第10話 ベルギーへ・・・そして未来へ

 次の日、スーツに身を包んだ文は、山梨の実家を颯爽と出発した。早く、自分の生活を緊張感の中に置きたかった。トーマスも頑張っているからと思うと、自分も早く走り出したかった。

 縁導商社の東京本社にいる、加藤の先輩に当たる人事部の黒木には、事前に連絡を入れている。とりあえず、履歴書をもって、東京本社に来て欲しい、とだけ言われていた。文は、ベルギーで一回りも大きくなってしまったのか、全く緊張をしていなかった。自分がやりたい事はハッキリしている。企業が文を選ぶかどうかだけなのだ。

 選んでくれたのなら、どんな事も必死に働きたい気持ちはあった。ダメだったら、次に進むだけだ。ベルギーに戻った時に、加藤と働ければいいのだから。


 大きなビルの一階受付にいる女性に黒木への取次依頼をした。暫くすると、黒木が現れた。彼の事を官公庁などのビシッとしたお堅いサラリーマンとして想像していた文は、少し拍子抜けした。ベルギーにいる加藤のように、黒木の佇まいから気さくさが溢れていた。

(私、この方とお仕事したいかもしれない!)


「ベルギーから戻ってきたばかりなのに、お疲れの中、時間を割いてくれてありがとうございます。さぁ、こちらへ」

「こちらこそ、お忙しい中、中途の私のためにお時間をいただきまして、申し訳ありません。ありがとうございます」

「いやぁ、加藤が月見さんのことを絶賛していたから、会わなくちゃ、あいつがいつまでもウルサイんですよ。僕は、先日まで人事部にいたのですけど、今は隣の経理部に異動になってしまったんです・・けどね、加藤の頼みだから、今日は人事部の従業員と一緒に同席させていただき、対応させていただきますね」

「ありがとうございます。私の事で本当に申し訳ありません。加藤様にも大変お世話になりまして、ご恩返しが出来れば光栄です」

「履歴書は持ってきてくれた?」

「はい。一応、職務経歴書も持参いたしました。こちらも併せてご確認いただければ幸いです」

「お、ありがとう。じゃあ、拝見させていただくから、少しお時間いただいてもいいかな?」

「はい、かしこまりました。どちらで待機させていただいたらよろしいでしょうか?」

「そうだな・・・折角だから、職場の雰囲気を見ていただくのもいいかもしれないから、オフィスで待っていてもらおうかな?」

「はい、ありがとうございます」


 広いオフィスに通された。一斉に従業員は文を見て、挨拶をしてきた。文は一人一人に丁寧に挨拶をした。

「語先後礼がしっかり身についているんだね?若いのに立派だ」

「ありがとうございます」

「ここで待っていてもらえるかな?」


 通された場所は、オフィスの一角にある小さな商談場所のようなスペースだった。オフィスの喧騒も何となく見えるし、オフィス内の会話も何となく聞こえる。どうやら、このフロアは、総務、人事、経理の事務部門が集結しているようだった。久し振りにオフィスの空気を感じて、文は懐かしさを感じた。


 三十分ほどその場で座って待っていた。その間、文の所には誰一人やってこなかった。文はひたすら、自分の五感を研ぎ澄ませて、オフィスの空気を感じていた。

 黒木は、人事部の野木という男性を供だって現れた。

「いやぁ、お待たせしてごめんね。履歴書と職務経歴書を二人で拝見させていただいたよ。このまま月見さんさえ良ければ、面接させていただいてもいいかな?」

「ありがとうございます。勿論、宜しくお願い致します」


 別室に今度は通された。面接会場のようにセッティングされている。

「志望動機も読ませていただきました。弊社に、というよりも、弊社のような仕事にご興味があるのかな?」

「はい、そのどちらもです。ベルギーで加藤様のお仕事を、大変興味を持って拝見させていただいておりました。私がお世話になっておりました、日本食材のお店に商品を卸していただいていたのですが、私がお店でお客様に対応する内容と、加藤様が私のお店に対応する内容は同じだと考えていたのです。その時に私が加藤様の立場だったら、というように思考を変えて物事を見た時に、私のお店も違う角度から見られるようになりました。そのことが志望理由のきっかけとなりました」


 文は、いつも目的や目標が自分の根幹の中にしっかりしている。迷いがないことで周りの者も文自身も、ブレずにすむことが自分の立ち位置に安定感をもたらせる。

飾り立てても仕方がないことを文はよく理解しているので、真っすぐに想いを伝えるだけだった。


「なるほど。では、先程、三十分ほど、お待ちいただいていた時に、オフィスの雰囲気も感じていただいていたと思うけど、率直に何を感じたか、教えていただけるかな?」

「はい、オフィス内は、大変活気があって、私に合った職場だな、と感じました。皆様のお電話での対応も拝聴させていただいて、気持ち良く感じておりました。しかしながら、正直にお話いたしますと、私があの場所にいたにもかかわらず、どなたもお声掛けをなさらない事に不思議な気持ちでおりました。黒木さまと野木さまが(あの場所には行ってはだめだ)というご指示を出されていたのなら、この気持ちも撤回させていただきたいのですが、もし、そうでないとするのならば、私という存在が、もしかしたら、お客様に繋がる存在かもしれないにもかかわらず、お茶の一服も出せないほどなのかな?と思いました。実際、御社の取引先の従業員であったわけですから・・・。こちらの内情も存じ上げないにも関わらず、出過ぎた意見を申し上げて申し訳ありません」

と言って一礼し、真っすぐに黒木と野木を見つめた。文は、加藤を通してではあるが、縁導商社が好きだった。単純に(残念)に感じた事を伝えたまでだった。ベルギーでの生活で、公の場でキチンと意見を言う事を学んだからだ。日本人特有の(曖昧さ)が誤解を招くと思ったのだ。すると、黒木は文の話を聞いて焦ったのか、急に早口に話し始めた。


「参ったな、こりゃ。加藤が惚れこむわけだ。野木さん、いかがですか?」

「いや、間違いないでしょ?加藤君の眼力はすごいね?」


文は、自分が肯定されているのか、否定されているのか、久し振りの日本語の世界だからなのか、把握できていなかった。キョトンとして事態を呑み込めていない文に向かって、野木は続けた。


「まだ、帰国したばかりで大変だろうけど、月見さんはいつから出社できそうなのかな?」

「え?出社ですか?どちらへ?」

「え?分かっている?採用だよ、採用。君を採用させていただきたいよ」

「え?本当ですか? ありがとうございます。まだ、住むところをこれから探すので、見つかり次第、出社出来ます。今日、この後で不動産屋周りをしようと考えておりましたので、野木さまの退社時間前に一度、本日、お電話させていただきます。それからのお返事でもよろしいでしょうか?」


文は、万歳三唱をしたい気持ちを抑えて、この後のスケジュールの話をどうにか続けることが出来た。

「気を回してくれてありがとう。僕は、今日、六時まではオフィスにいるから、名刺の携帯に電話してくれないかい?」

「かしこまりました」


 野木は、頭をポリポリとかきながら、それでも焦った表情というよりは、文によって「新しい風」が、社内に吹き込まれる予感を楽しんでいるようだった。

「いやぁ、見事にうちのオフィスの弱点を突いてきたから、首根っこにアイスピックを突き付けられたような気分だったよ。是非、その感性を大切になさって、ここでバリバリ働いてほしいね。ところで、黒木君の下で経理部門をやってほしいけど、それでもいいかな?」

「はい、どのような所でも一生懸命、お勉強させていただき、一日も早く、皆様のお役に立てるように頑張ります」


 文は、黒木と野木にエレベーター前で別れを告げ、一階まで降りた。受付の女性に「お世話になりました」と言って、一礼をして、ビルから出ると、ビルの入り口に向かって感謝を込めて、一礼をした。

 黒木は、暫くしてから一階の受付へ内線をして、文の状況を聞き出した。礼儀正しく、謙虚な気持ちの彼女が、この会社にもたらす「風」を楽しみにしていたので、どうしても確かめたかった。

 受付の女性は、丁寧に自分達に挨拶をして、ビルを出たところで一礼をした姿を見た時に、文の余韻がビルの中に残っている不思議な感じがした、と応えた。


「凄い!商社に採用されちゃった!高卒の私が採用されちゃった! 早くアパート見つけなくちゃ」


 文は、心でスキップをしながら、以前住んでいた川崎の街が好きだったので、世話になっていた不動産屋に向かった。不動産屋の従業員は文の事を覚えていた。

「あれ?月見さんじゃないですか?」

「え?覚えていて下さったの?」

「だって、外国に留学するって言っていたから、どうなったかな?って気になっていましたよ」

「一昨日、帰国しました。また、しばらく日本で働くから、良い物件を見つけたくて、来ちゃいました」

「おぉ、あざ~すっ」


(トーマスが心配するから、家賃が安くて、自炊が出来て、怖くない所で、駅もなるべく近い所にしなくちゃ)


 異動の時期ということもあって、いくつか物件が見つけられた。文は、店舗で気になった三件の見学をさせてもらう事にした。

 一件目は、対象物件の周りにアパートが乱立している物件だった。空いている部屋からは、隣のアパートも見えないので良さそうだった。

 二件目は、二部屋あるアパートだったが、畳の部屋だった。文はアレルギー持ちだった過去があるので、ここはやめた。

 三件目は、三件の中で一番駅が近く、百メートルほどの所にあった。住宅街の中にあって、周りには小さな町医者が数件あった。ベルギーでデグリーに世話になっていた文は、何となく、その町医者を見ると安心した。案内された部屋の中は、意外にも新品のような部屋だった。


「実は、前の住人の方が結構、汚していたので、思い切って、壁も全て貼り替えて、エアコンも新品を付けちゃったんですよ。建具も全て新品!床だけがそのままなんですけどね」


 ワンルームなのだが、ロフトがある。クローゼットもあって、風呂とトイレが別々だった。洗濯機も室内にあって、女性としてはありがたかった。バルコニーもあり、洗濯はそこで干すことが出来る。布団も干せる広さだった。三件目が、一番都心から離れた駅(といっても、二駅だけだけど)だからなのか、一番安かった上に、一番中身がよくて、一番駅も近くて、アパート周りにも満足していた。


「ここに決めます!」


 トントン拍子で住むところも決まったので、文は野木へ連絡をして、週明けから働く事は可能なので、あとは会社に従います、と連絡した。野木から後日、改めて連絡をもらえる事で話を終えた。そうなると、ホテルに泊まって、無駄な金を使うわけにいかなかったので、文はすぐに山梨行きの電車に飛び乗った。山梨からの移動と面接とアパートの契約まで済ませたので、電車に乗った瞬間、どっと疲れが出た。心地よい疲れだった。そして、ベルギーと違って、電車の中で居眠りが出来る安心感が日本にいることを実感させられた。


 山梨に着くと、すぐにパソコンを開いてトーマスからのメール確認と文の今日の報告をしなければならなかった。一刻も早く伝えたかった。案の定、トーマスからのメールが届いていた。


