第8話 ふたつの計画 ~アンティークと美食の国~

 トーマスは最近、周りの者たちから、声を掛けられることが多くなっていた。

「文が綺麗になっていくね」

それは、嬉しくもあり、不安になる事でもあった。文自身にも言い寄ってくる輩はいないのか確かめたくなった。


「文は、最近、綺麗になったね、って言われるかい?」

「あるわけないよ。この前、ジャンに言われたくらいかな?あれは、ジャンの挨拶みたいな会話だもん、ね?」

「違うよ。僕はみんなから言われるよ。文に何かあったのか?ってさ」

「気のせいだよ~じゃあ、それはトーマスのおかげだね? トーマスに好きになってほしい成分が私の体の中で必死に分泌しているのよ、きっと。トーマスは、みんなと同じようには思ってくれないの?」

「僕も感じているから聞いているんだろ?一緒に暮らしていなかったら、心配で病気になりそうだよ。でも、毎日こうして目の前に文を見ていられるから安心だけどさ」

「トーマスにそう思ってもらえることが一番嬉しい。何にも変わったことはしていないんだけどね?ただ、毎日、トーマスに恋をし続けてドキドキしているの」

「僕も毎日、文に恋をし続けているよ。日本に帰したくないよ、ほんとに。帰国して昔のヤツに会ったりしないでね?今の文を見たらきっと、文と別れた事を後悔するに決まっているんだ」

「絶対にナイ! 絶対よ。しかも昔の彼は結婚しているのよ。ナイ、ナイ。私はどこにいてもトーマス一筋だもん。それに、後悔するなら、しちゃえばいいのよ。私はもぅ、トーマスのものだもん。誰の所にも行かない!」


トーマスは、こうして何度も「安心」を確かめたくなるのだった。文の意地悪な側面を可愛く感じた。


「ねぇ、トーマス。そんな事よりもドールハウスのお部屋を作ってくれない? 私がイメージを伝えるから。私が日本に持っていかれるくらいに小さなお部屋を作ってほしいの」

「いいよ。僕に作れる物ならね?」

「きっと、作れるわよ。部屋は、私達が住んでいるこの部屋よ。私は、小物を作るわ。トーマスは、部屋と机といす、ソファを作ってね。私、その部屋を見ながら、日本で頑張るから」

「分かった。早速、設計してみるよ。そしたら、僕にはあのピクニックのミニチュアを置いていってくれるかい?」

「うん、いいよ」

数か月後に離れなければならない辛さの傷を舐めあうように二人でドールハウス計画を立てた。


四月。

 トーマスと文は、復活祭の休暇を利用してデュルビュイに一泊で行く事になった。豪にも二人でゆかりを休むことも伝えた。豪は、どうせ客足も少なくなるから行ってこい、と送り出してくれた。

 文は、初めて会うトーマスの家族の事を考えると緊張を隠せなかった。どこかで気に入ってもらいたい。認めてもらいたい、と焦るのだが、自分にそんな器量がないことも自覚していた。そうなると、会う事が憂鬱になっていた。手土産も何を持っていけばよいのか分からなかった。逆にトーマスは、家族に文を会わせることが出来る喜びが爆発していた。文は、トーマスとデュルビュイへの気持ちに大きなズレを感じるようになっていた。


「トーマス、私、大丈夫かな? お父様やエリックに反対されないかしら? こんな女と付き合うな!って言われたらどうしよう? 私、どうすればいいのかしら? 男の人のご両親に会う、なんて初めての事で凄く緊張してしまうの。私、どうしたらいいの?」

「文は、いつも考えすぎなんだよ。僕が好きになった文だよ。僕の家族が嫌いになる訳ないし、第一、エリックは文の事見ているからね? 気に入らなかったら、エリックは、あの時に僕に言っているはずだよ。大丈夫。文はいつものままでいいんだよ。飾らなくてもいい。そのままの文を見てもらいたいんだ。 男ばかりの家だから、つまらないかもしれないから、そっちが僕は心配だよ。大丈夫。僕がずっと傍にいるからさ」


 トーマスは、文があまりにも不安な顔をするので、自分が文の両親に会いに行く事を想像してみた。文化も言葉も違う人達に会うのは、自分を考えても不安だと思った。トーマスも文の両親に気に入られる自信は皆無だった。

(そうだよな~ 文は、フランス語がある程度話せるけど、僕は日本語を話せない。そりゃ不安だよな~)


「文、僕も一緒にするから、あっちに行ったら、二人で台所に立とうよ。そしたら、文の出番があるだろ?その代わり、二人でやるんだ。例えキッチンとはいえ、文を一人にはさせないよ。ちゃんと傍にいるからさ。トイレもシャワーも一緒にするかい?」

「もぉ! トーマスったら」


文は少し気持ちが軽くなった。何も解決は出来ていないけど、トーマスはいつも、文の不安な気持ちを消すわけでもなく、ふわっと軽くしてくれる。ありのままを見てもらうほかないし、トーマスがいれば安心だと思った。もし、二人の関係を理解してもらえないようなら、理解してもらえるまで話せばいい。トーマスといつも話し合うように。所詮は他人なんだから、分かり合えなくて当たり前。文がトーマスを心から好きであることと、お互いが必要な存在であることを伝えようと思った。


 さて、次はお土産である。文は日本からいくつかのお土産になりそうなものを持ってきていたが、習い事の先々でプレゼントしてしまったりしていたので、今、手元にあるものは凧と提灯のミニチュアだった。ミニチュアと言っても、どちらもその用途として使えるものだった。あとは・・・・

文は想像力を膨らませて一生懸命考えた。きっとトーマスの家には、母親の写真が飾られているはずだと思った。家族四人と、そして新たに家族になりたい文。

(うん、アレにしよう。トーマスと一緒に選べば安心だわ)


 

四月六日。天気は、ベルギー日和。まだ寒いけど、隣にトーマスがいる安心感は文にとって格別だった。二月までのベルギーでの生活を考えると、同じアパートに住んでいるにもかかわらず、精神的に心からホッと温まる場所だった。

 ブラッセル中央駅を目指して二人はアパートを出た。トーマスが力強く文の手を握りしめている。トーマスも自分の家族へ文を紹介することに少し緊張をしていた。二人にとっては「普通」のことでも、周りにとっては、国籍の違うもの同士が付き合うことは、「色眼鏡」で見られても仕方がない事だと思っていたからだ。

 文が不安そうにトーマスを見上げていた。トーマスは、文を優しく抱き寄せた。


「思いっきり、兄さんと父さんに文の事を自慢してやるよ!」

「お二人は、どんな感じの人なの?」

「父さんと兄さんは顔が似ているよ。僕は母さん似なんだ。性格は・・・僕が父さん似かな?二人とも無口ではないから安心して。僕が家族の中で一番大人しいからさ」

「じゃあ、ジャンみたいな感じ?」

「あんなに軽くないよ!」

文がケラケラと笑ったので、トーマスは安心した。

(そう、文にはその笑顔が一番)


「早く、お土産を見せたいね~ お二人とも喜んでくれるかしら?」

「きっと喜ぶよ。文のアイデアはナイスだったよ」

「トーマスがセンスの良い物を選んでくれたからよ」


二人はナミュールを目指した。エリックが迎えに来ているからだ。

ナミュールは、ベルギーの南部にあって、ブラッセル中央駅から一時間ほどで着く。ナミュール駅は、文がテレビアニメで見た「アルプスの少女ハイジ」に出てくるフランクフルトの駅のような外観である。ベルギー中の駅はどれもオシャレだ。それぞれに「顔」がある。きっと、駅マニアな人がいたら、写真を見るだけでどこの駅なのかを言い当てることが出来るだろう。

 立派な駅舎を出ると、トーマスが手を挙げた。エリックだ。文は硬直した。

「文、エリックだよ」

「初めまして。月見 文と申します。お迎えに来ていただきありがとうございます。先日は、引っ越しの手続きやお手伝いもして下さり、本当にありがとうございました」

「いやいや・・文、そんなに硬くならないでいいよ。トーマスと仲良くしてくれてありがとう。トーマスの兄だから、文も兄みたいに思ってもらえたら、僕は妹が欲しかったから嬉しいよ」

「えぇ?ひどいな、兄さん」

トーマスが文を見ると、頬を染めている事に気付いた。

「文、兄さんには惚れちゃダメだよ。兄さんはやっぱりカッコイイから誰からもモテるんだよなぁ」

トーマスがつまらなそうな顔をしたので、エリックは笑った。

「違うわよ、トーマス。私もお兄さんが欲しかったから嬉しかったの。言ってなかったけど、私には兄がいてね。私が生まれるずっと前に亡くなったの。だから、今、エリックが言ってくれた言葉が凄く嬉しくて、有難かったの」

「そうだったんだ。ごめんよ」

「全然いいのよ。エリックがカッコイイことは間違いないから」

トーマスはジャンに引き続き、敵が身近に現れた事にうろたえていた。その顔を見て、今度は文が笑った。


 エリックは、トーマスよりも少し身長は低いが、175センチ以上ある。肌の色や目の色は日本人に近い感じだった。外見からもガッシリしていそうな体形だった。トーマスと共通している事は、柔和な優しそうな顔立ちであることだ。

エリックの車に乗り、ナミュールの街を走っていると、要塞が目の前にそびえたち、文は初めて見るヨーロッパの城に感動していた。日本の時代劇が好きな文である。お国は違うが、興味をそそられ、食い入るように窓の外の景色を見ている文を見て、トーマスは、囁いた。

「いつかナミュールの街も兄さんに案内してもらおうね?」

うん、と激しく頷きながら、トーマスを見つめる文を見て、(この顔にいつも僕はやられるんだ!)と胸をギュッとされる仕草をしてみせた。そのやりとりをバックミラー越しに見ていたエリックは、二人の仲の良さに微笑んだ。


「そういえば、文の身体の調子は大丈夫なのかい?」

「はい。トーマスが一生懸命看病してくれたので、割とすぐに回復出来ました。ずっと一緒にいてくれたから」

と言って、またトーマスを見た。トーマスは、文の手を握りしめながら、エリックに言った。

「僕が文を病気にさせてしまったんだ」

エリックの「え?」という驚く声と、文の「違うんです!」という叫び声とが一緒になった。

「違うんです、エリック。私が寂しい気持ちをトーマスに言わなかったからいけなかったんです。トーマスは何も悪くないんです。私のこの卑屈な性格がいけないんです」

「じゃあ、トーマスが悪いな?」

エリックが応えた。

「え?」

「文が寂しくなることを分かっていながら、放っておいたんだろ? 男のトーマスが悪い! 男だったら、文がいつでも甘えられるようにしてあげなくちゃいけないんだ。そうだよな?」

「そうなんだよ。しかも文を不安にさせてばかりいたんだ。だから、今は僕も我慢しないで、文に甘えるんだ。そうした方が文も喜ぶからさ」

「エリック、トーマス・・・ありがとう。私のわがままを許してくれて、本当にありがとう」

「違うよ。許してくれたのは、文だよ」

文はまた、苦しかったあのひと月半を思い出し、二人に気付かれないように泣いた。トーマスとつないだ手をしっかり握って・・・。エリックもトーマスもそんな文の事を分かっていて、そっと知らぬふりをした。

しばらくすると、外の景色が一変した。要塞の街からのどかな田園風景にさしかかろうとして、高速のランプウェイに乗った。

「あれ?トーマス、見て!この道ってE411よ!」

「お!よく分かったね?」

「兄さん、僕たちのアパートの横がE411の始点なんだよ」

「そっか・・・そうなんだな?何だか凄いな。遠いのに繋がっている」


文は、トーマスが(僕たちのアパート)と言った言葉に少し照れ臭くなって、頬を緩ませた。

「素敵~ トーマス、素敵ね? 繋がっていたんだね?」

「ほらね?僕たちはやっぱり繋がっているんだよ」

文は、外の景色を見ながらウン、ウンと頷いている。

文は、ナミュールからずっと、外の景色から目が離せなかった。ブラッセルの街中に住んでいるので、ナミュールのような要塞や川のある景色も、ナミュールから出たこの田園風景も決して見ることが出来なかったからである。

「トーマス、連れて来てくれてありがとう」

独り言のようにつぶやきながら、トーマスの手を胸にあてた。

トーマスは、文の心臓が久し振りに凄い勢いで胸をノックしていたので驚いた。しかし、文の顔は夢の中にいるような顔をしていたので(いつもの病気が始まったな)と含み笑いをして我慢した。バックミラー越しにエリックと目が合ったので、(素敵な女性だろ?)と文を見て、エリックを見た。エリックも含み笑いをしながら、頷いた。


E411を降りて、のどかな田舎道をひたすらドライブして、しばらくすると街の集落が見えてきた。

「デュルビュイだよ、文!」

「うわぁ~ 何てかわいらしい街なの? トーマスはここで育ったのね?」

文はトーマスの手を離し、両手を合わせて合掌をした。

「何を祈っているの?」

「祈っているのではなく、感謝をしているの。この街にトーマスは育てられたんでしょ? とっても私には有難い事だわ。私もこんな素敵な所で育ちたかったなぁ」

「そしたら、僕たちはもっと前から出会えたね?」


トーマスは、文の祈りのポーズは祈っているだけじゃないのだ、という事を初めて知った。トーマスは、文が無宗教であることを聞いていたので、日本人の心には「感謝をする心」が宿っているのだな、と感じていた。最近では、文に習って、トーマスも食事の前後には同じことをするようになっていた。

エリックの車は、川の方へ向かって進んでいた。とてもゆっくりなスピードだ。

石造りの家々が軒を連ね、石畳の道、それぞれの家の軒先には花が飾られている。家先にも品よく植えられていて、道行く人の目を楽しませている。

文は、このデュルビュイが異次元の世界のようで言葉が出なかった。車窓から見える景色の全てが今まで見た事もないような景色ばかりだったからだ。


「到着だ」

「エリック、運転お疲れ様。ありがとうございました。とっても快適なドライブでした」

「文もようこそ、我が家へ。そして、初めてのデュルビュイへようこそ」

文は感動しすぎて泣いてしまった。トーマスは文の気持ちがよく分かったので、抱きしめてなだめたが、エリックは自分が何か変な事を言ってしまったのではないか?と心配していた。

「兄さん、文はね、とても感受性が豊かだから、兄さんの優しい言葉に感動しているんだよ、ね?文。そうでしょ?」

文は頷く。

「エリック、ごめんなさい。胸がいっぱいで言葉が出てこないの。ありがとうございます」

エリックは、今までに出会ったことのないタイプの文に対して、逆に感動をしていた。


 トーマスが先頭に立ち、玄関を開けた。エリックが文をエスコートし、文を先に中へ招き入れた。最後にエリックが入って玄関を締めた。

すぐにトーマス達の父、グレンが出てきた。

「やぁ、文。こんなに遠くまでよく来てくれたね?待っていたよ。ん?どうかしたのかい? 泣いていたのかい?」

「はい。街がとても素敵で、エリックもとても優しいお兄様で、全てに感動していたら泣けてきてしまいました。もう胸がいっぱいで言葉が上手く出てきません。お父様、はじめまして、月見 文と申します」


グレンは文を強く抱きしめて、文の耳元で囁いた。

「本当にいい子だね? トーマスから聞いていた通りだ。ゆっくりしていきなさい」

「ありがとうございます。お世話になります」


トーマスは、父と文のやりとりを見て、心から安心した。

エリックもグレンに続けとばかりに文を抱きしめた。

「これからもよろしくな?文」

文は、自分が受け入れられたことを心からトーマスに感謝した。トーマスを見つめると、トーマスは察したように両手を広げた。文は迷わずトーマスの胸の中に飛び込んだ。そして、ほっとした気持ちからまた泣いた。

トーマスは、文が泣き止むまで抱きしめながら、父と兄へ文の不安だった気持ちを教えた。

そして、より分かりやすく伝えるために、自分達が異国の地へ行って、文のようにパートナーの家に行く事を想像してごらんよ、と語りかけた。二人は、目を細めながらトーマスと文を見つめて、文の背中を代わる代わるさすった。


「文、腹ペコではないかい?」

と、グレンが聞いてきた。

「そうでした。腹ペコでした」

屈託のない笑顔で応える文に、みんなが爆笑した。グレンは、ペペロンチーノのパスタをふるまった。

「男一人だから、簡単な料理しか出来なくてすまないね」

「いえ、すごく美味しいですよ。ありがとうございます」


食事をしながら、どうやって二人は出会ったか、そして二人が一緒に住むことになったいきさつや普段の生活などを二人で事細かく説明して、グレンとエリックを安心させた。


「そういえば、僕は文が働く姿をこの前見たんだよ。働くことが好きなんじゃないかい?とっても楽しそうに働くな~って見ていたんだ」

「はい、働く事は大好きです。毎日が勉強で、毎日が発見で、1日として同じ日が無いんですもの。辛い事や嫌な事もあるけれど、お客様の喜ぶ顔を見ると全部忘れちゃうんです。(想い)が届く、っていうのでしょうか?機械みたいに働くのは苦手なんです。動きまわっている方が合っているみたいです」

「うん、そんな感じだったね? だから、トーマスも最近、仕事の話をよくするようになったんだね? トーマスがこんな風にイイ男になって帰ってくる日が来るなんて、思わなかったよな?父さん」

「あぁ。甘えてばかりで、自分で色々考えるなんてこと出来ないと思っていたからなぁ。まして、女の子を守る事なんて出来ないんじゃないかと心配だったんだよ。文がトーマスを嫌いになるんじゃないかな?ってね」

「それは、絶対にありえません。私はトーマス無しでは生きてはいけませんし、七月に帰国するのも、正直不安になるくらいです。だから、今一緒に暮らしながら、離れても大丈夫なように心の距離を縮めているのです」

