提灯と雨垂

夜永

第1話

「降ってきたな」


雨粒が窓を叩き始めたことに気が付いた。窓の外に目をやると、白かった空は黒に近づき、コンクリートの色を徐々に変え始めていたところだった。


「何もわざわざ祭りの日に降らなくてもなあ」


今日は八月七日。近所の公園で毎年お馴染みの夏祭りが開かれる予定だった。しかし、これではたこ焼きも焼きそばもりんご飴も楽しむことが出来ない。かき氷なんて、雨か氷か分からなくなるのが目に見えている。


「楽しみにしていた子供たちが可哀想だ。君がこんな所で寝込んでいるからじゃないのか?」


皮肉のような冗談を言うと、彼女はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。十年前から変わらないこの笑顔は、小悪魔のようでどこか憎めない、彼女だけが作ることの出来る表情だ。


「そうかもしれませんね。きっと私がいない夏祭りなんて面白くないって、神様が駄々を捏ねているんですよ」


そう言うと、彼女は視線を窓から白い天井へと移した。

無機質で殺風景なこの部屋に入ってから一ヶ月。医師から余命宣告を受けた時は、何も出来ない自分の無力さと、何も見えない空間を彷徨い続けている様な不安と、この運命に対する憎悪と、今まで感じたことのない絶望でどうにかなりそうだったが、前例の無い回復を見せ、今では笑い合いながら会話をする事が出来るようになった。まさに「奇跡」であると、担当した医師は目を丸くさせながら私にそう告げた。


「あら、今日はいつものように『神はいない』などとは言わないのですね」

「まあな。何をしても無駄だと言われていた君の病を治すことが出来る者など、きっと神ぐらいだろう。感謝してもしきれない。あの日から私は毎日天に向かって頭を下げているよ」

「そうですか…。ふふっ」

「何がおかしいんだ」

「いえ、あんなに非科学的な存在を嫌っていたお人がその対象に頭を下げる日が来るなんて…と考えたら、少しおかしくなっただけですよ」

「いつになったらあの頃の私を忘れてくれるんだ」

「絶対に忘れませんから。ほら、昨年の初詣の時だって…」

「おい!その話は恥ずかしいからやめろっていつも言っているだろう!」

「ふふふ」


彼女とこんな冗談をもう一度言い合える日が来るなんて。白黒の世界に、ようやく色がつき始めたように見えた。止まっていた時が動き出したことを感じた。


「ああ、そうだ。君に渡そうと思って用意してきた物があるんだ」


少し色褪せた茶色い鞄から、私は一輪の花を取り出した。小さいけれど美しい、紫色の花。


「わあ、可愛らしいお花ですね。これは?」

「エゾギク。アスターとも言う。夏、七月から八月にかけて開花する花でな、丁度近所の花屋に置いてあったから貰ってきたんだ。花言葉は…紫のエゾギクは『恋の勝利』『私の愛はあなたの愛より深い』だ」

「あら。私の愛は相当深いものですけれど、それよりも深いと言うのですか?」

「私の方が、と自信を持って言えるよ」

「いやいや、私だって…」


まるで付き合ったばかりの頃に戻ったような、甘酸っぱい水掛け論を繰り返した。この時間が永遠に続いてくれと、心の底から願った。

彼女の目を見つめながら微笑むと、倍の笑顔で返してきた。いつの間にか、雨の音は聞こえなくなっていた。


「私は本当に幸せ者です。貴方の妻になれて良かった」

「何を言うんだ。これからもたくさん幸せだと言い合って、笑いながら過ごしていこう」

「…そうですね。あなたに涙は似合いませんもの」


そう言った後、彼女は小さな間を置いてから、そっと口を開いた。


「ねえ、あなた。お願いがあります。私のことを、忘れないで欲しいのです」

「何を言っているんだ。一緒に暮らす人間を忘れる訳がないだろう」

「…何か悲しいことがあった時は、私に慰められた時を思い出して笑ってください。辛いことがあったら、私に励まされた時を思い出して笑ってください。たまに私の写真なんかを見返して、微笑んでください。私のことを、どうか頭のどこかに置いていてください。愛した人に忘れられるのは、死よりも辛いことなのです」

「おい、待て。急に何を言い出すかと思えば、なんだ。忘れるだの死だのと縁起悪い言葉を並べて。これからも、ずっと一緒だろう」

「…約束してください」


鋭い眼光が私を刺す。寂しさを帯びた瞳が、ふざけているのでは無いと訴えかけてきた。


「…わかった。約束しよう。一生、君のことを忘れないと」

「ありがとうございます。ところで、少し休んだらどうですか。ここしばらく、私に付きっきりだったのでしょう。疲れを隠せていませんよ」

「む…すまない。ロングスリーパーが裏目に出たようだ。じゃあ、少し睡眠を摂らせてもらっても良いか?」

「ええ、勿論。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

「…あなた」

「なんだ?」

「愛していますよ」

「…俺もだ」


彼女が優しい笑みを口元に浮かべたのを見て、私は瞼を降ろした。


どれくらい眠っていただろう。目を開けると、跡のついた腕枕が見えた。

窓の外が五月蝿い。まだ止んでいなかったのか。梅雨は終わったのに、最近は雨続きで嫌気が差す。

顔を上げると、綺麗に整理されたベッドが置かれていた。大きいのに、何も乗っていないからか、とても寂しい物体に思えた。


私の愛した妻は、二日前に亡くなった。誰にも治すことの出来ない難病を患い、苦しみ、もがいたが、彼女は死んだ。神などいなかった。天からの救いの手は、差し伸べられることは無かった。


花瓶の中で、紫色と桃色のエゾギクが静かに佇んでいた。私は、さっきまで見ていた夢を、頭の中で再生していた。これ程鮮明に覚えている夢は、今まで無かっただろう。

きっとあれは、この世を離れた彼女からの、最後のメッセージだったのだと思う。

愛した人に忘れられるのが死より辛いだなんて。私にとっては、君の死がこの世界の何よりも辛い事だというのに。

私は必死に涙が溢れるのを堪えた。涙腺が壊れるのではないかと思うくらい目に力を込めた。気を緩めると止まらなくなるだろうから、自分の太腿を抓り気を紛らわせた。

泣くな。

泣くな。

それが彼女の望みなのだから。笑顔を絶やさないでと、そう願っていたのだから。


病室を出て、すれ違う看護師さんに会釈をされながら出口へと歩いていった。ビニール傘を開く気力もなく、重い足を引きずって雨雲の下に出た。雨とも涙とも分からない水で、顔面が濡れる。


気がつくと、私は家の近くの公園まで進んでいて、雨は止んでいた。今晩使われる予定だった屋台にはブルーシートがかけられており、片付けることが出来ない提灯たちだけは、そのまま取り付けられていた。

提灯の輪郭をなぞって、雫が地面に落ちていく。それはまるで涙のようで、私の代わりに流してくれているのだと思えた。


雲と雲の僅かな隙間から、細い太陽光が私を照らした。それだけでこの傷が癒えるはずがないが、その光を彼女だと思うと、自然と心は和らいだ。

雨は、いつか止むのだと、そう微笑む彼女の顔が、私の脳裏に浮かんで、消えた。

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