第7話 羽を休める場所 ~グラン・プラス~

 次の日もトーマスは早くに出かけた。少しずつトーマスの家のものを運び出すためだ。昨日よりも今朝の文が更に元気になっているようだったので安心した。昨夜も注意深く文の歩行状態を観察していたが、ふらつきも感じられなかったので、あとは体力の回復を見守る事にした。今朝、アザを確認したが、さらに消えてきていた。新しいアザが無いという事はふらつきも無い、ということに他ならなかった。


 トーマスは豪へ電話をした。豪はトーマスからの電話を待っていたのか、すぐに出た。そして、トーマスから細かく文の状況を聞くことが出来ると、ホッとしている様子が受話器の向こうから伝わってきた。土曜日に文を仕事復帰させたいとトーマスが考えている事を告げると、とても喜んだ。

「また、バックヤードからだぞ!と文に言っておいてくれよ」

「はい、僕も一緒にやらせていただきます。心配だから様子を見ていたいから」

「そうだな。その方が俺も安心だぁ。トーマス、色々すまなかった。ありがとう。本当にトーマスには感謝するよ。文に代わって俺からも礼を言わせてもらうよ」

豪の優しさにトーマスは涙しそうになった。

(僕はみんなから支えられているんだ・・・本当に幸せな事だよ)


 講義を終えると真っすぐに文の元へと駆け付けた。文は、一日中家の掃除をして過ごしたという。台所からは美味しそうな香りもしてきていた。

「買物に行けそうかい?」

「うん、準備運動は万全だから!」


 文は久し振りに外に出てみて、寒かったことを思い出した。家の中は常に暖かいので、すっかり忘れていたのだ。トーマスにしがみついて、文は暖をとった。

「僕はストーブじゃないぞ~」

久し振りの外気を無邪気に喜ぶ文を見下ろして嬉しそうに言いながら、トーマスは文の歩行スピードに合わせた。


「白樺は、こんなに寒くても背中を丸めることなく、真っすぐに天に向かって伸びようとしていて凄いよね?」

「文は面白い事を言うね。確かにそうだね・・そう言われて見ると、カッコイイ木だよね」

「うん、だから私は白樺が見えるこの道が好きなの」

トーマスは白樺に自分を重ねている文を理解出来た気がした。白樺のように誰にも寄りかからず、真っすぐに天に向かうように、自分の力で、足で、踏ん張る事を理想にしている気がした。

「でもさ、文は白樺にならなくていいんじゃない? そうだなぁ・・・僕に絡みつくアイビーなんてのはどうだい?」

文は、トーマスの言葉で自分の意識を悟った。文はトーマスがいつも、文が抱える心を軽くしていく事が嬉しかった。そして、ケラケラと笑った。

「それ、凄くいい発想ね?私、アイビーも大好きだもん。トーマス、ありがとう♪」


 ケイム広場は、アパートからすぐなので、広場にあるデレーズへと入った。文は買う物を決めていた。キャラメル紅茶とずっと気になっていたナッツタルトがあれば、即買いしようと決めていたのだ。あとは、ベルギー料理を作ろうと思っていたので、沢山のシコンとブーダンを買い求めた。

「これは、明日の夕飯の食材ね」

嬉しそうに言いながら、トーマスを見上げた。トーマスはその笑顔に自分の心も元気が出てくる事を感じていた。


 文の歩く姿を見ても、大きくふらつく事も真っすぐに歩けなさそうにも見えなかったことに心底安心した。文が二人分のパンを買わなくちゃ!と嬉しそうにトーマスに語り掛ける姿もただただ嬉しかった。文が自分を見上げるときに、少しはにかみながら、でも幸せそうに見つめられると、全力で守りたくなる。歩きながら二人で話をするときは、お互いに目を見て話をするため、トーマスは文を見下ろすことになる。文の眼差しはいつも自分に全幅の信頼をよせていることを理解している。文の眼は、今までに彼女自身が出来なかった「甘える」感情が、トーマスを見つめる時に混ざっていることも分かっていた。


 夕飯の準備をしている間、トーマスは勉強をすることにした。分からない箇所があったり、アイデアが欲しい時に聞いてくれる文が傍にいることは、勉強を頑張れる原動力でもあった。

 文は、しばらく続いた和食にトーマスを気遣って、今夜はベルギー料理にした。ポテトと温野菜、そしてハムたち。スープはポタージュにした。食後のデザートはナッツタルト。

若松家に招待された時に、このナッツタルトを出されて、あまりの美味しさに感動していたら、

「そこのデレーズに売っているわよ」

若松婦人に教えられたものだ。トーマスと食べたかったナッツタルト。これだけは、食欲が落ちていた文にも(食べたい!)と思えたのだ。


「トーマス・・・提案だけど、これから二人で暮らすでしょ?色々とルールを決めたいんだけど、どうかな?一つずつ、つまずく度にルールを決めて二人にとって暮らしやすくしていきましょ。ね?」

「僕も同じことを考えていたんだ。よかったよ。食べながら、沢山話し合おうね」


 文はアパート代を元々、留学のために使うつもりでいた上に一年分払い込んであるから、文に甘えてほしい、と伝えた。光熱費もアパート代に入っているから好都合だった。トーマスは、「じゃあ、食費は僕が払う」と言ったが、文はそれも自分がほぼ払う、と言った。自分の計画は綿密に進められていて、全て今のところ想定内の出費で済んでいるから、二人分になって、文が計画している分よりも出費が多くなる分をトーマスに助けて欲しい、と言った。トーマスが食べたいものや欲しいものがあったら、それをトーマスのお金で買えばいい、と伝えた。トーマスは自分も、もっと金を出したい、と言って聞かなかったので、日本人の文にとっての命の水、ミネラルウォーターを買う事と運ぶ事はトーマスの役割に決めた。

 文は、帰国後も会いたくなったときの為に貯金をしておきたい、と言って、トーマスのお金を使いたくない目的を明かした。決してトーマスの父親や兄に出させるお金ではなく、二人が貯めたお金で会いたい、と。


「分かった。そしたら、父さんやエリックに送金もストップするように伝えればいいかな?」

「待って。それは、もしかしたら、お二人がトーマスに今やってあげたい最大限の愛情かもしれないから、それは言わない方がいいわ。その代わり、トーマスはそのお金を一切使わない事! いい? トーマスが卒業するときにまとめて感謝の気持ちとして返して差し上げるの。どう? 」

「文って凄いね。父さんたちの性格まで見抜いているみたいだよ。二人とも、きっとそっちの方が断然、喜ぶと思う。でも、アパートを解約したいから、それだけは伝えるよ。アパート代だけは送金してくれなくてもいい、って断るのは問題ないだろ?」

「うん、それなら問題ないよね?でも、私が帰国した後は、トーマス、ここに住み続けるの? 」

「ボスがね、文が居候していた部屋を提供してくれる、って言ってくれているんだ。だから、それに甘えようと思っている。その家賃については、まだボスと話し合っていないんだけどね。無給で住まわせてもらってもいいと考えているんだ。カフェのバイトの稼ぎもあるからさ」

「よかった。じゃあ、私も安心だわ。きっとお父様もお兄様もね?」


 文は、一緒に住むからには金銭の価値観が一番の問題だと思っていた。国籍が違う分、そこは文にとって未知の世界だった。一緒に居るときのトーマスは質素で堅実なお金の使い方をしていると文は感じていた。だからこそ、しっかりルールを決めておきたかった。

 トーマスもいずれ結婚をするにあたって、金銭感覚をお互いでつまびらかにしておきたいと思っていた。後から後悔する事は、お互いにとってよくないからだ。でも、普段の文は経済力もあるし、散財する女性でもなく、工夫したお金の使い方をする女性だと感じていた。何よりもお金をかける楽しさでなく、生活そのものを楽しんでいる文を尊敬していた。日本で経理の仕事をバリバリにしていたことを知っているトーマスは、文の金銭感覚には太鼓判を押していた。そして、何よりもトーマスの父と兄の事に気を配り、トーマスを独り立ちさせようとしている文が頼もしかった。

お互いに「価値観」が近しい事を感じて安心した。


デザートのナッツタルトとキャラメル紅茶を用意した文は、大切な事を言い忘れている自分にハッとした。


「トーマス・・・大切なお話があるの・・・」

神妙な顔をする文にトーマスは不安になった。

「私ね・・・書道の師範の免状をいただけたの」

「え?真剣な話?本当に?いつ?」

「真剣よ。書道も硬筆の方も人に教えられる先生になれたの」

「文!それは、お祝いじゃないか!」

「でしょ?だから、デザートのケーキって、言いたいところだけど、私、タルトを見て、いま思い出したの。ごめんね。もっと早く伝えなくちゃいけなかったのに、すっかり忘れていて・・・免状をいただいた時は、トーマスに会えていなかったし、会って一番に報告したくても、素直にトーマスに言える自信が無くて・・・」