「それで、トーマスは文に良い影響を与えているのかい?」

グレンは、とことんトーマスの事を子ども扱いしているようで、心配なようだ。

「勿論、良い影響しかないですよ。私の目標が次々に達成できるのは、トーマスが支えてくれているからなのです」

「そっか・・それは、良かった。ブラッセルに送り出した甲斐があったな?エリック」

「本当だね、こんなに可愛い妹まで連れてきてくれて、僕も幸せだよ」

「よかった。二人ならきっと、文の良さを分かってくれると思ったんだ」

「トーマス! 文の事はイイと思うに決まっているだろ? エリックと心配していたのは、お前の方だ。文がお前の事を頼りにならない男だ、と思ったら、どうしよう?と考えていたんだよ!」

「そっか、僕の方が問題だよね?」

「そんな! トーマスはとっても素敵な人です。私よりもずっと大人な人です。信じて下さい」

文があまりにも必死にトーマスを擁護するので、グレンもエリックも笑った。

「これだけ二人が仲良しであれば、問題ないだろ?良かったな、トーマス」

「あぁ、本当に僕は幸せ者なんだ」


ふと、サイドボードの上の写真立てに文は目が留まった。

「あちらは、お母様でいらっしゃいますか?」

「そうだよ」

三人が優しい微笑で写真立ての中の女性を見ている。文はスッと席を立ち、写真立ての前に行き、手を合わせた。

「初めまして。月見 文と申します。トーマスを生んで下さってありがとうございます。私をトーマスへお導き下さりありがとうございます。このお家にもお招きいただくことを許して下さり、ありがとうございます」


そして、お土産の入った袋を取り出した。

「こちらは、トーマスと二人で選びました。エリックとお父様の分、二つを用意いたしました」


それは、トーマスと文がフラワーカーペットの前で撮った写真が入った写真立てだった。そして、さらにココットの容器の小さなものに、プリザーブドフラワーのアレンジされたものが二人に渡された。文がエツコに頼んで、教えてもらいながら仕上げたアレンジメントだった。バラの花が5輪。ココットの容器にこんもりと挿されていた。バラたちを囲むように小さなカスミ草がチョコン、チョコンと挿されている。トーマスが補足するように言った。

「そのバラは、母さん、父さん、兄さん、僕と文なんだよ。その写真は、離れていても、僕たちの事をいつも思い出してね、っていう意味だよ。文が考えたんだ」

グレンとエリックへそれぞれに同じものを用意して、日本の凧と提灯も添えた。二人はとても喜んでいた。


「車の中でも感じていたんだけど、二人を見ているとコッチが幸せな気持ちになるんだよ。応援したくなる、っていうのかな? ワクワクするんだよ。だから、二人の写真が僕は嬉しいよ。大切にするよ。ありがとう、文」

エリックが言うと、グレンも横で頷いていた。そして、アレンジメントをすぐに母親の写真立ての前に置いて、トーマスと文の写真は、その隣に立てかけた。


 食事がすんで、台所へ食器を片づけた時だった。

そこには文の第六感を刺激するような家具があった。台所にあるのだが、台所が広いためか、部屋を仕切るように大きな家具がそこにあった。台所側には食器が納められていて、そうでない通路側には、雑貨や文庫本、タオルなどが整然と納められていた。パイン材で作られていたその家具の作りにとても興味がそそられた。

「この家具、とっても素敵ね?」

「お? さすが文だね? この家具は、僕達三人で作ったものなんだよ」

「え? 手作りなの? 売っている家具かと思ったの。それにしては珍しいし、ここにぴったりの家具がある物なのね?なんて思っていたのよ。手作りなんだ・・・凄い」

トーマス達三人は、顔を見合わせて誇らしげだった。どんな風に作ったのかを三人は、競い合って文に熱弁するのだった。話を聞きながら、文は隅々まで見て、感心するばかりだった。


 それから、トーマスと文は、トーマスの案内でデュルビュイの街中を散策することにした。まずは、街の中央に向かい、トロッコのような乗り物に乗って、街の頂上に向かった。文は遠足気分で楽しかった。どこを見ても絵本のような景色ばかりである。ガイドブックやインターネットの中では見ていたけれど、この景色は現地で見るに限る、と思った。丘の上に着いて、眼下を見下ろすと、先程トロッコに乗った出発地点が見えた。トーマスの家も見ることが出来て、文ははしゃいだ。丘の上に到着するまでの道のりも楽しかった。そこには、住宅が点在しており、街の息吹を感じた。二人で写真を撮ったりしながら、時間になったのでまた、トロッコに乗り、下まで降りてきた。

 そこからは、歩いて散策した。綺麗な川の方へ向かい、カヌーで遊ぶ人々を眺めたり、川に魚がいないか覗いてみたり、文の高揚した気持ちは収まりそうになかった。

続いて、街の中を歩いた。レストランなどが立ち並ぶ方と住宅街の方とどこを歩いてもおとぎの国のようだった。文がある店の前で足を止めた。

「入ってもいい?」

「もちろんだよ。どうぞ」

その店は、お土産店だったのだが、文の目に留まったものは、陶器の器だった。

「トーマス、これ素敵ね?トーマスと二人でこの器でスープが飲めたら嬉しいな」

「初めてのデュルビュイ記念に買おうよ」

「うん、そうしたい」

はちみつレンガ色のその陶器は、デュルビュイで焼かれた器だった。ぽってりとしたフォルムと麦が描かれた素朴な器だった。お揃いで皿も買い求めることにした。文は、とても大事そうにその器を店員から受け取って、トーマスを見上げて微笑んだ。トーマスは、文がいずれ結婚してからの二人の食卓を想像している事を理解していた。


「幸せいっぱいの文が持っていると、いつ落とすか分からないから、僕が持つよ」

「うん、ありがとう。大切に使おうね?」


それから、中央の広場へ戻ってきて、レストランに入った。そのレストランは、カフェでもあり、旅行者にとっては、ホテルでもある多機能なレストランであった。

二人は、珈琲を飲みながら周りの景色を堪能し、トーマスからこの街の解説を受けた。全てのものが小さな町にギュッと詰まっていて、旅行者を飽きさせなかった。


デュルビュイの散策を終えた二人は、自宅へ戻った。

「お母様のお墓参りをしたいので、明日、出発の時にお花を買いたいの。その後で、墓地に案内していただく事は出来るかしら?」

文はエリックに尋ねた。エリックは突然で、しかも異国の女性が自分の母親の墓参りをする、という申出に驚きと喜びを隠しきれなかった。

「もちろん、出来るよ、文。そんな事をしてくれるんだね?母さんもきっと喜ぶよ」

「ありがとう、エリック。自力で行く事が出来なくて、エリックに手間をかけさせて、本当にごめんなさい」

「文が言ってくれたから、僕も墓参りに行ける。僕の方こそ感謝だよ」


文はふと思い出してグレンに聞いた。

「玄関先のラベンダーは、摘んでしまってもいいお花ですか?」

「あぁ、あれは母さんが植えたラベンダーだから構わないよ」

「え? 本当? 明日は、あのラベンダーを幾らか摘んで、お墓用と私達のお部屋用にしたいわ、ねっ、トーマス。いい考えでしょ?」

「文の考えることはいつも心があったかくなるね。いい考えだよ、文」


 それから、夕飯にすることにした。グレンは近くのレストランへ出かけないか?と提案した。しかし、文がトーマスと一緒に作りたい、と申し出た。

「僕も文と作りたいんだ。アパートでもよく二人で作るんだよ。さっき、冷蔵庫を見たけど、あの食材ならポトフとスパゲティサラダが出来るよ」

「じゃあ、僕も文の手伝いをするよ」

エリックが言うと、今度はグレンも続いた。

「じゃあ、父さんも手伝いさせてくれ」

「えぇ! 僕と文の二人で仲良くやりたいのにさぁ。男が三人も台所なんて気持ち悪いだろ?」

「そんなことないわ。私は嬉しいわよ、トーマス。こんなに素敵な男性三人に囲まれて食事が作れるなんて夢みたいじゃない!みんなでやりましょ」

「僕だけの文なのにさ!」

言いながらも、トーマスも嬉しそうだった。グレンもエリックも嬉しそうだった。狭い台所で、皆でワイワイと言いながら料理することは、とても楽しかった。文が味わったことが無い「家族」の温かさだった。


エリックとグレンは、手際よく調理していく文にただただ感心していた。

 ポトフをコトコト煮込んでいる間に、サラダを作り上げ、更にバナナがあったので、小麦粉と卵と牛乳、はちみつ、バターがあることを確認して、バナナケーキも作ってみた。

文の調理は、作りながらも次々に使わなくなったものを洗っていくので、常に台所が綺麗な状態をキープしていることも不思議そうにグレンとエリックは見ていた。

「久しぶりに楽しみな夕食だよね?父さん」

「あぁ・・・」

グレンは、遠い昔を思い出しているような声を出した。文は、そんな三人の気持ちに気付かないまま、夢中で準備を進めた。


しばらくすると、バナナケーキが甘い香りをさせて出来上がる頃に、ポトフも良い煮込み具合となった。サラダの盛り付けは、エリックが、パンの用意はグレンが、トーマスは手慣れた手つきで、ポトフを鍋ごと運び、取り皿と一緒に並べた。文は、最後の片づけとバナナケーキをカットして、冷ましておいた。


 四人で二度目の食事を囲んだ。

「外で食べなくてよかったな。文のこんなに美味しい料理を食べられるならさ」

エリックはベタボレで、トーマスは得意顔だった。

「僕もさ、文の料理はいつも感心させられるんだよ。残り物でチャチャっと作る時なんか、マジックを見ているみたいでさ。しかも旨いだろ? 文のご飯を食べると元気になるんだよ」

「トーマス、お前は幸せだな。好きなバスケも出来て、勉強も楽しくなって、美味しい料理を作ってくれる可愛い文が傍にいつもいてくれるんだからなぁ」


食事が終わり、文がシャワーを浴びている間、男三人がリビングに残り、グレンが呟いた。

「トーマス、あんなに可愛い子を連れて来てくれてありがとう。今日は本当に楽しかったよ。台所も母さんの時以来、あんなに明るくなって、嬉しいよ。文には感謝だなぁ」

「父さん、兄さんには言っておきたいんだ。文には正式にはまだ言っていないけど、文もそのつもりでいてくれるはずなんだけどね、僕は文と結婚をしようと思う。文は、夏に日本へ帰国するけど、ビザの関係で、それは一旦は仕方ない事なんだ。でも、僕は、必ず彼女を迎えに行く。僕の就職先が決まったら、すぐにでも迎えに行くつもりだ。二人には僕たちの結婚を認めて応援してほしいんだ」

「文は、こっちに住むことを同意しているのかい?」

「ハッキリ念をおして聞いた訳ではないけど、僕が文を必要としたら必ず僕の所へ来てくれる、って言ったことがある。最近の言葉の端々でもそれを感じるんだ。だから、文の誕生日に正式にプロポーズをしようと思っているんだ。その時に文の誕生日会を開くことにして、文が関わったベルギーのみんなに来てもらおうと思っている。その時に出来れば、父さんとエリックにも来てほしいんだよ。僕の一世一代のプロポーズを見届けてほしいんだ」

「すげぇ! カッコイイじゃないか!トーマス。俺は喜んでいくよ。父さんも勿論行くだろ?」

「あぁ、行きたいな。また、文に会いたいしな」

グレンの目が細く、娘を想う親のような目になっている事をトーマスは感じていた。それは、ゆかりの豪がいつも文の話を聞く時と同じ目をしていたからだ。

「今の話は文には内緒だから、言わないでくれよ」

二人は(分かった)と頷いた。

文がシャワーから出てくるまで、三人でバナナケーキの残りを食べながら、トーマスが淹れたコーヒーを飲んで、文の話に花が咲いていた。文は、トーマスが自分の話を自慢げに話すことが恥ずかしくもあり、嬉しかった。また、その話をグレンとエリックが飽きずに聞きながら、楽しそうにしている事も嬉しかった。


「シャワーを先にいただきました。ありがとうございます」

「次はトーマスが行って来いよ。今からは僕たちの文だ。お前が常に文の横にいるから、なかなか話せないから、邪魔なんだよ。さっさとシャワーに行って来いよ」

「えぇ? 兄さんはひどいな。文、兄さんに惚れないでくれよ。兄さんはジャンと同じ匂いがする!」

「誰だよ?ジャンって」

「どんな女の子にも話しかけるタイプさ」

文は吹き出して笑った。

「エリックは、ジャンとは全く違うわ。トーマス、早く行ってきなよ」

「文までひどいや」

「あら、早く行って、早く戻ってきて、ってことよ?」

トーマスが渋々シャワーへ行くと、グレンが話し始めた。


「文、本当にトーマスの事を好きになってくれて、ありがとう。トーマスがあんなに楽しそうにする顔を見たのは、恥ずかしいけど、初めてのような気がするんだ。いつも甘えてばかりで、エリックの後ろに隠れているようなヤツだったから、エリックと相談してブラッセルに送り出したんだよ。一年目は、なかなか生活にも大学にもなじめなかったみたいだけど、二年目から少しずつアルバイトをしたり、街をブラブラしたりするようになったみたいだがね・・・年に四回以上帰ってきていたよ。それが、去年の七月から帰ってこなくなった。てっきり、夏に帰ってくるとばかり思っていたのに、帰ってこなかったから凄く驚いたんだよ。エリックから文とのことを聞いた時は、正直、文に嫌われなければいいな、と、そればかりを願ったんだよ」

「そうだったんですね・・・私のせいで、お父様に寂しい想いをさせてしまったかしら?」

「いやいや。こうなってほしい、と願っていたから、心底喜んだよ」

「よかった。私とトーマスは似ている気がするんです。いつも支え合いながら生きていかないとダメになってしまいそうなんです。私の方がトーマスに甘えてばかりでダメなんですけど・・・」

「文、女性はその方が幸せじゃないのかな? 男にとっては、その方が幸せだよ。自分が必要とされて(男)でいられるんだからな?」

「はい、ありがとうございます。私は今まで人に甘えることも頼る事も苦手、というか、どういう風にしてよいのか分からなかったんです。でも、トーマスは私にストレートに(おいで!)っていつも言ってくれるから、素直に甘えられるんです。それが自分でも初めての経験でとっても幸せで、自分でも驚いているところなんです」

「そっか。よかった。これからもトーマスの事を宜しく頼むよ」

「はい、私の方こそ宜しくお願い致します。素敵なご家族でとても安心しました」

「ありがとう、文」

いつの間にか、テーブルの上に置いていた文の手をグレンとエリックが二人で握りしめていた。二人の温かな感情が握った手を通して文の胸にしみわたっていた。デュルビュイに来る前の不安はどこかに飛んでしまっていた。

 トーマスがシャワーを終えると、エリックが文の肩を抱いて楽しそうに三人で話している姿を見て、

「エリック! 文の肩はダメだよ。僕の仕事だ」

「ヤキモチやくなよ。文の肩が冷えてはいけないから、温めてあげているんだろ?」

「エリック、もう大丈夫です。トーマスの方がやっぱり落ち着くから」

「ふられたな・・・」

トーマスは、ほらみたことか!という優越感に浸った顔をしている。文は、トーマスの顔を見て笑った。グレンは三人のやりとりをただただ笑いながら見守った。


トーマスと文は、三月にエリックが運んだベッドに二人で寝ることにした。トーマスの部屋には、元々あったベッドと二つあったのだが、二人は懐かしいそのベッドに一緒に入った。

「あんなに心配していたけど、大丈夫だっただろ?」

「うん、全部、トーマスのおかげだよ。ありがとう。幸せ過ぎて胸が押しつぶされそうだよ。明日のお母様のお墓参りも楽しみね。お母様にも受け入れていただけるといいなぁ」

「もう、既に受け入れられているよ。この家は、母さんの想いがいっぱい詰まった家だから、文がこうしていられる、っていうことは、既に受け入れられている証拠さ。安心しなよ」

「うん、ありがとう。トーマスの家族は、お二人とも温かくて居心地がいいわ。私も家族になれたみたいな気持ちになったよ」

「文がそう言ってくれて良かった」


翌朝、文とトーマスは起きてから、身支度を整えると階下に降りた。既にグレンが起きていた。

「おはようございます」

「おはよう。よく眠れたかい?」

「はい、自分のお家のようによく眠れました」

グレンは嬉しかった。女性の声がこの家の中に響くのは、やはり心地の良いものだ、と感じた。それに加えて、実によく笑い、グレンの事を気にかけてくれる文のことが大好きになっていた。

文はスッと台所へ向かった。トーマスもそれに続いた。

「トーマス、珈琲を淹れてあげたら? 私も飲みたいわ」

「そうだね。その間に朝食を作ってくれる?」

「お安い御用よ。簡単なものでいいのかな?」

「いつもの僕たちの朝食みたいな感じだったら、何も問題ないよ」

 文は、トーマスのこういうところが大好きだ。文を一人にしない気遣い。文が失敗しないようにフォローする心配り。文のありのままを受け入れてくれる広い心。だから、安心して挑戦できる。安心して失敗が出来る。

 エリックも起きてきて、文のサポートをし始めた。エリックもまた、さり気なく指示をして、全て文が行ったように仕向けている。温かい家庭に文は異国の地で自分の家族でもないのに居心地がとても良いと感じていた。


テーブルに朝食とトーマスの珈琲が並べられた。

「エリックとトーマスのおかげで朝食が出来ました。ありがとうね」

と、伝えた。エリックもトーマス、そしてグレンも口をそろえていった。

「では、文の朝食をいただこう!」

皆が、満面の笑みで食べ始めると、文はその家族の顔に心から感謝した。


 朝食を食べ終わり、帰る準備を始めた。グレンが部屋に来て文に向かって言った。

「文、また、いつでも来ていいんだよ。トーマスとケンカした時に一人で来てもいい。また、沢山話を聞かせてほしいんだ。文と話をしていると時がたつのも忘れるくらい楽しいよ。来てくれるね?」

「はい、また必ず寄らせていただきます。ありがとうございます」


文は、最後にトーマスの母の写真に向かって合掌をした。

(また、必ず来ます。私を呼んでくださいね?)