(このメールを見るときは、東京かな?それとも東京から戻った山梨かな? 実は、僕も今日、縁導商社の加藤さんとリヤンの立花さんに会う事になっているんだ。面接という訳ではなさそうなんだけど、精一杯アピールしてくるよ。文、早く会いたい。僕は、君がいたからこそ強くいられた、と分かったよ。きっと、文は、その逆なんだろうね? 今、僕がいないから、真っすぐに東京を見つめ、真っすぐに自分のやりたい事を求めて、誰をも寄せ付けない強さで前を向いているんだろうね? お願いだから、このメールではありのままの文でいてほしいよ)


(トーマス・・・貴方には全てお見通しだから、ありのままでいるから安心してね。 そうね・・私は、必死に強い仮面をかぶって、日本で闘っています。羽を休める場所を見つけてしまった私は、トーマスに会いたくてたまらなくなるの。貴方のリングをはめてみたり、貴方のトレーナーを抱きしめてみたり。必死に寂しさをこらえているの。誰にも見せないトーマスしか知らない私よ。でも、トーマス聞いて。今日、縁導商社の東京本社で急遽、面接をすることになったのだけど、その場で合格しちゃったの! そして、そのままアパートも決めてきたわ。今週末には引っ越しをして、川崎にまた住むことになったの。アパートは安全な所だから安心してね? トーマスも上手くいく事を祈っているわ。トーマスなら絶対に大丈夫)


文がアパート選びをしている頃、トーマスは加藤と立花に会う為の準備をしていた。資料も念の為、用意した。職歴と言うほどの経歴は、カフェのアルバイトとゆかりでのアルバイトだけだけど、その二つの店舗での気付き、自分が任されている内容なども併せて準備した。

 そして、スーツを取り出し、身支度をした。隣に掛けているスーツは、プロポーズの時のスーツだ。

(文・・・行ってくるよ)


 ふと、ポケットに手を入れた時に何かがトーマスの手の中に入った。取り出してみると、それは、文からの三十一枚目のカードだった。


(トーマス、私の心はいつもトーマスと共にあるよ。あなたの胸にあるリングから私の魂を取り出して、そっと両手で包み込み、こぼれないうちにトーマスの口に入れて呑み込んでみて? 分かる? 私とトーマスは一つよ。そして、目を閉じて十秒待って。トーマスがこの一年すごく頑張ってきた色々な事、体験した色々な事を思い出してみて。それが、今この瞬間から力となってあなたの全身を張り巡らすわ。トーマスが、トーマスをアピールする場所に到着した時に光となって放たれるはずよ。だから、自信をもって・・いってらっしゃい! トーマス、愛している。世界で一番大好きよ!)


「文・・・君は、どうして、いつも僕を救ってくれるんだろうね?どうして離れていても、僕を支えてくれるのだろう?ありがとう。 今なら何でも出来るね?文が一緒に居る!」


 トーマスは、文のカードにあったように、リングから魂を取り出すようにすくった。そして、それを飲み干して、ゴクン!と喉を鳴らした。静かに目を閉じて、文との思い出、大学での学び、アルバイト先の仕事、文の働く姿を思い出していた。そして、再びリングをギュッと握り、もう一度、スーツを整えた。

 階段を降りてきたトーマスを見て、豪は、思わず「おぉ!」と言った。トーマスの身体からエネルギーが出ているのが見えるような気迫だったからだ。


「トーマス、気を付けて行って来いよ」

「はい、行ってきます」

(アイツ、文を背負っているな? いい顔していやがる!)

トーマスの顔つきを見て、豪は目を細めた。


カードには、文の綺麗な文字でびっしりとメッセージが書かれていた。そのカードをポケットに入れたまま、トーマスは約束の場所へと向かった。


 リヤンのブラッセル支社は、EU本部の近くにあるオフィスビルの中に入っていた。待ち合わせ場所に到着すると、見慣れた顔の加藤と立花が出迎えた。


「本日は、お時間をいただきありがとうございます」

と言って、文がいつも丁寧にお辞儀するように深々と一礼をした。

「お?トーマスは、語先後礼という言葉を知っているのかい?」

「いえ、知りませんが、文から日本人との挨拶は、このようにしなさい、と教えられていました」

「そうかぁ。さすが月見さんだな。やっぱり彼女は、どこか違うんだよな~」

と、加藤が話すと、立花も思い出したように呟いた。


「確かにそうだよね?クリスマスパーティの時にお会いしただけなんだけど、トーマスの事をとても大切に思っている事を感じていたよ」

「ありがとうございます。彼女は、私に沢山の大切な事を教えてくれました。そして、何よりも私の事を心からサポートしていてくれました。彼女のおかげで、今日もここにいられるのだと思います」

「でも、レポートの事は月見さんに言ってなかったでしょ?」

「はい、全てが彼女に頼ってばかりではダメだと思って、自分自身で自分の就職先については、切り開いていこうと考えていました」

「そっか・・・だとしたら、本当によくまとまったレポートだったよ。これをそのまま卒業のレポートにしても素晴らしいものになると思ったけどね?」

「ありがとうございます」

トーマスは一礼をした。


 立花が、いくつかの資料を封筒から取り出して、トーマスが座る机の前に並べた。そして、ゆっくりと説明し始めた。

「これは、君の将来に関係する事であるから、僕もキチンと説明させていただくからね?」

契約書を二部見せた。


「こっちは、インターンシップの契約書だ」

「え?」

「つまり、君は弊社から内定を受けた、と言ってもよい状態にあるんだよ?」

「本当ですか?」

「トーマス、よかったな? これで堂々と月見さんを迎えに行けるよ」

加藤がトーマスの元へ行って肩を叩いた。トーマスは言葉を失っていた。


「ただ、加藤さんの口利きということもあるし、運よくと言っていいのかな?欠員が一名出たので、弊社としても、人材確保をしておきたいのが正直なところなんだ。なかなか人となりまでは面接だけでは分からないものだけど、弊社にとっては、クリスマスパーティでみんながトーマスに会っている、君の話を聞いている、そして、手元に君の夢が詰まったレポートがある、という訳だったんだよ。凄い巡り合わせだね? このチャンスを掴むのも、手放すのも君の自由だよ。返事は、十五日ころまでに僕の所まで言ってきてくれるかな? これが、僕の連絡先だ」


立花は、名刺を取り出して、トーマスに渡した。トーマスは、その名刺を大切そうに受け取り、文が以前に日本の名刺の文化について教えてくれたように、目の前のテーブルの立花側に置いた。

加藤と立花はすぐに目を合わせた。そして、試すように加藤は、

「おっと、僕の名刺もトーマスに渡していなかったね?」

と言って、トーマスに加藤の名刺を渡した。トーマスは、やはり、とても大切そうにそれを受け取り、今度は立花の名刺の隣の加藤が腰かけている側に置いた。二人は、再び目を合わせ、

「トーマス、この名刺の作法も、月見さんから教えてもらったの?」

「あ、はい、そうです。何か間違いがありましたか?」

急にオドオドし始めるトーマスを見て、

「いや、ごめんね。君が名刺の作法を知っているとは思わなくて、驚いているんだよ。君たちは若いのに凄いね?」

「ありがとうございます」

と言って、トーマスは、間違いではなかったことに安堵して、思わずため息をついてしまった。

加藤も立花も笑い出して、そんなに緊張をしなくていいから、とトーマスをリラックスさせた。それから、インターンシップについて、立花が詳しく説明を始めた。勤務時間、勤務日数、給料面、待遇についてなど、細かく説明していった。


 そして、続いて、インターンシップをもし、無事に終えることが出来たのなら、という条件で、来年の九月から正式にリヤン商社で社員として働くことが出来る契約書の説明をした。これらの内容に問題なければ、サインをして、また持ってきてほしい、と伝えた。

 トーマスは、その場で返事をしたかったが、豪に住む部屋を無償で与えてもらっている。豪やグレン、エリックとも相談をしたかったので、返事を今は保留にすることを伝えた。理由も隠すことなく説明をした。縁導商社とつながりのあるゆかりの事なので、立花も加藤もトーマスの気持ちを汲んだ。

 一通りの説明を終えて、契約書類、会社のパンフレット、会社の概要などの書類を封に入れて、トーマスに立花が渡す姿を見て、加藤が話し始めた。


「そういえば、月見さんは、縁導商社の東京本社に内定したんだよね?」

「え?そうなんですか?」

「そっか・・・まだ、さっき、連絡が入ったばかりだから知らないんだね?縁導商社に内定決まったよ。月見さんは日本でも伝説を既に作っているみたいだよ」

と言って、加藤はククク・・・と笑いをこらえているようだった。トーマスは、心配になった。


「文が何かしたのでしょうか?」

「いや、実に頼もしくてね? 東京の従業員の仕事ぶりを指摘したらしいよ。今は、縁導にとって、(客)である月見さんに客として、何ももてなせないとはいかがか?ってね。担当者は、そこが縁導にとって、一番の弱点だと常日頃から感じていたから、(やられた!)って思って、採用したそうだよ。いやぁ~実に嬉しい報告だよね?僕も紹介した甲斐があったよ。でも、この分では、月見さんの風がオフィスに浸透する前に、月見さんはコッチに来ることになりそうだね?トーマス!」


少し意地悪く言う加藤にトーマスは力を込めて答えた。

「そうなれるように頑張ります」


トーマスも文の事を想像すると愉快な気持ちになってきた。文は、相手が傷つかないように、ではあるが、思ったことをズバッと言う。ジャンには特にそうだったなぁ~と思い出したら、頬も緩んだ。

「トーマス、良い返事を待っているよ」

と言って、立花は握手を求めてきた。


ビルを出ると、加藤がトーマスを追いかけてきた。

「今からゆかりへ行くんだろ?乗せていくから、一緒に行こう!」


 車内で、加藤は、今後の事をトーマスへ話して聞かせた。それは、文がまだ知らない内容だった。

 それは、文が本社で経理の仕事をしながら、営業のサポートをする、というのだ。営業と文が働く経理業務は直結している。文が、ベルギーの縁導商社のために動きたい、と言っていたので、すぐにでもプロジェクトが立ち上がるはずだ、というのだ。東京の状況によっては、年内にプロジェクトの確認に東京へ行かなければならなくなると思う、と言うのだ。


「そしたら、トーマス、君も一緒に行かないかい? 月見さんに会いたいだろ?」

「え?でも、僕はリヤンのインターンだから、別会社になるのではないですか?」

「これから色々分かると思うけど、縁導商社で扱う商品は、全てリヤンでも扱っている商品、ということになるんだよ?だから、リヤンの従業員として行けるのさ。それほど大きな取引でもプロジェクトでもないと思うから、リヤンの人達は、気持ちよく君を送り出してくれると思うよ」

「もちろん、行きたいです。それまでに仕事をガッツリ覚えて、リヤンの従業員として恥ずかしくないように臨みたいと思います。加藤さん、ありがとうございます」


トーマスは、加藤の隣の助手席でガッツポーズをした。そして、ポケットにある文のカードと胸に掛かる文のリングを握りしめた。加藤は、トーマスのその仕草を見て、微笑んだ。

(ありがとう、文。君に守られてここまでやっと、来られたよ。もうすぐ会いに行ける!文を迎えに行ける!)


