第6話 重なり合う心とすれ違う心 ~ボビンレース~

 一月三日 金曜日、文は早速、トーマスのバスケを観るため、久しぶりに大学へ向かった。まだ、習い事関係は冬休みなので、その隙に出かけることにした。ゆかりで働く仕事前のひと時を、トーマスのバスケを観る時間に使いたいと思ったのだ。コッソリ影から見られれば良いと思っていたので、体育館の影から見ていた。去年、八重や貴子と来た時以来、トーマスのバスケ姿を見られることに心が躍った。


 前回見た時には女性の姿など一人も見なかったのに、何故か今日は二人もいる。トーマスはその二人と談笑していた。勿論、ジャンやピーター達も一緒にいるが、文は静かにその光景を見ていた。

 フィリップがやってきて、練習が始まった。トーマスの動きは、この前と同様に良い動きをしている。文の家に泊まっている時も腕立てや腹筋をして鍛えていたから、普段も続けているのだと思った。高校時代の彼と同じポジションであることは言えなかったが、あの時、不意に昔の彼の話をしたけれど、本当に彼の心が乗り移ったのでは? と、トーマスのバスケを観ていると感じるのである。トーマスが一生バスケを続けたい、と思った頃が彼と丁度別れた時だった事も、文がつい考えてしまう原因なのかもしれない。


 ウォーミングアップが終って、ゲームに入った。途端に二人の女性の歓声が始まった。シュートが決まると「キャー!」。トーマスだけでなく、シュートを決めた男性陣は、女性二人に向かってガッツポーズをしてみせる。何となく文は居心地が悪くなり、その場を離れた。


 文の影が動いた事をジャンは遠くから見逃さなかった。でも、トーマスに伝えるわけでもなく、文を追いかけることもしなかった。ただ、眼の端で文が去っていくのを確かめていた。



 日曜日。ブルージュへ行く日がやってきた。

文は、日本からベルギーに来る時のように妙に緊張をしていた。文は心からボビンレースを愛していたので、「聖地」に行くことが出来る緊張感からソワソワしていた。金曜日のバスケの出来事は、トーマスに言わない事にした。文の中で消化させれば済む話である。今日は、トーマスと楽しくブルージュの旅に出たかったので、そっと胸の奥にしまった。

 ブラッセルのセントラルの駅からブルージュへ向かった。一時間ほどで到着するので、トーマスと少し話をしていたら、着いてしまった!というくらいの距離だった。


 ブルージュ駅から北へ少し歩くと、水の都ブルージュを思わせる水路が流れている。その水路がブルージュの街をグルっと取り囲んでいる。水路を抜け街中へと入っていった。急に中世に紛れ込んだかのような感覚に陥った。ブラッセルの街もそうだが、このブルージュも街そのものが美術館のようだった。暫く歩くと右手にサルヴァトール教会が見えてきた。文は、立派な教会だったので、マルクト広場と勘違いしていた。

(この教会のどこかに鐘楼があるのかしら?)


「もうしばらく先へ進まなければ、マルクト広場には出ないからね」

文の心を見透かしたようにトーマスが言った。あんなに「地球の歩き方」を読んできたのに、いざ目の前に実際の建物たちをみてしまうと、あまりの荘厳さに圧倒されて、文の妄想もどこかへ吹き飛んでしまうのだった。


 トーマスが言った通り、サルヴァトール教会を通り越して、暫く真っすぐ歩くと、いきなり視界が開けて、マルクト広場へと導かれた。グラン・プラスにはかなわないけれど、鐘楼の存在感からか、この街も歴史からポツンと取り残されたように古いまま取り遺されているように見えた。いつまでも立っていたい、と思える場所だった。

 広場の周りは、レストランやカフェで埋め尽くされ、寒くても皆、外で食事を楽しんでいる。トーマスと文も腹を満たすことに意見が一致した。黒い長いエプロンを着こなしたウェイターがスマートに案内した。


「トーマスもあんな感じでかっこよくできる?」

「できないよ。かっこよくないしさ」

「トーマスもあんな制服着たら、きっと凄くカッコイイんだろうなぁ。でも、いいの。ファンが出来ても私が困るから」

(体育館にいた人たちは、違うよね?)・・・文の心の声である。

「そんなことを言うのは文しかいないよぉ~ さぁ、早く選ばないと、かっこいいウェイターが来ちゃうよ」


 素敵な街並みと目の前にいるトーマス。文はトーマスといる時間が毎日「幸せの更新日」なのだと考えていた。トーマスもまた、目をクルクルさせて色々な事に感動しながら、話し続ける文と一緒に居ると、この幸せが永遠に続くとしか思えなかった。子供のようにはしゃぐ文を出来ることならずっと抱きしめていたいと思っていた。


 お腹も満たされて、マルクト広場を出て、レースセンターに向かおうとした時、文はレースショップを見つけた。その店のウィンドゥにはウェディングベールが飾られていた。

「うわぁ~~~ トーマス見て! あんなに大きなレースを全てボビンで編むなんて、私には到底できないわぁ。素敵。あんなレースに触れてみたいわぁ。すぐにお嫁さんになれそうじゃない?」

「文は、本当に女の子なんだね~ きっと、文にも似合うよ。中に入って見てみるかい?」

「いいの?」

「勿論さ。その為に来たんだろ?」


 トーマスは、店内に入るとマダムに尋ねた。

「あのレースはどんなレースですか?」

穏やかそうなマダムは、文を見て応えた。

「ウェディングベールよ」

トーマスはすかさず、マダムに聞いた。

「彼女の頭に少しだけつけさせてあげてもいい?」

「いいわよ。その代わり、繊細だから、私がつけてもいいかしら?」

「ありがとうございます。そうしてください。お願いします」


ブルージュは、フラマン語圏なので、トーマスは、ゆっくりと話をしていた。文にもトーマスの会話が理解出来た。文は自分の顔が紅潮しているのが分かった。

「文、ベールをつけてもらってごらんよ」


 マダムが小さな文の頭上からベールをかけた。文は、腰を落としてから、膝を落とした。マダムが鏡の前に文を連れて行き、文の後ろでニッコリと微笑んでいる。文はその微笑がマリア様のように見えた。文の横でトーマスが満足そうに微笑んでいる。文は、心臓が破裂しそうなくらいドキドキしていた。

「マダム、ありがとう。私の結婚式の時には、マダムのお店でウェディングベールを選びたいわ」

「待っているわね」

と言って、今度はトーマスを見てマダムは微笑んだ。


 文は夢心地のまま店を出た。トーマスも興奮していた。

「文、めちゃくちゃ綺麗だったよ。いつか、文のあんな姿を僕は見たいなぁ~」

「その時は、トーマスはどこにいるの?」

「もちろん、文の横さ」

「よかった。遠くから見ていられたらどうしようかと思っちゃった」

「そんなだったら、僕は行かないよ。文の隣だからこそ、だろ?」

文は、トーマスの腕に思いっきりぶら下がった。

「大好き!トーマス」


 ブルージュの街は、街の中にも小さな水路が沢山あり、その小さな水路をいくつか横切って、レースセンターへと向かった。小さなアーチ状の門を抜けるとセンターはあった。学校のように見える敷地の中に建物があり、実際の実演を見学することができた。おばあちゃんもいれば、若い女性もいた。マルクト広場のような賑やかな感じではない、このセンターの周りはさらに中世にタイムスリップしたような喧騒の中に佇んでいた。

 カラン、コロン・・・心地良い響きがあちこちから聞こえてくる。文が大好きな音色だ。職人技を目の前にすると、文はいつまでもいつまでも眺めていられた。トーマスは、その間、センターの中の掲示物をくまなく読んでいた。センターの人からボビンレースについて、話を聞いたりもしていた。


 文があまりにもじっと見ているので、おばあちゃんが手招きして呼んだ。

「いらっしゃい。貴女もボビンをやるの?」

「はい…この前、始めたばかりなの。やっと、コースターが編めたのよ。こんなに沢山のボビンを扱ったことが無いから、魔法を見ているみたいなの」

「貴女が習っていることの繰り返しよ。ほら、クロス、ツイスト、ツイスト、クロス、ってね」

文は、いつもボビンの先生であるカトリーヌが文に教える時に

「文、ここは赤。だから、クロス、ツイスト、ツイスト、クロスね」

と教えてくれるあの優しい声を思い出した。

「本当ね。私も続けていたら、こんなに大きなものを作れるようになるのね? さっき、お店でボビンレースのウェディングベールを見たの。とっても素敵だったわ」

「ほら、彼女がそのベールを編んでいるわよ」

と言って、おばあちゃんは、若い生徒を指さした。

彼女は、とても細い糸で大きな台の上を沢山のボビンを使いながら編み上げていた。見ているだけでクラクラしそうだった。

しばらく彼女の編んで行く光景を見学してから、文は自分の中で踏ん切りをつけて、

「とっても素敵な作品を沢山、拝見させていただき、ありがとうございました」

と言って、お辞儀をした。おばあちゃんと若いその女性も同じボビン仲間として、文に向かって言った。

「さよなら。こちらこそありがとう。また来てね」


 文はため息しか出せなかった。

(世の中にはこんなに素敵な物がまだ沢山あるんだわ。みんなに広めたい・・・)


 トーマスもまた、レースセンターで自分が目指すものの片りんを見つけたのだった。レースセンターの人からの話で、こんなに素晴らしい産業であり、技術であるにもかかわらず、後継者がなかなか少なくて、衰退していくのではないか?と危惧しているらしい事がわかったからだ。もともとアンティークが好きな事もあり、トーマスはボビンレースの歴史を学ぶことも良い機会だと感じていた。そこには、今後のボビンの存続を左右するかもしれない「想い」が、文のボビンに向き合う姿やレースセンターの人達から感じられたからだった。


 二人はそれぞれに感じるものが多かったレースセンターに思いを馳せて、しばらく何も話さなかった。お互いに話をしない事を変だとも思わなかったことは、価値観が似ている二人だからこそだ。


 マルクト広場の方へ戻ってきた二人は、現実の世界の扉をくぐった感覚に陥っていた。ふと、文は雑貨屋に目が留まった。

「トーマス、ちょっと待って」

ウィンドゥディスプレイの中に絵画が立体的に見える額縁が飾られていた。

「あの絵、素敵ね・・・」

「あれは、アントン・ピックの絵だよ」

「だぁれ?」

「オランダの画家じゃなかったかな?」

「あの額縁の中って立体的になっていて、面白そうね?」

「そうだね。ヨーロッパではよく見るものだよ」

「そうなんだね・・・知らない事がいっぱいあるものね。今日はブルージュに来てヨカッタ。やっぱり、トーマスと来てよかったよ」

「そうだね。文のかわいいお嫁さんも見られたから僕は満足だね」


 帰りの電車の中で文はスケジュール帳へ、忘れないように今日の出来事を書き留めた。トーマスもその姿を見て真似た。

「文、ボールペンと書くものを貸してよ」

文は、スケジュール帳についているメモ帳を切ってトーマスへボールペンと一緒に差し出した。


 いよいよ一月の街が本格的に動き始めた。

花屋のエツコもリエージュから戻って、店の地下での単身赴任生活が再び始まった。年末にあった花をすべて処分し、新たに買い付けてきた花を文はひたすら水切りをして冷蔵庫へ陳列させていった。エツコは次々に各色のアレンジメントを作り、店頭に並べて、道行く人の目を楽しませ足を止めさせた。


 文の書道の方は、年末の段階で師範まであと一段昇格すれば取得できるところまで駒を進めていた。文は書道に没頭していたが、それは執念に近かった。子供の頃、あんなに大好きだった書道をやめてしまって、「先生になりたい」夢も諦めて、自分の中途半端さが心底嫌だったのである。必死に極めてから「やめる」選択をしたのなら納得も出来ようが、何てカッコ悪い人生なのだろう、と悔やんでいたのだ。何としても師範にならなければ自分を許すことが出来なかったのだ。細かい運筆方法まで町田に食いつくように教えを乞うた。町田は、もし、書道教室をするのであれば、硬筆も資格を持っていた方が良いから、と一月に入ってからは硬筆も学ばせていた。文は、硬筆が苦手であったが、アパートでも必死に練習を重ねて、毛筆同様に飛び級、飛び段をこの後、重ねていくのだった。町田も文の熱意に感心し、必死にサポートしていった。


 文は、書道の仲間とも打ち解けていた。特にストッケルに住むノエルとは仲良しだった。ノエルのおかげでストッケルの朝市に出るハム屋と鶏肉屋とは(どちらも肉屋なのだが!)、ノエルが当初お達ししていたように「常連」の域に達しそうな勢いで店員と仲良くなっていた。


 文は、ノエルと町田にブルージュへ行った事を話した。そこで見たアントン・ピックの立体的な額縁の中の絵の話をした。すると、ノエルは意外な事を言った。

「文、それはね、シャドーボックスというものよ。その作り方を私の友達なら珈琲付きで無料で教えてくれるわよ。今度、住所教えてあげるから行ってみなさいよ」

「シャドーボックス、って何か聞いた事はあったけど、あの額の中の事なのね? ノエルのお友達になら教えていただきたいわ。今度紹介してね」

(ウフフ・・・また、新しい事み~つけた!)