玄関先で、文はラベンダーを十本ほど摘んだ。五本はトーマスの母親の墓へ。五本は文たちのお土産として。手近にあったリボンでラベンダーを束ねた。


エリックが再びナミュール駅まで送る事になった。グレンは、トーマスを抱きしめ、最後に文を抱きしめた。文は、昨日は緊張して分からなかったけれど、グレンの胸の中もトーマスみたいな香りがするな、と感じた。

グレンはいつまでも見送っていた。文もずっと見えなくなるまで手を振り続けた。

 グレンが見えなくなると、文はトーマスを見た。何も話さないけど、お互いが幸せでいっぱいな事は理解出来た。

「エリック、帰りも送っていただいてごめんなさい。折角のお休みの日に私達のためにありがとう」

と、感謝した。エリックは、バックミラー越しに文を見て、運転している右手を文に差し出した。文はその手を両手で握りしめた。

「とても楽しかったよ。こちらこそ、ありがとう。この後、花屋とお墓に行って、ナミュールの昨日見たお城を少し見に行こうね」

「え?あそこに連れて行ってくれるの?」

文の顔がパァっと明るくなり、トーマスはその顔を見て笑った。(文の病気がまた始まるぞ)


花屋はすぐに到着した。トーマスと相談して、明るい花束を作ってもらった。春の香りがして幸せだった。

「トーマス、春の香りがするよ。春ってなんだかワクワクするね?」


 デュルビュイの村を出て、田舎道を少し走るとすぐ右手に墓地が見えてきた。一面緑に覆われていて、木々も植えられた明るくて、でも、どこか癒される墓地だった。入り口のはちみつ色のレンガの建物の手前にエリックは車を止めた。建物の横を通りすぎると、墓地が見え始めた。

 墓地の中央付近にトーマス達の母親の墓はあった。トーマスは、

「ここがそうだよ。 母さん、僕の世界で一番大切な彼女だよ。文って言うんだ」

「初めまして。文と申します。トーマスに出会う事を許していただき有難うございます。どうか私の事も見守って下さい。お願いします」

文は、先程摘んだラベンダーを置いて、春の花束を置いた。ふわっと空気が動くのを感じた。まるで文を抱きしめるかのような空気だった。その空気にはラベンダーの香りが混ざっていた。

(お母様が育てていたラベンダーを摘んでしまってごめんなさい。でも、お母様にお見せしたかったんです)


「なんかさ、母さんが喜んでいる顔しか見えないんだけど、気のせいかな?」

と、エリックが呟くと、トーマスも「僕もだよ。変だね」と言った。

文は、さっきのふわっとした空気は間違いなく、母親であることを確信していた。そして、感謝の合掌をした。


 再び、エリックの運転する車に乗り、ナミュールへ向かった。暫く走ると、大きなそれでいて緩やかなムーズ川が見えてきた。石造りの橋の向こうに要塞が見えてきた。要塞目掛けてどんどんエリックの車は昇って行った。途中に城を思わせるアーチ状の門のような所をくぐったりしたが、それがなかったら、ただの山道のようにどこまでも道は続いた。アーチ状の門は、映画(ロード・オブ・ザ・リング)に出てくるような立派なシタデルだった。大きな庭園があり、圧巻の一言だった。エリックは

「もっと上まで行けるけど、ここからの眺めが僕は一番好きなんだ」

と言って、車を止めた。降りて、下界を見下ろすと、ナミュールの街とムーズ川と渓谷が一体となって見渡せた。今まで見たどんな景色にも負けないものだった。

「ここを治めていた王様は、きっと誰にも渡したくなかったでしょうね? 我が物にしたかったでしょうね?」

遠い昔の歴史に想いを馳せて文はため息が出る程、この景色を堪能した。


 離れがたい気持ちを抑えて、再び車に乗り込み、エリックとナミュール駅に向かい、別れた。

「文、きっとまた会おうね? ナミュールとデュルビュイに来てくれて、本当にありがとう。文と一緒に過ごせて楽しかったよ。もっと話を聞きたかった。今度、また一緒に料理もしようね。約束だよ?」

「エリック。昨日も今日も運転させてしまって申し訳なかったです。本当にありがとう。私も凄く楽しかったし、幸せな時間を過ごすことが出来ました。エリックのことも大好きです」

「ありがとう、文。トーマスの事も頼んだよ」

と言って、文の事を強く抱きしめた。そして、トーマスとも兄弟の抱擁を交わした。

エリックと別れて、トーマスと文は顔を見合わせた。お互い満足そうな顔を見て幸せだった。


「やっと、文と二人きりだ!」


ようやくブラッセルのアパートに到着したのは夕方で、二人はぐったりした。でも、それは心地の良い疲れだった。

「文、今回は、僕の願いを聞いて、デュルビュイまで一緒に行ってくれて、ありがとう。父さんも兄さんも凄く喜んでいる事が僕にも伝わって嬉しかった。疲れたよね? 本当にありがとう。

明日から僕は少し、大学の事とかで忙しくなるから、ゆかりに到着する時間が遅くなるんだ。その分、遅くまで働かせてもらおうと思っているんだ。オリビエがいなくなったから、閉店まで僕がいなくちゃ意味がないだろ? 三月までみたいに一緒に帰れないけど、大丈夫かい?」

「勿論、大丈夫よ。気を付けて帰ってきてね。ご飯作って、好きなことして待っているから、安心して慌てないで帰ってきてね」

「ありがとう。文がいる家に帰るのは、二月までみたいに誰もいないアパートに帰るのとでは雲泥の差だよね?帰るのも楽しくなるよ。それに、二月までは(文は、今頃何しているのかな?)とか、(一人で大丈夫かな?)とか色々な心配をしなくちゃいけなかったけど、今はこうして一緒に居られるから凄く安心なんだ」

文の胸が嬉しさで、キュンと締め付けられるように苦しくなった。


 トーマスは、文に内緒にしている二つの計画を、このデュルビュイのイベントが終ってから、始めようと思っていたので、文の前では平気そうにしていたが、内心はソワソワしていた。それは絶対に知られたくないからだった。


 次の日からのトーマスは、文が見ていても本当に忙しそうだった。アパートにいても、パソコンを前に作業をしている。土曜日も、カフェのアルバイトは昼頃からなのに、文と同じ時間に一緒にアパートを出て、文はボーリュの駅に向かうが、トーマスは大学へ行く、と言って、ケイム広場の方へ向かっていくのだ。

 でも、アパートでは二人の時間もたっぷり楽しんでいたので、文は何も気にしていなかったし、寂しくもなかった。最近のトーマスは、アパートの部屋のドールハウスを制作していた。壁紙や床材もグラン・プラスのドールハウスの店で、二人で選んで作り上げていた。イスやテーブル、ソファも作った。文が、家具の色付けをして、ソファに綿と布のカバーリングで、アパートのソファに似せて仕上げた。少しずつ出来上がる二人の愛の巣にお互いが完成を楽しみにしていた。


 ある日、文が色々な雑誌を見ながら「う~ん?」と唸っている姿を見たトーマスが声をかけた。

「何をそんなに悩んでいるの?」

「今度のポーセリンアートのお皿に描く絵なんだけど・・・私は絵が描けないから。先生に頼むんだけどね、どれにしようかな?って。先生が描いても、結局は私が塗る訳だから・・・」

「この前はチューリップをかわいらしく描いていたじゃない?今度は何を描きたいの?」

「この前はね、初めてだったから、初めてでも何とかなりそうな絵をサラに下書きしてもらったの。でも、今度は、トーマスのお皿を描きたいの。私でも描けそうなバスケットボールにでもしようかな?と思ったけど、そのボールすら私には描けないのよ~ え~ん」

「バスケなら、こんな感じかな?」

トーマスがキャンパスノートにサラサラ~と描き始めた。文は、その絵に一瞬、言葉を呑み込んでしまった。


「ちょっと、トーマス! めちゃくちゃ絵が上手じゃない?何それ? 凄すぎる!」

「え?そうかい? 僕、絵を描く事は好きなんだよ。言ってなかったかな?」

「好きのレベルじゃないでしょ? やだぁ~もっと早く言ってよぉ~。 この前のチューリップもトーマスに描いてもらえばよかった!」

「ちゃんと描けていたじゃないか」

「違うの。トーマスが描いた絵に色を塗りたかったの!」

「あ! そういうことか。分かった。じゃあ、その皿に描いてほしいものを僕が描けばいいんだね?」

文は満面の笑顔でトーマスをじっと見つめてウン、ウンと頷いている。

「その文の顔、僕の事を食べそうな顔しているよ?」

「だって、獲物をみつけた気分なんだもの!」

「ひどいや」

トーマスは気持ちよさそうに笑っている。そして、皿を見つめてから、文の差し出したトレーシングペーパーにバスケットゴールを描いた。しかし、そのゴールは、シュートする目線のゴールだった。そして、ゴールの向こうに鉄格子を描き始めた。


それを見た文は小さく「あ!」と言った。

「文には分かるよね? 君の大好きな場所だ。体育館のバスケットコートの上にある、アノ観覧場所だ。そして、僕がそこを見ている目線で描いてみたよ。どうかな?僕の皿にぴったりな絵だろ?」

「うん、私、これ、頑張って仕上げてみるね。何回通ってもいいから、コレ、絶対に上手く仕上げてみせるね?」

「僕がこの絵を描いている時、文が息を止めて、じっと見ていたその瞳も、顔も僕は大好きだ」

「私もトーマスがこの絵を描いている時の姿が好き。しかも、こんなに素敵な才能があったなんて、嘘みたい。あぁ、神様はやっぱり知っていなさる。私が何も絵を描けない女だから、トーマスを私のパートナーにしてくれたんだわ。本当によくご存知だわね? それに私には、この絵の中に私もトーマスも見えるわよ。私は、ここでこうしてトーマスのシュートが入るように祈って見ているの。トーマスは、この絵では、きっとこの位置からシュートしているのね?」

文は、自分の仕草やトーマスの位置を指さして真似て熱く語り始めた。トーマスは目を細めながら言った。

「文は、本当によく見ているね?そうだよ。僕の位置はココだ。僕はいつも文が居ない時でも、文がココにいると思ってシュートしているんだ。僕にはいつも応援してくれる文が見えるんだよ」

「嬉しい。トーマス、本当にありがとう。早く完成がみたいけど、丁寧に仕上げるからね? きっと、これは私のチューリップと違って、何度かに分けて焼成すると思うよ。楽しみね~」

トーマスはまた、文に自信をつけられた事が何よりも嬉しかった。絵の事でこんな風に感激されたことが初めてだったので、驚いた。また、それを作品にしようとしている文の感性にも感心していた。

(そういえば、教授も僕のイラストの表現方法を褒めていたな~ こういう事だったんだ・・・)

文に気付かされることは実に多い。知らない自分を知る事も多い。文といる毎日は刺激的だった。


 最近では、文がボビンレースの宿題をやっている間の時間がトーマスの勉強の時間となっていた。トーマスも文と同様に、ボビンがカランコロンと奏でる音が好きになっていた。文の作品は小さいが、着実に作品数を増やしていた。素人目で見ても、上達している事が音色からも分かった。

 二人は、同じ部屋に居ながらも別々の事をしていたが、干渉する事もなく、それぞれが自分の時間を大切にしていた。お互いがその距離感を心地よく感じていた。

二人のドールハウスの作業を文がしているからと言って、トーマスもそこに加わる訳ではなかった。勿論、加わるときもあるけれど、必ずそうしなければならない訳ではない事が大事だった。

 ポーセリンの絵の時のように、お互いが助け合う事も多かった。トーマスは、大学での調べ物をする時には、文のアイデアに助けられていた。計画性に欠けるトーマスを文はさりげなくサポートしていた。だから、トーマスは着地点がある作業の時には必ず、文にそのことを伝えるのだ。そうすると、文が定期的に声をかけてくれるからだ。そうして、トーマス自身も物事の進め方を文から学んだりしていた。


 四月の中旬。

書道のノエルに呼び止められ、シャドーボックスの友人、イザベラが近いうちに来られないか?と聞いている、という。文は(待っていました!)とばかりに飛びついた。書道をその週は、休みにして、その分、家で練習をすることにした。文は、朝市とマイユーの街、ストッケルへと向かった。

 ストッケルの駅に到着すると、いつもは左手に向かって歩き始めるのだが、イザベラのアパートは右手にあがって行くことになる。しばらくすると細長いアパートが見えてきた。窓からイザベラが手を振っている。


「いつもノエルから文の話を聞いているから、初めてでもすぐに分かったわ。宜しくね」

「こちらこそ、宜しくお願いします」


 ノエルと一緒で底抜けに明るいイザベラを文は一瞬にして大好きになってしまった。

 イザベラは、手際よく珈琲を淹れて、文へ差し出した。文は、イザベラに文が書いた書の色紙をプレゼントした。彼女はノエルの作品しか知らない事もあって、とても喜んで、すぐにサイドボードの上に立てかけた。それから数種類のカードを見せて、尋ねた。

「文は、どの絵をシャドーボックスとして、やってみたい?」

どれもアントン・ピックの絵だという。文は、少女がピアノを弾いている絵のカードを選んだ。

「これが、正直に言うと初歩の人には向いているカードなのよ」

と、イザベラは教えてくれた。そして、「設計図」と言って、差し出されたものは、カードを五枚分コピーしたものだった。そこには、一番から五番までの番号がふられていて、それぞれのカードの切り取る部分を赤く輪郭で印されていた。まずは、一枚のカードごとに切らなければならないパーツを切っていった。五枚目になると一枚目ほどは切らない事が分かった。カッターの切り方にも注意が必要だった。切り口が白くなるので、それをなるべく見せないようにするための技法だった。

 全て切り終わったら、次に切ったパーツを重ねる作業を教えてくれた。専用のシリコンで立体感を出していく。イザベラは、魅せ方も色々と伝授した。重ね合わせていく作業が終わると、イザベラは、

「これが乾いて落ち着くまでの間、フレームを作りましょう」

と言って、手招きしてベランダへ呼んだ。そこには、すでにフレームになる木材が並べられていた。

そこで、イザベラは、フレームの寸法の取り方を作品の大きさから測定して分かりやすく文へ教えた。次に、木材の切り方を教えた。万が一、少し失敗して切ってしまった時のリカバリーの方法まで丁寧に文に教えた。

文は、フレームを作っている時に、デュルビュイのトーマスの実家にあった家具を思い出していた。

(私は、こういう作業はやっぱり大好きだなぁ~)


その木材は、額縁用の木材なので、文でもすぐに額縁らしく仕上げることが出来た。フレームが出来ると、今度はそのフレームの厚さを出すための作業に取り掛かった。シャドーボックスなので、一枚のカードを飾る訳ではないから、シリコンや5枚分のカードの厚みも考えて、フレームの奥行きも計算しなくてはならない事を知った。今回は、イザベラが既に計算してその厚み分の木材を用意してくれていた。それらも斜めにカットして、全てのパーツをボンドでつなぎ合わせていった。次に、フレームにニスを塗った。ニスを塗った額縁を乾かしている間に今度は、作品を入れるための背板の作業を行った。少しでも安く仕上げるため、背板は、段ボールだった。段ボールに先程の作品を貼り付けるのだ。

イザベラは、額縁の正面のガラスはこの額縁を持って、ホームセンターに行けば、丁度いいサイズにガラスをカットしてくれるから、帰りにホームセンターによって帰れば、完成させたものをそのまま持ち帰ることが出来る、と教えた。文は、ニスが乾くまでイザベラの家で珈琲を飲みながら、アレコレとベルギーの話を聞きながら時間を潰した。程なくして乾燥したベルギーの気候が手助けとなり、処女作を持って、イザベラの家を後にした。彼女は来た時と同じようにいつまでも窓から手を振っていた。


 イザベラは、シャドーボックスの醍醐味は何といっても「設計図」にある、と教えた。文は、理数系が得意なので、イザベラの話に食いついて、一回の説明で、この設計図の起こし方のコツをインプットできた。早速、次の作品を作りたいから、と言って、イザベラからアントン・ピックのショーウィンドゥのある絵を五枚譲ってもらい、家で設計図に挑戦することにした。

 イザベラが言うように、帰り路の途中にある「ブリコ」のホームセンターでガラスを切ってもらい、処女作にはめ込んだ。とても背板が段ボールで、文が一本の木材から切り出して作ったフレームには見えないほど、文にとっては立派な作品に仕上がっていた。

(早く、トーマスに見せたいなぁ。トーマスなら、額縁づくりも好きだろうけど、私と一緒で設計図もきっと大好きなはずだわ)


 夕飯は水炊きの鍋料理を作って、シャドーボックスのおかげで休んでしまった硬筆の練習をして、トーマスの帰りを待った。今日は、カフェのアルバイトの日である。トーマスは、文と一緒で本当に働きものだった。大学の授業の後で、仕事もして帰ってくるのだから、文は想像するだけでも疲れるだろうと、トーマスを気遣った。

 トーマスは、玄関まで来ると、文の夕飯の香りを嗅いだ。

(お腹が空いた~ この瞬間がたまらなく幸せだなぁ。玄関を開けると笑顔いっぱいの文の顔が待っている。文の弾丸トークが始まる。僕の後をついて回り、後ろから話し続ける。思い出すだけで面白いや)

「ただいま」

「おかえり~トーマス。今日もお疲れ様。疲れたよね? 先にシャワー浴びるの? ご飯食べたい?」

「今日は、お腹空いたからご飯食べたいよ」

「分かった。準備してくるね。今日はお話したい事がたっくさんあるから」

二人が食卓に着くと、今日、制作した文の作品がちゃっかりテーブルの上に置かれている。


「お、文が今日作った作品だね? 何か、このフレームって手作りっぽくない?」

トーマスは微笑みながら文に聞いた。

「やっぱり、トーマスにはばれちゃうわね? そうなの。作品のサイズに合わせて自分で作ったのよ。私って、上手く作れないから、真っすぐに四十五度で木材をカットすることが出来なくて、隙間が出来ちゃうの。だから、その隙間を切った時に出るおがくずで実は埋めているのよ。だから、手作り感満載に見えるんだろうね?」

文は、半ば諦め顔で応えた。

「いや・・それよりも、あったかい感じがしたんだよ、文。言われてみれば、文がごまかしたところも分かるけど、温かみのある額縁だな、って思ったんだ」

トーマスは文の自信なさげな態度を微笑ましく想い、慰める意味でもなく、本当の気持ちを伝えた。

「トーマスったら、褒めるのが上手。素直に受け取るわ。ありがとう。でも、コレ見て。背板はなんと、段ボールなの。面白いでしょ?」

「ほんとだ。このサイズのものを作れば、またこのフレームに入れられるね?」


 お互いに手作りが好きな事もあって、話が尽きなくなる。トーマスも、どのように出来ているのか興味津々で文の作品を見回した。

文は、イザベラから教えてもらったことをつつがなくトーマスに伝えた。設計図が文には、一番興味があったこと、そして、次の作品を仕上げるための設計図も自分で考えたものを作ってみたい事を語った。

「この設計図を考える作業は、想像力が大事だよね?仕上がった状態を想像できなかったら、設計図が立てられないだろ?そりゃ、文が得意なわけさ。僕も嫌いじゃないね。それに、アントン・ピックの技法が、シャドーボックスにはきっと、適しているんだろうね?」

「そうかもね。でも、私は、カードを見て決めたいわ。次の作品もアントン・ピックのカードを買い求めてきたけど、それを見ていたら、トーマスと気に入ったクリスマスの時のカードもやってみたくなっちゃったの。あの暖炉がある前でサンタさんが居眠りしているカードなんて、きっと素敵に仕上げられると思うわよ」


トーマスが不意に文の手を握ってきた。

「文といると、本当に楽しいよ。疲れていてもそれを既に忘れている僕がいる。それに、この部屋は二人の秘密基地みたいだよね?」

「え?どうゆうこと?」

「部屋のあちこちに二人の好きな物が散りばめられているだろ? このシャドーボックスに、きっとさっきまで書道の練習をしていたんだろ? あそこには、僕の作りかけのドールハウスがある。僕たちのここは楽園みたいな場所だよね?