 思い出したら、また苦しくなった。耳が痛みだすのを感じた。文が不意に耳を抑える仕草を見せたので、トーマスは察し、優しく文をソファへエスコートして、肩を抱き寄せながら話した。


「文が子供のころからなりたかった先生だからね? 大切なお祝いだよ。その時に居てあげられなくて、ごめんね。でも、それを僕とでお祝い出来ることが嬉しいよ。文が先生かぁ・・・きっと人気者の先生だよね? だってさ、文ってシッカリしているようで、間抜けなところが沢山あるからさ」

「トーマスったらひどいなぁ。否定はできないけどね・・・」

二人で笑った。文は、この心の病もトーマスとなら乗り越えて治せるな、と思った。トーマスは、文の心の病がまだまだ完治していないことを悟っていた。


「それにさ、僕の手を取って書道の文字を書いてくれたことがあったでしょ? あの時にさ、文の先生になった姿があの場にあったんだと思うよ。僕にしてくれたように、生徒にもしてあげたら、みんな文みたいに上手に書けるはずさ。僕は、あの時に文の魔法にかけられた気持ちがしたよ。生まれて初めて書いた(カンジ)だったからさ」

「そうだったよね~ そっか。トーマスは、あの時に日本語を初めて書いたんだものね?」

「そうだよ・・・よかった。文の目標が達成できてさ。本当におめでとう」


 日常の何気ない出来事をこうしてトーマスに話せること、互いに喜びを分かち合える事、そして今の文のように心折れている時や身体が病める時に支えてくれるトーマスがいる事。全てが当たり前ではなく、「一緒に暮らしたい」と言葉にしなければ、手に入らない喜びであり、幸せなのだと分かった。これから続く幸せも「当たり前」なんかじゃない。お互いが想い、想われているからこそ続くのだ、ということも文は肝に銘じ感謝した。


「実は・・・もう二つ報告があるの」

「え?そんなに? 文はさ、じっとしていない人だから、一か月半会わない間に色々な事があっても不思議ではないけど、あとの二つって?」

「一つは、コミューンのフランス語会話に通い始めること。これは、私の留学の目的だから、やらなくちゃ怒られちゃうもんね? でも、通うのは二か月だけにしたの。もう一つは、ポーセリンアートを始めることにしたのよ」

「なぁに、それ?」

「白い磁器の食器などに絵を描いて、描いた食器を焼くのよ」

と言って、サブロン教会に行った時に狭い路地に入って見つけた、「マ・メゾン」の話をして、ポーセリンアートの先生、サラの話をした。


 そして、書道の仲間であるノエルからの情報で、シャドーボックスに挑戦できることも思い出して、興奮気味に話した。

「近いうちに、トーマスと見た、アントン・ピックの絵を立体的に見せるシャドーボックスも単発で習いに行ってくるわね。あとは・・・陶芸もやってみたいの。せっかくエツコさんの所で、華道を始めたから、自分で花器を作ってみたいな、って思っていたの」

「僕も陶芸はやってみたいな。もし、文が行くときには僕も一緒に連れて行ってよ」

「トーマスも行ってくれるのなら、私も嬉しい!」


(トーマス!やっぱり、世界一大好きだわ!)


文は、トーマスの後ろから抱きついて喜んだ。文の温もりを感じながら、トーマスは考えた。

(文の喜ぶ顔も姿も僕のエネルギーだ。彼女は全身で喜んでくれるから、もっと幸せにしたくなる。小さな幸せをこんなに大切にする女性は文しかいないよ。本当に僕のところからいなくなってしまわなくて良かった)


 デザートを食べ終えると、文は食器を片付けながら、ポツリと言った。

「明日はバスケの日でしょ? 私、見に行きたいな・・・」

「ほんと?見に来てくれるの? ものすっごく嬉しいよ。でも、一人でバスに乗って来られるかい?」

「うん、行けそうな気がするの。十二時に行けばいいでしょ? 私、前から気になっていたサンドイッチ屋さんがあるから、そこでトーマスの分も買って行くよ。リハビリも兼ねて歩きたいの」

「分かった。待っているから、絶対に無理しないでね?」

トーマスは自宅から持ってきたバスケットボールを器用に人差し指の上でクルクルと回しながら、明日のバスケを楽しみにしていた。それだけでなく、トーマスは体力づくりのために文を背中にのせて腕立てをしたり、腹筋をしたり、常に体を作る事を怠らなかった。文はトーマスのその姿を見るたびに叶えられなかった夢が叶えられている喜びを感じていた。


(佐々木君、私・・・貴方に負けない位すごく幸せだよ)


 翌朝、トーマスは文の顔を見ながら心配した。

「本当に大丈夫?無理だったら、寝ていてね」

「大丈夫よ。無理だったら家で待っているから心配しないで。それに、ホラ!」

と言って、玄関先で洋服をたくし上げ、アザを見せた。

「殆ど消えてきているでしょ?新しいアザもない!」

文の行動にトーマスは朝からドキドキさせられた。

「文!風邪ひくからちゃんと服着ていてよ。ビックリするなぁ、もぅ」


 トーマスが出ると、文は片づけと洗濯、掃除をして身支度を整えた。

教会の鐘の音を聞きながら珈琲を飲み、明日からの仕事の感覚を取り戻そうとイメージトレーニングをしてみた。きっと、豪のことだから、バックヤードの仕事しか、させてもらえないはずだから、どう進めるかを考えた。

そして、月曜日からは習い事も再開させたかったので、道具などを点検した。みんなにも心配させてしまったので、お詫びのカードを書いた。あとは、バスケの帰りにトーマスと何をみんなに渡したら良いかを一緒に考えながら買い物をすることにしていた。以前の文ならば、チャッチャッと自分で用意をしてしまうところだが、きっとトーマスは一緒に選ぶことを望むだろうな、と思った。

(こういうことを頼れるように、ちゃんと言えるようにならなくちゃいけない、ってデグリー先生は言っているのかな? そうじゃなくても、トーマスと選んだらきっと、良いことが起きそうな気がするけど・・・)


十一時になったので、出かけることにした。

文が気になっているサンドイッチ屋は、メインは肉屋で、以前ハムを買った時に店の一番奥の冷蔵ケースが明らかにサンドイッチを販売しているようだったので気になっていたのだ。


「クラブサンドイッチ エ ツナサンドイッチ シルブプレ」


文は、何故かツナだけを英語で注文してしまった。

店員は「トンね?」と言った。

文の頭の中で何故かその言葉を、トン=豚 と解釈してしまった。

「ノン!ノン! ツナ シルブプレ」

またしても英語で言ってしまった。

すると、店員は「だから、トン でしょ?」と食い下がる。

(いくらなんでも、これは聞き違いのレベルじゃないのに・・・何故、通じないのかしら?ブタじゃないよ・・・)

店員は、先にクラブサンドイッチを作り、次に文を見ながら

「これでしょ?」と聞きながら、ツナサンドイッチを作り始めた。

(なんだ、通じてるじゃん? ん?あれ? そっか。私、英語で言ってた!)

ハッと気付いた文の顔を見て、店員はケラケラと笑い始めた。文も顔を赤くして、バツが悪くなり「ごめんね・・」と言った。

可愛らしい女性の店員は、「気にしないで。オマケよ」と言って、ツナをたっぷり入れてくれた。


 ベルギーのサンドイッチ屋は、店でパンを焼く。焼き立てのフランスパンの横からナイフを入れて、そこに具材を詰める、そして詰めたら、パンを半分に切って提供してくれる。食べると、焼き立てなので、フランスパンがパリパリと音を立てることが文はたまらなく好きだった。大きさは、日本のコッペパンの太さで長さがコッペパンの二倍ほどだ。二つに切ると、まさにコッペパンの大きさそのものだ。

文は、半分に切られることが分かっていたので、二種類の具材にしたのだ。

(トーマスと半分こにしよ!)

