第8話
「お前はやってはならない事をした。」
冷ややかな表情から、熱のこもった声がでた。
「なんだよ、さっきは通報なんてしないって言っていたじゃないか。何を怒っているんだ?」
「通報なんてしないさ。」
「じゃあ何なんだよ。」
驚き慌てる。さっきまで喋る事がままらなかった奴が随分と喋るようになったじゃないか。
「人を殺める時にはね、少なくとも愛がないといけないと思うんだよ。」
首を横に振る男。
今「愛」と言ったか。
今回に限ってはとてもじゃないがこの状況にどこに愛なんてあるのだろうか。
愛。
ある特定の人物に使われる表現で、一緒にいるだけで胸が高鳴ったり、将来を考えたり、特定の異性を意識すること。
それはオレにだって以前まで感じていた感情。いや、今でも忘れてはいない。逃げられた奥さんの事をずっと考えている。
それはこの胸を締め付けられるこの思いこそ愛だ。
だいたい、オレはこの女に関しては好きでもない。むしろそれどころか逆の醜くておぞましい。
今のオレの感情を表すとしたら。
狂気。
憎悪。
愛なんて綺麗な言葉ではとても一緒にいてはいけない言葉。
「意味が分からねえよ。愛なんてどこにあるって言うんだよ。」
目の焦点が合っておらず右左と色々な動きをしている。何を言っているのか分からない、そんな事がバレバレだと分かりやすかった。
「いいかい。生き物の命を奪うことには敬意を示さないといけないんだ。小さい頃から教わってきただろう。ご飯を食べる前には頂きますと言うじゃないか。あれと同じさ。」
分からない。分からない。
「食事をするときには、作ってくれたシェフにかな。もちろんそれも正解。もうひとつは具材を作ってくれる生産者。それも正解。もうひとつは、具材のそのものに敬意を示さななければいけない。肉や魚がこれから生きる権利を奪ったことに対する敬意だ。僕たちに出会わなければ、きっと長い間生き続けられていたのかもしれないのに、無惨にも殺されて血肉にされてしまったのだから。」
「・・・・」
「それと同じように彼女を殺すという事は生きる権利を奪うのだから、僕たちは簡単に片付けてはいけないのさ。」
彼女は明日何を楽しみにしていたんだろうかな。
彼女はこれからどんな未来が待っていたんだろうかな。
彼女には好きな恋人とかいたのかな。
彼女は刺された時何を感じたのかな。
彼女は死ぬ瞬間何を思い返したんだろうかな。
「愛のない死はあまりにも不幸だ。」
倒れている彼女を見つめ、悲しそうな表情を浮かべながら静かに語る。
「僕が死ぬ時は、せめて誰かに殺されたいな。」
「・・・・・・」
「君はそんな彼女の生きる権利を奪いながら、何を得たんだい。何も感じないなんてそれはあまりにも身勝手すぎないかな。それじゃあ、あまりにも可哀想だ。」
ひとつも理解が出来ない。こいつは本当に何を言っているんだ。
そして、はっきりと非常に残念そうにこう言った。
「僕ならそんな事はしないのに。」
背中から体温が冷めていくような、寒気を感じた。
今までこいつの事が理解できなかったが、なぜか分かった気がする。俺が経験していなかった出来事を何度も体験している。
さっき初めて味わった経験をこいつは何度も何度も何度も。
「ああ今恐怖を感じているね。」
一瞬笑みが見えた。何なんだこいつは。
「僕が怖いの?」
怖い。
怖いよ。何故分かったのかが分からないが、きっとこいつは今からオレに同じことをするのだろう。
そう思った時、無意識にナイフを男に向けていた。
「来るなー。」
突然の叫び。
大声で威嚇するも、ナイフはガタガタと震え狙いが定まっていない。焦りや動揺が隠せない。
ただ早く目の前から恐怖が消え去ることだけ、この訳の分からない存在が消えてくれれば俺は助かるそう確信していた。
助かるとは何から助かるのだろうか。一体何が迫っているのだろうか。
分からない。
分からないが危険が迫っているとういうのは、人間なら、いや生物なら誰もがもっている生存本能もとい危機管理能力が働きかけ脳内へ命令を下す。
「殺せ。殺せ。」
引きずっていた後ろ足が前に移動した。そしてまた1歩前進し、また1歩と前へと男の元へと歩み寄っていく。
「どうしたんだい?そんなに慌てて。」
「知らねぇよ。こっち来んなー。来るなー。来るなー。」
まるでだだをこねる子供のようだ。理由を言わずにただ己の欲求のみを声に出すだけ。しかし、男は理由を行動で示す。
わずか数メートルの距離を勢いよく走り込み、僕の懐に飛び込んだ。子供が母親の胸に向かって迫るように。そして愛する子供を離さないように固く抱き締めるように、僕も男を抱き締める。
腹からは血が飛び出し白い服は徐々に真っ赤に染め上げられる。
「これが君の愛なんだね。」
今なんと言った?
