第5話 ふたつのイベント ~サブロン教会の導き~

 足早に十月も最後の週に入っていた。日本と違い、すっかり冬が近づいている事を感じていた。

 週末の土曜日、仕事の帰りにトーマスとサブロン教会のアンティークマーケットへ出かけた。久しぶりのマーケット散策に二人はウキウキしていた。

以前、シルバーのカトラリーを販売していた露店の前で文の足が止まった。カトラリーの横にアンティークの木のケースに入れられたアクセサリーが目に留まったのだ。木のケースではあるが、ケースの天井、手前、両サイドはガラス面になっていたので、ケースの中がよく見えた。文は一点をじっと見つめた。その文に気付いたトーマスは気になって文を覗き込みながら尋ねた。

「何を見つけたの?」

「あのリング・・あれって王冠だよね?」

そのリングは、ゴールドリングで、ルビーが埋め込まれていた。が、そのルビーを埋め込んでいる部分のデザインが王冠になっていて、リングが「手」になっているのだ。しかもよく見ないと分からない。両手で王冠を差し出しているかのようなデザインのリングに文は見とれていた。


「なんて、素敵なデザインなの!」

一瞬にして虜になってしまった。文の様子を見ていた店主がケースからリングを取り出し、文へ差し出した。

「はめてもいい?」 

「もちろん、いいよ」

はめてみると、文の薬指にピッタリとはまった。シンデレラのガラスの靴のようだ。文はため息を漏らした。

「本当に素敵!ありがとう。これが似合う女性になったら、必ず買いに来るわね」

と言って、リングを店主に返した。トーマスはその光景を微笑みながら見ていた。


翌日の日曜日。文は、サブロンのあのリングが忘れられず、確かめたくて出かけた。リングはそこに鎮座していた。文は、隣にあるシルバーのカトラリーの粉糖を振りかけるスプーンを購入して帰ってきた。スプーンを眺めながら誓った。

(いつか、あのリングを買おう!)


十一月に入った。

トーマスは、文の気持ちを確かめたくて週末のサブロンのアンティークマーケットへ再び誘った。文は、尻尾を振って駆けてくる子犬のようにトーマスについてきた。

「あのリングあるかなぁ?」

「あのリングって?」

「ほら、王冠のデザインのリング。ルビーは私の誕生石だから、帰国する前に必ずアレを手に入れて帰国するんだ。私ね、この前の日曜日もリングがあるのか確かめに行っちゃったの」

「そうだったんだね」

トーマスの決心は固まった。

今日も先週と変わりなくガラスケースに鎮座していた。文の目はキラキラしていた。その文を見つめて、トーマスは囁いた。

「あってよかったね?」


 次の日、トーマスは早起きをして、身支度を早々にサブロン教会へ向かった。

陳列し始めている頃を狙って、例のリングの店の前にやってきた。店主は、トーマスを覚えていて声をかけた。

「やぁ、おはよう。今日は一人なんだね?」

「あの王冠のリングはありますか?」

「あるよ。もしかしてプレゼントするのかい?」

「はい。でも、僕が買ったことを内緒にしてほしいのです。彼女はまた、売れていないか確認に来ると思いますが、僕が買った事だけは言わないで欲しいのです。彼女にプレゼントをするのは、半年以上、先になってしまうから」

「いいよ。このリングもそれだけ大切にしてもらえたら本望だし、彼女ならきっと大切にしてくれるだろ?彼女のアンティークを愛でる目は確かだから。大切にしてくれるよ。これは、イギリスで仕入れてきたんだよ。1920年代の代物だ。きっと貴族に憧れて民衆の間の腕の良い職人の手によって作られたものだと思うよ。ケースもつけるから、半年先の成功を祈るよ」

「はい! ありがとうございます」


 トーマスは、文が帰国する前にプロポーズを正式にしようと思っている。それまでに自分の将来も固めなくてはいけないので、今は言えずにいるけれど、でも、彼女が帰国してしまう前に絶対に自分の気持ちを伝えようと思っている。その時にこのリングをエンゲージリングとして渡したいのだ。それまで、大切に保管しておこう。文が見つけた日に閃いたのだ。これは運命に背中を押されたチャンスだと信じたかった。


 トーマスは、アンティークとの出会いは、ある種の「出会い」だと思っている。長い歴史を超えて人から人へと受け継がれ、自分の手元へ来る。リングは、そんな簡単には手放さないものだ。つまり、何十年ぶりかで自分の手元に来ているはずである。たった一つしかないリングの埋め込まれた石が文の誕生石で、サイズもピッタリなんて、こんな偶然があるだろうか?と考えた。このリングは、文の元へ行く運命であり、自分達との「出会い」なのだと思った。文のあの目は、必ず帰国前に買うつもりでいる目だ。売れてしまって泣くかもしれない。でも、トーマスにとっても一世一代の勝負の代物だ。このリングが無くては成り立たない。

(文、君が見つけたのにゴメン!)


 購入後、そのままサブロン教会に入り、文への永遠の愛を誓い、リングを無事に渡せることを祈った。

嬉しさ半分と文への後ろめたさ半分でトーマスはサブロンをあとにした。


   *****


文の語学学校は、この十一月で終了となる。文は、それなりに上達してきてはいたが、トーマスとの会話は、まだまだ英語が三分の一ほど入ってしまう。おまけに文は日本語の独り言が普通の声で漏れてしまうので、トーマスが文の口癖の日本語をチラホラ覚えるようになっていた。

マジ? サイアク! ヤバイ! カッコイイ! うま~い・・・


 語学学校では、最後に大きなテストがあって終了となる。クラスの中も何となく、もうすぐ終了するからか、連絡先の交換をしたり、ランチに行ったりして急に交流が活発になっていた。文は、相変わらず学校の後の予定がビッシリなため、クラスのみんなとの交流は殆どなかった。


 そんなある日、クラスメイトのベトナム人ハオが、授業後の帰るときに文の所へ寄ってきた。

「文、もうすぐクラスのみんなともお別れだから、連絡先の交換とかランチに行かない?」

「ごめんね、ハオ。私、お仕事なの・・・だから、行かないわ」

「文はベルギーに残るの?それとも来月には日本に帰るの?」

「しばらくはベルギーにいるけど、来年帰国するよ」

「ここを卒業しても文に会いたいなぁ」

ハオは文の肩を組んできた。文はビックリして、ハオの手を優しく振り払いながら

「ほんとゴメン。遅刻しちゃうから行くね」

言って、走り出した。その光景をトーマスはバスケに行く前だったので、一部始終見ていた。


(文は人気があるなぁ。本当に誰かに触れられるのが嫌なんだなぁ。日本人の彼女でよかったかも・・・)


 ベルギーの女性とは明らかに違う文の行動は、トーマスには不思議に映ったが、決して嫌な事ではなく、むしろ歓迎すべき行為であった。

 文は、語学学校で優秀な成績を収めたいわけではないし、不特定多数の友達を作りたいわけでもなく、フランス語が少し話せて聞き取れてさえいればいい、というのが入学のキッカケで、今に至ってはトーマスと話が出来ればいい!という一点に絞られているので、余分な行動を慎みたかったのだ。それに、今日は豪と新しいお惣菜「天ぷら」「じゃがいもの煮っころがし」を作って、夕飯の総菜として販売する準備をしなくちゃいけないから、それどころじゃないのだ。豪が文を待っているのだから!


 その日の午前中、「ゆかり」に、あるお客様が来ていた。

彼は、日本の銀行員だった。豪は、買い物客だと思い、「いらっしゃいませ」と言って、バックヤードに行こうとしていた。ところが、その男性に呼び止められた。

「失礼ですが、こちらに月見 文さんというお習字の上手な女性の方がいらっしゃると伺ったのですが、本日はいらっしゃいますか? 申し遅れました。私は富士山銀行の若松と申します」

「あぁ、文は午後からの出勤なんですよ。あの子が何かしましたか?」

「いやぁ・・・先日のマロニエ祭のご活躍を拝見しまして、是非、当行にご興味がないかな?と思いまして、一度ご本人とゆっくりお話をしてみたくて、寄らせていただきました」

「そうでしたか。彼女は、来年、日本に帰国する予定でおりますから、若松さんのお役に立てるのかどうか分かりませんが、本人には私からも伝えてみます。有難いお話を頂戴いたしまして、ありがとうございます」


 豪は、娘のように思う文が評価されたことが嬉しかった。文が日本の企業に疲れてベルギーに来たのに、その日本企業からスカウトされているのだから、凄い。真面目に一生懸命取り組む文ならきっとこういう日が来ても不思議ではないな、と考えていた。

(でも、多分あの子はこの話を蹴るだろうなぁ)


午後に入り、文が慌てたようにやってきた。

「こんにちは~お疲れさまです。 今日も宜しくお願いします。店長、仕込みに入りますね」

「いや、文、仕込みは済んでいる。もう販売するだけになっているから、ちょっとコッチ来い」

文は豪の何とも複雑そうな顔を見て不安になった。

(トーマスに何かあったのかしら?それとも私が何かしたのかしら?)

文の不安をよそに豪は、午前中の「お客様」について話をし始めた。文も豪のように複雑な顔になった。

嬉しい有難い話ではあるが、どうも文の琴線に触れてこないのである。感覚人間の文にとって、どうにも説明できない状況であった。しかし、豪は分かるはず、と思って自分の意見を言ってみた。


「店長、大変身に余る光栄なお話なのですが、クソ生意気な事を申し上げますと、私の琴線には触れてこないお話なので、お断りしようと思います」

とキッパリ伝えたら、豪は豪快に笑いだした。

「文! そうだ、そうなんだよ。俺も有難い話なんだが、どこかピン!と来なくてな。琴線に触れる、か。いい言葉だな? 上手く断ればいいよ。お前の人生だしな」


 週末、文は「ゆかり」の後でグラン・プラスへ行った。グラン・プラスは文のお気に入りの場所だ。今日は、ボビンレースのお店をじっくり散策したくてやってきた。大抵のお店は、アンティークレースも扱っている。文はそれらを拝みたいのだ。触れられなくても、ただ見るだけでいいのだ。

何件か回って、ゴディバの横のレース店に入った。そのお店のウィンドゥには所謂、ブラッセルレースが所狭しと飾られていた。店内に入ってみると、店内にはブルージュレースも沢山あった。文は改めて感じた。

(やっぱり、私はブルージュレースが断然好きだわぁ~)

きっと、一人でとろけるような顔をしていたのだろう。


「何かお見せしましょうか?」

店主のマダムが聞いてきた。

「ブルージュレースのコースターとブルージュレースのアンティークも見てみたいのですが、拝見出来ますか?」

文は、図々しくも言ってみた。マダムはニコッと笑って、バックヤードに消えた。

すると、高さが低くて大きな引き出しを持って現れた。なんと、引き出しの中にギッシリと沢山のレースが納められていた。(素敵すぎる~)腰を抜かしそうな感動だった。

 コースターは、様々な種類があった。生成りの糸だけで編まれたもの。真っ白な糸で編まれたもの。途中に金や銀の糸を編み込んだもの。色々あって見惚れていると、マダムは次の引き出しも持って現れた。おもむろに手袋をつけた。

「こちらがアンティークよ」

大きな、大きなウェディングベールのようなレースだった。目の前で見ているコースターの糸よりももっと細い糸で編まれていた。思わず「はぁ~」とため息が漏れてしまった。いつまでも眺めていられそうだった。

アンティークレースの方は、マダムにお礼を言って引き出しに戻してもらった。

もう一つの引き出しのコースターから二枚選んで購入した。マダムは文に尋ねた。

「レースが好きなの?」

「とっても大好き。見るのも好きだけど、編んでみたいの・・・」

あまりに夢の中にいるような感覚だったので、心の声がそのまま出てしまった。


「あら?やってみたらいいじゃない?貴女、日本の方でしょ?私の知り合いが日本人に教えているのよ。そこに行けば、一緒に学べるわよ」

「本当?私でもできるかしら?連絡先、伺っても大丈夫かしら?」

「そこで待っていて。彼女に連絡とってあげるから」

しばらく店内のレース達を見ている事にした。程なくしてマダムは現れた。


「ほら、この人が私の友人。連絡してみてね。あなたのお家に近い教室を案内してくれると思うわよ。因みに彼女はベルギーの貴族だから。安心してね」

「本当?ありがとうございます。早速近いうちに連絡してみます」


その店を出た文は雲の上を歩いているようなフワフワした気分だった。スキップしたくなる気分だった。

(目茶苦茶ラッキーじゃん! 私ってスゴイ!)

