第9話

はじめての経験というのはなかなか忘れられないものだ。

どんなに月日が経っても初めて訪れた町や国の景色や色、そこで起きた出来事はどんなに些細な事でもそう簡単には忘れられない。

なぜ忘れられないかは上手く説明出来ないが、経験を積み過去に刻み込むことによって、思考を変化させその人間の成長させ、やがて人間味として培われるのかもしれない。そして、徐々にその味は年月を重ねる事で熟成され味が深く濃く実り素晴らしい人間になるために僕たちは記憶をいつまでも保持するのかもしれない。

つまり、どんなに望んでいない事であれ初体験というのは甘酸っぱく、強烈に覚えているものなのだ。

そう、初めて彼女の頭を刺した時に感じた感触はこの手を通してしっかりと覚えている。固い甲羅を割り刃の先に果物のような柔らかい感触を。

そして今も、腹を刺した時に感じたあの柔らかな感触を知っている。柔肌を貫通しその奥にある重要な物体を確かに貫いた。

突き刺した。

だから、その腹には切れ目があるはずなのに。

なのに。

「傷がない?」

目の前で起きている事が信じられなかった。夢でも見ているのだろうかと疑ってしまう程に。いや夢であったならどれ程よかっただろうか。人を殺すという大罪を犯してしまった事を無かったことにできたなら、こんなに後悔することなんて無かったはずなのに。夢であったならと自分の体へと意識を向け手で首をゆっくりと触れる。

「痛っ。」

傷口を触ると痛みが伝わってくる。

当然だ。これは夢ではないのだから。

この痛みも、今感じている恐怖も全て現実だ。

「何を言っているの?痛いのはこっちだよ。派手に貫いてくれちゃってさ。」

男は嘲笑いながら、腹に付いた血を拭う。

「お前の血は面白いね。最初は不味かったのに、僕を恐れた瞬間に一気に味がグッと変化を出してとても濃厚だったよ。おかげで傷がなおったよ。ありがとう。」

礼を言われた。感謝をされた。

「最高の食事ができそうだ。」

この一言でこれから起きることに抵抗することは出来ないと諦めた。

はじめから分が悪かった。

同じ人間同士なら分からなかったかもしれないが、相手は人間では無い。

ただの食事。

生きていく為に。

欲求を満たす為に。

生物と必要な行為。

そして彼は血を欲する。

「吸血鬼」

そう理解した時には彼は俺の目の前に迫り腹を手で突き刺し多量の養分を垂れ流していた。

痛みで自分を見失いそうになるほどの激痛が視界を遮る。

「どう痛いでしょう?これが僕の受けた痛みだよ。どうだい受けた箇所も同じところを狙ったんだけどどうかな?」

彼はそのまま小さな虫に囁くような声で

「そして彼女が受けた痛みでもある。」

突き刺さった手を抜き、男は地面でみっともなく這いずり暴れる。

手に付着した血をそのまま舌で舐め取り、こちらの状況とはお構いなしに食事を楽しむ。

「うーん。やっぱり恐怖を感じている時の血は格別に上手いな。ねっとりとしていて味が濃い。感謝するよ。君のおかげで今日はいい気分だ。」

意識が抜けていく。大量の血液が流れる。もう助からない。

薄れかけの意識の中で見上げる。月夜をバックに赤く染め上げられた彼の姿は見るものを凍りつかせる程邪悪で恐ろしく不気味だが美しかった。

「死にたくない。」

動くのを止めた。

この重み維持する筋肉はもう動かない。

生きる事を諦めた体の重みはドスンと音を立て地面を通して、足元に響いてくる。

「死ぬ前に君は最後に何を思たんだろうね。僕の事をどう見えたんだろうね。」

さすがにもうじき人が通りかかるだろうと思い、その場を立ち去ろうと後ろを振り向いた時に、冷たい風が吹き僕の足を止めた。土木が生い茂る緑香る風と共にもう一つよく知る香りが僕を更に振り向かせた。その先には、彼女がいた。

なんていい香りなのだろう。

これまで色々な血を食し、嗅いできたからこそ分かる。臭いにそそられ彼女の元へと足が勝手に動き出す。

いいワインと同じで最高の素材はその香りだけでそのワインがどれだけ良い物かが分かるように。

彼女の額には無惨にも縦に裂け目が出来ており、黒目を上に寄せながら固まってしまっていた。

だがそんな彼女を見ても可愛そうという感情は起きず、そのまま本能の赴くままにしゃがみ首もとに噛みついた。

目を伏せじっくりと血を吸い味わったとき、長い睫毛が開きそして立ち上り感動のあまり。

「美味い!」

思わず声を出してしまった。

さっきの男とはまるで違う。口のなかで広がり嗅覚を芳醇な香りで包み込まれるように。いや包み込むというよりはその袋が一気に破裂し花を開くように拡散して僕の脳内を幸せにしてくれている。

それになんだか懐かしいような。

まあ今まで散々血を吸ってきたのだ。似たような事もあるような気がするだけ、いわばデジャヴだ。

至高も味の余韻に浸っていると、後ろから人の気配を感じた。

「まずい、人が来やがった。せっかく最高の食事ができると思ったのに。」

口を強く食い縛り急いで走り去りこの場を去った。

やがて通りかかった人によって通報され直ぐに警察が駆けつけ遺体が運び込まれ現場の処理をした。

しばらくすると大勢の記者がやって来て事件の報道をネットにて記事にして一瞬にして流した。

「公園にて殺人事件。33歳男性1人死亡。女子高校生1人意識不明。」

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