わたしの手紙を受け取ったアレクは、その日の夕方に屋敷へと来てくれた。

 サロンで出迎えたわたしの頬にキスを落としてから、向日葵の花束を差し出してくれる。


「ありがとう、アレク。急なお手紙をごめんなさい」

「君が呼んでくれるなら、いつだって駆けつけるよ」


 微笑むアレクの声はいつだって優しい。

 わたしはまたありがとうと告げてから、お茶を淹れ終わったメイドに向日葵を預けた。部屋に飾ってくれるだろう。


「それで、今日はどうしたの?」


 わたしの隣に座ったアレクは、わたしの紅茶にお砂糖を一つ落として混ぜてくれる。好みを知ってくれている彼は、いつだってこうしてわたしを甘やかすのだ。


「昨日……サフィ嬢と一緒に居たでしょう?」


 心臓が喧しい。

 意を決して問いかけた言葉はひどく小さなものだったけれど、アレクの耳にはちゃんと届いたようだ。その緑の瞳が驚きで丸くなっている。


「……見ていたの?」

「帰る時に裏庭を通ったから、その……ごめんなさい。でもすぐにその場を離れたから」

「謝る事ではないし、出てきてくれた方が良かったんだけど。そうだった……君はいつも裏口を使っていたね」


 カップを手にしたアレクはお茶を飲むけれど、その眉が困ったように下がっている。その様子に胸の奥が少し痛んだ。


「……アレクは、サフィ嬢が好きなのかしら」

「はい?」


 わたしは膝に揃えていた手の指先で、ドレスの布地をぎゅっと掴んだ。アレクの方に顔を向けられず、カップに満たされた紅茶へ視線を注いだままで。


「これは言わせて貰いたいんだけど、わたし、サフィ嬢に意地悪や嫌がらせなんてしていないわ。どうして彼女がそんな事を言うのかは分からないけれど。それはまぁ、別として……サフィ嬢はとても可愛らしい人だから、もしあなたが彼女に……」

「ディアナ」


 低い声で名前を呼ばれて、肩が跳ねた。

 いつものような柔らかさはなく、怒気を隠そうとしているような、そんな声だった。


「まさかとは思うけど……僕と彼女がお似合いだから、君は身を引くだとか考えてはいないよね?」


 問いかける形を取りながら、アレクの言葉は確定じみている。わたしがそう考えている事はすっかりばれてしまっているらしい。


「そう考えたのは間違いじゃないんだけど……待って、怒らないでちゃんと聞いて」


 わたしはゆっくりと息を吐きだしてから、アレクへと体を向けた。眉を寄せていても彼の美貌は変わらない。ただその緑の瞳が、怒りというよりかは不安に揺れているように見えた。


「サフィ嬢が可愛らしくて、あなたとお似合いだと思ったのは本当なの。昨日、彼女が言っていたようにわたしは醜いもの」

「ディアナ──」

「最後まで話を聞いて」


 怒ったように彼がわたしの名前を呼ぶ。彼はわたしが、自分を悪く言う事を好まないから。

 わたしは両手の平を彼に向けながら、言葉を一気に紡ぎ出した。


「でもそれでも、あなたを諦める事なんて出来ないのよ。あなたの気持ちをわたしが勝手に推し量って、別れを告げるなんて出来ない。あなたの事が好きで、これからもずっと一緒に居たいと思っているから。だからね、昨日サフィ嬢と何を話していたのか……あなたの気持ちがどこに在るのかを、あなたの口から聞きたいと思って」


 わたしを真っ直ぐに見つめていたアレクは、ふぅと深い息を吐いてからソファーの背凭れへと体を預けた。困ったように笑いながら、わたしの手をそっと握ってくれる。


「君が冷静に考えてくれて良かった。一方的に別れを告げられるなんて、そんな事にならなくて安心したよ」

「だってきっと後悔するもの。悲劇の主人公にはなれるかもしれないけれど、そんなのに酔うよりかは、あなたを手放したくないとみっともなくても騒いだ方がいい」

「みっともないなんて思わないよ。不安にさせてごめんね、ディアナ」

「いいえ、あなたが謝る事じゃないわ。盗み見みたいなものをしてしまったのが悪かったんだもの」


 アレクの手をわたしからもぎゅっと握った。伝わる温もりが心地よくて、それだけで気持ちが落ち着いてくる。


「それなんだけど、どうして最後まで居てくれなかったの」

「……あなたがわたしを悪く言うのを聞いていられなかったの」

「僕が君を悪く言うわけないでしょう。こんなにも可愛い婚約者なのに」

「可愛いなんて言ってくれるのはあなただけよ」


 肩を竦めて見せるとアレクは困ったように低く笑った。


「……サフィ嬢には、もう僕には近付かないように言ってある。僕の婚約者は醜くないし、意地悪な事だってしないってね。それから周りにいたあの彼らとの友情も終わりだと告げてきたよ」


 予想外の言葉に目を丸くしてしまった。

 アレクの心がサフィ嬢の元にないと、そう言ってくれたのは嬉しいけれど……友人だった彼らとの友情が、終わり?