「加藤さん、僕は結果的には、インターンも、社員としても、リヤンで働きたいと考えています。ただ、勤務時間の事とか曜日の事とかになると、どうしてもボスと相談しなければならないので、今日は保留にさせていただきました。申し訳なかったです。そこで、加藤さんにお願いがあります。僕がインターンで働く事や内定をいただいた事を文には黙っていていただけますか? 今は、まだ迎えに行ってあげられないから、そのことを言うと、文は、目の前のプロジェクトの事や覚えなければならない仕事の事にも身が入らなくなってしまうと思うのです。僕が日本に行った時に全てをお話しようと思いますので、それまで文には内緒にしていていただけますか? 可哀想だけど、文にも日本で頑張ってもらいたいから。すみません・・・」

「いや、よかったよ。逆に僕もそれをお願いしたいところだったんだ。月見さんには弊社の力になってもらわなくちゃいけないから、今は、トーマスという甘い汁を吸わせる訳にはいかないな、ってね?逆にありがとう」


 加藤は、片手を差し出し、握手を求めた。トーマスはガッチリ握手をして、男同士の約束を誓った。加藤の車に入ってくる風を心地良く感じた。車窓から見える空には夏雲が揺れていた。ふと、昔、凄く嬉しい時にこんな風景を見た気がしたけど、トーマスは思い出せなかった。


「加藤さん、これからも社会人としての色々な事を教えていただけますか?僕、不安なんです。文がいないと、本当に不安ばかりで・・・」

「勿論、力になるよ。何時でも、さっきの名刺の電話に連絡してくると良いよ。ゆかりにも行くから、その時でもいいし、ね? 月見さんは、トーマスに勇気や希望を与え続けていたんだね?」

「はい。このカードも見て下さい。僕が心折れることを知っていて、部屋のあちこちにカードを忍ばせて、僕に毎日、元気を与えてくれるんです。今日、見つけたカードがコレだったんです。文のおかげで合格出来ました」

「それは違うよ。月見さんは、君にキッカケやチャンスを与えただけで、トーマスの実力で成功を掴み取ったんだからね?それだけは、自信を持つと良いよ」

「はい・・・加藤さんは、文と同じことを言うんですね…そっか、僕なんだ・・・」


   *****


 トーマスは、居候部屋に戻ると、急いで着替えて、パソコンを開いた。文からのメールが来ている。文のメールよりも前に文の合格を知っていたトーマスは、この時差のある奇妙なメールを楽しく読んだ。

 文の寂しさは伝わってくる。でも、彼女も必死に前に進もうと張り切っている事も伝わってくる。共に挑戦していく事を今は選択しなければならない。文は、どんなプロジェクトを立ち上げるのだろう? 自分も負けてはいられない、と思った。今度、文に会う時に堂々と報告できる何かを掴みたいな、と考えた。


(文、合格出来てよかったね。いよいよ川崎へ行くんだね?文、僕たちのドールハウスを眺めてごらん。僕は毎日、君が作ったソファに座っているよ。そこに座っている時は文の事を考えている。だから、寂しくないよね?

今日、文の三十一枚目のカードをスーツのポケットから見つけたよ。文の言うとおりにして行ったんだ。上手く想いが届くと良いな、と思っている。本格的な採用試験はまだ、先になるみたいだから。でもね、関連会社で、もしかしたら、アルバイトが出来るかもしれないんだ。そしたら、カフェを辞めて、そっちで研究しながら働こうと思っているよ。僕も文と同じように前に進み始めたから、安心してね。アパートの鍵は、ベルギーの時みたいに沢山のトラップを仕込んでおくようにね? 大好きな文、どうか日本で無事に暮らしてくれ。迎えに行ける日を楽しみに待っていてね)


 翌朝、文はトーマスからのメールを確認して、特に大きな進展がなかったことを少しがっかりした。しかし、もしかしたら、アルバイトとして、関連会社で働かせてもらえる、ということは、やっぱりトーマスの何かが認められた、という事なのだろう、と捉えた。あとは、真面目なトーマスの働きぶりを会社の人達が見てくれていたら、トーマスは絶対に認められるはずだと思った。


(カードは残り一枚ね?どのカードが見つかっていないのか、私も分からないところが、私も日本にいて楽しいよ。トーマスと一緒に居るみたいで幸せ。トーマス、私を一人ぼっちにしないでいてくれてありがとう。大好きだよ)


翌朝、高校時代の友人、ユミからの電話が鳴った。

「文ちゃん?お帰り! 今日、会える?」

「むしろ、今日しか会えないのよ。また、明後日には引っ越しするの」


 ユミは、高校時代ずっと一緒に遊んでいた悪友だった。文の高校時代の全てを知っている。ユミは、同じ高校の一つ下のバスケ部だった川口と結婚をした。そう・・・文の元カレ、佐々木の友達である。ユミが結婚してからは、文が川崎に行ってしまったこともあって、疎遠になっていた。

二人は、久し振りに会えた喜びを全身で表現した。


「全く、文ちゃんったら、ベルギーに行く事も言ってくれなくて、いつの間にかいなくなっていたから、凄く心配していたんだよ。おばさんから、今、ベルギーにいるのよ、なんて、まるで東京にでも住んでいるみたいに言われた時は、腰を抜かすところだったわよ」

「そういう両親だから仕方ないね・・・ごめんね、ユミちゃん。あの頃は、自分の環境から脱出したくて、心が死んでいたのよ」

「川崎で色々あったんだね?」

「川崎は気に入っていたけど、会社がね・・・明後日からもまた、川崎に住むのよ。会社は東京だけどね」

「相変わらず、キャリアウーマンだね?仕事が好きだもんね? ベルギーでスキル高めたから凄いんじゃないの? それよりもさ、彼氏できた?」

「え?なんで?」

「あれ?文ちゃんが珍しい。女の顔になってるじゃん!図星ね?そのリングと文ちゃんのその表情よ。初めて見るもん」

「そっか・・分かるよね? うん、ベルギーの人と結婚することになったの。あんまり積極的に広めたくないから、ユミちゃんの胸に収めておいてね。正式に結婚した後でなら、好きに広めていいから! その時は、もう私は日本にはいないからさ」

「えぇ?そうなの?ベルギーの彼なんだね?しかも、いつの間にか結婚だなんて!スゴイけど・・寂しいじゃん!」


 文は、トーマスの事、ベルギーでの生活の事をユミに話した。この話は、他に話すつもりはもう、なかった。話したとしても、純粋に文の「心」の部分を聞いてくれる人はいない気がしていたからだ。海外にいた、海外の彼氏が出来た、という方に話が注目されて、文の自慢話みたいに捉えられる事が簡単に想像ついたからだ。だから、ユミにも口止めをお願いした。

 ユミは、文が日本で疲れてしまっていたことは、何となく知っていた。全ては佐々木と別れてから崩れていったからだ。でも、今、目の前にいる文は、誰よりも幸せそうな顔をしている。彼からの愛情を一心に受けている事が想像つく。なぜならば、トーマスの話をするときの文は、ユミが未だかつて見た事がない表情をするからだ。文から聞くトーマスの言葉を聞いても愛されている事はよく分かる。羨ましいくらいだ。ユミは、文に安心させる意味で呟いた。


「佐々木君ね、バスケをもう、やっていないよ・・・完全に止めちゃったの。何かね・・・元気なんだけど、魂が抜けちゃったみたい。一昨年までは、何となくやっていたんだけど、去年に完全に止めたの」

「そうだったんだ・・知らなかった。それじゃ、魂が抜けても仕方ないね?あんなに大好きなバスケだったから気の毒に。何かあったんだね・・」

「しょうがないよ。環境がそうじゃなかったんだよ。文ちゃんと一緒に居ればよかったのにさ!」

「これも縁だから、ね?ユミちゃん。 実は、トーマスもバスケをやる人なの。彼もずっとバスケを続けたいって、佐々木君みたいな事を言ってるから、バスケマンはみんなそう言うんだな~なんて感心しちゃった。トーマスのバスケをやっている姿を見たら、佐々木君をすっかり忘れてしまって、今はどんなバスケをやっていたのか思い出そうとしても、トーマスになっちゃうの。佐々木君を思い出せなくなっているのよ。不思議ね・・・」

「へぇ・・・じゃあ、バスケも佐々木君みたいに上手いんだね?」

「うん、それ以上だと思うよ。私ね、初めてトーマスのプレイを見た日、彼がかっこよすぎて失神しちゃったの」


ユミは、笑った。文から誕生日パーティとトーマスとのミニ結婚式の写真を見せられた。そこに映る二人は眩しいくらい幸せそうだった。


「文ちゃん、絶対に幸せになるんだよ。今度は彼を放しちゃダメだからね?」

「うん、私がいないとトーマスも死んじゃうと思うし、私もトーマスがいないと死んじゃうの。今も本当は苦しいの。でも、トーマスも頑張ってくれているから。本当は、ゆっくり就職活動してもいいのに、私と結婚するために必死で頑張ってくれているの」


 我慢していた気持ちが溢れて、文は泣き始めた。寂しさと自分が帰国しなければならなかった責任がこみ上げてきたのだ。


「ばかね~ ゆっくり就職活動することが幸せな事である訳ないじゃん? トーマスみたいな人の方が、誰が見てもカッコイイし、幸せそうに見えているはずよ。自信持ちなさいよ。じゃあ、トーマスは、いつか文ちゃんを迎えにきてくれるの?」

「うん、私はそれを待っているの。トーマスは一年以内に必ず来る、って言ってくれたの。私はそれが二年になっても、彼が来てくれる限り、いつまでも待つわ」


 ユミは、力強く言ってのけた文をやっぱり強い人だ、と思った。友達として自慢したいくらいだった。変わらぬ友情を確認して二人は別れた。

ユミと別れた文は、次の日から引っ越しの手続きを進めて、川崎へと旅立った。


八月から十月が足早に過ぎていった。


 ベルギーで生活を楽しむことを知った文は、ベルギーに行く前のように楽しみながら、生活を切り詰めて、「来るべき時」に備えた。休日には、大好きなボビンでボーダーを編んでみたり、可愛らしいカードを見つけると、設計図からシャドーボックスを制作してみたり、習字やカリグラフィの練習は、週に何度かは向き合うように心がけていた。そして、結婚に向けての資料をどうしたら良いのか、専門員と相談しながら準備も着実に進めていた。何度、書類が無駄になってもいいから、いつでも飛び立てるように準備をしていた。そして、夜間のフランス語の学校は、就職してすぐに通い始めた。文の行動はいつも目的が明確だった。