 文は、一月の毎週金曜日は、トーマスのバスケを観るためにゆかりの仕事前に体育館へ通うことに決めていた。トーマスのバスケは文にその日の活力を与えてくれるからだ。そして、帰国する前に一度でも多く、彼のバスケプレイを目に焼き付けたかったのだ。


二週目の練習の時にもベンチには女性の姿があった。文は見ないようにしていた。純粋にトーマスのバスケだけを見ることを楽しんだ。トーマスがシュートをするときには、いつも「入れ!」と祈り、決まれば、小さくガッツポーズをして喜んだ。トーマスがベンチに座った瞬間、数人の女性の中の一人がトーマスの汗で濡れた髪をクシャクシャとさせていた。トーマスが笑ってそれをたしなめていた。文の二週目の見学はここで止めた。

(あの人たちは誰?)


 花屋のエツコのアレンジメント教室は、順調に生徒の登録数が増えていった。

文がゆかりの店内にある日本人向け掲示板に生徒募集の張り紙をしたことを皮切りに、日本人向け情報誌にも生徒募集の告知を掲載したり、エツコの店頭でも告知をしていたので、地元のベルギーの生徒も増えて来ていた。

 その中で、エツコは「華道教室」も着実に声掛けをして生徒を増やしていた。ベルギー人はアレンジメントよりも「華道」に興味を持っていたからだ。日本人マダムも日本へ帰国してからは稽古事などに時間を割けない事が分かっているので、優雅な海外生活のうちに楽しんで資格を取ろう、という前向きなマダム達の申し込みも後押ししていた。

 文は、エツコから「小原流」の華道を教えてもらうことが出来た。アレンジメントと違って、花や枝の本数が少ない中で「ごまかし」が利かない。華道にこそ「余白の美」が存在すると思っていた。何度か挿したり、切ったり、挿したり・・を続けていると、花器にも興味を持つようになっていた。

(花器も自分で作れたらいいのに!)


 毎日が楽しさであふれていた。

トーマスとのブルージュ日帰り旅以降、午後はゆかりでのバイトだったが、月曜日はエツコの花屋。火曜日は習字。水曜日はボビン。木曜日も習字。そして、金曜日はトーマスのバスケ見学と二週間に一度のストッケルの朝市。土曜日はゆかりのバイトの後でエツコの店の手伝い。日曜日は、一週間分の掃除と夕飯の作り置き、硬筆の猛練習、ボビンの制作と次週のボビンの準備に余念がなかった。まるで、金曜日のバスケ観戦の悪夢を一週間かけて払拭するかのように文は全ての事に必死だった。


 三週目、四週目の金曜日もバスケ会場の女性の数は減る事もなく、毎回四、五人くらいの親衛隊が来ていた。トーマス狙いではない事を祈りつつ、トーマスのバスケプレイを見守った。


 文を苦しめているのは、以前の彼が文と会えない寂しさから言い寄ってきたクラスメイトの女性と付き合う事になり、そのまま結婚してしまったからだ。ケンカをしたわけでもなく、別れ話をしたわけでもなく、互いが嫌いになった訳でもなかったのに、文の知らないうちにトントン拍子で二人は急接近してしまって、文が気付いた時には結婚が決まっていた。文は二人の幸せをぶち壊してまで彼を取り戻したくなかった。彼の幸せを祈る事で静かに自分の恋を終わらせた。

 文は、心のどこかでぶち壊しても、彼が文を選んでくれる自信がなかったのだ。それが怖かったから、ぶち壊せなかったのだ。その苦い思い出が蘇ってくるようで苦しかった。トーマスのバスケを観たいのにその苦しさはつきまとっていた。息がつまるような感覚に何度も陥っていた。


 四週目の木曜日は、八重と貴子のアレンジメントの教室だった。八重が

「文ちゃん、一緒に花屋さんに行きましょう」

と電話で誘ってきたので、甘えることにした。


「最近、トーマスと遊んでいる?」

「五日にブルージュにデートして以来、会えていないんです。でも、私が一方的にトーマスのバスケをこっそり金曜日に見にいってはいるんですけどね・・・」

耳がキーンとなった。耳の後ろを抑えながら話をしないと激痛で耐えられないくらいだった。最近、よく起きる現象だった。


「え?会えばいいのに!」

「女たちがいるんですよ。取り巻きみたいに。私、とてもそこには入っていけませんし、嫌なんです。私の中でバスケは神聖なスポーツなのに、ライブ会場みたいにキャーキャーやっている人達と一緒に居たくないんです」

「じゃあ、トーマスは文ちゃんが見に来ている事も知らないのね?」

「多分、はい・・・あ!」


 文が声を上げた事で、運転していない貴子が文の視線の先を見た。

トーマスと女性が二人で歩いている。方角的に大学の方へ向かって歩いているのだろうが、イクセルの街中をまるで恋人同士と誰もが疑いたくなる光景だった。


「ねっ?だから、会えないんです・・・」

「ただのクラスメイトだとは思うけど、良い気持ちはしないわよね?確かめたらいいのに」

「それが出来たら、初めからしています。でも、怖くて出来ないんですよ。あの見たままが結果となって表れるのであれば、受け止めるしかないから・・・」

「私達はそうじゃない事を祈っているからね。私達は、トーマスと文ちゃんだからこそ応援しているのよ。二人を見ていると本当に周りも幸せな気分にさせられるのよ。だから、あれを私達は信じたくないわ。受け止めたくないのよ。勿論、文ちゃんが一番信じたくないだろうけどね?」

「ありがとうございます・・・」


一月最後の週の習字の日。

文は、自分の中で満足のいく作品が仕上がったと思えた。町田も同じ事を考えたのか

「最期の週で、提出できるレベルまでもっていけたわね?これを昇段試験に出す作品にするわね。硬筆のコッチの作品もまずまずの出来栄えだと思うから、これを昇段試験に出すわ。文さん、よく頑張ったわ。二月もこの調子でさらに伸ばせるように頑張りなさいね。間違いなく、帰国前に師範の資格を持って帰国できるわよ」

「本当ですか?」


 文は、形ある技術を持ち帰ることが出来そうな嬉しさに更に精進しようと心を引き締めた。そして、自宅でもやはりもっと練習をしようと思った。


 最後の週の金曜日、いつものように誰にも気付かれない場所で文はトーマスのバスケを見守った。トーマスのゲームメイクは本当にカッコイイ。トーマスは、ガードとしても通用しそうな「眼」を持っている。だから、ガードのゲームメイクを見抜ける。サインを出される前に動けるのだ。日本人の身長が高いバスケマンは動きが鈍いイメージが文の中にあったが、トーマスは、フットワークが実に軽い。だから、見ていても気持ちがいいのだ。その日も見たくない取り巻きとトーマスが談笑する姿を見たので、観戦を打ち切って、帰ることにした。

門の方へ向かおうとしたら、そこにジャンがいた。


「文、久しぶりだね? 体育館に寄って行かないの? トーマスが会いたがっていると思うよ」

「ジャン、元気そうね。ありがとう。うん、今から仕事があるから帰るね。トーマス? 私には、とても寂しがっているようには見えないから大丈夫よ。じゃあね」

ジャンは文の元気がない顔が気になった。

(どうして会いに行かなかったのかな?この前もそうだし・・・ケンカでもしたのかな?)

ジャンは気になって、体育館に戻って、トーマスに聞いた。

「トーマス、文とケンカでもしたのか?」

「え?してないよ。何でそんな事聞くのさ?」

「いや、ケンカしてないならいいんだ・・・」


 トーマスは、文に会えない寂しさを忘れようと必死になっているにもかかわらず、ジャンが傷口に塩を塗るような事を聞いてきたので、むっとした。

(文は、今、習字もボビンも大事な時なんだ。僕は、自分のやらなければならないことも見つかって、文に負けないように僕も頑張っているのに。文にいつになったら会えるんだろう?)

トーマスもまた胸が苦しかった。


 文は最近、自分のウェスト周りに青あざが増えた事が気になっていた。

(私ったら、どこにぶつけているのかしら? それとも何か病気なのかな?)

ある日、店のレジ台にぶつけた時に激痛が走った。その事で自分の腰回りの沢山のアザがレジ台の高さと同じ位置にある事に気付いた。

「イタッ!」

パトリックが驚き、文の方へ振り返った。

「文、大丈夫かい?どこかぶつけたの?」

「あ、大丈夫よ。最近、あちこちぶつけるし、何だか耳も痛くて自分の声が変に聞こえるんだよね~」

「疲れているんじゃない?」

「今夜は早く寝るようにするね、ありがとう、パトリック。驚かせてごめんね」


二月に入った。

ブルージュに行って以来、トーマスと話が出来ていない。トーマスは、文の姿すら見ていない。会えなくなって、もうすぐ一か月になってしまう。でも、今の文は毛筆と硬筆の昇段が間近に迫っているから、どうにも動けなかった・・・いや、違う。「書道」は文の中の言い訳だ。会いに行こうと思えば会える。トーマスのアパートだって知っている。大学に行けば会える。カフェのアルバイトの時間に行けば会える。会う方法は沢山知っている。

 でも、ついこの前のように、トーマスに甘える自信がもう、文にはなかった。トーマスが別の女性と楽しそうにしている姿は、文には耐えがたい「光景」だった。言葉や国籍や習慣の壁を気にせず、心を開いて話が出来る方がイイにきまっている。トーマスと話をする勇気が出ないのだ。今会えば、きっと言いたくない事も言ってしまいそうな自分がいる事を、文は自分が一番よく知っている。だから、今は「距離を置く」ことしか出来なかった。


 そんな中、気を紛らわせるために、書道教室の前にフラッとサブロン教会へ向かった。何か目的がある訳ではなかった。第一、今日は週末ではないから、静かなサブロン広場である。ブラブラといくつもの有名なショコラの店が並ぶサブロン広場は楽しい場所だ。嫌な事も少しは忘れさせてくれる。そんな時に路地を見つけた。思い切って進んでみた。進んだ先は、大きな広場になっていて、周りが建物に囲まれていた。

「えっ!こんな場所があったんだぁ!知らなかったぁ」


可愛らしい店が並んでいた。

そのうちの一軒の店に入った。「マ・メゾン」という、そこはフランス雑貨を扱っているような店だった。店内をくまなく見ていると、地下に下る階段を発見した。見ると、数名の客が既にいる。これは降りて確かめなければ!と好奇心旺盛な文は階下へと進んだ。

そこは、一面真っ白な磁器の食器ばかりが並ぶ第二の店内だった。白しかないにもかかわらず、飽きずに見ていられた。ふと、柱やレジの所にある張り紙に目が留まった。

(ポーセリンアートの教室案内だ!)