想像しただけで楽しくなる。珈琲も水筒に入れた。おしぼりも入れた。あとは一緒に食べてくれるトーマスだけだ。楽しい事を考えていると、自分が病になっている事も忘れていた。それは、トーマスに会いたい一心から来るものだからだ。


 ちょうど、十二時頃に大学に到着した。トーマスは文が入ってくるであろう門の所で待っていて、文を発見するとすぐに心配そうに走ってきた。

「文! 大丈夫だった? 気分が悪くなることはなかったかい?どこかぶつけていない?」

「トーマス、ありがとう。大丈夫だよ。ここでお腹見せた方がいい?」

と意地悪く言ってみた。

「ダメにきまっているだろ? まったく! まぁ、文が元気になってきたってことだね? よかった。さっ、行こう!」

「サンドイッチ買ってきたから、まだバスケやる前だったら、食べない?」

「実は、ハラペコなんだ。体育館の中にあるベンチで食べよっか?」

トーマスを見上げながら「うん」と満面の笑顔で応えた。トーマスは、文の頭を自分の胸に優しく押し付けながら、文の肩を自分の方へ引き寄せて歩き始めた。


 文は、サンドイッチ屋での言葉のトラブルの話を、身振り手振りを交えながら話してみせた。トーマスは文のジェスチャーで、その時の光景が目に見えるようだったから、腹を抱えて笑った。

「確かに僕たちの会話は、英語とフランス語が混ざってしまっているから、文も気付かなかったんだね?面白過ぎるよ。日本語のトン、は豚なんだね? そりゃ、豚のサンドイッチって想像できないもんね?」

と言いながらもまだ、笑っている。トーマスの弾ける笑い声を久しぶりに聞いた。

「もぅ、恥ずかしくて、ごめんなさい、って謝ったら、このツナ沢山入れてくれたの。ラッキーでしょ?」

「文が必死に ツナ!ツナ!って言うからだよ~」

「今度から気を付けなくちゃ!思い込んでいるから気付かないのよね? 怖いわ~」


 文は、珈琲を入れながら、おしぼりをトーマスに渡した。トーマスは文を横目で見てニコッと笑い、おしぼりで顔を拭き始めた。それを見て、テルビューレンのピクニックを思い出した文が今度は笑った。

サンドイッチを広げてみて、文は自分の食欲がまだ戻っていない事に気付いた。

「トーマス、やっぱり私この半分しか食べられないわ。トーマスが食べられるなら食べてもいいわよ」

「僕も今から動くから、バスケの後で食べるよ。無理して食べなくていいから!」

「ありがとう。それからね、バスケの帰りにお買い物につき合って欲しいの。明日から色々復帰するでしょ? みんなに心配かけてしまったから、お詫びのお菓子とかをプレゼントしたいな、って思ったの。付き合ってくれる?」

「もちろんさ! 一緒に探そうよ」

トーマスの目が嬉しそうにキラキラしている。

(やっぱり言ってよかった)


 文は、人に頼る方法が自分でも、よく分からずにいた。甘える方法もそうだ。

幼いころから買って欲しいものがあっても言えない子供だった。四つ下の妹は、甘え上手でシッカリ者で頭もよかったので、両親が一生懸命に妹に愛情を注いでいた。文は大きくなるにつれて、すっかり甘えることも、頼る事も分からないまま、もしくは忘れてしまったまま成長してしまったのだ。

 トーマスに出会って、甘える喜びを感じていた。「頼る」ことは、もう少し時間をかけないと自分でも分からず、ぎこちなくなってしまいそうだったが、トーマスに甘えること=(イコール)生きやすい、と感じていた。生きていることが楽しいと感じるようになっていた。それは、初めての感覚だった。それでもトーマスからは、もっと甘えてほしい、と度々言われるのであった。


 楽しい昼食を済ませると、ジャンやフィリップ、ピーター達がやってきた。三人はすぐに文の所に来て、

「文、大丈夫かい? 元気そうでよかったよ。心配したぞ」

「文が元気じゃないと、トーマスも元気がないから、早く治すんだよ」

と、声をかけてきた。ジャンだけは

「文、いつでも僕を頼ってきていいからね?」

と言った。文は、ジャンのそういう言葉に徐々に慣れてきていたので

「トーマスに捨てられたら、お願いします。でも・・・私、色々な女の子へ気軽に話をする彼は苦手なの。ず~~~っと病気になっちゃうでしょ?」

と切り返したので、トーマス、フィリップ、ピーターは笑った。ジャンは少し拗ねてみせて言った。

「ヒドイよ、文~」

「ごめんね。でも、今回、ジャンに力をいただいて、本当に感謝しているの。ありがとう。嬉しかったわ」

文は、ジャンに向かって両手を合わせた。ジャンは、その文を見て、咄嗟に文をジャンの胸の中に抱き寄せた。

文もトーマスも驚いたが、本当に一瞬だったので、ジャンなりの照れ隠しだと思った。ジャンの小さな震えを文だけは感じていたからだ。


「焦ったよ。ジャンに文がさらわれるのかと思った」

「私もびっくりしちゃった。ねぇ、トーマス、 私、あそこでバスケを見るね」

ジャンの話題を断ち切るように、体育館の上を指さした。そこは、バスケを観る文の大好きな全体が見渡せる場所だった。

「OK!さすがだね。文はよく知っている。寒くないようにするんだよ」

「うん、わかった。頑張ってね、トーマス」

文は不意に、自分よりも高い位置にあるトーマスの頬を文の両手で挟んで、自分の方へ引き寄せてキスをした。

文からの初めてのアプローチにトーマスのスイッチが入った。

(文は、僕の不安を分かってくれている。文は誰にも渡さないし、僕以外のどこにも行かせない)


 文は二階のコートが見渡せるところにパイプ椅子を持っていき、マフラーや手袋、ひざ掛けも持ってきていたので、暖かくしてコートを見守った。

普段のトーマスは洋服を着ている事もあって、分かりづらいが、かなり筋肉質だ。足は細く見えるが、マッサージをしたときに分かったのだが、実はがっちりしている。上半身の肉の付き方に無駄がなくて、下半身が安定している。バスケをやるための身体だ、と文は思った。

 シュートフォームを確かめながらのシュート練習は、いつまでも見ていられる光景だった。

 文は、ゴールを目掛けジャンプをして、トーマスの腕とゴールの位置が一直線になり、空中でトーマスの身体が止まる瞬間が好きだった。以前の彼の時もそうだったが、今となっては、全くその姿を思い出せなくなっている。それほどトーマスのバスケをやっている姿は、文にとって憧れであり、強烈な印象だった。気付けば、ずっと手を合わせて、祈りのポーズで見守っている。


 一方のトーマスは文の不意なキスで、全身にスイッチが入り、今日の自分は何でも出来そうな力がみなぎっていた。シュートも気持ちがいいくらいに決まっていく。放物線が上手く描けている。スリーポイントも怖いくらいに決まる。身体もメチャクチャ軽い。

(文を乗っけてトレーニングしていたからなぁ)

みんなの動きが少し止まって見えるくらいよく見える。今日の自分を文に見てもらえることは嬉しかった。


 ジャンが笛を吹いて、ウォーミングアップに入った。どの選手もみんなよく動いている。みんながかっこよく見える。文は、夢中になってトーマスを見ていたので気付かなかったが、今日もベンチには女性陣が来ていた。見覚えのある女性がフィリップの彼女なんだ、という事はすぐに分かった。今日は、見ていても不安ではなかった。

 この四日間、トーマスから沢山の愛情を受けていたからである。それに目の前のトーマスは、バスケに夢中で女性の姿も見えていないようだった。トーマスの動きに文と同じように拍手を送っていても、文をチラッと見ることはあっても、全く他の女性が見えていないようだった。

 実際、トーマスには他の女性が見えていなかったのである。大好きなバスケを大好きな文が見守っている中で出来る喜びを全身で感じていたからである。誰もトーマスを止められなかった。

 ミニゲームが始まっても、トーマスの動きが鈍ることはなかった。ジャン達は、トーマスの未知数なバスケの力を見せつけられている気がした。


前半が終り、みんながトーマスに集まった。

「なんで、今まで今日みたいな動きを見せてくれなかったんだよ?」

「え?ど~いうこと?」

「とぼけるなよ。今日の動きはいつもと違うぞ。誰もトーマスを捉えられないじゃないか!」

「自分ではいつもと同じな気がしていたんだけど・・・文のおかげかな? 動ける魔法をかけてくれたからさ」

トーマスは、自分が感じていた見えない力をみんなも感じていて驚いた。

(文のスイッチは凄いや!)


