第9話 ベルジャポン ~ゴーフルのように甘く~

 六月も中旬を過ぎたころ、書道教室に行った文は、素敵な出会いがあった。いつものように鉄格子のエレベーターから降りて、町田の教室に向かった。

「こんにちは」

「あら、文さん、丁度良い所に来たわね? こちら、イルダよ」

「イルダ、こちらは、私の大事な生徒の文よ」


文は、そのイルダという女性と「はじめまして」の挨拶をした。

イルダは、教会でカリグラフィーを教えている三十歳の女性。目がクリっと丸くて、笑うと少女のように童顔な顔立ちになる印象の女性だった。

 東洋の「習字」を学ぶ文と西洋の「習字」の技術を磨くイルダが出会ったのだ。

文は、歓喜の雄叫びをあげた。


「素敵!イルダ、貴女に会いたかったわ。私はね、カリグラフィーを日本にいる時から、ずっとやりたかったの!」

「文さんなら、きっと、そうおっしゃると思ったのよ。イルダはね、私の知人のお友達なのよ。素敵な出会いに感謝しなくちゃね」

「先生、ありがとうございます。私、イルダからカリグラフィーを習いたいわ。ダメかしら?」

「あら、いいに決まっているじゃない。彼女も書道をやりたくて来てくれることになったから、彼女が書道を始める前の時間にここで、教えてもらったらどう?」


文は、最高に幸せだった。この喜びをどう表現したら良いのだろう?と戸惑いにも似た感情を抑えきれずにいた。 文は「書く事」が好きである。日本にいる時にも、大好きなカードや色々なパッケージにデザインされている「カリグラフィ」の文字を自分でも描きたくて仕方なかった。専門書も数冊ボロボロになるほど、読み込んでいた。目の前に突然、そのカリグラフィの先生が現れたのだから、舞い上がるのも無理はないだろう。

 イルダは快く、文の先生になることを承諾した。そして、カリグラフィを練習するにあたって、ノートにどんなものを購入したらよいのかを文に説明した。ペンとインクは、イルダが用意することになり、文は子犬のようにはしゃいでいた。

 イルダの説明によると、カリグラフィは、教会によって技法が微妙に異なったりするのだそうだ。自分の技法で良ければ教えられる、と言うので、イルダの技法を学びたい、と伝えた。イルダは、いくつかのカードに書かれたカリグラフィの文字を見せた。

(そう、これだわ。夢にまで見たカリグラフィの世界。帰国前にこれが学べるなんて!なんて素敵なんでしょう・・・)

 文は次回の約束をして、高ぶる気持ちを静めながら、その日の作品に向き合った。

書道を終えると、ゆかりに向かう前に、早速、文具店に立ち寄り、イルダが言っていたノートを買い求めた。何の変哲もないノートだけれど、文には宝物だったので、胸に抱えてゆかりへ向かった。


「文、何だ?それ」

豪がめざとく見つけて文に聞いた。

「私、カリグラフィを始めるんです」

「はぁ?お前は、来月、帰国するんだろ?全く、病気だな?」

「はい、病気です。何とでも言ってください。今の私はラッキーすぎて、そのくらいの悪口を言われないと、どこかで大きな落とし穴がありそうで怖いくらいですもの!」

「こりゃ、トーマスが大変だ!」

文は、豪の言葉が聞こえていなかった。次のレッスンが楽しみで仕方なかったからだ。(あぁ、明後日が待ち遠しい!)


 その日、トーマスはアパートに着くと、文からカリグラフィの話を聞いた。


「次々に知り合いが出来るね、文は。カリグラフィも挑戦するんだね?」

「もちろん、そうよ。そしたら、トーマスへのカードもカリグラフィで書くことが出来るでしょ?素敵~」

「文が無理なく出来るのなら、頑張ったらいいよ。それから・・・文、今日は大切なお願いがあるんだ」


 トーマスが改まって言うので、文は、帰国が近い事を何か話すのかな?と思ったので、思わず正座をして耳を傾けた。


「来月、文は誕生日だろ? だから、パーティをやりたいな、って思ってね。出来れば、ベルギーのみんなにお祝いしてほしくてさ。だから、七月七日、ってわけにはいかないけれど、その前の七月六日なら、日曜日だから、みんなも集まれるだろ?その日にパーティをやろうと思っているんだ。その日はお願いだから、予定を入れないでね?」


 ようやく、九割以上の準備が整ってきていたので、文に伝えることにした。早めに伝えなければ、文が予定をドンドンどこかから持ってきてしまう恐れもあったからだった。


「わぁ!凄く嬉しい。去年は寂しい誕生日だったから、すごく嬉しいよ、トーマス」


文は、自分も何かをトーマスに伝え忘れているような気がして、必死に思い出した。

しばらくして、文は大変な忘れ物をしている事を思い出した!


「トーマス! 七月三日の木曜日、トーマスの予定を空けておいて欲しいの。その日はオメガングのお祭りで、カトリーヌからチケットを譲っていただいていたの。すっかり忘れていたわ。よかったぁ・・思い出せて・・」

「オメガングのチケットが取れているの?」

「そうよ。カトリーヌは貴族なんだもの。当日は参列するんですって。凄いね~何だか別世界の人達みたいよね、貴族って」

「よかった。チケットがなかなか取れないから、席には座れないけど、どこかで行進を見に行ければいい、って考えていたんだよ。文がチケットを取っていてくれたなんて! ラッキーだよ。よかった。文、ありがとう」

「私のおかげじゃなくて、カトリーヌのおかげよ」

「感謝しなくちゃね? 実は、ボスには、三日の日は二人で休ませてください、ってお願いしているんだ」

「わぁ!さすが、トーマスね。ありがとう。オメガングの日は、サブロン教会も見学に行くでしょ? 私ね、その前に裁判所も見に行きたいなぁ。いつも通り過ぎるだけで、あそこで降りた事が無いのよ。あの場所からブラッセルの街並みを帰国前に見てみたいの」


二人は、文の帰国の話はなるべくしないで、「明るい話題」になるように努めていた。トーマスも文も離れたら、寂しさに耐えられる自信が今はなかったからだ。


 月曜日。最後のポーセリンアートのレッスンの日がやってきた。今日は、マロニエの葉を描いた箸置きを取りに行く日だった。レッスンは何もしない。文は、サラに「書」のプレゼントとボビンレースの飾りのプレゼントを用意していた。


 サラから、出来上がった箸置きを受け取った。我ながら上手くできたな、と思えた。もちろん、マロニエの葉は、トーマスに描いてもらったものを下絵にした。筆遣いだけは少し、自信がついてきたところだった。


「文のベルギーの友人たちは、きっとこの箸置きを喜ぶはずよ。上手にできているもの。短い期間だったけど、よく頑張ったわね?」

「サラのおかげです。サラ、私からサラへ、小さな感謝の気持ちのプレゼントがあるの。受け取っていただける?」

「あら! 文の書道の作品ね? 立派な文字だわ。だから、筆遣いは上手にできたのね?納得よ。あら?これは、ボビンレースじゃないの?もしかして、これも文が作ったの?」

「そうなの。まだまだ上手に出来ないし、出来る作品が限られているから、これから夏、っていうのに、雪の結晶なんか作ってごめんなさい。でも私、この作品、とっても好きなの」

「有難くいただくわ。大切にするわね。私からも文に冬のプレゼントがあるのよ」


 サラがキャビネットから取り出した、直径十センチほどの皿には、グラン・プラスの王の家が描かれていた。雪がグラン・プラスの石畳に降り積もっている。文へ・・とカリグラフィの文字で書かれている。冬の夜の王の家と分かる。クリスマスソングが聞こえてきそうな、恋人たちの囁き声が聞こえてきそうな、優しいぬくもりのある絵だった。


「サラ、とっても嬉しいけど、いただくのが申し訳ないくらいよ」

「私は文がどこに行っても、文とともにいるわ。忘れないでね」


 文は、サラの優しさに涙腺が崩壊した。涙が止まらなくなってしまった。サラは、静かに文を泣かせた。


「紅茶を入れてくるから、ゆっくり泣きなさい」


 サラは、文とトーマスの事も知っている。文が健気にトーマスと離れることを耐えている事も知っている。サラは、自分の主人と死に別れてしまった悲しみを抱える女性なので、文が寂しさに耐えている事は、文との会話の端々から感じていた。


「トーマスは、生きているのよ。また、しばらくしたら、必ず会えるのだから、前を向いて、日本でトーマスを笑顔で待つのよ」


 ダージリンの香りをさせた紅茶を運びながら、文に諭すように言った。文はサラの優しさが嬉しかった。寂しさと闘う勇気が出る気がしていた。頑張れる気がした。


 金曜日のジュエリー工房のレッスンも終わりに近づいていた。文は、二つのリングの他に自分用のピアスも作っていた。シンプルなシルバーのバスケットボール型のピアスだ。ピアスの方が先に仕上がっていた。文は、溶接の作業が不思議な事に好きだった。ピアスの金具と文が作ったボール型を合体させるときの溶接は、最高に楽しかった。自分でも溶接は不器用なわりに上手じゃないかな?と思っていたので、クレイマーに質問してみた。


「私って、他の作業はお世辞にも上手い!とは言えないけど、溶接だけは少し上手くない?」

クレイマーは笑いながら、でも、少し真剣に答えた。

「確かに溶接は、上手いと思うよ。僕が直さなくてもいい出来具合だからね、いつも。文は、いつも一生懸命に取り組んで、本当によく頑張っていると思うよ。デザインの生徒たちも君の事を感心して言っているよ」


 文の十八番は、この「一生懸命」なのだ。好きな言葉も「努力」「感謝」「謙虚」の三本柱。自分には、何の才能もないけれど、もし、これが才能、と評価してもらえるのなら、それは「何事にも一生懸命」ということだ。ベルギーに来てからは、特にこの言葉を皆から言われるようになっていた。それがとても嬉しかった。日本では、どちらかと言えば疎まれる「一生懸命」。お国が変われば、人の価値観も変わるものだ。


 出来上がったピアスを早速着けてみた。自分が作ったものを身に着ける、ということは何だか照れ臭いものだ。ペアリングは何とか次の週には完成出来そうだ。ギリギリ六月だ。でも、トーマスに渡すのは、帰国の日にしようと考えていた。

その日の夜、トーマスが帰ってくると、すぐに文のピアスに触れてきた。文はドキッとした。


「上手く出来たね? バスケットボールのピアスなんて文らしいよね? 素敵だ」

「何だか照れ臭いよね? 自分が作ったものを身に着けるのってさ。でも、頑張ったから着けたくてね」

「他にも何か作っているんでしょ? それはいつ出来るの?」

「それは来週・・」

と言って、口をふさいだ! しまった、言ってしまった! という文の顔を見て、トーマスは笑った。

「ごめん。内緒にしたかったんだね? ということは、勿論、僕に関係するよね? アントワープの金のチェーンもあれから見ていないしさ」

「んもぅ! トーマスの誘導尋問に引っかかっちゃった!」


 結局、次の週に出来上がったペアリングをトーマスに見せることにした。それは、文の中で一つのささやかな計画が浮かんだからだった。怪我の功名?

 クレイマーからの最後のレッスンを受け、別れを告げた。クレイマーは、文のペアリングを、売り物のようにピカピカに磨いてくれていた。文は、そのリングを大切に持ち帰り、ゆかりのバイトの時にトーマスへコッソリ伝えた。


「今日、作品が出来上がったの。仕事が終ったら、絶対に早く帰ってきてね」

トーマスは、「了解!」と応える代わりに文を抱きしめた。


 今夜は、朝のうちに軽く煮込んでおいたカレーを、帰宅後からトーマスが帰ってくるまでの間、煮込むことにして準備をしていた。待っている間も、自分の作品を見つめながら、トーマスに言う言葉を練習していた。文の気持ちが伝わる事を願いながら、鍋から聞こえるコトコトする音に耳を傾けていた。


「ただいま~」

トーマスが帰ってきた。文はすぐにすっ飛んでいった。

「文、待って! ちゃんと話を聞くから、先に片づけてくるから、一分待って!」

トーマスは、いつも文に子犬へ話すように諭す。文はそれが何だかくすぐったい気分だった。


 トーマスは、Tシャツに着替えて、ソファに座った。そして、文に手招きをしてソファに座るように促した。文は、掌の中にペアリングを隠して、トーマスが大きく股を広げた中に座った。ペアリングが入った包みから取り出す時に、深呼吸をした。


「はぁ~何だか緊張するね? 下手くそ!って言わないでよ?」

「言わないよ。文がそんな事言うと、僕の方が緊張するだろ? 今日、ずっと、この瞬間を楽しみにしていたんだから、早く見せてよ」


文は、恥ずかしそうに二つのリングを取り出して、自分の掌にのせた。

「うわぁ~ かなり、本格的に作っていたんだね? これって、もしかして、二人のイニシャルかい?」

「え?分かってくれるの? 今から説明をしようと思っていたのに」

「分かるよ。文は、もっと自信を持った方がいいよ。はめてみようか? それともお互いではめ合いっこする?」


 文は、コクンと頷き、まずは、トーマスが文のリングを文にはめた。文は、自分が作ったものなのに、ドキドキしていた。それは、胸が苦しくて息が出来なくなる位に。トーマスのリングを握ったまま、後ろを振り向き、トーマスに無言で抱きついた。苦しくて苦しくて、そうしていなければ、いられなかったからである。トーマスも同じ気持ちだった。文の耳元でようやく囁いた。


「次は、僕の番だよ」

文は、気持ちを整えて、トーマスの指にリングをはめた。手が震えて、上手くはめることが出来なかったけれど、はめた瞬間、今度は、トーマスが文を抱きしめた。二人は、左手を並べて、リングとお互いの顔を交互に何度も見つめた。


「文、ありがとう。大切にするよ」

「うん・・・でも、トーマス、そこでお願いがあるの」

「なんだい?」

「アントワープで買ったチェーンに、本当は、このリングを通す目的で作ったの。それは、私がトーマスのリングを。トーマスが私のリングをチェーンに通して、お互いが持つの。離れている時にね?」

「なるほど!そういう事だったんだね?すごいや!」

「でもね、本当は、これを日本に帰る日に渡そうと思っていたけど、つい口を滑らせて、今日、出来ることを言ってしまったから、私に別のアイデアが生まれてね?」

「どんな?」

「帰国の日まで、お互いのリングを持っていて、帰国の日に交換するの。そしたら、トーマスのリングにはトーマスの魂が、私のリングには私の魂が宿る気がするの。そしたら、離れている時に、このリングを握りしめたら、私はトーマスを助けるし、トーマスは?」

「僕は、文を助ける!」

「でしょ? いつでも、心は一つ、でしょ?」

「そうだよ。分かった。そうしよう。いい考えだね?」

「良かったぁ。私の頑張れるものが、これでまた一つ増えた! ありがとう、トーマス。これが、あの時のチェーンだよ。リングは、はめると邪魔になる事が多いと思うから、普段はチェーンに通しておいてね?」

トーマスは後ろから抱きついて耳元で言った。

「文、大好きだ!」 

「私も大好き!」


 こうして、二人の生活のカウントダウンが始まる七月がやってきた。

文は、七月に入ってからの習い事は、火曜日のカリグラフィ、水曜日と木曜日のボビンに絞った。あとは、トーマスも夏休みに入っていたので、二人の時間を楽しむことにした。引っ越しの準備もしなければならなかったからである。文は、ベルギーに来たとき同様、最低限の荷物だけで帰ることにしていた。今度は、「棄てる」のではなく、豪の居候部屋に「保管」しておくためだ。冬服など、既に使用しないものは、箱に詰めて運ぶことにしていた。段ボールの箱には、日本語で豪宛てにメッセージを残した。

「トーマスが他の女性と一緒になるのなら、この箱は箱ごと処分してください」

文なりの覚悟だった。トーマスの冬服の箱と一緒に、豪の居候部屋に重ねて積まれた。


 七月三日。オメガング祭り当日。

トーマスもベルギー人なのに、どこかウキウキしていた。文は、貴族のお祭り、というだけで憧れた気持ちでいた。例えるなら、シンデレラが舞踏会に行ける!と分かった時みたいな気持ちだ。