すぐに文は、店員にこの連絡先をメモして良いかを尋ねた。すると店員は名刺サイズの案内カードを文に渡した。

「興味があったら、ここに問い合わせるといいですよ」


 文は、豪へ訳を話し、ポーセリンアートのサラに電話をした。もし、自分のフランス語が通じなかった時は、豪に助けてもらいたかったのだ。本当は、トーマスに話をして、トーマスに助けてほしかったのだが、文の心は既に死にかけていた。


 サラは、声音から年配の女性のようだった。彼女は、ワロン語であるフランス語でなく、フラマン語を日常会話とする女性だった。

文は、サラとの会話は英語で話すことにした。挨拶程度であれば、フラマン語もマスターしていたので、そこは問題なかった。どうにか教室の曜日と時間を聞き出せたので、名刺に載っていた住所に月曜日に行く事を約束した。豪は、目を細めながら言った。


「新しい事がまた、文を待っていたんだな?」

「はい。日本ではどうして見つけられなかったんでしょうかね? ベルギーは楽しい事の宝庫みたいに私を次々楽しませてくれるんですよ。今月には習字の方も昇段試験の結果が出るので、ドキドキです。受かってもまだ先があるから、書き続けなくちゃいけないんですけどね」

「俺は、お前の頑張っている姿が頼もしいよ。俺が忘れた心を取り戻させてくれる、っていうのかなぁ?」

文は、豪の遠い目を見て、思った。

(大人になるとこうして一つずつ、何かを諦めたりしていかなくちゃならなくなるんだろうな)


 七日の金曜日、文の足は再び体育館へと向かった。

今日も取り巻きはいたが、トーマスの姿を確認すると、彼がウォーミングアップをする姿だけを見て、体育館から立ち去った。

(私だけのトーマスなのに・・・あんな光景見なくちゃいけないのは嫌だよ。お願いトーマス、会いに来てよ)

文は、素直になれない自分の事も嫌だった。他の事を夢中になる事で、トーマスの事を考えないようにするしかなかった。


翌週の月曜日、文は新しい扉を開けるためにポーセリンアートのサラの自宅を訪ねた。

「ようこそ、文。さぁ入って」


サラは、カトリーヌのようにおばあちゃんではあるが、背筋も伸びていて、何よりも笑顔に品がある。アパートに一人で住んでいる。ご主人は、数年前に他界していた。サイドボードの上に彼の写真が飾られていた。

 ポーセリンアートの生徒であり、サラのお友達でもあるソフィーも一緒に居た。二人でティタイムを取っていたようだった。ソフィーが文に向かって誘ってきた。

「貴女もこのクッキー美味しいから、一緒に食べましょう?」

「ありがとうございます。ご一緒させていただきますね」

サラもソフィーもとても喜んだ。文が挨拶や「ありがとう」だけは、フラマン語で話したからだ。


 サラは、ティタイムをしながら、作品を文にいくつか見せた。文は、胸の中がポッと暖かくなるような気分になっていた。サラの絵は、クリスマスマーケットで見た子供がテーマのあのクリスマスカードの絵のように優しさであふれている作品が多かったからだ。


 文は自慢ではないが、絵が全く描けない。正直にサラに話してみた。

「私、チューリップも描けない位、絵がダメなの。そんな私でも描ける方法はある?」

「勿論、あるわよ。サンプルも沢山持っているし、無くても描きたいものを言ってくれたら、私も描けるわよ。文は色を塗っていきたいんでしょ?」

「そうなの。トールペイントのように出来たらいいな、って思ったの。筆だけは使い慣れているから、塗るコツを教えていただけたら、嬉しいわ」

「大丈夫よ。そしたら、いつから来られる? 次回は描きたい図案と、食器を持ってきて頂戴。食器は、文の知っているあのお店で買えば間違いないわ」

「三月に入ったら、またサラに電話するわね。三月から始められたら嬉しいな」


サラとソフィーに礼を述べて、クッキーをお土産にもらって、三月から始める期待に胸を躍らせていた。トーマスに報告が出来ないもどかしさを感じて、また胸が苦しくなって、耳も痛み出していた。


 同じ週の金曜日はバレンタインだったので、文は心を込めてチョコチップマフィンを作った。

(これなら朝食代わりにも食べられるよね?今日はこれだけを渡して帰ってこよう)

本当は、家に招待して手作りバレンタインのプレゼントをしたかったけれど、ここまでくると文も意地を張っていた。素直になれずにいた。

(私だけを見て!他の女とお話しないで!)

そんな風に言えたなら、どんなに楽になるのだろう?言った後を考えると、文はとても自信がなかった。だから、意地を張って素直になれない自分を選択するしかなかった。


 体育館に向かうとまだ、トーマスの姿はなかった。ジャンやフィリップがアップしていた。女性たちは相変わらず黄色い声を上げている。

そこへトーマスが来た。正確に言うと女性と二人で来た。文は腰が砕けそうになる事を感じていた。でも、ここで帰るわけにはいかない。日本での二の舞はゴメンだ。

文は、いたって冷製にトーマスの元へと向かって歩いた。隣にいる女性には目もくれなかった。トーマスは一か月ぶりに会う文を見てすっ飛んできた。


「文!久し振りじゃないか。なかなかバスケを観に来てくれないから心配したよ。何か痩せたみたいだけど大丈夫?仕事が忙しいのかい?」

「今日はバレンタインだから、トーマスにこれをプレゼントしたくて寄らせてもらったの。良かったら食べてね。おかげさまで色々と順調よ。じゃ!」

「え?もう帰るの?」

「うん、じゃあね。バスケ頑張ってね。ケガしちゃだめよ」

文は、キッとトーマスを真っすぐに睨みつけてから、走ってその場を立ち去った。


「あれでケンカしていない、って言えるのか?」

ジャンが背後から話しかけてきた。トーマスはジャンをみて、突っかかるように言葉を吐き捨てた。

「何が言いたいんだ?ケンカなんかしていない。こうしてプレゼントも持ってきてくれた。これのどこがケンカなんだよ?」

「じゃあ聞くが、おそらく毎週、文は体育館に来ているのに、バスケを観ているだけで、トーマスに会いに来なかったのは何故だ?どう説明するんだ? それに、今の文の目だ!あれは、トーマスを見る文の本当の目じゃないだろ・・・」

「何を言っているんだ? 文が来ていれば、必ず顔を出すだろ?」

「いや・・・僕は見ている。何度か彼女があそこからバスケを観ている姿を、な。この前は、体育館の外でも会った。トーマスが寂しがるから会って行け、って言っても、トーマスは寂しがっていない、って凄く寂しそうな顔で帰るのを知っているんだよ。今とは全然違う目をしていた。だから、トーマスとケンカしたのか?って、聞いたんだ。トーマス、お前は、文に何をしたんだ?文のあの目をどう説明するんだ!」

「ジャン、ごめん。今日はこのまま休むよ。文を探してくる」


トーマスは、急に不安になって、ゆかりへと向かうため、バスに飛び乗った。ジャンの言うとおりだった。さっきの文の目は文じゃない!

ところが、ゆかりに文の姿はなかった。


「今日、文は休みだぞ。トーマスにバレンタインのお菓子を作るからって言っていたからな~」

「そうですか・・・ボス、文は最近元気ですか?一か月以上会っていなくて・・・」

「今、書道の方で二つの師範の免許をかけて凄く頑張っているみたいでさ、俺にも何も言わないんだよ。花の方も華道の免許が取れる、って喜んでいたから、それにも頑張っているんだろうな。ボビンの方もブルージュに行ってから取りつかれたように大作に取り掛かっているみたいでさ。トーマスに会えているのかな?って心配だったんだけど、やっぱり会っていなかったんだな。最近、トーマスの話題が出なくなったな、って気がしていたんだよ。

なぁ、トーマス。お前さえ良ければ、ここで働かないか?勿論、アルバイトとしてになるけどな。今度、ベルギースタッフのオリビエがアントワープへ帰ることになったんだ。まぁ、四月なんだけどな。それまでに考えておいてほしい。そうすれば、文とココで一緒に働けるだろ?

それにしても文のヤツ、トーマスを置いてどこに行きやがったのかな?プレゼントをどうするんだ?」

「いえ、プレゼントを届けてくれたんですけど、すぐに消えてしまったんです。それで、ここへ行ったんだと思って追いかけてきたんですけど・・・凄く痩せてしまったように見えたのが心配で・・・」


その時、パトリックが不安そうに話しに参加してきた。

「あの~ 少し心配な事があってね。文は最近、真っすぐに歩けていないようです。よくカウンターにぶつかってイタイ!って、言っているし、この前は耳が痛い、って言っていました。何事もなければいいんだけど・・」

豪とトーマスは顔を見合わせた。

「俺からもちゃんと言っておくから、トーマスは心配するな。今日、文はここには来ないから帰れ。なっ?」

トーマスは成すすべもなく自分のアパートへと帰った。


 翌週の金曜日も文はいつもの場所でバスケを観ていた。今日も黄色い声が飛んでいる。すると、トーマスが文を見つけてこちらへ向かってきた。文は、表情を変えず、動かずにトーマスを真っすぐに見すえていた。トーマスの所にいつものように駆けてこない文をトーマスは、不安に感じた。そして、この刺すような文の目が気になる。

「文、この前はマフィンをありがとう。凄く美味しかったよ。文が作るお菓子はいつも最高だね?」

「どういたしまして。あそこにいる人達からはもらえなかったの?」

「え?何で?文、どうかしたの? 変だよ。具合でも悪いの?」

「私は平気。大丈夫よ。 今日はもう、やっぱり帰る!」

「え?見ていきなよ。やっと会えたのにさ。ずっとずっと会えなくて僕は気が狂いそうだったよ。お願いだから、今日はもう少しいてよ」

「仕事があるもの。それに私にはトーマスが楽しそうに見えたよ。だから、安心して貴方に近付かなかった。近付けなかった。トーマスは大丈夫なんだ、ってね」

「それは、文が頑張っていると思うからガマンしていたんだよ。僕のどこが大丈夫に見えたんだい? ちっとも大丈夫なんかじゃなかったよ。会いに行きたかった。でも、今、文は大切な試験があるから邪魔しちゃいけない、って僕なりにガマンしていたんだ。なのに、そんな風に言うなんてヒドイよ!」

「ごめんね、でも今日はムリ! このままケンカもしたくないから。じゃ!」

去っていく文の後ろ姿にトーマスは叫んだ。

「月曜日もここでバスケをやっているから来てくれよ」


 文は、体育館を出ると涙がこぼれた。

(最悪だ。ケンカなんかしたくないのに。自分に自信がないだけで、トーマスは何も悪くないのに、当たり散らして、私ってサイテーだ・・・)

泣いている文をジャンは静かに見守っていた。しばらく泣いていた文は静かに立ち上がり、体育館を見ることもなく去って行った。その姿を見たジャンは

(あんなに泣く文を初めて見た。別れたのかな?)と複雑な気持ちで文を見送った。


 豪は、文の身体を気遣い、定時で上がるように声をかけた。文は、ゆかりでは誰にも気付かれないように笑顔でいた。身体だけは文の知らない所で悲鳴を上げ続けていた。


 土曜日にゆかりのアルバイトの後で町田の元を訪ねた。月曜日は、トーマスに謝ろうと思って、書道を休みにしたい事を告げるためだった。家で練習するためのお手本を取りに行く目的でもあった。


「あらぁ、文さん。丁度いい所に来たわね。結果が出たわよ」

「え?本当ですか?」

「じゃ~ん。文さん、師範です。毛筆の方は飛び段で、中学生まで教えられる免状よ。硬筆は小学生までは教えられるわよ。このまま進めていけば、どちらも大人まで教えられる資格まであと少しよ」


文は、嬉しさのあまり泣き崩れた。

「先生、ありがとうございます。本当にありがとうございます」

「何言っているのよ?文さんが頑張ったからじゃないの?自信もって前に進めるわね?」


文は、師範試験合格の作品を大切に、大切に持ち帰った。

(ここに努力の結晶が詰まっている。胸を張って帰国できる。一番にトーマスへ知らせたいのに・・・)


 月曜日、文は、八重と貴子に花のレッスンの後、トーマスの話をした。

「ねぇ、今から体育館に行こうよ、文ちゃん。意地はっていないでさ・・・」

貴子に言われて、八重の車へ二人に押し込まれた。それから八重の車は、大学の体育館へと向かった。文は体育館へ行く事に躊躇していた。謝りたい気持ちはあるけれど、心の準備が出来ていなかった。八重と貴子に初めは遠くから見たい、と頼んだ。


 いつもと違う場所でトーマス達が見えるところを見つけた。見つけたその瞬間、三人は固まった。文は、固まったと同時に「ごめんなさい、やっぱり帰る!」と言って、駆け出してしまった。

取り巻きの女性陣の一人が文を見つけたので、面白がってトーマスの腕にしがみついたのだった。その瞬間を切り取って見た者は皆が「恋人同士」と見間違うかのような瞬間だった。文の瞼の裏にはその画像がしっかりと焼き付いてしまった。

(もぅダメだ!今日はこのまま働けない。また、あの時の繰り返しなんだ・・・)


 心も身体もバラバラになるのを感じていた。アリ地獄の中を走っているようだった。身体が重い。頭が重い。喉も痛い。声が出せない。アパートに着くと、文は豪へ電話をして仕事を休むことをなんとか伝えた。涙があとからあとから流れて声が上手く出せない。

「文、声がまたアノ時みたいになっているぞ。デグリーを呼ぶか?」

「いえ、一晩寝れば治ると思いますから大丈夫です。本当に申し訳ありません」

「何かあったらまた、電話しろよ。何かのために鍵のロックはかけずにおいてくれ。俺が後で様子を見に行けるようにな。いいか?分かったか?寝ているんだぞ?」

「はい、そうします・・・」


    *****


大学の体育館では、文が走り出すと八重と貴子が日本語で叫んだ。

「文ちゃん、戻って来なさい!」

しかし、文は立ち止まることなく消えていった。その叫び声にトーマス達は気付いた。トーマスは久しぶりに会う八重と貴子の所へ行き、二人に挨拶をした。

「お久しぶりです。元気そうですね?」

「トーマス!私達が元気そうに見えるの? あの女は誰? トーマスの彼女なの?」

「え?誰の事ですか?」

「アイツよ!」

「あの子はただの友達です」

「友達と恋人ごっこして遊んでいたの? 文ちゃんは、その恋人ごっこを見せつけられて、ショックを受けて帰っちゃったのよ!」

「え?文が来ていたんですか?」

「何言っているの? トーマスが来い、って言ったから来たんじゃないの! 恋人ごっこを見せつけるために文ちゃんを呼んだの? 文ちゃんをそんなに傷つけたいの?」

「え?何のことですか?全く話が分からないです・・・」

困惑するトーマスを見て、貴子は、まくしたてる八重を黙らせて、貴子自身は、怒りから冷静さを取り戻し、トーマスを呼んでベンチへ座らせて話をした。そこへ異変に気付いたジャンも加わった。