文の想像力は、僕の想像する力も大いに刺激してくる。文と話をしているとワクワクしてならないんだ」

文は、部屋を見回してトーマスの言葉をかみしめていた。以前よりも文は、この部屋に帰ってくることが凄く楽しみになっている。それは、トーマスがいる、ということが一番大きなことなのだが、トーマスが言うように二人の「好き」がいっぱいに詰まっているからなのかもしれない。


 早速、食後に文は、硬筆の練習の続きとシャドーボックスの二作目の設計図作りのための時間を過ごすために、大好きなキャラメル紅茶をトーマスの分と一緒に淹れた。今夜もトーマスはパソコン作業をしていた。


「そうだ! トーマス、今度の日曜日にデートしましょうよ」

「勿論、良いよ。どこに行くの?」

「ハルの森」

「あぁ、僕も行きたい場所だ。まだ、行ったことが無かったんだ。ブルーベルの森だよね?」

「そうなの。どんな森なんだろう? きっと、妖精がいるわよね? はぁ、楽しみ」

トーマスはクスクス笑い出した。

(文の妄想力に勝てる人はなかなかいないだろうな。心の中で考えずに、僕といる時はすぐに口に出しちゃうんだよな。全く面白い!)


日曜日。

二人仲良く、セントラルの駅へ向かった。そこから国鉄に乗り、ハル駅まで十五分程乗る。駅に到着すると、駅から無料バスが出ていた。二人は(ラッキー!)と喜んだ。 十分ほどバスに揺られ、到着した先は(森の入り口)。

名前も謎めいていて、文はとても気に入った。少し歩くと、一面がブルーというのだろうか、紫というのだろうか?森の足元一面にヒヤシンスの花のようなブルーベルの花が咲き誇っていた。森の小道を息をひそめながら二人でゆっくりと散策した。文は花を見ることが大好きなので、とても嬉しかった。

「トーマス、付き合ってきてくれてありがとう。やっぱり来てヨカッタ。一年に一度しか見られない森だものね?」

「妖精がいても不思議じゃないね?」

「きっといるわよ。隠れていて見えないの。見つけちゃダメなのよ」


 森を抜けて、またバス停に戻ってきた。何でもない散歩だったが、いつまで見ていても飽きない光景だった。森の中なのに、そこだけが明るい不思議な感覚だった。文は胸がいっぱいになって、トーマスに抱きついた。トーマスもそんな文を抱きしめた。感性が似ている事は、文にとって、とても居心地が良い。いつも感動を素直に表現できるからだ。いつも文の感動を受け止めて共感してくれるトーマスの存在は、最強の存在なのだ。トーマスとの時間は、窓辺でロッキングチェアに揺られているような心地よさなのだ。


「うん、トーマスは最強よ」

「え?何のこと?」

「トーマスと一緒に居ると、感情を我慢しなくていい事が私には嬉しいの。それを分かってくれる人は世界中でトーマスしかいないから、最強なの」

「そっか。僕にとっての文もそうだよ。僕たちは似ているんだよ、きっと」

ハルの森は確実に二人に「春」を告げていた。


 セントラル駅に戻り、二人は久しぶりにグラン・プラスを訪れた。ゴディバやノイハウスの店内では、イチゴにチョコレートをまぶしたものを競うように販売していた。二人はゴディバに入った。一粒ずつ買い求め、石畳に腰かけて、思いっきり大きな口を開けて食べた。イチゴが大きいので、二口か三口運ばなければ、食べきれなかった。よく見ると、チョコにゴディバの刻印までされていた。

「食べるのが勿体なく感じちゃうよ~」

と、言いながら食べ干してしまった。

「私の血管は、チョコレートが流れているのよ」

と、豪語するほど、文はチョコが世界で一番好きな食べ物なのだ。しかも、シンプルなチョコ限定なのだ。リキュール入りやトリュフなどは、全く目もくれないのだった。シンプルなチョコが一番カカオの味がよく分かる、と思っているからだ。


 続いて、文は隣のノイハウスの店に入った。買う物は決まっているのだ。珈琲ビーンズの形をしたチョコレート。

「これを三百グラムちょうだい」

ベルギーに来て、文のお気に入りは、このノイハウスの珈琲ビーンズ型のチョコ、ヴィタメールのオペラというチョコケーキ、そして、スーパーで売っているLEOのチョコ。この三種は、ローテーションで何かしらが家にいつもある状態だ。


 それから二人は、グラン・プラスの中のカフェに入った。ルロワデスパーニュ。店内に暖炉があるカフェで珈琲をまったりと楽しんで飲んだ。口の中でゴディバのチョコとイチゴの味が残っているので、丁度良かった。屋外の席は満席だったので、店内でくつろいだ。文はまじまじとトーマスを見つめた。

「トーマスって、こういうお店がよく似合う顔立ちよね~」

「なんだい?それ! 文だって似合っているじゃないか?」

「私はダメ! 綺麗でもかっこよくもないから。トーマスは似合っているわ~」

文のとろける顔を見ていると、トーマスは照れくさくなる。文以外の人にカッコイイなどと言われたことが無かったから、自分に自信がなく照れくさいのだ。文は、時々そう言っては、「好き」と連呼する。トーマスは、恥ずかしさと一緒に幸せを噛みしめるのだ。


 次の日の月曜日、トーマスは、ゆかりの仕事を終えた文をゆかりで見送り、閉店までの仕事に追われた。仕事を終えると、パトリックと豪に向かって、かねてより計画していた事をお願いをするために話しかけた。


「お疲れさまです。今日は二人にお願いがあります」

「お! 珍しい。なんだ?」

豪は、興味津々だった。

「七月は文の誕生日なのですが、その七月に文は、日本へ帰国してしまいます。そこで、文の誕生日会をその七月に開催したいと考えています。出来れば、文がこのベルギーで関わった全ての人に声をかけて集まってほしいな、と考えているんですけど、ボスもパトリックも来てくれる?」

「勿論、俺は行くよ。参加費を払って開催するパーティにすれば、トーマスの懐も痛まないだろ?」

「僕も是非、参加したいよ。文には世話になったから。オリビエにも僕から連絡して、来てもらえるように言ってみるよ。日程や場所はまた教えてくれよ」

「ありがとうございます。場所が僕はブラッセルに詳しくないから、文と行った、クリスマスパーティのあの会場くらいしか分からないんですけど、一つ気になる所が近くにあるから、そこのレストランに聞いてみて、ダメだったら、相談に乗って下さい。ボス、僕はその時にプロポーズをしようと思っています」

パトリックがヒュー!と口笛を鳴らした。

豪は、(とうとう、その日が来たか)という顔をしながら、微笑んだ。

「二人でよく頑張っているもんな? 文もきっと喜ぶぞ」

「文が関わったみんなに祝福してもらえたら嬉しいなぁ、って考えています」

「じゃあ、デグリーにも声をかけてみるか?」

「是非そうしてください。デグリー先生は文の身体を救ってくれた大切な人だから」

「分かったよ。他に何か手伝う事があったら、遠慮なく言うんだぞ」


トーマスは、どんなパーティにするのかを二人に話して聞かせた。豪は、喜んで聞いていた。パトリックは、自分が手伝えることをトーマスに伝えた。


 それから、トーマスは、文が通うボビンの若松家へ文がボビンの日ではない火曜日に向かった。文にアパートは聞いていたので、アパートの玄関で「WAKAMATSU」のプレートを探し、呼び鈴を押した。

若松婦人は、トーマスの突然の訪問に驚いていたが、喜んで迎え入れた。

「何かあったの?」

「今日はお願いがあって参りました。突然の訪問をお許しください」

と言って、豪たちに話したように、自分の計画を若松婦人に話した。若松婦人はとても喜んで、夫婦で参加したい、と申し出た。他のボビン仲間とボビンの講師、カトリーヌにも若松から声をかけると言った。

 トーマスは、ボビンレースのウェディングベールを文にかけてあげたいけど、高価すぎて、どうしたら良いのか分からない、と若松婦人に相談した。

「私も詳しい事は分からないから、文さんがいらっしゃらない時にカトリーヌに相談して聞いてみてあげるから、お返事は待っていてね?」

と言って、連絡先の交換をした。


 文の行動を把握していなければ、トーマスの計画が水の泡になってしまうので、トーマスはあくまでも慎重だった。豪に協力してもらって、八重と貴子とも連絡が取れるようにしてもらった。金曜日ではない日に体育館に二人に来てもらい、ジャン、ピーター、フィリップにも集まってもらって、トーマスの計画を話した。八重と貴子は、心底喜んだ。


「文ちゃんの願いがやっと、やっと叶うのね?トーマス、よく決心したわね?」

「いえ、文に出会った時から、僕はずっと彼女と結婚したいと願っていました。彼女よりも先に僕の方が願っていたんです。文のおかげで、みんなに見守られながら、プロポーズが出来ることを幸せに思います。今、一緒に暮らせて本当に幸せなんです。好きになって、すぐに一緒に暮らさなくて良かったと今は思います。文が慎重に僕たちの関係を進めてくれたから、勢いで暮らさずに済みました。つらかったけど、そういう事を乗り越えて、一緒に暮らしたからこそ、今の幸せがあると考えています。文は、本当に賢い女性だと思います」


ジャンは、(へぇ!)という顔をしている。フィリップは、自分の彼女とすぐにでも一緒に暮らそうとしていたので、複雑な顏をしていた。八重たちは、感慨深く頷きながら、トーマスの話に耳を傾けていた。


「で、私達はなにをしたらいいの?」


 このところ、何日もかけて綿密に苦手な計画をパソコンに向かって立てていたので、みんなにも見てほしかったのがトーマスの本当の目的だった。自信がなかったのである。みんなで頭を寄せ合って、互いに意見を出し合った。どうして、幸せな計画は皆の心を幸せな気持ちにさせるのだろう?と集まったみんなが感じていた。

それから、トーマスは、八重と貴子に、トーマスが動いて文に見つかってしまうと、怪しまれてしまうから・・と言って、エツコへの伝言を託した。二人は喜んでその指示を受けた。

「二か月少しで準備しなくちゃならないから、忙しくなるわね? でも、イコール、文ちゃんともお別れしなくちゃならないのよね・・・」

その言葉にすぐジャンが反応した。

「文は、みんなずっと友達だから、離れるわけじゃない、って言っていましたよ。それに、トーマスがきっと、文をすぐに迎えに行くんだろ?」

「あぁ、絶対に迎えに行くさ。みんなよりも僕が一番、文にそばにいてほしいと願っているんだ。だから、すぐに連れ戻してやるんだ」

「私達がベルギーにいる間に来られるといいわね。そしたら、今度は結婚式に呼んでいただかなくちゃ」


 トーマスは、みんなにくれぐれも文に知られないように注意することをお願いして別れた。仲間から愛されている文をとても大切に思った。トーマスの誇りでもある。

 豪もコッソリ行動していた。デグリーに連絡をして、縁導商社の加藤へも声をかけていた。加藤は喜んで参加する、と応えた。加藤自身は、一日も早く文をベルギーに呼んで、自分と一緒に仕事をしてほしい、と願っていたからだった。

 トーマスは、パーティ会場の交渉に向かっていた。

二人のアパート近くにあるレストランだった。以前、カリプソでテニスをみんなでした帰りに、文が言っていたことがあったレストランだった。カリプソ近くの池がある公園の向かい側に小さなロータリーがあって、そこにこじんまりとしたレストランがある。文は、隣が池と公園で、反対隣には教会があって、素敵なレストランだ、と言っていたのだ。レストランのロケーションを気に入っていたのだ。そのレストランは、外観からすると、二十名入れるかどうか、といった程度のレストランだったが、広さ的には丁度良さそうだ、とトーマスは判断したのである。

 勇気を振り絞って、レストランの扉を開けた。開店前の準備をしていたオーナーらしき男性が、気さくに応じた。トーマスは、自分の考えるパーティ構想を伝えて、それが実現できるかどうかを聞いた。オーナーらしき男性は、シェフでもあったので、快く応じてくれた。

(これで舞台は出揃ったぞ!)


 会場が決まったことを、再度、皆に連絡した。会える参加者には、口頭で伝えられるが、そうでない人たちには、全てメールで対応していたので、アパートでのトーマスは、勉強に忙しくしているように文には見えていた。

 最後の参加者交渉にトーマスは、書道教室に向かっていた。町田にみんなと同じように伝えて、是非参加していただきたい、とお願いをした。町田は、とても喜んだ。その場にいたノエルは、自分とイザベラも参加したい、と言った。トーマスは、パーティが盛大になりそうなことをとても喜んだ。

 会場の飾りつけ係は、八重と貴子とエツコに任されていた。三人は、別名「池のレストラン」のシェフ、エリーと打合せをしながら、準備を進めた。

 アレルギーで食べられない物がある文を気遣って、トーマスとエリーは、当日のメニューを決めた。エリーにお願いをして、当日のケーキは、マイユーのケーキにさせてもらう事を了承してもらった。ケーキは、豪からのプレゼントだった。

 みんながみんな、文の喜ぶ顔を想像して、文と別れる寂しさはあったが、それ以上に二人の門出を祝えることが嬉しかった。


       *****


 文は、トーマスとの生活にも慣れてきて、毎日、お互いが忙しくしていても、体調を崩すこともなく、ゆかりのアルバイトと語学教室通いと習い事で過密スケジュールでも楽しく過ごしていた。文にとっては、毎日が新しい事の発見の連続で、トーマスへの報告に事欠かない日々が続いていた。自分が信頼し、心から好きな人と生活をする事の「幸せ」を充分に感じていた。


 そんなある日、文は、エツコの店で華道のお稽古をしていた時に、ポツリとつぶやいた。

「自分で作った花器に生けてみたいなぁ、なんて最近思うんですよ」

「あら、それなら私、ユックルに知っているところがあるわよ」

「へ?陶芸ですか?」

「そうよ。あそこは、コミューンでやっているところだから、安心よ。その割には、色々な物が揃っているの。今度、行ってみると良いわよ。私のお店の事は気にしないで、行ってみたら?」

エツコは、文が一週間、びっしりと予定が入っている事を知っているので、気遣って言ったのだ。それを文も分かっていたので、恐縮した。なるべく、エツコに迷惑にならないように動いてみようと思った。

 その日の夜、トーマスに陶芸教室の話をした。

「また、文の情報網が炸裂し始めたね? 面白そうだから、日曜日に場所だけでも見に行ってみようか?」

文は、(その言葉を待っていました!)とばかりに聞いた。

「一緒に行ってくれるの?」

「だって、陶芸は僕もやってみたいと思っていたから、一緒に確認したいだろ?」

「良かった。トーマスと一緒だったら、安心」

文は、そこそこフランス語を話せるようにはなってきていたが、専門的な言葉にはまだ、抵抗がある。でも、ブラッセルに住んでいる人達は、「外国人」に慣れているので、大概の人は、英語を話すことが出来る。ある程度、不自由はないが、トーマスがいるといない、とでは、文の楽しみ方にも大きな差が出る事を文は知っているのだ。

 

 日曜日。

ケイム広場からバスに乗って、一度乗り換えて、ブラッセルの南の方へ向かった。ユックル地区の南の外れの林の中にある建物だった。周りは静かな住宅街になっていて、その建物は、バス停のすぐ脇に建っていたので、迷わず行くことが出来た。トーマスと文の二人は、場所だけ確認できれば、通えそうか判断が出来ると思ったのだが、日曜日なのに、その建物は開いていた。