 仕事は、採用されてすぐに、経理部に所属し、その中でも「営業事務」を任されていた。その為、営業部からの伝票の整理をするので、色々な事が「見えてくる」ようになっていた。取引先の業者や生産者などが来社することも多かったので、積極的に関わるように心がけた。そうすることで、先方との信頼関係も築きやすい事を文はよく知っていた。黒木の片腕になるのは簡単だった。が、文は、常に新人として振舞っていた。文のその態度を察して、黒木も文に直接指示を出さないようにしていた。

いつも謙虚で、一生懸命な文は誰からも慕われていた。ヨーロッパの取引先で、フランス語が必要な時は、文が大いに助けてくれるので、信頼を得るのにも時間は必要なかった。

 採用されて九月を過ぎたころ、プロジェクトの話が持ち上がった。オランダとベルギーに卸す食料品で目新しいものを取り入れたいが、どんなプロジェクトで仕掛けて行こうか?という事だった。営業部の会議に営業事務として、文も参加したのだ。プロジェクトメンバーの従業員はみんなで意見が一致していた。


「文さんがあちらに住んでいて、日本食材のお店で働いていたんだから、彼女に聞くのが一番早いんじゃないの?」


 文は、(来た~~~~~!)と叫びたくなる気持ちだった。その為ではないけど、豪に一矢報いるために、密かに取引先や生産者の事を調べたり、話を聞いたりして情報を集めていたからだ。

 文はそこで、プロジェクトメンバーに選ばれて、営業の人達とチームとして動くことになった。文が「ゆかり」で働きながら感じていた事やベルギー人の日本食への興味の持ち方などを話して、それを分かりやすいプロジェクトにして、これを単発で打っていくのでなく、何弾にも打ち込んでいく事を勧めた。実際の現場にいた文の言葉には説得力があり、力があった。あとは、営業部の経験と勘が頼りだった。その話をトーマスと豪にもメールで知らせた。豪から嬉しい知らせが来た。


(そのプロジェクトが上手くいくかどうかを俺の店を実験台にしてみてほしい)


文は、それをプロジェクトメンバーにも伝えた。会社としても危ない橋を渡るリスクが少なくて済むのだ。大きなプロジェクトの前の小さな計画として進めることにした。文は、すかさず意見を続けた。


「それならば、考えているところがあります。ミニ計画の第一弾は、山梨の生産者と静岡の業者で進めたいです。その商品の動きを逐一、ベルギーの加藤さんから報告していただいて、良さそうだったら、そのミニ計画を大きなプロジェクトにして進めて、同時に今度は第二弾のミニ計画を同じ規模の店舗で実験させていただいて、良ければまた、第二の大きなプロジェクトにしていく、って言う風にしてみてはどうでしょう? 恐らくフランス、ドイツなど近隣でも上手くいくと思います」

「凄いな! これは中長期計画で立てた方が良さそうだな? 失敗する事もあるかもしれないし、爆発するものもあるかもしれないな? じゃあ、月見さんは、その山梨と静岡の件は八木をつけるから進めてくれるか?八木一人で足りるかな?」

「はい、八木さんは、頼りになりますし、尊敬しておりますので、安心です。ありがとうございます」


一気に営業部に活気がみなぎってきた。規模としてはそれほど大きな取引になる訳ではないのだが、誰が想像しても、中長期的に続けられる取引内容になりそうだからだ。


 八木と文は、打ち合わせに入った。文が地道に調べ上げて、あと少しで「形」になろうとしていたので、丁度良かった。文は自分の手柄にする事に全く興味を持っていないし、この会社を背負っていくつもりもなかったので、営業部の誰かにこの話をまとめてほしかったのだ。

 八木は文から一通りの話を聞かされて、呆気にとられていた。文は、既に「営業事務」として、先方とも信頼関係を築いていて、先方の内情もかなり把握していた。あとは、文が睨んだ商品がベルギーで通用するか?だけに絞られていた。それは、八木に頼るしかなかった。

「いやぁ、これを成功させなかったら、男が廃るな・・・文ちゃん、頑張らせてもらうよ」

八木の仕事ぶりを見ていれば、大きな間違いが起こらない核心を文は持っていた。


「このミニ計画が実現すれば、きっと親会社のリヤンのベルギースタッフが必ず来るはずなんだ。いずれ、ビッグプロジェクトになれば、リヤンが一手に引き受けて、そこから僕たちの会社は、下請けに回る訳だからね?」

「私の旦那様になる人がリヤンに就職活動をしているんですよ。そうなんですね?そうやって、リヤンとは関わっていくんですね・・・」

「そっか。文ちゃんの旦那さんになる人はベルギーの人だったね? 偉いな。学生の彼が男になるのを日本で待つ女か・・ガンバレヨ。男は文ちゃんみたいな女を絶対に守りたくなるはずだからな?」

「はい、ありがとうございます」


十一月。とうとうミニ計画が本格的に動き始めた。

そして、何よりも文を喜ばせたのは、このミニ計画の実験店舗である「ゆかり」の豪が、十二月にその生産者と業者に会う為に日本に視察に来ることになったのだ。豪は、メールの中で、仕事半分、文の両親へ挨拶半分の為に来る、と言っていた。それでも文は嬉しかった。自分のプロジェクトを豪に直接見せて、判断を仰げるからだ。


(文、俺は、日本に到着したら、まず、文のご両親に挨拶に行きたい。その次の日に生産者に会って、その後で静岡の業者に会いたい。もしかしたら、久し振りの日本だから、東京の友達にも会いたいな、と思っているから、そのつもりでいてくれよ。それから、俺は、伸び伸び寝たいから、ダブルの部屋を予約しておいてくれ。頼むからシングルなんて部屋はやめてくれよ)


 いかにも豪らしいメールが来た。文は、豪がシングルのベッドで小さくなって眠る姿を想像して、次にダブルのベッドで大の字になって眠る姿を想像したら、笑いが止まらなくなってしまった。

(店長らしい!)


 八木によって、計画は着実に進められていった。八木は文の気持ちや想いを汲んでいたので、一つ一つ文に確認していくスタンスに、文も安心して任せられた。そして、豪が来日する日が十二月の十九日に決まった。山梨の生産者に会うのは、二十日の日。静岡の業者に出向くのは、二十二日に決定した。

 文は、山梨の両親に豪が来ることを伝えた。そして、山梨のホテルをダブルの部屋で予約した。豪が、あとの宿泊は東京の友達の所に行くから、と言うので、何もしなかった。


(文・・・ボスがいよいよ文の所へ行くね?お土産は何がいいかな?LEOのチョコかい?それともノイハウスのチョコかな?何でも欲しいものを言って。大好きだよ、文。早く僕も会いたい)

(トーマス、チョコはいらない。でも、欲しいものはあるの。今、トーマスが着ているトレーナーを袋に詰めて店長に渡して。店長は袋を絶対に開けちゃダメ!って言ってね。それだけでいい。店長が到着したら、またメールするね)

(僕がトレーナーを着ているのをよく分かったね?了解。ボスに渡しておくよ)

文は、トーマスと同じ寂しさを噛み締めて、そっと泣いた。


 文は、十八日の仕事を終えると、山梨の実家へ戻った。豪を迎えに行くのは車で行こうと決めていたからだ。

(店長に電車を乗り継いでなんて事、させられない!)

八木とは、現地で合流することにした。取引は、八木の腕にかかっていた。


 翌朝、文は妹の車を借りて空港を目指すために家を出た。すると、ユミに偶然会った。

「文ちゃん、おはよう!帰ってきてたのね? いつまでいるの?」

「うん、仕事でね・・・明日までかな? また、ゆっくり帰ってくる時は連絡するね。この前はありがと!」

「うん! 気を付けて行ってらっしゃい!」


 文は、久し振りに会える豪の事が楽しみだった。文が頑張ってきたことを沢山、話をしたい。トーマスの事を沢山聞きたい。トーマスに色々な事を聞くと、変なプレッシャーを与えてしまいそうで怖かったからだ。就職活動には入っているのだろうか? 豪から色々聞き出したいと思っていた。


 空港で昼食を済ませて、到着フロアに向かった。飛行機が着いたからと言って、すぐに出てくるわけではないのに、どうしても早く行ってしまうのはなぜだろう?ドキドキしていた。

(私のベルギーのお父さん。何を日本のお父さんに話してくれるのだろう? そんなことはどうでもいい。早く店長に会いたい!)


 文が祈るように旅人たちが出てくる度に、次か?この次か?と、開かれる扉を両手を絡ませて見つめていると、文を見つけた見覚えのあるその男性は、

「文!」と叫んで、文の元へ駆けてきた。文は腰を抜かして、その場にペタンとしゃがみこんでしまった。


「トーマス?何でトーマス?」

「文…待たせたね。おいで!」


 文は、ずっと寂しさを我慢していたので、大粒の涙を次から次へとこぼしながら、トーマスに抱きついた。腰が抜けたまま・・・

トーマスが、力いっぱい文を抱き上げ、立たせて、もう一度強く抱きしめた。トーマスの胸の中で文は、事態を上手く呑み込めていなかった。


「どうしているの?どうして来てくれたの?どうして来ることを言ってくれなかったの?」

「ごめんよ。文を驚かせたかったんだ。報告しなくちゃならない事が沢山あって、それは、こうして文の顔を見ながら話したかったんだ。メールでなんか伝えたくなかったんだ。ごめんよ。文がいくら怒ってもいい。泣いてもいい。それでも、今日の事は内緒にしたかったんだ。ごめん・・・文が元気そうで良かった。でも、少しやせたね?大丈夫かい?」

「だって・・・大食いのトーマスが一緒にいないんだもん。一人ぼっちのご飯は美味しくないんだもん」

「そっか・・そうだよね?本当に待たせたね?」

「ううん、まだ、五か月だもん・・・・でも、もう五か月経っちゃったね・・・」


トーマスの後ろから、豪が顔をのぞかせた。

「文、ずいぶんだな?俺がトーマスの後ろにいるのに、お前は全く見えていなかっただろ?」

「はい、全く見えませんでした!」

豪は、豪快に笑って、文は相変わらずな女だ、と言って、文の頭をグチャグチャにした。文はそれが嬉しかった。自分の家族が戻ってきたようだった。

 文は、トーマスから決して離れなかった。そして、お互いのチェーンにかけられたリングをトーマスが旅立つ日まで、再びお互いの指定席となる薬指にはめた。はめると、それまでの五か月の支え合った色々なことを思い出し、お互い見つめ合っていた。


「文、ここからどうやって山梨へ向かうんだ?」

と、豪が聞いた事で、文は我に返った。

「私の車でお送りしますけど、両親にトーマスが来ること言ってないです!トーマスは両親に会うの?」

「当たり前だろ?俺がご両親に挨拶して何になるんだ?お前は、相変わらず鈍いな~ 俺が山梨のご両親に、って言った時点で気付くべきだろ?」

「えぇ????そうなの???私、両親に電話します!」

豪と文のやりとりにトーマスは終始笑っていた。ベルギーの時の「ゆかり」にいるみたいだったからだ。


「文って運転が出来るんだね?」

「そうよ。バリバリ!山梨は車が無いと不便な所だからね。東京や川崎では運転しないけど、山梨にいる時は運転しているんだ。ドライブも好きなんだよ」

「そっか・・・じゃあ、ベルギーでも運転できるね」

「う~ん、玉野さんの運転を見ていた時に想像したけど、私には出来そうもないって思っちゃった。でも、練習してみるよ。トーマスも運転するの?」

「もちろん、出来るよ。二人であちこち行くこと出来るね」


また、新しい未来が生まれた。トーマスの優しい声が好き。栗色の髪の毛と瞳の色も好き。身長が高い所も好き。筋肉質な体も好き。広い胸の中も背中も好き。文を見下ろす包み込む眼差しが好き。文は叫んだ!