「文、今日は早く出発して、裁判所からの景色を見に行くんだろ? そのままサブロンまで歩いて、お祭りの雰囲気を味わおうよ。グラン・プラスに行列が到着するのは、ずっと先だからさ」

「うわぁ~ 何だか緊張してきた! カトリーヌも緊張しているのかな~?」

「彼女は貴族だから、緊張なんかしないよ、きっと。貴族同士が会えるから、多分、楽しんでいるんじゃないかな?」


 地下鉄で裁判所まで向かった。裁判所は、大きな、大きな建物だった。教会やグラン・プラスにある王の家にも負けないような荘厳さが漂っていた。裁判所の建物も素晴らしかったのだが、文の心をときめかせたのは、裁判所の駐車場から見える、ブラッセルの街並みだった。遠くにグラン・プラスの市庁舎が見える。レンガ色の建物がどこまでも続いていて、とても美しかった。駐車場の壁にもたれながら、いつまでも景色を堪能していた。

(いつか、再びこの景色を見るために帰ってこられますように。その時に、変わらない景色で私をこの街がむかえてくれますように・・・)

 トーマスは、文の横顔が、幸せそうであり、どこか寂しそうでもあるように見えた。必死にこの美しい景色を目に焼き付けているようだった。文に掛ける言葉はただ一つしかなかった。


「文、僕が文を迎えに行って、また、ここで生活が出来れば、この景色を見る日が来るからね? 決して今日が最後じゃないよ。僕を信じてほしいな」

「ありがとう、トーマス。信じているよ。こんなに美しいとは思わなかったの。全部、覚えていたいくらい綺麗ね?でも、大丈夫よ。充分、堪能したわ。また、一緒に見に来てね?」


 トーマスとサブロン教会に向かって歩き始めた。文は、もう一度、振り返って、景色に別れを告げてから、トーマスの腕に巻き付いた。今日のサブロン教会は賑やかだった。老舗のチョコレートショップも客でごった返していた。様々な中世の衣装に身を包んだ人たちが、談笑しながら、「時」を待っているようだった。


「ここから、行列がスタートするんだよ。昔の習わしに基づいて再現されているんだって」

「何だか、すごいね~ 現代にも貴族の人達はいらっしゃって、遠い昔から脈々とこのお祭りが受け継がれている、って考えると、タイムスリップしているみたいだよね?いいなぁ~ だって、きっと、この足元に続く石畳も絶対に当時のままのはずよ。不思議な感じがしない? ここにいる人間だけが現代なのよ。教会が目の前にあると、何だか魔法にかけられているみたい・・・」


(文の空想がはじまった・・・)


 文が空想するのも無理はないのだ。ここにいる全ての人間が、中世の衣装を身にまとっていたなら、間違いなくその他に「現代」を思わせるものは、殆どない。タイムスリップしている感覚になって当然なのだ。ベルギーの街は、こんな場所がいくつもある。だから、「昔」が大好きな文は、ベルギーの街が大好きなのだ。


 それから、二人は、サブロン広場で昼食をとり、その後でグラン・プラスに向かって歩いた。グラン・プラスに到着すると、広場全体がステージになっていた。カトリーヌから譲り受けた二枚のチケットは、右手に市庁舎、左手に王の家を従えた、最前列の席だった。

 夏のお祭りなので、夜遅くまで続けられるそのステージが終るのは、ずっと夜が更けてからになる。それでも、旗を使った踊りやミュージカル仕立ての演出、馬車の行進、中世の服装で演奏される音楽隊、高い竹馬のような巨人の行進・・・どれも初めて見る催しにトーマスと二人で心行くまで堪能した。

 途中、トーマスにもたれながら居眠りをする文にトーマスは、子供のようだと思った。先程まではしゃいでいたかと思うと、急に静かになって眠ってしまう・・・文の寝顔を見ていたら、トーマスも眠くなってしまった。


「文、そろそろ帰ろうか?」

「あ、寝ちゃった! うん・・カトリーヌはまだ、出てこないのかな?」

「見落としちゃったのかもしれないね・・・」


「ふみ!」


 そんな時にカトリーヌの声が聞こえた。文とトーマスは、キョロキョロさせて探した。カトリーヌは大きく手を振って知らせた。民族衣装を着て、すごすごと歩いてやってくる。いつものように背筋を真っ直ぐにして、行列の中にいた。文も大きく手を振って、目の前を通った時に叫んだ。

「とっても素敵よ!」

カトリーヌの周りの人達も同じ貴族の名家なのか、とても上品に手を振っていた。カトリーヌの姿を見ることが出来たので、文は満足だった。トーマスもカトリーヌに手を振って合図した。


    *****


中世の一夜が明けたオメガングの翌日、トーマスは一人で出掛けた。

「文、ちょっと床屋に行ってくるね」

「は~い」


 二時間ほどで戻ってきたトーマスを見て、文は、思わずトーマスに見とれて、溜息をつきながら、告白した。

「トーマス・・・今更言うのも変かもしれないけど、とっても好き。凄くカッコイイんだけど~」

 文はとても喜んでいた。トーマスは照れ臭かったが、自分の勝負の日が刻一刻と近付いている緊張感を文の言葉は和らげた。床屋のついでにレストランオーナーのエリーと最後の打ち合わせも済ませた。あとは、サポートメンバーがそれぞれオーナーと個々に打合せをする。進行は、ジャン達に任せている。自分のやりたい事も打合せもジャン達には全て伝えている。当日の準備物は、全てジャン達に託している。Xデイを迎えるのみだった。無邪気にトーマスへ好意の言葉を寄せる文をさらに愛おしく思った。


 トーマスは、クローゼットにある箸置きを見て、文にずっと気になっていたことを聞いた。

「文、この前、ポーセリンアートで作っていた箸置きは、いつ、誰に渡すの?」

「そうね・・・この七月に、サヨナラのご挨拶がてら、みんなに少しずつ渡そうと思っているんだけどね?渡す人たちは、この人達なんだけど・・・」

と言って、リストを見せた。トーマスは食い入るようにリストを見た。出席者が全員いる。出席者でありながら、リストから漏れている豪やグレン、エリックなどもいるが、ほぼ出席者だった。

「これを渡す時に、またメッセージカードとかも付けるの?」

「うん、つけたいなぁ・・」

「そしたら、今のうちに準備しておいた方がいいよ。日曜日のパーティに来てくれる人もいるからさ」

「あら、そうね、そうするわ。良かった、助かる!トーマスありがとう」

「それとは別にさ、そのパーティもどこまでの人達が来るか分からないから、突然来てくれる人たちにも渡せる何かを準備しておかない?」

「え?そんなに沢山来るの?」

「う~ん、日本とベルギーは、パーティのやり方が違うかもしれないから何とも言えないけど、声をかけた人が誰かを誘う事はよくあることだよ。例えば、ジャンだけを誘ったとするでしょ?でも、ジャンは、フィリップやピーターも文とは仲良しだ、って思えば、二人にも声を掛けるわけだから、そこは何とも言えないんだよ」


トーマスなりの苦し紛れな言い訳だった。文に全てを話すわけにはいかない・・・


「そっか・・・確かにそうね。じゃあ、プラス十個くらい、そういう人達用のプレゼントも用意すればいいね?誰が受け取ってもいいようにメッセージカードも添えれば、他の人達と同じになるでしょ?」

「そうそう、そうすると絶対にいいと思うよ」

(文が素直な女性で良かった~ 色々隠し事があると苦しいなぁ)


 トーマスは、文が自分の事をまっすぐに信じているので、結婚したら、隠し事は絶対にしないようにしようと思った。自分の心が苦しすぎるからだ。悪いことをしているわけでもないのに、罪悪感でいっぱいだった。でも、文の隠し事は、絶対に見抜ける自信がトーマスにはあった。

 語学力が未熟な文なので、言葉のすべてが通じない分、お互いに相手をより理解しようとするからなのだ。文は、外では見せない様々な表情を二人きりの時には心を解放させているので、よく見せる。日本人特有の「眼でモノを言う」表情だ。だから、トーマスは、いつしか文の心が読めるようになってきていた。文は、トーマスの心を読む、というよりは、文のすべてを懸けて「トーマスの為に!」という事とトーマスが外で十分な力を発揮出来る環境を家庭で作ることに想いを懸けていた。


 文は、その日の夜、一生懸命にメッセージカードを書いていた。書きながら、泣いたり、笑ったりしている。きっと、みんなとの思い出を思い出しながら書いているんだな、とトーマスは見守っていた。自分は、文へのプロポーズの言葉を考えたり、心の中で言ってみたりしながら、まだ、言葉を決めきれていない焦りを覚えていた。


七月五日、土曜日。

トーマスと文は、ゆかりのアルバイトで働いていた。仕事が終わると、豪が声をかけてきた。

「文!明日は、お前の誕生日パーティだよな? 俺たち夫婦も行くから、ちゃんとめかしこんでこいよ。ところで、いくつになるんだ?」

「店長って信じられない! トーマスと三歳違いの二十四です。それは聞いちゃいけないのに~」

「悪かった!悪かった!明日は楽しみにしているからな?」


 文がご機嫌斜めになったことが、豪は可愛くて仕方なかった。子供のいない豪たち夫婦にとって、トーマスも文も我が子同様に愛おしかった。文に隠れて、トーマスにゴメン!とジェスチャーで謝った。トーマスは、それを見て、豪と文が本当の親子のように見えて、微笑ましかった。


二人で仲良くアパートに帰るときに、文はトーマスに聞いた。

「明日って、トーマスはどんな服を着るの?」

「ぼ、僕かい? 僕は主役じゃないから、普通の格好だよ。文はどうするの?」

「えへへ・・・トーマスには内緒で、この前、お買い物しちゃったの。レースのかわいいブラウスがあったから、それを着て行こうと思っているの。いいかな?」

「レースなんて文らしくて、かわいいじゃん?いいと思うよ」

トーマスは、明日の進行と内容を知っているので、気付かれないかドキドキしっぱなしだった。


 次の日の十一時にレストランへ行かなければならない。文は、どこに行くのかも分かっていない。楽しみにしていた方がいいと思っていたし、トーマスに聞いても言いたくないと思ったからだ。

(私なら直前までのサプライズにしたいもの!)


 トーマスは、早々に着替えた。チノパンとポロシャツ。でも、いつもと違って、ピシッとしている!と文は思った。文は、出掛ける直前で着替えた。文の洋服は、三分袖のブラウスが全体的にブラッセルレース風になっていた。下は、シルバーグレイのスカートだった。思わずトーマスは、今日の心境を呟いてしまった。

「文、めちゃくちゃ可愛いじゃん?」

「え?ほんと?」

「では、僕がエスコートさせていただきます」

ニッコリ笑う文の耳には、バスケのピアスが光っていて、二人の左手薬指にはペアリングが光っていた。


 エレベーターで降りて、アパートのエントランスを抜けて、外に出ると、文は、このままバスやメトロに乗るとしたら、少し恥ずかしいな、と急に心配になった。


「トーマス、行先はどこ?」

「すぐそこだよ」

「え?すぐそこ、ってどこ?」

「文が気に入っている池の隣のレストランを予約したんだ」

文の顔が真っ赤になって、涙があふれ出そうになっている。

「トーマス!あなたって本当に素敵。どうして、私をここまで喜ばせてくれるの?」

「決まっているだろ?大好きだからさ。文にしかしない。他の人の事はこんなに考えないよ。いつも、いつも文の喜ぶ顔が見たくて、文の事ばかり考えているからさ。そろそろ僕の事、分かってきたでしょ?」

「本当に大好き!」


文は、いつもするように、トーマスの腕をぎゅっと抱きしめながら歩いた。その重さがトーマスには心地よかった。

「知っているよ」

ケイム広場に向かって歩き、そこから今度は、カリプソの隣の教会を目指して、少し上って行く。すると、ロータリーが現れる。ロータリーの向こうに「池のレストラン」が見えてくる。


 一方、出席者は、少し早めに集合していたので、主役の登場を待ちわびていた。レストランの窓から真っすぐに伸びた道から二人が仲良く並んで楽しそうに話しながら歩く姿を見つけると、

「来た! 文は、何にも知らないんだよな~ 何かワクワクするね」

「何も気付いていないみたいだよ」

皆が口々に呟いた。普段見せない文の表情とトーマスに甘える仕草を見ていると、皆が幸せな気分になるのだった。また、隣に並ぶトーマスが一段と男前になっていることも皆には微笑ましかった。


 ロータリーを渡ると、トーマスは、文に言った。

「文が主役だから、文が扉を開けてごらん。僕もすぐに入るからさ。荷物はちゃんと僕が持っているからね?」

「うん、わかった」

文は、恐るおそる大きな扉を開けた。


「文~お誕生日おめでとう!」


みんなが一斉に叫び、次々にクラッカーの紐を引いたので、文はひっくり返りそうになった。

 トーマスが後ろで支えて、「アーツ・ロワのときみたいだね?」と囁いた。

文は、振り返ってトーマスを見つめて、コクンと頷いた。


「みんな・・・こんなに沢山、来てくれていたんですね?どうして?」

豪が、トーマスに代わって、文に伝えた。

「トーマスが何か月も前から、文に内緒で、一生懸命にみんなへこのパーティの事を伝えまわって、みんなに集まってくれ、って頼んでくれたんだぞ」

「そうなの?トーマス?」

「文が、きっと、こうしたいだろうな、って思っただけだよ」

文は皆が見ている事も忘れてトーマスに抱きついた。一斉に口笛や指笛が鳴り響いた。

「さぁ、文、来てくれた皆さんに挨拶しなくちゃ」


 文は、一人一人をもう一度、見渡しながら流れる涙を拭きながら、一人一人に会釈をして、手を合わせ続けた。最後に、トーマスの父、グレンと兄のエリックを見つけた時に、もう一度、文の涙腺は崩壊した。二人の所に駆け寄って、二人に抱きしめられ、「おめでとう」と祝福されると、小さくつぶやいた。

「遠くから来てくれたんですね?ありがとうございます」

そして、トーマスのもとへ戻り、トーマスの手を握りしめながら、スピーチを始めた。

「本日は、こんなに沢山の皆様にお集まりいただき、本当にありがとうございます。凄く幸せです。去年の七月三日、私は日本からベルギーに参りました。そして、次の日の一年前の七月四日に、運命的にトーマスとセントラルの駅近くで出会ったのです。あれから一年。ここにいらっしゃる皆様に支えられながら、助けられながら、ご迷惑を掛けながら、沢山の事をベルギーで学ぶことが出来ました。沢山の事を感じ、体験することが出来ました。何とか無事に生活が出来ています。それは、皆様のおかげでもあり、何よりもトーマスのおかげに他なりません。トーマス、本当にありがとう」

今度はトーマスの手を文の頬にくっつけた。そして、トーマスの温もりを感じながら、深呼吸をして出席者を見渡して、話し始めた。


「見知らぬこのベルギーで二度も命を助けていただいたデグリー先生。いつも、いつも励まし続けていただいた、八重さん、貴子さん。私に自信をプレゼントして下さった町田先生。私をお花の世界に導いて下さったエツコさん。私にベルギーでの生活の楽しさを教えてくれた、ノエル、イザベル。私の事を認めて下さった、若松さま、加藤さま。私にボビンという新しい世界を教えて下さったカトリーヌ、若松さん、鈴木さん、そして、遠くまで道具を買う事にお付き合いして下さった玉野さん。私とトーマスが更に仲良くなるキッカケを作ってくれた陶芸のジーナとボビー。絵がへたくそな出来の悪い生徒なのに、いつも大きな愛で受け止めてくれたサラ。私にベルギーの食の美味しさを教えてくれたハム屋のおじちゃんと鶏肉屋のおじちゃん。ベルギー生活の最後に夢にまで見たカリグラフィーの世界を教えてくれたイルダ。そして・・・毎日、こんな気の強い私と一緒に働いてくれたパトリック、オリビエ、サスキアス。それから、トーマスと共に私とも仲良くしていただいているジャン、ピーター、フィリップまで。こんな私をトーマスの彼女として受け入れてくれたエリックとグレン。そして・・・私を日本から連れ出してくれた大切な私のお父さん、店長・・・皆様、本当にありがとうございます。去年の誕生日は、それどころじゃなかったけど、今年がこんなに素敵な誕生日だったら、私、世界一幸せです。ありがとうございます」