「文、見てごらん。開いているよ。もしかしたら、何か聞くことが出来るかもね?」


 ベルギーの学校にありがちな入り口を入っていくと、中は広い陶芸教室場だった。三人の男女が作品と向き合っていた。一人は、車椅子の男性で、驚くことに、粘土で鷲を制作していた。あとの二人は女性で、一人は色付け作業をしていた。もう一人は、ろくろを回していた。三人とも自分の作業に夢中で、トーマスと文の存在に気付いていなかった。

「ボンジュール!」

三人は、一斉に二人を見た。トーマスが一番近くにいた、車椅子の男性に声をかけた。

「見学させていただきたいです。先生はいらっしゃいますか?」

「自由に見て行っていいんだよ。先生はいないけど、ここのことが詳しい人は、彼女だよ」

と言って、色付けしていた彼女を差した。その彼女は、

「ちょっと待っていてね。今、手が離せないから」

彼女が色付け作業をしている間、トーマスも文も車椅子の男性の作品から目が離せずにいた。粘土色をしていなかったら、はく製の鷲がそこにある、と思ってしまうほど、凄い作品だった。


「お待ちどうさま。ごめんね。あら、彼の作品、凄いでしょ?あそこまで仕上げるのも大変なのよ。粘土が乾いてしまうから。 ところで、お話はなぁに?」

「単発で作品を作る事って出来ますか? 授業料のようなものがあれば、教えていただきたいんですけど」

と、トーマスが聞いた。

「ここはね、みんな趣味でやっているから、授業料も無いの。但し、本格的にやってみたかったら、先生が来る日に参加したら、授業料を支払って参加も出来るわよ。マンツーマンで指導を受けられるわ。でも、例えば、ろくろの回し方とか、私がさっきやっていた色付けとかだったら、その時にいる人に教えてもらったら出来るから、そんなに難しく考えなくても出来るわよ」

「日曜日に来てもいいの?」

「勿論よ。日曜日だったら、私達三人は確実にいるから。他にも参加者がいる時もあるから、何とかなるんじゃないかな?それに、ろくろなら、私と彼女が教えてあげられるし、手びねりだったら、彼が教えてあげられるわよ」

「ヨシ!決まりだ。五月に入ったら、日曜日に二人で参加させてもらうね」

「そしたら、粘土を決めたら?粘土だけは買わなくちゃいけないから。器とかだったら、二人であの粘土の三分の一あれば、充分のはずよ。粘土の色によって、仕上がりも変わるから、その辺を見てみるといいわよ。気に入った色の粘土を見つけたら、また声をかけて。その粘土をあなた達の為によけておくからね」

「親切にありがとう」


 文もトーマスも生まれて初めての体験となる「陶芸」にワクワクしていた。粘土のある小さな部屋は、暗くてジメッとしていた。そこには道具なども整然と並べられていた。道具好きなトーマスと習い事はなんでも形から入りたがる文には、興味深い部屋だった。道具も自由に使っていいのだそうだ。

 隣の部屋には、粘土を成型した作品があった。どの色の粘土が焼かれるとどんな雰囲気になるのか、何となくつかめる部屋だった。文は目移りばかりして決められなかった。トーマスには、目についた粘土があった。

「トーマスは、その粘土がいいの?」

「あぁ。何となくこの粘土って、文がデュルビュイで買った器の色に似てないかい?」

「ほんとだ。似ている気がするね? これにしよっか?」

そうと決まると、文の頭の中には、作りたいもののリストが瞬時に浮かび上がってきていた。玄関先とテーブルに置ける花器だ。玄関先は、半月のような形にしたかった。テーブルの上の花器は、小さくても生け花が出来る器だ。半月の方を手びねりで、テーブルの上の花器をろくろで作りたいな、と思った。

一方のトーマスは、お揃いのビアマグを作りたかった。帰りのバスの中では、二人の妄想大会になっていた。トーマスは、文といる事で挑戦することに躊躇しなくなってきていた。常に失敗も恐れず、むしろ、失敗して当たり前だ、という考え方なので、常に謙虚でいるから、皆から手を差し伸べられる。文が意図してやっていないところと、彼女の物怖じしない真っすぐに挑戦の歩みを止めないその姿勢に、トーマスはいつも感心と尊敬するところだった。今では、それらがトーマスにとって、「勇気」に変わっていた。


 最近のアパートでの文は、シャドーボックスの作品の二作目を完成させていた。三作目は、クリスマスカードの作品に決めていた。暖炉の前でサンタクロースが居眠りをしているカードだ。これらの作品は、このままベルギーに置いていく事に決めていた。また、戻ってこられるように・・・文の中の「願掛け」だった。トーマスは、二作目からすぐに三作目に入ったので、文に二つの作品の額縁は自分が作ってみたい、と言っていた。文はとても喜んだが、ベルギーに置いていこうと思った気持ちが少し揺らいだ。

(やっぱり、一つは日本に持ち帰ろうかな? お守りにしたいもん)


 文と暮らすようになったトーマスの生活は一変していた。時間の流れる速度をとても早く感じていた。文の誕生日の計画も成功させなくてはいけない。自分の就職活動へ向けての準備も、大学での取り組みも忙しかった。アパートでは、二人の時間がとても有意義な時間となって、結果、就職活動や大学への取り組み方も良い方へ影響していた。また、ゆかりで働くことが、それらに相乗効果をもたらしていた。外でチャレンジし続けてアパートに戻れば、トーマスにとって癒しの文が待っている。何もかも充実していた。ダラダラ過ごすことが無くなったのだ。  

 家での文も働き者だった。トーマスになるべく勉学の時間を割けるように率先して家事全般をこなしていた。文からしたら、一人暮らしの延長だった事と家事をすることは自分の心の整理をリセットさせる事に好都合だったので、何も特別な事ではなかった。トーマスは、家事をよく手伝ってもいたので、負担に思う事は何もなかった。文自身も、自分のチャレンジの時間を持つことが出来ていたからだ。特に書道とボビンは必死にアパートでも練習をしていた。その努力している姿を見ると、トーマスも文に恥ずかしくない努力を重ねなければならない、と思えるのだった。


       *****


 トーマスは、毎月「ブリテン」という雑誌を買っていた。ブリテンは、ベルギー国内や特にブラッセル市内の情報を沢山掲載しているタウン誌のようなものだった。そこで、アンティークマーケット情報やクリスマスの時期はクリスマスマーケット情報、市内のイベント情報などを入手していた。

 文も、トーマスと暮らすようになって、ブリテンの存在を知ることになり、トーマスが読んでいない時などにパラパラと読むことが多かった。そんなある日、文は「一緒に自分のジュエリーを作ろう!」という記事がある、教室やサークルの案内板のようなページを見ていた。

(ジュエリーって自分で作れるものなのかしら? どんな物を作るのかな?)

興味があったので、トーマスには内緒で、クレイマーという男性に電話をした。クレイマーは一度、見学に来ることを勧める、と言った。文は、一人で行く事に少し抵抗があったので、コミューンの語学学校で、ジュエリー工房の話をした時に興味を示したルナと一緒に行く事にした。


 ジュエリー工房は、地下鉄のシューマンの駅近くにあるマンションの一室でやっていた。現地に到着した時にルナを誘って良かった、とすぐに思った。密室に男性のクレイマーと二人きりになる事には抵抗があったからだ。しばらくすると、生徒たちが五人くらい次々と現れた。

 生徒たちは、各々作業を心得ているようで、持ち場に散らばった。マンションの一室ではあるけれど、部屋の中には小さな部屋が三つあり、あとはキッチン、バス、トイレがある。三つの部屋は、型を削り出す部屋、溶接をする部屋、そしてデザインをする部屋だ。クレイマーは芸術家のようで、裸婦の絵画があちこちに飾られていて、文は目のやり場に困った。文のドギマギする顔を見て、クレイマーは笑った。

「日本の女性には、刺激的だよね?」

「ごめんなさい。こういう芸術に触れる機会がないから、困惑する、というのが正直な気持ちです」

「そろそろ絵を変えようと思っていたところだから、今度は違う絵にしてみるよ」

「どうぞ気になさらないで下さいね」

隣のルナを見ると、彼女は平気そうである。

(文化の違いなのかな~)


 文は、クレイマーにシルバーリングを作るとしたら,どのくらいの工程があって、どのくらいの時間が必要か確認した。クレイマーは、初心者でもクレイマーがサポートすれば、五回程通えば出来るが、日数は少しかかる、と言った。文は、今がチャンスだと思った。文がここにいる生徒が来る日に来たい、と言ったら、クレイマーはその方が有難い、と喜んだ。

 続いて、どんな物を作りたいのか、ざっくりした計画はあるのかをクレイマーは、聞いてきた。文は、二つのシルバーリングを作り、そのリングをチェーンに通したい、と伝えた。一応、指のサイズは決めてつくるが、チェーンに通したいのだ、と。クレイマーはすぐに快諾し、次までに必ずデザインを持ってくるように文へ伝えた。文は、自分は絵が苦手だから、ザックリと描いてくるから、手直しをお願いしたい、と伝えた。

 工房からの帰り道、ルナは文に感心しきりだった。

「文って、目的意識がはっきりしていて、気持ちがいいわね? 素敵なリングが出来ると良いわね? さっき、チェーンの話をしていたけど、アントワープだったら、安く金やプラチナのチェーンが手に入るわよ」

「アントワープって、ルーベンスの絵がある聖母大聖堂がある所よね?」

「そうよ。とっても素敵な所だから、観光しながら、チェーンを買ってきたらいいのに」

「素敵な考えだわ。ルナ、ありがとう。それに今日、ついてきてくれて有難う。あそこは一人では、とても行けそうになかったわ。あの先生相手ではね・・・」

ルナは文の言いたい意味が分かったのか、クスッと笑った。


 ルナと別れてから、ゆかりへと向かった。最近のゆかりは、日本企業の異動時期のためか初めて見る客が増えていた。三月頃からコミュニティツールの掲示板に文は力を注いでいた。常連の客が帰国の事を話していく事が多くなっていたからだ。帰国する人がいる、ということは、代わりの人が赴任する可能性が高い、ということだ。客との会話の中で、できうる限り情報を得ようとしていた。文のこの話術は天性のものだ、と豪は思っていた。何でもない話から、いとも簡単に核心的な情報を得るのが得意だったからだ。毎日、隣で聞いているパトリックも文から伝授されることもあって、ベルギー人とのコミュニケーションは上手くとれるようになっていた。文は自分が上手く話せない事もあって、パトリックに「あのお客さんにこんな事を聞きたいから、こんな風な質問をしてみて!」等とやり取りをしているうちに、話術を身に着けてしまったのだ。その情報を文に伝えると、文はきまって凄く喜ぶ。その後で、「じゃあ、今度こんな商品展開にしてみない?」と相談を持ち掛けられる。パトリックが店にとって、必要な存在であることが、文を通して感じるから、最近のパトリックはイキイキとしている。トーマスもパトリックを頼りにしながら、一生懸命に仕事を覚えようとしている事も頑張る原動力になっている。


 今日の文は何だかソワソワしている、とパトリックは感じていた。年の初めのメニエール病のこともあって、パトリックは文を気遣って、聞いてみた。

「文、何か心配事でもあるの?」

「え?どうして?」

「何だか今日の文はソワソワしているみたいだからさ」

「あら?パトリックにはお見通しなのね?恥ずかしいわ。トーマスが速く来ないかな?って思っていてね」

「朝も会っているんでしょ?」

「ねぇ?私って、話したい事があると夜まで待ちきれないのよ。ごめんね。仕事に集中するわ」

「いや、文が元気だったら、それでいいんだ。また、楽しそうな事、みつけたんだね?」

「そう! 私の病気が始まったの」


ところが、その日は金曜日だったので、トーマスは遅かった。バスケも続けているから仕方なかった。文は仕事中に話すことは避けたかったので、諦めてアパートでトーマスの帰りを待つことにした。

ゆかりでは、何事もなかったようにトーマスと仕事をしていた。パトリックは、文の話を聞いていたので、トーマスと話をしていそうもない事を気遣った。

「お先に失礼します。パトリック、あとは宜しくね。トーマス、先に帰っているね」

と、言って帰ってしまったので、心配になってトーマスに話しかけた。

「トーマス。文は、トーマスに何か楽しい事を話したがっていたから、今日は仕事が終ったら、早く帰ってあげなよ。きっと、何か午前中にあったんだよ。仕事に来てから、ずっとソワソワしていて、僕はまた病気になってはいけないから、聞いてみたんだ。文ったら、トーマスが速く来ないかな?って、トーマスが来ることを楽しみにしていたよ」

「そうなんだ・・・今日は、バスケがあったから遅くなっちゃったからね。分かった。早く帰るよ。パトリック、ありがとう」

「いや・・・文って、いるだけで元気が出るじゃん? 文の力になれるなら、なりたいからさ」

トーマスは、パトリックの気持ちがよく理解出来た。文は分け隔てなくみんなに接するので、何とかしてあげたくなるのだ。トーマスの場合は、みんなの「ソレ」よりも、もっと毎日溢れるほど受けているから、パトリックの気持ちは凄くよく分かった。仕事が終わると、いつもすぐに帰るのだが、今日は一本でも早い地下鉄に乗りたい気分だった。

 アパートに着くと、案の定、文はすぐにすっ飛んできた。荷物を下ろす時も、手洗いするときも、部屋着に着替える時も、片時もトーマスから離れずに、今日の午前中の話をし始めた。

「文、そのクレイマーって人は、男一人なの?」

「そうなのよ。だから、ルナについてきてもらったの。それに来月からのレッスンの時は、美術学校に行っている生徒たちと一緒に受けることになったから、一対一っていうことはないから、大丈夫よ。私がかなり警戒していることも感じてくれているから」

「そこの住所、あとで教えてくれよ。何かあったら、絶対に駆け付けるから、ね?」

「うん、そのつもりだった。はぁ・・・早く報告したかったから、これでスッキリしたわ。眠れる」

「パトリックも心配していたよ。文は本当に変わっているね? そんなに何を作りたいの?」

「日本にいる時にもシルバークレイでジュエリーを作ろうと思っていたけど、機会がなかったの。そしたら、この前、ブリテンでみつけちゃったのよ。行くしかない!って思っちゃったの」

「出来たら見せてよ」

「私って、本当に不器用だから笑わないでね?」

「文はいつも自信なさげだけど、ちゃんと素敵な物が出来ているじゃないか? しかもいつも想うのは、文の作品はどれもあったかい」

「それは、きっとトーマスが私のお父さんのような気持ちで私の作品を見てくれているからよ」

「文は僕の子供かよ? そんなときもあるけどね?」


文は、二つ年下のトーマスが、こうして自分を下に見てくれている時に何故か幸せを感じていた。トーマスは、一緒に暮らす前も今も、文がドキドキしている時に見せる仕草を見ると、いつも自分もドキドキした気持ちになれる。トーマスにキラキラした目で話してくるその文の瞳には、一点の曇りもない。その汚れのない瞳に見つめられるとドキドキするのだ。そして、最後にはきまってトーマスの事をとろけそうな顔で見つめて笑顔になる。こういう事が結婚して、子供が生まれても、ずっと続くと良いな、と感じる。


「文は小さな喜びも幸せも、本当に大切にするね?そういう所が本当に大好きだよ。それに僕を見るその目だ」

「え?私って変なの?」

「違うよ。逆だよ。文のその顔が、喜ぶその目が、僕にいつも幸せを運んできてくれる」

「ねぇ、トーマス。私がワガママで怒る事があっても、ケンカしても、絶対に寝るときは一緒に寝てね? ふてくされて別の所で寝たりしないでね? なるべくゴメンナサイって寝る前には言えるように頑張るから」

「分かった。でも、何でいつも文の方が悪い、っていう前提なの?」

「だって、トーマスが悪い事なんて今までになかったから。これからもそうに決まってるもん。悪いのはいつも私なのよ、きっと」

「んなこと、ある訳ないよ。大丈夫。そのかわり、僕が悪くても文もどっかで寝たりしないでね?」


 文は、生まれて初めて、孤独から解放されている「今」が永遠に続いてほしいと願っていた。だから、自分がダメなところも含めて、トーマスには受け止めてほしかった。

 トーマスは文の気持ちに気付いていた。文の言葉の端々から感じる「孤独」や「劣等感」は、トーマスがいることで芽を出さずに済むことが多くなっているからだ。そして、文の凄い所は、文が「右」と強く信じていても、トーマスがキチンと「左だよ」と説明をすると、いとも簡単に「ごめんね、左だね」と素直に受け止めるところだ。だから、トーマスは、決してみんなのいるところでは、文に異を唱えない事にしている。文は賢い女性だから、話せば気付くからだ。それに文が「右」だという根拠を聞くと、本当に見事に一本の筋が見える。間違っている時の大概は、文の勘違いや思い込みから来るものだからだ。ベルギー人は、トーマスの経験上、他人の意見はあまり聞かない人が多い。それだけ文がトーマスを信じてくれているからかもしれない、と最近は分かるようになった。抱きしめれば、トーマスの胸の中にすっぽりとはまってしまうほど小さな文だが、考えている事や人への愛情は、トーマスには抱えきれないほど大きかった。


      *****


 デュルビュイから帰ってきてからのトーマスの火曜日と水曜日は、午後からの授業だったので、午前中は、ある計画のための時間になっていた。

 それは、正月に文と見たケイム広場近くのアンティークの家具工房の事だった。文には内緒でコッソリ、正月の後に覗きに来ていた。そこで、文の気に入っていた家具の事を店主から聞いた。

 その大きなキャビネットは、アントワープから仕入れられたものだった。作られた時代は、百年近く昔のものだった。家具の後ろにかすかに残る貼り紙には、作られた年なのかは定かではないが、百年近く前の一九一〇年十一月とうっすら残っていた。トーマスは、工房の店主に二つの交渉をした。一つは、その家具の修復を自分にやらせてほしい、という願いだ。勿論、文の存在を説明し、彼女にプレゼントをしたい事を伝えた。二つ目の交渉は、なるべく値段をトーマスでも購入できる価格まで下げてほしい、という事だった。何を言っても引き下がらないトーマスに店主は腕組みをしながら、暫く考え込んでいた。