自分の行動力と勇気と運の良さに気持ちも明るくなった。


 次の日にマダム カトリーヌへ連絡した。自分のフランス語が通じるか不安ではあったが、それ以上にボビンをやりたかったので、勇気を出して電話してみた。それに貴族の人とお話が出来るなんて! 一年前の日本の私が聞いたら卒倒するだろうなぁ、と想像した。

カトリーヌは日本人相手が慣れているのか、とてもゆっくり文に話をして、途中にチラホラ日本語も交えて話進めたので、分かりやすかった。事前にカトリーヌは、日本人の生徒にも連絡していたので、一軒の日本人宅を文に紹介した。そこであれば、水曜日の午前中に教えてくれるのだ。場所も、文に家具を譲ってくれた伊藤家が住んでいたアパートで、若松というお宅だった。カトリーヌは若松婦人の連絡先も文に伝えたので、早速連絡してみた。若松婦人は、とても上品な奥様だった。


「カトリーヌから連絡はいただいております。わざわざお電話くださってありがとうございます。文さんさえよろしければ、一度、見学にいらっしゃらない?そうした方がお道具や材料を購入されるときに参考になるんじゃないかしら?それに、どんなふうにお稽古をしているのかも知っている方がいいものね?いかが?」


 若松婦人は、細やかな気遣いをするような女性だった。文は言葉に甘えて見学の日をその場で決めた。学校を休まなくてはならないため、次の日に貴子と八重に伝えた。文の語学学校では、基本的に出席しなくても咎められない。授業料を払ってあるので、来るか来ないかは生徒の自由、責任であるということなのだそうだ。試験にさえ合格すればよいのだ。合格しなければ、日本の車の免許のように追試の授業料を支払ってまた受ける、の繰り返しだ。

八重と貴子にその日に習ったことを後日、教えてもらう事で話をまとめた。文にとっては初めての欠席になる。しかし、他の生徒は割と皆、休んでいた。八重と貴子は文に感心し、応援した。


「文ちゃん、また新しい事見つけたのね。しかもボビンよ。凄いね~日本人の奥様方は結構やってらっしゃるから、安心じゃない?作品が出来たら見せてね」


水曜日。

若松家への手土産に文のお気に入りのチョコレート屋さんで調達したチョコを持って行った。若松婦人はとても喜んでいた。

若松婦人とは別に玉野婦人、鈴木婦人がいて、ボビンの稽古の準備をしていた。二人もすぐに文に挨拶をして、互いに簡単な自己紹介をした。文を入れて四人とも日本の違う所から集まっての集団となった。若松は京都。玉野は愛知。鈴木は栃木だった。旦那様の勤め先もどうやらバラバラらしい。

自己紹介をしている時に若松婦人が、何かを見つけたように文に尋ねた。

「文さんって、もしかしてマロニエ祭でお習字の実演をされていた?」

「はい、していました」

「あらぁ! 主人に今夜お話しなくちゃ! 主人が文さんの事を探していてね。どうしても文さんとお話がしたい、って言っていたわよ」

「え?もしかして、先日、ゆかりの方へご来店された方ですか?」

「あぁ、そうかもしれないわ。職場にお邪魔する、って言っていたから」

「私もご主人にお話ししたかったので、良かったです。私がお店を留守にしている時にお越しいただいていたのです。お忙しい中お越し下さったのに、申し訳ありませんでした。また、改めてお話に伺わせていただきます」


何とも狭い世間である。日本人のコミュニティに居るのだから仕方がない。少しやりにくくはあるが、こんな事でひるんではいけない。言う事はキチンと伝えなければいけないのだ。それがこの国のルール。


 暫くすると、マダム カトリーヌがやって来た。とても上品なマダム、いやお婆ちゃんなのだが、申し訳なくて言えないし、お婆ちゃんには見えない「マダム」だった。背筋もピン!としているし、とにかく品がある。丁寧に挨拶をして見学させてもらった。


 ボビンレースは、「ボビン」といって木の棒の先にレースになるための糸が巻き付けられている棒を数種類のパターンに従って交差させながら編んでいくものだ。ボビンレースの台となるものがあり、若松家の生徒の人達は皆、丸い台なのだが、他にも枕のような形のものや回転できる台などもある。

その台に設計図となる図案を針で刺して固定させて、その図案の模様に編まれるように図案に編んだ糸を針で誘導させて、図案に沿って挿していく。

編み始まりからルールに従って編み始め、一つのルールを編んだら、針を穴に刺して次のルールの編み方をする。また穴に針を刺す。というように繰り返し、編んだものを図案のようにするために針で誘導していくのだ。

文は、ボビンのコロンコロンという音が美しくて聞きほれてしまっていた。


 若松は額縁に入れるような大作を仕上げていた。玉野は先日、文が買い求めたようなコースター程の大きさの雪の結晶を編んでいた。そして、鈴木はボーダーレースを編んでいた。カトリーヌが鈴木に念入りに指導をしていた。若松が文に声をかけた。


「鈴木さんは、次に新しい作品に取り掛かるから、その作品に使われる編み方を、あぁしてボーダーで練習しておくのよ。ホラ、私達も新しい作品に入る前にはこうして、ボーダー編みから練習しているの」

といって、過去の作品を見せた。一瞬、それらのボーダーは「栞」のようにも見えた。


「栞みたいで素敵ですね」

「そうねぇ。でも、これを仕上げているときは、次の作品を考えて取り組んでいる時だから、夏休みの宿題に取り組んでいるような気分なのよ」

と言って、クスッと笑った。

確かにどのボーダーも一つとして同じものはなく、若松の作品のファイルを見ると、ボーダーの次に作品がファイルされている。その作品は、隣のボーダーの編み方がふんだんに取り入れられた作品になっている。栞のように見えるボーダーは、所謂「サンプラー」なのだ。

(こんな風にして学べるのなら、私にも無理なくできるかも?)


 来月から参加することに決めた。今月は学校がある。来月になれば学校が無くなるから水曜日は自由になる。三人のご婦人とカトリーヌに来月からお願いします、と頼んだ。カトリーヌは優しく勿論よ、と言って、玉野に文の道具と材料の事を話していた。


「文さん、私、来週の金曜日に材料を買いに行くんだけど、ご一緒にいかがかしら?グラン・プラスとかでも買えるのだけど、お値段が同じものでも高いのよ。ブラッセルの郊外になってしまうけど、私が運転するから一緒にどう?そこで大抵のものを買ってしまえば、あとは糸を購入する位だから、グラン・プラスなどで買えるものだから、どうかしら?」

「ご一緒させていただいていいですか?」

「もちろんよ。じゃ、きまりね」


 文が年下で学生ということもあるのだろうが、付かず離れず、困った時にはお互い様、という精神が文は好きだった。来週の金曜日が俄然、楽しみになってきた。

「私の方は、来週の日曜日の予定が文さんに無かったら、午前中を空けておいて欲しいの。主人に伝えておくから会いに来ていただける?」

若松婦人からのオマケがついてきた。

ボビンの見学会の後でゆかりの仕事場に向かい、豪へ思わぬ「出会い」があったことを報告した。

「文は、人を引き寄せる力があるんだろうなぁ。偶然とは思えない力だよなぁ」

「たまに自分で怖くなる時がよくあります」


その日のゆかりは、まったりと時間が過ぎていた。豪が突然、文に話しかけてきた。

「文、そういえば、もうすぐ、トーマスの誕生日だな?」

「え?そういえば、聞いたことが無かったです。いつなんですか?」

「だと思ったよ。全く文は、トーマスに甘えてばかりだなぁ~」

「え?何で店長は知っているんですか?いつなんですか?」

「そりゃ、色々な話の流れで早い段階に誕生日なんて、年齢とセットで聞くものだろ?二十日だよ、二十日」


文は自分の事で頭がいっぱいで、すっかり聞くことを忘れていたのであった。

(何かサプライズをしなくちゃ!)

あと一週間しかない。仕事中も帰りのメトロの中でも必死に考えた。この際、トーマスにはこのまま誕生日を聞かない事にした。


次の日にトーマスに会うべく授業の後で、いつもトーマスと会いそうな場所で待っていた。フィリップとピーターが二人並んで歩いてきた。

「こんにちは。トーマスに会わなかった?」

「トーマスならもうすぐ来るよ。ここにいれば会えるはずだよ。それとも呼んでこようか?」

「大丈夫よ。ありがとう。またね」


しばらくすると、女性を挟んでトーマスとジャンが建物から出てきた。文は一瞬、胸の奥がチクンとした。

トーマスは文を見つけると笑顔で走ってきた。

「文。もしかして、僕を待っていたの?」

「そうなの。トーマスに相談があってね。来週の水曜日、仕事の後でトーマスのお家に行ってもいい?」

「もちろん、いいよ。困りごと? その日も泊まっていくかい?」

「困り事ではないけど、また新しい事を始めることにしたから相談したくてね。でも、その日は泊まらない! 空けておいてね。じゃ」


文は、何となく早くその場を立ち去りたい変な気持ちになっていた。トーマスが悪いことをしているわけでもないのに、小さな「哀しみ」の感情が生まれていた。

トーマスは文の様子が変だとは思ったが、その「相談」のことだと思って、気にはなったが、来週じっくり聞こうと思っていた。


文は、ドキドキしていた。

(トーマスだって、クラスメイトと歩くことくらいあるわよね?ジャンだって一緒だった訳だし・・・)

でも、物わかりの良い自分よりも、自信がない自分の方が勝って、涙が出てきた。いずれ日本へ帰ったら、トーマスは会えない事できっと、昔の文の彼のように近くにいる女性を好きになるのかもしれないな、と考えてしまうのだった。

(誕生日も聞かない彼女なんて! 失格だよね? 最低だよね?)