「婚約者を悪く言う人と、仲良く付き合っていけると思う? 僕は無理だね」


 吐き捨てるようなアレクの様子に苦笑いが漏れた。でもわたしがもし逆の立場で、アレクを悪く言う人が居たら、その人との付き合いは考えてしまうだろう。だからそれについては何も言わず、ただ頷く以外に出来なかった。


 アレクはわたしを選んでくれた。

 わたしの事が可愛いと言ってくれた。


 相変わらず不釣り合いなわたしだけど……。そこではっと気付いてしまった。不釣り合いだと思うのなら、釣り合うように努力をしたらいいのではないかと。


「ディアナ?」


 わたしの様子に気付いたアレクが、わたしの顔を覗き込んでくる。長い睫毛に縁どられた緑の瞳がとても綺麗。艶のある金髪がさらりと揺れた。


「……わたし、もうやめるわ。逃げるのはもうやめにする」

「逃げる?」


 鼓動が早くなる。

 自分と向き合うのは怖い。変わっていくのは怖い。でも、アレクが傍に居てくれるのなら、わたしはきっと大丈夫。


「逃げていたのよ、今までずっと。本当は……可愛いものに憧れていたのに」


 ぽつりと零した言葉はまるで心を開く鍵のよう。少しばかりの気恥ずかしさはあるけれど、ずっと隠していた心を吐露するのは、思っていたよりも気分が良かった。でもそれはアレクが相手だからだって、分かっている。


「また同じことで傷つくのが嫌で、怖くて……興味のない振りをしていただけなの。わたしも可愛くなりたかった。綺麗なものを身に着けたかった。でも……笑われたらどうしようって、今更そんな事……って逃げていたの」


 わたしはソーサーとカップを手に取って、一口お茶を楽しんだ。広がるほんのりとした甘さがとても美味しかった。

 アレクに視線を向けると、緑の瞳を穏やかに細めながらわたしの話を聞いてくれている。その瞳に嘲りの色はない。


「着飾って綺麗になっていく女の子達も嫌いだった。でも一番嫌いだったのは、嫉妬していた自分。美しくなる子達が羨ましくて、嫉妬していたわ。きっと彼女達だって自分を綺麗に見せる為に努力をしていたのにね。わたしはそんな努力もせずに、自分は傷ついているからと嫉妬ばかりしていて……そういう意味では、やっぱりわたしは醜いのかもしれない」

「僕は……君のそういうところが好きだよ。自分を改めて、自分と向き合える君の強さが綺麗だと思ってる」


 わたしはまた一口お茶を飲んでから、カップとソーサーをテーブルへと戻した。それを待っていたかのように、アレクの手がわたしの前髪をそっと避けた。色違いの瞳が露わになるけれど、アレクは気持ち悪がったりしないと知っている。


「やっぱり綺麗だ。僕は昔から君を可愛いと思っていたよ」


 そう言って笑う彼も、やっぱり昔みたいに向日葵のようだった。

 わたしが恋に落ちた、あの日のような。




 それからわたしは大忙しだった。

 久しぶりにお茶会に参加する事に決め、それを目標に自分の姿を整える事にしたのだ。


 お茶会は一か月後。

 学園主催のお茶会は社交シーズンの始まりを告げる風物詩でもある。いつもは理由を告げて欠席するけれど、今回はそうはいかない。もう自分を誤魔化さないと決めたのだから。


 まず……母やメイド達に可愛くなりたいから手伝ってほしいとお願いをした。わたしの意思を尊重してくれていた母達も、わたしの心境の変化を受け入れて……喜んでくれた。

 流行りのお化粧、ドレスについて話すのはとても楽しかったし、綺麗なものに触れられるのは気持ちが上向く。ドレスを作るのにメゾンのマダムやお針子さんが屋敷に来る時にはアレクも同席してくれて、わたしに似合うものを一緒に探してくれた。


 今までしていなかった肌や髪の手入れ。艶々に煌めくようになるまではまだまだ時間が掛かるようだけど、指通りが良くなるだけでも凄く嬉しい。

 くすんだ色をしていた赤毛が色も鮮やかになっていくのだから、お手入れの大事さを実感するばかりだ。


 お野菜を多く食べるようにして、肌もお手入れをするようになると吹き出物もあっさりと消えた。頬に触れた感覚も変わって、かさついたりざらついたりもしなくなった。

 これに一番喜んだのはアレクだったりする。すべすべになったわたしの頬を触っては嬉しそうにしているから、それを見るとわたしまで笑ってしまうのだ。



 一か月の準備期間は忙しかったけれど充実していたし、とても楽しいものだった。相変わらず学園では長い前髪を下ろしているし、友人と呼べる人も居らずに過ごしている……いや、アレクと二人で過ごす時間が増えた気がする。

 わたしが一人で居るのを好むと知っていた彼は、今までも気に掛けてくれてはいたけれど不必要な接触をしてくる事はなかったのだ。アレクと居れば目立ってしまうから。でも気持ちを零したあの日から、アレクはわたしと過ごすようになった。


 他の人が好奇の視線を向けてくるのは知っているけれど、前よりも気にならなくなった。この先に参加するお茶会ではもっと視線を向けられるのだから、前髪で顔が隠れている今から気にしていては心がもたない。