 文が一礼をすると、皆から割れんばかりの拍手が巻き起こった。ジャンがパチン!と指を鳴らした。すると、奥からケーキを持ったレストランのオーナーが現れた。

「文、初めまして。僕のレストランを君が気に入ってくれたから、こんなに素敵なパーティを僕のレストランで開くことが出来たよ。ありがとう。このケーキは、トーマスから文は生クリームが苦手だけど、ナッツタルトが大好きだ、と聞いていたので、作ってみたんだ。みんなでお祝いしよう!」

みんなが一斉に拍手をした。タルトの上には既にローソクが灯されている。

「文、一緒に吹き消そうか?」

トーマスが言った。文は黙って頷いた。トーマスは文の考えている事が手に取るように分かっている。言葉にせずとも繋がるその安心感こそ、文の幸せであり、居場所なのだ。

「せ~の!」

みんなの掛け声に合わせて、二人で吹き消した。再び拍手がわいた。八重と貴子がナイフで次々とタルトをカットしていき、皆に配った。トーマスは文の耳元で囁いた。


「文、少しトイレに行ってくるから席を外すよ?」

「うん、わかった」


 トーマスは、ジャンに目配せをした。次々に文へ参加者が話しかけて、文が寂しくならないように打合せ通りに配慮した。八重と貴子は久しぶりに会う文に向かって、

「文ちゃん、凄く綺麗になったわね? トーマスと一緒に居て楽しいのね? トーマスも男っぽくなってびっくりしちゃったよ。見違えるようになったよね? 文ちゃんも惚れ直しているでしょ?」

「うん、そうなの。毎日が幸せで胸がいっぱいになるの。一昨日もトーマスがカッコイイって思ったから、告白しちゃったんです。好きですって・・・今日の事も毎日、一緒に居るのに全く気付かなくて、びっくりしちゃった。いつから準備してくれていたのかな?」

「四月頃かな?私達に声をかけてきたのはね。絶対に文ちゃんには内緒だ、っていうから、文ちゃんに会うと言ってしまいそうだったから、極力会わないようにしていたのよ~ 苦しかった~ それにしても、相変わらず仲がいいのね?これだけ好きって分かっていても、好きって告白したくなるんだね? そのピアスもリングも文ちゃんが作ったんだって? トーマスが凄く喜んでいたわよ。感動してたみたい」

「そうだったんだ。良かった。喜んでくれていることは分かっていたけど、人から聞くと嬉しいですね? あぁ、本当なんだ、って分かるから」


若松夫妻が近寄ってきた。

「文さん、お誕生日おめでとう。いよいよ今月、帰国するんだね? 向こうでのお仕事も決まったの?」

「いえ、まずは、少しのんびりして、すぐに東京か川崎に戻って、探そうと思っています。色々お心遣いいただき有難うございました。ボビンでも最後まで奥様にはお世話になってしまいますけど、宜しくお願い致します」

「そういえば、文さんが持ってきてくれた手作りのお酒、凄く美味しかったから、すぐに空っぽにしてしまったよ。本当にあの時はご馳走様。それに、このレストランも、こんなに近くなのに全く知らなかったから、文さんには感謝しきれないね?」

「いえいえ~ そんなに持ち上げられると、どうしていいか分からなくなっちゃうから、止めて下さいよ~」


町田とイルダが傍にやってきた。

「文さん、おめでとう。入り口の看板見た?」

「え?」

「あら、やだわ。ほら、見て!」

入口の扉を開けるとすぐの所に、カリグラフィーの文字で 「HAPPY BIRTHDAY FUMI」

と書かれた小さな看板があった。

「わぁ、素敵。勿論、イルダの作品ね?」

「そうよ。トーマスから聞いて、急いで作ってくれたのよ。トーマスも随分慌てていたけどね。文がまた新しい事を始めた!って」

「そっか・・・トーマスにもイルダにも迷惑を掛けちゃったわ。イルダ、あの看板、私がいただいてもいい?」

「勿論、そのつもりよ。私からのプレゼントね。帰りに持って帰りなさい。でも、今はだめよ」

「えぇ、そうね・・・」

文は、イルダが何故、そんなことを言うのか分からなかったが、今はあの場所から取り上げるつもりもなかったので、納得して返事した。実は、表は誕生日バージョン、裏は、ウェディングバージョンになっている看板だったので、今、文に見られてはイルダも困るからだった。


 しばらく来ないトーマスを何となく目で探しながらも、文は参加者のみんなと話をしていた。すると、ジャンが

「皆さん、それでは、周りにある席に座ってください。文は、真ん中のそのお姫様の椅子に座ってくれる?」

と言った。ジャンが文をエスコートして座らせた。文は、トーマスがいない事を不安に思ったので、ジャンに小さな声で囁いた。

「トーマスがいないの・・・」

「大丈夫。いるから」


皆が着席すると、トーマスが奥から現れた。何と、シルバーグレイのスーツに身を包んでいる!

「え?どうしたの?」

文が小声で言うと、トーマスは真っすぐに文の元へ来てひざまずき、文に告白した。


「文、今日はお誕生日おめでとう。去年は出会っていたけど、お祝いも出来なかったから、二年分のお祝いだよ。一年前に僕の前に現われてくれてありがとう。僕は必ず一年以内に日本へ文を迎えに行くから、それまで待っていてくれるかい? そしたら、ずっと一緒に歳をこうして重ねて行こう。ずっと文だけを愛しているよ。ぼくと・・・僕と結婚してください。フラワーカーペットでプロポーズするって言ったけど、待てなくてゴメン。 文の結婚式の隣の席は誰が座るのかな? 今すぐ、みんなの前で応えてよ」

文は、溢れてくる涙が止まらないまま応えた。


「はい、必ず待っています。私も大好きよ。私を・・私をあの日、見つけてくれてありがとう。アーツ・ロワで助けてくれてありがとう。私の隣はトーマスしか座れないんだもん・・・だから、お願いします。隣に座って下さい・・・」

と言って、トーマスに向かって倒れた。それをトーマスが優しく受け止めた。


 全員が、歓喜の雄叫びをあげた! 豪が万歳をしている。グレンとエリックが抱き合っている。女性たちはもらい泣きをしている。ジャン達は、トーマスに駆け寄って肩を叩き、文の背中を撫でた。

トーマスは、文の手を取って自分の胸に手を当てさせた。

「文、分かるかい? 僕はずっと、この日を待っていたんだ。僕の気持ちが伝わるかな?」

「うん、ちゃんと伝わるよ。トーマス、私は世界一幸せ者よ。怖いくらい。だから、絶対に離さないでいてね」

二人の一挙手一投足に参加者の皆が注目をして、息を止めて二人の言葉に耳を傾けた。二人の幸せを一秒たりとも見逃したくない、聞き逃したくない、という気持ちだった。


「文、もう一度、ここへ座って。これだけじゃないんだ。これを受け取ってほしいんだ・・・」

トーマスがジャケットのポケットから、ジュエリーケースを取り出し、蓋を開けると、文の見覚えのあるリングが出てきた。


「あら?!これ!」

「文、ごめんよ。僕は、文と出会ってから、どうしても文と結婚をしたくて、でも、自分に自信が無くてさ・・・だけど、誰にも文を取られたくなくて・・このリングをプロポーズの時に渡すことを目標にしていたんだ。ここにいる誰も知らないよ。このリングを渡すために、文にとって、少しでも頼りになる男になりたくて、今日まで温めてきたんだ。文が欲しいリングを、文も含めて、誰にも渡したくなかったから、すぐに僕がサブロンのあの店に行って、買い取ったんだ」

「そうだったの・・・私の元へ来てくれたんだね? トーマスがずっと温めてくれていたのなら、私のあの時のショックも何でもない過去の事ね? こっちの方がリングも私も嬉しいもの、ね? 有難う、トーマス」

「文・・もう一度言うよ。僕と絶対に結婚してくれるね?僕は僕たちのこどもが生まれても、文を一番に想うよ。一生・・・僕の一生は、文と共にあるからね?僕にとって、文はずっと一番なんだよ。だから傍にいてずっと、支えて欲しい。君がいてくれたら何でもできるから」

「ありがとう。日本で待っているから絶対に迎えに来てね?私は子供が大きくなるまでは、トーマスが二番になっちゃうかもしれないけれど、気持ちは今もこれからも、ずっと一番よ。でも、それはトーマスが、私を一番に想ってくれているからだから。私も貴方と共に心はあるから・・・」


「早くはめてあげろ」

皆が叫んだ。

文は、自分が作ったリングをチェーンの方へ移して、トーマスからのリングの為に薬指の指定席を空けた。

トーマスがゆっくりと文の左手をとり、薬指に滑らせてはめた。文の左手でルビーの王冠が光っていた。文が、トーマスに抱きついたので、出席者から何度も何度も歓声が上がった。


「さぁ、皆さん、ここから料理が次々と運ばれますので、召し上がって下さいね~」

ジャンが叫んだ。その言葉を受けて、料理が運ばれてきた。食いしん坊の文でも、料理よりも、トーマスの手を握りしめながら、じっとリングとトーマスを交互に見つめていた。幸せ過ぎて死んでしまいそうだった。トーマスはそんな文をただただ見つめていた。


「文、さぁ、食べるぞ!食いしん坊のお前さんが食べてくれないと、みんなも食べられないじゃないか!」

豪が叫んだので、いつもの文に戻って、叫んだ。

「もぉ!店長ったら、みんながいらっしゃる前で恥ずかしいわ!」

皆が笑って、大いにパーティが盛り上がった。八重と貴子が近寄ってきて文に向かって言った。

「今のうちに食べておきなさいね。パーティはまだまだ、これからよぉ。ほら、看板も見てごらん?」


イルダの看板が、いつの間にかウェディングバージョンに変わっていた。それを見て、文はハッとしてイルダを見た。

(この事だったのね?意味が理解出来た!)

イルダはウィンクして(どう?気に入った?)と聞いてきたので、(とっても!)と心を込めて応えた。


 よく見ると、このレストランの中は、全体的に文の誕生日のためにデコレーションされている。暫く天井をグルっと見回して文は、胸がいっぱいになっていた。これらの飾りつけは、八重と貴子とジャン、ピーター、フィリップ達が飾り付けてくれたものであることが分かった。共にマロニエ祭を盛り上げた同志として、ピン!とくるものがあった。そこにいたピーターの腕を掴んで、文は尋ねた。


「この部屋の飾りつけは、ピーター達がやってくれたものなの?」

「お!よく気付いたね? メッチャ楽しかったよ。マロニエ祭を思い出しちゃったよ。あの時はさ、飾りついたものを片づける役目だっただろ?今回は、文が喜ぶ顔を見たかったから、みんなでアイデア出したんだよ。それに、トーマスの一世一代の勝負を決めなくちゃいけないステージだからさ、僕たちも気合いが入ったのさ!」

「そうだったのね・・・本当にありがとう。このお店ごと持って帰りたい気持ちよ」

「文・・・僕たちも同じことをさっき、言っていたんだよ。この店ごと持って帰りたいくらい、トーマスと文に幸せをもらっているね、ってさ。ありがとう、文。トーマスと絶対に幸せになるんだよ。本当におめでとう」

文は言葉に出来ない喜びにあふれて、黙って頷いた。


 エツコがアレンジしたであろう花もあちこちに飾られている。文は席を立ち、トーマスの手を引き、エツコの元へ行った。

「エツコさん、素敵なお花のアレンジをこんなに沢山、ありがとうございます」

「いいのよぉ。このままお店に寄付するって言ったら、料理代、オマケしてくれたから」

エツコは舌をペロッと出した。エツコらしい、と文は笑った。そこへトーマスが文の食事を持ってきた。


「文、少しは食べなくちゃダメじゃないか。僕が文のためにリクエストした料理なんだからね」

「そうだったのね?ありがとう、トーマス。胸がいっぱいで・・・でも、お腹が空いてきたから、いただきま~す♪」


トーマスとエツコは顔を見合わせて笑った。トーマスはエツコに初めて会う事になる。今回、八重たちに伝言して動いてもらっていたからだ。

「今回は、直接、ご挨拶とお願いが出来なくて、申し訳ありませんでした。こんなに沢山のお花を綺麗に飾って下さって、凄く嬉しいです」

「私もトーマスに会えて嬉しいわ。お店に来てもらっていたら、文さんにばれていたわね?神出鬼没な文さんだからね」

二人で大笑いした。


 文は、とても幸せだった。周りを見ると、皆も祝福してくれている事が分かる。ドクター・デグリーが文の元へ来た。

「文、その後、体調はいいようだね? ちゃんとトーマスにSOSを吐き出しているんだね?」

「はい、先生。本当にあの時はありがとうございました。先生がおっしゃる意味は分かっていても、理解するまでには時間がかかりました。でも、理解させてくれたのは、やっぱりトーマスでした」

と言って、トーマスを握る手に力を込めて、トーマスを見つめた。

「よかったよ。また、ベルギーに戻ってきたら、僕を指名して、今度はトーマスも含めて君たちのドクターになるからね?」

文は、トーマスを見つめて微笑み、それを受けてトーマスは、デグリーにお願いをした。

「是非、宜しくお願い致します。僕たちの赤ちゃんは先生に取り上げて欲しいと思っていますから」

ドクター・デグリーの専門は、産婦人科医なのだ。


 グレンとエリックは、豪とサスキアス夫妻と談笑している。グレンとエリックは、文とトーマスの方を見ながら、豪夫妻に挨拶をしていた。

「トーマスの事を何から何まで可愛がっていただき、本当にありがとうございます。一人で何も決めることが出来なかった息子が、あそこまで成長できたのは、貴方のおかげです。八月からのトーマスの住む場所も提供していただいている、と聞いて、本当にご迷惑ではないでしょうか?」

豪は、少し涙ぐみながらグレン達に応えた。

「僕は、あの二人に沢山の幸せをもらっちゃったんですよ。僕達には子供がいません。でも、二人は、僕たちの子供として、本当によく頑張ってくれていました。厳しい事も沢山言ってきたつもりですが、必死についてきてくれたんですよ。トーマスは本当に真面目な男で、文の事を一心に考えていて、文があれだけ自由に天真爛漫でいられるのもトーマスがいればこそ、なんですよ、間違いなくね」

豪が、目を細めながら、そう話していると町田が横から割って入ってきた。


「初めまして。文さんの習字教室の講師をしております、町田です。今、豪さんのお話を耳にしたから、気になって参加させていただいちゃいますけど、あの二人が、心を通い合わせたばかりの時に、二人で習字教室に来てくれたことがありました。その時に、文さんがトーマスの手を取って、トーマスが習字に初挑戦したんですけど、私、あの時に二人が、いつかこうなることを分かっていた気がします。とっても神々しいというのでしょうか?素敵な場面に立ち会えたことが凄く嬉しかったのを覚えております。豪さんもおっしゃっていましたけど、文さんが今、強くいられるのは、笑っていられるのは、間違いなくトーマスのおかげなんですよ」


グレンとエリックは互いを見て微笑んだ。

「想像もつきませんでした。トーマスが人を支えられるなんて!まして、文のようにシッカリしたお嬢さんの支えになるなんて。四月に我が家へ来てくれた時も、どう見ても文の方がしっかりしているんだけど、文はいつもトーマスを頼っているから、変だな、と思ってはいたんです。そういう事だったんですね? トーマスが誰かの役に立って、生涯のパートナーが出来るのなら、こんなに嬉しい事はありません。あの子を村から出した甲斐がありました。今日のような日に参加出来た事もトーマスに感謝しなくちゃならないですね?」