それでも、トーマスの誕生日は祝いたかった。二人で過ごしたかった。トーマスが生まれて来てくれたから出会えたわけだし、トーマスが歳を重ねてくれていたから出会えた。二十三歳の文。トーマスは来週、二十一歳。気付けば、三歳も離れていたけど(とてもそんな感じがしないのだけど)、それも来週で二歳違いに戻る。

来週までは、とにかくサプライズの計画を考えよう。トーマスが喜んでくれる、文に今できる精一杯の事をしよう、と気を取り直すよう努めた。


 あの日まで、授業の後の仕事の事で頭がいっぱいだったため、トーマスを待つ、という行為をしたことが無かった。文は、豪へ何としても「労力で恩返し」をしたい一念だったからである。心のどこかで、トーマスを待つことを覚えてしまうと仕事に行く事ができなくなりそうな予感がしていて、目の端では気になっていても気にしないようにしていたのだ。

 一度、見てしまうと不安が募る。あの日から、のんびりバス停に向かうようになっていた。そうしながら、目の端で注意深くトーマスの姿を探している自分にも気付いていた。


そして、月曜日。

トーマスと例の女性が二人で歩く姿をとうとう見つけてしまった。後ろ姿ではあったが、間違いない。手を繋いでいるわけでもないし、お互い触れ合っているわけでもない。だが、無性に不安なるのだ。呆然と立ちすくんでいたが、ぐっと我慢をしてその場を立ち去った。

ジャンと貴子と八重が立ち話をしていた時にその文の姿を丁度見ていた。明らかにガックリと肩を落とした文を見て、ジャンは不思議そうに呟いた。

「文はどうしてトーマスに話しかけないんだろうな?」

「話しかけない、じゃなく、話しかけられなかったんだろうね。ジャンもまだまだ乙女心が理解出来ていないのね? 文ちゃん、大丈夫かしら?」


 そして、とうとう水曜日がやってきた。十一月二十日。トーマスの誕生日である。

豪にお願いをして四時キッカリに終わらせてもらった。一週間しかなかったけど、自分なりに準備は出来た。

バスケ姿のトーマスのマスコットをフェルトで作ったのだ。それから、先日、グラン・プラスのレース店で買い求めたコースターを丁度、正方形のフレームを見つけたので、その中に収めた。

それから、町田の教室でお稽古の後、小さな色紙に「信愛」と筆でしたためてラッピングした。


 最後に食事の用意だ。文は生クリームやカスタードクリームが苦手で食べられないので、お手製の紅茶のシフォンケーキを作った。粉糖を先日のアンティークマーケットで買い求めた専用スプーンでふりかけて仕上げた。

 あとは、ゆかりのキッチンを拝借して、お寿司のケーキを仕上げた。荷物がとんでもない量になってしまったけど、トーマスが喜んでくれるのか不安だった。今の文は「自信」のかけらもなく「不安」しかなかった。準備も「意地」だった。もし、あの女性にトーマスが取られる日が来ても、自分の方がトーマスを大好きであることと、トーマスの事を考えて用意できるはず、という「意地」だった。

トーマスのアパート前に来て、深呼吸をしてから呼び鈴を鳴らした。

「待っていたよ。おいで」と言って、トーマスは勢いよく扉を開けた。

「お邪魔します」

思わず日本語で他人行儀のような言葉を言ってしまった。

トーマスは何て言ったの?と聞いてきたので、日本の靴を脱ぐときの習慣の話をして胡麻化した。


「さぁ、おいでよ。今日は荷物が多いね。どうしたの?」

文は大きく息を吸い込み、それを全て吐き出して、努めて明るく

「トーマス! ハッピーバースディ!」

と言って、紙袋を渡した。

「え?文に誕生日を教えたかな?」

「聞かなくてごめんね。彼女失格でしょ? 店長から教えてもらってショックだったの。本当にごめんなさい。もしかして、今日は誰かと予定あった?」

「あるわけないよ。ブラッセルに来てからは、いつも一人きりのバースディさ」

「本当に?」

「本当だよ。兄さんに聞いてみなよ。いつも兄さんが話し相手になってお祝いしてくれるんだよ。寂しいもんだよ。でも、今日は偶然、文が来るから兄さんに電話してくるなよ、って言ったんだぁ。そっか、偶然じゃなくて、文は知っていてくれたんだね。文は謝るけど、僕も文の誕生日知らないんだよ」

「そっか、私も言ってなかったんだね。私達って変だね。こんな事も知らないでお付き合いしているなんてね。私は、七月七日生まれなの。だから、七月七日から昨日まで恐ろしい事にトーマスと三歳違いだったのよ! あぁ神様は意地悪だわ。でも、今日からは二歳。それでも二歳。嫌よね?同じ年の女性や年下の女性の方がカワイイもんね?」

文の不安が言葉の端々に出ている。しかし、トーマスは一向に気にしていない。


「いや、そうは思わないよ、まったく。僕には文しかいない。永遠にね」

と言って、両手を広げた。文は迷わずそこへ飛び込んだ。

「ありがとう。お祝いしてくれて。本当に嬉しいよ。今日、泊まっていかないの?何か用事あるの?折角の二人での誕生日なのに文が帰っちゃうのはイヤだよ」

「だって、着替えも持ってきてないし・・それに、私、誕生日知らなかったから、嫌われるな、って・・・」

「そんな事で嫌いにならないよ。じゃあ、文も僕の事を嫌いなのかい? そんな事言わないで、そこのスーパーで買ってこようよ。ねっ?いいでしょ?それとも何かあるの?」

「ん~分かった。買いに行く。トーマスも一緒に来てね。でも、着替えをしてから学校へは行きたいから、明日は早く出て、一旦私のアパートによってから学校へは行くね」

「やった! 分かったよ。明日は、僕も一緒に出るね。で、文のアパートまで行って、一緒に学校まで行こうよ。さぁ、そうと決まれば、スーパー行こう! 家の中では、僕の洋服を着ればいいよ」

文は、自信はないけど、今は彼の言葉を信じることにした。


トーマスは上機嫌だった。彼女と二人で過ごす誕生日が初めてだったからである。この前の文が元気なく感じたのは、きっと自分の誕生日を知っていなかったことへの罪悪感からだったのだ、と考えた。


買物から戻り、いよいよ二人きりの誕生日会だ。文はまず、シフォンケーキを取り出して見せた。

「え?これ、文が作ったの?」

「そうよ。今から見せるものは、一つを除いて全部手作り。そして、全部上手くできた自信がないんだぁ。でも!心は込めたからね」

「分かっているよ。文からのプレゼントっていうことに一番の意味と価値があるんだから、余分な心配はしない!いいね?」


次に寿司のケーキを取り出した。

「トーマスがお寿司を食べられるかどうか分からなかったから、サシミとかを使わずにベルギーの食材を使って作ってみたの。サーモンや生ハムをサシミに見立てて、他にキャビアやイクラとかね。中の層にはキュウリやシコン、マッシュルームも沢山入っているから」

「凄いなぁ~ 文は本当に料理上手だよね?いつも感動しっぱなしだよ」

「いやね~ この前、貴子さんや八重さんの料理も食べたでしょ? 彼女たちの料理も凄く美味しかったじゃない?」

「美味しかったけど、文みたいに感動はなかったよ。文はいつも、僕の事を考えながら作ってくれているから嬉しいんだ。他の人が作る物とは違うよ!」

(ダメだ・・・)

スイッチが入ってしまった。文は、ボロボロと泣き始めた。トーマスは困惑した。

「え?文、ちゃんと僕の言葉理解している?僕は褒めたんだよ。どうしたの?」

「ごめん・・・」

と言って、しばらく泣き続けた。不安な気持ちでいたこの一週間分の涙だった。胸の奥がぎゅうっと締め付けられていた。

「ごめんね。私ね、自分に自信が無さすぎてどうしようもないの。トーマスを誰かに取られてしまいそうで・・気付いたら、別の女性の所にトーマスが行ってしまいそうで、いつも不安なの。だから、トーマスがいつも私を認めてくれることが凄く嬉しくて幸せなの。言葉の意味は分かっているから安心して。本当にいつも優しくしてくれてありがとう」

トーマスは泣いている文をいつものように抱きしめて、文の背中を優しくさすった。

「大丈夫。文は今のままでいいんだよ。僕は文以外の誰の所にも行かないよ」


文は、涙を拭きながら、次に手作りマスコットを取り出した。

「トーマスはカッコイイんだけど、私には、かっこよく作れないから、かわいく作ってみたの」

トーマスは子供のように喜んだ。毎日、リュックに付けていく、と言ってすぐに自分のリュックを取り出し、つけて見せた。文がキーホルダーを付けていたからだ。そして、色紙の入った包みをトーマスへ渡した。

「開けていいの?」

「どうぞ。そのプレゼントだけは、少し自信があるかな?」

トーマスが慎重に包みを開けた瞬間、一瞬にして彼の顔がパァっと明るくなった。

「文、この字は、僕と文が一緒に書いた字だ!ほら、あそこに飾ってあるでしょ?」

トーマスは、以前、町田の教室で文に手を取ってもらって書いた半紙の作品を大切に額へ飾っていたのだ。


「この字はね、信じて大切にする心という意味なの。私の想いを信じてほしい。トーマスを大切にしたい、という想いで書いたの」

「マロニエ祭でジャンが書いてもらっていたのを見た時に嫉妬したんだ。僕にも書いてほしいな、ってね」

「あれは、心を込めて書いているけど、仕事としての心だからね。トーマスへのこの色紙は、愛が詰まっているから、まったく別ものよ」

トーマスの満足そうな顔で安心した。トーマスがジャンに文の作品の事で不満を持っているのではないか?ということは気になっていたからだ。

「そして、これが最後のプレゼントで今日の報告事項なの。これは、後で説明するとして、先にご飯食べようか?」

「文がそれでよければ、そうしよう」


二人は、二つのケーキを心行くまで楽しんで食べた。文は、胸がいっぱいで少ししか食べられなかった。トーマスが喜んで食べてくれることが何よりも嬉しかった。


「文・・・もう一つ、プレゼントが欲しいんだけど、いいかな?」

「なぁに?難しいものはダメだよ」

「大丈夫・・・」

と言って、突然、唇を重ねてきた。二人にとって初めての「出来事」だった。


文は、トーマスをまともに見ることが出来ず、恥ずかしかった。それを察したトーマスは、抱きしめた。

「ごめん。いやだったかな?ちゃんと許可を取らなくちゃいけなかったかな?そしたら文は断る気がしたから。でも、これは僕の愛情表現なんだ。これ以上は何もしないから、せめて文と二人きりで会える時は、キスだけはさせてほしいよ。文が誰かに取られる気がして不安になるからさ。驚かせてゴメン・・・」

「いやじゃなかったよ。嬉しかった。でも、凄くびっくりしすぎて、恥ずかしくてトーマスの顔を見られないじゃん! これがもう一つのプレゼントなら、私からキチンとするから。お願い・・・目を閉じて」

今度は文から唇を重ねた。ベルジャンショコラのように甘い香りがした。文の唇が微かに震えている事を感じたトーマスは、苦しくなるほど文を抱きしめた。

「文、ありがとう。最高の誕生日だよ。毎年、こうして歳を重ねていこうね」

「そうだね。そうありたいね・・・」

一瞬、他の女性と歩くトーマスを思い出したが、今は必死で忘れたかった。


それからは、トーマスの腕の中でボビンのコースターのプレゼントを見せながら、その店での出来事から若松家の話に至るまで話をした。

「次のチャレンジは、ボビンレースなんだね?文がベルギー文化を学ぶことは凄く僕にとっても嬉しいよ」

「う~ん、もしかしたら、一番やりたいものかもしれないね、ボビンが」

「ムッシュ若松は、文から残念な話を聞かされるからショックを受けるだろうなぁ」

「でも、私はこれも出会いだと思っているから、ただお断りをするのでなく、キチンと自分のやりたい事も伝えて、ご理解していただこうと思っているの。そしたら、別の形で、若松さんのお役に立てるかもしれないし、逆だってあるかもしれないでしょ?誠心誠意伝えようと思うんだ」

「確かにそうかもしれないね。文の言う種まきだよね? 