「トーマス、君のしぶとさには負けたよ。その代わり、俺からも条件が二つある。一つは、この家具を六月までには仕上げること。六月中には、この工房から出してほしい。次の家具を仕入れたいからな? もう一つは、この店から商品として出すからには、ちゃんと仕上げてくれなくちゃ困るぞ。値段は、仕入れた時の価格と運賃を持ってくれ。そしたら、俺に損失はない、ということになるからな?」


トーマスは、文のおかげで月々の出費が殆どなかった。昼食も文の分を作るついでにトーマスの分も用意してくれていたので、あまりかからなかった。三月と四月の生活費がしっかり貯まっていたので、それを頭金にして、五月の生活費を切り詰めれば、なんとか自力で購入することが出来ると計算した。

 次の日には、豪にそのアンティーク家具の件を話して、豪の居候部屋に一時、保管させてほしい、と頼んだ。豪は嬉しそうに快諾した。

「トーマス、お前も文に似てきたな? 外から色々な事を集めてくるようになったな?」

「文には敵わないですよ。でも、その言葉は素直に嬉しいです。文の喜ぶ顔が見たくてやっているんですけど、結果、自分が凄く楽しんでいるし、自分の知識や経験、技術になっているんですから」

「そうだよな~ 文もトーマスも大して凄い事をやっているわけではないけど、結果、二人とも凄く楽しそうで、俺たちの届かない所に行ってしまっているように感じるんだよな? 立ち止まっていない、っていうのかな?挑戦し続けている、っていうのかな?本当に二人とも凄いと思うぞ」


 トーマスは、豪の言葉が嬉しかった。文に出会った時に、同じことをトーマスは文に対して抱いていたからだ。文を捕まえられないのではないか?という焦りだ。でも、文と暮らして分かる事は、彼女は何も特別な事をしているわけではない。ただ、言える事は、家でもずっと努力し続けている、という事と生活そのものを常に楽しんでいるという事だった。


 トーマスの新たな挑戦は、トーマスの得意分野でもあったので、とても楽しかった。トーマスは、ガラスキャビネットの脚を切る事にした。かなり朽ちてきてしまっていたことと、このまま新しい木を入れたとしても、バランス的にこれから大きな家に住む予定も無いので、背を低くしたかったのである。店主と相談して、床へ直置きタイプのキャビネットにデザイン変更することにした。自分のアイデアが採用されたことも嬉しかった。修復作業をしながらもトーマスは、アンティーク家具の入手方法や手入れの方法を細かく学んでいた。店主も惜しみなく教えていたから、有難かった。入手方法は、流通の仕事をしようとしているトーマスにとって、大変興味深かった。

「僕が、流通業界に就職出来たら、是非、ベルギーのアンティークを世界に発信していきませんか?修復の腕の良い職人も沢山いるようですし。ベルギーは、家具の生産も盛んだから、新旧の両面から行けそうな気がするんですよね? それに、こうして修復することによって、その時代に思いを馳せることが出来るのは、幸せな事です。この家具を作った人と共同作業をしているような不思議な感覚です」

「それが、この仕事の醍醐味の一つでもあるからな。その時代の職人にリスペクトするってことだよな?トーマスは面白い事を言うな~」

「この家具を一番欲しがっている人が、こういう考えを持っている人なんですよ」

「そりゃ、いい女だな?」

「はい、それは勿論!」


家具の修復個所は、思いのほか多かった。でも、トーマスは全く苦に感じなかった。文の喜ぶ顔も見たいけど、自分もこの家具と共に文と一緒に暮らしたい、と強く思っていたからだ。そして、修復を重ねるほど、当時の職人の技術に敬服するのだった。

 長年の経年劣化で、建て付けに問題はあるが、その部分を除けば、当時のままだった。建て付けを修復するときには、ガラス部分に一番神経をつかった。ガラスを見る限りでは、一度も割った痕跡が見受けられなかったので、これは、まさしく百年前のガラスそのものだと店主とも話をしていたからだ。

 両サイドの細長い扉付きの収納の中は、上から下まで四隅に蛇腹の棒が設けられてあった。そこに棚をはめ込めば良いようになっていて、棚は十段ほどあった。実に効率的に作られていた。家具を傷つけないようにするために考えられたのだろう。だから、この状態の良いままで時を越えて、トーマスの前にあるのだと思った。そして、大抵のアンティーク家具は、塗装をし直したりするのだそうが、このキャビネットは、その必要さえもなかった。

 両サイドの収納とガラスキャビネット、そして、ガラスキャビネット上部の鏡付の背板は、クサビのような金属で合体させている。クサビは、金属のものと木材のものと両方のタイプがあった。釘は最小限に使用されているのも特徴的だ。店主もトーマスの修復を手伝いながら、この家具について、メモを取り続けていた。これらの資料が、今後の修復作業の時の経験値になるのだという。また、図書館に行った時などに調べ物をするときにも役立つこともあるのだという。仕入れ先々に家具の博物館があると、必ず入館して、自分の資料の答え合わせをしたりするのだという。勿論、新しい発見の方が多いのだそうだ。

 トーマスは、第一線で働いている大人でも、こうして学び続けている事を心底尊敬した。ゆかりの豪もそうだ。学び続けている。

(生きているって、学び続けることなんだろうな。文は、そのことを言っていたんだな)


瞬く間に五月がやってきていた。

 カレンダーの新しいページをめくるたびに、文もトーマスも言葉にこそ出さなかったが、胸が苦しく複雑な気持ちだった。それでも二人は、自分達が成すべきことは一生懸命に取り組んだ。

 トーマスは、今では何の迷いもなく、商社に勤めることを目標にしていた。種まきもしている。入りたい企業へのアプローチも自分なりに進めていた。大学生活の最後の大きな課題は、早いうちに取り組んでいた。大学でのトーマスは、見違えるように自分の進むべき道に邁進していた。唯一の息抜きであるバスケも、毎週参加はしているが、以前のように女性に媚びることもなく、ただただバスケを楽しんでいた。終われば、すぐに文が待つゆかりへと向かうのだった。

 そして、トーマスにとっては何よりも大切な二つの計画を確実に進めることこそが、今の大きなミッションだった。それらの計画は、周りのサポートもあり、順調に準備が進められていた。


 文は、コミューンの語学学校も無事に終わり、大学での授業と違い、テストもなく、ふわっと終了した事に少しだけ拍子抜けしていた。しかし、確実に語学力は、トーマスのおかげもあって、伸びて来ていた。リーディングとライティングには、やはり少し問題が残るものの、聞く事も話す事もネイティブに近くなってきていた。

 文は、苦手な事は日本で再度勉強をしよう、と決めていた。もし、再びベルギーに戻る時には、全てが求められるのだから、去年の七月の時のように「留学気分」では認められない。何よりもトーマスに負担をかけることになる。それだけは、絶対に避けなければならない。今はやりたい事が山ほどあるから、語学が後回しになっているけれど、帰国したら、絶対に本腰を入れようと思った。

書道の方も着実に成果が出てきて、今では成人クラスの毛筆、硬筆ともに師範の資格を取っていた。町田からも本当によく頑張ったと褒められた。これから先は、日本で学んだ方がより、高度な技術が学べる、と勧めた。しかし、文は、書道で身を立てようとは思っていなかったので、町田からそれ以上の情報を聞き出さなかった。書道に対して、やり切った感覚があったのである。このまま筆を置くのではなく、これからも折に触れて書道をたしなみ、機会があれば、人にも基礎を教えるくらいのスタンスは保ち、技術を鈍らせないために、書き続けたいと思っていた。

 ボビンは、帰国のぎりぎりまで通いたい、と若松婦人にお願いしていた。若松婦人は、文の気持ちを聞いていたので、最後まで気兼ねなく来るように言った。

「そして、もし、再び文さんが、ベルギーに来て、私達がまだベルギーに居たら、是非また一緒にやりましょう」

と言った。文はとても嬉しかった。若松婦人の「再び来る」という意味は、トーマスの元へ来ることを意味していたからだ。


そのボビンの先生であるカトリーヌから、ある日の稽古時に生徒全員へ「お招き」のお知らせがあった。

「七月のオメガングのお祭りのチケットを欲しい方は言ってね。今年は七月三日がオメガングよ」

「カトリーヌ、今年も忙しい季節ね?私は去年と同じように二枚チケットを希望するわ」

玉野婦人がカトリーヌに注文をしていた。文は、チンプンカンプンだったので、聞いた。

「オメガングって何ですか?」

皆が一斉に文を見て、しかし、すぐに納得したように声を揃えた。

「そうよね・・・ 知らないわよね?」

 玉野婦人はオメガングの話を簡単に説明した。

毎年、七月の第一木曜日に行われるブラッセルの有名なお祭りなのだ。トーマスと文が大好きなサブロン教会からスタートする貴族の行進である。カトリーヌも毎年貴族として参加するのだが、チケットを優先的に融通してもらえるのだ。それをカトリーヌは自分の可愛い生徒たちに伝えて、その権利を優遇させているのだ。文は、開催されるのが七月と言う事もあって、すぐにカトリーヌへ言った。

「私も二枚ほしいです」




 ポーセリンもトーマスの下絵のおかげで、「トーマスの皿」がレッスンに行く度、仕上がっていく事が嬉しかった。文は、トーマスの皿と並行して、箸置きも描き始めていた。箸置きには、マロニエの葉を描いた。文がお世話になった人たちに帰国の際にプレゼントしたいと思ったからだ。文の中で六月中にポーセリンは終了しそうだと考えていた。残りの時間を少しでもボビンレースの時間に充てたいと考えていたからだ。

 エツコの花屋では、ゆかりのように、まるで従業員の如く働いていたので、花の手入れやアレンジメントは、小さなものだったら、何とかなるようになっていた。創造的なアレンジや(例えばブーケや大きく飾るアレンジメントなどの)客の注文は、まだまだ出来ないけれど、文の目指していた自分の雑貨屋に飾る程度のものは、難なくこなせるようになっていた。鉢植えやハーブのこともエツコが知る限りの事を伝授していたので、文はこの一年近くで、自分でも驚くほど知識を深めることが出来た。トーマスとの生活の中でも、常に「花のある暮らし」を取り入れることが出来ていた。それは、少しくたびれた花をエツコがいつも持ち帰るように文に渡していたからだ。毎日のように花と向き合っていると、どのように生けたら、花が美しく見えるのかが分かるように、少しだけなってきていた。トーマスは文が、まるで花に語り掛けているような、生けている時の文の表情がとても好きだった。あまりにもその姿が「幸せの象徴」のようだったので、いつも勿体なくて、声を掛けられなかった。

 シャドーボックスは、三作で一旦制作をしない事にした。その代わり、暇を見つけては、設計図を作るようにはなっていた。設計図は、何か考え事をしている時に行うと、頭の中が上手く整理されていくような気がしていた。文にとっての一種のおまじないだった。


 そして、この五月からは、いよいよトーマスと陶芸に通う。文は、ジュエリー工房にも通う事になっている。

陶芸は、第一週の日曜日から行く事にした。文はまず、華道の花器を手びねりで作ることにした。トーマスは文とお揃いのビアマグをろくろで作る事に決めていた。

文の帰国を考えても、この五月しか通えないと、お互い思っていた。文は、ろくろに挑戦してみたいと密かに思っていた。二人で先日の陶芸工房に到着すると、車椅子の男性と色付けをやっていた、ジーナがいた。

「今日から宜しくね。何を作るかは考えてきたのね?」

「私は、花器を作りたいんだけど、ろくろも回してみたいの。出来るかしら?」

「トーマスが作るマグで、挑戦してみたらどう?」

「文、やってみたらいいよ」


ジーナが、まず、自分の粘土でお手本を見せた。粘土を形成しやすいように、また、粘土の中にある空気を追い出すために、ろくろを回しながら、粘土を上に下に伸ばしたり縮めたりしながら、柔らかくしているようだった。見ていると、とても簡単そうに見えたが、文はいざ、座ってろくろを回してみると、難しくて粘土がグチャグチャになった。へこんだ文を見て、トーマスが言った。

「その粘土で僕がチャレンジしてみるよ」

トーマスは見事にジーナのように粘土をろくろでこねる事が出来た。ジーナは、そのまま彼女の作業を見ながらマグを形成するように、トーマスに言った。文は、集中するトーマスの耳元に囁いた。

「私は、あっちで花器を作るから頑張ってね」

文は、無性に悔しかった。自分の不器用さに腹が立っていた。

(何をやっても私ってダメだなぁ・・・)

考えていたら、涙が出てきた。誰にも見つからないように、そっと拭った。

鷲を制作している男性の向かいに座って挨拶をした。

「今日からご一緒させていただきます、文です。色々教えて下さい。お願いします」

「宜しく。僕はボビーだ。何を作るの? ここに描いてみて。そしたら、何かアドバイスが出来るかもしれないからさ。ろくろはコツがあるんだよ。コツさえ掴めば文にも出来るから、気にしない方がいいよ」

「ありがとう。やってみます。でも、私は絵が下手だから笑わないでね?」

「大丈夫だよ。陶芸が好きなんでしょ? それだけで十分だよ」

文は、ボビーに泣いているところを見られてしまった気恥ずかしさがこみあげた。

(今は、花器を作る事に集中しなくちゃ!)

文は、半月のような形の花器を描いた。そして、言葉で補足しながらどんな物を作りたいかを説明した。

「分かりやすいね。ありがとう。そしたら、あっちの部屋から回転台を持ってきてごらん。それから、粘土を切る道具もその横にあるはずだから、探してごらん。僕がこんなだから、一緒に行ってあげられなくてごめんね」

「気にしないで。見つけられるから。私こそボビーの邪魔をしてごめんなさい」

文は、五体満足な自分が、悔しいくらいで泣いた事が恥ずかしかった。

道具を持って、机に置くと

「それでいい。そしたら、粘土をよくこねるんだ。これは、手びねりもろくろも同じだよ。さっきの悔しさもこねる力に変えて、頑張るんだよ」

「分かった。やってみる。なんか・・・パンをこねているみたいね?」

「そんな固いパン生地があるの? 文は食いしん坊なんだね?」

「あたり!」

ボビーは、とても丁寧に文に教えた。形の作り方やパーツを合体させる方法など、回転台を回しながら、何度も何度も文が出来るまで教えた。おかげで文の花器は、ろくろで回したように綺麗な半円の物が出来た。

「文、よく頑張ったね。とても素敵な物が出来たじゃないか」

「ボビー、ありがとう。あなたの邪魔ばかりしてごめんなさい。私のせいでちっとも進まなかったわよね?」

「いや、僕の作品は根気が必要だから、長くなるんだ。それよりも僕が役に立てて嬉しいよ」

文は、一瞬、言葉が出てこなかった。ボビーの言葉の意味が分かって、涙が出そうになったからだ。でも、泣いたら、ボビーに対して失礼になる気がしたので、ぐっと我慢した。

「役に立つなんて・・。ボビーがいなかったら、何も出来なかったわ。それに凄く分かりやすく教えてくれたから、もう一つコレを作りなさい、って言われても、私、ちゃんと作れる自信があるわよ」

「そうだね。文、ありがとう。この工房に来て、今日は一番楽しかったよ。来週になったら、僕の作品もいよいよ色付けに入るんだ。また、来いよ?」

「勿論よ。これを仕上げるまでは来るからね。それにしても、この鷲、生きているみたいね?ボビーのお部屋に飾るの?羽も本物みたい・・・粘土色してなかったら、本物と間違えちゃうね?」

「ありがとう。なんか自信がつくような大作に挑んでみたくてね。焼いてみるまで気が抜けないよ。割れちゃったらどうしよう?とか考えちゃうよ」


トーマスが二つのビアマグを持って、やってきた。

「わぁ! トーマス、凄く上手ね。初めての作品には見えないわ」

「文が粘土を柔らかくしてくれたからだよ。あと少しやっていたら、上手く出来たのにね?」

「ううん、私には出来ない。私にはこっちが合っているみたいね?」

と言って、ボビーを見た。ボビーは、トーマスに向かって

「文のこねた粘土は、きっと空気も抜けていてこねやすかっただろ? ここでこねている文を見ていれば、分かるよ。文は下手なんかじゃないよ。ろくろのコツをつかんでいないだけだ。トーマス、文はろくろが出来なかったことが悔しかったみたいで泣いていたよ」

「やだぁ、ボビー、恥ずかしいから言わないでよ」

「大切な人には言わなくちゃダメだろ?」

「ボビー、ありがとう。文に色々教えてくれたんだね?」

「文はとっても良い子だよ。一生懸命に頑張る。言われたことを失敗しても何回も何回も挑戦するんだ。教えていて楽しかったよ」

文は、ボビーの言葉が嬉しかった。トーマスがいつも言うように(文はこのままでいい)と言ってくれているように聞こえた。嬉しくて泣いた。

この日の作業はここで終了だった。次回は乾いた粘土に色付けをする。ボビーとジーナに別れを告げて二人は帰ることにした。

バス停で待っている時にトーマスは文を心配して聞いた。

「どうして泣いたの?」

「ボビーに見られていないと思っていたら、ばれちゃっていて、恥ずかしかった。ろくろが上手く回せなくて、ちっとも形にならなくて、私って何をやっても下手くそでダメだなぁ~って考えていたら、凄く悔しくなっちゃって。ダメね・・・でも、もういいの。トーマスがあんなに素敵に作ってくれたんだもの」