 貴子は、学校に通っている頃から度々、トーマスが女性と話しながら仲良く歩く姿を文も自分達も目撃していて,そのたびに文は落ち込んでいるように見えた、と話した。それは、文の過去のトラウマと文の元来持っている「自信のない自分」の性格から来る「不安」であると思うことを説明した。

 日本の一部の女性は、思っている事を口に出してはいけない、と厳しい家庭では躾られていて、それは、いずれ嫁いだ時にその家に染まらなくてはいけないから、「自分」を出してはいけないという躾が、なんとなく親からの教育に根付いているのだと思う、と説明した。

 でも反面、文は語学学校の頃から一切の男性を寄せ付けないオーラを放っていたし、実際に寄せ付けていなかったはずだ、とトーマスに貴子は詰め寄った。

トーマスには思い当たる節が、目の前のジャンの時にも、他の男たちに対してもあったので、頷いて自らの顔を覆った。そのたびに文の行動にトーマスは安心していた。文から他の男に目が行く事は絶対にない、と。


「ほらね、思い当たるでしょ? でも、トーマスからはそれを感じなかったから、文ちゃんは不安だったんでしょうね? トーマスを信じていないんじゃなくて、自分に自信がないから、他の女性がトーマスに近寄ったら、勝つ自信がない、身を引く覚悟が出来ている自分を許せていないのだと思うわよ。だから、いつも自分に(大丈夫)って言い聞かせているのよ。一人になっても大丈夫、ってね。文ちゃんは、トーマスといながらも孤独だったのよ・・」

「あぁ・・・」

トーマスには更に思い当たることがいくつもあった。文はいつも口癖のように(私は大丈夫!)と言っていたことだ。全然大丈夫なんかじゃないことをトーマスが一番知っているのに!


 三人の話を聞いていたジャンは、加えるようにトーマスに言った。

「僕がトーマスと文が恋人同士である事を知る前に、文をデートに誘おうとしたら、文は、男と二人で歩く事も食事をすることも絶対にしない、って言っていた。つまり、恋人や周りの人に誤解されることをしない、っていうことを言いたかったのだと思うよ。それは、トーマス、お前を大切に思うからじゃないのかな?だから、僕みたいに色々な女の子に気安く声をかけるヤツが苦手なんだよ」

トーマスは頭を抱えながら、頷いていた。


 貴子は続けて、文から今日聞いた話も伝えた。

一月から今日まで、毎週金曜日にトーマスに会いに行っていた文の事だ。文は純粋にトーマスのバスケを観たくて通っていたのに、いつもトーマスの周りに女性陣が取り巻いていて悲しかった、と。それでも、トーマスのバスケが大好きだから、毎週、体育館に足を向けずにはいられなかったのだ、と。

この前もなぜ、イクセルの街で女性と二人でいたのだ?と詰問した。

そこで、ジャンが口をはさんだ。トーマスは頭を抱えたままでいる。

「そっか。だから、文は言っていたんだ。トーマスは寂しそうには見えない、って。取り巻きの女の子たちがいたから、ここから一人で見ていた文には寂しそうには見えなかったんだね? 今にも死にそうなほど悲しそうな顔をしていたから、本当は放っておけなかった。でも、トーマスの手前、出来なかった。放っておかなければよかったよ。先週の金曜日もそこで、ずっと長い時間、一人で泣いていたよ。僕は文が泣いている間、ずっと見守っているしかできなかった・・・悔しいよ。僕が傍にいてあげればよかった。僕ならあんなに泣かせない!」

「ごめん、ジャン。偉そうな事ばかり言って、ちっとも文を守り切れてなかった。クソッ 今まで女の子から話しかけられる事も無かった。なのに最近、フィリップとフローレンスが付き合い始めて、フローレンスの友達が来るようになって、話しかけられるようになったから、有頂天になっていたんだ。最悪だ、僕は!」

ジャンが優しく言った。

「トーマスは目立たない、おとなしいヤツだったのに、文に出会ってから、確かに急に男っぽくなって、僕たちもトーマスの変化を感じていたから、女の子たちには魅力的に映っていたんだろうな?でも、それも全て文のおかげじゃないのかな?」

「そうさ。全部、文が居なければ何も起こらなかった事なんだ。文が居てくれたから、僕は変われたんだよ。だからこそ、僕は文が居なくなってしまったら,生きている意味もなくなるんだ。分かるだろ?ジャン!」

ジャンは優しく頷いた。


「じゃあ、そのままを文ちゃんに伝えなくちゃね。そして、一日も早く文ちゃんが安心してトーマスのバスケを観られるようにしてほしいわ。文ちゃんがトーマスのバスケを観られる時間は、とても短い時間に限られているのよ?その時間を大切にさせてあげてよ。何だったら私達オバチャンも安心してみたいわ。あのキャーキャーはいらないわね。ジャン達のカッコイイ姿は、私達のモノよね?」

と言って、貴子は八重をつついた。

トーマスは今の最悪な状態をどう回避して良いのか全く打つ手がなかった。でも、誤解はすぐに解きたかった。

「ジャン、ごめん。今日もこのまま抜けるよ!」

「OK! トーマスが守れないなら、僕がすぐに文の元へ行くから安心しろ!」

「それだけは絶対にさせない!」

「じゃあ、そんな湿気た顔していないでサッサと行ってこい!」


トーマスは、八重と貴子に礼を伝え、必ず報告するから、上手くいくように祈っていてほしい、と言った。八重と貴子は二人でトーマスの肩を叩いた。


トーマスはゆかりへ向かった。勢いよく入ってきたトーマスに豪とパトリックは驚いた。豪が明らかに慌てている。変だ!

「いらっしゃい。今日も文はいないぞ」

「文に何かあったんですか?」

「何故そんなことを聞く?」


トーマスは、豪へこの一か月半の出来事を話した。豪は長い溜息を洩らした。

「全く文のヤツは!あれだけトーマスの事を信じろ!って言って聞かせたのに、ダメだな!」

「違うんです。文は信じてくれています。文自身に自信がないから。それは、ボスも知っているでしょ? それを僕が知っていながら、文を守ってあげられなかった。僕が軽率な行動をとったから、男として僕が失格なんです。文から沢山の愛情をもらっていながら、彼女を救ってもあげられなかった。守ってもあげられなかった。ボス、僕に文を救わせてほしいのです。文に何があったんですか?」

「わかった・・・アイツはまた、体調を崩している。多分、あの声はまた、扁桃腺炎に罹っていると思う。かなりシンドイはずだ。でも、今のトーマスの話を聞くと,あいつは病よりも心の方にダメージを持っているかもしれないから、お前がいかなくちゃダメだ!コレを持ってすぐに文のアパートへ行くんだ!」

と言って、文のアパートの鍵をトーマスへ託した。それと一緒にデグリー医師の連絡先のメモを渡した。


「もし、扁桃腺炎だったら、デグリーの薬が文には合っているはずだ。すぐにデグリーを呼ぶんだ。いいな?食い物と飲み物は俺が後で運ぶ。お前が作ってやるんだぞ」

トーマスは泣きながら、豪から文のアパートの鍵を受け取った。自分への苛立ちしかなかった。そして、文の孤独を想像すると自分が許せなかった。文が絶望で短絡的な行動をとらない事を祈っていた。表現のしようがない不安が波のように次々に襲ってきて、トーマスは胸が張り裂けそうだった。彼女を救わなければいけない使命感がトーマスの心を強く突き動かしていた。

「文は沢山のトラップをドアの鍵に仕掛けてあるが、今はこれだけで開けられるはずだ。電話でそう指示しておいたからな。頼んだぞ」


トーマスはすぐにナミュール駅から飛び乗った。幸い、今日はバスケの日だったので、着替えを数枚バッグに入れてあったことはラッキーだった。夜通し文と一緒にいたい、と思った。

(文、待っていてくれ。すぐに行くから、無事でいてくれ)


文のアパートに到着した。正面玄関の鍵を開けて、急いでエレベーターに乗り、文の部屋の鍵を開けて入った。(良かった!開いた!)文はベッドの上で泣きながら横になっていた。

「文!」


その声に驚き、起き上がった文は、真っ赤な顔をしていた。声を出したくても出せないのだ。ただ泣く事しか出来ない。だが、泣くと余計に喉には激痛が走る。耳も痛い。彼女の顔を見れば、苦痛が伴っている事がよく分かった。

「文、ゴメン。話は後でゆっくり話すし、聞くから、まず、僕を信じてほしい。文をもうこんな風に苦しめないようにするから、僕を信じてほしい。どんなに沢山の女性を並べられても、僕は文しか見えていないからね?」

熱で熱くなった文の身体を強く抱きしめて、文の「孤独」を拭った。文は「あぁ」と悲痛な声を出し、泣き崩れていった。トーマスは、文の力が自分の腕の中で抜けていくのを感じた。


 すぐに台所へ向かい、タオルを濡らして涙と汗とでグチャグチャになった文の顔を拭いた。文は大人しく横になった。寝ながらもトーマスの洋服の裾を握っていた。文の身体は、身体全体でひきつけを起こしていた。

「文、よく聞いて。体の具合は、前と同じ症状だと自分で思うかい?」

文はコクっと頷いた。

「僕がデグリー先生に電話するから診てもらうよ? そして、あの薬を処方してもらおうね?」

文は苦い顔をした後で悲しそうにニコッと笑って再び頷いた。

トーマスの動きは速かった。デグリーに電話をした後で、文に水分を取らせながら、ソファージュの温度調整をして、加湿の準備とデグリーを迎え入れる準備をした。


 デグリーは一時間ほどで到着した。その間もトーマスは、文の額に冷たいタオルを交換しながら当てていた。文はとても苦しそうで、全身に痛みを感じているようだった。

デグリーは、トーマスの存在を豪からも聞いていたので、電話の声が豪でなかったことに理解を示していた。

 デグリーの診察が始まった。文が心配で、文の傍から離れたくなくて立っていたトーマスは、デグリーが聴診器で肺の状態を確認するときに、文の上着のボタンをはずし始めたので、硬直して動けなくなっていた。初めて見る文の身体にトーマスはドキドキしたが、それ以上にトーマスもそうだが、デグリーが診て驚いたのは、文の身体のアザだった。腹周りに無数のアザがあるのだ。


 デグリーが文の服をおろして直しながら、優しくゆっくりと尋ねた。

「最近、喉や熱以外で何か体の変化はなかったかい?」


 文はアザのことを聞かれているのだと悟り、声が出にくかったが、ゆっくりと話し始めた。トーマスは少しでも話しやすいように文に水を飲ませた。

「一月ころからどこかにぶつかっているようで、アザが増え始めました。こんな風になって、仕事場のカウンターやこのアパートのキッチンの高さにアザがあることが分かって、それらにぶつけていたのは、最近分かったんですけど、どうしてぶつかるのか分からないんです・・・」

「そっか・・・そうだったんだね?他に痛い所や変わった体の変化はない?」

「よく耳がキーンとなります。高い所や飛行機に乗った時みたいに耳が詰まって、自分の声が頭の中で反響して気持ち悪くなることが度々ありました。耳のココが痛むんです。だからなのか聞こえづらくなっています。先生の話声も水の中で聞いているみたいに聞こえづらいんです・・・」

と言って、耳の下のくぼんだ所を押して泣き始めた。トーマスはその言葉を聞き、ショックで立っていられなくなった。


「何か心配事や悩んでいたことがあったの?」

「はい・・・」

と言って、泣き続けていた。

「そっか。その悩みを解消しなくちゃならないね。できそうかい?」

「さっき、それが解消される気がしました」

と言って、トーマスを見た。


「文は自分で自分のストレスを分かっているんだね? 君のような性格の子は、我慢強いから自分で自分を殺してしまいかねないんだよ。ちゃんと助けて!って、言わなくちゃダメだ! いいかい? 無理したらダメだよ」