 トーマスは、ボールと仲間の動きを瞬時に見極めていた。(とれる!)と思えば、スティールをかけていく。流れが一気に変わる。トーマスとジャンのコンビが最強のコンビであることは文にも分かった。他の選手もとても「お遊び」とは思えない動きだった。みんなソコソコどころか、高校時代に相当な実績を上げている経験者であることは一目瞭然だった。文は、折角下がった熱がまた上がって、のぼせそうだった。努めて水分を摂らなければ、見入ってしまいそうだった。

後半が終り、トーマスが外れて、文の元へ来た。

「お疲れ様。トーマス、凄くかっこよかったぁ。この前見た時よりも動きが、ずっと良かったように見えたよ」

「そりゃそうさ。文にも分かる?みんなにもさっき言われたんだ。文のおまじないのおかげさ」

「え?おまじない?」

「さっきキスしてくれただろ? だから、スイッチ入っちゃった!」

文は、恥ずかしい・・と言って、顔を隠しながら、トーマスにタオルとひざ掛けを差し出した。バスタオルだったので身体を冷やさずに済んだ。トーマスは、文の何気ない心配りが嬉しかった。文がトーマスにピッタリ近づいてくる。トーマスはそれを受けて、文の肩を抱き寄せた。

 下で繰り広げられるゲームを二人で楽しく見ていた。トーマスの解説は楽しかった。みんなの癖を知っているから、真似をするのだ。こうして話していても、トーマスは下にいる女性陣の事に触れようともしない。文は安心してトーマスの話を聞いていた。

 ジャンがシュートを決めると、文に向かってガッツポーズをしてみせたりした。文はそのたびに困った顔をしてトーマスを見てから、拍手して返した。トーマスは(ジャンは困った奴だ!)と呆れるばかりだった。


 文は、久しぶりに心の底から楽しくバスケを観ることが出来て嬉しかった。

「やっぱり、バスケって楽しいよね。特にトーマスのバスケは私にとってヤバイ! トーマスっていう名前の壺があったとしたら、私はきっと、そこから抜け出せなくなる感じよ。壺の中でずっとトーマスに見惚れちゃう」

「いいねぇ~ 文に毎回見に来てもらえば、文は僕の壺から出られなくなるってことだよね?」

「もう、充分出られなくなっているよ!」


次のゲームが始まり、トーマスはまたコートへ降りて行った。代わりにジャンが文の元へ来た。

「文、元気になってよかったね」

「まだ、バッチリ!って、感じではないけど、トーマスが傍にいてくれたから、治るのも早かったの。心配かけてごめんね。それに、ジャンがトーマスに色々とお話してくれたみたいで、私は随分救われたわ」

「久しぶりに文を今日見ただろ? 凄く綺麗になった気がしたから、トーマスのせいだな、ってすぐに分かったよ。悔しいけど、僕はトーマスに負けたよ」

「ジャン、本当にありがとう。でも、ジャンにはもっと素敵な女性が集まってくるわよ。トーマスと私はね、凄く似ているんだと思うの。お互いがいなくちゃ死んでしまうくらい似ているの。だから、どんな事があってもトーマスと共に私の心はあるの。絶対に離れないわ。離れたくないの」

「だろうね。トーマスからも、それを心底感じたよ。でも、文は日本に帰っちゃうだろ? そしたら、僕はもぅ文には会えなくなるの?」

「どうして? ジャンはトーマスのお友達でしょ? お願いだからずっと、トーマスの友達でいてあげてね。そしたら、私とも友達でいてくれるわよね?」

「そうだね。ずっとトーマスと文とは友達だよね?」

「うん。トーマスの事、私が帰国した後もお願いね? それにね、バスケだけど、私はトーマスとジャンのコンビネーションが一番大好きだし、最強だと思っているの。コレ間違いないでしょ?バスケは一人じゃ出来ないわ。ジャンがいてこそ、よ」

ジャンは、文の頭をポンポンと優しく叩き、「最強さ!」と言って微笑み、再び下に降りて行った。


 トーマスは、ウォーミングアップをしながら、ジャンと文の事が気になってしかたなかった。二人で楽しそうに話す姿は、さっきまでの調子の良さも失せるくらいだった。そのトーマスの顔を見てジャンは、吐き捨てるように言った。

「文の寂しかった気持ちがほんの少しでも理解出来ただろ? 良い気持ちはしないものだ。分かったか? 文を二度と泣かせるな。いいな? 今度こそ遠慮なく、僕が文をさらうからな?

 でもな、今、文に告白したら、思いっきりふられたよ。文が前よりも凄く綺麗になっているから、最後のチャンスだと思ったけど、撃沈した。逆に、ずっとトーマスの友達でいてあげてほしい、ってお願いされたよ。なんて素敵な女性なんだろうな? 自分の事よりも、お前のことを一番に考えているんだから、羨ましいよ。僕が、トーマスよりも先に出会えていればよかった・・・」

「そっか・・・文がそんな事言っていたんだ・・・」


 練習を終えたトーマスと文は、バスに乗り、ケイム広場まで戻ってきて、ショッピングセンターの中にあるパン屋とショコラ屋を覗いた。みんなへの贈り物を決めるためだ。


「やっぱり、この季節はチョコだよ。あの缶って文っぽい感じがするけど、好きじゃない?」

トーマスに言われた缶は、家の形をした小さな缶で、その家は、お花屋さんだった。

「凄い!トーマス。私の好みを熟知しているのね?」

「当たり前だろ? 文って女の子っぽい物好きだろ?」

「うん、大好き。アレにしようかな?」

トーマスは、そのストレートに気持ちを表現する文の顔を見たら、照れ臭かった。

買物を終えて、アパートへ戻った。


 トーマスはすぐにシャワーを浴びた。その間に文は、夕飯を作り始めた。今夜はシコンと白と黒のブーダンの煮込みものだ。そこへ玉ねぎ、マッシュルームやポテトも入れて、ポトフ風に仕上げてみた。ブーダンからうまみがたっぷり出て、シコンがその旨味を吸い込んでくれるベルギー料理だ。あとは、白飯と昼に文が食べきれなかったサンドイッチを小さく切った。


 文がシャワーを浴びている間、トーマスが大学の勉強を始めた。レポートの準備も進めたかったからである。文は、シャワーを浴びた後、みんなへのプレゼントの準備をした。今日購入したチョコ入り缶を透明の袋にメッセージカードと一緒に入れてリボンで結んだ。

 横で勉強をしながらトーマスは文のラッピングを見ていた。文は、一人一人の顔を思い浮かべながら、とても楽しそうに準備をしていた。文の優しさがいっぱいに詰まったプレゼントだった。一人一人にメッセージカードまでつけている。その心配りがトーマスは凄いと思って見ていた。

「みんな、きっと文の回復を祝福してくれるね?」

「迷惑沢山かけてしまったから、せめてものプレゼント。許してもらえると良いな」

「許すも何も、みんなは回復する事の方が嬉しいと思うよ。文のその笑顔をみんなが待っているはずさ」

「嬉しい。ありがとう、トーマス。これは、トーマスのカフェのボスに渡してね。トーマスを休ませてしまっていたから。来週からはもう大丈夫だから、カフェのアルバイトもスタートさせてね?」


 ベルギー料理を食べながら、誰に配るのかを話したり、今日のバスケの話をしたり、サンドイッチの美味しさを話したりしながら、ゆっくりと夕飯を楽しんだ。トーマスは、文が自身の仕事先や稽古事の人達だけでなく、トーマスの関係者である、カフェの店長やジャン、フィリップなどへもプレゼントを用意してくれていた事に心底感動していた。


「そうだ! 今日、ジャンと何を話していたの?」

「内緒」

「ダメだよ。僕たちの間に秘密はナシだからね。教えてよ」

「トーマスだって女性と沢山、楽しそうにお話していたじゃない? 私はあの時、内容を確かめることも出来なかったもん。そのお返しよ!」

「ひどいよ。あの人達は僕の事を何とも思っていないけど、ジャンは文の事を大好きなんだから、気になるよ。ジャンはカッコイイ奴だから、心配なんだよ」


文は、トーマスの不安に思う気持ちは充分理解出来た。それを考えると、自分の胸もちくっと痛んだので、フッとため息をついた。

「トーマスはジャンの事、カッコイイって言うけど、私はカッコイイって思った事一度もないの。だって、私の好みはトーマスなんだもの。ベルギーに来て、一目ぼれしたのもトーマス。好きになったのもトーマスだけなんだもの。ジャンの事もカッコイイって言わなくちゃいけないの? 思ってもいない事言えないよ。それに、ジャンは、私の調子がよくなっているのは、トーマスのおかげだ、ってすぐに分かったから、トーマスには負けた、って言っていたのよ」

「え?文に告白してきたんじゃないの?」

「そんなこと言ってきてないよ。負けた、って言っていたくらい。これからもトーマスや私とは友達だよってお願いしたら、承知してくれたよ。それにね、トーマスとジャンのコンビネーションが最強だね、って言ったら、凄く喜んでいたよ」

「そうだったんだ・・・ありがとう、文。僕の事やジャンの事も考えてくれて。ジャンが僕よりも先に文に出会っていればヨカッタ、って言っていたから、きっと文に何か無理難題を言ったんじゃないかと思ったんだ・・」

「もし、そうだとしても私は、トーマスが現れるまで誰も好きにならないし、トーマスに出会えたら、トーマスを好きになるし、トーマスが私を助けてくれる運命だったはずよ。これは、どんなことがあっても変わらない」

「そうだね。よかった。安心したよ。ジャンのやつ、文に告白したら、ふられた!って、言うから本気にしちゃったよ。 でもさ、ジャンは文が辛かった気持ちを僕にも分からせるためにやったんだよ。ありがたかった。ジャンと文が仲良く話をしている姿は、文が絶対にとられない、って分かっていても、イイ気持ちはしなかった。ジャンは僕にそれを教えたかったんだよ。文の気持ちが少しは理解出来ただろ?って、開口一番に言ってきたから」