町田も豪たちも大きく頷いていた。


 ジャンとピーター、フィリップは、八重と貴子、エツコで談笑していた。どこのグループよりも盛り上がっていた。

「会場設営と進行は、今のところバッチリだよね? 上手くいってよかったよね?」

「トーマスと文の顔を見れば、成功かどうかなんて分かるよね? トーマスのプロポーズへの文の答が分かっていても、アレって緊張するものだよね? トーマスと同じくらい緊張したよ」

フィリップが興奮して言うと、ジャンとピーターは「そう、そう」と大きく同意した。

「私達は、やっぱり文ちゃんだよね~ トーマスの事が大好きな事は、ずっと知っているし、きっとあの二人の事だから、毎日の会話の中でも、そんな話にはなっているはずなんだろうけど、文ちゃんは自信がない子だから、トーマスの正式なプロポーズは、絶対に嬉しかったはずよ。あのとろけそうな顔が物語っているでしょ?」

と言って、みんなで文を見た。

トーマスと語り合っていた文は、みんなの視線を感じ、振り向くと皆が自分達を見ていたので、

「え?」と言った。

「ねぇ? とろけているでしょ?」

皆が笑った。

「えぇ?何で笑っているんですか?八重さん、貴子さん」

「幸せな人には言わな~い!」

文がトーマスを見ると、トーマスも微笑んでいた。

「幸せかい?」

「うん、とっても」


 暫くすると、貴子が文に耳打ちした。トーマスには、ここで待つように言った。

「文ちゃん、ちょっと私についてきて」

貴子についていくと、レストランの休憩室のような所へ通された。そこには、カトリーヌとエツコがいた。

「さぁ、文ちゃんもトーマスと同じくらいおめかししなくちゃね?」

「え?何するの?」

「本当の結婚式は、二人で好きなように考えてやってくれていいから、これは、今日の参加者みんなとトーマスでで考えた婚約パーティなの。だから、結婚式の真似事だと思ってほしいな。トーマスがね、ブルージュで見た文ちゃんのウェディングベールをどうしても、もう一度見たいからって、カトリーヌにお願いしていたのよ。ここにいるみんなも、その文ちゃんを見ていないから、見てみたいのよぉ。トーマスだけが知っているなんてズルイでしょ?」


文は、そこにブルージュレースのウェディングベールが鎮座しているのを見逃してはいなかった。

「貴子さん・・どうしよう?ダメだ・・・」

文は、顔を覆いながら泣き始めた。

「私、どうやって皆さんに恩返しをしたらいいの?こんなに良くしていただいて、どうしたら良いのか分からないんです。凄く嬉しすぎる・・・」

「文ちゃん、恩返しとか考えないで。ここに集まったみんなは、トーマスが文ちゃんをお祝いしたいって思ったら来て欲しい、って声をかけた人しか集まっていないのよ。だから、みんなはそれぞれがこうしたい、って思ったことしかやっていないのよ。分かる?心からお祝いしたい、と思った人しか来ていないのよ。日本とは違うの。社交辞令で集まっているわけじゃなくて、純粋に文ちゃんに会いたかったり、お祝いしたかったりしている人だけが来ているのよ。 恩返しをしたかったら、誰よりも幸せになりなさい。そして、ずっと私達を今まで通り、幸せにしてほしいわ。前にも言ったけど、私達は二人を見ていると、とっても幸せになるの。自分も幸せにならなくちゃ、って。文ちゃんたちみたいに相手の事を思いやってあげなくちゃ、って思えるのよ。分かる?」


貴子の話を聞きながら、エツコも頷いていた。


「こんな事、初めての体験で、こんな素敵なパーティに参加させていただく事も初めてだから、私に出来ることを最大限にして差し上げたかったのよ、文。 このベールを可愛い私の生徒の文に着けてもらえたら、すごく嬉しいわ。これはね、私がボビンを始めて、初めて作ったベールよ。上手く出来ているでしょ?」

カトリーヌがそんなことを言うとは思わなかったので、文は思わずクスッと笑った。いつも、貴族の女性らしく凛とした態度でいて、大きな愛情で教えてくれる彼女が、茶目っ気たっぷりに自画自賛したからだ。文は、少し落ち着くことが出来たので、エツコに促されて、そこにある椅子に腰かけた。


 カトリーヌがベールをピンで慎重に留めていき、エツコがアレンジした生花のカチューシャで固定させた。美容院のように大きな鏡がある訳ではなかったので、文は自分が今、どのような状態になっているのか想像すら出来なかった。

そして、最後にエツコからブーケを差し出された。

「うわぁ! 文ちゃん、立派な花嫁さんよ。もぅ、今からお嫁に行ってしまえばいいのよ!」

貴子が言うので、みんなで笑った。文は、その言葉にはにかんだ。そして、左手の薬指に光るエンゲージリングを見つめて幸せをかみしめた。エツコ、カトリーヌ、貴子に向かって、手を合わせて感謝した。

「私が再び、ベルギーに戻ってきても、絶対に仲良しでいて下さい。私、このご恩は絶対に忘れないから!」

「さぁ、トーマスの元へ行くわよ」

文は、今日、レースのブラウスにして良かったと思った。そのブラウスに合わせるためにシルバーグレイのスカートを買ったけれど、トーマスのスーツとお揃いになれて良かった、と思うと同時に考えた。

(やっぱり、私達って似ているのかな?)


 貴子は、着替えた休憩室の外で文に待つように言った。エツコとカトリーヌは「あっちで待っているわね」と言って、会場のレストランへ消えた。


すると、豪が入ってきた。文が「え?」とびっくりしていると、豪も「え?文が?」

と言って、次の言葉を言う前に目頭を抑えた。

「わりぃ、文、ちょっと待って、な?」

文は、豪から受けている愛情は間違いなく親の愛情であることを確信した。

「私のベルギーのお父さん、一年間、私を守ってくれてありがとうございます。色々な事を教えてくれて感謝しております。ふつつかな娘ですが、明日からもお願いします。これからも、私とトーマスの事をお願いします」

涙をこらえながら、言った。豪は、涙が止まらなくなってしまっていた。

「文・・・親父の真似事させてもらっていたけど、お前は本当に俺の娘だぞ。いつまでも可愛くて憎らしい俺の娘でいてくれよ。たのむぞ」

「はい」

豪は、文が腕を組めるように促してきた。文は、そこに手を通し、豪と初めて腕を組んだ。少し・・いや、かなりお互い恥ずかしかった。

「さぁ、みんなを待たせているから行くぞ?」


 休憩室から厨房の脇を通るときに、オーナーのエリーが文を見て、「ヒュー」と口笛を鳴らして、

「文、凄く綺麗だよ」

と言った。豪は小さな声で「当たり前だ!俺の娘だぞ」と日本語で呟いた。


 会場に入ると、料理が隅の方に並べられて、皆が着席して談笑しながら、文の登場を待っていた。中央の席にトーマスが座っていて、横にグレンとエリックが立って、話しかけていた。

 ボビンレースのベールに顔を覆われた文が登場すると一斉に歓声が沸き起こった。トーマスはスッと席を立ち、真っ赤な顔をして文の元へ来た。

「やっぱり、あの時よりもずっと、今日の文、綺麗だ。すごく可愛いよ」

と言って、豪に一礼をして

「文を僕にください」

と言った。豪が泣いている顔を初めてみたが、豪が文をなかなか差し出さないからだ。会場中が笑った。

「土壇場でトーマスに可愛い娘を渡したくなくなっちまった!」

と言って、皆をさらに笑わせた。

「文を泣かせるなよ。文を不幸にしたら、俺がお前をぶっ飛ばすからな?」

「はい、分かっています。一年間、ずっとそれを見てきましたから」


 豪が文の手をトーマスへ差し出し、文はトーマスを見つめて(ここが私の定位置)と言わんばかりにトーマスと腕を組んだ。そして、文がエツコから渡されていた文のブーケとお揃いのコサージュをトーマスの胸に刺した。二人は、トーマスの家族の元へ歩んだ。

「文、とってもかわいいよ。これからは、君のお父さんだからね?」

「はい、宜しくお願いします」

「文、言葉が出ない位かわいいよ。君の兄さんでいられる事が自慢だね?トーマスの事、頼むよ。僕の事もよろしくね。僕も文が大好きだ」

と言って、エリックがウィンクをしたので、文はおどけて胸に刺さったジェスチャーをした。トーマスはすかさず叫んだ。

「文!兄さんはダメだよ? 兄さんは油断も隙もないんだからな、まったく」


離れたところでジャンが応戦した。

「お? 僕の他に、さらに敵が増えたな?」


 トーマスは、文と向き合い、ベールで隠された文の顔を出すために、ベールを上にあげた。すぐにカトリーヌとエツコが綺麗に直して、トーマスに「これでいいわよ」と言った。

ボビンの仲間や他のみんなも、文の周りに集まった。ボビンレースがとても綺麗な事とエツコのカチューシャとブーケ&コサージュは「さすが!」と言わざるをえない技だった。当たり前だが、今日のレストランの花たちが、この二人を引き立てる脇役に徹している事をさらに感じさせた。エツコのセンスは抜群だった。女性たちは、文を取り巻き、話題に事欠かなかった。文は皆と話す間も、ずっとトーマスと手を繋いだままでいた。時折、トーマスを見つめては、既にトーマスの視線が自分に向けられている事に満足するのだった。

 トーマスは、文のどんな小さな一瞬も見逃したくなかった。パトリックに、今日の一部始終をビデオカメラで回してほしい、と頼んであった。オリビエには、写真を撮りまくってほしい、とお願いしていた。二人とも快く、率先して任務を全うしていた。トーマスが着替える時も同行し、文がベールをつける瞬間には貴子にビデオを渡して回してもらい、打合せ通りに「想い出」を記録していた。

 それが分かっていても、文の細かな表情は、この瞬間でしか見ることが出来ない。男として、文が自分の計画したこの全てに幸せを感じてくれている事を共に感じていたかった。文の手が、ずっと自分の所にある事が全てを物語っていた。


暫くすると、会場に音楽が流れた。奥からケーキが登場した。

今度のケーキはウェディングケーキだった。ピーターが叫んだ。

「文が大好きなマイユーのケーキです。トーマスと文でケーキカットをして、みんなに配って下さい」

文は、ケーキを切ってしまう前にじっくり見たかった。それを見たトーマスは、オリビエを呼んだ。

オリビエも文の表情を見ていたのでカメラを構えた。

「文、何も考えずにこの一年、君と一緒に働いていたわけではないよ。君がこのケーキを隅々まで自分の記憶に残したい事くらい、僕にもわかるよ?ちゃんと撮影しておくから、安心してね。パトリックがあそこでビデオも回してくれているから、大丈夫さ」

「オリビエ、遠くから参加していただいているのに、こんなことまでしていただいて有難う。ごめんね」

「文には凄く世話になったし、アッチに行って分かったけど、本当に文からは沢山の事を教えてもらった気がするんだ。仕事の表面的な事は、確かに僕とパトリックが教えていたかもしれないけど、仕事の本質は、文から学ぶことがとてつもなく多かったんだ。ほんと感謝しているよ。だから僕に出来ることが無いか、トーマスに聞いて、僕達から望んで、このプレゼントをさせてもらっているんだよ」

「オリビエ・・・私の居場所を作ってくれてありがとう。オリビエも楽しんでいってね。沢山、お料理も召し上がってね」

「大丈夫だよ。楽しませてもらっているし、お腹いっぱい食べさせてもらっているからね?」

文は、その言葉を聞いて安心した。


 マイユーのケーキは、土台が、チョコケーキがベースになっていて、その上にシュークリームがツリーのように上へと積み上げられている物だった。薄く丸いピンクや白のチョコの上にシュークリームのようなお菓子が乗っていて、積みあがっているのだ。粉糖がふんだんにかけられていて、土台のチョコケーキは生花でデコレーションされていた。文は、この生花もエツコがやったのかと思い、エツコに尋ねた。

「それは、やっぱりパティシエがデコレーションしているのよ。凄いわよね? センスが違うんでしょうね?チョコケーキって言ったら、何となくウェディングには向きそうもないのに、見事に花と上のシュークリームで打ち消してくれているもの。さすがだわぁ」

と、感心していた。去年のクリスマスにトーマスが持ってきた、雪だるまのサンドイッチのセンスも良かった。

(うん、やっぱりマイユーは大好き。ノエルに感謝しなくちゃ!)

ふと思い出して、ノエルを見ると、大好きなマイユーのケーキが目の前にあるものだから、目が釘付けになっていた。文は、笑いながら、トーマスと一緒にみんなに切り分けていった。手渡す時に一人一人と話をした。ノエルとイザベルの番になった時に

「ノエル、あなたのおかげでマイユーの事を知ることが出来て、こんなに素敵なケーキにも巡り合えたわ。本当にありがとう」

「いやいや・・・文!これは、トーマスに感謝よ。文の事を愛していればこそ、だからね?トーマス。 文、最高の旦那さんじゃない。絶対に手放しちゃダメよ。マイユーのケーキに誓って、ね?」

「トーマス!文は最高にキュートな奥さんだから、間違いないわよ。毎日が絶対に楽しくなること間違いないから!」

「う、うん・・君たちよりも僕の方が、きっとよく知っているから大丈夫だよ。最高の奥さんで最高にキュートな奥さんさ」

ノエルとイザベルの圧倒的な存在感に負けることなく、トーマスが言い放ったので、文は頼もしく思って、微笑んだ。


 ハム屋と肉屋の店主は、いつもの白衣ではなく、でっぷりしたお腹がより分かる洋服に身を包んで、それぞれ一枚の皿にそれぞれが、文の好きな物を運んできた。

ハム屋のおじちゃんは、文の大好きなハムの盛り合わせでカルパッチョを、鶏肉屋のおじちゃんは、鶏肉をグリルにしてトマトソースをかけたものを運んできた。文は目をキラキラさせて、

「これ、食べてもいいの?」

「お!いつものマルシェの文の顔がもどってきたね? 勿論、食べてよ」


文は、豪、サスキアスとグレンやエリックを手招きして呼び、これがいつも自分がマルシェで買うものだ、と言って説明した。四人は文から聞いていたマルシェの様子が手に取るように分かって、目を細めながら、文とトーマスと一緒に二枚のお皿の食事を食べた。一瞬、その場が「我が家の食卓」となった。


 そこへ、ずっと若松と話をしていた縁導商社の加藤が加わった。

「トーマス、久し振りだね?今回はお招きいただき、ありがとう。君のレポート、拝見したよ」

文は、一瞬、何を話しているのか分からなくて、

「え?」

と言ってしまった。トーマスは、恥ずかしそうに文に向かって話をしながら、加藤と話を進めた。


「文が僕に企業との接触のチャンスを与えてくれたから、無駄にしたくなくてね、

加藤さんに僕の目指す商社マンをレポートにして、目を通してください、ってお願いしてみたんだ。加藤さん、お忙しい中、ありがとうございます。僕の目指すものは、ご理解いただけたでしょうか?」

「うん、凄く分かりやすかったよ。普段、レポートって言うと、文字だらけで、グラフや表を入れ込んでくるものが多いけど、トーマスのレポートは、実に分かりやすくて、写真やイラストが入っていて、こちらに正しく想像させる余地を与えていて、凄く良かったよ、本当に。正直、僕の会社では、君の夢を叶えてあげられるものはほんの一部しかない、と思ってさ、親会社のリヤンの日本人スタッフと一緒にこの前、食事をする機会があったから、アプローチしてみたよ。そのうち、僕か彼からトーマスへ連絡があると思うから、それまで楽しみにしていてね」


 文は、いつの間にかトーマスが成長している事を嬉しく思って、抱きしめたくなった。トーマスの腕を引っ張って

「今夜、ぎゅってトーマスを抱きしめてあげるね?」

トーマスへ耳打ちした。トーマスは、頬を染めて頷いた。豪からもグレンやエリックからも(よくやった)と、肩を叩かれて、その肩にのしかかる責任の重さを感じていた。でも、隣で無邪気に笑う文を見ていると、その不安や重圧も乗り越えられる気がしていた。それは、毎日、文が努力している姿を見てきていたからこそなのだ。

 文は、加藤が話していたリヤンの日本人スタッフとは、きっと、クリスマスパーティ会場で、文の隣に居合わせた人だ、と確信していた。彼になら、トーマスの良さは伝わるはずだ、託せると安心した。


