねの花の手入れに集中しているふりをして、ふたりとも黙りこんだ。ガラスの屋根を叩く雨音が、温室内に染みこむように鳴っていた。

 湿気を纏い、みずみずしい緑色の植物たちに囲まれて、わたしたちは世界から隔離されているようだった。外からの視線は遮断され、内側にいるわたしたちも外界を意識しなくていい。いつのまにかわたしにとって、とても呼吸のしやすい場所になっていた。


 やがておかわりもなくなり、先輩は手持ち無沙汰そうに、滴の伝うガラスをぼんやりと眺めていた。摘み取った枯葉を渡すと、ぺっと地面に叩きつけられた。綺麗に咲いている花を摘んで差し出したら、受け取ってくれた。でも、それを指先でくるくる回すばかりで、なかなか食べてくれない。


「あたしは百合の花から生まれたの」

「え? 百合の花?」


 唐突な言葉に目を白黒させてしまう。先輩はわたしの反応を見て、静かに笑った。


「小さいころから、お母さんにそう言い聞かせられてきた。あたしが花を食べる理由」

「おやゆび姫みたい」

「おやゆび姫はチューリップから生まれるの」

「そうでしたっけ? じゃあ、先輩は百合から生まれて、しかも親指サイズじゃないから……人間大姫?」

「それはもうただの姫じゃない」


 つまらないわたしの冗談にむすっと答えたあとで、はっと目を見開いた。みるみるうちに頬が赤くなっていく。


「べ、別に、自分のことを姫って言ってるわけじゃ――」

「なつめ姫」

「うるさい」


 神秘的な空気を纏う先輩も好きだけど、普通の女の子に戻った先輩もやっぱり可愛い。


「先輩でも好き嫌いあるんだぁ。食いしん坊だから、何でも食べられるのかと思ってた」

「まあ、食べたくないほど嫌いなお花はないけど……あたしにだって食べられないものはある」


 先輩はまぶたを伏せて、静かに言った。


「毒があるお花は食べられない」

「毒……?」

「身近なものだと、スズランとか、スイセンとか。スイセンなんか、春になると毎年のように、ニラと間違えて食べて中毒を起こしたってニュースを聞くでしょ。あたしだって一応人間だから、毒性のあるものは食べられない」


 確かに、スイセンの毒性については聞いたことがある。余りにも身近で、美しく咲く花だから忘れがちだけど。


「ここにも毒のある花はあるんですか?」

「ないよ。あたしはちゃんと勉強してるから、間違えて食べたりしないけど……危ないから」

「ふぅん……」


 食べなくても危ない……。触るだけでも危険な植物もあるのだろうか。漆みたいに、触れただけでかぶれてしまうものもあるし。


 先輩は指先で弄んでいた花を、ようやく口に運んだ。静かに咀嚼して、喉を鳴らす。

 それからわたしに顔を向けて、大きなつり目で睨みつけてきた。口もとには少し花粉がついていて、どうにも迫力に欠ける。子猫が必死に、穏やかな大型犬に対して威嚇しているのに似ていた。


「ねぇ、さっきからユキノばっかり質問してずるいんだけど」

「ずるいって……何ですか、それ。先輩、わたしのこと何か知りたいんですか?」


 もしそうなら、ちょっと嬉しい。

 わたしの先輩を知りたいという気持ちは、今まで使っていなかったような、心の奥底から湧いてくる。そして、心の水面みなもに上がってくるまでに、いろんな感情にぶつかって揺さぶってくる。心の中が少し忙しくなる。

 そんなあったかいような、くすぐったいような感覚を、先輩も感じているのならいいな、と思う。


 先輩はしばらく口ごもった。花を食べるときはぱくぱくとよく動く口が、なかなか開かない。そんなに聞にくいことなのだろうか。


「ユキノって……クラスに友だちいないの?」

「ええ、そんなことですか」


 わたしはがくっと花壇の縁からずり落ちそうになった。まあ確かに、デリケートな問題かもしれない。わたしは別に気にしていないから、些細なことだけど。


「いないこともないですけど……友だちって呼べるほど相手のことよく知らないんですよね。みんながわたしのことを、友だちだと思ってるかも分かんないし。最初にここに来た日、わたし……透明になれる場所を探しに来たんですよ」

「透明になれる場所?」

「気兼ねなくひとりになれて、それを誰にも見られない場所」


 先輩はふぅん、と言いかけて、ん? と首を傾げた。目をすがめて怪訝そうに見つめてくる。


「ここじゃ透明になれないじゃない」

「いいんです。先輩といっしょに透明になってるから」


 先輩は体育座りのようにひざを抱きしめて、腕で口もとを隠すように「そう」と聞こえないくらいの小さな声で言った。


「まあ……ユキノがいいなら、それでいいけど」


 顔を上げた先輩は、かすかにほほえみを浮かべていた。その口もとには、もう黄色い花粉はついていなかった。

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