■ 『義』とは何ぞや

そもそも、『義』とは何ぞや

結論から述べると、『義』とは「自分の生き方の軸となる尺度」だと筆者は理解している。

謙信の『義』はよく知られているが、謙信に限らず名の有る武将は各々に相応しい『義』を持ち合わせている。


例えば信長、その義は『真』であろう。

信長流原理主義とでも言おうか、情や慣例に流されることなくひたすらに「真の理」を追求した。

天下を平定するには京を押さえねばならない。そこで尾張から岐阜、安土へと何の

躊躇ためらいもなく転々と居城を移した。ほとんどの大名が自らの領地にしがみつく中で、当時としては異例の行動である。

更に、専任の兵隊を組織した。一年を通して戦いを続けるには農兵では難しい。

家臣は能力主義で登用する。役に立たなくなった者は、例え過去に如何なる功績が

あろうとも放逐された。

寺社仏閣など既存の権益に胡坐あぐらをかく者は無用の長物である。比叡山、本願寺はもとより、それは朝廷でさえも例外ではなかった。

ちなみに明智光秀についても触れておくと、光秀の義は『正義』だと考える。

正義の味方という言葉からも分かるとおり、正義は『真』と『善』の二つの要素から成っている。光秀は『真』を求める姿勢では信長に共感していたものの、『善』に関する部分では容認するに耐えきれず、最後には謀叛に踏み切らざるを得なかった。


北条早雲の義は『仁』である。

北条早雲と言えば、かの司馬遼太郎先生の時代には浪人から成り上がった『三梟雄』の一人に挙げられていた。しかし近年には新しい資料も発掘され、室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出自であることが判明している。そうでもなければ、姉が大国・駿河の今川家に正室として迎えられるわけがない。

若き日の伊勢新九郎盛時(早雲)は、領民の支持なくして国を維持することなどできるはずがないと考えた。そこで年貢を四公六民に改める。当時の年貢は五~六割が一般的で、伊豆韮山の百姓には笑顔が耐えなかったという。すると他国からも農民が集まり、国は富み、以後五代百年にわたる小田原北条家の礎を築いた。

徳川家康は『忠』。

自らが信長や秀吉に忠義を尽くしたから、ということではない。

徳川幕府の礎となる組織体制の軸を『忠義』に据えたのだ。儒教を是としたことにより徳川家は二百六十年もの長期に及んで政権を担うことができたとも言えよう。

『仁』と『忠』は重なるところも多いが、『仁』は外に『忠』は内に向かっての働きと振り分けられるのではないか。


一方で、『義』など全く感じられない武将もいる。

豊臣秀吉や武田信玄などがその類であろう。などど言えば、全国に多くいる秀吉や信玄のファンを敵に回してしまうだろうか。

信玄の領国は甲斐、山のカヒに由来する地名のとおり狭隘で穀物も育たない痩せた土壌である。周囲に豊かな土地を求めるしかなく、その為、手当たり次第に東西南北へ侵略を繰り返すばかりであった。

あげく晩年、将軍・義昭に求められて信長を討伐するため上洛を試みるも志半ばで病没してしまう。

秀吉の出自は農民である。信長という英傑に出会えたことは何よりの幸運で、持って生まれた才智を駆使して他の重臣たちとの出世競争に打ち勝った。まさにジャパニーズドリームであるが、残念ながらそれは相対的な能力でしかない。

やがて自らが天下を手にすると、悲しいかな天下人に不可欠な絶対的な尺度である『義』を持ち合わせていなかった。あげく朝鮮出兵などで国を疲弊させ、自らの死後まもなく豊臣家までもが滅んでしまう。

秀吉も信玄も負のハンデが大きすぎて、『義』などに構っている余裕など無かったのだろう。それだけに私利私欲の「何でもあり」で、後世に生きる我々にとっては分かり易くて面白いのである。

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