確かにこの男の急所を外したにしろかなりの致命傷のはずであり、ここでは痛みに抗うために叫び声の一つは上げるのが正しいはずなのに。そう先ほどまでのあの女のように。
だが耳元で聞こえてきた言葉は愛に対する問いかけ。
訳が分からない。一体なぜ抱き締められてる。
オレが相手している男は何だ?
「これが君の愛ならばなんとも味気がないね。でも許そう。君の苦痛、うぬぼれ、興奮、憎悪、憎しみ、欲望を全て受け入れそして頂こう。」
その声は慈悲をまとっているような、冷たく優しく心地の良く、妙な安心感を覚えた。顔を見ると微かに口元が上がり安らぎを与える表情だ。
さっきまでは恐怖を感じたりしたが、今は安心する。どっちがこの男の本性なんだろうか分からない。分からないが、思わず涙を流していた。
分かっていたんだ。あの子を殺したって何も変わりはしないことを。ただ自分が変われない事を認めたくなくて、その結果過ちを犯してしまった事に。怒りのぶつける先を間違えてしまった事に。
だが、この男は分かってくれて受け入れてくれたそんな気がしたんだ。
安堵の時間。
10秒後。
突然首もとに歯が突き刺さる。同時に暖かい鼻息を浴びながら皮膚が熱を帯びる。
普段体内を駆け巡る血液はどこに向かって流れているのかを意識する事はないが、この時ははっきりと首もとに向かって流れているのが分る。
血を抜かれ吸血されている。
今まで感じたことがない感覚にぞっと背筋が凍りつき、咄嗟に手を前に突き出ばした。
「最後の1吸いの味はなかなかの美味だったよ。」
ほんのり赤面した頬でこちらを見て微笑んでいる。舌で唇を舐め血を口の中へと丁寧に拭き取り喉へと飲み込んだ。
子供のように大好物のお菓子を与えられて満足しているかのように純粋だった。
「今のは何なんだ。血を吸われたのか。痛ぇ。血が...血が止まらねぇ。」
噛まれたところは先程突き刺さったまま突き飛ばした事で、噛み千切られたかのように首の皮膚は剥がれ血が流れ続けいた。
俺の体は血を流したことでどんどんと体温が低下して冷え始め、あいつの肌は蒸気を帯びて肌がツヤツヤと見える。
月明かりやライトに照らされているのもあるが、一瞬なんだかあいつの存在が綺麗だと感じてしまった。
ちょっとまて。血を流しているのは向こうも同じじゃないか。あいつだって腹から血を流して致命傷のはずなのに。
鏡を見なくても、俺の顔色が血の気を失い青ざめていくのが分かるのに、あいつはむしろ青くなるどころか赤くなっていくなんておかしくないか。
「やっぱり恐怖を感じた時に出る血は濃くて一段と美味しい。ほら見てよこれ。」
細い指を滑らかに動かし徐々に胸あたりまで上着をめくり、腹部を見せつける。クビレのある美しいラインに、触ると滑り落ちそうなきめ細かい白い肌には赤い染色がされていた。
だが何かがおかしかった。
違和感に気づくのに時間はそうかからなかった。あるはずのものが無かったのだ。致命傷になるはずの傷口が無かった。綺麗に塞がっていた。
まるで最初からオレのやってきたことが無意味だったかのように綺麗さっぱりと。
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