第10話

 眠りに入る直前には色々な景色が見えてくる。瞼の裏の映写機に出される映像を観るといつも幸せな気持ちでいっぱいになる。今日出会った嬉しい出来事に浸ったり、明日を楽しむための未来予想を描いたり、小さな幸せを感じることで幸福感が満たされリラックスした睡眠が出来るからだ。

もちろん嫌なことや辛いことがあってもそれは今日まで生きてきた私の人生のほんの些細な事できっと、しばらくしたらフィルムはいつのまにか劣化してこの中には残らなくなるだろうと思う。

目を覚まして瞼を開けると眩しい光が私の心を照らしてくれて幸せな一日のスタートを切り開くことができる。

だから、早く目を開けないといけないのに、いけないはずなに、何だか目を開きたくない。

怖い。

現実が私との距離を広げようとしているようだ。

私が拒んでいる。一体何から?

暗くて何も見えない。両腕を前に出し左右に振り辺りを探る。

「ここはどこ?」

すると手にパリパリとした触感が伝わり強く握りしめた時、上半身が急に起き上がった。

握り取っていたものはシーツで少し汗ばんで濡れていた。ようやくベットで寝ている事に気付いたがこれは私の知るベット出はなく、私の知る部屋ではなく、私の知る朝ではなかった。

色気のない白を基調とした床や壁で囲まれた冷たい部屋。小さなテレビが1つあるだけで他には家具家電はなくとてもスッキリとしている。

「ここは病院?どうしてこんな所に?」

知らない世界に戸惑いながら周りを見渡すと、扉が開き良く通る聞きなれた声を上げながら入ってきた。

「あら起きたのね、おはよう美魅。」

母は袋を片手で持ちながら、いつもと変わらない表情と声で私の名前を呼びベットにゆっくりと腰かける。

「おはよう、お母さん。ねえ、私どうして病院にいるの?もしかして何か病気?」

「病気なんて私と生活を共にしていて見ていて見落とすとでも思っているの?私一応医者よ。」

目を細め呆れたように視線を合わせながらニヤニヤと笑いながら私を見る。姿勢は胸を張りなんとも自信に満ちていた。流石は医者であって頼りになる。

「それよりもあんたはいつも遅くまでバイトをして、外食ばっかしているから栄養が偏っているんじゃない?もっとバランス良く食べないと本当に体壊すわよ。」

前言撤回。

成長期の娘の朝食に卵と煮干しだけで済まそうとするなんて栄養を語る割りにはあまりにも雑なメニューではないか。もっと緑ある食事の方がよっぽど栄養価が高いと思うのだけど、これは母の栄養の知識を疑わざるをえないな。仕事は本当にできているのだろうか。

そんな母の疑惑をかかえながらも、気になる答えが聞けていない。

病気ではないのだとしたら、私はどうして病院にいるのだろうか。

「じゃあ私どうしてここにいるの?」

母と目を会わせ確信に迫ろうとする。

「あんた本当に覚えていないのね。昨日道で倒れていたのよ、しかもすぐ側で男の死体があって。警察から電話があった時は心配で仕方なかったわよ。あんたは無事で何よりだけど。」

母の声のトーンが徐々に下がっていく。良く見ると目の下にくまがくっきりとしていて、ほとんど寝ずに付き添ってくいれていたことが分かる。いつもと変わらぬ態度で交わしてくれていても、知らないところでちゃんと心配してくれている愛が伝わった。

「昨日?男?死体?」

3つのキーワードには何か引っ掛かるものがあるがそれが何故気になるのかが分からない。頭の中で記憶を探るが霧で覆われていて上手く探せない。

昨日の出来事と言えばバイトが終わってそのまま帰りにスマホで次のレストランを探していてそのまま。

そのまま...

そのままどうした?

そのあと病院に運ばれた?

急展開過ぎてついていけない。頭の中は更に濁ってしまう。

「ごめん何も思い出せない。」

「そう。でも、本当に何もなくてよかったわ。」

母は深く息を継ぎ、私の手の上に重ねた。手から伝わる熱は私の体温と重なりとても安らぎを与えてくれた。久しぶりに母と肌を合わせた瞬間だった。

そのまま母は立ち上がり窓を開け手を空に向かって両腕を伸ばし日差しを身体中に浴びる。

「さあ、大した怪我も無かったんだし、早く退院して学校に行くわよ。」

口元を思いっきり開きお日様のような笑顔で私に微笑みかける。

「うん、そうだね。バイトのみんなや友達にも心配はかけられないからね。」

「そう言えば朝食買ってきたよ。これでも食べて栄養をつけな。」

さっき持ってきた袋には食べ物が入っていたのか。

「そんな、別にいいのに。病院って病院食とかあるんだから、わざわざ買ってこなくてもいいのに。」

軽く冗談混じりで隠すも、気遣ってくれる心遣いにはやっぱり素直に嬉しい。軽く開いた口がなかなか閉じない。

袋から1個1個私の目の前のテーブルに用意される。

本日の朝食。

卵2個セット。煮干し1袋。

開いた口がなかなか閉じない。冗談でしょ?