僕もね、あれから色々悩んだり勉強をしたりして、今考えているのは、ゆかりや僕のアルバイト先のおかげなのか、飲食や日用雑貨の流通に特化した仕事に就きたいと考えるようになったんだ。

この前のマロニエ祭は、ボスと働いて本当に楽しかったんだ。仕事にやりがいを感じた、っていうのかな?もっと、もっと、って考えるようになったんだ。

取引先のニーズにも合わせていくんだけど、そこへ提案が出来るような、仕掛けていくような、そんな仕事をしてみたいんだ。その為には、文が今、沢山の事を学んでいるように僕も沢山の事を学ばなくちゃいけないな、と思っている。知っていなくちゃいけないな、って考えている。

だから、文が色々な事にチャレンジしてくれることは、僕にとっても大きな財産なんだ。君から僕の知らない世界の事を沢山、教えてもらえるだろう?僕一人でこの頭の中で考えていたって、ボビンレースなんて出てこないし。寿司ケーキなんて逆立ちしても出てこない情報だよ。そうだろ?だから、文が居てくれることが僕には全てなんだよ」

文は、トーマスの腕の中でとても満たされた気分でいた。素直に共に成長できる相手でありたいと思えた。



金曜日。

玉野婦人と一緒にベルギー郊外のボビンレースの材料問屋に向かった。玉野婦人は国際免許を取得してベルギー入りをしたらしい。ご主人が車会社なので抵抗はなかったようだった。

「愛知で車に乗っているせいか、ベルギーの方がずっと走りやすく感じちゃうのよ」

と言って笑った。文にはハンドルが逆になった時点で頭が大混乱しそうだ。下手したら後ろに発進してしまうかもしれない。それに、ベルギーの道路は(他の国もそうだろうけど)実に合理的にできていて、信号を減らして、ロータリーというものを使って、自由に左折したり右折したりできるようになっている。主要道路もトンネルや高架を利用して、なるべく右左折の信号渋滞を生まない仕組みにしているように思われた。

文は、それらを見事に運転技術で乗りこなしている玉野婦人の横に座って、ただただ尊敬のまなざしで見ていた。


「文さんは、こちらで何をされているの?」

玉野が唐突に聞いてきたので、日本での事やベルギーに来たかった理由、そして、入国から今日までの事、そして大切な存在、トーマスの事も話した。

「そうだったのね。かなり精力的に動いていらっしゃるのね。感心だわぁ。そして、今度はボビンレースなのね?若い時って、何が自分に合っているかなんて分からないから色々な事にチャレンジする事ってとても素敵よね?ダ・イ・ジ。合っていなくても好きな事もあると思うし、上手くできなくても好きな事もあると思うから、諦めずにこれからもチャレンジしてほしいわ。

私もね、文さんみたいに若くはないけど、日本にはなかった世界がこちらには広がっていて、久しぶりにワクワクしたの。

今は、ボビンレースをやっているんだけど、他にもニードルポイントもやっているのよ。我が家は、イギリスからの横移動の転勤だったから。イギリスでニードルポイントをやっていたから、こちらでも材料は手に入るから、習った事を思い出しながら趣味で続けているわ。だから、ボビンもトコトン学んで、ニードルポイントのようにベルギーを離れても続けられるようになりたいなぁ~って思っているの」

「素敵すぎます。理想だわ~」

文は羨望の眼差しで玉野婦人を見つめた。ここには目指すべき大人の人が沢山いる。日本人だけでなく、ベルギーの人達もそうだった。


郊外の問屋に到着した玉野婦人は、文に優しく案内をした。

「ここよ。カトリーヌが事前に話して下さっているから、確実に物はあるはずよ」

「ありがとうございます。ワクワクしますね」

そこは、普通の自宅だった。ただ、玄関のような所から入ると、中はお店と事務所が合体したような場所だった。問屋と言われて頷ける場所である。

文はボビンの台とボビンを五〇本、生成りの八十番の糸と百番の糸、そして銀の糸を購入した。その他に細い針と少し太い針、図案に必要なシールシート、ボビンの台を入れる専用のバッグを購入することにした。台は、日本人の三人のご婦人は文が購入した台よりも一回り大きなものを持っていたが、文は期間から考えても、大作を仕上げることは難しかったので、小さめな台にすることにした。しかも、これは、帰国するときに間違いなく手荷物になるからだった。一通りの材料と道具を並べると、ショーケースの中にあるボビンレースで作られた針山が目に留まった。

(何て素敵なの?針山ですら、こんなにオシャレなんて!)


そして、文の目を釘付けにしたものは、その針山の隣にある、ボビンレースを編んでいる途中のミニチュアのボビン台とボビンがチョコンと置かれたものだった。


「こちらは売り物ですか?」

「私が遊びで作ったものだから、気に入っていただけたのならプレゼントするわよ」

と、店主が気さくに言うではないか! 

「本当? 私、ドールハウスが大好きで、小さなものに目がないの。ありがとうございます。こちらの針山も四角と丸のもの一つずつ買います」

かなりの金額にはなるが、想定内であるし、このミニチュアボビンがオマケで付いてくるのだ! 質素な生活を続けている文は、キチンと貯金も出来ていた。

トーマスと出会ってからは、遠距離恋愛に耐えられるように貯金もしなくちゃいけないな、と考えていたからである。でも、このボビンは自分への投資だったので、思い切って購入した。


「文さん、良いお買い物が出来て良かったわね。雑貨が好きな文さんらしい一面も見られて私も楽しかったわ。私も新作の図案と材料を買い求めることが出来たから、今日ご一緒出来てよかったわ」

「今日は、本当にご一緒させていただいて、ありがとうございました。私一人では、これだけのお道具を揃えるのは無理でした。本当にありがとうございます。玉野さんの作品って、先日の作品の次のものですか?皆さんの作品は見惚れてしまいます。ボーダーの試し編みだけでも、私にとっては素晴らしい作品にしか見えないですもの。それに、鈴木様のボーダーを拝見していて思いついたんですけど、いつか、自分のお部屋のカーテンを作るときに、裾にボビンレースのボーダーをつけたいな、って思っちゃいました」

「素敵な目標が出来て良かったわね。さぁ、お稽古が楽しみね。そうそう、今度のお稽古の時にお見せするけど、ボビンを入れる袋っていうのかしら・・・入れ物があった方がいいのね。私達は手作りで作ったんだけど、文さんもよかったら作ってみない?ミシンでしたらお貸しするから。それからね、レースのお店とかに行った時に今度は、ボビンをよく見てごらんになって。きっと文さんが大好きな世界がそこに広がっているから。カトリーヌからも十二月になるとお声がかかると思うけど、きっと好きな世界よ。楽しみにしていてね」


文は、玉野婦人からパーティにでも招待されたような心地だった。

(次のボビンにはどんな世界が待っているのだろう?)


日曜日。

少し重い気持ちで、文は若松家へと向かっていた。今日は、文の自家製レモン酒を手土産に持っていく事にした。


ゆかりにホワイトリカーが入荷してきたので、文は迷わずに買い求め、スーパーでレモンが安くておいしそうなときに購入し、漬け込んでいたものだ。雑貨屋さんで可愛らしい密閉のボトルを購入して詰めた。あとはラッピングして持っていくだけだった。


呼び鈴を鳴らし、若松婦人の上品な声に案内されて扉を開けた。初めて会うムッシュ若松は、とても人の好さそうな銀行マンだった。

「よく来てくれたね~ ありがとう。そうだ。初めまして、だね?妻がお世話になっています」

紳士的だった。文は若輩者であることは重々承知しているので、恐縮した。

「私がお世話になりっぱなしなのです。本日はお招きいただき、本当にありがとうございます。こちら、お口に合うか分かりませんが、手製のレモン酒なので、よかったらお召し上がりください」

と言って、差し出した。

「へぇ、すごいね。ご自身で漬けるんだね? 有難く頂戴します。さぁ、どうぞ」

と言って、ソファに座る事を促した。

「早速だけどね・・・」

と言って、若松は本題に入った。マロニエ祭の客への対応は、文自身が考えたものだと実行委員から聞いているけど、そのいきさつや二日間の運営方法、資金繰りなどを細かく聞いてきた。恐らく、八重たちの実行委員にも同じことを聞いたであろうと考えて、文は丁寧にありのままを話した。

「いやぁ、すごいな。君は準備された箱に入っただけだ、って謙遜するけど、事実上は、資金面も色々考えてくれているじゃないか?僕はね、日本では人事にも関わっていたものだから、君の話を聞いた時に是非、当行に来てくれないかな?って考えたんだよ。

例えば銀行という箱モノは、大概どこも似たり寄ったりだ。大きさに違いはあるかもしれないけどね。でも、そこに働く人間に大きな価値、知的財産、技術的な財産、そして人間力が無ければ箱は壊れていくんだよ。分かるかな?だから、良い人材がこれからの当行を伸ばしていくんだ、と私は考えているんだ」


文は、若松の話している内容をとてもよく理解出来た。でも、それでも自分のやりたい事と結びつかなく、それをどう上手く伝えたら良いのか分からなかった。

「若松さまのお話は、とてもよく理解出来ます。そして、大変ありがたいお話だと思っております。私のような技術も学歴もない者にお声かけていただいて、それだけでお受けしなければならないお話のような気もしております。でも、私には他にやりたい事があるのです。そして、そのやりたい事と別に私には共に成長し、支え合いたい大切な人がいるのです」

と伝え、トーマスの話、日本での事、幼少期からの夢の雑貨屋、ベルギーで触れた文化を自分の店に注ぎたい夢、その為の今は修行の身であることなどを隠さず伝えた。隣で若松婦人は合点がいったようだった。

「だから、ボビンレースにもあんなに熱心なのね?」

「はい。これからどこまで習得できるのか分かりませんが、やれるところまで頑張りたいのです。ボビンだけでなく、花の勉強、ハーブの勉強、器の事、販路の事、接客の事。ポーセリン、デコパージュ、カリグラフィーなども体験してみたいと考えております。だから、大変申し訳ないのですが、若松さまのお話はお受けできないのです。でも、他のことで、私でお役に立てることがありましたら、是非お手伝いさせていただきたいと思います」


若松は、ガクンと首を垂らしたが、文の覚悟があまりにも硬い事は想像できたので逆に清々しかった。

「今の若い人にも文さんのような人が沢山いてくれるといいね。楽しみだよ。私が出会う若者はガツガツさもなくて、安全な方へ行きたがる。若いのに安定を求めたがる。挑戦をしない。そんな若者ばかりを見てきたから、どうしても文さんに会いたかったんだ。お話が伺えて嬉しかったよ。私にも、もし、君の夢のお手伝いが出来ることがあったら、いつでも言って欲しい。また、色々なお話を聞かせてほしいね。これも縁だと思うからね?今日は本当にありがとう」

文は、心を込めて伝えれば、相手には届くものだ、と納得した。銀行マンというだけで、強烈なセールス手法で文を内定させたりしたらどうしよう?と不安でいっぱいだったからだ。美味しい珈琲とナッツタルトを食べて若松家をあとにした。帰り際に

「ベルギーの彼と仲良く頑張ってね」

「今度、紹介してね」

夫婦ともに応援してくれた。少し気が重かった若松家の訪問が無事に終了してホッとした。


十一月の第三週は、語学学校の試験が集中していたので、本当に盛沢山な一週間だった。

 次の月曜日に豪へ報告をして、もし、今後、若松が再来店することがあったら、豪からも口添えしてほしい事を頼んだ。火曜日には、トーマスがカフェのバイトの後でゆかりへやってきた。文の銀行マンからのスカウトが気になっていたからだった。話がうまく進んで、文が日本に急遽帰ってしまわないか不安だったのだ。

 豪は、トーマスの来店が久し振りだったので、とても喜んで文に店を任せ、トーマスとバックヤードに消えた。最近では、文の企画のお弁当と予約のオードブル販売は小さくスタートさせていた。豪から豪の妻、サスキアスを巻き込んでやっていきたいと相談されていたので、サスキアスにお弁当やオードブルの作り方や仕込みを十二月から伝授するために試験的に小さな規模で販売していた。毎日、お弁当は残る事もなく、完売が続いていた。街中にお店がある事も手伝って、オフィス街のサラリーマンや高級ブティックの店員などが足を運んでくれていた。

 十一月の後半になると急にオードブルの予約が入るようになっていた。文は確かな手ごたえを感じていた。あとは、ベルギー人のスタッフをどれだけ動かせるようにするかが最も大きな課題になった。しかし、それも最近では以前ほどでもなく、考えて常に動けるようになってきていた。豪は祈っていた。

(文が居なくなっても、この体制をキープできることが一番望ましいのだけどな)


バックヤードに消えた豪は、トーマスへ娘の自慢話をしたのだった。

「文がこの前、スカウトされた銀行マンは撃沈したそうだ。文は自分のやりたい事を話して、どうやらトーマスとの事も話したそうだ。トーマスとの未来もあるから受けられない、ってな。ところで、最近のトーマスは大学の方はどうだ?少しは楽しくなってきたか?」

「文が僕の事を? 嬉しいな。もともと大学が楽しくない事はありませんでしたけど、目的が見つかってからはより、楽しいですよ。バスケの友達だけでなく、勉強や将来の事を語り合える仲間が増えた気がします」

トーマスは、文が断ったことを聞くとホッとした。この十一月で文に大学で会うことが出来なくなってしまう事がトーマスに余計な不安をあおるのだった。

豪は、最近の文が忙しくしている事を心配していた。やることが沢山あって、好ましくはあるけれど、身体が心配でならなかった。


「あいつは、ちゃんと寝ているのかな?」

「僕も毎日会えるわけではないので分からないですけど、文はシッカリしているから大丈夫じゃないでしょうか?」

「文は一生懸命になりすぎるんだ。好きな事しか今のベルギーにはないから、常にエンジン全開なんだよ。トーマス頼んだぞ。あれは、イノシシ女だからな」

トーマスは想像して笑った。そして、文が自分といる時には心も体も休められるように努めようと思った。それは自分にとっても安らぎであったからだ。


 バックヤードのモニターを通して、文の働く姿を見ている事がトーマスは好きだった。文の働く姿は見ている者を清々しい気持ちにさせる。(あんな風に動けるようになりたい)と感じさせるのだ。一見すると、小さな仕事をコツコツやっているように見えるけれど、時間を置いてみると、店全体が変わっている事に気付く。豪に初めて文の仕事ぶりを見せられたこのバックヤードも、あの時よりも数段、使い心地が良さそうで、ドンドン綺麗になっていく事を感じていた。何よりもベルギースタッフの動きが別人のように変わっていた。事あるごとに文が励まし、声をかけている事も、目配りしていることも、このカメラ越しから伝わる。

(この店で文と働いてみたいな。そしたら僕にはどんな世界が見えるのだろう?)