「分かりました。そう出来るように頑張ってみます」

「病名は、扁桃腺炎とメニエール病発症直後、って感じかな?処方するから、すぐに薬局に行ってくるんだよ」

と、トーマスに伝えた。トーマスは病名を聞いて、愕然となって、「はい」と力なく答えるしかなかった。


 デグリーは程なくして帰って行った。

「文、本当にごめん。僕のせいで文を病気にしてしまった・・・僕の身勝手な行動で深く君を傷つけてしまった・・・本当にごめんね。もぅ、お願いだから大丈夫、って僕には言わないでよ。頼む。僕にだけは全身全霊で甘えてほしいんだ。いいかい?約束だよ?僕の事嫌いになったりしないで。ね?お願いだよ・・・」

トーマスは、まるで文が逃げてしまうのではないか、と思っているように強く文を抱きしめた。文はトーマスの言葉を聞きながら、首を横に振り、嗚咽した。言葉に出来ない分、泣くしか出来なかった。それは自分の中にある澱んだ心を洗い流す涙だった。

(やっと、トーマスにSOSが届いた・・・トーマスが悪いのではないのに。こんな性格の私が悪いのに。トーマス、ごめんね・・・)


「すぐに戻るから、文の方の鍵を貸して。僕がいない間に何かあったらいけないから、ちゃんと鍵を閉めていくからね。温かくして寝ているんだよ。帰ってきたら、着替えよう。僕が手伝うからさ」

トーマスは薬局へと向かった。


 文の前では、必死にこらえていたのだが、たまらなかった。文という女性があんなにも強くて儚い女性なのだ、と知ったからだ。薬局に向かいながら、悔し涙が止まらなかった。

(文とやっぱり一緒に暮らそう。僕がどれだけ文しか見ていないのかを理解出来れば、彼女も安心するはずだ。もう彼女と離れるのは嫌だ。我慢したくないよ。あんな文を見ることは耐えられない・・)


 薬局に到着して、処方箋を見せて購入した。薬の説明を聞いて、文の病が心の病気であることを改めて知り、再度トーマスは、自分が情けなくなっていた。こんなに薬を飲ませなくちゃいけないほど、彼女を追いこんでしまったのだ、という罪悪感と、自分だけが文に会えない事を寂しがっていると思っていたけど、それ以上に文が孤独と絶望感に苦しんでいたのだということを痛いほどあの身体から知ってしまったからだ。まして、耳も聞こえなくなっていると言っていた。どうしたらいいのだろう? このまま聞こえなくなってしまうのだろうか?頭の中で答えが見つからないままグルグルしていた。どうか早く助かってほしい、と願った。急いで文のアパートに戻ったが、文は安心したのかぐっすりと寝ていた。顔には無数の涙の跡がいくつもついていた。きっと、トーマスが薬局に向かってからも泣いたのだろう。


 トーマスはコンソメスープなら何とか作れると考えて、台所へと向かった。作りながら涙がこぼれた。

(クソッ! 僕は一体何をやっていたのだろう! 文、お願いだ。早くあのはじける笑顔を見せてくれよ!)

 気付くと文が起きてきて、トーマスを後ろからそっと抱きしめていた。その温もりにトーマスの涙腺は一気に崩壊した。

「文、本当にごめん。君をこんなに苦しめてしまって・・・どうやったら、君を救えるかな?僕はどうしたらいいんだろう?僕の声は聞こえるかい?」

文は優しく頷き、トーマスを自分の方へ向き合わせて、トーマスの胸に入った。

(私はこれだけでいいの)

「これだけでいいの?」

心でつぶやいた事がトーマスに通じた事に文は驚き、そして、頷いた。

「そしたら、文・・・僕たちはやっぱり一緒に暮らそうよ。そしたら、文は僕の心の中がどれだけ文でいっぱいなのかを思い知ることになるから。ね? なるべく早く一緒に暮らそう。ボスにも許しはもらっているんだ」

文は「え?」と驚いてトーマスを見上げた。


「実は、少し前、ボスには相談しながら話をしていたんだ。一緒に暮らしたい、って。ボスは文がそう決断した時にそうすればいい、って言ってくれた。それに、僕にゆかりでアルバイトをしないか?とも誘ってくれたんだ。僕の将来にも通じる仕事だから、文といられる事は勿論なんだけど、僕の将来のためにも文と一緒に働きたいと思っているんだ。だから、文、さっきも言ったけど、僕にだけは大丈夫って言わないで甘えてほしい。だって、大丈夫で終わってしまったら、あのアーツ・ロワの階段から、僕たちの関係は一歩も前に進めていない事になるだろ? 僕はそんなの嫌だ!ちゃんと前に進んでいたいよ。君はあの時も今も(大丈夫)で僕との関係を終わらせる気かい?」

文はトーマスの胸の中で涙声のトーマスの言葉、一つ一つを大切に心に刻みながら聞いていた。文もまた泣きながら(そんなのは嫌だ)と言わんばかりに、激しく首を横に振った。


トーマスお手製のコンソメスープが良い香りをさせてきた。

「ありがとう。文の気持ちが分かって、安心したよ。準備が出来るまで、文はベッドに入っていて。身体が冷えてしまっては悪化しちゃうからね?」と囁いて文をベッドに連れて行った。


 文はベッドに入った。そこへ仕事を早く終えて駆け付けた豪が呼び鈴を鳴らした。

トーマスから文の病状を聞いた豪は、玄関先でガクンとその場でひざが崩れた。

「俺がいたのに何とした事か! トーマス、すまなかった。お前にも辛い想いをさせてしまったな。トーマス一人の責任ではないから、自分を責めるなよ。いいか? 今は自分を責めるのでなく、文の傍にいてアイツの支えになってやって欲しい。頼む。文にはお前が必要なんだ・・・」


 豪は、沢山のおにぎりを握ってきた。今食べる分以外は、冷凍庫へしまっておくように指示した。簡単な雑炊の作り方も伝授した。トーマスは豪の言葉を一語も逃すまいと必死に聞いた。文は二人の会話を聞きながら安心してまた、眠った。

 豪は、眠っている文を見て、トーマスを見た。トーマスの背中をさすりながら、静かに呟いた。

「文はトーマスがいれば大丈夫だ。もぅすぐに治る。俺には分かるんだ。毎日、毎日、文からトーマスの話を聞かされる俺には分かる。この文の満たされた顔を見てみろ。トーマスがそばにいてくれることで安心した寝顔だ」


 豪が帰った後、トーマスは文が汗で濡れているはずだと思って、着替えを用意して、シーツも洗う事にした。干せば加湿にもなる。洗面器にお湯を入れて、その中にタオルを入れて硬く絞り、文を起こしてから、トーマスは文の背中を拭いた。背中にも同じ高さに無数のアザがあった。パトリックが言っていた、あの時にすぐに病院へ運べばよかった。後から後から後悔しかなかった。文の身体は健康的な肌の色だった。トーマスのように透き通る白い肌ではない、太陽のような色だとトーマスは思った。文は恥ずかしさもあったが、診察の時に見られていたことも知っていたので、今はトーマスに甘えることにした。拒む力も今の文には、残っていなかった。こんな形で裸を見せることになるとは予想もしていなかった。トーマスが拭き終えると文は

「トーマス、ありがとう。前は自分で拭くから大丈夫だよ」

と、声を絞り出すように伝えた。

トーマスは、文の身体に触れることに、タオルを通してではあるが、とても緊張していた。でも、今は文に早く元気になってほしい気持ちの方が断然勝っていたのだ。

そして、文がトーマスと豪の作ったご飯を食べている間に洗濯機を回した。今の時間なら、アパートで洗濯機を回しても許される最後の時間だ、と考えたからだ。自分でも驚くほどトーマスはテキパキと動いた。


 文はトーマスのスープを喜んで飲んだ。豪のおにぎりは、半分だけトーマスのスープに入れながら口にした。半分は「食べられない」と言って、トーマスに渡した。久し振りの食事だった。ここのところ、食欲もなく、仕事と習い事に没頭していたので(そうすることでトーマスへの不安をごまかしていた)、トーマスの心のこもったスープが何よりの栄養だった。トーマスは自分が作ったスープを喜んで飲んでいる文の姿を見て安心した。


「文、食後にはアノ薬が待っているから覚悟するんだよ」

処方薬は、発泡剤のような前回の扁桃腺炎と同じ薬と錠剤一錠。その他に錠剤の薬が二種類出されていた。

文が薬を飲んでいる間、トーマスは手際よく洗濯を干した。そこにはトーマスの洗濯物と、文の洗濯物が仲良く並んで干されていた。


「さぁ、文、早く寝た方がいい。明日も僕はずっと一緒だから安心して寝るんだよ」

文は頷き、トーマスのTシャツの裾を掴んで離そうとしなかった。

(どこにも行かないで!)

久し振りに二人並んで寝て、お互いの存在に安心したのだった。

トーマスは夜中に何度か起きて、文の額のタオルを幾度となく取り替えた。加湿と文の水分補給にも注意した。文は、決してトーマスの服から手を離そうとしなかった。

「タオルをゆすぐだけだから待っててね」

と言って戻ると、文は泣いていた。そして、トーマスの腕をつかむのだ。トーマスは、文の孤独の闇と闘っている気持ちだった。泣いた顔を拭いて、また落ち着かせる。抱きしめてあげたいが、四十度を超す熱を出しているので、文が耐えられないと思ったのだ。文もまた、明らかに前回の扁桃腺炎の時よりも苦しいと感じていた。


そして、十二時を過ぎたころ、急に文の身体がガタガタと震えだし、トーマスにしがみついてきた。寒いと言っている。足も冷たくなってきている。トーマスは文と寝る時にいつもそうしているように、文をトーマスの胸の中で眠らせた。文はすぐに安心して眠った。


 夜が明け、朝を迎えた。文は幸せだった。トーマスの胸の中で久しぶりに眠れられた安心感からか身体が軽くなるのを感じていた。パジャマも汗で気持ち悪くなるくらいだった。外の景色が、完全に締めきれられていないカーテン越しに見えた。冬の朝だ!この明るさは、八時を過ぎているってことだ、と文は理解した。


トーマスが起きた。

「文、おはよう。どうだい?熱はさがったかな? お!下がってる!」

トーマスは文の額と首の後ろを包んで確かめて嬉しそうだった。文は思い切って声を出してみた。

「トーマス、夜中じゅう看病してくれてありがとう。ベッドのマットレスをこっそりベランダで干せないかな?凄く汗をかいてしまったみたいなの」

「そうだね・・・大丈夫だよ。僕が干してあげるよ。僕もすぐに行くから、文もシャワーを浴びてきたら?」

「すぐは来なくていいから、先に浴びて来るね」

「なんだよぉ~ 夜中はどこにも行くな、って泣いていたくせに!」

「知らないもん」

「文は勝手なんだから!」


 文が甘える顔を見て安心したのも束の間。シャワールームに向かう文の足取りを見て、驚いた。

(真っすぐに歩けていないじゃないか! このことをドクターは言っていたんだ)


昨日、デグリーは帰る時、トーマスに伝言をしていた。

「あれだけのアザがあるということは、真っすぐに歩いていない証拠だ。この病は耳にも影響が出るから、平衡感覚が鈍くなるから、あぁなるんだよ。でも、心の問題だから、彼女が穏やかに暮らせるようにしてあげてほしい。薬はおまじないみたいなもので、治すためのものじゃないんだ。一番は彼女から不安を取り除いてあげること。そうすれば、すぐによくなる病だからね。薬も初めは毎食後だけど、一週間経って、調子が悪ければ、薬がなくなるまで飲めばいい。良くなれば、飲まなくても大丈夫だ。いいかい?彼女の動きに注意深く観察していてほしい。何か変化があればすぐに電話をするように、いいね?」

と言って、帰って行った。

今の文の歩き方でアザの謎が解けた。

(彼女の不安要素を今日中に取り除いてあげないといけないかもしれない)

昨日、八重や貴子から聞いた、話の真相を文に伝えなければならないと焦って、トーマスは拳をギュッと握りしめていた。


 文がシャワーを浴びている間に、コンソメの雑炊を作ってみた。初めて作る雑炊で不安だったが、豪から「リゾットのようになればいい」と言われていたので、とにかくクタクタに煮込んだ。仕上げは簡単に卵とじにしてみた。

文はまだ微熱があるためか、シャワーの後でしんどそうに床に寝転がった。トーマスは、そこに簡単な寝床を作って文を促した。

「僕もシャワーを浴びて来るから、寝ていていいよ。水分を沢山とった方がいい。そこに水を置いたからね」


 文はトーマスがシャワーへ向かう背中を見ると急に寂しくなった。そして、またハラハラと涙がこぼれ始めた。自分の意志とは違う所で涙腺がダムの放流のように決壊するのだ。まるで別の誰かがコルクを緩めているように・・・