「トーマスを大好きが渋滞してる!」


 文の運転で山梨へと向かった。夕方前に到着できた。文の両親と雪夫婦が新しい家族に会える喜びで豪とトーマスを出迎えた。


「遠い日本までようこそお越しくださいました。文が大変お世話になりました」

と、父親が挨拶すると、皆が一斉にお辞儀をした。豪は、突然、トーマスを連れてくることになり、申し訳ないと詫びた。トーマスも「ごめんなさい」と日本語で詫びた。


「早く会えることになって、逆に大歓迎ですよ。さぁ、さぁ中に入って下さい」

と、母親が促し、皆で家に入った。文は、トーマスとずっと手を繋いでいた。皆が着席すると、トーマスは文とつないでいた手を離して、その場に立った。


「お父さん、お母さん、僕は文さんが大好きです。彼女を生涯、大切にし、守り抜く事を誓いますので、結婚を認めて下さい。お願いします」

と、日本語で言って、頭を下げた。豪から教えてもらいながら、一生懸命に今日のために覚えた日本語だ。文は、そのトーマスの姿を見て、思わず立ち上がり、我慢していた気持ちが解放されて号泣しながら、トーマスにもたれた。つられて雪も号泣していた。トーマスは文を優しく抱き寄せた。


「豪さん、申し訳ないのですが、トーマス君に通訳していただけますか?」

「もちろんです。そのつもりで本日は帯同させていただいております」


 文の父親は、文に話して聞かせたようにトーマスへも同じことを話した。そして、幼少からの文の話や大人になってからの文の話などを聞かせた。

「情けないくらいに文には親として何もしてあげていないのです。反面教師と言うのでしょうか?こんな風にならないように頑張っているように見えました。だから、どこに嫁に出しても胸を張って送り出せます。きっと、日本にいる時は寂しかったと思います。でも、先日、ベルギーから帰ってきた文が、誠に生き生きとした娘になって帰ってきたので、トーマス君の話を聞いた時に全てが納得できました。どうか、宜しくお願いします。私達がしてあげられなかった分もトーマス君が文を幸せにしていただけたら、私達も荷がおろせます。本当にありがとう」


トーマスは、日本語で「ありがとうございます」と言った。そして、そこからは母国語で話し始めた。豪が両親と雪たちに通訳をしている。


「皆さんにご報告があります。文もよく聞いてね? 僕は、就職先が決まりました」

文は「えぇ?」と、息を思いっきり吸って口を押えたまま固まった。


「文のおかげで、ご縁のあった会社から内定を受けて、来年の九月からそこで、社員として働きます。そして、今も実は、その会社でインターンとして働かせていただいております。だから、文を堂々と迎えに来ることが出来ました。このまま連れ帰りたいのですが、文にも会社があり、仕事の引継の準備も必要だと思いますので、来年の四月に再び日本に迎えに来ます。文、準備はいいね?」

「本当に?本当に信じていいの?もしかして、リヤンに内定したの?」

「そうだよ。文が縁導商社に内定した日に僕も内定したんだよ。同じ日に!」


文は、みんなが見ている目の前で、わき目もふらず、トーマスに抱きついて泣いた。

「よかった・・・本当によかった。トーマス凄いわ。リヤンに就職できるなんて!凄い!ありがとう。私、トーマスと生活できるのね?もう、本当に一人ぼっちじゃなくなるんだよね?」

「そうだよ。だから、忙しくなるよ。四月に迎えに来るまでに準備しなくちゃね?」

家族の皆がトーマスにおめでとう!と言った。雪は、思いついたようにみんなに提案した。


「そしたら、日本でも家族だけで結婚式やろうよ。この前のDVDみたいにさぁ。そしたら、お父さんたちも、あっちまで行かなくても、姉ちゃんのウェディング姿見れるし、トーマスさんは、姉ちゃんのウェディング姿を何度も見られる訳でしょ?その費用、私達のお祝いとして受け取ってよ」

「雪、それ、いいアイデアだね。そうしようよ」

と、雪の旦那さんも盛り上がる。トーマスは、豪から通訳されたその言葉を聞きながら、感謝していた。


 文は、突然の色々な出来事を処理しきれなくて、軽いパニックを起こしていた。皆は、良かった、よかった、と言って盛り上がっているが、この五か月のトーマスの身の上に起きた出来事は、じっくり聞きたかった。文のそんな気持ちをトーマスと豪は、察していた。

 豪は、文の家族に向けて、自分には子供が授からず、そんな時に文がやってきたので、我が子同然に厳しく、時には甘く、生活を共にしてきた、と言った。それは、トーマスに対しても同じで、豪は文とトーマスに対して、親の真似事をさせてもらっている、と言った。そして、いつかは、自分の店を二人に任せたいと思っている事も言った。どうやら、そのことについては、トーマスには話をしているようだった。だから、ベルギーでの文の事は、トーマスの父親と自分たち夫婦で見守っていくので安心してほしいと伝えた。


「それでだ、文。お前には色々と内緒にしていたから、今夜はトーマスとゆっくり話をしたいだろ? お前の予約したホテルに二人で泊まりなさい。俺は、文のご家族に色々な話をしたいから、申し訳ないが、このお家に泊まらせていただいてもいいですか?」

「もちろん、是非、そうしてくださいよ」

と、両親揃って言ったので、豪はホッとした。文は、豪の計らいに感謝した。雪たちは、トーマスに向かって、必死に英語で会話に挑戦していた。そして、文の事を頼む、と雪が言えば、その旦那は、文のあんな表情を見た事がなかったから、感動した、と言っていた。豪の計らいで、夕飯前にトーマスと文は解放された。

 文は、実家近くの予約したホテルに行き、荷物を置いて、ホテル近くの居酒屋にトーマスを連れて行った。トーマスも文に初めから伝えなければいけないと思っていたので、二人きりになれたことを喜んだ。二人きりになった瞬間、文はトーマスに甘え続けていた。そして、びっくりさせたことを突つき続けた。


「かんぱ~い」

「本当に文、ごめんね?」

「うん、もういいの。だって、本当にこんなに早く迎えに来てくれたんだもん。喜ばなくちゃいけないのに、ビックリの方が先にきちゃって、頭が混乱していたの。喜ぶべきか?驚くべきか?怒るべきか?ってね」

「そうだよね。でも、本当にうれしくって、どうしても、目の前で文に伝えたくってさ。あの時に伝えていたら、文はすぐに会いたくなるだろ? 僕は、インターンの身分だから、迎えにも行けないし。で! あそこでは言えなかったけど、もう一つサプライズがあってね。今回、僕は、文のプロジェクトの一員として日本に送り込まれているんだよ。リヤンのベルギースタッフとして、立花さんと一緒にね」

「立花さんって?」

「ほら、クリスマスパーティで文の隣にいたリヤンの人だよ」

「やっぱり、あの方が、トーマスを導いて下さったのね?」

「そうさ。あの時に文が誘ってくれなかったら、こんな風にはならなかったよ」

「あれは、加藤さんがトーマスも誘いなさい、って言ってくれたからよ」

「でも、加藤さんに僕の事を大切な人だ、って言ってくれたから、誘ってくれたんだよ」

文は素敵な縁が紡がれている事に感謝しかなかった。

「じゃあ、明日の生産者との取引の現場にもトーマスは行くの?」

「そうだよ。文は通訳してくれよ。立花さんは静岡の業者から合流するから、明日は責任重大なんだ」

「トーマス、凄いじゃないの!」

「僕も文のプロジェクトを成功させたいんだ。僕にとっての大きな初仕事が文のプロジェクトなんだからさ」


 文は、トーマスの横に座り、トーマスにもたれた。それだけでは足りなくて、腕を組んだ。縁導商社に入社してからの張りつめた気持ちから解放された瞬間だった。

「すごく嬉しい・・・私も頑張る!」


二人は、食事を食べ終えると、ホテルの部屋に戻った。

「店長がダブルの部屋っていうから、面白いなぁ~って笑っていたのに、逆に笑われていたのね?」


 トーマスは、スーツケースを開けると、文に

「ほら、文へお土産だよ」

と言って、トレーナーが入った袋を渡した。文は袋の中を確認してそっと、自分のスーツケースに入れた。

「これは、トーマスが帰国してからのお守りなの。よかった。店長に渡されても、きっと、店長は中身を見るんだろうな、って疑っていたの」

トーマスは、舌をペロッと出す文を愛おしく思った。


「文、三十二枚目のメッセージカードは、このスーツケースにあった。今回の旅で、荷物を入れなおしている時に発見したんだ。

(私は、アーツ・ロワでトーマスに一目ぼれしました。あの日から、私の生活はトーマス一色です。これからもずっと・・・トーマス、大好き)

文のカードが、僕を支えてくれていたんだ、ずっと。ボスも気遣ってくれていたけど、やっぱり、僕は文の存在が全てだった。文を想えば頑張れた。あれから、インターンと内定をもらって、ボスに相談したんだ。どうやって、インターンとして働こうか?ってね。ボスは、思う存分、インターンとして働け、って言ってくれた。その代わり、ゆかりでも働いたよ。リヤンが休みの土曜日は一日中。リヤンの日は、夜働くんだ。品出しや在庫管理、発注、総菜の仕込み、店内の掃除。見つけられる仕事は何でもやったよ。大学との両立も大変だったけど、その方が寂しさを紛らすことが出来て好都合だった。一番つらかったことは、ゆかりに文がいない事だよ。僕が仕事の事で悩んでいても相談できる人がいない。でも、そんな時でも、文のメールは、僕のほんの少しの異変をキャッチして、何かしらのヒントを投げかけてくれたよね?分かっているんだ。僕は、いつも救われているのに、僕は文を支えているのだろうか?って心配になるよ」