「僕がもっと上手くできるようになったら、映画のゴーストみたいに、文に手取り足取り教えてあげるよ。今は僕も形にすることに必死だから、余裕がないんだ」

「あんなに上手に出来ているのに、余裕が無いの?」

「そうだよ。文は、自分はダメでみんなは簡単に何でも出来ると思っているけど、決してそんなじゃないからね?」

「そうなんだぁ。ちょっとホッとした。私は、今日の作品は、もう一度作りなさい、って言われたら、作れる自信があるんだ。ボビーが丁寧に何度も教えてくれたから」

「そっか・・・それは、ちょっと僕には面白くないな。文が取られたみたいだ」

そこへバスが来たので、文はトーマスの腕を引っ張って甘える仕草をした。


 冷たい粘土を一心にこねていると、「無」の世界へ誘われる。精神が集中する。作りたい形を頭にしっかりイメージして、その形になるように、全神経を集中させる。陶芸は、トーマスにとっても文にとっても、素晴らしい体験だった。お互いに作品が出来上がっていく事を楽しみにした。


 文は、ベルギーに来て、自分の中で変わったことがあった。それは、このベルギーでは、障害者が街の中に普通に生活している事だった。日本では、なかなか機会に恵まれなかったけれど、ベルギーでは、実によく出会う。車椅子を押したり、横断歩道を渡るときに全盲者の介助をしたり。初めは、自分に出来るのか心配だったけど、全盲者の人に教えられて、自信が持てるようになった。

「私を横断歩道の向こうへ、安全に誘導していただけるだけでいいのです」

と訴えられた時に、彼の言われるまま一緒に横断歩道を渡った。確かにその横断歩道は、二車線の道路なので、距離も長い上に、左折車にも右折車にも気を付けなければならないから、不安になるな、と感じた。文がその車両を見てあげるだけで、その人は安心するのだ。文は上手くできた事が嬉しくなって

「ありがとう。あなたのおかげで私にも出来たわ」

と、思わず言った。すると、彼は笑いながら、言った。

「初めてありがとう、って言われたよ。いつも、僕がありがとう、って言う役目なのに、君は面白いね?」

ベルギーで沢山の体験と知識を得ることが出来て、価値観も大きく変わってきているように思えた。心が豊かになっているように感じていた。


 

 文は、一回目のジュエリー教室へ向かった。この前は、ルナがいたので良かったが、今日は一人。少し不安はあったが、学生たちも来るから、と不安をブルンブルンと頭を振って、ごまかした。

クレイマーが住むマンションは、大きなマンションなので、エレベーターも三台あった。どうにか部屋の前にたどりつき、学生が来ている事を祈った。

「やぁ、文。今日から頑張ろう」

クレイマーの笑顔が怖い。学生たちは、既に自分達のポジションについて作業をしていたので、ホッとした。

「じゃあ、まずは、リングのデザインを見せて」

文は、シンプルなデザインだけど、このデザインに「想い」をのせていた。これ以上のデザインは浮かばなかった。トーマスに相談したいけど、トーマスには内緒のプレゼントだから、それも出来なかった。

リングは、文とトーマスのイニシャルをそれぞれデザインしたものだった。クレイマーは、すぐにそのデザインの意味するところを理解したらしく、じっくり見て応えた。

「OK.このままでいけるよ。僕の手直しの必要はないよ。そしたら、このデザインをそのまま形にしていくから、いいね?あれをリングの大きさにカットして、デザインの通りに細かく削っていくんだ。細かい作業の所は、まず、僕に聞いてから削るようにしていくんだよ」

 クレイマーは、手慣れたように蝋の塊のようなリングの原型をカットして、文に渡した。リングのサイズになるように中のくり抜きに注意しなければならない事は理解出来た。リングトップの肝心なデザインの所は、初めからどうやっていいのか、つまずいた。

 トーマスが・・・文が・・・離れている時にお互いのイニシャルのリングを身に着けていられるように、という想いから考えたデザイン。「T」と「F」を筆記体で書いたデザインにした。とても似ているけれど、少し違う。そこがトーマスと文のようで、文は自分のデザインが気に入っていた。イニシャルの削り出しが、とても難しかったので、クレイマーの指導がなければ、とても素人の文には出来ない作業だった。陶芸もそうだったが、この削る作業も集中するので、文は楽しかった。指導するときのクレイマーは、普段のチャラチャラしたキャラクターとは違い、信頼できる「講師」の顔になっていた。削り出す作業は、とても一回では完成しない作業だった。しかも、二つのリングを完成させるとなると、あと二回ほど来なければ、次の工程には進めそうになかった。

 文は、作業をしながらも学生たちの作業を見ることも楽しんでいた。皆、独創的な作品を仕上げていた。何を作っているのか、さっぱり分からない作品ばかりだった。


 五月の文は、アパートでも趣味に没頭していた。特にトーマスとの共同制作のドールハウスには力を入れていた。トーマスがいる目の前で完成させたかったからだ。トーマスが作った「部屋」は、充分にこのアパートの部屋を思い出させてくれる作品だった。ソファージュや窓も完璧に再現されていた。キッチンも作ろうとしたが、文が

「キッチンは作らなくていいの。この部屋の先にある、って想像するだけで楽しいでしょ? 私の記憶にもトーマスの記憶にも確実にあるんだもの。それに、そこが曖昧でも、二人でこうだった、あぁだった、って確かめ合うのも楽しいでしょ? この部屋だけが完璧だったら、それで十分なの」

「うん、その考えって共感できるよ。 凄く分かりやすいね?文のその価値観は、僕の五感をメチャクチャくすぐるよ」

「いつか、ドールハウスの本場、イギリスに二人で行きたいなぁ」

「そうだね。ドールハウスショーとかって凄い規模でやるみたいだからね? また、夢が出来てよかったね?」


 ドールハウス以外にも書道とボビンにも時間を使っていた。そして、何よりもトーマスに残りの時間に自分が作る料理を食べさせたくて、毎日、工夫しながら料理をしていた。トーマスの喜ぶ顔が何よりも文を幸せにしていた。

ポーセリンアート、陶芸、ジュエリー制作は、家で何も作業が出来なかったので、歯がゆかった。それでも、文は、学んだ事をノートに沢山、「記憶」として書き残していた。小さなことでも書き残して、いずれ自分の夢を叶えるときの参考にさせたかったのである。


 トーマスは、文の誕生日パーティの準備を悟られずに着々と進めていた。みんなからの動画を編集したり、画像を編集したり、パーティの進行をどのように進めるかを考えたり、楽しい作業を進めていた。文に見つからないように、パソコンでいつでも作業の画面を小さくできるようにして、カモフラージュの大学の研修資料のデータをいつでも開けるようにしていた。文は、トーマスのパソコンを見たところで、リーディングができないので、見る気持ちも起きていない事が唯一の救いだった。

 でも、大学の研修資料も実は、パーティ準備と同じくらい重要な事で、着実に進めてもいた。二つの「やらなければならないこと」は、今のトーマスにとって、どちらも楽しい作業であった。一年前の自分には想像もつかない心境の変化だった。ふと、視線が気になり、トーマスは顔を上げた。文がじっと見ている。

「どうしたの?」

「トーマスが楽しそうに勉強している事が、何だか私も嬉しくってね。私も頑張らなくちゃ!って、思えるの」

「文は、充分頑張っているじゃないか。今のまま、やりたい事を楽しんでいてくれたら、僕はいいと思うよ」

「ありがとう、トーマス。あなたは、いつも私が鎧を身に着けようとすると、それを下ろしてくれるよね? それが私は、凄くありがたいの。いつも強くなくちゃイケナイって思っていたのに、今は弱くっても、トーマスが守ってくれるからいいじゃん!って、思えるのよ。本当にありがとう」

トーマスは、文が座るソファの横に座り、文を抱きしめた。まるで、文の存在を確かめるように。

「感謝しなくちゃいけないのは僕だよ。本当にありがとう。ずっと一緒にいようね?」

「もちろんだよ」


 そして、五月が終る最後の水曜日。とうとう、アンティーク家具の修復が終わった。残金を支払って、名実ともに「トーマスの家具」となった。店主は、トーマスのひたむきさに感服した。

「よく頑張って、ここまで完成させたな? 俺もいい勉強をさせてもらえたよ。今度は、バイヤーと家具職人としてタッグ組みたいな? これからも遊びに来いよ」

「ありがとうございます。沢山のご指導のおかげで、何とか完成出来てメチャクチャ嬉しいです。この家具、運んでもらう事出来ますか?」

「こっちの都合で運ばせてもらえるのなら、運んでやるよ。前言っていたイクセルの所だよな?」

「はい、そうです。また、日程が決まったら、教えて下さい」


トーマスは、生まれて初めての達成感を味わった。とてつもなく大きなものだった。その日は、すぐにアパートへ帰って、文の顔を見たかった。ゆかりへ向かって、文の顔を見たら、家具の事を言いたくなったが、必死にこらえた。トーマスの顔を見て、文は何かを悟っていた。

ゆかりの仕事を先に終えて、アパートに帰った文は、何となく、今日の夕飯は、トーマスの大好きなキッシュにしてあげようと考えて、作り始めた。

 トーマスが帰ってきて、玄関を開けると

「ん?これは、もしかしてキッシュ?」

「そうよ。トーマスがきっと、食べたいんじゃないかな?って思ったの。シコンのスープもあるよ。あと、少しで出来るからね」

「やったね! 実はさ、今日、メチャクチャいいことがあったんだ。でも、文にはまだそれが何かは言えないんだよ。それでも、僕にとっては、お祝いみたいな出来事だったから、凄く嬉しいんだ」

「そっか。トーマスをゆかりで今日、見た時にね、朝の表情と違って、凄く男前に見えたのよ。何かいいことあったんだろうな、って。だから、今日はトーマスが大好きなキッシュにしてあげよう、って思ったんだけど、正解だったね。何があったの?」

「いや、まだ言えない。でも、きっと、文も喜ぶことだから、もう少し待っててね」

「待ちきれるかなぁ? でも、仕方ないから待つね」


それから、二日後、トーマスは大好きなバスケを休んでゆかりに向かった。文が出勤してくる前に家具を納品してくれることになっていたからだ。豪は、トーマスが仕上げた家具を見て、感心した。

「これをトーマスが修復したのか? 器用だな、やっぱり。文がトーマスの実家の家具の話をしてくれたんだけど、トーマスはこういう作業が好きなんだな? こりゃ、文が喜ぶぞ?」

「この家具は、文が気に入った家具なんです。僕は、家具の修復に興味があって、こっそり通って、教えていただきながら、何とか仕上げられたんですよ。楽しい作業でした。これで文が喜んでくれたなら、何も言う事ないですよ。最高な気分です」

「文の事を本当に大事にしてくれて、ありがとな」

豪は、文の親でもないのに、トーマスの純真な心があまりにも嬉しくて、つい親の気持ちになって言っていた。


 その日の文は、ジュエリー制作で、型を削り出した二つのリングが、銀の形になって出来上がってきた日だった。その出来上がったシルバーのリングに溶接をしながら、綺麗に仕上げていく作業を終えてから、出勤してきた。初めての溶接の作業に神経を使い過ぎていて、疲れ果てていた。

「こんにちは~ お疲れさまです。 あれ?何でトーマスがもういるの?」

「今日は、バスケが休みだったんだよ。すっかり忘れていたんだ。文、何か疲れてない?」

「うん、大丈夫。今日は、慣れない作業をしたから疲れたの」

文もトーマスには、ジュエリー工房の事は内緒にしている事だったので、詳しく話したくなかったのだ。

 金曜日のゆかりは、ウィークディの中で一番忙しい。総菜も一番売れる曜日だ。文は、トーマスが早くから出勤してくれたので、サスキアスと一緒に総菜作りに専念することにした。翌日の仕込みも進められるからラッキーだった。

 文の仕事の時間が終ると、トーマスが文に言った。

「文。文の居候していた部屋に僕からのプレゼントを置いてきたから見てきなよ」

「え?プレゼント? 私の誕生日はまだよ?」

豪が呆れて突っ込んだ。

「プレゼントは、誕生日にしかあげられない物でもないだろ? 早く見に行ってこい! 惚れ直すぞ!」


文は、豪の言葉に顔を真っ赤にして、恥ずかしさを隠すために、居候部屋に上がって行った。

扉を開けて、目の前にドーンと佇む家具を見て、一瞬、文は我が目を疑った。

「え?これって・・・ケイム広場のあの家具?え?・・・キャア~ トーマス!」

文の叫び声は、当然、トーマスにも豪にもサスキアスにも聞こえていた。トーマスはその叫び声を聞いて満足だった。文の心も読める気がした。


トーマスは仕事中である。文は、階段を駆け下りて、トーマスの所へ行った。

「ねぇ、あれって、あの家具屋さんにあった家具でしょ? 何でここにあるの?」

「文がきっと喜ぶと思って、あれから通い続けて、僕自身で修復作業をしたんだよ。あそこの店長に教えてもらいながらね? 気に入ってもらえたかな?」

「私のために? トーマス、あの家具、日本には持っていけないよ」

「知っているよ。それでも直したかったんだよ、文。あれは、僕が卒業したら、僕の手元に置くよ。分かるかい?その意味が・・・」

「うん、分かる・・・」

文は泣き出した。胸が苦しくなったのだ。

「トーマス、文をあの部屋に連れて行って、今日は、トーマスと一緒に帰るようにしてやってくれ。途中で倒れても困るからな? 文、一人であの部屋でトーマスが終わるのを家具を眺めながら待ってろ! お前のために一生懸命、金を貯めて時間を使って頑張って修復した家具なんだからな?」


トーマスは文をアーツ・ロワで助けた時のように、抱きかかえながら、居候部屋へと連れて行った。文は泣き続けている。部屋に着くと、文は、トーマスの手を取り、自分の胸にあてた。

「トーマス、本当にありがとう。あの時の家具が私達の元へこうして来てくれるなんて、想像も出来なかったの。どう表現していいか分からない位の感動よ。本当にありがとう」

「文が喜んでくれたら、僕はそれでいいんだ。この顔を見たくて、必死に頑張った甲斐があったよ。でもさ、この修復作業のおかげで、また知らない世界が広がって、僕の中では、また別の点に結び付いたんだ。文のおかげだよ。文がチャンスを僕に運んできてくれたんだよ?」

文は、トーマスの胸の中で更に泣いた。

「僕は仕事に戻るからね。じっくり見てごらん。あの時、遠くのガラス越しでしか見られなかったんだから。それに、脚の部分を勝手に僕のデザインに変えてしまったんだけど、カットしたんだ。だから、上の方まで文も見られると思うよ。じゃ、仕事に戻るね」

「行ってらっしゃい」


 文は、トーマスが修復した家具を隅々まで見ながら、撫でた。愛しいトーマスが自分を想いながら、あのボロボロだった家具を見事に修復させて、息吹を与えてみせたのだから、この家具さえも愛おしく感じた。

あの時には開けることすら出来なかった、全ての扉を開けたり、締めたりしながら家具を愛でた。一番気に入っていた上にある小さな飾り棚の扉を開けた。中には一段の棚が入っていた。扉には、あの時のままカーテンが細いカーテンポールに通されていた。

(やっぱりカワイイ)

あの時には見えなかったけど、全ての扉には鍵がつけられていた。鍵を回して開けると、小さな音で

「キィ」

といって開く。その音が百年前の音のように聞こえる。ずっとずっと家具に触れていた。

最近、トーマスの手に小さな傷があることを知っていた。男性だから、バスケや何かで擦りむいてきたんだろう、くらいにしか考えていなかったけど、この修復作業のせいだったんだ、とつながった。

(今日は、トーマスにアロママッサージをして、労ってあげなくちゃ!せめてもの私からのプレゼントだわ)


 家具を眺めながら、文はどんなものを入れるのかを想像していた。ガラスキャビネットの部分には、どんなものを飾ろう? 考えるだけでワクワクするし、幸せだった。正月のあの日に、二人でガラス越しに妄想していたことを思い出していた。いつの間にか、家具に寄りかかって、眠ってしまっていた。まるで、隣にトーマスがいるような気持ちで、とても幸せな気分だった。

 トーマスが仕事を終えて、居候部屋に行くと、文が幸せそうに家具にもたれて眠っていて、驚いた。家具に語り掛けながら眠ってしまったような恰好だ。こんなに喜んでいる文を眺めて、トーマスは幸せだった。文からいつも沢山の幸せを与えられることを心から喜んでいた。自分の存在価値は、文によってもたらされている、とさえ思えていた。

トーマスの気配に気づいた文は起きた。

「あ!お疲れ様。寝ちゃって、ごめんね。トーマスの分身みたいで、離れるのが嫌になっちゃうよ。トーマスが一生懸命に修復に頑張ってくれていたことに気付かなくてごめんね」

「文に気付かれていたら、意味ないだろ?文はこのままでいいんだ。僕に気遣いなんかしないで、このままでいてほしい。それにさ、この位、鈍感な文のほうがいつもサプライズのやりがいがあるから嬉しいよ。さっきの悲鳴は最高だったよ」


 それからの文は、ゆかりに出勤するたびに、出勤前と帰るときに必ず、この家具を見ることにしていた。

(早く二人の手元に来る日が来ないかな?)


 二人で始めた陶芸は、五月の間の日曜日に通い続け、トーマスはペアのビアマグとペアのケーキ皿を作った。文は花器を手びねりで大小二つ作った。毎日、ビアマグでビールは勿論、珈琲もミネラルウォーターも飲んだ。皿も毎日、登場させた。

 文は、花器をエツコの店に持ち込み、華道の稽古をその花器で受けた。自分で作った花器に生ける事は格別だった。エツコも文の作品を見て、文らしい独創的な作品だと褒め称えた。でも、文は、折角作った花器だから、と初めは、どうしても花器を目立たせようと生けていた。でも、やはり花器は脇役である。影となって花材を引き立たせる役目があるのだ。文は、自分自身の生き方に重ね合わせていた。

(私も、この花器と同じだな。目立つことは好きじゃない。でも、誰かが輝くための脇役は大好き!)