トーマスが部屋に戻ると文がまた泣きはらした目をしていたので、泣いていた事を悟った。

(このままで大丈夫なのかな?かなり重症なのかな・・・僕で救えるのだろうか? いや、ほかの誰にもこの権利は渡したくない。でも、こんなに弱った文をどうしたら・・・)


 不安がよぎる。眠っている文の所へ行き、布団の中に入って、不安を払拭するように文を抱きしめた。案の定、文はしがみついてきた。

「僕がいるから安心して眠っていいよ。もう少ししたらマットレスを中に入れて、ベッドで寝られるようにしてあげるからね」

「トーマス、有難う。でも、お腹も空いたかもしれない。少しなら食べられそうな気がするの・・・」


 文は、頭では何かを食べなければ回復しない事はわかっていた。しかし、喉から耳にかけて強烈な違和感があって、思うように食欲がわかなかったのだ。ただ、目の前にいるトーマスを見ていると安心するのは分かっていた。トーマスの喜ぶ顔を見たくて、少しだけなら食べられそうだと感じたのだ。トーマスは文の食欲を喜んだ。

「ボスの見よう見まねで作ってみたんだけど、どうかな?」

「凄くおいしい!これなら沢山食べられそうだよ」

トーマスは、文の笑顔を久しぶりに見られた気がした。文は、カフェオレボウルに半分くらい入れた雑炊をペロッと食べた。

(この笑顔を守らなくちゃいけないんだ)

文の苦手な薬タイムがやってきた。だが、この薬を飲むたびに体が俄然、軽くなるのだから不思議だ。


 トーマスはマットレスを部屋に入れて、ベッドメイクをした。二度目の洗濯が終了したので、ソファージュにかけて加湿干しした。

そして、文をベッドに入らせて、自分も入って、文に伝える決心をした。


「文、昨日は、文の状態があまりにひどかったから、言えなかったけど、文が誤解している事を八重さんや貴子さんから聞いたから、僕の口から正確に話すよ。目を閉じながらでいいから聞いてほしい。いいね?」

文は、コクンと頷いた。しかし、トーマスの方に身体と顔を向けて左手で右側にいるトーマスの右腰のあたりを掴んでいた。トーマスはその文の左手をシッカリ握りしめた。


「文は、語学学校に通っている頃から、僕の行動に不安を感じていたんだね?知らなくてゴメン。ジャンや八重さん達は、その文の姿を目撃していて、いつかこんな日が来るのではないか?って、心配していたみたいなんだ。そんなに長い間、不安にさせていたんだね?ごめん・・

僕はさ、文に出会うまで、女の子から声をかけてもらう事なんてあまりなかったんだ。かけられたとしても、挨拶やこの身長だから、モノを取って!みたいな感じくらいでさ。クラスでも目立たない存在だったんだ。勿論、自分から声をかけるなんて事も無かった。

文が・・・本当に文が初めてだったんだ。自分から声をかけた女性が、さ。文の事は、どうしても声をかけたくて、僕が文を守ってあげなくちゃ、って勝手に思い込んでいて、自分でも驚くくらい勇気を出して、君に近づいたんだよ。だって、一目ぼれをした君を助けたのは僕だから。

でもね、ここからはジャンが僕に言ってくれた言葉だけど、文と出会ってからの僕は、自分で言うのも恥ずかしいけど、少しは男っぽくなったみたい。だから、女の子からも声をかけやすくなったみたいなんだ。多分、その頃だと思うんだけど、フィリップの事を好きな子が僕に相談してきたんだ。アイツに彼女が居るのかを教えてほしい、って。二人の橋渡しをしている頃を文が見ていたんだと思う。でも、そんな役目はジャンやピーターに任せればよかったんだ。文の事も考えなくて、軽率だったよね? 本当にゴメン。

僕は、逆に文が色々な男から声を掛けられている姿を、実は何度か見ていて知っていたんだ。でも、文は、そいつらに触れられることを許さない毅然とした態度でいたよね? アーツ・ロワで僕が文を助けた時と同じようにさ。僕は遠くでそれを見て、凄く嬉しかったし、安心していた。文は絶対に大丈夫だ、誰にも取られない、ってね。その「大丈夫」を僕は文に与えてあげられなかった。彼氏失格だよね? 女の子から頼られたり、声を掛けられたりしたのが正直嬉しかったのも事実。でも、そこには特別な感情は一切ない。それは、みんなに聞いてくれたら、きっと理解してもらえる。

一月に入ってからは、文にずっと会えない寂しさが計り知れなかった・・・心のどこかでは、いつかこの位の我慢をしなければならなくなる日が来るんだから、乗り越えなくちゃ!って、言い聞かせていた。だから、バスケみたいに楽しくできるものがあると、テンションが上がっていたことも事実。

腕に巻き付いてきた子は、意地悪な子で、文を困らせようとしてやった、って言っていた。僕は彼女のような子を許さない。許さないからって、何かする訳じゃないけど、二度と顔も見たくないし、話もしたくない。あの時は、決して僕が望んで腕を組んだわけじゃないから! 信じてほしいよ。

ジャンは、ちゃんと影から僕のバスケを見守っている文を見つけていたのに、僕は見つけられていなかった。最悪な男だよね? ジャンは僕が文を救えないのなら、自分が行く、って言うんだ。させるか!って、思ったけど、昨日の文のアザを見た時、一瞬、ジャンの方が救えるのかもしれない、って思ったんだ。情けないよね?でも、夜中も今も、文は僕が居なくなると泣いてくれる。僕を必要としてくれている。それが分かったから、絶対にジャンにも誰にも渡すもんか!って、今は思えるよ。文はいつも僕にこうして自信をくれるのに、僕はどうしたら文に自信を持ってもらえるのか分からないんだ。君を失うかもしれない、って昨日、思った瞬間、僕は(絶望)しか浮かばなかったんだ。それくらい君が必要なんだよ。君を失うのは怖い!嫌なんだ!分かるかい?」


トーマスの言葉は、若葉がサラサラと風に吹かれるように優しく囁いていた。でも、大地に根を下ろす大樹のようにしっかりとした言葉でもあった。溢れるトーマスの想いが嬉しくて、こうなってしまった自分が情けなくて、また文は泣き始めた。トーマスは文の手を握っていた手で文の背中を優しくさすった。


(私の性格的な問題なのに、トーマスをこんなに苦しめている。でも、正直今すぐ自信をつけろと言われても、この染みついた喪失感は簡単には拭えない・・・どうしたらいいの?)


文は頭の中で、考えがまとまらなかった。

「トーマス、私には正直どうしたらよいのか分からないの。でもね、もしかしたら、お互い我慢しないことがいいのかな?会いたければ会えばいいし、怒りたければ怒ればいい。お互い、我慢をしちゃうのがいけないのかもしれないね。今年は沢山思い出のお守りを作ろう、って誓ったのに・・・」

文は、後悔の気持ちが溢れてまた、泣き出した。それでも、トーマスの優しい温もりの中で何とか踏ん張って、引きつりながら必死に想いを伝えた。

「今、はっきり思う事は、トーマスと帰国までは一緒に暮らしたい。そして、いつも手の届くところに毎日いてほしい。毎日私に勇気を与えてほしい。トーマスが思ってくれている事は理解出来ているのよ。とても嬉しいの。こんな私を想ってくれている事が嬉しいの。

でも、自信はすぐにつくものじゃないわ。嬉しい、イコール、自信にはなれないの。もしかしたら自信が持てた事に気付く時が来るのかもしれないけど、その時をじっと待っているのも悪くないかもしれない。トーマスが居てくれるなら。でも、今は無理なの・・・」

「分かった。このまま一緒に暮らそう。僕もね、もう離れたくないんだよ。我慢したくないんだ。まだ調子が悪いのに話を聞いてくれてありがとう。無理させてごめんね。少し眠ろうか?」


 トーマスも夜中じゅう看病をしていたので、正直眠かった。文もメニエールの薬を飲むと睡魔がやってくる気がしていた。そして、扁桃腺炎の苦しみで、胸と耳の痛みも残っていたので、少し話をするだけでも苦しかった。


その頃、ゆかりに八重と貴子が来店していた。

「いらっしゃい。今日、文はお休みですよ」

「店長さん、知っているわよ。文ちゃんの状況を教えてほしくて来ました。二人は仲直り出来たのかしら?」

「あぁ、そっか・・・お二人もその場にいたんだね?でも、その後の事は何も知らなかったんですね。文は、また扁桃腺炎になった上に・・・」

と言って、豪は悔しそうに喉の奥でこらえながら呟いた。

「他の病にまでなっていたんですよ。それが心の病だ、っていうから、自分はあの子を預かる身でありながら、情けなくってね・・・」

「え?そうだったの?何の病気なの?」

「まだ初期の段階で良かったのだけど、メニエール病に罹っているらしい。今回はまた高熱と喉の痛みと心の病で、相当、文の奴もシンドイと思うんですよ。トーマスが必死に看病してくれているから大丈夫だと思います」

八重と貴子もガックリと肩を落とした。二人の知る文は、明るくケラケラ笑い、真っすぐで、いつも忙しそうに走り回る姿だからだ。


「私達に何か出来ることはないかしら?」

「もしよければ、トーマスの料理だけでは心もとないと思うから、何か差し入れでも持って行ってやって下さい。その時にくれぐれもトーマスを怒らないでやって下さい。アイツも相当なダメージを受けていて心配なんです。自分のせいで文が病気になった、と思い込んでいる」

「分かりました。大丈夫ですよ。昨日、トーマスにはきついお灸をすえたから、もう怒りません。今は文ちゃんが元気になってくれることが先決ですものね?」

「ありがとうございます。自分がついていながら、本当に申し訳ないです」


八重と貴子は、その足で貴子の自宅に戻り、文たちへの差し入れを作ることにした。前回、扁桃腺炎になった時に、雑炊が一番おいしかった、と言っていたことを思い出したので、いつでも温められるように、野菜スープをたっぷり作り、トーマスには元気が出るように焼き肉、唐揚げ、サラダにポテトを持っていく事にした。 


夕方前に何とか文のアパートへ持っていく事が出来た。

呼び鈴を鳴らすとトーマスが出た。トーマスは八重と貴子の訪問を心から喜んだ。二人は、文が暫く仕事を休むことをエツコに伝えながら、エツコの店で小さなアレンジメントを買ったので、トーマスへ渡した。

「文ちゃんの笑顔のようなお花でしょ?」

「はい・・・」

トーマスは泣いた。張りつめた気持ちで受け取ったアレンジメントは、オレンジのガーベラが、文の笑っているような顔に見えたからである。

八重と貴子は、トーマスの背中を優しく叩いた。

「トーマスも大変だったわね?よく頑張ったね。私達・・・文ちゃんに会ってもいい?」

「会ってあげてください」


文は、二人のマダムの訪問に歓喜した。

「あら、元気そうじゃないの。やっぱり文ちゃんはトーマスがいると、元気になるのよね~ 私達は二人がそうしていてくれると凄く幸せなのよ。ケンカしてもいいから、いつも手は、絶対につないでいなさいね?放しちゃダメよ!」

「二人が喜ぶかどうか分からないけど、夜ご飯を作ってきたから、食べてね。文ちゃんには、こっちはまだ、食べない方がいい気がするけど、トーマスにも元気になってもらわなくちゃいけないから作ってきたわよ。学校にも行かなくちゃいけないでしょ?」


文は、ハッとなった。

「トーマス、ごめんなさい。私のせいでお休みさせてしまったのね?ごめんなさい」

「いいんだ、文。僕がそうしたかったんだから。それにまだ、今日しか休んでいないから安心して」

「トーマス、文ちゃんが心配だったら、私達も見に来られるから、貴方は大学へ行きなさい」

貴子は優しく言った。そして、文に向かって「ねっ?」と同意を求めた。

「うん、トーマス、そうしてほしい。ここから通ってくれたら私は大丈夫だから」

「分かった。明日から行くようにするよ。有難う、文」


文は、八重と貴子に無言で握手を求めて礼をこめた。二人のマダムは若い二人の姿を見て、安心して帰って行った。

「きっと、もぅ大丈夫よね?メニエールも治るよ、きっと。あんなにイイ子達なんだもの。早く二人並んで歩く姿を見たいわよね?」


 二人が帰った後で、トーマスは不安になって文に再度尋ねた。

「文、さっきの話だけど、本当は大丈夫じゃないでしょ?」

「ううん、本当にこれは大丈夫。むしろ、私のせいで大学を休み続けられる方が大丈夫じゃないわ。だから、お願い。大学に行って。でも、夜にはここに戻ってきてほしいの。暫くの間だけでいいから。もう少ししたら、ココも元気になれそうな気がしてきているの。それまでは、夜だけでいいから傍にいてほしいの」