複雑そうなトーマスの表情を見て、文は微笑んで答えた。


「トーマスの存在そのものが私を支えてくれているよ。私を見て分からない?」

「分かるよ。文は、僕にだけ甘えたがる、ってこと」

「そう!私は、トーマスに出会うまで甘えた事がなかったのよ。トーマスがいなくちゃ、私はどうしたらいいの?」

「そうだよね。文は僕にしか甘えられないんだもんね?」

「そうよ。他の人にはどうやっていいのか分からないの。トーマスには、本当の私を見ていてほしいの。今は、トーマスが四月に来てくれることを信じて、頑張る。今度会う時には、もう我慢しなくていいんだもんね?」

「そうだよ。思いっきり甘えられるんだよ。それに今度ベルギーに戻ったら、文はあのキャビネットに再会できる。今はテルビューレンのミニチュアフードと、文の作品の色々なものを飾っているんだ。それから・・・ベルギーの曇天な空も、あの白樺道も、風も、花たちも、それから僕達の仲間たちがみんな文を待っているよ」


ベルギーで一緒に暮らしていた時のように、ずっとずっと話しながら、トーマスの胸の中で眠りに落ちていった。久し振りの安ど感だった。トーマスも文の確かな存在を確かめるように強く抱きしめて離さなかった。文の寝息と文から伝わる文の鼓動がたまらなく愛おしかった。


次の日、実家にいる豪を迎えに行き、東京から合流する八木と連絡を取りながら、現地へと向かった。豪は、文の家族と意気投合したのか、どちらも、とてもご機嫌だった。トーマスは、文の両親に向かって、四月にまた来ます、と言って、文の実家を後にした。

トーマスは、心なしか緊張をしているようだった。文は、トーマスに生産者の話を色々なエピソードを交えながら伝えていた。

現地で八木と合流すると、八木はトーマスを見て、すぐに文のフィアンセであることを悟った。


「もしかして、文ちゃんの彼? 彼がリヤンのスタッフとしてきたんだね?」

「そうなんです。私も昨日、知ったので、まだ動揺しています。八木さん、今日は宜しくお願い致します。彼は、リヤンのインターンのトーマスです。来年の九月から正式に社員として働く予定です。私が彼の通訳として帯同いたしますので、宜しくお願い致します」

トーマスは文がいつも世話になっている事に対して礼を述べ、初めての取引のため、サポートを宜しくお願いします、と丁寧に伝えた。八木は、外国人としては、珍しく礼儀正しいトーマスをすぐにとても気に入った。


     *****


 生産者との契約も八木のおかげで、無事にうまく運ぶことが出来て、文は、豪への恩返しが一つ出来た満足感に酔いしれた。ここからが本当の意味で八木と文の仕事にはなるのだが、ここまでの信頼関係を築く事も大きな仕事だったのだ。この取引が双方にとって、利益をもたらすものでなくてはいけない。しかも良好な関係を維持しながら。そこが文の役目であることは重々承知していた。

明後日の静岡の業者との打ち合わせもうまく運べるように祈るばかりだった。


豪は、ひとつの大きな仕事を終えて、満足だった。

「文、本当にありがとう。ベルギーで商品を楽しみにしているよ。それから、俺は、このまま東京に戻ろうと思っているんだ。久し振りの日本だからな、友達に会いたいんだ。明後日の静岡行きの新幹線で、また会う、っていう事でもいいか?」

「そうですね。その方が私達も邪魔者がいなくて安心だわ」

「こいつ~ 言ったな?何かあれば、携帯に連絡くれよ。トーマスの事、頼んだぞ」


豪と八木を駅まで見送り、別れた。トーマスと二人になった文は、トーマスをある所へ誘った。

「日本のバスケショップに行ってみない?」

「いいね。どんな店なんだい? すっかり文との結婚の事と仕事の事でバスケの事が頭から消えていたよ」

 

 文は、以前の彼とよく来ていたバスケショップにトーマスを連れて行った。自分の中の佐々木との思い出をトーマスとの思い出に塗り変えたかったからである。文の小さな佐々木への反逆だった。

店は、街中から少し外れたところにあった。外から見てもバスケショップと分かる店を見て、トーマスの顔が嬉しそうになって文も安堵した。

店内に入ってトーマスは、ベルギーの店と雰囲気が随分違うと言った。色々な物があってワクワクすると言う。

「よかった。喜んでもらえて。日本のバスケショップ記念に何か買おうか?」


 その時に一人の男が店に入ってきた。

その男は、文とトーマスの姿を見ると(そういう事だったんだ・・・)と胸の中で呟いた。しばらくの間、トーマスと文が知らない国の言葉で会話をしながら楽しそうにしている姿を見てから声をかけた。

「文ちゃん」


聞き覚えのあるその声に文は即座に反応した。トーマスは文のその反応に驚き、一瞬その男を見てから、文をじっと見つめた。


「佐々木君? バスケを辞めたって聞いたから、ここには来ないと思ったのに」

「元気そうだね。文ちゃんに会えるかもしれないと思って来てみたんだ」

佐々木は、文の曇った表情を見逃さなかった。


「文、誰だい?」

トーマスは、答えは十分すぎるほど分かっていたが、文の表情を確認したかった。


「トーマス、こちらは私が以前、お付き合いしていた人よ。佐々木さんっていうの」

「佐々木君、私のフィアンセのトーマスよ。ベルギーの人なの。私ね、来年結婚するためにベルギーへ行くの。日本を離れるのよ。トーマスには佐々木君の話もしているから大丈夫。気にしないで!」

「そっか。結婚するんだね? 知らなかったよ。それはおめでとう。よかったね。文ちゃん、トーマス君は英語が話せる?」

「大丈夫よ」

(英語が話せるか聞いているから、大丈夫って答えたよ、トーマス)

「少しトーマス君と話をしたいから二人で外に出てもいい?」

「うん・・・」

(彼が話したいって言っているけど、トーマスは大丈夫?)

「文、大丈夫だよ。ここで記念になるものを選んで待っていてね」


佐々木とトーマスは店を出て、店の外にあるベンチの前で、握手をお互い求めて、固く交わして座った。文はその光景を見て、少し不安を感じながら、品選びをすることにした。目の端で様子を追いながら・・・


「初めまして。佐々木と申します」

「初めまして。文からよく話を聞いています。僕はトーマスです」

「友達から文ちゃんが山梨に帰ってきている、って聞いたから、もしかしたらこの店に来てくれるかも?って、思って寄ってみたんだ。ここは、彼女と僕の思い出の場所だったから。でも、さっき二人の姿を見ていたら、僕の考えは間違っていた。君もバスケをやる人なんだね?」

「はい。僕は小さなころからバスケをやっていて、今も遊び程度にはなりますが、大学でバスケをやっています。高校の頃、バスケが一番楽しい時に一生バスケを続けたい、って思ったことを文に言ったら、貴方もそう言っていたと教えてくれました。そのサポートが出来なかった事が悔しかったみたいです。だから、今は僕の事を全力でサポートしてくれています。今も僕の仕事の取引が終って、僕の息抜きをさせるためにここへ連れて来てくれたんですよ。

 僕は、貴方に文がいつか取られてしまう日が来るんじゃないか、正直に言うと心配でした。日本へ文を帰したくなかった。でも、さっき貴方を見る文の顔を見て、自信を持てました」

「どうして?」

「きっと、貴方も感じたはずです。昔の文が貴方を見る目と、さっきの目では全く違うという事を」

「そうですね・・・たしかに」

「文の僕を見る目とあなたを見る文の目は、全く違ったから、彼女は本当に心から僕を選んでくれたのだ、と確信しました」


 佐々木は、高校の頃に文と心を通わせていた頃の彼女の事を思い出していた。彼女から告白されて、「付き合おう」と応えた日、あの日の空は自分の人生の中で一番輝いていた夏空だった。そして、文からプレゼントにもらって、引退の最後の日まで使っていたタオルもその時の空の青さそのものだった。あの夏空の日の彼女の瞳、何をしていても佐々木のバスケスタイルの一番のサポーターであり、一番の理解者であり、一番の大切な人だった。彼女が自分を見るときの目は、いつも真っすぐで、とろけるような目ととびっきりの笑顔で佐々木を包み込んでいた。一生懸命に佐々木のプレイの感動した事に身振り手振りをつけて熱弁する姿は、嬉しくもあり愛おしくもあった。

「私、佐々木君からお返事貰った日の佐々木君の顔とその佐々木君の先に見えた空の青さを絶対に忘れない!」

キラキラした笑顔で言った彼女の顔が忘れられない。

 さっきの文の表情は、少し困ったような、どちらかというと迷惑そうな顔をしていた。たしかにトーマスの言うとおりだった。


佐々木は遠くを見ながら、トーマスに話をした。

「実は、僕もトーマス君と同じように一生、バスケをやりたかったんです。文ちゃんと付き合うようになったのは夏でした。文ちゃんが三年生で、僕は二年生でした。彼女に(つきあおう!)って言ったときの真っ青な夏空は、今でも鮮明に覚えています。真っ青な空に夏雲が浮かんでいたんだ。彼女と付き合えることが本当に嬉しかった。僕は初めて自分の夢を人に打ち明けました。それを一生懸命に彼女は応援してくれていました。でも、高校のバスケを引退して、傍に文ちゃんがいない生活に耐えられなくなっていて、他の女性と付き合い、結婚をしました。勿論、僕なりに今は幸せです。

でも、心に大きな、大きな穴が開いてしまったような、大切な忘れ物をしてきたような・・・。ずっとモヤモヤした気持ちでした。僕の奥さんは、僕のバスケ選手としての姿を知らなくて、バスケをすることを全力で応援してくれる事はしてくれなかったので、バスケを心から楽しめなくなってしまったのです。それでバスケから離れてしまった・・・

 だからって、彼女を見捨てることも出来ないし、ね。ふとテレビでバスケの試合を見ていた時に、僕のこの意志を誰かがどこかで思いっきりバスケに注ぎ込んでくれたらいいな、って考えるようになったのです。僕の中では、それが僕の子供でもいい、くらいに考えていました。でも、トーマス君がそれを継いでくれるのなら、僕は凄く嬉しいです。だって、君の傍には文ちゃんがいるのだから、彼女もきっと喜ぶはずだから、ね?」

「そっか・・・以前、文が言っていたことがあったんです。貴方が僕に乗り移ったかと思った、って。丁度一年位前ですよ。貴方からバスケの楽しさを教えてもらったから、って言っていました」

「本当? そっか・・・僕の意志は海を越えて、大陸を越えて、トーマス君の所に行ったんだね? ありがとう。何だかスッキリしたよ。バスケは最高なスポーツだよね? 文ちゃんはよく見ている。君に沢山の自信を届けてくれるはずだよ、彼女は。  僕は・・・そんな彼女を裏切った。

でも、彼女がもし、この店に来てくれたら、もしかしたら僕のバスケをまた応援してくれるかな?って、変な期待を持ってきてしまった。トーマス君、ゴメンナサイ。君がいることを知らなかったんだ。彼女は既に別の道を歩いていた。トーマス君のサポーターとしてのね?」