六月に入って、初めての金曜日。

 文は、久し振りにトーマスのバスケが見たくなって、ジュエリー工房を早く出た。豪に少しわがままを言って、少し遅れたい、と伝えた。豪は、文がそんなことを言う事が初めてだったので、気持ちよく送り出した。

「もうすぐトーマスのバスケも見られなくなるんだから、思う存分、見てくると良いよ。店は気にするな」


 朝、トーマスには何も言わずにいたので、少しトーマスが驚く姿を見ることも楽しみだった。お弁当のおにぎりも持って出た。体育館が近付くと、文が大好きな音が聞こえてきた。ダムダム・・・キュッキュッ・・・

ドリブルの音、バッシュのこすれる音、シュートの網をくぐる音、パスをキャッチした音。たまらなく幸せな気分になる。文は、真っすぐ、二階の観覧席に向かった。

「文!」

トーマスがすぐに見つけた。

「来てくれたんだね? 言ってくれたらよかったのに!」

トーマスが喜んでいる事はすぐに分かった。文は軽く手を振って、ジェスチャーで(ここにいるよ)と、トーマスに伝えた。

 今日は、ドリブルの練習を念入りにやっているみたいだった。どうやって相手を抜くか?の練習をやっているみたいだった。文は、久し振りに見るトーマスの勇姿にうっとりしていた。豪に「もうすぐ見られなくなる」と言われた言葉を思い出したら、急に今度は泣けてきそうになった。でも、泣かないように必死にこらえたが、涙がにじんで、トーマスがぼやけて見えた。

(泣いたらダメだ! トーマスが心配する)

文は、観覧席から少しだけ席を外して、コートから見えない所に移動した。すると、トーマスは、文が動くと同時に文の元へ来た。

「文、どうかしたの?」

「トーマス!」

文は、溢れる涙をトーマスの胸の中で流した。

「トーマスのバスケを暫く見られなくなるのかと思ったら、泣けてきちゃったの。心配させてごめんね。大丈夫だから、コートに戻って。私もまた見るから」

「少しの間だけだよ。その後は、見飽きるくらいずっと見られるからね?」

と言って、強く抱きしめた。トーマスの優しさが嬉しかった。

「後でさ、文と一緒にバスケやってみたいな」

「えぇ? 無理だよ。シュートも入らないし、絶対にトーマスに笑われるもん」

「楽しみにしているよ~ それに、今日は一緒に出勤しようね?」

と言って、コートに戻って行ってしまった。文は動揺していた。バスケなんて、高校の授業以来、やったことがないもの、無理よ! 見ることは好きで、ず~っと見てきたけど・・・と、遠い昔を思い出していた。

トーマス達のミニゲームが始まった。試合が始まると、文は釘付けになった。先程、みんなでやっていたドリブルの練習が生かされているみたいだった。トーマスは、やっぱり一番かっこよかった。

 ミニゲームが終ると、トーマスとジャンが「おいで」と手招きしている。文は渋々下りて行った。

「トーマス、私できないもん。無理よ」

「文が僕達にパスを出して、それをシュートするんだ。それなら出来るだろ? いつも見ている文ならきっと出来ると思うよ。やってごらん?」

そう言われると、ムズムズしてきた。トーマスにパスが出来るなんて!

ジャンがワンバウンドさせて、「文!」とパスさせてきた。それを文が受け取り、走り出したトーマスにパスした。いつも、トーマスがシュート体制に入る辺りを目掛けて。すると、トーマスは、それをノールックで受け取り、そのままシュートした。ジャンが口笛を鳴らした。

「絶妙のコンビだ!」

トーマスはシュートを決めると、文の所に駆け寄り

「さすがだ、文。ナイスパス!」

「うそみたい。トーマスが凄すぎるのよ!」

ジャンもトーマスと文にハイタッチを求めてきた。

「次は文がドリブルシュートしてごらん?」

「えぇ?!」

トーマスが文へワンバウンドパスを出した。それを文が受けて、ドリブルをしてシュートをした。外れた!と思った瞬間、トーマスがそのこぼれたボールをフワッとシュートさせた。文は、トーマスのプレイを目の前で見て感じて、失神を起こしそうだった。

「トーマス、かっこよすぎる・・・」

「文の目がハートの形になっているぞ!」

ジャンが茶化した。文の心臓は、既にただ事ではない状態になっていた。

(このままいたら、止まっちゃうかも?)

トーマスが、文に駆け寄って、文の頭を自分の胸の中に埋めた。

「バスケ、楽しいだろ? これからもずっと続けるから、お願いだから見られなくなる、なんて言わないで!文と僕のコンビネーションも最高なんだからさ」

文は、初めての体験でドキドキしていた。トーマスの気持ちが嬉しかった。

トーマスが着替えている間も、文はドリブルの練習をして待っていた。ジャンがコツを指導した。文の運動音痴を笑う事もなく、一生懸命に教えた。文は、少しずつコツが掴めることが楽しかったので、必死に吸収した。少しだけ体育館から聞こえるドリブルの音に近付けて嬉しかった。

「ジャン、こんな私につき合ってくれてありがとう。ほんの少しだけ、バスケのドリブルみたいな音になったでしょ? また教えてね」

「文は筋がいいかもよ。また、いつでも遊びにおいで。今日は僕も楽しかった。ありがとう」

「ジャン、またな」


二人は、文が握ってきたおにぎりを急いで食べて、体育館を後にした。トーマスと久し振りに並んでバスに乗り、ゆかりへと向かえることが嬉しすぎて、くすぐったい気分だった。バスの中でもバスケの話題で大いに盛り上がった。


 文は、その日の夜、ジュエリー工房の事を思い出して、トーマスに聞いた。

「ねぇ、トーマス。今月のどこかで、アントワープに行きたいんだけど、一緒に行ってくれる?」

「もちろん、いいよ。何しに行くの?」

「金のチェーンをトーマスとお揃いで買いたいの」

「いいけど、何するの?」

「今は言えない。来月の帰国までには話すから、今は言えないの」

「分かった。その代わり、アントワープに行くのなら、大聖堂にも行きたいんだ。あそこにはルーベンスの絵が飾られているんだよ」

「そっか。トーマスは絵が好きだったわね? ルーベンスの絵は、フランダースの犬の物語で有名だものね?」

「何か有名なお話があるんだね?」

「トーマスは知らないの?」

文は、日本で誰もが知る「フランダースの犬」の物語をかいつまんで話した。驚いた事にトーマスは知らなかった。しかし、文が、ネロが最後に見たかった絵がルーベンスの絵で、それが大聖堂にあることを言うと、トーマスもその絵が見たいのだ、と言った。トーマスは、文と計画を立てると、すぐに実行に移すことが多い。それは、文が実行に移すまで妄想に妄想を重ねて、トーマスに語り続けるからだ。今回も子供のころから知っている物語の舞台ともなれば、文の妄想熱は留まる事を知らないはずだ、と計算した。

「文、早速、今度の日曜日に行こうね!」


日曜日。日本だったら、梅雨真っただ中だろうけど、ベルギーに梅雨が無い事は、文にとって最高にうれしいことだ。いつか、ノエルに聞いた事があった。

「日本は梅雨っていうシーズンがあるけど、ベルギーはないよね?その代わり、シトシトよく雨が降るけど、なんでみんなは傘をささないの?」

「だって、雨は傘を差した人の上にだけ降るものよ」

あんなの雨じゃない、って事なんだろうけど、とっても素敵な言葉だった。日本の梅雨もそんな風に思える時が来るだろうか?


   *****


 セントラルの駅からアントワープを目指して出発した。四十分ほどの旅である。デュルビュイ、ナミュール、ハルの森、ブルージュ、テルビューレン、そして、このアントワープ。二人の思い出を重ねることは、互いにとって、とても大きな思い出という名の財産になるのだった。簡単に言葉では言い尽くせない、かと言って、写真に切り取るように残せるものでもない二人の記憶と胸の中の想いだった。


 アントワープの駅は、ブルージュやナミュールの駅よりも、ずっと荘厳な駅で文は驚いた。美術館のような駅をいつまでも眺めていたい気持ちだった。一歩外に出ると、急にすぐそこにネロとパトラッシュがいるような気持ちにさせられた。アニメで見た世界がそのままソコに広がっていたからだ。

でも、アントワープは、近年お洒落な街としても有名になっているためか、どこか洗練された都会的な印象の街だった。

 まずは、金のチェーンを購入するために駅から南へ向かった。ジュエリー工房のクレイマーから紹介されていた店に向かうためだ。クレイマーは、店と言うよりも、日本の銀行に似ているかも?と前情報を文に伝えていたので、迷わずに行くことが出来た。それは、店だと思って向かっていたら、決して発見できなかったからである。気のせいかユダヤ人のような人間を多く見かけるようになった。ひげをたっぷり蓄え、髪の毛も長い男性で、黒の帽子をかぶっている。何となくパイプ煙草が似合いそうないで立ちの男性を、この界隈で度々見かけることが出来た。

 店は、銀行よりもセキュリティがしっかりしていて、入口で警備員にチェックを受ける。中に入るのも限られた人数しか入れない上に、鉄格子の扉から入って、やっと店員のもとに近付いた、と思ったら、銀行のように店員とやりとりするのは、透明で頑丈なパーテーション越しになる。悪い事もしていないのに、妙に緊張する文を見て、トーマスは笑った。

「文・・・今から銀行強盗でもするような緊張ぶりだね?」


文の番になり、トーマスと並んで窓口に立った。

「何をお求めですか?」

「金のチェーンが欲しくて、二十センチのものと二十五センチのものを見せていただけますか?」


店員は、引き出しから金のチェーンをいくつか取り出した。デザインがいくつかあって、どのデザインが良いのかを聞いてきた。トーマスと二人で一致したデザインのものにした。ほんの少し、スクリューになったデザインだった。次に店員は、文が言った長さのものを取り出した。

「二十センチのものは、そのままでいいから、二十五センチのものを彼に当ててもいい?」

「どうぞ」

と言って、下の小さな窓からチェーンを渡してきた。文は、トーマスの胸に当ててみた。

「ごめんなさい。彼のものは、もう少し太いものがあるかしら?長さはそのままでいいから」

「そうね。男性だったら、太い物の方がお似合いよね?」

店員は、同じデザインで少し太いものを取り出して、窓から渡した。文はもう一度、トーマスに当ててみた。

文が、ニコッと笑って、トーマスを見た。その眼差しは、愛されている事を充分理解出来たので、トーマスは文の甘ったるい視線から恥ずかしさで目をそらした。文は、窓からそのチェーンを店員に戻し、「決まりね」と言った。店員は、二つのチェーンを精密そうな秤に乗せて、重さをはかっている。よく見ると、入口にも窓口にも「今日の金の相場」といって、値段が出ている。その重さで掛け合わせるのだ。

普通の宝石店と違って、毎日、ここにある宝飾は値段が違うんだ、と考えたら、面白くなってしまった。

満足な買い物が出来た事と、初体験の金の購入に文は少し誇らしかった。


「あんな風にお買い物するなんて、初めてで驚いちゃった!」

「僕も初めての体験で、文は凄いなぁ~って見ているだけだったよ。まるで金の売人みたいだったよ」

 二人で笑いながら、次に目指す大聖堂へと向かった。トーマスが楽しそうにしている事が手に取るように分かって、文も嬉しく、絵が得意なトーマスらしいな、と思った。

大聖堂に向かう途中の道は、お洒落な店が沢山並んでいた。ファッションの先端なのだろうか? 日本でいう渋谷、原宿という感じがした。二人で洋服の話をしていて文は気付いた。

「そういえば、トーマスとこうしてショッピングに来ることって初めてじゃない? 私達って本当に世界一、恋人っぽくない恋人同士だよね?」

「ほんとだね? そういえば、そうかも? アンティークマーケットやスーパーマーケットは沢山行っているのにさ。変だよね?僕は嫌じゃないけど、文は嫌だった?」

「ぜ~んぜん問題なし!」


 トーマスは、文との価値観が似ている事を心底よかったと感じた。少しでもずれていたら、互いのどちらかが合わせなくてはいけないし、合わせることが無理でなければ問題ないが、無理だと思う恋人たちもいるのだろう、と想像すると、文は自分にとって最高のパートナーだな、と感じた。自分が好きなバスケや絵画のことも喜んで来てくれる。むしろ、今日の大聖堂は、トーマスの方が来たかった場所なのに、文の方が来たかったみたいになっている。文のそういうさり気ない気遣いが大好きだった。


 メール通りを抜けると広場に出てきた。その向こうに大聖堂は、塔のてっぺんをチラつかせて、二人を手招きしていた。トーマスは、聖堂に入る前に、どうしても文に伝えたい事があった。

「文、文はさ、僕にとって、とても大切な人で、いなくちゃ困る人なんだ。だから、今日は、お願いだから懺悔台に行かないで。僕も懺悔しなくちゃならなくなるから」

「うん、もう行かない。でも、祈る事はいいでしょ? トーマスと永遠に二人でいられる事を祈る事はいい?」

「それは、遠慮しないで、沢山祈って!」


 ノートルダム大聖堂の扉を開けて、二人は息をのんだ。外からは想像もつかない世界がそこにはあった。ネロが見たかった絵が遠くに見える。文はキョロキョロした。どこを見ても、何を見ても、見逃したくない衝動に駆られるのだ。ルーベンスの絵は圧倒的な存在感だったが、この建物も負けないほど、文の心を奪った。

文は、入って右側にコマ送りの絵のように飾られている絵に見入った。ガイドブックなどには、ルーベンスのキリスト降架とキリスト昇架、聖母被昇天の絵画に注目が集まる。ネロが最後に見たかった絵と、毎日見ていた絵だから、日本のガイドブックで着目されるのは仕方ないけど、文は何故か目立たないけど、ずっと連なるこの絵画に見入った。歴史絵巻のように見える。トーマスもこの絵を見ていた。大聖堂の絵を前にすると、安っぽい言葉を言うのも嫌になるくらい文から「言葉」を奪った。

 それでも、ルーベンスの絵画も圧巻そのものだった。昔は厚いカーテンに隠されて、見られる絵画は、聖母被昇天のみだったらしい。ネロが死ぬほど見たかった絵画は、やっぱり凄いと思った。宗教の枠を超えて、一つの芸術作品として心を奪われる。いつか、この絵画についてトーマスから話を聞きたいと思った。今ではなく、いつか・・・。

大聖堂は、教会のように見えなくて、高級な美術館のようだった。聖母被昇天の場所に来て、文は、天井を見上げた時に、何となく天に召されたくなる気持ちになった。言葉にしたら、トーマスに叱られると思って、黙っていた。目を閉じて、ネロとパトラッシュが天使たちに連れられて、天国へ召されていくシーンを思い出していた。

(私は、トーマスと共にこれからずっと生きていきます。これから幸せも荒波も二人で乗り越えていきたいから、もうしばらく私を連れて行くのはやめてくださいね。勿論、トーマスの事も連れて行かないで下さい。お願いします)

と、心の中で祈った。フワッと温かくなる気がした。隣のトーマスを見ると、トーマスも文を見つめていた。

「文、つき合ってくれてありがとう。凄く嬉しくて幸せな気分だよ」


 教会を出て、二人でマルクト広場のレストランで食事をした。この神聖な場所から離れるのが勿体ない気持ちがしたからだ。文は、教会を出ると、トーマスの腕に抱きついた。教会の中では、その行為は憚れたけど、文の気持ちは、トーマスをギュッと抱きしめたい気持ちだったからだ。キリスト教の事は何一つ理解出来ないけれど、文の気持ちは、トーマスにあるからだ。トーマスは、文の溢れる想いを抑えられていない、その行動を十分理解していた。

レストランを出て、駅に向かいながらも、二人は何度も大聖堂が見えなくなるまで振り返りながら歩いた。そして、最後に見える場所で立ち止まった時にトーマスがそっと呟いた。

「文、きっとまた来ようね?」

「うん」

二人のまた新たな思い出が出来て、新たな約束が増えた。



 再び、二人の日常が始まった。

月曜日のポーセリンアートに文は向かった。今日は、ちょっと怖いような楽しみのようなお稽古の日だった。

サラのマンションに来て、呼び鈴を鳴らす。

「文、早く上がって来なさい」

心なしか、サラの声が嬉しそうである。文は、アントワープで買ったチョコレートをお土産に渡した。サラはとても喜んだ。そして、キャビネットから大切そうに白のお皿を出した。

「出来たわよ。とってもよく出来ているわ」

トーマスがデザインして、文が根気強く描き続けたトーマスの皿である。文は、両手で大切そうに受け取り、じっと眺めた。初めてトーマスが、この図案を描いた夜を思い出していた。

バスケットゴールを描いたので、網を描くために、初めに全体に色を塗って、網のところは、色を剥ぎ取ってみたのだ。描いている時と焼きあがったものとでは、全く雰囲気が変わる。我ながらなんとかなった作品だった。サラから色々な技法を教えてもらいながら進めたので、文の中では脳みそがパンクしそうな毎回のレッスンだった。

(やっと出来た。筆遣いといい、色の乗せ方といい、本当に難しかったけど、やっと出来た!)


 その日は、残りの箸置きの絵を描いて、次のレッスンで最後になる事をサラに告げた。サラは、とても寂しそうな顔をしたので、文も泣きそうになってしまった。

「私が再び、ベルギーに帰ってこられたら、必ずサラに会いに来るから!」

サラは文を抱きしめた。おばあちゃんのたっぷりの愛情を注がれたようで文は嬉しかった。


 その日の夜、文は、トーマスが座る机に出来たばかりの皿をそっと置いた。トーマスは、アパートへ帰ってくると、すぐにその皿を発見した。

「僕の絵が、文によって色づいたんだね? ありがとう、文。このお皿は、僕が持っていてもいいかい? この中には、僕たち二人がいるよね?」

「トーマスが持っていてくれたら嬉しいわ。そうなの・・・二人がいるんだよね?」


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