と言って、胸に手を当てた。

「本当に?」

「本当なの。私ね、トーマスのバスケを観ている時に女の人達がトーマスに触れるのがとても嫌だったの。私だってトーマスに会いたくて、触れたくて、お話したくて我慢しているのに!って。私だけのトーマスなのに!って。少しずつ心が壊れていくのを感じていたの。それでもトーマスのバスケだけは見ていたかったの。辛くなることを分かっていながら止められなかったの。トーマスのバスケは私だけのものなんだもの。

前につき合っていた人もバスケがとっても大好きでとっても上手な人だったの。彼のバスケは、私だけのものだったはずなのに、私の知らない所で別の女性と仲良くなって、結婚してしまったから。だから、今度は自分の目でちゃんと見て確かめて、どんな人が私からトーマスを奪っていくのか、受け止めようと思ったの。そしたら、もし、トーマスが取られてしまっても、(あの女に取られた!)って分かっているんだもの。私は昔の彼の相手の顔を知らないの。同じ学校にいたのにね?悲しいわよね。

だから、ツライけど、足だけは体育館へ向かっていたの。

でもね、やっぱりトーマスが取られるのはイヤなの。トーマスの事は前の彼の時のように諦めたくないの!こうして一緒に居れば不安も無いのに、離れると急に不安になるの。また、一人で闘っていかなくちゃいけない、ってね・・・

でも、二日間一緒に居てくれて、元気が出てくるのが分かったの。トーマスがいてくれたらそれだけでいい。他には何もいらない!でも、もう少し一緒に居る時間が欲しいから、せめてここから大学に行ってほしいの。私のフランス語通じている? ダメ?」

文は溢れる涙を拭おうともせず、必死に自分の想いを泣きながら、トーマスの両腕を掴み、訴えた。喉の痛みで上手く話せない上に泣くので、半分、ひきつけを起こしていた。喉が泣く事で更にひどくなることを承知していながらも、止められなかった。伝えたかった。トーマスは、文がこんな風に訴えて来ることが無かったので、驚きはしたが、心底とても嬉しかった。こんなに自分を好きでいてくれることを知ったからだ。


「全然、ダメじゃないよ。一緒に暮らそう、って言ったじゃないか。それに、僕の事を文から奪う人なんて誰もいないし、文は余分な気を回さなくていいんだよ。昔の彼はそうだったのかもしれないけど、僕は絶対に文から離れない。寂しくなったら、日本でもどこにでも行く。もう、我慢もしない。だから、少しずつ僕の物をこっちに移動させるから、今日から一緒に暮らそう。ねっ? 多分、文以上に僕がそれをずっと前から望んでいたんだよ。知っているかい?」

「ううん、絶対に私の方がトーマスと一緒に暮らしたいと思っているはずなの」

必死に食い下がる文を見て、トーマスは笑った。


「文が元気になってきた証拠だね? 全く僕の言う事を素直に聞かないんだからさ。僕の方が思っているのにさ!文は、素直じゃないんだよ!」

文はトーマスに言われて、トーマスの両腕を掴みながら、必死に噛みつく自分に気付いた。

「あ、ほんとだ・・・」

久し振りに二人で笑った。それでも文はトーマスの腕の中から離れようとはしなかった。トーマスは、それが嬉しかった。今まで、こんなに儚い文に気付かなかったからである。どこかで自分の方が頑張らないと大人の文には追い付かない、敵わないと思っていたのに、彼女はこんなにも脆いということを知ったからだ。


 夕方が過ぎ、トーマスは八重と貴子が準備してくれたおかずを並べた。文は雑炊に出来そうな野菜スープにすぐに食いついた。自分の分だけ別の鍋にスープを移し、豪が握った冷凍のおにぎりを入れて弱火でコトコト煮ることにした。トーマスは自分の分を適当に並べて、他のものは冷蔵庫へしまった。

 文は雑炊を煮ている間、トーマスが食卓の準備をしていたので、洗濯物をたたんだ。自分とトーマスの洗濯物をたたむ何でもない日常の喜びをかみしめていた。かみしめながら、トーマスを見た。トーマスも文を見た。二人で幸せを確かめ合うように見つめ合って、微笑んだ。


食後に文は、耳の調子が少しよくなっている気がしていた。食器を二人で洗いながら、トーマスに言ってみた。

「ねぇ、トーマス。耳が聞こえるようになってきた気がするの。痛くなることも少なくなったし、詰まっている感じとキーンっていうのが、ならなくなったよ」

「ほんとかい?良くなってきたんだね。じゃあ、今日も早く寝るようにした方がいいね。明日は、大学の資料を取りに僕のアパートへ一旦行くから、八時には出るよ。文は寝ていていいからね?」

「ありがとう。ねぇトーマス、私からのお礼を受け取ってほしいから、ベッドに来て!」


文は手を洗い、部屋の奥のクローゼットへ向かった。トーマスはベッドに寝転がった。

「何するの?」

文は、クローゼットから薬瓶のようなものを取り出してきた。

「そこにうつぶせになって寝て」

トーマスは言われるがままうつぶせになった。

「気持ちいいか分からないけど、独学で学んだアロマオイルのマッサージをトーマスにしてあげたいの。病み上がりで力が入らないから気持ちよくないかもしれないけど、ガマンしてね?」

「無理しなくていいよ」

と言って、仰向けになろうとしたが、文に裏に返されて、またうつぶせになった。文のブレンドで作られたマッサージオイルだった。ふわっと部屋に香りが広がった。

「フットマッサージしかできないけど、勘弁してね?」

文は、オイルをたっぷり自分の掌に垂らし、自分の体温で温めてゆっくりとトーマスの足をマッサージし始めた。トーマスの足は硬くて余分な肉がなく、引き締まっていた。ふくらはぎから太もも目掛けて全身を使って、マッサージした。

トーマスは初め、何をされるのか緊張をしたが、文のマッサージは心地よくて血管を通して、リンパへとドンドン癒しのパワーが流れていくのを感じた。それと同時に、張りつめていた自分の心に気付いた。マッサージから伝わる文の自分への愛情を感じて感極まって泣きそうになった。それでも、文のマッサージの手は止まらずにトーマスの心までほぐすように続いた。両足のマッサージを終えると、文は優しく囁いた。

「はい、おしまい。今度は、バスケの終わった日にマッサージしてあげるね」

「文・・・ これは卑怯だよ~ 文からもっと離れられなくなるじゃないかぁ。明日も大学になんか行きたくなくなっちゃうよ。これは気持ちよすぎる。これを独学で学んだの? 凄いね、文は。 何のために学んだのかは聞かない。聞かない方がいい気がするぞ!聞きたくない! バスケマンには分かるぞ、文。こっちにおいで」


 トーマスは、文のこの技術は以前の彼のためのものだと分かった。でも、きっとその彼は、文のマッサージを受けることなく別れたことも、聞かなくても文のマッサージから伝わる感触で分かった。

文は照れくさそうにトーマスの両手を広げた腕の中に入った。そして、掌に残ったオイルを自分の腕にすり込みながら応えた。


「学ぶことになったキッカケは、私のアレルギー体質によるものからよ。学んでいくうちに自分だけでなく、大切な人を癒やしたり、何か役に立つことはないかな?って、勉強してみたの。トーマスの役に立ったのなら良かった。私の看病できっと疲れていたでしょう? ココが・・・」

と言って、くるっと振り向き、トーマスの胸に触れた。トーマスは、そのまま文の手を掴んで、自分の胸にあてていた。


「そうだよ。凄くここで悩んだ。自分が許せなくなっていたからね。でも、文が許してくれた。何よりも僕に効く薬だよ、文の存在はね?許してくれてありがとう。絶対にもう泣かさないよ。さぁ、寝ようか? また、熱が上がると困るでしょ?あの薬を永遠に飲まなくちゃいけなくなるよ」

「いやよ、そんなの。今度、トーマスも飲んだらいいのに!」

「いや、文の顔を見ているだけで充分飲んだ気持ちになれるから、遠慮しておくよ。それにしてもこの香り、いい香りだね?」

「ラベンダーとローズマリーのブレンドよ。ローズマリーはボケ防止にもいいから、明日の大学の勉強もはかどるんじゃないかしら?」


文は大学の話をしたら、急に不安になって、胸の奥がギュッと締め付けられた。

「トーマス、嘘でいいから私を安心させて答えてほしいんだけど、明日は、明日一日だけは女性とお話しないで。そしたら、私はここで大人しく寝ているから。ね、お願い。明後日からは大丈夫だから」

「ほら、また言った。明日も明後日も大丈夫じゃないだろ? 誓います! 明日は女の子とはお話をしません。まぁ、今日の分のノートをジャンに写させてもらうから、話している暇なんてないから安心して。今度、みんなに確かめるといいよ。僕がどうしていたかをさ。それに、僕が女の子と話をしていたら、間違いなく、今度こそジャンが文を狙いに来るから、絶対にしないよ。する必要もないだろ?」

「よかった・・・ありがとう」

そう呟いて、文はまた涙を流した。トーマスはこぼれる涙を拾い続けた。それが自分に与えられた使命のような気がしていた。文が必死に願う気持ちを受け止めていた。

文は、本当はこんな事を言いたくなかった。トーマスを縛り付けているようで、信用していないみたいで嫌だった。でも、明日だけは何者をも倒すくらいの気力も体力も自分には無いと思ったのだ。デグリーに言われたように「助けて」と今こそ言わなければ、と思ったのだ。

アロマの香りも手伝って、二人は深い眠りに落ちていった。


翌朝、文の体調はさらに良くなった。少し肺と喉が痛む程度まで回復していた。

昨日、貴子たちが差し入れた唐揚げをアレンジして、文はスペイン風オムレツを作った。自分の食欲はまだ、雑炊しか受け付けられない気がしていた。野菜スープをたっぷり用意してくれていたので、オムレツとスープとパンをトーマスの朝食用に用意した。トーマスは、マッサージの効き目があったのか、ぐっすりと眠っている。

文がトーマスの寝顔を見ていた時にトーマスは目覚めた。

「おはよう。マッサージの効き目はどう?」

「足が軽くなった気がしていたんだ。何かスッキリ!って感じだよ。足のマッサージをしてもらったのに、体全体が軽いんだよ」

「そっか、よかった。効き目があるんだね? よかった・・・また、学べるものがあって・・・」

文がトーマスを見て微笑むその顔は、(トーマスのために!)という気持ちが溢れている。トーマスはたまらなく嬉しかった。文からの愛情を一心に受けている自分を戒めた。

(二度と文を泣かすな!)


文が用意した朝食に目を丸くして驚いていた。

「いつの間に作ったんだよ?八重さんたちの食材でよく作ったね? 今日は元気モリモリだね。大学が終ったら、すぐに帰るから待っててね。絶対に寝ているんだよ。途中で買い物してくるかい?」

「買物はいらない!先に帰ってきて。寂しいから。調子が良ければ、トーマスが帰ってきたら、二人で買い物へ行きましょ。だから昼間はちゃんと休んでいるからね」

「分かった。そうする。何もしなくていいから休んでいてね?」 

トーマスも文の体調が戻っている事は分かっていたが、心の病は完全に戻っていない事を理解していたので、心配だった。出かけるまでの間、ずっと文はトーマスから片時も離れようとしなかったからだ。

「じゃあ、行ってきます」

トーマスは後ろ髪をひかれる思いで文のアパートを出た。アパートを出たところで、振り返って文の部屋を見上げると、窓から文が見送っていた。トーマスは努めて明るく手を上げて応えた。


 文は、先日までのような「不安」はなかったが、寂しかった。たった今まで手の届くところにトーマスがいたのに、ぽっかりと穴が開いたようだった。でも、部屋のあちこちにトーマスを感じることが出来た。文の心を応援するかのようにカリプソの教会の鐘が鳴った。

 文はトーマスのぬくもりがまだ残るベッドに行き、横たわった。そして、パジャマをたくし上げ、腰回りのアザを確認した。新しいアザはなかった。古いアザがボンヤリしてきていた。

「よかった。治りそう。トーマスに見せて安心させなくちゃ」

トーマスに宣言したようにベッドで横たわっていた。微熱も収まりかけていた。喉も完全復活まではいかないが、戻りつつあった。トーマスが加湿に心配りしていたからである。トーマスの存在とデグリーの処方薬は、文をみるみる元気にさせていた。

文は、寂しさを紛らわせるため、日本から持ってきた大好きな歌手のCDを流しながら眠った。


 一方のトーマスは、自分のアパートに行き、地下鉄の中で何を持っていくかをシュミレーションしていたので、欲しい物だけを持ち出し、さっと準備をして出かけた。

 大学では、フィリップがトーマスを見つけると追いかけてきた。

「トーマス、フローレンスの友達が悪い事をしたな。ごめん。僕とフローレンスの事を応援してくれたトーマスにひどい事をしちゃったよ。本当にごめん。文は大丈夫だった?昨日、トーマスが休んだから心配でさ・・・」