 会場は、隣が池で反対隣が教会、という最高なロケーションだった。この通りを皆は知っていても、ここでこの景色を眺めながら、食事をするのは全員が初めてだった。全てに皆が満足している事を感じて、トーマスはこの場所にしたことを正解だと思ったし、文の感性に脱帽するしかなかった。いつも夢の中にいるような空想の中にいる文は、小さな出来事や小さな景色さえも見逃さない。あの池の近道を教えてくれた時の表情も、白樺道を歩く時の表情も、誰も知らない文の一面だった。文のそういう一面にトーマス自身はいつも幸せを感じている。気付かせてくれるから、いつも心をリセットさせてもらえている。


 文はトーマスの腕を引っ張って、ジーナとボビー、サラとエツコが集まっている所に行こう、と耳打ちした。

四人が談笑しているところにトーマスと文が行くと、すぐにボビーが話しかけた。

「トーマス、今日は誘ってくれてありがとう。こっちまで幸せになったよ。付き合いが短いのに呼んでもらえるなんて、ジーナとも嬉しいね、って言っていたんだ」

「いや、陶芸は二人がやりたかった唯一の習い事だったんだよ。だから、思い出作りをさせてもらえて、本当に感謝しているんだ」

「これは、僕達からのプレゼントなんだ。受け取ってほしいよ。出来たら、文がベルギーにいる間と、ベルギーに戻ってきてから、トーマスのビアマグと一緒に使って欲しい」

と言って、サラダボールのようなお揃いの器を見せた。

「この土と色具合って・・・」

文が言うと、ボビーは、パッと表情を緩めて

「文はやっぱりすぐに気づいてくれたね? トーマスのビアマグと似せてみたんだ。まるっきり一緒なのも面白くないかな?と思ってね・・・」

と言った。トーマスは、必ず大切に使うから、と言って、大事そうに受け取った。ジーナがろくろを回し、ボビーが色付けをしたそのボウルは、温かいぽってりとしたフォルムだった。

エツコは、陶芸工房を紹介出来て良かった、と話している。ポーセリンのサラは、二人の陶芸家と打ち解けたのか、文のおかげで新しい出会いに感謝する、と言っている。文は、人との「縁」に文自身も感謝せずにはいられなかった。サラは、文に向かって、

「そうそう・・文、このネックレスも、この前、渡したかったのだけど、焼き上がりが間に合わなくて、今日になってしまったの。もらってくれる?」

「えぇ?この前もあんなに素敵なお皿をいただいたのに、私、罰が当たっちゃう!」

「あら?神様はそんな不公平な事をしないわよ。お願いだから、文に受け取ってほしいわ!」


サラが差し出したネックレスは、楕円の磁器にベゴニアの花が描かれていて、ベゴニアの周りに小さなアイビーが描かれていた。二センチもないその楕円の中にサラの世界が広がっていた。文は、その絵をトーマスにも見せた。

「文、これは、僕たちの思い出のフラワーカーペットのベゴニアと、僕にまとわりつく、文のようなアイビーが描かれているね?」

と、トーマスが言ったので、以前の会話を思い出して、文は思わず吹きだした。

「サラは、私達の思い出の事を全部、お見通しなのね?」

と言ったので、サラはキョトンとした。それでも、文がとても大事そうに自分の作品を包み込み、トーマスに

「ねぇ、つけて」

と言ったので、喜んで受け取ってもらえた事を素直に喜んだ。


「池のレストラン」は、池側に小さなバルコニーを携えている。そのバルコニーの扉も開け放していたので、皆はパーティの雰囲気と料理と景色と気の合う仲間との会話に気持ちよくなっていた。

反対隣の教会の鐘が鳴った・・・文が目を閉じて、教会の鐘の音を聞いていると、バルコニーの扉を閉めて、別に用意されていた暗幕が窓に掛けられて、ジャンがスピーチした。


「それでは、最後のプログラムになります。みんなからのメッセージをDVDにまとめましたので、みんなで見てみましょう。トーマスがみんなに声をかけて集めて、僕達三人と、ゆかりのスタッフのパトリックの四人で頑張って編集しました。それでは、ご覧ください」


「文、お誕生日おめでとう。ベルギーに来てくれてありがとう。トーマスといつまでもお幸せに」

というメッセージからスタートした。

 暗転して、どこかの駅構内の映像だった。文は、すぐに分かった。シャルル・ド・ゴール空港からやってきて、一番初めに降り立ったベルギーで初めての足跡は、ミディ駅からだった。あの時は、不安しかなかった・・

次に見えてきたのは、ナミュール駅と「ゆかり」だった。

豪が店の中でソワソワしているのを演じている。皆が笑っていた。そして、カメラがゆかりの扉に近付くと、豪が出てきて、「おぅ!よく来たな!今日からは俺の娘だぞ!」と言って、カメラに向かってハグした。会場中が大爆笑だった。


 続いて現れた映像は、セントラルの駅だった。文はトーマスを見た。トーマスも見つめていた。気持ちが一年前に戻ると、急にドキドキしてきた。文はトーマスの手を握った。トーマスはそれに応えるように強く握った。映像の中のトーマスは、文が立っていた、あのアンティークの店を見つめている。


(この店の前に立つ文を見た時から僕の恋が始まった)


 トーマスの声のナレーションが流れた。文は涙が流れてくるのが分かった。トーマスが、ハンカチを文に差し出す。文は、それを受け取り、流れる涙を抑え続けた。アンティークの店からグラン・プラス目指して、カメラは回り続けた。一年前に文が座っていた階段を捉え、そのままゆっくりとカメラはターンをして、隣の階段にいるトーマスを映し出した。

(僕は、この時の文が忘れられなくなっていたけれど、声がかけられない臆病者だったんだ)


 次に、別の駅の構内が映し出された。そう・・・特徴的なその駅の構内は、アーツ・ロワだった。初めに階段を遠くから撮影していた。

(初め、僕はこの位置から彼女を発見した。みんな分かるかい?あのグラン・プラスで一目ぼれした彼女をこの位置で、あそこに発見した時の僕の気持ちをさ! 僕は足早に彼女に近付いて、彼女のすぐ後ろに追いついたんだ)

カメラは、その時のトーマスの動きと同じように回った。とてもリアルだった。

(彼女は、ここから落ちそうになったんだ。それを僕が支えて、どうにか無事だった。助かった!という事よりも、僕は彼女に触れられた喜びの方が大きすぎて、一瞬にして舞い上がったのだけど・・・彼女は素っ気なかった。ふられた!って思ったんだ・・・)

映像の中のトーマスの声も心なしか落ち込んでいるようだった。文が驚いたのは、次のナレーションだった!


「私ね、トーマスが折角助けてくれたのに、私が一目ぼれした男性だったから、ビックリして舞い上がってしまったの。でも、神様が降りてきて、私に浮かれている場合ではない、って一喝なさったの。しっかりしなきゃ!ここは、ベルギーよ、男に隙を見せちゃダメ!って・・・折角、一目ぼれの彼なのに、素っ気ない態度をとっちゃったから、凄くショックだったの・・・」


文の声が流れたのである。そうだ!もぅ、だいぶ前になるけど、エツコの教室で、八重と貴子に聞かれて応えたことがあった! 文は、すぐに八重たちの方を見た! 二人は、エヘッという顔をして舌を出して見せた。文の声を録音していたのだ。それは、日本語の会話だったので、ご丁寧に字幕のテロップまで流れた。


 カメラは、再度、アーツ・ロワの階段で、トーマスが肩を叩く振りを映し出した。

(どうしても諦められなかった僕は、人生で初めて、自分から彼女へ声をかけたんだ。最高に緊張した瞬間だった。だって、嫌われている確率の方が、この時は高かったから。でも、彼女の意外な反応に安心して、ここから僕の彼女へのアプローチが始まったんだ)

それからの映像は、ストッケルの帰りに会ったモンゴメリの駅でのメトロの中やゆかりの店内。実は、ストーカーのように文を追っていたことも、ここで明かされた。文は「えぇ?」とトーマスをのぞいた。トーマスはひと言「ゴメン」と言った。

トーマスが文に告白したベンチ。文がトーマスに告白した、ゆかりから伸びるアーツ・ロワ駅へ向かう道。

フラワーカーペットで撮った写真やテルビューレンでの写真。そして、テルビューレンのトラムの中でトーマスの腕の中で幸せそうに眠る文の寝顔と共にトーマスのナレーションが再び流れた。

(僕は、この寝顔を見た時に絶対に文を守るのは僕じゃなきゃダメだ!って、思ったんだ)


 サブロンのアンティークマーケットが映し出された。文が小さな声で「あ!」とつぶやいた。

文の左手に光るリングの店主が手を振りながら話し始めた。

「文、おめでとう。君が気に入っていたリングが君の元へ来て、幸せかな?トーマスがその幸せを運んでくれたんだからね? 君はきっと、そのリングもトーマスの事も大切にする女性だと思って、彼に売ったんだ。初めて二人を見た時、お似合いだな、ってすぐに思ったよ。ずっと幸せでいるんだよ。そして、またマーケットにも二人で遊びに来てくれよな?おめでとう!」

周りの店舗の人達も「おめでとう!」と言って、はやし立てていた。


 カメラの画面は、日本人学校に移っていった。マロニエ祭の映像がいくつか流れ、文の書道の姿が写真でいくつか公開されて、参加者の中から「おぉ!」と声が漏れた。

(この日の帰り、僕は文を独り占めしたい気持ちでいっぱいになっていた。文は、黙って僕についてきてくれた。その気持ちが嬉しくて、もっと文を大切にしようと思ったよ)


 そこからの映像は、文の習い事のメンバーたちの映像になっていた。

習い事ではないけど、トップバッターは、「ゆかり」のメンバーたちだった。オリビエ、パトリック、サスキアスが順番に文との思い出をカメラに向けて語り継いでいった。


 書道教室では、町田が文の努力の証を褒め称えた。文の師範となった作品を公開した瞬間、皆が一斉に拍手をした。ノエルが文との楽しい思い出を語っていた。イルダは文の作品の途中をカメラ越しに見せた。会場の皆は、「すごぉい」とため息を漏らしていた。


 エツコは、花屋の店内を全て映し出し、この店内の全ての掃除と花の準備は、文が毎回、一人でこなしている作業です、と説明すると、「ほぉ~」と感心する声が聞こえてきた。トーマスも文の手を引っ張り、

「文の花屋の仕事ぶりだけは知らなかったから、これは貴重だね? 文はやっぱり凄いや!」

文は首を横に振った。尚もエツコの説明は続く。教室の募集のチラシ、教室のセッティング、経理業務まで文がやっているので、「明日から私は路頭に迷いま~す!」と言ってから、「だから、トーマス!早く文を連れ戻してください!」と叫んで懇願するポーズをして映像を終えた。会場は大爆笑だった。


 次は、ボビンレースの若松家の様子だった。文も気付いていなかったが、いつの間にか、文がカトリーヌから指導を受けている様子を撮られていた。そして、文が一人で黙々と作業をしている姿も映像に出てきた。カランコロン・・とボビンの音が聞こえてくると、文はたちまち幸せそうな顔をした。カトリーヌと若松、玉野、鈴木の四人で、今、文が身に着けているベールを持って、語りかけた。

「このベールを文さんがつけてくれる事を楽しみに、パーティに参加させていただきます」


 次に出てきたのは、見覚えのある部屋だった。イザベラの部屋だ。沢山のシャドーボックスの作品の中でイザベラが文に向かってメッセージを伝えていた。

「初めて会った文は、めちゃくちゃ可愛くって、不器用で、でも、凄く頑張り屋さんで、女性なのに抱きしめたくなっちゃうくらい可愛かった! トーマスの事を思い浮かべているんだろうなぁ~っていうのも分かっていたし、トーマスに愛されているんだろうな~っていうのもダダ漏れしていて、分かったよ。絶対に幸せになるんだよ。また、一緒に作品作ろうね!」

文は、映し出された映像に向かって「ウン!」と頷いていた。


 次に現れたのは、先日まで通っていた陶芸教室だった。

ろくろをトーマスが回すシーンだった。会場の皆が「おぉ?」と言っていた。その横で、ボビーが解説をしている。

「文は、初めてろくろを回していた時、心と頭がバラバラだったことを覚えているかな?心ではろくろを回さなくちゃ、頭では、粘土の空気を抜かなくちゃ、ってね?トーマスみたいに心と頭を一つにして体に伝えるんだよ。あの時の文がいじらしくて可愛かった。上手く出来なかったことが、よっぽど悔しかったんだろうね? ん~ トーマスがいなかったら、間違いなく僕が文に告白していたかもしれないよ。だから、トーマス、文を幸せにしないと承知しないからね。文、こんな僕の事を分け隔てなく接してくれて、尊敬なんかしてくれて、本当に嬉しかったよ。文の一生懸命に陶芸に向かう姿は最高にきれいだった。かわいかったよ。ありがとう」


ろくろを回すトーマスの心の乱れが、粘土がグチャグチャになっている光景に現われて、会場は大爆笑だった。

次にトーマスの作品と文の作品が仲良く並べられている映像も流れて、文は自分が知らない場面を見ることが出来て嬉しかった。


 その後は、ストッケルの朝市の様子が流れて、ハム屋のおじちゃんと鶏肉屋のおじちゃんは、カメラに向かって文へメッセージを伝えていた。文は、画面に向かって手を振った。


 次に出てきたのは、加藤だった。

「文さん、是非、日本へ行ったら、僕の会社に必ず訪ねてみて下さいね。そして、一日も早くベルギーに戻られて、今度は僕と一緒に働きましょう!」

と言って、カメラに向かって手を伸ばした。文は、加藤の方を見て、一礼した。


 次に、カメラが暗転して・・・フェードインしてきた風景は、デュルビュイだった。会場の皆が「わぁ!」と歓声を上げた。

「皆さま、本日は、息子トーマスとそのお嫁さんになる文のためにお集まりいただき、ありがとうございます。デュルビュイは、私達の故郷です。その映像と共に、私たちの話を聞いて下さい」

 あのデュルビュイの街一帯が見下ろせる高台から、力強いグレンの言葉が響いた。そして、次に現れた背景は、記憶に新しい、トーマスの実家のリビングからだった。


「トーマスは、去年のカーニバルまでは、二か月に一度の割合でデュルビュイに帰ってくるような男でした。早くに母親を亡くしたトーマスを長男と私で甘やかしてしまったので、大学はブラッセルに送り出したのですが、こんな調子で帰ってくるようではだめだぞ、と叱咤激励をしようとしていた去年の夏、トーマスが帰ってこなかったので、(あれ?)と拍子抜けしておりました。

 去年の秋、長男にトーマスは相談していたようで、それが文の事でした。初めての真剣な恋愛に、文とどう関わって良いのか分からなくなっていたようでした。しかし、長男と話しながら自分の気持ちを自分で整理して解決していった事を聞いた時に、文と言う女性には会っていないけれど、トーマスが自分で答えを出せるようになれた女性ならば間違いがない、と思いました。

 三月に文が働く姿を長男は遠くから見ていました。その働く姿を私に話して聞かせてくれた時に、あぁ、間違いないな、と感じました」

 グレンの顔が、トーマスの父親の顔から、トーマスと文「二人の父親の顔」に変化していった。


「そして、四月にトーマスと共に文が我が家に来てくれて、文を帰したくなくなっていたのが、この私でした。皆さんの方が、よくご承知でしょうが、文がいてくれると、そこがぱあっと明るくなるのです。心が暖かくなるのです。力がみなぎるのです。妻を亡くしてから初めて「希望」が見えました。本当に有難い事です。そして、こうして、沢山の皆様に文もそうですが、トーマスも支えられている事を知り、長男と送り出した自分達の出した結論は間違っていなかった、と思える毎日なのです。本当に感謝しております。これからも、二人をどうぞ見守ってやって下さい。ダメな時は叱ってやって下さい。宜しくお願い致します。

