第15話

 病院から退院そうそう学校へ向かっている訳だが、もう一度病院で診察をしてもらった方がいいのではないのかと思い改めていた。やはり味覚が無くなったという事実は変わらないし、さっき食べたばかりだというのにもう空腹が体の奥底からこみあげてくる。私の脳内に「食せ食せ」と信号を発信する。

誤解のないように言っておくがこれは私が食いしん坊だからという訳ではない。いや、食い意地は張っているとは友達にも言われたことがあった。

ファミレスで友達が残した料理を見て「食べないなら私がもらってもいい?」とよく聞いて「いや、これは好きなものを最後まで残しているだけだから」とよく他人の食事にも手を出そうとすることは何度かあったんだけど、今はなんというか何を食べても満たされていない。

腹の中にはたくさん詰まっているはずなのに、まるでどこかに穴が開いているみたいでどんどん中身が外に出ているんじゃないかと。なんだか想像したら気持ち悪くなってきた。

やっぱり病院に戻ったほうがいいんじゃないかな?

「ちょっと魅味?気持ち悪そうだけど大丈夫?」

車内のミラー越しで後部座席の私の表情をみる母が声をかける。どうやら私の妄想が顔に出ていたらしい。

平気だよ。何でもない。何とも安い笑みを浮かべながらミラーの母の目を合わせる。

「ちょっとあの病院食の事を思い出していただけだよ。」

「何だい?また私への悪口かい?」

「違うってばそうじゃなくて。」

まあ、半分は正解なんだけど。

「なんだかあの病院食、味がとても薄かったなあと思って。」

「病院食なんて味が薄くて当然じゃない。」

呆れた口調で物申す母。

「病人に塩分が濃い食事なんて出したら血糖値が上がって体に害だよ。それに味付けが濃くて美味しすぎるものほど栄養価が少なくて毒だと思うけどね。スーパーで売っている弁当とか裏を見てみなよ、砂糖まみれじゃん。ただの野菜炒めに砂糖なんか必要ないって」

たしかに納得できる内容だ。

「塩振って出せば十分」

捨て台詞を吐くごとくきっぱりと断言するが、手を加えることを放棄した食事はそれはそれで別の楽しみが失われているような気がする。

本当に食を愛している父親とこの完璧論理主義者の母親がなぜ結婚したのかが分からない。

この母との微妙にかみ合わせの悪い会話もいつも通りで落ち着く。

病院で安静にしているときよりもよっぽど肩の力が抜けている。

窓の外には見慣れた街並みを駆け抜け、もうすぐ目的の学校へと到着する。いつもなら私と同じ制服を着た学生が何人か通学するのを見るがとっくに登校時刻を過ぎているこの時間帯には学生らしき人は誰もいない。

いつもの町も時間が変わればこんなにも景色が変わることをこの時初めて学んだ。

知らない景色。

知らない時間。

知らない母と父の出会い。

知らない事はまだまだある。

知らない味。

知らない違和感。

知らない夢。

知らない夜。

この数日で私は今見ている景色も含めて新しい経験をしてきた訳だが、何も知れてはいない。

知ったと知れたとでは大きく差がある。

知れたは新しい未体験な事や知識などを自分なりの言葉に咀嚼し他人に伝えられるようになる事で、知れたは断片的でも未知のものに触れただけで何も理解せず口の中に入れてもいない状態だ。

初めて見る料理のレビューでいくら魅力的な文章で味を伝えたとしてもそれは知れただけで何も知れていない。

実際に料理を目の前にして香りを楽しみ、口に含んだ触感を感じ、箸やスプーンを使って料理の手触りを実感し、皿に盛りつけされた彩りを見て感動し、噛んだ時の咀嚼音のハーモニーを聴き、全ての五感をフルに使った時に初めて知ったと言える。