 そんな時間が日常となり始めた、ある日の事。

 その日はアレクが家の都合で欠席をして、わたし一人で過ごしていたのだけど……もうあとは帰るだけという時間になって、サフィ・メルレットに呼び止められてしまったのだ。


「ディアナ様、お願いがあるんです」


 胸の前で両手の指を合わせ、眉を下げてわたしの事を見つめているサフィ嬢は、今日もとても可愛らしい。

 潤んだ青い瞳に見つめられながら、わたしは首を傾げて見せた。お願いされるような事なんて何もないはずだけれど。


「……何か?」

「今度のお茶会、わたし……アレク様にエスコートをお願いしたいんです」


 アレクに、エスコート。

 心の中で言葉を反芻すると、もやもやとした気持ちばかりが湧き上がってくる。


「……どうして?」

「アレク様にずっとお願いしているんですけど、断られてしまって……。ディアナ様はまた・・欠席なさるんですよね? ディアナ様からもアレク様に言ってほしいんです。私をエスコートするようにって」


 婚約者のいる男性が他の女性をエスコートするなんて、その意味が分かっているのだろうか。


「ね、いいでしょう? アレク様はお茶会に来てもすぐに帰ってしまうんですもの。私、もっとアレク様とお話がしたくて……」

「それは、アレクの婚約者であるわたしに言う事ではないと思うわ」

「え? でも……いつまで婚約しているんです? アレク様にディアナ様はちょっと……ねぇ?」


 気の毒そうに笑うサフィ嬢の瞳が、愉悦に揺れたのが分かった。自分の魅力を知っている人が、他人を格付けして浸る優越感。


「わたし、次のお茶会は参加するの。もちろんアレクのエスコートでね」

「そんなにも醜いのに?」


 薄布に包まない直接的な言葉はさすがに響いた。言った本人はさも当然とばかりに不思議そうに首を傾げている。


「聞きましたよ。小さいときに開かれたお茶会では綺麗なドレスを着ていても不細工だったって。隠しているけどその瞳だって気持ちの悪い色なんでしょう? それにディアナ様ご自身も、着飾るのが好きではないと言っていたそうではありませんか」

「それはあなたには関係のない事よ。ごめんなさい、気分が悪いからもう失礼するわ」


 悪いのは気分なのか機嫌なのか。どちらにせよ、この場からさっさと離れたかった。

 踵を返そうとするわたしの足が止まったのは──サフィ嬢が両手で顔を覆いながら大きな声で泣き出したからだった。


「ひどい! どうしてそんな意地悪言うの!」


 意地悪? むしろ言われたのはわたしの方じゃ……。

 私が唖然としていると、裏庭の陰に居たのか二人の男性が駆けてきた。見覚えのあるその二人は、幼い頃のお茶会でわたしを侮辱した人達だ。幼い頃は高位貴族の取り巻きをしていたけれど、いまはサフィ嬢に夢中らしい。


「おい、ディアナ・キーデンス! サフィに何をした!」

「何もしていないわ」

「ディアナ様が……っ、わたしに意地悪を言うの……」

「意地悪なんて言っていないわ。アレクにエスコートをするよう言ってなんてお願いされたから、それを断っただけよ」

「それを意地悪と言うんだ! どうしてサフィの願いを叶えてやらない!」


 二人ともサフィ嬢を背に庇うようにしながらわたしを責め立ててくる。

 この人達は一体何を言っているんだろう。


「婚約者のいる男性にエスコートを願う事は非常識でしょう」

「そんな言い方、ひどいです……っ!」


 サフィ嬢の泣き声はどんどん大きくなっていく。隠せない溜息をついたわたしは、「失礼するわ」と告げてその場を離れようとしたのだけど……不意の衝撃に耐えられず、その場に膝をついてしまった。

 顔を上げるとわたしを強く睨む男性が見下ろしている。そこでようやく、突き飛ばされたのだと理解した。


「見目だけでなく性根も醜いな。アレクもお前みたいな不細工が婚約者で嘆いているだろうよ」

「アレクを思うならさっさと解放してやる事だな」

「……余計なお世話よ」


 立ち上がったわたしは手の平についた土を軽く払い、気にしていないとばかりに平静を装いながらその場を立ち去った。

 内心では、もう……腹立たしくて仕方なかったけれど。


 裏口に止まっていた我が家の馬車に飛びこんだわたしは、自分が泣いている事に気付いた。悲しいわけじゃない。悔しいのと……怒りだ。

 絶対に見返してやる。その気持ちでいっぱいだった。



 アレクにはさらっとだけ、サフィ嬢の事を伝えておいた。『エスコートを願っていたけれど断った』と、それだけを。

 嫌な思いをさせてしまった、とアレクは謝ってくれたけれど……別にアレクが悪いわけじゃないもの。だからもう、その話は終わりにした……つもりだったのだが。


 手の平を擦り剝いている事に気付いたアレクが、今にもあの三人のところに乗り込んでいきそうな勢いで怒ってしまって、それを宥める方が大変だった。

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