 文が終るのを待って、二人でゆかりを出た。文はトーマスに甘えた。トーマスはそれが嬉しかった。誰にも見せない彼女の表情であることは、自分だけが知っている。

「文、この前の話、うまく断れたみたいだね。ホッとしたよ。ボスが文の身体を心配していたよ」

「私は大丈夫! それよりもトーマス、ランチガーデンでご飯にしない?」


ランチガーデンとは、スーパーの中に入っているフードコートのような場所で、バイキング方式で好きな食べ物を選び、最後に会計する、というシステムの場所だ。


 文は疲れていたので、温かいスープが飲みたかったのである。食事中も文はトーマスから片時も離れようとしなかった。いつもは対面で食事をするのだが、今夜は隣に座ると言って、並んで食事をした。食事をしている間も、片方の手はトーマスの腰に巻き付けていた。

文は、語学学校でトーマスにそれほど会う訳ではなかったが、トーマスと同じ敷地にいるだけで安心だったのである。

しかし、来月からはそれもなくなる。ひどく寂しくなっていたのだった。それに、どうしても女性の影がチラつくのだった。トーマスは、文のいつもと違う行動に(変だな)とは感じていたが、気にしないように、あえてそっとした。文が巻き付けた手をトーマスもちゃんと握っていた。


その次の日、文はとうとう倒れた。

朝起きた時に、声が出せなくなっていた。どうにか小さな声だけは出せたので、豪へアルバイトを休むことを告げた。豪は初めての出来事にひどく心配した。

「俺からデグリー先生に電話して、文のアパートへ行ってもらうように伝えるから温かくして寝てろよ。また、電話するから、電話を傍に置いておくように、いいな?」

「はい・・すみません・・」

それから、学校を休むので、八重にも伝えた。八重は、声が出せない事を考慮して

「私の質問に答えればいいから返事して。休むことは分かったから、何か食べるものはある?水は揃っている?冷やすものは何かある?」

八重は、とりあえずは大丈夫な事を確認して、明日も電話するからゆっくり寝ているように言った。


文は倒れるようにもう一度ベッドへ入った。しばらくすると、豪から電話が入り、昼頃にデグリーがアパートへ来てくれることになった。豪もその時間に合わせてアパートに来てくれるという。処方の薬を取りに行かなければならないからだ。


(やっちまったな・・・)


 文は、酷く悲しくなってしまった。深い眠りに落ちて、ふと目が覚めた時に金縛りにあっている事に気付いた。完全にロックしてある玄関から誰かが入ってきて文のベッドの横に立っている感覚があった。怖くてトーマスを呼びたかったが、何も動けない上に声も出せなかった。怖くて、怖くて泣き出だした、と同時に何かが解けた。解けた瞬間、自分の嗚咽だけが部屋に響いていた。生まれて初めての出来事だった。


 昼過ぎになると、まずデグリーが来た。ベッド上で診察をして「扁桃腺炎」だと告げた。文は予め、仏和と和英の辞書をベッドに置いていたので、デグリーは仏和からパラパラとページをめくり指さして教えた。

そのすぐ後に豪が来た。豪は文の顔を見ると少しホッとした親の顔になっていた。

デグリーと豪が話をして、文は千五百円を払った。台所にチョコがあったので、可愛い包みに入れて「ありがとうございました」という仕草をして、診察料と一緒に渡した。デグリーは、ニコッと笑って肩を叩いて帰って行った。

 豪はすぐに処方の薬を買ってくるから待っていろ、と言って出ていった。熱が四十度も出ていた。

すぐに豪は、薬と水と豪が作ったであろう「おかゆ」を持ってきた。

食べたくなったら、温めて食べればいい、水分の補給と薬は相当マズイけど、飲めば症状は軽くなるから急いで飲むことを告げた。文は嬉しかった。もうろうとする中で人のぬくもりを感じていた。


豪は、文の玄関を見て安心した。

「お前、防犯対策、ちゃんとしていたんだな。3つも仕掛けかけてれば、泥棒も諦めるわな。部屋も綺麗にしてるし、安心したぞ。しばらく店は休め。声が出せるようになったら電話してこい。何か必要な物があれば遠慮するなよ。じゃ、店に戻るからな。ちゃんと鍵かけろよ」


文は声が出ない分、首を縦に振ったり、手を合わせてお礼を伝えるしかなかった。豪はデグリーより四十度の熱がある事と扁桃腺炎に罹っている事をきいていたので、文のベッドの近くに大きなボウルに水をたっぷり入れておいた。

文は先程の金縛りの事もあり、豪の優しさが嬉しかったので、抱きついた。

「おいおい、抱きつく相手を間違えているぞ。こんなに体が熱いんだから、早く冷やしながら寝るんだぞ」

と言って出ていった。

二日目は、声は出せなかったが食欲は少し出てきた。デグリーと豪が帰った後で、一回目の薬を飲んだのだが、クソまずかった。この世のものとは思えない味だった。高熱で味覚障害があったのかもしれないが、大きな白のタブレットのようなものをコップに入れて、そこに水を注ぎ、よく溶かした後で一気に飲み干すのだが、溶かす時に発泡するので、一瞬、(え?これ薬であっているよね?)と不安になったが、一口飲んでみた。クソまずい!

妙薬はマズイとは言うが・・・一気に飲むほかなかった。ところが、夜中にはかなり体が軽くなっている事を感じた。汗でぐっしょりになっていたので、パジャマもシーツも総とっかえした。

朝のうちに豪のおかゆを食べて少し元気が出たので、洗濯を回した。回している間も寝て、とにかく体を休めた。豪がボールに水をはっていたのを見て、空気が思いのほか乾燥しているから、こんなことになったんだ、と考えた。そして、洗濯物をベッド近くのソファージュに干しまくった。

さらに、文は寝ながら気づいてしまった。

(あ~ぁ、学校最後まで行くことが出来なかったなぁ。テストの結果はどうだったのかしら?落第点だったら、また行かなくちゃ行けないのかな?まぁそれでも私にとってはいいかもね。トーマスに会いたい・・・)


三日目。どうにか声を出せるようになっていた。あの妙薬はかなり効くようだ。それでも四十度が出た後の体力はなかなか戻らなかった。豪へ電話をして、明日から出勤させてほしい、と伝えた。豪は言って聞くような文でない事は分かっていたので、承諾した。何かあれば文が居候をしていた部屋で寝かせればいいと判断したからだった。

一方、八重は心配で仕方なかったので声が出せないかもしれないけどと思いながらも電話してみた。

「八重さん、ご心配をおかけしました。今日、床上げです。明日からお店の方へも行こうと思っていますが、学校が最後まで行けなかったことが残念です。すみません」

「よかったぁ。声聞けて安心したわぁ。無理しちゃダメよ。テストの結果は聞いておくから」


八重と貴子が授業を終えて、建物を出ると、トーマスがいた。トーマスは文の姿が無い事を不安に思って

「文は?もう帰ってしまったんですか?」

今日が最後の日だから、一緒にゆかりまで行こうと考えていたのだ。

「トーマス! 知らなかったのね? 文ちゃん、扁桃腺炎に罹っていて、三日間休んでいるのよ。今日、やっと声が出せるようになっていたけど、まだ元気がなかったわ。四十度の熱が出たのよ」


トーマスはガックリうなだれた。そのまま「ゆかり」へ向かった。

「ボス、僕がいながら文を病気にさせてしまって申し訳ありませんでした。文は?文は大丈夫ですか?」

「いやいや、あれは乾燥からきたもので、日本の湿度が高い所に慣れているから、乾燥を甘く見ていた文がいけないんだ。トーマスのせいじゃないよ。明日には出勤するって言っていたけど、俺は少しずつ仕事をさせようと思っている。明日は一日バックヤードだな。トーマス、会いにきてやってくれるか? 多分、文は心がへし折れていると思うからさ。お前が元気づけてやれよ」

「はい、絶対に来ます。帰りも僕がアパートまで送ります」

「おぅ、そうしてやってくれ。俺もその方が心強いからさ」


クリスマスのアドベントが始まり、街にクリスマスのイルミネーションが見られるようになっていた。


文は、朝、窓を開け放し空気の入れ替えをした。金縛りを思い出して、悪霊も追い出さなくちゃ!と思った。

しっかりと朝食を取り、残りの洗濯と掃除を済ませて、早めの午後出勤をした。

豪は、元気になった文を見て安心した。

「あんなに熱が出て驚いただろ?」

「凄くしんどかったです。しかも、生まれて初めて金縛りにあって、怖かったんです。店長もデグリー先生も帰っちゃうし・・・」

豪は、文が抱きついてきた訳を知った。

「金縛りは疲れがたまっている時に出る、っていう現象らしいぞ。間違っても幽霊じゃないからな。もしかして幽霊とか思ったんじゃないだろうなぁ?」

とからかってきた。

「だって、すごくリアルでしたよ。あれは出た!って思いますよ。熱やのどの痛みよりもアレが一番怖かった。それから、デグリー先生のお薬は一発でした。安心してお任せ出来ますね。店長のおかゆも凄く美味しかったし。でも、学校だけは最後まで行きたかったから悔しかったなぁ~」


文は、豪が差し入れたおかゆの鍋に「ありがとうございました。命拾いしました」とメモを入れて、今朝作ったハチミツマフィンを二個入れて、そっとキッチンに置いた。


 今日は店頭に出て、客から風邪でも貰って、またこじらせるといけないから、バックヤードの仕事をするように沢山の指示を豪は文へ出した。文は、トーマスが来ることを知らないので、気遣いながらも、沢山の仕事を出してきた豪のことを少々いぶかったが、仕事がある事は楽しいので、あまり気にも留めなかった。

 しばらくすると、客が入ってきた音が聞こえたので、バックヤードのカメラで確認した。文は、普段からバックヤードで作業をするときは、店内にも細心の注意を払って作業をするのだ。すぐに応援に入れるようにするためと万引きなどの犯罪を未然に防ぐためだったりする。

客はトーマスだった! 文は慌てて飛び出した。トーマスは文がカウンターにいると思って、まずカウンターを見たら、豪が居たので挨拶をした。すると、横から文が抱きついてきた。

「文! ラブシーンはバックヤードでしてくれ!」

豪が笑いながら言って、二人をからかった。

「助っ人を用意したんだから、しっかり働けよ!」


文は三日間の寂しさが爆発した。

「文、大丈夫かい? 知らなくてごめんよ。昨日、八重さんから聞いてびっくりしたよ。僕がいながら文を病気にさせてしまってごめんね」

「トーマスは何も悪くないの。多分、ベルギーの気候に慣れてなくて、どっかで凄く疲れていたみたい。でもね、デグリー先生のお薬のおかげと店長のご飯のおかげで元気になれたから、もぅ大丈夫だよ」