「本当に美味しい物ほど言葉を失う」なんて言うリポーターやライターはとても許せない。私には味音痴で苦し紛れの逃げセリフだとしか思わざるを得ない。

本当に美味しさを理解しているのであれば正確に言語化が出来ているはずだからだ。

意味ありげな深そうなセリフは料理人に対して不快だ。

味も表現することができない人が一体誰の耳に届くのだろうか。

つまり何が言いたいかというと。

ここ数日の奇妙な体験は確かに私にとっては新しく知れた体験ではあったが、それが何だったのかこのモヤモヤした感情を説明できない状況では知ったとは言えないという事だ。

とどの詰まり、母や友人達に話しても上手く説明も出来ないだろうし信じてももらえないと思う。

「ちょっと魅味。魅味ってば。」

突然大きく揺れる私の肩に母の手でつかまれて、大きな声で何度も名前を呼ばれ思わず。

「うわっぁ、ビックリした。」

思わず声を上げてしまった。

「もしかして私寝てた?」

「目見開いて、ばっちりと起きていたわよ。ずーっと外を眺めながらぼーっとして、何度話しかけても返事がないんだから。」

何度も呼んだ?本当に?

「で、どうしたの?」

「どうしたの?って。ほら学校着いたわよ。」

助手席から前かがみになって母を視界から外し運転席の向こう側を見ると、見知った学校が見える。とても静かな学校の風景が。

どうやら私が頭の中で思考を巡らせている間にいつの間にか目的地に到着していたらしい。感覚ではあと30分程かかると思っていたのだけれども私の体内時計は当てにならないみたいだ。カップラーメンの待ち時間は外したことないのに、つくづくと限定的な能力だ。

母に更なる不安な表情が増え、手を握り目を合わせる。さすがにここまでかみ合わなければ心配になるのも無理はない。

「ねぇ、本当に大丈夫?なんなら今日も休んでもいいんじゃない?」

大丈夫だから。

そんなに迫られると心が疲れてしまう。いつもの雑な朝食のように淡々といってらっしゃいと声をかけてくれればそれでいいのに、普段は見せない顔で見つめられるとどう受け止めていいか分からなくなってしまう。もっとクールだったでしょう。

私達ってそんな距離感だったけ。

目を合わせることなく私はありがとうと言いそのままドアを開け外に出る。

乱れた心でおそらく動揺しているであろう表情を見せたくないので、歩く速度を速めて学校へ向かうと後ろから車のクラクションが鳴り振り向いてしまった。

振り向いてしまったんだ。顔を見せないように注意を払っていたはずなのに急に大きな音が鳴り響いたら条件反射でそれは振り向いてしまうじゃないか。

運転座席の窓を開け肘をつき私に向かって

「元気でな」

たった一言そう告げた。

まるで今生の別れを告げるかのようなセリフのようなかっよ良く聞こえるが、そこは「学校で何かあったら連絡しなさいよ」などと更に追い打ちをかけるのが自然な流れのはずなのに。私の母は時折こんな行動をとってドキドキする。

この違和感で乱れた表情にはプラスして口元が開いて

「うん、行ってきます。」

と笑顔で一言だけ返事をして再び学校へと体を回転させた。

校舎を見上げると窓際の生徒が何人かこちらを見ていた。辺りをよく見渡してみると多数の生徒が私を見ている。今は授業中のはずなのになんで外を見ているの?黒板を見てよ。

まあでも、静かな授業中に急に爆音でクラクションを鳴らしたらそれは注目するよね。でも、そんな面白い物でもないし面白いことなんて出来ないよ。そう思っていると更に様子を見ようと窓一面に人の顔が映っているようでギャラリーが増え続けている。

「なんで増えるんだよ」

これはこれで恥ずかしい。これも母が元凶だ。

その母だが振り向くともう車はなくエンジン音が遠くなるのが聞こえる。

せめて娘が校舎の中に入るまで見送ってもいいでしょうが。

まったく母はしょうがないんだから。

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