■ 信玄、秀吉の「弟」

前のコラムの続きのようであるが、

『義』の備わっていない信玄や秀吉が、何故「戦国の英傑」に数えられるまでになったのか、そこには弟の存在が大きかったと筆者は捉えている。


戦国の時代、大名家では兄弟間に争いが起きるのは至極当然のことであった。兄弟にはそれぞれ家臣が付いており、主が棟梁となるか否か、家臣にとっても人生を左右する大問題である。従って兄弟仲の良し悪しは別にして、家臣同士のいざこざから紛争に発展したケースも多々見受けられる。

例えば織田信長であるが、信長が「うつけ」と疎まれる一方で、礼儀正しい弟の信行は家臣団の支持も高かった。弾正忠家を嗣いだ信長に、信行は尾張上四郡の守護代・織田伊勢守家を味方に対抗しようと考えた。他家を頼った信行に疑問を抱いた家臣の柴田勝家が信長に密告し、信行は謀叛の疑いで暗殺されたとも言われている。

後年、徳川家においても三代将軍・家光と弟の忠長の確執は熾烈を極めた。幼少の頃より病弱で吃音のあった竹千代(家光)より、父の秀忠や母の江は弟の国松(忠長)を溺愛したという。家臣団も二つに割れ、これを心配した大御所・家康の裁定により長子相続が決定した。父・秀忠が死ぬと、忠長は改易され二十八の若さで切腹を命じられる。

いずれも兄より優秀とみなされた弟が、自らの、或いは周囲の期待に乗せられて欲を出してしまった結果と言えよう。


しかし信玄の弟は違った。

甲斐の守護・武田信虎は生意気な嫡男・晴信(信玄)よりも弟の信繁を寵愛し、晴信を廃嫡して信繁に家督を継がせようと考えていた。ところが天文十年、晴信が先手を打って信虎を駿河に追放してしまう。家臣団も晴信を支持し、信繁も進んで晴信に

服従を誓った。以後、信繁は表舞台に登場することなく晴信を支え続けた。川中島の戦いでは晴信を助けるため、自ら影武者となって討死している。

秀吉の弟も然り。

尾張中村の百姓であった秀長は、織田信長に仕えて足軽となっていた兄・秀吉に求められて家臣となる。合戦で飛び回っている秀吉に代わって家中のまとめ役を担っていた。誠実な人柄で周囲の人望は兄よりも高かったという。

「内々の儀は利休、公儀の事は秀長が存じ候」

やがて秀吉が天下を統一すると、千利休と共に裏方に徹して秀吉を支えた。

しかし秀長が亡くなると、秀吉は翌月には利休を、更には甥の秀次までも切腹に追い込んでしまう。あげく秀長が反対していた朝鮮出兵を強行し、国は疲弊、豊臣家は滅亡への道を進むこととなる。


この二人の弟には『義』が備わっていた。

『忠』と『仁』である。

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