第14話
目を閉じていると暖かな熱を私の瞼に当たり眠りを覚醒させる。目が覚め起き上がるあらゆる角度から光が反射して部屋中を明るく照らし出している。ここは何処だと一瞬思ったが目の前にあるテレビを見て思い出す。ここは2日前からお世話になっている病院の1室なんだ。昨日までの薄暗いイメージとはまるで一変しとても居心地のよい空間だ。以前までは何かを訴えかけているかのような存在を放っていたテレビも今ではただの無機物としか認識しない程に力を無くしているように感じる。
「お腹空いたな。」
頭の中ではいろいろな思考が巡っているようだが、どうやら空腹には逆らえないようだ。
まだ体中に血液が巡っていない重い体を起き上がらせ、服を着替える。
今日から退院する事ができるので、私服に着替えてこの患者服ともおさらばだ。結構寝心地がよくて好きだったんだけどね。
「神崎さん、おはようございます。」
しばらくすると看護婦から食事が届けられる。
ご飯、卵焼き、みそ汁、焼き魚、ほうれん草のおひたしが本日そして、私にとってはしばらく食すことができないであろう最後の朝食だ。
いただきますと、手を合わせ箸を持ち最高の朝食を味わう。一口一口と口の中でしっかりと噛み締め味わう。素材からあふれる旨味のエキスをその小さな口の中でじんわりと味わう。
突然涙が出た。
料理が不味かった訳ではない。だからと言っておすすめ出来るほど美味しい訳でもない。見てわかる通り、本来汁物やご飯は多少でも湯気が立っているもので温かいはずなのに、病院食というのは冷めきっていて全く湯気が出ておらず温かさを感じない。実は料理を美味しく見せるのに湯気を出すのにはしっかりと意味があることなのだ。人は動いている物を本能的に魅力的に感じたり、美味しそうと感じるんだそうで、湯気が出ることでまるで料理が動いているように見える為、美味しく感じるんだそうだ。分かりやすく例えると、ピチピチと跳ねている活きのいい魚と、全く動かない魚どっちの方を買いたいというと圧倒的に前者の方が多いと思うはずだ。
そんな事はさておいて、そうではない。
料理が美味しい美味しくないではないのだ。明日からまた母親が作った超効率時短料理の朝食の日々が始まり、いつもの漫才みたいな日常の虚しさに絶望した訳でもない。
1品1品まるで何かを探すかのように食材を観察し、そしてゆっくりと咀嚼を繰り返す。そのスピードは次第にゆっくりと噛むようになり、口の中で転がす。飴を最後まで舐めきるようにゆっくりとゆっくりと。
目に力が入り視界が揺れ動く。信じられない事が起きている。
美味しいが判断できない。
味付けが薄いなんて話じゃない。
味を感じないのだ。
お米を嚙むたびに感じる糖の甘みも。
魚から感じるほのかに感じる塩気も。
野菜から伝わる土の風味も。
口の中で伝わることなくただ単に胃の中に運び込まれてしまったことに。
こんな事は初めて。体調が悪くなると味覚機能が低下して食材の味が変わることはあるが、だけど何も分からないなんて。
「嘘でしょ、どうなっているの私」
小さい頃、ティッシュで鼻をかんだ時に誤って口の中に入ったことがあった。その時の触感はザラメいていて、とても舌触りが悪く不快な気持ちになり、非常に抜けた味わいだったのを覚えている。
例えるならあの味に似ている。
「どうして突然こんな...」
眉をひそませ手で口の中を見せないかのごとく塞ぎ困惑する。
「いいえ、突然なんかじゃない。体の傷だって。」
そう、体にはたしかにナイフで刺された傷跡があったはずなのに消えている。証拠なんてないけど確かに記憶の中ではあったんだ。恐怖とともに刻まれた傷跡が。
謎が不安を呼び起こし、体から力が抜けていく。
すると、またひとつ妙な異変を感じた。ここまで異変だらけでこれ以上何を感じるんだと思うだろうけどどうか分かってほしい。いくら味気のない食事でも、その固形物はお腹の中でゆっくりと消化されると同時に体の重みをしっかりと感じるし、いつもの寂しい朝食でも腹は満たされていた。今回はそれよりも確実にボリュームのある料理のはずなのに、空腹感は全然満たされていない。なぜだ。
いつもの味気のない食材2つだけでも空腹に悩まされることなど一度もなかったはずだ。卵に煮干しだけでも午前中は難なく過ごせるし、こんなすぐになんて。今回に限っては十分過ぎるほどのボリュームだ。足りないはずがない。
「それに…」
それにだ。
「どうしてだろう、あの先生とすれ違った時に感じた匂いが今でも思い出してしまう。なんだか美味しそうに思ったんだよね。でも、それがよく分からないだよね。」
昨晩、真夜中の病院を徘徊してすれ違った男性の先生。
人個人がそれぞれ持っている特有の香りとはまた違う、別の香りが脳内に記憶され忘れられない中毒性を持っているようだ。今まであらゆる料理を食し香りを堪能し、記憶の中の情報を照らし合わせてもヒットするものはない。近しいものといえば、肉料理などに使われていそうな優美な香りだ。だが、上手く説明はできそうにもない。歯車がかみ合わず更に頭を悩ます。
「美魅、体調はどうだい?」
ノックもなしに扉が開かれ、前触れもなく母がやってきた。
「お母さん…」
私の顔を見た母の顔は一瞬で瞼にしわを寄せ、さほど遠くもない私との距離を急に詰めてきた。
「どうしたんだい。どこか痛いのかい?」
「ううん、違うの。どこも痛くないよ。だけど...ね」
なぜだろう。「私の体やっぱり変みたい」とは言うことが出来なかった。ここで伝える事がきっと正しいはずなのに、母をこれ以上心配をかけさせたくないという気持ちが胸の中で膨らんで、私の口を重くする。
異常だ。
伝えたい。必死に言葉を紡ぎ合わせ口を動かした。
「今日から学校やバイトのみんなと会えると思うとなんだか嬉しくなっちゃって。それにこの病院食ともこれで終わってまたお母さんの手抜き朝食を食べる事になるんだなぁと思って。」
「たった数日休んだくらいで何を言っているのよ。それに、そんなに食事に文句があるなら自分で作りなさいよ。ほら、さっさと支度しなさい。学校まで送っていってあげるから。」
そして、病院を去り車で学校に向かった。
この事実、この異変を話さなかったのはきっと正しい判断なのか後悔する事になるのかはまだ分からない。
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