心なしか痩せてしまった文を抱きしめてトーマスは文がここにいることを文の体温を通して確認した。


 二人は、豪から与えられた仕事を黙々とこなした。文と働けることをとてもトーマスは幸せに思った。彼女の考え方を理解出来るようになって、彼女から仕事を教えてもらいながら働くと、色々な事が「見える」のだ。それが言葉に出来ない楽しさだった。「考えて動く」という意味も分かってきたところだ。自分達は機械じゃないでしょ?と言っていた彼女の言葉の意味も分かる気がした。文のサポートをするつもりだったが、トーマスにとっては思わぬ副産物だった。

 豪は、二人が黙々と働く姿を見てトーマスの成長を感じていた。バックヤードの仕事がかなり進められた事も助かった。正直、文が休むと店にとっては痛手となる。豪もどこかで文に頼り切っていたので、たかが三日なのだが、途端に仕事を滞らせてしまっていた。

文にとっては、新たな課題も生まれて、バックヤードの仕事が出来た事をよかった、と思えた。仕事が終わり、トーマスがアパートまで送る、と言ったので、文は大丈夫だ、と言った。が、トーマスは聞かなかった。文にとっても、トーマスといられる事は嬉しかったし、一秒でも長くトーマスといたかったので、甘えることにした。トーマスは文が甘えた事を無性に喜んだ。


文は帰りのメトロの中でトーマスに尋ねた。

「クリスマスになったら、トーマスはデュルビュイに帰るの?」

「いや、今年は帰らないでアルバイトをすることにしたんだ。それに文がOKだったら、是非、二人で過ごしたくてね」

「ほんと?よかった。外国の人って、クリスマスを大切にするって聞いていたから、帰っちゃうのかな?って心配だったの。私もトーマスと今度は私のアパートでクリスマスを過ごしたいの。どうかな?」

「え?本当?行ってもいいの? 楽しみが先にあるっていうのは、頑張る希望だね? 文、誘ってくれてありがとう。でさ、クリスマスイブは二人でディナーに行かない?僕のプレゼントとしてさ。文からのプレゼントはクリスマスの文の料理ね?」

「え?二日間トーマスとクリスマスをお祝い出来るの?」

「そうだよ。一緒に居てくれるかい?」

応える代わりに文は泣いた。何て優しい愛情なのだろう。何て居心地の良い人なのだろう。トーマスは笑って、頭をポンポンとした。

「今夜は早く寝た方がいいよ。病み上がりで疲れているはずだからね」


 文は、豪に十二月からのシフトについて確認した。語学学校が十一月までということが分かっていたので、十二月からをどうしようか、以前に確認していたが、文が月末にガッツリ休んでしまった事で確認できずにいたからだ。文としては、学校は終わったが、習い事を進めたかったので、習い事の時間を今までの学校の時間にあてたかった。豪は、その条件を快く承諾していたが、再度確認したかったのである。その代わり、今までは金曜日を休ませてもらっていたが、豪が大変であれば、手伝うと申し出た。豪としては、妻のサスキアスの事を文にお願いしたかったので、たまにでいいから、金曜日を手伝って欲しい、と伝えた。文は快く引き受けた。

ベルギー生活も折り返しに入ってきたので、豪には恩返しを少しでもしたかったからである。


そして、文は豪に思い切って伝えた。

「クリスマスは、お仕事に来ますけど、トーマスと夜は過ごしたいので、定時にあがらせていただきますね。今度は我が家に招待しようと思っています」

「そうだな。そろそろアイツに秘密にすることもなくなったしな?それに彼氏であるトーマスの前に俺が入ってしまったから、俺もトーマスに後ろめたいからさ」

「それから、扁桃腺炎に罹っていた時に考えていたんですけど、私のアパートのスペアキーを店長に一つ預かってほしいんです。厳密にはこの一つでは入れない防犯対策にしていますけど、この前のような時には、店長に持っていていただくと、安心かな?って、考えていたんです」

「そうだな。分かった。預かるよ」


文のアパートの防犯対策は、色々な仕掛けがあった。

まず、中に入る時は、普通に玄関を開けただけでは入れない。もう一つ別の鍵で別の鍵を開けなければならないのだ。更に、チェーンもかけている。外からチェーンを掛けられる仕掛けをしているのだ。もし、泥棒が運よく鍵を開けても、チェーンがしてあると、中に人がいると勘違いすることもあるからだ。チェーンにも鍵をしてあるので、三つの鍵を開けて入らなければ中には入れないのである。こんなことに時間を使うくらいなら、泥棒も諦める、ということだ。さらに、毎日ランダムにテレビが点いたり、電気は暗くなると点いたりするように、タイマーを仕掛けている。毎日一緒だと気づかれるといけないからだ。テレビもテレビの音、というよりも誰かがボソボソと部屋の中で話をしているような感じの音量にしているのだ。窓も、内側のレール部分に棒を仕掛けているので、仮に窓を割って鍵を開けて入ろうとしても、簡単には入れないのだ。他にも人が立っているような仕掛けをしたりもしている。その仕掛けに文自身が驚く事もある。

 外に出掛ける時には、アパートの周りを注意深く観ている。万が一、人が乗っている車が停車しているときは、ナンバープレートを確認しているような素振りを見せる。防犯には徹底的に神経をとがらせている。


続けて文は豪を真っ直ぐに見つめて話をした。

「それから、もう一つ。とても大切な事です。

トーマスは、店長の事を尊敬しています。いつか、私が居なくなった時や私がベルギーにいる時でも、店長に相談してくることがあると思います。その時に、もし、彼が私を想って、自分の進路を私に合わせるようなことがあったら、絶対に止めて下さい。彼自身がその仕事をやりたい!って、思う仕事に就いてほしいのです。もし、彼が将来、彼のパートナーとして私を選んでくれる時が来たら、私は迷わず全てを捨てて、彼の元へ嫁ぎます。私の夢はどこでも叶えられるものですし、お婆ちゃんになってからも叶えられるものだから。私はトーマスのやりたい事の一番の応援者であり、一番の理解者でいたいのです。だから、今は、私の夢の準備を長い時間をかけてやっている途中だと私は考えています。私は、私の夢を諦めないし、想いも決して色褪せないんです。一番をトーマスにすることも今は私の夢なのです。店長の所にトーマスが相談に来たら、店長の口からそれを伝えて下さい。お願いします。そして、彼がもし、他の女性と一緒になる時が来たら、私は二度とベルギーには来ません。日本から彼の幸せと成功を誰よりも祈っています。そして、自分の夢に邁進します」


豪は、小さなため息をつき、泣きそうな瞳で訴える文の肩を叩きながら、諭した。

「分かっているよ。文なら絶対にそう言うと思っていた。でも、あいつの事を信じてやれよ。文を本当に大切に思っているから。俺には凄く分かる。それに、以前、今、文が心配したようなことをトーマスが言ってきたことがあったんだよ。トーマスが進むべき道を見失っている時だ。だから、文が今言ったようなことを俺もアイツに言ったんだ。自分中心に進むべき道を考えろ、ってな。その思考に文を入れるな、ってな。目が覚めたような顔をしていたから理解しているとは思うが、文が実際にいなくなると、それも正常に考えられなくなると思うんだよな。文と一緒で好きな人の事に一直線になるからなぁ。でも、俺がちゃんと見守っているから、安心しろ」


文は何度も何度も豪へ頭を下げた。


火曜日の午後。ゆかりへ客が来た。

「いらっしゃいませ」

全員で声をかけると、その日本人の男性 加藤は、文めがけて向かってきた。

「貴女が月見さんですよね?」

「はい、そうですが・・」

「お会いしたかったです。私は縁導商社の加藤と申します。突然で申し訳ないのですが、今でなくて構わないので、少しお時間をいただいてよろしいでしょうか?」

すぐに豪が表へ出てきた。

「店長の橋本ですが、何かお話でしょうか?」

「突然で本当に申し訳ありません。私は、縁導商社の加藤と申します。こちらのお店にも大変お世話になっております。一度、お電話をしてから伺いたかったのですが、なかなか時間が取れなくて突然の訪問となり、大変申し訳ありません。十月に日本人学校で開催された、マロニエ祭の書道コーナーで、月見さんを拝見させていただいた事と弊社のベルギースタッフからの話を聞いて、是非、月見さんにお会いして、色々とお話をしてみたかったのです。後日でも構いませんので、お時間をいただけませんか?」

加藤の必死に食いつくような話し方に、さすがの豪も圧倒されて、文に提案した。あくまでも文に決めさせてあげたい親心からだった。

「トーマスのカフェで話を聞いてきたらどうだ?ここで話をされても、落ち着いて話も出来ないと思うからさ。今から行って来いよ。文もトーマスの働いている姿を見た事が無い、って話していたじゃないか?」

「分かりました。ありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。少しだけお時間いただきますね」

文も何かに導かれるように、加藤の話を聞きたいと強く思った。


 文は、加藤へすぐに自分も向かうので、先にアーツ・ロワの駅前にあるカフェに行っていてほしい事を伝えた。加藤は豪へ礼を述べて、店を出た。

文は、エプロンを取り、簡単に身支度を整えてトーマスのカフェへ向かった。トーマスが居るかどうかも分からなかったが、いてほしい、と願った。

 ゆかりから、トーマスのカフェの道は、一人きりでは歩いたことはなかった。でも、カフェにトーマスがいるのだと思うと、何も怖くなかった自分に文は驚いた。


店に着くと、店先の席に加藤は座っていて、手招きで文を呼んだ。ふと見ると、トーマスが応対していた。

「やぁ、文! 初めてお店に来てくれたんだね?どうしたの?」

「こちらの方とお話があって、店長がトーマスに会えるから、このお店でお話してきなさい、って言ってくれたの」

「そっか。そうだったんだね?ゆっくりしていってよ」


 トーマスは、加藤の存在が気になって仕方なかったが、豪も知っている人なら安心かもしれない、と思うようにした。が、日本語での会話だから、二人の内容が全く聞き取れなかったので、文の表情で判断するしかなかった。いつもの文の表情とは違う、初めて見る文の一面だった。


 加藤は、トーマスの存在が気になったので、文にまず確認した。文は素直に大切な人であることを伝えた。彼に隠し事をしたくないので、この店を選んだことも伝えた。加藤は、それを確認すると、文が仕事を抜けて来ている事を察して、本題に話題を切り替えた。

 内容は、マロニエ祭での文の活躍を実際に来店して見ていたというのだ。文は作品と向き合っているため、正直、来場者の顔を覚えてはいない。

 しかし、加藤は一人一人のベルギー人に言葉をかけ、必死に考えて想いを乗せて書く文の姿に感動していたのだという。

「僕たちの仕事はお客様に想いを乗せる仕事なのです。自分達でコレだ!って思う物をお客様に届けたり、お客様からの要望に応えて世界中から探し出したり、ってね。君のあの姿を見た時に一緒に仕事をしてみたいなぁって感じたんだ。僕の営業マンとしての直感なんだけどね? 君は、どのくらいベルギーに滞在するのかな?日本では、どんな仕事をしようと思っているのかな?」


 矢継ぎ早に質問をしてくる加藤の質問に文は、丁寧に慎重に答えていった。そして、自分の過去や現在と未来の事も。

「そっか・・・良かった。もしかしたら、君の夢のお手伝いも出来るかもしれないし、夢の為の修業の場として当社で働くことが出来るかもしれないね。いずれにしても、月見さんとお仕事をさせていただきたい、ね。漠然としていて分からないだろうから、君の夢の話や目標も伺ったから、一度、人事の人間と話をさせてもらって、また改めて、お話させてもらいたい。今月末に弊社のクリスマスパーティがあるから、是非、遊びに来て欲しいです。そしたら、社内の雰囲気や仲間を知ることが出来るし、みんなから仕事の内容を聞くことも出来るから、月見さんにとってもイメージしやすくて安心すると思うんだよね? 是非、彼と一緒に来てください。正式に招待状を今度、お店の方へ届けさせていただきますから、二十一日、空けておいてくださいね。宜しくお願い致します。月見さんからのお返事はゆっくり考えていただいた上で伺います。宜しくお願い致します」


 文は、軽いパニックになっていた。先日の若松のような話であれば、文の琴線に触れない話なので、有難くはあったけれど、(これは違う!)と、判断することも出来たが、加藤の話の内容は、実に振り幅が広く、文にとって、可能性が大きすぎて、やりたい事がありそうな予感しかなかった。加藤へは、来年の七月までは、豪の店で働きたいと思っている事も伝えた。とても世話になっているから恩返しがしたいのだ、と。加藤はこの義理堅い文にベタぼれだった。勿論、文の人となりに対してだ。

(絶対に月見さんという人材を確保しなければ、後悔することになる!)