やっぱり母にとっては私は猫にしか見えないのだろうか?私このメニューに満足したことがないんですが。

あまりにも堂々とした態度なので本人は真剣なのだろうと思うのだけど。

「お母さん。私前にも言ったけども、もっとボリュームのあって色があった方がいいと思うんだけど。」

「そういうと思ってもう一つ用意してあるよ。」

ほっと一息をつき、期待をする私。

リンゴ1個が煮干しの隣に置かれる。

「私は減量中のボクサーか」

突然のツッコミに反応に困惑する母。これはボケているのか、ツッコミを期待しているのか疑問だったが顔を見る限り分かる。

母は大真面目だ。

「良く言うでしょ?1日1個のリンゴで医者いらずって。リンゴには体の免疫力の向上や若さを保ってくれるポリフェノールが豊富なのよ。だから病気の予防や栄養不足の時にはとりあえず食べるのがオススメよ。怪我の治りも早くなるわよ。」

怪我なんてしていないのだが、たしかに母は年齢の割りには周りの同年代に比べてシワが少なく若く見える。私の記憶では母は1度も風邪を引いているところを見たことがないのだから説得力がある。

それにしても。

「医者が医者を必要としない方法を教えるなんて大丈夫なの?そんなことをしたらお母さんの仕事無くなっちゃうよ。」

皮肉混じりでからかう私。

「大丈夫だ。人間は完璧じゃない。悲しい事にいくら改善する為の助言を伝えたところでそれを守れる人なんてほとんどいやしない。絶対にどこかでズルをして怠けて楽をして、忘れた頃にまた同じ過ちを繰り返して私の所に助けを求めに戻ってくるものさ。」

どれほど人が怠惰で理不尽なのかを知らしめるような悲しい話だ。きっと何百人との悩める患者を見てきたからこその台詞だろう。

少し母の人間真理の話に関心するも、やっぱり問題の朝食のレシピには抵抗がある。

部屋の外から廊下を通る看護師さんが患者さん用の病院食を運ぶ様子が見える。

日本人なら誰しも親しむ味噌汁の香ばしい香りに釣られて体が追いかけてしまう。病院食なんて決して写真映えなんてしない質素なメニューではあるけども、こんないかにも減量食よりかは遥かに食事の楽しみがあるはずだ。

卵に煮干しにリンゴの素材そのままなんて、「減量食」と言うよりは「原料食」と言い直した方がいい。

米が食べたい、パンが食べたい。簡単に手には入るはずなのになぜ叶わない。

「なんで病院に居てまでこのメニューなの?普通にご飯が食べたいよ。」

「病院食が健康にいい訳ないじゃない。」

医者の口からは聞きたくない台詞が次々と吐き出される。

「未だにマーガリンなんて油使っているのよ。健康にどれだけの影響を与えるのかを分かっていない。海外だと有害指定で禁止にすらされているのに不思議な国よね。少しでも病人を長く留まらせて入院費を頂こうという魂胆かしらね。それに,,,,,,」

母の愚痴が止まらない。私以上の健康オタクぶりの論説はしばらく続きそうだったのでやむを得ず。

「分かった、分かった、食べます、お母さんが私の体を思って用意してくれた物を食べますから。」

今は毒でもいいから美味しいものを食べたいはずなのにこれ以上聞いていると何やら知りたくもない情報まで知りそうだったので歯止めをかけることにした。

母は「そう」と軽く息を吐きながらリンゴを手に取る。バックの袋の中から携帯用の小さなナイフを取り出す。プラスチックで子供でも使えそうな安全性に長けたナイフだ。リンゴを切るために。

だから、何も恐れることなんて無いはずなのに、こんな他愛もない日常の光景のはずなのに、急に胸が苦しくなる。

手を乱暴にベッドに擦り付け後ろへと後退する。壁に当たっても尚も引き下がろうとする。

「どうしたの?」

我が子の動揺に小さく声をかけ、迫ってくる。その手に持つナイフの先端を向けながら。

「イヤ」っと何とも頼りない少女の唸り声を上げ頭のなかで薄暗い映像が流れ出す。激情した男の顔に1本のナイフが私に向けて頭を貫かれる瞬間を。

頭を抱え思い出す。この数秒の映像は妄想ではなく実際に起きた現実なのだと。

そして口の中で記憶している不思議な味を。





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