「そうだったの・・・トーマスにとって、大切な友達ね」


 思いがけず、ジャンの優しさに触れ、文は嬉しかった。ちゃんと見て知っていてくれる人がいることは心強い。何時の日か、ジャンに素敵な女性が現れたら、トーマスと共に全力で応援して恩返しをしようと思った。

 トーマスは、心に引っかかっていた不安が取れて、文を真っすぐにみつめた。

こうして、長い文の療養期間の一週間が終ろうとしていた。明日の仕事帰りには、二人でトーマスのアパートに泊まり、翌日、二人で持てるだけの荷物を持って、文のアパートへ戻ってこよう、と計画した。


 翌日、トーマスと文はゆかりへ向かった。一週間ぶりのゆかりに文はワクワクしていた。

「おはようございます!」

勢いよく入店した文に、豪が奥からすっ飛んできて

抱きしめた。

「文、お前の身体の変化に気付いてやれずにごめんな。本当にごめんな」

「やだぁ、店長。私のせいなんです。だから、気にしないで下さいね。こんなに元気になったから。デグリー先生は、やっぱり金看板ですね?」

「だろ?言っておくよ。文が元気になったこともな。今日は分かっているだろうけど、一日バックヤードの仕事をする事。自分のペースでやればいいからな? 絶対に無理はするなよ?」

「はい、大丈夫です。今日はトーマスもいてくれるから」

と言って、トーマスを見つめた。トーマスが笑って(ここにいるよ)と言っているように感じた。


 バックヤードを見て、文は唖然とした。あれだけ綺麗にしていたのに荒れ放題になっていたからだ。

「悪いな、文。片づけ甲斐があるだろ? 結構忙しくさせてもらっていたからな。トーマスから文が今日から復帰する事聞いていたから、片づけるのを諦めた! 文に怒られる方を選択したよ」

と言いながら、嬉しそうな豪の横顔を見て、文は必要とされている喜びを感じて幸せだった。


 人は誰かから必要とされたり、誰かの役に立っている事に喜びを感じる生き物だと思う。それが、職場の同僚だったり、友人であったり、家族でもそうだ。文は、ベルギーに来てからそれを強く感じるようになった。職場では豪が文の力を必要としている。花屋のエツコも頼りにしてくれている事は、鈍感な文にでも伝わっている。マロニエ祭では、八重や貴子が必要としてくれていた。そして、誰よりもトーマスが文を必要としている。文もそうであるように。


「もぅ!店長もパトリックもオリビエもいながら、どうしてこんな状態になっちゃうのよ!」

嬉しそうに怒りながらも、ドンドン文は片づけていく。トーマスと文は阿吽の呼吸で理解しあえているから、片づけるのも早い。片づけながらも、文はモニターを注意深く見ている。そして、モニターを指さしながら、的確にトーマスに指示を出す。

「トーマス、ここの荷物をこっちに持ってきてくれる? あれではお客様の邪魔になるから」

「トーマス、多分、レジが混み始めるから、袋に入れる作業を手伝ってあげて。マロニエ祭の要領で詰めていってくれたら、トーマスのやり方は完璧よ。お願い」

「トーマス、この品物の補充をこの棚にお願い。この商品は回転が速いから」

モニターに映る棚を指さして指示を出す。

トーマスが表に出ている間も、文は何をどれだけ注文すればよいかの棚卸を進めて、それらをどんどんメモしていく。

昼すぎになると、バックヤードはすっかり元に戻り、気が付けば、文の指示で動いていたトーマスが表の品出しもほぼ終わらせて、店頭までもすっかり整理整頓されていた。

溜まっていた帳簿の作業を午後に進めて、その間にストック商品の棚にメモで残したものをトーマスに説明しながら次の指示を出した。


「このメモは在庫がこのメモの個数になったら発注をする、っていう意味なの。発注先ごとに色を変えてこのメモを見やすく貼って行ってほしいの。その間に私は、パソコン業務を進めているから、トーマスお願いね」

トーマスは文の底力を感じていた。とても病み上がりの動きとは思えない。文の頭の中には「完成形の店」があるから、指示も的確なのだ、と思った。文の指示通りに動くと自分のことを(仕事が出来る人間だ)と錯覚しそうになる。そのくらい、文の指示のタイミング、内容は完璧だった。何故、そうするのかもさり気なく指示の中に盛り込んでいるので、トーマスにも文の要求が見えるのだった。あの二人のベルギー人がここまで成長できたのも頷ける、とトーマスは思った。

 文は、客が引くと店頭に出て、店内を天井から床までグルグル見回した。何かを考えながら頭の中でまとめているようだ。文が店の全体を動かし始めていたので、豪は朝から厨房に入りっぱなしで作業を進めていた。二時になると文も厨房へ合流して、次週からの仕込みをし始めた。

「店長、この仕込みもルーティン化させて、マニュアルみたいに落とし込むと良いかもしれませんね?そうしたら、サスキアスさんも作業を進めやすくなると思います」

「そうだな。何となく出すものは決まっているんだから、そうしていってもいいかもしれないな。曜日ごとの出数もだしてあるから、曜日ごとに仕込みの量を変えていけばロスも少なくなりそうだしな?」

「確かにそうですね。足りない位が丁度いいから。でも、閉店までカラにはさせたくないから、後半は、翌日にも出せる総菜を作るようにしたらよさそうじゃないですか? あとは、店長がいらっしゃらない時でも、マニュアル通りに仕込みと作業をしていけば、大きく崩さない数字を導き出せばいいですものね?」

「そうだな・・・文が帰ってきてくれて、本当によかったよ。文には言ってなかったけど、トーマスにも手伝ってもらいたいと思っていてな?声掛けさせてもらったよ。オリビエがアントワープに四月に帰ってしまうんだ」

「はい、トーマスから私も聞きました。私もそうなったら嬉しいです。それから、事後報告になってしまったけれど、トーマスと一緒に住むことになりました。正式には三月下旬になりそうですけど、今は既に一緒に暮らしています。トーマスのアパートを解約するのが下旬かな? それから・・・・店長、私が居なくなった後、トーマスを居候させてくれるって聞いたんですけど、本当に大丈夫ですか?」

「どうせ、使っていない部屋だ。トーマスとも文とも永い付き合いになりそうだろ? 俺の元で可愛がってあげたいんだ。二人とも俺の子供みたいで大事なんだよ」

「店長、ありがとうございます。本当に感謝しています。私ね、今、本当に幸せなんです。病気になって良かった。ならなかったら、自分の悪い所も直さなくちゃいけない所も前向きに考えなかったと思うから。日本での過ちをもう一度繰り返すところでした。それに、トーマスが傍に居てくれる喜びがこんなに満たされたものであることを知る事もなかったと思うから」

「そっか・・・よかったよ。トーマスのあの生き生きとした顔を見てもそれが伝わってくる。アイツ、本当にいい顔するようになったな? 文という存在があるからこそ、だぞ?」

「はい、そうだったら、本当に嬉しいです」

「今日は、定時でキッチリあがれよ。帰ったら、相当身体にダメージがくると思うから、今夜はゆっくり休め。俺ばかりでなく、みんなへまで心遣いを有難うな。お前のそういう精神がこの店に根付くと良いな」

「はい、来週からまた日常に戻りますので、宜しくお願いします」


 豪は、表にこそ出さなかったが、今日一日興奮状態だった。文がいるだけで店の空気が変わるからだ。パトリックやオリビエもトーマスと仲良く仕事を進めてくれている。トーマスの二人への配慮もうまいな、と思った。文と一緒で謙虚さがあるから、積極的にトーマスに教えたくなるのだ。それをドンドンものにしていくトーマスも凄い、と思った。仕事の楽しさを覚えたら、トーマスは最強になるな、と目を細めながら見ていた。


 三時になり、トーマスと文は仕事を終えた。二人は、アーツ・ロワのトーマスの仕事先に立ち寄り、文からの快気報告のプレゼントを持参した。皆は初めて見る文を取り巻いた。トーマスは文に自ら淹れたコーヒーを提供した。文は心からそれを喜び、ゆっくりとトーマスが仲間と談笑する姿を見ながら飲み干した。


 トーマスのカフェの店を出て、地下鉄に乗り、今日は、トーマスのアパートへ向かうため、簡単な買い物を済ませた。トーマスのアパートに着き、部屋に入ると、トーマスが慌てて出たことがアチコチに見て取れた。文は思わずクスッと笑った。

「ごめん、汚いよね?」

「え?汚くはないよ。トーマスが私のために慌てていてくれたことが分かって嬉しいだけ。ありがと」


ソファに二人で腰を下ろすと、久しぶりの仕事に二人で「ふ~」っとため息を漏らした。

「さすがに疲れたね?」

「うん、でも気持ちよかった。働くって、やっぱり楽しいね? 今日は沢山、トーマスを動かしちゃってごめんね。でも、トーマスのおかげで、すっかり元のお店以上に片付いたよね?」