 トーマスは、フィリップの顔を見たら、例の取り巻きの女性への怒りもどうでもよくなってしまった。

「実は、文が心の病になってしまっていて、暫くは文の傍にいてあげたいんだ。僕が彼女を守り切れていなかったことが悪いから、フィリップのせいじゃないよ。僕が文を深く傷つけてしまったんだ。例の子には・・・ごめん。二度と会いたくないよ」

「だよな。文の病気はヒドイの?」

「実は、扁桃腺炎も同時に罹ってしまっていて、ダブルパンチで文が可哀想なんだ。正直言うと、僕も辛い。あんなに傷ついた文を見ているのは本当につらいんだよ。まだ食欲も完全に戻っていないし、傍にいてあげないとずっと泣き続けるんだよ。体力も精神力も心配なんだ」

「え?それでココに来ても大丈夫なの?」

「文がどうしても行ってくれ、って頼むんだよ。だから、終わったらすぐに帰るよ。凄く心配なんだ。病気が悪化してしまわないか、って考えると勉強なんかしていられないよ!」

「そっか・・そうだよね。心配だよな?あの元気印な文が、そんなにボロボロになる姿はつらいよな? 想像もつかないよ。本当に悪かった・・・」

「フィリップ、僕さ、絶対に文と結婚するって決めたんだ。まだ、文には正式に言っていないけど、前から決めていて、一日も早く結婚したいんだ。とりあえず先に一緒に暮らそうと思っている。君は、僕たちを祝福してくれるかい?」

「もちろんだよ! 凄いじゃないか! 文とならトーマスは大丈夫だ。ガンバレヨ。僕たちも応援しているからさ。文もきっと喜ぶな?」


 トーマスは、身体の内側から熱いものを感じていた。言葉にして言ってみると、不思議と力が湧くものだ。文へのプロポーズは、キチンとしたいから、なかなか結婚の話は出来ないけれど、こうしてフィリップへ伝えただけで、力がみなぎってくる事を感じた。文を自分が守らなければいけない、という使命感と、文と幸せになりたいという希望に対する力だ。文が以前話していた「なるべく自分のやりたい事や夢を沢山の人に発信しなさい」という話を思い出していた。

 フィリップに話すことで、フィリップは応援してくれる。ジャンだってそうだ、とトーマスは気付いた。トーマスがどれだけ文を好きであるかをジャンは知っているからこそ、トーマスの気付かない所で文の異変に気付いてくれていた。みんなに見守られているんだ、と気付いた。


そこへジャンがやってきた。

「文はどうだったの? 怒っていたかい? 」

「怒ってはいなかった。ずっと泣いていたんだ。ジャン・・ありがとう。僕に気づかせてくれてさ。実は、あの日、文は扁桃腺炎とメニエール病に罹っていたんだ・・・悔しいよ。僕が彼女を傷つけて病気にさせてしまったのだから。なのに彼女は僕を責めたりしないんだ」

「そりゃそうだよ。トーマスが好きだからさ。大好きな人を悪者にする訳ないよ。文はそういう子じゃないだろ?」

「ジャンは凄いな。僕は情けなかったよ。それでも彼女はずっと、こんな僕を必要としてくれているんだよ。たまらなく愛しくてさ。なんていうのかな・・・上手く言えないけど、文が壊れるくらい抱きしめたくなるんだよ・・・」

フィリップもジャンも揃って頷いた。

「何かソレ、よく分かる気がするよ」

トーマスは、そんな気持ちになったことが初めてだったので、二人の反応に驚いた事と気持ちを分かち合えたことが凄く嬉しかった。


 それから、トーマスはジャンからノートを借りて、休み時間に休んだ昨日の分を必死に自分のノートへ書き写した。ジャンは、必死なトーマスを見て安心した。

(トーマスが少しでも浮ついた態度を取ったら、今度こそ遠慮なく文の所へ行こうと思ったけど、僕の出番はナシかな?残念・・・)


大学の講義を終えると、トーマスは真っすぐに帰った。今日は、どの女の子からも不思議と話しかけられることはなかった。

(やっぱり僕自身の問題だったんだな・・・文のように僕に堅いガードがあれば、所詮はこんなもんだ)


トーマスは、文のアパートへ向かいながら兄のエリックに電話をした。

「兄さん、仕事中にごめん。お願いがあるんだ」

「何かあったのか?大丈夫か?」

「僕は元気だ。大丈夫だよ。僕じゃなくて、文が病気になってしまってね、僕達これから一緒に暮らすことに決めたんだ。だから、僕のアパートを解約したいんだけど、手続きを父さんと兄さんに任せてしまったから、どうやって解約したらよいのか分からなくて電話した。ごめんよ・・僕のために契約してくれたのに、勝手な事を言って。でも、これからは二人でなるべく生計を立てていきたいんだ。何かあれば、必ず兄さんたちに助けを求めるから、今は僕達を信じて任せてもらえないかな?」

「分かった。今は仕事中だから、また父さんにも話をして、トーマスに電話をする。その時に詳しく話を聞かせてくれ。文の身体は大丈夫なのか?」

「うん、だいぶ良くなってきたんだけど、僕が傍にいてあげたいんだ。病気が治った後もさ」

「そうだな。よかった。大切にしてあげなくちゃな。アパートの件は分かったから、俺に任せておくんだな」

「兄さん、いつもありがとう。ごめんね」

エリックは、トーマスの元気がない声が気になったが、文の体調も心配だった。そのことがキッカケで一緒に暮らしたくなったのだろうと察するが、トーマスの話だけでは、事の全貌が見えてこなかった。

(大学は、あと一年半くらいあるのに、文は今年帰国する、とこの前聞いている。文が帰国した後をどうするつもりなんだ? 何か別の答えが出たというのだろうか?)


 文はトーマスの帰りを玄関で毛布にくるまって待っていた。トーマスは玄関を開けてすぐの所にいた文を見て驚いた。

「ただいま、文。調子はどうだい?こんな所でどうしたの?」

と言いながら、文の額と首の後ろをいつものように挟んで確かめた。

「お、熱はなさそうだね? よかった」

と言いながら、ホッとして抱きしめた。そして、文の肩を抱きながらベッドへと導いた。歩く足取りはまだ弱弱しかった。文は、おもむろにパジャマをたくし上げて、トーマスにアザの場所を見せた。


「ほら、新しいアザがなくなったでしょ? それにアザも薄くなっているように見えない?」

「ほんとだ。よかったぁ・・・背中も見せて」

と言って、背中も確かめた。背中も新しいアザはなかった。

「私、後ろにもアザがあったのね?知らなかった。このアザを発見した時、何か皮膚病になってしまったと思ったの。だって、自分ではぶつけている事知らなくて、ぶつけていても感じていなかったから。でも、この前、アザが真っ黒になった時、店でカウンターにぶつけたの。その時に初めて、ぶつけているからアザになったんだ、って分かったの。ぶつけたところが凄くいたかったのよ。相当ボケてるわよね?」

「だって、病気だったんだから仕方ないよ。耳はどうだい? 聞こえる?」

「うん、昨日よりもまた良くなっているよ。あとは、体力の回復だけだね?」

「そうだね。もう少し食べられるようになればいいね。大丈夫だよ、僕がいるからさ」


 そう答えながら、トーマスは文の本当の心の部分の回復を心配した。扁桃腺炎のように見て分かる病気ではないからだ。何よりも文のこうしている時の行動がそう感じずにはいられなかった。トーマスの身体のどこかに触れていないと不安に感じるようなのだ。玄関で待っていることもそれを物語っていた。

(僕だけで本当に大丈夫なのだろうか?)


「今日ね、一人でいて寂しかったけど、この部屋中にトーマスを感じていたから平気だったの。トーマスが看病に来てくれて良かった。本当に良かった。迷惑ばかりかけて、ワガママばかり言って、トーマスを困らせてごめんね。トーマスが悪い訳じゃなくて、私の性格に問題があるだけなのに本当にごめんね・・・」


そう言って、文はまた泣き出した。トーマスは、抱きしめながら囁いた。

「違うよ。昨日も言ったでしょ? 文は僕にちゃんと自信をつけさせてくれた。安心もくれた。でも、僕がそれを裏切って文に甘えてばかりいたんだ。だから、文が今度は僕に甘える番だよ。君が謝る事じゃない」


 泣くことを我慢しても涙が出てきてしまう文は、苦しそうに泣き続けた。トーマスは、その泣き方を見て文の背中をさすりながら、優しく言った。

「ガマンしなくていいから。泣きたいだけ泣けばいいよ。ちゃんと傍にいて、受け止めるから」


 文はトーマスの優しさの海の中でまた、泣きながらトロトロと眠った。文の力が完全に抜けることを確かめるとトーマスはベッドから出て、ベッドのすぐ脇に机を運んで、そこで勉強を始めた。ジャンからの資料を写している時に、ジャンのまとめ方が上手だからなのか、調べたい事やまとめたい事が沢山出てきたからだ。

文がスヤスヤ眠る横で勉強をすると、高い集中力が生まれた。とてもはかどる事を感じていた。

 三時間ほどで文が目覚めた。トーマスが目の前で勉強をしていて驚いた。

「起きたかい? 僕は、おかげで勉強が凄く進んだよ。 勉強の楽しさを文のおかげで最近感じるようになったんだ。もっと知りたい。もっと頑張りたい。もっと、もっと、ってね。文の寝顔を見ながら勉強するとスラスラ進むんだよ。不思議だなぁ」


 文自身もトーマスが傍にいて眠るのと、トーマスがいない日中に眠るのとでは「眠りの質」が違っていることを感じていた。日中に深く眠れていない事を文は承知していた。文はデグリーの処方したメニエールの薬を飲むと、無性に眠くなることも分かっていた。それをトーマスに話すと

「体を休めると同時に心も休めなさい、っていうことなんだよ、きっとね。文は、もともと丈夫だから、こんなに早く回復しているけど、他の人はそう上手くコントロールできないんじゃないかな?だから、眠らせて休ませるんだよ、きっと」

「じゃあ、私はトーマスのおかげね?トーマスが傍にいてくれるから元気になれているんだもの。明日は、トーマスが帰ってきたら、二人でデレーズまでお買い物に行きたい。それがちゃんと行くことが出来たら、土曜日から仕事にも復帰しようと思うんだ」

「そうだね。その方が文にはいいかもしれないね?」


今日、玄関でトーマスの帰りを待っていた文のことを思うと、文は寂しくて仕方がないのだと感じていた。ならば、少しでも早く仕事に復帰させてあげた方が、文のためにはいいような気がしていた。

(ボスもめちゃめちゃ喜ぶはずだな)

夜ご飯は、文が豪からのおにぎりや八重と貴子が持ち寄ってくれたお惣菜で、スキヤキ風丼と中華丼を作って準備していた。トーマスは、文の料理のアレンジに感動した。そして、文の料理はお世辞抜きにしても上手かった。


 その夜は、お互いがハンドマッサージをすることにした。文が見本でトーマスにまずはマッサージをした。トーマスは、文がマッサージをし始めるとすぐに目をトロンとさせて、眠そうにしていた。文はその顔を見て幸せな気分になる自分を感じた。いつまでもマッサージし続けたくなる喜びだった。

「ふみ~ これもダメだ。その手を止めないでほしくなるよ~ 魔法に掛けられているみたいだ。でもさ、ところどころ、痛いんだけど、気持ちいい所もあるね?」

「そこはね、老廃物が溜まっていたり、疲れがたまっているところだと思うよ。手が・・というよりも、内臓と連動しているから、そっちの疲れかもね?その人の利き腕にもよると思うけどね?」

「そっか、だから、文は、そこを流すように重点的にマッサージしてくれていたんだね?じゃあ、今度は僕が文を気持ちよくさせる番だね?ちゃんと教えてくれよ。これから、お互いこうして代わる代わるマッサージできたらいいよね?」

「うん、そしたら私もトーマスに、もっと惚れちゃうかもしれない」

「じゃあ、惚れさせるために頑張るよ!」


 トーマスは、文の力加減を文のマッサージを通して理解していたので、文へのマッサージにも気を付けてみた。文はすぐに眠ってしまった。トーマスは、マッサージをしながら文の腕といい、掌といい、コリコリと、文の言い方でいうところの「疲れ」を感じていた。

(こんなに体を酷使して、君は一体、どこに向かおうとしているんだい?)

文がトーマスに信頼を寄せて眠る顔を見て、トーマスもベッドに入った。すぐに条件反射のように文がしがみついてきた。その仕草をトーマスは、いつも可愛く思えて仕方なかった。

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