 文、トーマスのもとへ来てくれてありがとう。私の娘になってくれてありがとう。トーマス、文と共に歩めることになって良かったな?おめでとう。トーマスの勝負を目の当たりにできる喜びを今日は、エリックと共に噛み締めるよ」


会場から割れんばかりの拍手が沸き起こった。トーマスも文も泣いていた。


 最後の映像は、今回のパーティの立役者五人が丸く集まって、想い思いに話し始める映像だった。

「本日、お集まりの皆さま、パーティを楽しんでいただけましたでしょうか?」

フィリップの問いかけに対して、皆が歓声を上げて拍手を送っている。


「トーマスから今回の話を持ち掛けられた時、嬉しい気持ちと文と離れる寂しい気持ちが混在して複雑でしたが、何よりも我らがトーマスの一世一代のステージだったので、ここは笑顔で盛り上げよう!と一致しました」

「二人は、決してずっと平凡にきた訳ではありませんでした。国籍も違うし、育った環境も違う。すれ違うような場面も僕たちは見てきました。でも、それでも二人の心はお互いが好きだ、という一点だけは、すれ違うこともなく、揺ぎ無かったので、僕たちは二人を応援し続けました」

「文が泣く顔も、トーマスがふさぎ込む顔も見てきたけど、今日という日が来たのは、そういう日があったからこそだと信じています。どうか、文が日本に一時的に帰っている間も、皆さんで二人を支えてあげて欲しいと思います。二人とも寂しがり屋なので、お願いします」


「皆さん、二人を見ていると応援したくなりませんか?」

貴子が呼びかけると、会場から拍手が沸く。

「私達もそうです。だから、いつも二人には仲良くしていてもらいたいんですよね?誰にも邪魔してほしくないんです。邪魔する人には、私達が成敗に行くので、覚悟しておいてください。私は、文ちゃんがトーマスを想う心を理解すればするほど、主人を大切にしなくちゃいけないな、って感じました。文ちゃん、ありがとう」


「本日は皆さま、沢山のご協力をいただき、ありがとうございます。私は、文ちゃんと一緒に語学学校も通ったし、お花の教室も通ったし、テニスやバスケの見学やら、こんなオバサンが文ちゃんのおかげで学生気分を味わえたことに凄く感謝しています。いつも真っすぐな文ちゃん。いつも頑張り屋さんで、手が抜けない文ちゃん。私達の中の文ちゃんは、私達の目の前を(お先に失礼します!)と言って、ピューって走り去っていく姿と私達の面白くもない話をケラケラ笑い転げて聞いてくれる無邪気な文ちゃんです。そんな文ちゃんが、唯一、甘えられて、心を休められる場所がトーマスなんだよね? トーマスにとっても同じ気持ちであることを、早く文ちゃんも理解してあげなさいね。少しでも自信をもって、ね? 今日は本当におめでとう」


 映像が終わると、五人がトーマスと文を取り囲んだ。いつも、いつも七人が一緒だった。七人は楽しかった。居心地が良かった。文は一人、一人と抱き合った。最後にジャンと抱き合った時にジャンは「文、よかったね」と囁いた。


上映会は、大盛況の中で終わった。フィリップが締めの言葉を告げた。

「それでは、本日のパーティを終了とします。最後にトーマスからひと言あります」


 トーマスは、フィリップ達を見て、相槌を交わした。トーマスの友は、無言で「ガンバレ」と言っているようだった。それを八重と貴子も微笑んで見守った。


「皆さま、本日は、貴重な日曜日のお休みにお集まりいただき、ありがとうございます。また、僕の呼びかけに快く応えていただき、賛同して下さり、感謝しかありません。本当にありがとうございます。僕の大切な文がベルギーに来て、一年が経ちました。文と共に僕までも皆様に支えていただき、成長することが出来ました。だからこそ、僕のプロポーズを皆さんに見届けてほしかったのです。僕は強い人間ではないから、皆さんに見届けて頂けたのなら、僕がへこたれる時、厳しく非難してくださるかな、と思ったのです。でも、文にはどうか温かい言葉をかけてあげて下さい。彼女は、単身日本で、僕が迎えに来る事をひたすら待っていてくれるのですから。僕は、必ず彼女を幸せにすることを誓います。本日は、本当にありがとうございました。どうか気を付けてお帰り下さいね」


文は、堂々とスピーチするトーマスに惚れ直していた。文への心遣いにも感謝していた。


 トーマスと文は、レストランの入り口で皆を見送った。文のプレゼントを配りながら・・・カトリーヌに途中で、ベールを外してもらった時に、文は憧れの、ため息を漏らしながら

「やっぱり、自分の結婚式はボビンのベールだけは外せないわね?衣装はどうでもいいから、ベールだけは、絶対にボビンにしたいわぁ、ね?トーマス」

と言って、おねだりをした。エツコが作ったカチューシャを再度、頭に着けてもらって皆を見送った。


豪夫妻とグレン、エリック親子に別れを告げて、文は、グレンとエリックに

「日本に帰っても、お二人とメールで繋がっていたいからお願いします。寂しくて死んでしまいそうだから」

と言うと、エリックは

「文を死なせはしないさ。いつでも連絡するんだよ?僕が文を迎えに行こうか?」

と言って、文を抱きしめた。エリックはトーマスのヤキモチを喜んでいた。


 最後に五人の主力メンバーと一緒に写真を撮った。そして、レストランオーナーのエリーに礼を述べてから、片づけをトーマスと文も混ざって始めた。マロニエ祭の時のように成功の後の脱力感に似たものを全員で感じていた。花以外の飾りをすべて外し、食器をドンドン厨房へ運び、レストランをもとの状態に戻して、掃除もした。日本人が三人もいると早いものだ。エリーは、主役の二人を気遣った。

「今日は、あまり食べられなかっただろ? 簡単に詰めておいたから、今夜食べるといいよ。誰にも邪魔されず、二人きりで召し上がれ! 君たちのおかげで、今日のお客さんから予約を沢山いただけたんだ。本当にありがとう」

と言って、アルミホイルの使い捨て容器の中に数種類の総菜を詰めて渡した。


レストランの中も厨房も片づけが終ると、解散した。トーマスと文は、レストランから五人を見送った。

二人きりになって、改めて互いを見つめた。トーマスが含み笑いをしている。

「文、明日は何の日か知っているだろ?」

「明日が、私の誕生日よね?」

「そう! っていう事は、みんなは今日、お祝いしてくれたから、明日は邪魔者がいない。しかも!文には内緒でボスに明日も二人で休むことをお願いしちゃったんだ」

「え?ほんと?」

「本当。だって、今まで今日の日の事を文に言えないから、ずっと色々我慢してきたんだよ、これでも。内緒にしていたから、実は凄く苦しかった。もう、解放されたいよ。だから、明日は、部屋でいつまでも文とず~~っと一緒にいて、沢山話したいだろ? 僕もこれでやっと前を向ける。一日も早くプロポーズしたかったけど、待たせてごめんね」

「ううん、凄く嬉しかった。色々気を遣わせてゴメンネ。ありがとう。きっと、結婚式よりも今日の方が嬉しいと思うよ。トーマスの勇気と優しさの塊だったもの!」

「本当?そんな風に思ってくれるの? そうなんだよ。結婚式は、約束の儀式だろ?でも、プロポーズは違うよね? 僕に全てがかかっている、って思ったんだ。結婚式は、二人や家族が作る儀式だけどさ、今日のは違うでしょ?やっぱり、文には届くんだな~ 頑張って良かったよ」

「そうなの。それに私の誕生日も祝ってくれたから、凄く感謝しているの。有難う、トーマス。何十回好き、って言っても足りない位大好きよ」

「何十回でも言ってほしいよ。僕はそのたびに強くなるんだ。今日も聞いていただろ? みんなが文に告白するから、僕は嬉しいんだか悔しいんだか、頭の中が混乱していて、途中から分からなくなっちゃったよ。エリックは相変わらず文に慣れ慣れしいし、文もエリックには甘えるだろ?」

「だって、お兄ちゃんが欲しかったんだもん。だから嬉しいの。トーマスばっかりエリックを独り占めするのはズルイわ」

「うわぁ、この会話をエリックが聞いたら、絶対にすっ飛んでくるぞ。文、今の言葉はエリックの前では禁止ね」


文は、今日のパーティでの背伸びしたトーマスも好きだけど、子供のようなトーマスも大好きだった。


「今から明日までの時間が永遠に続けばいいのにね? はぁ・・幸せだなぁ」

トーマスはたまらなくなって、参加者からのプレゼントをそこに下ろし、文を抱きしめた。文もトーマスの腰に両手を回し抱きしめた。


 アパートに戻り、今朝、出掛けた時と何も変わらないはずなのに、文は、トーマスが今朝のトーマスと違う気がしていた。「私の旦那様になる人」と、堂々と言える事は、文にとって、ささやかな自信になっていた。そして、「疲れたぁ!」と言って、ソファにドカっと座ったトーマスの後ろに回って、思いっきりギュッと抱きしめた。


「私もトーマスを世界一幸せにすることを誓います!」


トーマスは文の不意打ち行動に驚き、胸がいっぱいになって思わず泣いた。今日までの緊張感と、やり遂げた達成感、新たに生まれた責任感とで二十一歳のトーマスの胸はいっぱいになっていたのだ。余裕なんて少しもなかったのだ。でも、文はいつもこうして、心を軽くしてくれる。

文は、後ろからトーマスの両方の頬を両手で包み込んだ。

「トーマス、お腹がすきすぎたよ~ ねぇ、食べよ!」

トーマスは笑って「うん、僕もお腹が空いたよ」と言った。


 文は折角だから、とトーマスが作ったビアマグと皿、そして、ジーナとボビーが作ってくれたボウルに料理を入れて並べた。食後には「池のレストラン」のナッツタルトをエリーが小さなものを取っておいてくれたため、文は超ご機嫌だった。


 文は、左手に光るルビーの王冠リングをあらためて見つめて言った。

「トーマス、本当にありがとね。このリング、自分へのご褒美に買おうとしていたけど、もっと素敵な方法で私の手元に来たから、この嬉しさをどう表現していいのか分からないの。伝わっているといいんだけど・・・」

「文の表情を見ていたら、十分すぎるくらい伝わっているよ。喜んでくれてありがとう。それを買った時、文、ゴメンって罪悪感しかなかったんだ。でも、このリングの力を借りなければ、僕のプロポーズは成功しない、って思っていたんだよ」

「このリングが無くても成功していたでしょ? トーマスったら、私がこんなに好きなのに自信もってよ」

「えぇ?文がそれを言うの? じゃあ、僕がこんなに好きなのに、文もそろそろ自信もってよ」

ん~と考え込む文を見て、トーマスは笑い出した。文もつられて笑った。

「私達って似ているんだね?ダメね?」

「うん、だめだね? 一生こんなかもしれないね?」

「うん、それでもいい。トーマスがずっといてくれるなら、それでいい。でもね、さっき帰ってきたときに、トーマスの顔を見たら、ほんの少し自信が持てた気がしたの。みんなに(私の旦那様)って堂々と言える事は、なんだか嬉しいよね?これを(自信)っていうのか、分からないけれど・・・」

「文・・・ありがとう。最高の言葉だよ」


 トーマスの一世一代のプロポーズの日は、二人とも気疲れもあって、早くから眠ってしまった。

次の日、文が目覚めると、トーマスは、文の寝顔を見ていた。

「おはよう、文。お誕生日おめでとう」

「トーマスと三歳も離れちゃうから、めでたくなんてないんだけどね。今年のトーマスのお誕生日、一緒にお祝い出来なくてごめんね?」

「去年の文の誕生日、お祝い出来なかっただろ?これでお相子だよ。来年からずっと一緒にお祝い出来るように僕が頑張るから、そっちを楽しみにしなくちゃ、ね?今日は、何でも二人でやろう! 食事も掃除も料理も洗濯も!ね? それがお祝いだ」


文は、堅実で誠実なトーマスに安心していた。価値観が似ている事は一緒に居て居心地がいい。

トーマスも文がこういう事を喜ぶ女性であることを知っているので、疲れない。ブランド物のバッグが欲しいだの、美味しいレストランに連れていけだの、という友達の彼女の話を聞いていると、相手の立場を考えてモノを発言しない女性の話にイライラする。身の丈をわきまえて行動出来て、考える文は、トーマスにとって、結婚相手として考えるのは至極当たり前のことだった。早く、期限なしで文と生活をしたい。逸る気持ちを抑えることに精一杯だった。


「文、僕は国際結婚がどんなものかよく分かっていないけれど、文は分かる?」

「全く分からないわ。明日、店長にも聞いてみようと思っているの。こっちにいる間に出来ることがあれば、やっておきたいものね? 日本でやらなければならない事は、帰国したら、すぐに取り掛かるようにしておくわ」

「わかった。文に任せっきりになってしまうけど、ごめんね。でも、こっちで揃える書類とかは、二人でコミューンに聞きに行ってみようか? 今日はイヤだけど、金曜日か来週の月曜日にでも聞きに行ってこようよ」

「金曜日はバスケでしょ?今月は私も見学に行きたいから。コミューンには、来週の月曜日に行って聞いてきましょ!」


 結婚へ向けて動き始めれば、お互いが前を向けている実感を持てた。文やトーマスの荷物を「ゆかり」へ運び出すことも、決して引っ越しと言うのではなく、「結婚の準備」という二人の暗黙のルールとした。


 二人の気持ちを嘲笑うように七月は、物凄い勢いで過ぎていった。

とうとう、明後日がゆかりへの最後の出勤日となった。豪は、明らかに寂しそうである。でも、言葉にすれば、もっと寂しい気持ちでいるトーマスと文に申し訳ない、と考えるから言葉にしなかった。豪は、文が安心するようにトーマスと文がいるところで今後のトーマスの事を話した。


「この前、トーマスには言ってあるんだが、文もよぉく聞いておくんだぞ。トーマスは、三十日には、こっちに移動する。勿論、俺が手伝って家具も運び出すから安心するんだ。で、だ。居候部屋の家賃はもちろん、ナシだ。その代わり、バイト代はナシ、だけど、飯も風呂も自由にすればいい。俺が作ったものを食うだけだけど、金はいらない。だから、しっかりカフェのバイトをして、あっちで金を貯めるんだぞ? どちらのバイトもしっかり働け。勉強も怠るな。バスケも続ければいい。ちゃんと俺には相談しろ、いいな?」

「はい、ボス。本当にありがとうございます」

「店長、トーマスの事、宜しくお願い致します。私も帰ったら、あっちでこのお店をサポート出来る何かを探し出してみますので、待っていてくださいね」

「おぅ、文には、俺の店への思いは充分伝えているはずだから、焦らずにヒントを探し出してもらえればそれでいい。見つからなくても落胆はするな。焦るなよ?俺は文が再び戻ってきてくれたら、それでいいんだ。いいな?」


 今日までの金曜日は、八重と貴子も応援に加わってバスケ観戦を楽しんだ。文は、トーマスの勇姿をスマホに収めた。貴子はそっと、文がトーマスを見ている姿を撮影して、文が旅立った後、トーマスに見せてあげようと考えていた。


 ゆかりの最終出勤日。昨日は、最後の日曜日で、「結婚の準備」の為の荷造りをした。トーマスと作った小さなドールハウスをスーツケースにまず入れた。ボビンの材料は、なるべく台を入れるサックの中に入れて、入りきらない道具だけ、スーツケースに入れた。習字の道具とカリグラフィの道具を入れた。文はこっそり、トーマスのトレーナーとTシャツをスーツケースに入れた。トーマスはすぐにみつけて

「あれ?これ僕のだろ?」

「あぁ、みつかっちゃった。これだけ持って行っていいでしょ?お願い」

トーマスは理由も分かったので、「いいよ」と言った。文の洋服は、殆どを置いていく事を知っていたからでもある

「食器は割れたら悲しいから、全部置いていくね?」


 パーティ会場で流れたDVDをダビングしてくれたピーター。文はそれを大切そうにドールハウスの傍に入れた。その他にもトーマスが撮りためた写真、小さな思い出の数々。テルビューレンで拾った葉っぱ。アントワープやブルージュの時のチケット。トーマスがプレゼントしてくれたマイユ―の雪だるまがしていたマフラー。そして、メニエールになった時の最後の薬。その薬はトーマスが買いに行ってくれた、文にとっての「命の薬」。イルダがプレゼントしてくれた小さな看板とサラの描いた王の家の皿。それらを文の夏服で包みながら、スーツケースに入れていった。空いた所にベルギーの食べなれたお菓子を入れた。あとは、胸にはペアリング付きのチェーン、左手にはエンゲージリング、耳にはバスケのピアス。そして、片道切符とパスポート。


