第8話

「お前は、やってはならないことをした。」


冷ややかな表情のまま、声だけに熱を乗せた。

男がびくりと肩を揺らす。


「なんだよ。さっき通報はしないって言ったろ。何に怒ってる。」


「通報はしない。約束だ。」

「じゃあ何なんだよ。」


言葉が急に増えた。さっきまでまともに喋れなかった舌が、恐怖の潤滑でようやく回りだしたらしい。


「人を殺める時にはね、最低でも愛が要る。」


「は?」

男は首をねじる。愛という語が、この夜にそぐわないとでも言いたげだ。


愛。

胸を締めつけるあの感覚。

彼は逃げた妻を思い出し、今でも自分は愛していると信じているのだろう。

だが、いま彼の中にあるのは狂気と憎悪、その燃えかすだ。愛と一緒に置いてはいけない言葉ばかりだ。


「意味が分からねえ。どこに愛がある。」


焦点の合わない目が右へ左へ泳ぎ、分からないと言っている顔だ。


「生き物から命を奪うなら、敬意を示さなければいけない。子どものころ教わっただろう。食事の前には『いただきます』と。」


「……食事?」


「作ってくれた料理人への礼も正しい。材料を育てた生産者に向ける礼も正しい。もう一つ、見落とすな。皿の上の命そのものに礼を言うことだ。肉や魚は、僕らに出会わなければ長く生きられたかもしれない。にもかかわらず、僕らはそれを殺して血肉に変える。」


男は口を閉ざす。


「彼女を殺すとは、彼女の生きる権利を剥ぎ取ることだ。決して雑に扱ってはいけない。明日なにを楽しみにしていたのか。どんな未来を待っていたのか。恋人はいたのか。刺された瞬間、どんな味を舌が覚えたのか。死ぬ直前、何を思い返したのか。」

倒れている彼女に視線を落とす。

「愛のない死は、ひどく不幸だ。」


自分が死ぬ時は、せめて誰かの愛に刺されたい。そう思う。


「君は彼女の権利を奪って、何を得た。『何も感じない』は、あまりにも身勝手だ。」


「理解できねえ。」

男の額に冷たい汗が滲む。


「僕なら、そんなことはしない。」

はっきりと言った。残念さを隠さずに。


男の背中から熱が逃げていく。

ようやく、僕の本性をかすかに嗅ぎ取ったのだろう。彼が初めてのことを一度だけ経験したのに対し、僕は同じ扉を何度も開け閉めしてきた。

恐怖は、気配を嗅ぎ分ける。


「怖いのかい。」


「……こ、怖い。」

無意識にナイフが上がる。刃は震え、狙いが定まらない。


「来るな!」


叫びは子どもの駄々に似ている。理由ではなく欲求だけが前へ出る。


「どうしてそんなに慌てる。」

一歩進む。彼は後ずさる。

生存本能は正直だ。「殺せ」と「逃げろ」が同時に灯り、回路が焦げる。

彼は命令に従い、理由を行動で示した。刃を前に突き出して、勢いよく飛び込んでくる。

僕は懐で彼を抱きとめた。

母の胸に飛び込む子供のように。

そして、愛するものを離さない腕で、彼を抱き締めた。


腹に熱が走る。白い服に赤が滲んでいく。

彼の刃は急所を外したが、致命に近い。普通の人間なら叫ぶはずだ。

けれど、僕が口にするのは別の問いだ。


「これが君の愛なのか。」


愛。という語が彼の耳に異様に響いたようだ。

なぜ抱き締められているのか、彼は理解できない。

理解できないので、涙がこぼれる。

知っているのだ。あの子を殺したって何も変わらない。自分が変われない事実だけが残る。怒りの向け先を間違えたのだと。

僕はその全部を受け取り、抱き締めている。彼はそれを「許し」に見て、安堵する。十秒だけ。


その十秒が終わると、僕の歯が静かに首へ入る。

皮膚が熱を帯び、彼の血が僕の口へ流れ込む。

血は舌にまとわりつき、恐怖の香りで濃くなる。

彼の背筋が凍り、両手が僕の胸を突き飛ばそうともがく。

僕は一口分だけ、礼儀正しくいただいた。


「最後の一吸い、なかなか美味だったよ。」


舌で唇を拭い、飲み下す。

子どもが好物をもらって満足した時と同じ顔をしていたのだろう。男は目を見開く。


「血を……吸ったのか。痛ぇ。血が止まらねえ。」


彼の首の皮膚は裂け、血が溢れる。体温は下がり、顔色は紙のように薄い。

対して僕の肌は蒸気を帯び、つやを取り戻す。

男がふと、僕を綺麗だと思う。

死に際の人間は、ときどき世界の均衡を誤認する。


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