「いや、おかげで文が何を考えながら仕事をしているのか、分かったような気がしたよ。僕は、文の考えている事は読めちゃうだろ?」

文には思い当たることがありすぎて、「たしかに!」としか言えなかった。その言葉を聞いてトーマスは笑った。


 二人はそれから、トーマスの家具の何を持っていき、何を実家へ戻すのか、文の家の何を処分するかを検討した。そして、エリックに来てもらって、トーマスのベッドだけは、デュルビュイに運んでもらう事で話はまとまった。二人で一緒にいる間は、伊藤家に譲ってもらった文のベッドが丁度いい。

 譲る家具をゆかりの掲示板に早くから載せたかった。少しでもお金になれば良かった。二人の「資金」だ。文はその資金をベルギーに置いていく事も密かに決めていた。自分は日本でこの生活をイメージして予算を多めに組んで、乗り込んできたので、困っていなかった。トーマスが大学を卒業して独り立ちするときこそ必要になると考えたからだ。でも、今それを言えば、トーマスのプライドも傷つく。そっと置いて帰国しようとしていた。


 文は、物事を綿密に計画することが得意だった。どちらかというと、その計画に基づいて動くことが苦手だった。なぜならば、次々にアイデアが浮かんでしまうので、計画に沿って動いていても、次のアイデアが出てきてしまうから寄り道をしてしまうのだ。

逆にトーマスは、計画や物事を考えることは苦手だったが、それらを遂行する事には長けていた。ただ遂行させるだけでなく、そこに工夫を加えることも得意だった。

二人の息はぴったりだった。そのことに二人はまだ気付かないまま一緒に居る。二人がお互いを居心地がいい、と感じるのはお互いに無いモノをお互いが持っているからだった。そして、綺麗、美味しい、いやだ、好き、嫌いという価値観は似ていた。お互いにとって、相手の存在は、グラン・プラスに意味もなく集まる人たちのように、「羽を休める場所」なのだ。


 トーマスは、文が夕飯を作っている間、明日の準備を進めた。文のスーツケースを持ってきたので、大概のものを運ぶことが出来そうだった。あとは、豪が車を出してくれるので、一回で引っ越しは終了になりそうだった。

(来週あたりにボスへお願いをしよう)


 文がシャワーを浴びている間、トーマスはベッドに横になり、嵐のような一週間を思い出していた。

 あの月曜日にもし、文がトーマスを突き放し、トーマスが文にふられてしまっていたら・・・と考えると、身が切り裂かれる気分だった。一瞬でも、文が自分の元から消えてしまう、と考えた、あの地獄のような想いは二度としたくなかった。一目ぼれしたあのグラン・プラスの日から、ずっとずっと二人で歩いてこられたからだ。

文の強さも弱さもこの一週間で知ることが出来た。自分の将来も文のおかげで見えてきた。そして、夢にまで見た「二人の暮らし」を手に入れることも出来た。毎日を大切に過ごさなくちゃいけないな、と感謝するのだった。


「文、来週、ボスの時間が空くようだったら、家具も文のアパートにボスと運ぶことにするよ。暫くの間、文のアパートが狭くなるけど、勘弁してくれよ? 上手くいけば、エリックが来て、僕のベッドも運び出してくれるかもしれない。そしたら、このアパートともお別れだ。契約も今月で終了の手続きを済ませるから」

「いよいよね?何だか緊張するなぁ。もぅ一緒に暮らしているのにね? この狭いベッドともお別れなのね? 何だか遠い昔のような気がするね? このベッドに初めて寝た日のこと。あの日も今日みたいに疲れていて、すぐに眠っちゃったよね?」

と言いながら、文は楽しそうに笑っている。トーマスはその文の幸せそうに話す顔が好きだ。聞いている自分も幸せになる。文はきまって、楽しい話や幸せな話は、一人でドンドン話を進めていく。そして、手足を使って、身体全体でその嬉しさを表現するのだ。彼女のクルクル忙しく変わる顔の表情と一緒に。空想の雲の上を歩きながら話をしているような、何ともフワフワと幸せそうな顔と仕草を見ている事が至福の時だった。


「そうだね・・・あの日は、ジャンに文が取られてしまわないように、このアパートに連れ帰ってきたようなものだったけどね。ほんの少し前の出来事なのに、ずいぶん前のことのようだよね?」


 文は、生まれてから自分が記憶として残っている中で、両親も含めて人に甘える、という記憶が殆どない。身も心も許して甘えられるのは、生涯を通してトーマスだけだった。そして、そのトーマスは文にとって、とても居心地の良い存在だった。何もかも受け止めてくれる。文へ注意するときは、さりげなく注意してくれる。だから、文はいつもトーマスが自分の味方であることを支えに頑張れる。トーマスにとっての自分もそうでありたいと思いながらも、いつもトーマスに甘えてしまう。トーマスがいつも両手を広げて受け止めてくれるからだ。


 トーマスは、次男なので、いつも甘える環境の中にいて、自分の可能性や存在価値を見出せなかった。家族から大切にされている事は分かっていても、自分がどこに向かっているのかさえ分からなかった。家族以外の人に必要とされている事等ないと思っていた。

 文に出会って、彼女の支えになれている事を実感できる喜びは、生まれて初めての喜びだった。トーマスが全身全霊で彼女を想えば、彼女はそれ以上の愛情で応えてくれる。文のトーマスへ向けられた瞳はいつも(トーマスのために)という愛であふれている事をトーマスは感じている。だから、強くなれる。勇気も湧く。自信が持てる。自分には無限の可能性がある、と希望を持つことが出来る。文の存在はトーマスにとって唯一無二の存在なのだ。


 翌週の土曜日にエリックがブラッセル入りをすることになった。トーマスの使わない家具をデュルビュイに運ぶためだった。ついでに不動産屋での手続きも完了させた。月末までには空っぽにさせなければならなかったが、既にトーマスのアパートは家具以外のものは文のアパートへと移動させていた。


「兄さん、文に会って行かないかい?今日、仕事しているよ」

「いや、四月に会えるから、その時を楽しみにしているよ。この家具も運ばなくちゃいけないからな」

「ごめんね。父さんにも電話して謝っておくよ。せめて文の働いている姿を見てあげてくれよ。言葉も文化も違うこのベルギーで、本当に凄く頑張っているんだから!」

「そっか。じゃあ、通りから見るだけ見て帰ろうかな?」


 二人でエリックの車に乗り、ゆかりへと向かった。土曜日は毎週忙しい曜日なので、文はいつものようにクルクル動きまわっていた。文の働く姿を初めて見た、ゆかりの店舗前に車を止めたエリックは

「小さくてかわいい女性だね? 笑顔が素敵な女性だなぁ

。 トーマスがどんな女性が好きなのかも想像出来なかったから、電話で聞くだけでは全くイメージも出来なかったけど、楽しそうに働く子だね? ほんと笑顔がいいよ、安心した。あの笑顔はお客さんにはたまらないだろうな~」

「僕に向ける笑顔が本物の笑顔だけどね。店長も仲間のスタッフも文の笑顔には負けるんだよ」

「そりゃそうだ!」


 エリックはトーマスが得意そうに文のことを話す姿が微笑ましかった。そして、文の働く姿は、お世辞抜きにしても、エリックが見ていても気持ち良かった。トーマスが珍しく食い下がって文を会わせたがっていた気持ちも、よく理解出来た。四月に会えることが心底楽しみになった。

(トーマスにとって、自慢の彼女なんだろうけど、僕にとっても自慢の妹になりそうだ)

 トーマスはエリックに文の働く姿を見てもらえた事が嬉しかった。エリックなら文の事を働く姿で理解してくれると思ったのだ。トーマスが、豪から店舗のモニターで文の働く姿を見せられた時に感じた衝撃をエリックにも感じてもらえると思ったからだ。


 次の日の日曜日には、豪がトーマスのアパートに来て、家具を運び出した。机とソファ、そしてテレビだけだった。ベッドと小さな冷蔵庫と洗濯機は、エリックが持ち帰った。エリックやトーマスの実家の物が壊れたときの為にと言って運び出していた。文との協議の結果、トーマスのテレビを「売ります」に出すことになっていた。文のテレビは日本人から譲り受けたものなので、新品同様だったからだ。

 文のアパートには、もともと家具があまり無い上に大きなクローゼットがあったので、トーマスの荷物もそこに入れたら事なきを得た。しかも、トーマスは身長が高いので文の使わない高い所に入れれば済む話だった。二人はまるで、ママゴトでもしているように、日々少しずつ変化する新しい生活を楽しんでいた。


「トーマス、来週の日曜日は、トーマスのアパートの掃除に行きましょうよ。トーマスの事を二年半見守ってくれたアパートなんですもの。綺麗にして退居しましょう。ねっ。私もお手伝いするから」