文は、トーマスに説明をした。

「トーマス、私は、この片道切符があれば、日本に帰れる。山梨に帰るから、住むところにも困らないの。それに、私は、日本にも貯金を残してきているから、当面、一人で暮らすこともできる。こっちで貯めたこのお金は、二人のお金なの。だから、このまま置いていくね?トーマスが凄くお金に困ったら、遠慮なく遣っていいからね?そうでなければ、このまま貯金を増やして、私を迎えに来る時に使ってね? 私は日本でまた、片道切符を働きながら貯めて待っているから。お願いよ」

「文・・・こんなにお金を貯めてくれていたんだね?ごめんよ。僕が不甲斐ないから」

「そんなこと言わないで。トーマスと一緒に貯めてきたんじゃないの! それに、ここに七月分の私のお給料がプラスされるから、それも貯めておくのよ?トーマスの分もあるじゃない?」

「そうだね。八月からは、殆どお金がかからないと思うんだ。そのまま貯金できる。一日も早く文を迎えに行きたいから、貯金も頑張るね」

「ありがとう。もっと残せたら良かったのに、ゴメンね。色々な習い事しちゃったから・・・」

「それが、文のベルギーに来た目的だろ?大丈夫。僕を信じてくれよ」

「うん、大丈夫、信じているから」


 この七月、文と沢山話をした。結婚したら、どんなふうに人生設計を考えているのか?二人で一番、話した内容は、子供の事だった。文は、すぐに欲しい考えだった。トーマスは、離れて暮らしているから、初めは二人の時間を持ちたい、という意見だった。


「でも、結婚してすぐに赤ちゃんを授かっても、すぐに生まれないし、十か月もあるのよ? 若いうちに子育てを終えて、若いうちにトーマスとまた、二人の人生を楽しく生きたいわ。歳をとりすぎて、第二の人生を送りたくても送れないのは嫌なの」


文の考えはよく理解出来た。むしろ、トーマスもそうしたかった。きっと、社会人になったばかりの自分は、生活を安定させることが精一杯で、文に今以上に贅沢をさせてあげられるはずもなかった。だったら、若いうちに子育てを終えてしまえば、今の自分達の年齢であれば、充分若いナイスミドル世代にまた、文と恋人同士のようになれる、と想像すると、そちらの方が断然、想像するだけで楽しみだった。


生活面は、トーマスの就職先によるから、今は深堀りしないように文は努めた。トーマスに無駄なプレッシャーを与えたくなかったからだ。

「私は、トーマスの仕事先で如何ようにも合わせられるから、トーマスは、自分がやりたい事を考えてね。あとは、その会社の給料の事や働き方とかも、ちゃんと調べておいた方がいいからね?」

トーマスは、この辺が疎いので、文の社会人経験は心強かった。また、文の人脈のおかげで、八重、貴子、若松などからも話を聞くことが出来る環境はありがたかった。

(僕は、文が日本に行っても、文に守られているんだよな・・・)

 

 最後の出勤日が来てしまった。今日は、トーマスはカフェのアルバイトが無いので、ゆかり一本だった。文と共にアパートを出た。二人でゆかりに出勤する日は、アーツ・ロワで下車して歩くことにしていた。文は、アーツ・ロワのホームで、思い出しながらつぶやいた。

「私、ここでトーマスに一目ぼれして、ここでトーマスに助けられたのね?」

「この汚い駅もそんな風に考えると、ロマンチックだよね?」


ゆかりでの時間も淡々と過ぎていき、皆が「いつも通り」を心がけた。文は来客者一人一人に

「今日が最終出勤日になるので、今までお世話になりました」

と挨拶をした。突然の文の告白に、皆が仰天するのだった。

「文がいたから来たのに・・・明日から楽しみがなくなっちゃうなぁ」

「他のスタッフはいるから、明日からも絶対にいらしてくださいね。お待ちしております」

と、伝えた。来客者は皆、文に握手を求めた。文は接客をやっていてこの上ない幸せを感じていた。


文の上がる時間になった。今日は、トーマスも一緒に上がる事になった。豪の計らいだ。

「文、明日は見送りに行けないけど、勘弁してくれよ? 元気で頑張るんだぞ。トーマスの事は任せてくれ」

「店長、本当にお世話になりました。また、必ず戻ってきますから、お元気でいらしてくださいね」

日本語で挨拶をした。豪は、文を抱きしめた。文は、ゆかりを出ると、振り返って、深々と扉に向かって一礼をした。


アパートへ向かう帰り道、文はトーマスがあまり話さない事が気になった。

「トーマス、大丈夫?」

「文は大丈夫?」

「私? 全然、大丈夫じゃないの。分かっていたはずなのに、どうしても行きたくない私が傍にいるの。ごめんね、トーマス。こんな弱気な事も言ってはいけないと分かっているけれど、大丈夫じゃないの・・」

「よかった。その言葉が聞けて。僕も全然大丈夫じゃないよ。大丈夫じゃないから頑張らなくちゃね?今夜は思いっきり文に甘えるよ。覚悟してね?」

「分かった!じゃあ、私も思いっきりトーマスに甘えるね」


アパートに着いてから、二人は夕飯を食べる時もくつろぐときも、片時も離れなかった。最後の一秒までお互いのぬくもりを感じていたかった。


「文・・僕しか知らない文の秘密を今日、教えてあげるよ」

「え?私が知らないの?」

「そうだよ。だって、文が寝ながら無意識にやっていることだからさ」

「え?恥ずかしいこと?」

「凄くカワイイことだよ。文が初めて僕のアパートに泊まって、あの狭いベッドで二人で寝たときから、ずっと文はそうなんだけどね・・・文は眠りに落ちると、僕の存在を確認できると、まるで磁石みたいに僕の胸の中に吸い付いてくるんだよ。ケンカした時も、病気の時も、僕が文を泣かせた時も、クタクタに疲れた時でも、いつも文は僕の胸の中に来るんだ。本当に幸せだった。ありがとう。ほんの少しの間、そうしてあげられないけど、ごめんね。僕もガマンするから・・・」

「トーマス・・・そうだったのね。恥ずかしい・・でも、日本の頃のように孤独を感じなくなっていたの。それは、トーマスと暮らしているから、って思っていたけど、きっと寝ているときも、トーマスに守られていて充足していたんだね、有難う、トーマス」


 次の日。シャルル・ド・ゴール空港までトーマスが付き添う事になっていた。夕方出発のため、ベルギーを昼頃に出発すれば、充分間に合った。セントラルの駅に到着すると、ジャン達や八重、貴子、若松たちのボビン仲間が集まっていた。文は、泣かないように努めた。それよりもみんなにお願いをしなければならなかったのだ。


「みんな、トーマスの事をお願いします。支えてあげて下さい。宜しくお願いします」

と言って、何度も頭を下げた。トーマスはそんな文がいじらしく、抱きしめた。

「文、僕よりも君だよ。僕は、こうしてみんながいてくれる。文は、一人ぼっちになるだろ?僕はそっちの方が心配だよ・・・」

「有難う、トーマス。大丈夫じゃないけど、そこは私が頑張らなくちゃいけないことなの。それに結婚の準備もしなくちゃいけないでしょ?きっと、何とか乗り越えられると思うのよ。前に日本にいた時は、一生一人ぼっちかな?って、思っていたけど、私、もう一人ぼっちじゃないもん」

「文ちゃん、私が一時帰国するときには日本で会いましょう。その時にはトーマス情報が沢山伝えられるように集めていくからね?」

八重が優しく言った。文は、「はい」と小さく応えた。

ジャンが、トーマスに向かって「ゴメン」と言ってから、文を抱きしめた。

「絶対に帰って来いよ。待っているからな。一人でも頑張るんだ。僕たちの事を思い出すんだ!いいね?」

そして、文が大好きなLEOのチョコを取り出して、トーマスに渡した。

「二人でタリスの中で食べるんだぞ」


文は涙を拭って、みんなに笑顔で大きく手を振って別れを告げた。

「行ってきます」

それを聞いたみんなの顔が明るい顔になって応えた。

「いってらっしゃい!」


文は、トーマスを見上げた。トーマスは文を抱きしめて「文、えらいぞ!」と言った。

「だって、私は、トーマスと結婚をするための準備に日本へ向かうだけだもん」


赤い流線型のタリスはカッコイイ列車だった。二人で並んで座り、早速、ジャンからの差し入れのチョコを口に運んだ。トーマスは面白くなさそうに言った。

「最近のジャンは、文に抱きつくことが多すぎた! 何か仕返ししないと気が済まないな。調子に乗ってやがる。文は僕の奥さんなのに、手を出すなんてひどい奴だと思わないか?」

「そうね・・・ひどい友達よね? 私じゃあ、首を掻き切って自殺しちゃうかもしれないわ」

「え?そんなに?」

「うん、トーマスが取られたら、そうする! でも、ジャンは、多分、最近感じていたけど、私を妹みたいに感じている気がするよ。ジャンってトーマスと同じで男兄弟がいるんじゃない?」

「うん、そうだよ。僕と逆で弟がいるんだ」

「そっか・・ジャンに聞いてみてよ。きっと当たっているよ。前と全然違うもん。エリックと同じ感じがするよ」

「う~ん、それでも嫌だ!」

「分かった。今度から抱きつかれないようにちゃんと警戒するから」

「そうしてくれよ。文はいつも無警戒だからさ」

「トーマスがいると、そうなっちゃうんだもん」


 シャルル・ド・ゴール空港へ到着した。文はすぐにカウンターへ向かい、荷物を預けてしまった。

「さぁ、トーマス。私、ギリギリまで、貴方から離れない。呼び出されるまで、貴方から動かないわ」

文が真っすぐに自分を見ている。

(そうだ、この目に僕は初めて恋をしたんだ。文は、覚悟を決めている。僕がしっかりしなくちゃならない。今は、どうやっても、連れ戻すことも出来ないんだから)

「そうだね。ギリギリまで一緒にいようね。結婚してからの話でもして待っていようよ」


それからの二人は、他愛もない話を沢山した。子供は何人?男の子?女の子?

家は建てるの?アパート住まい?

結婚してまず、何を揃える?

文の夢はいつ、叶えようか?

新婚旅行はどこに行く?

毎年のバカンスはどうやって過ごす?


そんな話をしていたら、文の飛行機の最終案内がアナウンスされた。トーマスは文をきつく抱きしめた。そして、トーマスの左手からリングを外し、文のチェーンへ通した。文も自分のチェーンからリングを外し、トーマスのチェーンへと移した。

(もう、泣かない)


「日本に着いたら、まずは連絡を頂戴ね?」

「うん、分かった。毎日、連絡する。ただ、トーマスのメールに対して、すぐには返せないかもしれないけど、毎日するから。トーマス、お願い、ベルギーから私を見守っていてね」

「文しか見えていないから大丈夫だよ。一緒に生活していて分かっただろ? 苦しくなったら、一緒に生活していた日をお願いだから思い出して。ずっと愛しているよ。どうしても我慢が出来なくなったら、会いに行くから。だから、文も我慢出来なくなったら、僕を呼ぶんだよ、いいね?」

「うん、ありがとう、そうする」

文は、覚悟を決めて、トーマスから離れた。決して、絶対に我慢しろ、とは言わないトーマスの言葉が嬉しかった。この一年、文が頑張りすぎずにいられたトーマスの優しさだった。そして文は、セキュリティゾーンとパスポートチェックを目指して進んだ。ここを抜けたら、もうトーマスが見えない、という所で振り返り、大きく手を振って

「待ってるね!」

と言った。トーマスも大きく手を振って

「迎えに行くからね」

と叫んだ。文は二度と振り返らなかった。涙が止まらなくなっていたからだ。それは、トーマスも同じだった。


 二月に文が病気になったあの日から、一日も離れることなく、ずっと一緒だったのである。トーマスにとって分かっていても、引き裂かれるのは、言葉にしようがない辛さだった。想像以上の辛さに自分で耐えられるか心配だった。

 胸にあるリングの体温は、文の体温でもあった。自分の洋服に染みついている香りは、文のアロマの香りだった。文を感じる。文を抱きしめるように寂しさをこらえた。すぐに飛行機が見えるところを探した。文が乗る飛行機を探した。どこにも見当たらない。文へメールを送った。

(文の飛行機が見えないんだ)

暫くすると文から返信が来た。

(トーマスからは見えない所にいるの。トーマス、私はもう戻れないから、トーマスもベルギーに戻って。明日のアパートの引き渡し、トーマス一人に任せてごめんね。店長の事も仕事の事も頼むね。私、頑張るから、私を信じてトーマスも前に進んでね。私の飛行機は、タリスに乗ったら、きっと見えるはずよ。だから、ベルギーに戻って。今日は最後まで一緒に居てくれてありがとう。私の自分探しの逃避行は、トーマスを見つけることだったよ。トーマス、ありがとう)


トーマスは、自分も覚悟を決めなければならない事を悟った。

(わかった。到着のメールをベルギーで待っているね。気を付けて! 誰よりも文だけを見ているからね。それに・・・僕が先に文を見つけたんだ。僕の想いに応えてくれてありがとう。絶対にベルギーに来たことを後悔させないよ。待っていてね)


 ベルギー行きのチケットを購入して、トボトボとタリスの発着ホームへと向かった。一番初めに買えたチケットを握りしめて乗り込んだ。来る時は、隣に自分にもたれる文がいたのに、何という寂しさなのだろう?

 文の飛行機の出発時間が近付いた。トーマスのタリスの方が先に出発した。すると、地上に出たタリスの窓から文の飛行機が動き出すのが見えた。トーマスは必死に飛行機を見つめていた。

その頃、文の飛行機が離陸して、窓から景色を見ていた。飛び立つ飛行機の窓の外に真っ赤なタリスがベルギー方面に向かって走っていく姿が見えた。

(きっと、あのタリスにトーマス、乗っているわね?私たちの進む方向は同じだよ)


文は、窓から見えるヨーロッパの街並みを目に焼き付けた。そして、涙も枯れたことを感じていた。一年間の自分探しの旅が終ったことを噛み締めていた。

(自分を見つけられたのかしら?自分を見つける前に旦那さんをみつけちゃったんじゃないの?)

自分で突っ込んで、クスッと笑った。

 でも、文には沢山の人との出会い、沢山の経験と挑戦があった。ベルギーという文にとって、素晴らしい景色と文化の中での生活は、トーマスという存在と同様に何にも代え難いものだった。


 ほぼ夜が深くなるころにアパートに到着したトーマスは、脱力感から、ソファにもたれた。喉が渇いたので、冷蔵庫を開けた。

(おかえり、トーマス。大好き)

という文のメッセージカードが冷蔵庫の中にあった。

「え?なんで?」

次にペアのビアマグを取り出そうと食器が入っている扉を開けた。

(お腹すいたの?ちゃんとご飯は食べてね。トーマス、大好き)

というメッセージカードがあった。

「え?一体、文はいつ?」


 トーマスは、狭いアパート中から文のメッセージカードを探し出した。その数、三十枚。トーマスは泣き崩れた。文の愛情がたまらなかった。心から愛されている事、そして文のぬくもりさえも、このカードから全身に感じていた。今すぐにでも迎えに行きたい。

(クソッ!早く一人立ちしたい。文に会いたい。連れ戻したいよ・・・)


 明日は、二月から文と心を重ね合ってきたこのアパートを引き払う。豪が迎えに来るから用意をしておかなくちゃいけない。頭でわかっていても身体が動かなかった。悔し涙が止まらなかった。文の香りが残るベッドで、文の温もりが感じられない寂しさを抱えながら、いつの間にか眠ってしまっていた。


 早朝の七時。メールが来た。文からだった。

(無事に羽田へ到着。今から山梨に戻ります。日本は暑い。暑くてとけそうだよ)

トーマスは我に返って、急いでメールを打った。

(無事に着いて、よかった。山梨に到着したら、またメールちょうだいね。今日は引き渡しするから安心してね。文からのメッセージカードに励まされたよ。全部で三十枚、見つけた!)