 トーマスは、文が楽しそうに話をしている姿を見て安心した。加藤が興奮している様子も何となくわかった。程なくして、文はトーマスに「じゃあ、またね」と言って、席を立ち、加藤に深々と頭を下げて帰って行った。

加藤は、会計時にトーマスに向かって言った。

「素敵な彼女で幸せですね」

「はい、僕にとっては、いなくてはならない自慢の彼女です」


 文は、頭を整理することが出来なかった。そんな事よりも、チャンスが目の前に来た予感がしたからだ。しかも、とてつもなく大きなチャンスだ。確固たる自信がある訳でも根拠がある訳でもないのだが、(この波に乗った方がいい!)という降りてくる言葉が文の中にはあった。


「ただいま」

「加藤さんは何の話だったんだ?まさか、またこの前の銀行マンのように文のスカウトに来たのか?」

「そんな感じでした。加藤さんの会社のクリスマスパーティへも招待されました」

「すごいじゃないか! 何故、そんなに浮かない顔をしているんだ?」

「違うんです。戸惑っているんです。こんな私なんかにどうしてお声掛けしていただけるのかが不思議で仕方がないのです。それに、加藤さんの会社のお仕事の内容も今のところは全く分かっていない訳ですし・・・」

「一つ分かっているじゃないか! この店にも商品を卸してくれている!」

「そうなんです。そこは食いつきたい所なんです。でも、他が見えてこないので、クリスマスパーティに参加させていただいて、皆さんのお話を聞いてこようと思っているのです。それに! トーマスも一緒に連れてきていい、っておっしゃっていただいたから、トーマスと行こうと思います。私もその方が俄然心強いし、最近のトーマスの事を考えると、加藤さんの会社の中を知る事も刺激ですよね?」

「文、お前は自分の事だけでなく、トーマスの事も考えて行動しているんだな? 感心だな。いい嫁さんになるな~文は」


その日の仕事終わりに案の定、トーマスが来店した。文はきっと来る、と考えていた。二人でアーツ・ロワの駅に向かいながら、今日の話をした。トーマスは納得したようだった。

「それで文の顔がいつもと違っていたんだね?」

「え?違った?いつもと変わらないつもりでいたんだけどね~」

「違ったよ。面接を受けているみたいな顔をしていたよ」

「あぁ、そうかもしれない。心構えとしては、それに似た気持ちで行ったから。トーマスは凄いな。浮気も出来ないわね?」

それから、文はクリスマスパーティの事も伝えて、トーマスに一緒に行ってくれるようにお願いをした。

「行っていいの? むしろコッチからお願いしたいくらいだよ。企業の内側を聞くことが出来るなんて、最高のチャンス!だよね? 誘ってくれてありがとう。文ってやっぱり凄いや!」


文は、この日からパーティまでの間に、縁導商社の事を調べようと考えて、時間を見つけてネットでの検索を始めた。そして、自分なりにイメージを膨らませて、自分にとってプラスとなる企業なのかを調べた。文にとっての最終地点は決まっている。大切にしたいものもある。文にはいつでも心に「根幹」がしっかりと根付いているので、こういう事には「イエス」「ノー」がはっきり言えるのだ。そこが日本で波長が合わない原因でもあった。そして、文がこの加藤との「縁」に対して、慎重になっている最大の要因は「トーマス」だった。このチャンスは、自分よりもトーマスにとって、波が来ている気がしてならなかった。でも、そのことは文の心にだけ留めておき、いつでもその波に乗れるよう、心の準備だけはしておきたかった。


 この週末、文は何となくサブロン教会へ行きたくなり、あのリングに会いたくなっていた。クリスマスパーティにはめて出かけてみようかな?と考えたからだ。

ところが、リングはどこにも見当たらず、ガックリ肩を落とした。思い切って店主に聞いてみた。

「この前、ここに王冠の形をしたリングがあったはずなんだけど、売れてしまったのかしら?」

「あぁ、あれは売れてしまったよ。残念だったね」

と告げられ、ハンマーで頭を殴られたようなショックを受けてしまった。絶望的である。あのリングをはめて帰国して、次のステップに行くための「活力」にしようとしていたからだ。しばらく立ちすくんでいたが、ようやく気を取り直して、店主に「さよなら」と言って、その場を離れた。

(こんな日はボビンのお店に行こう!)


グラン・プラスまで歩くことにした。距離的にも少しあるけれど、ショックから立ち直るためには必要な距離でもあった。

 途中、昔はデパートだったと言われる現在の楽器博物館の建物を見た時は、あまりの斬新なデザインに心奪われてしまった。あまり、建物のデザインに「うわぁ」となったことが記憶の中に無かったので、相当心が動いたのだと思った。アールヌーヴォー建築と呼ばれているらしい。暫くその建物の向かいの歩道から眺め続けていた。


(アンティークは出会いだもの。また、別の出会いもあるかもしれない。その時には後悔しないように本当に欲しかったら、その場で手に入れよう! )


 再び歩き始めて、グラン・プラス近くにあるギャラリー・サンチュベールに吸い込まれるように向かった。ここにも数店のボビンレースを扱うお店があった。見ると道具もいくつか飾られている。思い切って、中に入ってみた。台、針山、そして数々のボビンがあったのだが、どのボビンもとても美しかった。

何故ならば、ボビンの先に糸を巻き付けるのだが、そのまた先に可愛らしいビーズがリングのようにボビンにくっついているのだ。じっと見つめる文に店主が声をかけてきた。

「貴女もボビンをやるの?」

「これから習い始めるんです。このビーズは何?」

「これは、飾りね。でも、色々意味があったりするのよ。例えばオリンピックの年にオリンピックイヤーのボビンがあったり、プレゼント用とかね?」

と言って見せてきたボビンは、ボビンが絵具で塗られていて、木の棒にメッセージが刻まれていた。


「それから、結婚していく娘に贈り物として記念のボビンをプレゼントしたりするのよ」

と言って差し出してきたボビンは、ビーズの部分にどうやら娘のイニシャルが入ったビーズが一つ入っていて、白やシルバーのビーズで結婚を容易に連想させられた。

「貴女もボビンを始める記念にいかが?」


文は、その素敵な提案にのった。店主が見せてくれたボビンはアンティークだったので、高かった。文が既に持っているボビンは、オーク素材の茶色のボビンだが、文が今、手に取ったボビンは、パイン材色の木だった。そこにウッドバーニングで施された「ブリュッセル ベルジャン二〇〇二」の文字と様々な色のチェコビーズで作られたビーズの飾りがあるものだった。文はお手頃価格で、自分の習い初め記念になるこのボビンを購入することにした。

「頑張ってお勉強なさってね」

マダムは素敵な笑顔で文をボビンの世界へ送り出してくれた。


その店を出て、お決まりのグラン・プラスへと向かった。

 驚いた事にグラン・プラスはいつの間にか「クリスマス」になっていた。ギャラリー・サンチュベール方面からグラン・プラスに入るとすぐに、イエス・キリストの降誕シーンである馬小屋が設置されていた。

広場の真ん中には大きなもみの木が置かれ、見事なイルミネーションで人々の心を温めてくれていた。そして、何よりも文の心を奪ったものは、クリスマスマーケットであった。

 日本でこのシーンをどれだけ夢見た事だろう。数々の雑貨関連の雑誌からもヨーロッパのクリスマスマーケットの情報は得ていた。ここグラン・プラスの事を掲載している雑誌はなかったけれど、このシーズンになるとヨーロッパのあちこちの街でクリスマスマーケットが出ることは知っていた。すっかりそのことを忘れていた自分を大いに反省した。


 グラン・プラスの石畳いっぱいにマーケットが出ていた。食べ物やワイン、ビールにお菓子。お花やクリスマスの飾りを販売するお店、絵画やカード、雑貨など本当に様々なお店が並んでいた。文は、キリストの降誕シーンを再現する人形や置物にとても心惹かれていた。磁器で作られたものもあれば、木で作られたものもある。神秘的で文のようにキリスト教の信者でもない者が触れてはいけないような聖域に感じていた。そういう店をいつまでも見つめていた。こういう所に来ると、文はバイヤーのような気分で商品を眺めてしまう。自分の店を想像してしまうのだ。

 ある店の前で立ち止まった。そこには沢山のクリスマスカードが売られていた。そこに描かれていたカードのテーマが「子供」のだった。どのカードにも愛くるしい子供の絵が描かれている。サンタを待つ子供、サンタと遭遇する子供、プレゼントを喜ぶ子供、家族でクリスマスパーティを楽しんでいる子供。サンタが帰っていく姿を見送る子供。サンタが疲れて居眠りをしているところへ毛布を掛けてあげる子供。

どの絵も抱きしめたくなる位可愛らしい子供たちが描かれていた。

文は迷わず、全種類のカードを購入した。

(この作家はいつか売れる!)


他にもドイツから鳩時計やエルツ山脈の工房で作られた木の細工の置物たちが並んでいる店も出ていた。

(あぁ、いつか雑貨屋さんが出来るのなら、やっぱりヨーロッパの雑貨を扱いたい。お客様に永く愛してもらえるような雑貨を販売していきたいな)


文は、全ての店をくまなく見て歩き、(また、来よう!)と決めて、帰ることにした。帰りは、セントラルに向かわず、ドゥブルッケール駅に向かって歩いた、というよりも歩かされたのだ。マーケットの店を見ながら歩いているうちに、グラン・プラスを外れ、屋台が並ぶ方へ歩いて行ったら、モネ劇場のある方へ導かれた。


途中、小さな、小さなアーケードがあり、その入り口にこれまた小さなアンティークショップを見つけた。二方向を大きなウィンドゥで見せているので、中に入らなくても外からじっくり見ることが出来た。何故なら、店の中は一人が精一杯の狭さなのだ。会計をするときや店主に物を訪ねる時しか中には入れない。

文が大好きなプチポワンのバッグや手芸道具などが所狭しと飾られていた。三十分ほどそこから離れられずにいた。品よく並べられたアンティークたちは、どれも文の心を鷲掴みにするようなものばかりだった。大好きなシルバーカトラリーも豊富だ。

(いい所みぃ~つけた!)