「分かった。そうだね。そうしよう」


 トーマスは文といると、人や物へ感謝をする心が大切であることを認識する。文は常にその気持ちでいるからだ。今までの自分の思考が恥ずかしくなることもある。本当に不思議な存在だ。

 豪が「売ります」に出す、トーマスのテレビや文がアイルランド人のリサから譲り受けたテーブルをゆかりの店に運んだので、文のアパートは、当初二人が心配していたほど狭くならずに済んだ。


 ゆかりの店内には、日本人のコミュニティになる大きな掲示板がある。その掲示板の一角はコーナーになっていて、「売ります」「買います」のような掲示もあれば、エツコのように教室の生徒募集などの張り紙もある。全ては駐在する日本人向けの掲示板だ。掲示板の下には冊子が入れられるケースがいくつか置いてあり、そこには有志の人達で作られた情報誌が常に置かれている。

 右も左も分からない国で生活を始めようとする日本人にとっては、このコーナーが本当に有難いコミュニティの場なのだ。文は、このコーナーに力を注いでいた。ここを訪れる人にとって、ベルギー生活が楽しいものになれば、このゆかりも自然と潤うはずだ、と考えていたからだ。ゆかりに来店すれば、明日からの生活が少しでも豊かになってくれたら嬉しい、と考えていた。そこには文の笑顔がある。誰とでもすぐに打ち解けて話せる話術がある。日本人の客もベルギー人の客もゆかりでは気持ちよく買い物が出来たのだ。


こうして三月は、文の病み上がりから始まり、トーマスの引っ越しへとシフトしていった。


 そして、この三月からトーマスは、月、水、金曜日の大学が終った後から、ゆかりのアルバイトをするようになった。火、木、土曜日は、今まで通り、カフェのアルバイトを続けることにした。珈琲を淹れられるようになって、仕事も数段楽しく感じるようになったのだ。珈琲の事ももっと、知りたくなっていた。

 トーマスがカフェのアルバイトで珈琲を淹れることが出来るようになってから、マシンを買い求めた。それを文のアパートにも運んでいたので、最近は毎日、トーマスが淹れる珈琲を飲めることが文の至福の時間になっていた。文は自分の将来の理想をトーマスに話した。

「ねぇ、トーマス。私の夢の話聞いてくれる?」

「もちろんさ」

「あのね、雑貨屋さんをやりたいのは変わらなくて、その雑貨屋さんの中に珈琲が飲めるスペースがあるのも変わらないんだけど、前は、その珈琲を自分が淹れなくちゃ、って思っていたけど、良い人材が発掘できたのよ」

「分かった、僕だろ?」

「そうなのよ。だから、私はベルギーに来て、カフェで働く事もやるべきことの一つにしていたけど、今はちっとも興味が無くなっちゃったの。カフェで働かなくてもトーマスがいるからいいわ。ねっ?いい考えでしょ?この夢はね、二人が子育ても終わって、ノンビリ出来る頃に実らせたいの」

と言って、文は、あ!と口をふさいだ。自分の妄想がまだ、結婚の約束もしていないのに、勝手に自分の未来の中にトーマスを入れてしまっていたことに気づき、恥ずかしくなってしまったのだ。


「ちょっと、文・・・」

「あ、聞かなかったことにして」

文は自分の耳をふさいだ。


「ダメだよ。全部聞こえたから。僕は本気にするよ? いいんだね? 文の将来に僕がいていいんだね?」

「だって・・・そうじゃなきゃイヤなんだもん。 私の中では初めから決まっているんだもん」

「そっか。よかった。僕の中でも初めからそう決まっているから、文の将来に僕以外の人がいては困るんだよ。もしいたら、全力で排除するからね? だから、よかった。ありがとう、文。そしたら、僕はいくらでも君のために珈琲を淹れるよ」


 その言葉を聞いた文のとろける笑顔を見てトーマスも笑顔になった。一つ一つ夢が広がる喜びは、この瞬間からの生きる活力になる。文という女性の存在は、トーマスに無数の夢を与えてくれる。限りない可能性を与えてくれる。今まで考えた事もないような未来だ。「珈琲を淹れる」という何でもない「日常」のような出来事をこんなに大きな夢としてトーマスに与えてくれる人は、世界中探しても文しかいない、と思うのだった。


 二人にとって忙しくもあり、充実した三月が終ろうとしていた。

そんなある日、トーマスが一人でグラン・プラス方面を散策している時に、モネ劇場の方まで何となく足を伸ばしたくなって行ってみた。途中に文の大好きなアンティークショップがある事も理由の一つだった。

(目新しいものはとりあえず無さそうだな・・・)

一応、ウィンドゥ越しで物色する限りは文が求めているものは無さそうだった。モネ劇場に到着し、何となく辺りを見回した。通りを挟んだ向こう側に、数人の人が建物の中に入っていくのが見えた。

(ん? あそこは何だろ?)


 一見すると、普通の家のように見えるその場所は、モネ劇場の通りを挟んだ隣にあって、外観は住宅のように見えるのだが、家である訳もなく、トーマスの好奇心を掻き立てた。人々が入って行った扉に向かって歩いていくと、そこはレストランだった。その時のトーマスの気持ちを正確に言うと、(レストランのように見えた)だ。

 外には看板が一つも出ていない。メニューも貼りだされていない。でも、扉はガラスになっていて、中の様子がよく見える。中の様子は、どう見てもレストランだったのだ。ウェイターもいる。敷居の高いレストランというよりも、家族的なレストランのようだった。トーマスは思い切って、中に入ってみた。


「いらっしゃい。空いている席に座って」

気さくなウェイターが忙しくしながらも声をかけてきた。

トーマスは入り口に一番近い二人掛けのテーブル席に座った。すぐにウェイターはメニューを差し出して、

「決まったら、声かけてくれ」

と言って、次の客の方へ消えていった。二十席ほどの店内は満員状態だった。見ると、皆パスタかピザを食べている。トーマスは(イタリアンのお店なんだな)と安心した。カルボナーラを注文した。店内は客たちの話声で賑わっている。トーマスは(文も気に入りそうだな)と考えていた。ふと、文の書道師範のお祝いをしていなかったことを思い出した。

そこへ皿を滑らせるようにカルボナーラがトーマスの目の前に出された。ひと口食べたトーマスは、度肝を抜かれた。そのトーマスの表情を見ていた隣の客が話しかけてきた。

「だろ? みんな初めてココに来る人は、みんなそんな顔になるんだよ。ココは常連が多いから、初めての客はすぐに分かる。兄さん、良いレストランを見つけたね。でも、人に教えちゃダメだぞ。予約しなくちゃ食べられなくなるのは、俺たちはゴメンだからな」

「いやぁ、本当に美味しいです。びっくりしました。内緒にしたい気持ちは分かるけど、僕の彼女にだけは教えてもいいでしょ?」

「ああ。それだけだぞ」

「僕も予約なしで入りたいから、約束は守ります」

二人で秘密の約束を笑った。


(文のお祝い、ココに決定だ。文の反応が楽しみだ。種まき好きの文を黙らせるようにしなくちゃいけないから、そっちが大変かもな?)

文の事を考えると、トーマスは自然と笑みがこぼれる。文の反応は手に取るように分かるし、それを早く見たい自分もいた。会計の時に、ウェイターから耳寄りな情報を得たので、早く連れてきたかった。


「文、今度の土曜日の仕事の後は、外でご飯を食べようよ。僕からの文先生へのお祝いがしたいんだよ」

「え?ほんと?嬉しい! 行く、行く!」


土曜日。

 文は、夕方のご褒美が楽しみすぎて、仕事に集中していた。何としても定時で終わらせるために朝から逆算して、いつも以上の仕事をして終わらせたかったからである。そんな文を見て豪は、つぶやいた。

「文、何か今日は機関車みたいな動きだな。何かあるのか?」

「今日はトーマスが食事に誘ってくれたんです。師範免状のお祝いですって」

「そりゃ、よかったな。アイツは優しいやつだな~」


 仕事後、カフェのバイトを終えたトーマスが迎えに来て、二人でゆかりをあとにした。文は、どこに連れて行かれるのかをまだ知らない。

「ねぇ、トーマス。どこに行くの?」

「それは、行くまでの秘密。でも、その店は名前が無いんだ。っていうか、あるのかもしれないけど、知らないんだ」

「何それ?」

「行ってみれば分かるよ」

文の想像力をもってしても、全く未知の領域だった。トーマスがいつもと違う駅で降りた事も文には謎が多すぎた。トーマスがモネ劇場に向かって、

「お店はあそこに見えるよ」

指さした。文はどの店の事を言っているのか皆目見当もつかなかった。

「え?どこ?」

歩きながら、その店の前まで来て、

「ここだよ」

「え?ここ、レストランなの?」

「さぁ、どうぞ、文」

文は、看板も何も無い、普通の自宅を案内されたような不安な顔でトーマスを見上げた。

扉を開けるとプ~ンとガーリックの香りとオリーブの香りした。

「いらっしゃい。あの席いいよ、どうぞ」

ウェイターの男が声をかけた。

「トーマス、ここって何だかハリーポッターに出てくるダイアゴン横丁みたいよね? ワクワクするわ。何が始まるのかな?」

「いや、文。普通にレストランだから、食べるだけだよ」

「もぉ!トーマスは、夢を壊すんだから!」

トーマスはケラケラと笑い始めた。(やっぱりね!)