トーマスは急いで、シャワーを浴び、簡単に朝食を済ませて最後の荷造りを始めた。そんな時だった。

ピンポーン!  ジャンだった。

「え?なんで?」

「トーマスが寂しがっていると思ってな?引っ越しの手伝いに来てやったぞ」

トーマスは、ジャンの存在を心底有難く感じた。部屋に入れると、ジャンはトーマスを抱きしめた。

「文から、トーマスの事を頼まれたからな。きっと、一人でどうにもならなくなっているんじゃないか?と思ってな。さぁ、僕が手伝えることを言ってくれよ」

「ジャン、ありがとう。僕はだめだ。文に支えてもらってばかりいるよ・・・」

「トーマスは、文との思い出が沢山詰まったこのアパートやベルギーのあちこちを感じながら、生活しなくちゃならないだろ?絶対にキツイよな? だから、文は僕達に支えてあげて欲しい、って言ったんだと思うよ。文は人の気持ちを凄く考える子じゃん?」

「ジャン・・・ジャンって文の事、どう思っているの?」

「トーマスが捨てたら、すぐに奪い取るくらい大好きだよ。最近はなんか、文が年上なんだけど、可愛くってさ‥なんて言うか、妹みたいで放っておけないんだよな~ 僕、妹がいたら、絶対にいろんなもの買ってあげちゃうようなダメ兄になっていたと思うよ。文を見ているとそんな気持ちになるんだ・・・」

トーマスはプッと吹き出して笑い出した。

「なんだよ!」

「いや、ごめん。文にはお見通しなんだな、って思ったら、笑えてきた。文がね、ジャンは最近、文の事を妹みたいに感じているはずだよ、って言っていたんだよ。エリックみたい、ってさ」

「やっぱり、そっか・・・でも、トーマスが泣かしたら、絶対に奪ってやるからな?」

「分かったよ、是非、そうしてくれよ。そしたら、文は一人で泣く事もないからな?」

トーマスは、ジャンが来てくれたことで、寂しさから救われた。それは、文という存在があったからこそだと感じていた。ジャンも文がいなくなってしまった寂しさをトーマスと分かち合いたかったのだ。


 昼過ぎに無事にアパートの引き渡しも終わり、すぐに豪が迎えに来て、ジャンと三人で荷物を運び出した。文との沢山の思い出が詰まったアパートを名残惜しそうにいつまでも玄関に立ちすくんで、空っぽになった部屋を見つめていた。文からの三十枚のメッセージカードを握りしめて。

ジャンと別れ、トーマスが豪の車に乗り込んだ時に文から再びメールが来た。

(今、実家の山梨に到着。両親と再会したよ。トーマス、私からのメッセージは全部で三十二枚よ!あと二枚、見つけられるかな?)


「えぇ!あと二枚?」

「おいおい、どうしたんだよ?」

「あ、ごめんなさい。文が無事に山梨に到着したそうです」

と言って、文のメッセージカードの事を豪に話して聞かせた。豪は、大笑いをしてトーマスの肩を叩いた。

「文はさすがだな。トーマスは、寂しさよりも文のカードを探すことに夢中になっただろ? あいつはトーマスの事をよく理解しているよ。いい女だな?」

「はい、いつも救われています。昨日もタリスに乗れない僕の背中をメールで押してくれたんです」

「そうだったんだな? まぁ、少しずつ慣れていくさ。それよりも、縁導商社の加藤さんの話も気になるしな?」


そうだった。就職活動を頑張らなくちゃ、文を迎えにも行けない・・・トーマスの狙いは、初めからリヤンだった。クリスマスパーティでリヤンの従業員の話を聞いていたら、自分のやりたい事を叶えてくれる会社だと思ったからだ。思った事と現実が一致するかどうかだけ確かめたかったので、あえて加藤へリポートを出したのだ。結果が凄く気になる。折角、文がトーマスに与えたチャンスだと彼は理解していた。一時的とはいえ、文を手放さなければならない、自分の不甲斐ない悔しさを絶対に乗り越えようと決めていた。




 一方の文は、一年ぶりの山梨の暑さに辟易していた。ベルギーの過ごしやすさったらなかったな~と、既に遠い過去のような気分になっていた。このジメジメした湿気も文の心をイラつかせる。

(私は、身も心もベルギー人になってしまったのかも?)


 文は、両親に改めて帰国の挨拶をして、トーマスの話をした。

「私ね、近いうちにもう一度、ベルギーに戻って、ベルギーの男性と結婚することに決めたの。止めても無駄よ。絶対に彼と結婚するから」

両親が言葉を失っている事は見て分かった。

「驚かせてごめんなさい。ベルギーに行って、私、初めて自分の存在する意味のようなものを感じたの。私って必要な存在なんだ、とか、このままの私でいいんだ、とか(私は大丈夫)って強がらなくてもいいんだ、とかね?私の心はベルギーでは自由だったの。きちんとした規律のもとで自由だったの。彼が私を、こんな私を丸ごと包み込んでくれたの。本当に幸せだったの。これからも彼と幸せになるための努力をし続けたいの」


 文の両親は、初めて見る娘の表情に圧倒されて、戸惑っていた。両親を見つめる瞳は力強く、でも、彼の話をする娘のたおやかな女性の表情に感心していた。父親がやっとの思いで口を開いた。

「それは良かったな? 日本にいても一年に一回も帰ってこない文だったから、正直に言うと、こうしてベルギーから帰ってきた感覚もなかったんだ。しっかり者の文だから、心配もしていなかった。でも、結婚となると、本当に遠くに行ってしまうんだな、と思ってな。前から、母さんとは、娘たちが結婚をしたい、と言ったら、気持ちよく送り出そう、って決めていたんだ。その代わり、不謹慎な事を言うようだが、心折れてしまったり、添い遂げることが出来ない、と思ったら、その時は、いつでも(おかえり)と、旅行から帰ってくるように出迎えてやろうな、って話していたんだよ。だから、文が決めた人なら、どこにでも行くといい。その代わり、今の約束を忘れないで欲しい。でも、誰よりも幸せになってほしいと願っている事だけは忘れないで欲しい。彼は、日本に文を迎えに来てくれるのかな?」

「もちろん、今すぐではないけど、近い将来には来てくれるよ。お父さんたちにとって、息子になるんだもの。必ず来てくれるから、私と一緒に待っていてね。彼は、まだ大学生なの。来たくても来られないのよ。就職先が決まってから、必ず来てくれるはずだから」

「そっか・・・彼に会えない文も辛いな? 文を留まらせることが出来なかった彼もきっと、凄くつらいだろうな?そしたら、父さんたちも文と一緒に彼に会えることを楽しみに待っているよ」

「私のベルギーでの生活と、彼の事は、DVDに収めているの。あと、この前、私の誕生日パーティと彼がサプライズでプロポーズをしてくれたパーティがあってね、それもDVDにおさめてあるから、観てほしい」

「じゃあ、雪たちも呼んで、今度みんなで上映会しようか?」


 雪は、文の妹で既に結婚している。文は、父の意見に賛成だった。何度もトーマスの事を説明しているほど、文には時間がなかったからだ。やらなければならない事が沢山あるからだ。両親のようにまったりなんてしていられない。それでも、両親の意外な言葉に文は小さな感動を覚えていた。

雪たち夫婦は、父の誘いにすぐに食いついてきた。

「分かった!じゃあ、明日行くよ」


 次の日は、家族五人で昼食を食べ終えると、ベルギー上映会となった。文は恥ずかしいので、席を外していようと思った。ところが、雪が叫んだ。

「お姉ちゃん、勿論、全部に通訳してくれるんでしょ?」

「え?あ!そっか!」

「え?まじ? まさか、私達がベルギー語、分かる訳ないじゃん!」

「勿論、通訳するよ。そっか・・・忘れてた。なんか、恥ずかしいなぁ・・・」


一本目は、文の誕生日パーティで流されたDVDである。あれから、トーマスと何度か見たけれど、こうして日本で、隣にトーマスがいない所で見ると、なんだかくすぐったい。


「へぇ~姉ちゃんって、メッチャ頑張ってるじゃん? ペラペラだね? メッチャいろんなことやってきたんだね? 師範とか凄いじゃん?」

「お姉さんって、こんな表情する人だったんですね? こんな性格でしたっけ?」

義弟まで言ってくる。照れる文に容赦なく突っ込んでくる。


一本目を見終わって、文を除いた皆は、文から見ても凄く幸せそうに見えた。

「本当に色々な事に頑張っていたんだな? 彼もとても素敵な人みたいだし、彼のお父さんやお兄さんも文の事を凄く可愛がっている事が分かるな?よかったよ。雪、これダビングできるか?」

「俺、やりますよ。これ、何かメッチャいいですね?」

雪は「二本目にいこう!」と盛り上がっている。

二本目は、パトリックが撮影していた、文のパーティだ。

途中のトーマスのプロポーズの言葉を、文が通訳しなければならない時は、最高に恥ずかしい、と文は感じていた。

しかし、皆は文の花嫁の真似事の姿を見ると「おぉ~」と、ため息とも歓声ともとれる声を漏らしていた。


「トーマスさん、メッチャお姉さんにぞっこんですね? この目が全てですよ。同じ男として分かります」

「トーマスさんって、すごくカッコイイのね?」

母がミーハーな事を言い始めて、皆が「ほんとだ!」と言って笑った。


長い長い上映会が終ると、母が台所から寿司をたくさん運んできた。

「今日はお祝いね?ベルギーの人達がお祝いしてくれているのに、文の家族が何もしないのは変でしょ?」

「やったー」

雪たち夫婦は喜んでいた。食事中も、雪たちは、矢継ぎ早に文を質問攻めにした。

ベルギーでの生活、ゆかりでの仕事内容、お給料の事、アパートでの生活、ご近所のお付き合い、病気の時の事、トーマスとの生活の事、トーマスの普段の生活、ベルギーでどこに行ったのか、食事の事、やりくりのこと。

それらのどの質問にも、スラスラと答える文に家族は感心を越えて、感動していた。相当な苦労があっただろうに、その苦労すら楽しんでいる文が頼もしかった。そして、それを影で支えていたトーマスの存在に手を合わせずにはいられなかった。


「私、明日は、東京に行ってくる。アパート探しと面接の日程を合わせてくるから。帰ってくるつもりだけど、もし、面接の予定が決まれば、ホテルに泊まって帰ってこないかもしれないから。少しでも早く、軌道に乗せて生活を始めたいの。そうでもしなければ、寂しさで死んでしまいそうだからね?」


文は、席を外し、キッチンの片づけをして風呂に入って、自分の部屋にこもって、パソコンを開いた。


(トーマス、昨日、両親にトーマスとの結婚の話をしたよ。驚いていたけど、賛成してくれている。トーマスの事を知ってもらうために二つのDVDを今日は、妹夫婦も一緒に見たの。恥ずかしかったぁ。でも、みんな喜んでいるように見えたよ。安心してね? 明日は、東京へ行って、縁導商社の方と会ってくるね。面接をその場でやるのかどうかは分からないけれど、頑張ってくるよ。アパートも探してくるつもり。だから、メールはもしかしたら、出来ないかもしれない。ちゃんと報告するからね。大好きよ、トーマス)


 文は、メールの画面のまま東京行の準備を始めた。スーツを二セット。普段着、下着、そして、昨日、コンビニで買ってきた履歴書。職務経歴書は、パソコンで作成した。履歴書に堂々と「書道師範」「硬筆師範」の文字が書ける喜びを感じていた。そして、ベルギーでの経験全てが今の文には武器となっていた。

帰国の疲れが残っているのか、また寝てしまっていて、朝になっていた。すると、トーマスからメールが来た。


(文、ただいま。今日のカフェもゆかりも忙しかったよ。ボスの夕飯を今食べて、文が暮らしていた居候部屋にいるんだ。僕の事を伝えてくれてありがとう。本当は、一緒に行って挨拶しなくちゃならなかったのに、文に負担ばかりかけているね?ごめん。 その分、絶対に文を幸せにするからね? 文の二枚のメッセージカードがなかなか見つけられなくってさ、諦めているんだ。こっそり、いつか出てきた方が楽しみだろ? その時まで待つことにしたんだ。 文を見送った日、帰ってきて、このカードを見つけた時に僕は文に愛されている嬉しさから、泣いてしまったんだ。文、ありがとう。僕も大好きだ! 東京、気を付けて行くんだよ。日本の気候に慣れずにまた、病気になってしまわないか心配で仕方ないんだ。文は、僕がそばにいないと病気になってしまいそうで心配なんだよ・・・)


 文は、トーマスの優しさを感じた。確かにトーマスと暮らし始めてからは、文の健康状態はすこぶる良かった。トーマスが加湿に気を配っていたし、文の身体を休ませることに気遣っていたからだ。誰かが止めなければ、機関車の車軸のようにずっとフル回転してしまう文の事をトーマスはよく理解していた。


(私が病気になったら、トーマスはきっと日本へ来るでしょ? 今は、まだその時じゃない事、私も分かっているから、絶対に病気にならないわ。 今日もお寿司を沢山食べたから、元気モリモリよ。飛行機の疲れもあるから、ムリしないようにするからね。今夜はトーマスと一緒に居られる夢が見られますように。そして、トーマスの夢にも私が出てきますように。おやすみなさい。私は行ってきます!)


 トーマスは、明日、縁導商社の加藤と、リヤンの立花に会う事は、文に伏せた。文も明日は、日本での就職活動に向けて動き始める。自分達は共に生きているのだ、と実感していた。胸にある文のペアリングを握りしめていた。


 その頃、文の実家の一階リビングでは、ささやかな家族会議が開かれていた。

「ねぇ、姉ちゃんの結婚、賛成してあげているんでしょ?」

「しているわよ」

「なら、いいけどさ。婚約する位だから当たり前だけど、かなり真剣にお付き合いしているみたいだよね?」

「それよりも、お姉さんの性格ってあんなだったかな? 俺、強いイメージしかなくって、いつもしっかりしていて、誰にも頼らない、ってイメージだったから、ベルギーにいるお姉さんが、可愛く見えなかった? 強さと弱さをガッツリ兼ね備えている感じがスゲエな、って。みんながお姉さんの事、好きみたいなのが伝わってきたよね?お姉さんにはベルギーの生活が合っていたんだろうね?」

「そうだな。親として情けないけど、あの子のあんな顔を見ると、早く送り出してあげたくなるよ。俺たちでは、もう何もしてあげられないよな?」

「そうね。今までもあの子は、全部、自分で決めてきたものね? いつからか私達には、夢ややりたい事を話さなくなっていたし、話す時はベルギーに行く時みたいに事後報告だものね?今回もそうだけど・・・甘えさせてあげていなかったわね~」

「東京で働きながら、トーマスさんを待つってことなんでしょ? 就職先もほぼ決まっているみたいだったよね?DVDの中の人が言ってたよね?」


 四人で話しても、話しても、最後には「すごいよね~」で、話を終えるのだった。

文がどれだけ寝る間を惜しんで努力をしたとか、はちきれそうな緊張を抑えて、どれだけの勇気を振り絞ってきたかとか、沢山の涙とか、歯ぎしりする程の悔しさの数とか、立っていられなくなるほどの絶望感とか、ずっと誰かに追いかけられているような恐怖感とか、世界に一人ぼっち、と思えるような孤独感とか、そういう事は、DVDからは全く伝わらない。DVDに写っているものは、それらの後にやってきた「幸せ」だからだ。トーマスも文も、DVDの中のみんなも、それらをほんの少しでも知っている人達が集っている。だから、トーマスと文は、何度見ても「幸せ」になれるのだ。それを知っている人達に祝福されたから幸せなのだ。

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