「はい。文は素晴らしい女性です。でも、僕は彼女を絶対に放しません。生涯かけて、必ず幸せにします」

「うん、分かっている。僕が言うのも変だけど、文ちゃんのことを頼みます。僕はきっと彼女を沢山傷つけてしまったから。でも、彼女があんなに幸せそうな顔をしていたから、自分の罪悪感から解放されたよ。トーマス君のおかげだ。本当にありがとう。トーマス君と文ちゃんには誰よりも幸せになってもらわなくちゃね。それから、トーマス君の不安を更に失くす為に言うけどね、確認したことはなかったけど、僕と文ちゃんは、お互い結婚をしたいな、とは思っていた。少なくとも僕は結婚したかった。でもね、そんな風に考えていたのに、文ちゃんと僕は一度も手すら握ったことがなかった。僕は彼女に触れたことがないんだ。それだけは、信じてくれるかな?」

「ありがとうございます。勿論、貴方が言う事は全て信じます。さっきまでは見えない敵に怯えていたけど、今は敵じゃなくて、味方だ、って思えます。貴方に会えて僕も嬉しかったです。ありがとう」

二人は再び固く握手をした。トーマスはさらに佐々木を抱きしめた。


揃って店内に入ると、文が佐々木へ包みを渡した。

「はい、これプレゼント。本当は川崎でこれを買って、山梨に持っていこうと思っていたら、佐々木君と彼女が付き合い始めた事を知って、捨てちゃったの。でも、今なら渡せる。バスケを辞めてもバスケの事は好きでしょ? 佐々木君の分もトーマスが頑張るから、これトーマスだと思って応援していてね。佐々木君と一緒のスモールフォワードなのよ。すっごく上手でカッコイイの。私もトーマスとバスケをしたことがあるのよ。とっても楽しかったわ」


トーマスの話をするときの文は、キラキラしていた。文が差し出したプレゼントは、小さなバスケットボールのキーホルダーだった。

「ありがとう。大切にするよ。文ちゃん、素敵な旦那様でよかったね?」

「うん、世界一幸せなの。佐々木君にも世界で二番目に幸せになってもらわなくちゃ私、困るから。幸せでいてね」


トーマスに通訳して伝えると、トーマスは笑った。その笑顔は自信に満ち溢れていた。

「トーマス、私達の記念はこっちよ」

と言って、お揃いのオレンジ色のタオルを見せた。

「家に帰ったら、これに魔法をかけるね? また暫く離れちゃうから、その魔法があれば、大丈夫なはずよ」

「文の笑顔みたいなタオルの色だね? 楽しみだ」


トーマスと文は佐々木に別れを告げて、店を出た。佐々木は二人の歩く姿を見えなくなるまで、いつまでも店から見守った。仲睦まじく歩く二人は、見ているこちらを幸せにしてくれる。文がトーマスにもたれる仕草は、悔しいくらいに幸せに満ち溢れていた。そして、トーマスの大きな包み込む愛情は、男として羨ましく感じる程だった。

(僕は、トーマス君には敵いはしないよ。君のあんな顔を初めて見せつけられた。僕も君とバスケがしたかったよ。君からもらった青いタオルは、今でも僕だけのお守りだ。幸せになるんだよ、文ちゃん)


トーマスは店を出て、文を抱きよせながら歩いた。

「彼は優しそうな人だったね?」

「トーマスには負けているよ。足元にも及ばない」

「それにカッコイイ人じゃない?バスケも上手そうだよね?」

「前にも言ったけど、トーマスしかカッコイイと思ったことないから! 私は、佐々木君のバスケに惚れたのであって、カッコイイからじゃないもん。それに・・・バスケもどんなバスケをしていたか、佐々木君には言えなかったけど、何も思い出せないの。トーマスが何といっても一番よ」

「文の事もきっと大好きだったんだね?」

「トーマスが私を想ってくれる 大好き には、全然勝てないからダメよ。それに浮気したからダメよ。許さないわ。全ては過去の事よ」


次々に否定する文が面白くもあり、愛おしくてたまらなかった。

「文、世界一幸せにするからね。愛しているよ」

「私もトーマスのことを世界一幸せにするから!」


「トーマス、あのお店はね、彼との思い出のお店だったから、トーマスとの思い出に塗り替えたくて連れてきちゃったの。ごめんね。佐々木君はバスケを辞めた、って友達から聞いていたから、絶対に来ない、って思っていたのに本当にごめんね。嫌な想いさせちゃったね?」

「彼も同じような事を言っていたよ。まさか文に結婚相手がいるとは思っていなかったみたいだったけどね? 彼は、文に会う為に来たんだと思うよ。 高校卒業してすぐにバスケは辞めたんだってさ。僕には考えられないよ。それにさ、僕は彼が好きだよ。文が好きになった人だから、ってのもあるけど、上手く言えないけど、バスケが好きなヤツに悪い人はいないよ」

「トーマスは、やっぱり優しくて素敵だわ。私は、そんな広い心で受け止められないわ。トーマスにまとわりつく女性の事は、全員きっと(キー!)ってネコみたいに引っ掻くかもしれないわ」

「文ならやりかねないね。そんな文も僕は大好きだ」

「でもさ、色々な人生があるのね? 何かを諦めなくちゃいけない時って、きっと私達にもやってくるのね? 出来たらそれは前向きに諦めるのならいいけど、後ろ向きなのは辛いわね? トーマスがそうならないように私はそばで支えたいの。そうさせてくれる?」

「勿論だよ。文にとっての僕もそうでありたいんだ。でも、絶対に諦めたくないのは、文のことだよ。それだけは、絶対にいやだ。諦めない」

「私の心がトーマスから離れないんだから、そこは大丈夫よ、永遠に」



 その日の夕方のうちに二人は、文のアパートがある川崎に向けて山梨を出た。

トーマスは、佐々木と話をして不思議な感覚になっていた。佐々木という存在は確かにそこに存在しているのに、佐々木がやり残した「魂」は自分の中に入り込んでいるような感覚だった。バスケと文への想いだ。佐々木が「自分の意志を受け継ぐものがいたらいい」という言葉を残したからなのか? 

 しかも初めて会うはずの佐々木なのに、自分の中の魂は彼と会えたことを喜んでいるかのように感じていたから、自分でも不思議なくらい佐々木の事を「味方」と言っていた。もしかしたら、佐々木は心底、文と結婚したいと考えていたのかもしれない、と思った。今の佐々木からは文を奪う感じを全く受けなかったのが不思議なくらい、佐々木の文への愛情を感じていた。手も繋げない位、文を大切に思っていたのだ、という事を知った時は、正直、彼に負けた、と思ったが、それすらも彼から祝福されているように思えていた。本当に不思議な感覚だった。

 そして、何よりも彼は文を傷つけ、文を失ってしまった。その後悔がイヤというほど、トーマスには伝わっていた。自分も文を傷つけた事があるからで、一瞬でも文を失うかもしれないと思ったからだ。その末路が彼の現在の姿だとすれば恐ろしい。文が言うように、佐々木の想いが自分の中に入ったのなら、それすらも受け止めて文を幸せにしようと、文と共に幸せを築いていきたいと願った。


 文は、トーマスと一緒に居るときに佐々木に再会できたことを心底良かったと思えた。自分の人生の選択は間違いでなかったことを確信できたからだ。佐々木に出会ったことも、別れた事も全ては「トーマスに会う為、人生を共にする為」だと思えば、辛かった過去も呑み込める。それに、決して佐々木と過ごした時間は、「不幸な時間」ではなく、「幸せな時間」であったことは間違いないからだ。佐々木とのバスケの出会いが無ければ、トーマスとこれほどまでに分かり合えなかったかもしれないからだ。バスケットボールのキーホルダーは、文から佐々木への最後の感謝の気持ちだ。別れをお互いに告げないまま離れてしまった心に今、互いに決別できた。


「ねぇ、トーマス。私ね、日本に帰ってきてから分かったことがあるの。トーマスと過ごした約五か月の間、私はやっぱり、自分に自信が持てなかった。トーマスを信じていない訳ではないのよ? 自分に自信が無くて、自分を一番信じていないのかもしれない。でもね・・・私、このままでいい気がしているの」

「え?どうして?」

「それは、至極単純な答え。(トーマスが居てくれるから)。何が分かったかって言うとね、もしかしたら、私がトーマスに対して、自信が持てるようになった時って、トーマスのことを(空気みたいな存在)に思うようになったり、トーマスがいる事を当たり前みたいに思ってしまうようになる時なのかもしれない、って感じるようになったの。だったら、私は、このまま自信がないままの私でいたいの。死ぬまでトーマスといる事をドキドキしたり、一緒にワクワクしたりしたいの。トーマスが女性と一緒にいるのは絶対に認めないけど、もし、その現場を見たら、泣いて逃げ出したくなるくらい、トーマスを独り占めしたいの。ずっと、トーマスに恋をし続けたいの。嫉妬し続けたいの。だから、このままでいさせてほしいの。それとも、こんな女は面倒くさい? 疲れちゃう?」

「面倒くさいし、疲れちゃうけど、そんな文が大好きだよ。だって、それが僕を好きでいてくれる証拠なら、僕は歓迎するよ。文が離れてしまうことより、ずっと幸せだろ? 文が一生、僕の周りにまとわりついてくるんだよ? 想像するだけでくすぐったいような・・うん、凄く幸せだよ。僕は、文を裏切るようなことは絶対にしない。彼とも約束したんだ。文を幸せにするって。彼のように手放すことは絶対にしない、って挑戦状を叩きつけたんだから、男同士の約束だ。一生かけて守るよ。それに、僕も文には一生ドキドキしていたいんだ。心配し続けたいんだ。僕は、文に愛されている自信を持つことが出来たよ。さっきの彼に向けた文の目を見て、文には僕しかいない、ってね?でも、それが逆に文を幸せにしなくちゃ、っていう責任に変わっている。僕も文とは違う意味でドキドキしているんだ。君が今幸せなのか?って常にね」


 文は、自分のキモチを言葉に出来て安堵していた。トーマスに出会う前の文は、決してこんな話を言えるような女性ではなかった。トーマスにありのままの自分を受け入れてほしいからであり、トーマスのことは、どんなことをしても諦めたくないからだ。佐々木とそんな約束をしている事も知らなかったから、トーマスの決意を知り、とても嬉しかった。


 川崎の文のアパートに到着した。今から明日までは二人きりだ。二人は、アパートに入ると、ベルギーでの五か月を思い出していた。部屋は全く違うのに、不思議な感じだった。

「あ~ん、トーマスが来るって、知っていたら、もっとちゃんとしておけばよかった!」

トーマスは、文の部屋を見て、文がこのプロジェクトにどれほど力を入れていたかを悟った。部屋のあちこちに資料が散乱している。壁にもまるで会議のように写真を沢山貼って、検討してきた痕跡があった。

