第2話
わたしは結局、体育館裏のじめじめした日陰で昼食を済ませた。食べ慣れていたはずのカロリーメイトがいつも以上にパサパサしている気がして、飲みこむのに苦労した。
教室に戻ったら、あの3人にはどんな言い訳をしよう。パンが売り切れてしまい、コンビニまで行っていた、というのはもう3回も使ってしまった。4度目ともなると、そろそろ学習しろよと思われそうだ。
いっそのこと、本心を話してしまいたくなる。週に1度はひとりになりたい、と。たぶん理解してもらえないだろう。週に1度どころか、もうずっとひとりでいれば、と言われそうだ。
そう思いつつ、昇降口へ向かおうとし……ふと足を止めた。腕にかけているカーディガンが軽すぎる。
そりゃ、ポケットに入れていたカロリーメイトを食べてしまったから軽くなるのは当たり前だけど……いや、その前からかもしれない。
慌ててポケットを探る。右側には、空になった黄色いパッケージ。左側には――入れたはずの財布がない。
落としたかも。
しかも、温室から逃げ出した、結構序盤の時点で。
あと少しで昼休みは終わってしまう。今から温室に戻ったら、授業に間に合わない。
放課後になったら探しに行こう。そう決めた瞬間、頭上で予鈴が鳴りはじめた。
あの3人への言い訳はもういいや。教室にはギリギリで滑りこんで、うやむやにしてしまおう。
*
放課後、誰かに話しかけられる前に教室を飛び出した。混み合う前の昇降口を出て、昼休みに通った裏ルートを辿って、部室棟へと向かう。
あの子は……花を食べる妖精のような彼女はいるだろうか。
財布が見つかるかどうかよりも、そっちの方が気になっていた。
どうせお小遣い前だから、お札なんて入っていない。拾われて悪用される恐れのあるカードも入っていない。いつになったら溜まるか分からないポイントカードばかりだ。
昼休み、逃げてしまったのは、彼女と目があってしまったからだ。もし見つからなかったら、予鈴が鳴るまで時間も忘れて魅入っていたと思う。
彼女が透明になっているところを、いつまでも見つめていたと思う。
午後になり、日の当たり方が変わって、桜の木立の下は水底のように薄暗かった。それを過ぎ、部室棟のわきを抜けると、金色の海に飛びこんだかのように感じた。傾きかけた初夏の陽が、ここだけは昼間と変わりなく降り注いでいた。
そのまんなかに、陽の光が集まってかたちになったかのような温室が、きらきらと輝いている。
あった。夢じゃなかった。
止まりそうになる足を重々しく踏み出す。やっぱりガラスのドアは開け放たれている。
入り口からそっと覗きこむ。今が盛りと生い茂る植物に紛れるように、小さな横顔が見え隠れしている。
まだわたしには気づいていないらしい。わざと足の下で砂をじゃりっと鳴らしてみる。すると、彼女は細い肩をびくりと揺らして、こちらを振り向いた。
無言のまま、見つめあう。昼休みのつづきをしているみたいだ。そのときと違うのは、彼女の方から口を開いたことだ。
「これでしょ」
小さく、か細い声。まるで、ミツバチの羽音のような――聞こうとしないと聞こえないような声。
彼女の手には、3つ折りの財布が握られていた。わたしの全財産、数百円が入った財布。
わたしは1歩、温室に足を踏み入れた。
昼休みには気づかなかったけど、彼女は上級生だった。ネクタイが青いから、3年生だ。
「はい。拾ってくれてありがとうございます」
丁寧にお礼を言い、手を伸ばすと――彼女はさっと財布を遠ざけた。わたしの手は空を掴んだ。
「昼休みの……見たでしょ」
大きいつり目が、わたしを睨みつけてくる。黒なのか、銀なのか、それとも青なのか……はっきりと色が分からない瞳。その瞳に突き刺されたように動けなくなる。
「見たでしょ」
抑揚のない声で、繰り返す。わたしはどうにかうなずいた。
「誰にも言わないで」
くちびるをほとんど動かさずに、彼女は言った。まばたきも少なく、感情が読めない。いや、読ませないようにしているのかもしれない。
「約束してくれるなら、返す」
ええ、とわたしは眉を寄せた。どうやら、わたしは落とした財布を
いや、脅すというより……。
彼女の瞳に、少しだけ色が差した。
たぶん、懇願、みたいなもの。
「返すから……約束して」
脅しじゃない。やっぱり、お願いじゃないか。
「失礼ですけど、物で釣るっていうか、ダシにするっていうか、そういうのってズルくないですか? しかもそれ、わたしがただ単に落としただけのものだし」
先輩はぐっと言葉を詰まらせ、くちびるを噛んだ。人を信じたことがない猫のような目にも、少しだけ揺らぎが窺えた。
わたしの視線から逃げるように、生い茂る木の影に隠れ、先輩はそっと財布を差し出してきた。その瞳には涙すら浮かんでおり、急に悪役に回された気分になる。