「文、このレストランはメニューにない物も作ってくれるよ。文は、チーズとか苦手だろ?メニューには無いけど、その日に良い物が入っていれば、文の好きなペスカトーレを作ってくれるよ」

「え?そうなの? 私、ペスカトーレが食べたい。それとミネストローネのスープも出来る?」

「よし、聞いてみようか?」

ウェイターを呼んで

「ペスカトーレとミネストローネは出来る?」

と聞いたら、

「お安い御用さ。二人分でいいのかい?」

トーマスもメニューにないメニューを食べたくて一緒のものを注文した。

「素敵!素敵だわ。トーマス。どうして、こんな素敵なお店を知っているの?」

「僕にも文の探検好きが伝染してしまったみたいで、この前、ここに人が入っていくのを見つけた時に気になってくっついて入っちゃったんだ。その時にさっきのウェイターが、メニューにない物も出来るよ、って教えてくれたんだよ」

「この香りだけで、美味しいパスタが運ばれてくる予感がするわよね~?」

「本当に食いしん坊なんだからな、文は」

トーマスは、文のワクワクしている顔を見て安心した。

(食べた時の文の顔が一番楽しみだぞ~)


 程なくして、ミネストローネが運ばれてきた。文は香りを嗅いで、目でトーマスに食べてもいいかを訴えた。

「食べてごらんよ」

「うわぁ~ 美味しそうな香り~ いただきます!」

ひと口スプーンを口に運んだあと、文は固まった。まるで、呑み込んでしまう事が勿体ない、とでも言いたげな幸せそうなとろける顔で固まっていた。

文の顔を見たウェイターが豪快に笑った。

「そんなに旨そうな顔で食べてくれるとたまらんな。美味しいかい?」

「とっても。とっても幸せ~」


トーマスは、いつも文がやりくりをして、一生懸命に金を貯めてくれようとしている事を知っていた。小さな贅沢だけど、彼女を喜ばせられて満足だった。

次にペスカトーレが運ばれてきた。日本で見るペスカトーレと違って、トマトと海の幸の宝石のようなパスタだった。どの海鮮も海の香りがする。柔らかくて芳醇な味だ。その海のエキスとトマトとガーリックの絶妙な味付けが文を完全にノックアウトさせた。トマトソースがパスタにしっかり絡みついていた。

「トーマス、私いますぐ死んでもいいわ。こんな美味しいパスタは初めてよ」

「いや、文に今、死なれても困るからね。僕はこの瞬間から路頭に迷ってしまうからさ。これからも美味しいものが食べられるように、ここにも又来よう。他の美味しい所も探そうね。だから、まだ生きていてくれよ?」

「うふふ・・・私ね、トーマスと一緒にいると、毎日、特典が付いてくるみたいで楽しいし、幸せだわ。トーマスがいてくれるだけで、私は毎日トーマスという特典がもらえているのに、こんなに美味しいパスタやスープがいただけるなんて、夢みたい。素敵なお店を見つけてくれてありがとう」

「文ならきっと、この料理に感動してくれるな、って思ったんだ。でも、文、この場所は誰にも言ってはいけないよ。僕達だけのダイアゴン横丁だからね。絶対に秘密だよ?いいね?」

周りの客もその会話に食いついてきた。周りが聞き耳を立てている事が文にも分かった。

「分かった。絶対に内緒にするわ」

そう言うと、両隣の客が文に親指を立ててみたり、ウィンクをしてきたりした。

(え?どゆこと?)

トーマスは文が目を白黒させている表情を見て笑った。


すると、ウェイターの男が

「今日、店で一番美味しそうに食べてくれた彼女のお祝いだ。召し上がれ」

と言って、チョコレートのジェラートを運んできた。パチパチと音を立てた花火が刺さっていた。

「え?これは?」

「文、おめでとう。本当に書道頑張ったね。僕からのお祝いなんだ」

「私のための? うわぁ!トーマス、ありがとう」

文は泣きながらジェラートを食べて、ウェイターに(このジェラートも美味しい)と、ジェスチャーで訴えた。

周りの客が思い思いに文をはやし立てた。拍手をする人、指笛を鳴らす人、ウィンクをしてくる人、トーマスと肩を組む人。お店は一瞬にして一体になって、自分のお祝いを知らない人達もしてくれた事に文は幸せだった。


夢見心地のまま、心もお腹も満たされて二人で店を後にした。

「ね?店の名前、結局分からないままでしょ?」

「ほんとだね。このまま振り返ったら、店が消えているかもしれない位、夢のようだったわ」

「じゃあ、振り返ってみようか?」

トーマスが笑った。

「トーマス、本当にありがとう。私、書道には少し自信が持てそうだわ。トーマスのおかげだね?でも、自信をつけるためにも、もっと練習して精進を重ねなくちゃね?」

「文のそういうところが好きだな。尊敬するよ。満足しない前向きなところだね」

文は驚いた。今まで人からそんなことを言われたことがなかったからだ。


「ねぇ、トーマス。トーマスは私といて、自分の知らない一面を知る事ってある?」

「数えきれない位あるさ。しかも悪い所じゃなくて、良い所ばかりを文は教えてくれるから、僕は頑張れるんだ。それが数えきれないくらいだし、僕の自信につながっているよ。本当に文はすごいよ」


(そっか・・・私、ちゃんと伝えていたんだ。夫婦ってこういう事なのかもしれないな。世界中の人を敵に回しても二人の絆がしっかり繋がっていれば、それが二人の居場所になるんだものね)


 帰り道は、イタリアンレストランの感想会に華が咲いた。

「どうして、私があのお店の事を内緒にするって言ったら、隣の人達はあんな風に喜んだの?」

「僕が文の良いところを誰にも話さない事と一緒だよ」

「ん?」

「全く、文は自分の価値を全く認識してないからダメなんだよ。あのお店は人に知られたら、あそこにいる常連は好きな店になかなか入れなくなるだろ?いつ行っても満員で入れない、なんて悲しすぎるよ。

文の事が好きだ~っていう奴が沢山いたら、僕は文の所に辿り着けないだろ?一緒さ。あの店は席が二十くらいあるけど、文の隣は一つしか無いんだよ。分かる?」

「ナルホド・・・」

凄い例えをするものだ、と感心してしまった。それは文にも言える事であった。

(トーマスの隣は私だけ)トーマスの腕を強く抱きしめた。トーマスはその意味を理解出来て幸せだった。



 三月に入ってから、文は木曜日と金曜日はコミューンのフランス語講座に通っていた。初歩的なところから始めたが、トーマスのおかげで、かなり話せるようになっていた文は、中級クラスにシフトしていた。トーマスとの会話の方が上達する事も感じていたので、おさらいする意味で通っていた。トーマスは文といる時は、文の言葉を理解しようとしているので、文の目茶苦茶な文法でも聞き取っていた。それが文にも分かっていたので、そこを重点的に習得しようと思っていた。トーマスも、文の話し方で変な所は分かりやすく教えていたので、文のフランス語の上達も一緒に住み始めてからは早かった。

 フランス語講座の仲間とも、あまり積極的に文は交わろうとはしなかった。男性が多かったからである。

ある時、講座の中で「自分の好きな事」を題目にして、クラスの仲間とディスカッションをした時に文は、アンティークが好きであることを発表した。ブロカントなどにも足を運びたいと思っている事を言ったのだが、講座の後で次々に声を掛けられた。自分達の持っている情報を文に伝えるためである。


「ジュ・ドゥ・バルの毎日やっている蚤の市は知っている?」

「この近くのエルマンデブロのE411の高架下でやっている蚤の市は掘り出し物に出会えるよ」

「ウォルエの外れでやっている蚤の市は、状態がいいアンティークが出ているよ」


文にとっては刺激的な情報ばかりだった。その度に詳しい内容を聞いて、トーマスと行くことが出来る日を楽しみにするのだった。

女性の仲間は、ショッピングの事も教えてくれる。文がまだ行ったことが無いウォルエショッピングセンターの話は、お買い物大好き文にとって、ディズニーランドに行く事を夢見るのと同じ感覚だった。

(どうしてベルギーは、こんなに色々な事が溢れているんだろ?)


 文がそんな「楽しい行列」にワクワクしている時に、トーマスは二つの計画を密かに立てていた。文に知られないように水面下で進めなければならない二つの計画は、協力者が必要だったので、慎重に進めることにしていた。



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