「文・・・このプロジェクトの始まりから今日までの事、話して聞かせてよ。今日の取引は上手くいったけど、明後日は業者相手だろ? 文が考えている事を僕に教えてほしい。無駄にしたくないんだ。文が参加できるプロジェクトは、今回がもしかしたら最後になるかもしれないだろ?僕も成功させたいんだ」

「安心して。そのつもりだから、今夜、川崎に帰ってきたのよ? 私の中のストーリーを全部聞かせてあげるね。トーマスのこれからのお仕事のヒントになる事があれば、ドンドン使って。私はトーマスのように器用ではないから、私の仕事の結果って、ずっと先になってしまうの。でも、その代わり、息の長い仕事にする自信はあるわよ。今回の取引も絶対に十年以上続けられる取引だと思っているの。双方が努力を重ねていく必要はあるけど、それすらも私は先方にも店長にも、八木さんにも伝えているから、きっと良いご縁が続くと思うの。だから、トーマスにも聞いてほしいわ」


 文は、内定してから今日までの自分のアンテナについてトーマスに話した。久し振りに聞く文の仕事の話に、リヤンのインターンとして成長したトーマスは、ワクワクしながら聞いていた。沢山の資料と写真を見ながら、文と共に働いてきたような気持ちでいた。

 次の日、二人は近所を散策しながら、二人の時間を満喫していた。文が片時も離れない事がトーマスは何よりも嬉しかった。ドキドキしていた。文自身もトーマスと手を繋ぐことも腕を組むことも、当たり前のことなのに、初めてのデートのようにドキドキしていた。明日の契約が楽しみでもあり、その後に来るまた「離れる時間」を考えると、明日が来なければいい、と感じてしまう文がいた。


「そうだ!文に大切な事を言い忘れていた。二人の貯金は順調だよ。今回の旅費も出張費だから、僕は何もお金を使っていないんだ。でもね、四月に来る時には、あの貯金に手を付けることになりそうだけど、勘弁してくれよ?」

「勿論、そのつもりだから。四月はまだ、トーマスは大学生なんだもんね? それでも結婚してくれるの?」

「当たり前だろ? 僕の中では、既に夫婦のつもりでいるよ。文は、僕の奥さんだ。 そうそう、それから、来月に八重さんが一時帰国するみたいだよ。僕が今、日本にいる事は知らないんだ。もちろん、僕のインターンのことも、内定が決まっている事もね」

「うっわぁ!絶対に腰を抜かしそうだね?」

「だろ?文が空港で抜かしたみたいにね?それから・・・文、ありがとう。貴子さんに文が僕のバスケを観ている姿を動画で見せてもらったんだ。メチャクチャ嬉しかったよ。僕を見つめる文と僕のバスケを応援する文に惚れなおしたんだ。本当にありがとう」


 文は、バスケショップで購入したお揃いのタオルに、文が大好きな「ローズウッド」の香りを浸み込ませて袋に入れて、しっかり密封させた。トーマスが疲れてしまった時や、今一つ奮起出来ない時に、このローズウッドの香りが、背中を押してくれるはずだからだ。そして、そのタオルをそっとスーツケースにしまった。


 静岡の契約に向けて、立花が来日して、夜に三人で食事をすることにした。立花は、山梨の契約が上手くいき、静岡の契約も内容を聞いている限りでは、万事、上手く運べそうな気配を感じていた。トーマスを頼もしく感じていた。


 次の日、豪と八木も合流して、皆で静岡に向かった。文が自信をもって、トーマスにプレゼンをした通りに、八木のサポートが功を奏して、無事に契約成立となった。豪は、一足先にベルギーへと帰国することになった。トーマスは、立花と日本での最終打合せがある、という事でリヤンの東京支社に行ってしまった。

 

文は、トーマスから、「四月にベルギーへ二人で帰ろう」と言われ、その言葉を胸に頑張る事を誓った。去り際にトーマスは文に諭すように話をした。


「ねぇ、文・・君は、気付いているのかなぁ?みんなは文の事を明るくて元気で強い女性のイメージでいるよね? 僕の中の文は違うんだよ。文は、みんなが抱いている(イメージの女性)が目標であり、憧れなんじゃないかな?って思っている。勿論、その目標に近い存在ではあるけど、僕の知っている文は、誰よりも弱くて、泣き虫で、甘えん坊で、僕がいなくちゃならないくらい寂しがり屋なんだ。僕は、ちゃんと知っているから安心して。僕も君もお互いがいるからこそ、強くなれる。本当は二人とも弱いよね?文が辛い時は、きっと僕もツライ。だから、大丈夫じゃない時は、いつでも僕を呼んで構わないから。いいね?そしたら、僕たちはまた、大丈夫になれる。 大好きだよ。僕にとって、凄く文が大切なんだ。早く一緒に暮らせるように僕も頑張るからね」

「ありがとう。トーマスが私のことを知っていてくれるから、私も頑張れる。一日でもいい、一分でもいいから、早く迎えに来てね。ちゃんと準備して待っているから」

 二人は、再び文が作ったお互いのリングを交換して別れた。今この瞬間から春までの間のお守りだ。


 八木と会社に戻るときに文は八木に尋ねた。

「八木さんは、トーマスを見て、どうして私の彼だと気づいたんですか?」

「そりゃ、文ちゃんの顔にしっかり書いてあったからさ。私の大切な人ですってね。文ちゃんの彼を見る目は違ったからさぁ」

「え?そんなですか?」

文は頬を染めた。

八木が静かに「折角、プロジェクトの波が来ているのに、また、寂しくなるな」と、文の肩を叩いた。


     *****


 街はすっかりクリスマスのイルミネーションで彩られていた。この寒い冬を越えて、春がやってくる頃に、春風と共にトーマスがやってくる。それまで、文は、自分のなすべきことをしなければならない、と感じていた。

 結婚への覚悟はできている。どんな苦難にも乗り越える自信はある。でも、唯一、文の中でやらなければならないと感じていたことは、やっぱり「語学」だった。もし、子供を授かった時に、言葉を聞き取る事と話すことが出来たとしても、一番困るのは、文にとっては、「書く事」だった。これだけは、真剣に残りの時間で克服しなければならない。誰が困るかと言えば、トーマスと子供である。子供には不憫な思いをさせたくない。母親が日本人であるがために「イジメ」を受けるような「材料」を作ってはいけない。家族を守らなくちゃいけない、トーマスと一緒に。


 文は同世代の若者のように「今が良ければそれでいい!」という楽天的な考え方が出来ない人間だった。そんな一人よがりな考え方は、沢山の人を、そして愛する人を傷つけることになりかねないからだ。偽善者にもなりたくなかった。昔の日本人が大切にしてきた、目上の人を敬い、謙虚な心で物事に立ち向かい、感謝の心をもって取り組む。礼節を重んじ、成長することを止めず、貪欲に吸収することを心掛け、一生懸命に努力を重ねること、一生懸命に働く事、一生懸命に大好きな人を想う事、それらを「続ける」ことを諦めない強い心を持つことを心がけたいと思った。失敗したり、疲れた時には、トーマスの胸の中で羽を休めて、次の活力につなげていく。トーマスにとっての文も、そういう存在でいたいと願った。


 トーマスも文の覚悟を十分すぎる程、感じていた。文は、自分の故郷である「日本」と自分のキャリア全てを日本に置いて、身体一つで自分の元へ来る。トーマスに覚悟がなければ、たちまち文を路頭に迷わせてしまう事になりかねない。文の頼る所は、自分しかいない。そのことを常に忘れないようにすることを肝に銘じた。二度と文を悲しませること、孤独に追い込むことをしない事も二月に悟った。一生かけて文を幸せにすると誓ったのだ。


 トーマスは、文がいてくれたら、何もいらないと思っていた。彼女の魅力は、アンバランスさだ。仕事や普段の時の彼女の考え方は、その辺の大人以上に思慮深い。緻密に計算されている、とさえ感じることが多い。しかも、それらは、彼女にとって、計算ではなく、息を吸うようにごく自然な行動や思考なのだ。ところが、家で二人きりの時の文は、心を休めた一人の女性だ。外では決して見せない「女の子」なのだ。トーマスの言葉一つで笑顔にも泣き顔にもなってしまう。トーマスが文を大好きだ、という感情のベールをかければ、彼女はいくらでも強くいられる。でも、少しでも不安がよぎれば、パリン!とガラスが砕け散るように破壊されてしまう。このアンバランスさにドキドキさせられる。ずっと、彼女に恋し続けられるのだ。彼女が笑顔でいられるように頑張ろうと思った。ある時は、文の旦那さん、またある時は、文のお兄さん、弟になる時もある、彼氏に戻るときもある。文にとって、文の心のままに自分が、文の全ての「時」を包み込む男でいたい。あのアーツ・ロワで思った「彼女を守るのは僕じゃなきゃダメなんだ」という気持ちを、一生持ち続けたいと願った。


 夫婦になって、どんなときにも「ありがとう」「大好き」がずっと言い続けられる夫婦でいたいと二人は願っていた。アーツ・ロワで文を支えたトーマスのように、心も身体も折れてしまった文を優しく抱きしめたトーマスのように、どんなに疲れていても「おかえり!」と満面の笑顔で出迎える文のように、心折れそうなときに小さな体でトーマスの後ろから大きな愛で抱きしめてくれる文のように。


 二年前にベルギーへ旅立つときに探したかった自分は、自分の心と魂のよりどころだった。その場所さえ見つかれば、文はもう迷うことも立ち直れなくなることもないと思った。


 三月が終わりを告げるころ、トーマスとグレン、エリックが日本へやってきた。山梨の小さな教会で結婚式を挙げるためだ。純白のウエディングドレスだけの三十分ほどで終わる結婚式だったが、「家族」皆が幸せだった。文にとって、初めてのドレスだったので、トーマスは感激して泣いていた。

 そして、諸々の手続きを済ませて、文は新しい家族と共にベルギーへと旅立っていった。世界で一番幸せになるために。トーマスと乗る初めての飛行機だったが、二人は、飛行機の長旅がこんなに楽しい旅であることを今まで気付かなかった。ただそこに文がいるだけなのに・・・ただそこにトーマスがいるだけなのに・・・


 文の「自分探しの旅」は、「トーマス探しの旅」となり、やがて「トーマスとの日常」に変わった。文の小さな一歩が、大きく動いた。あの会社での生活に、違和感を覚えなかったら、この幸せを掴むことは出来なかった。それは、文にとっては、海外に行く事だっただけだ。トーマスは、文の眼差しに自分の足りない何かを感じた。それを逃してはいけない、と突き動かされた。思い切って、彼女に声をかけなければ、「今」はなかった。

 二人はこれからも、幸せでいられるための努力を続けることだろう。お互いがいなくなる怖さを知っているからだ。お互いが一緒に居られる時の強さを知っているからだ。

 トーマスが文を見つめると、文が幸せそうに見つめ返した。


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Beljapon (ベルジャポン) たかつ みよし @2865

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