「ごめんなさい……。脅してるつもりじゃ……なかったの」
ぎこちなく謝罪する声。わたしは慌てて手を振った。
「いや、わ、わたしの方こそすみません。拾ってもらったのに嫌な感じのこと言って……」
「そんなこと……悪いのはこっちだから……」
ふたりして謝りあう。まんなかにある財布が、何だか居心地悪そうにしているように見える。
手を伸ばし、財布を受け取った。先輩は切れてしまった蜘蛛の糸を惜しむように、目を背けた。
少し考えてから、そっと先輩に近づいて背を丸めた。そうしなければ、小柄な彼女と目をあわせられそうになかった。
「あの……最初から、先輩のこと、誰かに話す気なんてなかったですから」
「……ほんと?」
先輩は長い髪で半分顔を隠しながら、上目遣いで見上げてくる。白い肌に植物の緑の光が反射して、陶器のように青白く透き通って見えた。
「ほんとです。秘密にするって決めてました」
羽の色の美しさゆえに観賞用として乱獲され、やがて絶滅していった鳥が思い出された。人に知られたら、彼女もそんな運命を辿るのではないか。
鳥と人間では違いすぎるけど、そう思わせるような、人間離れした美しさが、彼女にはあるような気がしていた。
先輩は、最初こそわたしの発言を信じていないようだったが、最後にはようやく目をあわせてくれた。
「ありがと……。絶対、約束だからね」
青白かった頬に淡い笑みが浮かび、ほんのり赤みが差した。
花が開いた瞬間を見たかのように、わたしの胸は痛いくらいに高鳴った。
先輩は人を信じたこともなさそうだったのに、もうすっかりわたしを信用したのか、涼しい顔で花壇の縁に腰を下ろした。咲き乱れる花を眺めて、足をぱたぱたと動かしている。
時が止まったかのように、わたしはその姿を見つめていた。
先輩はそんなわたしを振り返って、少し眉を寄せた。まだいたの、と言いたげなへの字口。ぴたっと止まった足。揺れるロングヘアは、見慣れた今でもやっぱり何色か分からない。
そう、まだいた。ひとりが好きなくせに、自分でも驚くことにまだいたのだ。
そして、まだいたいと思っている。この人のそばにいてみたいと思っている。
落としたのが財布でよかった。
カロリーメイトの方だったら、諦めがついてしまい、先輩と会うのは昼休みが最初で最後になっていたかもしれない。先輩のことを思い浮かべながらも、行動には移せなかっただろう。
「先輩は、園芸部なんですか」
わたしは突っ立ったまま訊ねた。先輩は肩を丸め、首をすくめ、身体を小さくしてこちらを見上げてくる。
「そうだけど」
「他にも部員いるんですか」
「いないよ。あたしひとり」
先輩は何かを察したような顔で、さっと身を引いた。
「まさか、入部したいとか……」
「いや、園芸部に入りたいわけじゃなくて……たまに遊びに来たいなっていうか……そのときお邪魔になるのはいやだし、一応の確認で……」
先輩は戸惑いを隠そうともせず、視線を泳がせた。答えに迷っているというより、候補さえ見当たらないといった様子だ。
わたしだって、わりと戸惑っている。透明になれる場所を探していたのに、人のいるところに遊びに来たいなんて……まるで自分じゃないみたいで。
「こんなとこ……来ても楽しくないでしょ」
「たぶん、そんなことないと思います。まあ、先輩がいやなら、無理やり来たりはしませんけど」
先輩はしばらくうつむいて、何か考えこんでいた。手を握ったり、開いたり。大きく息を吸ったり、吐いたり。人生の岐路に立たされたかのような困惑ぶりだ。
さっきと立場が逆転してしまった。今度はわたしが脅しているみたいではないか。何かを質にしているわけではないけど。
いや、しているかもしれない。
先輩の、透明になれる時間を質に――。
慌てて取り消そうとした瞬間、先輩が猛然と顔を上げた。まっすぐな瞳に貫かれて、声になりかけた言葉が雲散霧消する。
先輩は覚悟を決めたような表情とは裏腹に、淡々とした口調で言った。
「あたしはナツメ。あなたは?」
ナツメ……夏目? 苗字だろうか。いや、夏芽っていう下の名前の可能性もある。そんな考えが一瞬のうちに頭を巡る。
わたしは結局、苗字を答えることにした。
「雪野、です」
ふぅん、ユキノ……。そうつぶやいた先輩の頭には、どんな文字が浮かんでいるのだろう。
ナツメ先輩はぎゅっと身体を縮めるようにうなずくと、睨みつけるように見上げてきた。
「来るときは、誰にもばれないように……こっそり来るんだからね」
ナツメ……「
勝手に決められているとは思いもよらないだろう。棗先輩はわたしの返事を催促するように、ますます目つきを鋭くして首を傾げた。
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