その通りの頭上にはクリスマスの飾りとイルミネーションが散りばめられていた。王冠のリングは残念だったけど、今日は充分素敵な事が沢山あった。

アパートに戻った文は、可愛いクリスマスカードを全て並べて飾って楽しんだ。


翌週の水曜日からいよいよ始まるボビン教室のために、文は次の日の日曜日は、家にこもって黙々と準備を進めた。図案を少し厚めのボール紙にシール付きのシートで貼りつけて、台に太い針で図案を固定させる。そして、図案通りに穴を専用の穴あけ道具で開けていく。

次に八十番の糸をボビンに巻き付ける。三十本ほど巻き付けた。初めての作品は幅1センチほどのボーダーを編む作業だった。

 次に、玉野婦人から借りたミシンでボビンケースを作った。最後に編み途中でもボビンが絡まったりしないようにするためのホルダーを毛糸で編んだ。久しぶりにかぎ針を持って懐かしかった。かぎ針で丸いコースターを作りたくても一向に丸くならなくて、最後には自分の不器用さに笑えてきて、そのままいびつなコースターを仕上げた事もあった。

 文は、基本的に好奇心旺盛なのだが、とても不器用だった。しかし、不細工な作品でも「工程」が好きなので、好奇心を止められないのだ。

(今回もきっとそんな感じなんだろうな?それでもいい。だって、好きなんだもん)


 文がボビンの準備に格闘している頃、トーマスは久しぶりに父親へ電話をしていた。

「父さん、元気?久し振りでごめんね」

「トーマスか。お前は元気そうだな?父さんも元気だよ。どうしたんだい?」

「うん、僕もとても元気にやっている。もしかして、兄さんから話を聞いているかもしれないけど?」

「トーマスの彼女の話かい?」

「そう。僕にとって、とても大切な人の事。父さんにもいつか紹介するからね。デュルビュイに来年の夏までには連れていきたいと思っている。それでね・・・今年のクリスマスなんだけど、彼女が来年、帰国してしまうからクリスマスは彼女と一緒に過ごしたいと思っているんだ。だから、ごめん。今年は帰らない」

「どこにも行くところが無くて、ここに帰ってくるよりも、帰るところがいくつもあるってことは素敵な事だよな?トーマス。お前を大切にしてくれる女性ならば、一緒に居たらいいよ。そのかわり、必ずまたココへも来てくれよな?」

「もちろんだよ。ありがとう、父さん。いつも本当に父さんと兄さんには感謝しているんだ」


トーマスは、父親が寂しそう、というよりも、とても喜んでいる事が受話器の向こうから伝わったので安心した。一日も早く文に会わせて安心させてあげたい。


 その日のトーマスは、それからは、久しぶりにグラン・プラスへ向かった。

クリスマスマーケットが始まっているはずだったので、下見をして文を連れていきたい、と考えていた。

 毎年趣向を凝らして彩られるマーケットは、トーマスにとっても好きな場所だった。一通り見定めて、文の喜ぶ顔を想像すると自分も嬉しくなるのだった。

いつものようにワッフルを買って、食べながらいつもは通り過ぎる路地へと入って行った。すると、左手にある店に目が留まった。

(こんな所にドールハウスのお店があったんだ! これは、クリスマスマーケットよりも喜ぶかもしれないな)

 トーマスは想像した。文にとっては、日本よりもこのベルギーに自分の好きな物が詰まっているのかもしれないな、と。いや、そうであってほしい、と願った。

そのドールハウス店は、かなり本格的な店のようだった。トーマスは他のベルギーの男性たちのように「お腹にレンガを持って生まれてきた」男性だったので、兄や父親と実家の修復などはお手の物で、子供のころから大工仕事が大好きだった。絵を書く事も好きだった。進路で建築関係に進もうかと悩んだほどだった。でも、どこかで(これは趣味にしておくからいいのかもしれない)と考えていたので、進路の中には入れていなかった。それが逆に大学三年になっても自分の働く場所を見つけられず行き詰っていた原因だったのかもしれない。好きな物というよりも大切なものはしまっておきたかったのかもしれない。


 そういえば、文もあんなに雑貨や手作りが好きなのに、日本での仕事は事務員だった、と言っていた。しかも、その仕事が大好きで、戻っても店をオープンさせるまでは、また事務員として働きたい、とまで言っていた。「働く」ってそういうことかもしれない。

 文の場合、自分の事よりも事務員として、みんなの仕事を支えることや経理や総務の仕事が好きだから、という事もあるのかもしれない。つまり、好きな事の前にその人が持っている「性格」だ。

トーマスは文と出会って、自分と向き合う事が多くなった。向き合い方が分かるようになってきていた。自分に興味を持ち、理解出来るようになってきていた。


 ショーウィンドゥから見える小さな家は、貴族の館のものもあれば、普通の家のような物もあった。その他にも一部屋だけを切り取ったようなものもあった。いつか文につくってあげたいと、トーマスは思った。家の修復だけでなく、自分たちの家を。それが例えミニチュアでもいいから。


 ブラッセルに来た時には、先の事等何も見えなかった。とりあえず一生懸命勉強をして卒業をして、デュルビュイに戻って何となくどこかの会社で働くのかな?と考えていたくらいだった。

でも、今は違う。もっと明確に想像できる未来がある。明確に見えるから、進むべき道も自然と見えてくる。今は、少し前のような不安もない。自分に自信がある訳ではないけれど、進む方向が分かっているから霧の中を歩くようなことをしなくてもいい。そこには自信を持っている。(僕はきっと大丈夫だ!)と。


 グラン・プラスを歩いていると、ゴディバの店の前に着いた。

(そういえば、今年はまだマロン・グラッセを食べていなかったな・・・)

思い出した。文の分と自分の分を購入した。最近、買い物をするとき、ウィンドゥショッピングをしている時に文の顔が浮かぶ。彼女がいつものように目を丸くして喜ぶ顔が見たくなる。幸せなひと時だ。


水曜日の午前。

文は初めてのボビン教室に少し緊張をしていた。場所を提供している若松婦人には手作りの佃煮を持参することにした。文は、白米が苦手だったので、何かしら白米にふりかけなければ食が進まないのだ。チャーハンやオムライス、かつ丼、炊き込みご飯のように加工されていれば、ガツガツ食べることが出来るのだ。

なので、手作りの佃煮は常に二、三種類は常備していた。若松婦人は粋なお土産に喜んだ。

「おにぎりの具材に丁度いいじゃない?文さんって、若いのにすごいわね~」


 みんながそれぞれに準備に入った。今日、マダム カトリーヌは文につきっきりだった。とても分かりやすい説明だったので、文も楽しく進めることが出来た。途中、糸と針が絡まってしまった時もカトリーヌの魔法の手は見事にほどいて見せた。文はじっと、その魔法を見つめていた。

 一本のボーダーの中に三種類の編みパターンを組み込んで延々と文は編み続けた。静かな室内にボビンの木の音が「カランコロン」と心地よい音をさせていた。

見学に来た際に自分もあんな音をさせてみたい、と思っていたが、気付くと自分のボビンからも軽やかとは言えないが気持ちの良い音色が響いた。

(私、ボビンが凄く好きになるかも?)


 あっという間の二時間が過ぎた。文はアパートに戻って簡単な昼食を済ませて「ゆかり」に向かわなければならない。他のご婦人たちよりも一足先に席を立った。カトリーヌに礼を述べて、ご婦人たちには挨拶をした。

若松たちは去っていく文の事を話した。

「若いのに浮足立ったところが無くて、良い意味で落ち着いているって言うか、あんなお嬢さんが今時いるのね? 一緒に居て刺激になるわよね? 本当に良い子が仲間に入ってくれて楽しいわ」


 週末の土曜日にはトーマスがゆかりを訪ねてきた。文が終わる頃を見計らって、である。最近では、トーマスもゆかりの仕組みが分かってきていたので、バックヤードでは豪のサポートも出来た。


文の仕事が終わると、トーマスはグラン・プラスへ行こう、と誘った。

「わぁ!私も行きたいと思っていたの。この前ふらっと行ったら、クリスマスマーケットが出ていてね・・」

「え?文、もぅマーケット見ちゃったの?」

「うん、見たよ。先週の土曜日にね」

「な~んだ。驚かせようと思ったのに、残念」

「ごめんね。でも、また見たいから行きたい、って思っていたから行こうよ。この前ね、あのサブロン教会のマーケットのリングが売れてしまっていて、ショックでフラフラ歩いてグラン・プラスまでたどり着いちゃったのよ。あまりのショックでね、あぁ、また思い出すと泣きそう。でもね、クリスマスマーケットがショックをやわらげてくれたの。助かったわ~ あれが無かったら、私の心はどうなっていたかしら?」


トーマスは心の中で必死に謝り続けた。胸がチクンと痛んだ。

「それは残念だったね・・・また、きっと素敵なアンティークの出会いがあるよ、きっと」

「それが見つけたのよ。私の好きな物が沢山詰まった小さなお店をね。今日はソコも行こうよ」

トーマスはドールハウスの事は伏せた。現地に到着してからの方が良さそうだとにらんだのだ。トーマスは文といると、文の喜ぶ顔が見たくて色々考えてしまう。文はいつも、顔が心の鏡になって表れる。それが一緒に居て実に楽しい。


 ゆかりを出て、トーマスは先日のマロングラッセを取り出して、ひとつ文へ渡した。

「なぁに?これは?」

「マロングラッセだよ」

「わぁ! 私ね、初めて食べるのよ。これ、ゴディバのじゃない? うわぁ、少しずつかじって食べなくちゃ勿体ないわ~」

「また、買ってあげるから食べてごらんよ。但し、栗がなくなったら、今季のマロングラッセの販売は終了するんだよ。僕は、ゴディバのマロングラッセが一番美味しく感じるんだ」

「そうなんだぁ。ありがとう、トーマス。いただきます。おいしぃ。私もゴディバのマロングラッセが一番だと思うわ」

「え?初めて食べるんだろ?」

「だから、ゴディバが今のところ一番でしょ?」

と言いながら実に美味しそうに食べて、余韻に浸っている。

その顔を見て、トーマスは文といると本当に楽しく感じるのだった。文は全てを楽しんで生活している。飾る事もなく、ありのままでトーマスとの時間を楽しむ文の事が大好きだ。


セントラルの駅からグラン・プラスへ向かう途中、あともう一本先のパノのパン屋さんの所を左に曲がればグラン・プラス、という所でトーマスは

「文、こっちだよ」

と言って、手前を左に曲がった。

「え?トーマス! そっちは違うよ」

「いいから、いいから。 ほら、ここ!」

と言って、ドールハウスの店を指さした。文は初めて入った路地だったので、その存在を知らなかった。

え?と言って、指さした先を見て、言葉が出てこないようだ。トーマスは、文が喜んでいる事が充分に分かって満足だった。文が得意のトーマスの手を文の胸に当てたからである。とてつもない速さで心臓が鳴っている。


「文が喜ぶだろうなぁ~って、ここを見つけた時は嬉しかったよ」

「トーマス、嬉しいってもんじゃないわよ。私が生涯、小さなライフワークにしたいものがドールハウスなのよ。日本には、なかなかこういうお店が無くて寂しかったわ。あぁどうしよう。涙が出そうなくらい嬉しい」

「文、そのライフワークに僕も仲間に入れてほしいよ。僕は、こういうハウスを作るのが得意なんだよ。道具も揃っている。いつか文に作ってあげたいよ」

「ほんと?ホントに本当? 夢じゃないよね? トーマス、凄く夢みたい。ありがとう」


それから、ウィンドゥ越しに二人でいつまでもいつまでもドールハウスの果てなき夢を語り合った。妄想で頭も胸もいっぱいになった文は、トーマスに全身で寄りかかり、それからトーマスの左腕を持ち上げて、自分の左肩にその手を巻き付けて、文自身はトーマスの左側からトーマスを抱きしめた。

「もぅ! 幸せ過ぎる! 大好き。誰にもトーマスを渡さない! 」

「誰も取らないよ!」


文は心の中で、キャンパスで見かけた女性を思い出していた。それを振り払うように呟いた。

「クリスマスマーケットの方へも行こうか?」

「そうだね。ここにいたら、二人の足から根っこが生えてきそうだね」

トーマスは笑って言った。


トーマスが事前にリサーチしていた店は、文も気に入っていた店で、先日来た時に買い物をすませていた。トーマスはそれを確認すると嬉しそうだった。文の好みを理解出来ている自分に満足だった。特にあのカードたちは、トーマスも絵が好きなので、彼自身のお気に入りでもあった。


トーマスは続けて次の日のデートも文へ申し込もうとしていた。

「文、明日は、文のコミューンの方にあるインターの学校でクリスマスフェアが開催されるんだ。今日も開催しているのだけどね。明日が二日目の最終日なんだけど、一緒に行かないかい? インタースクールだから、ヨーロッパ中の国やアメリカ、オーストラリアとか沢山の国のクリスマス商品が並ぶよ」

「え?世界中じゃん? それは行きたいよ」

「そうだね。文の発想は面白いね。本当に世界中だね?」


予定通り、次の日の日曜日は、インターのクリスマスフェアへと向かった。文の中で決して日本で見ることが出来ない催しが少なくともこのベルギーでは、アドベントが始まってからは、アチコチで催されているので、一つでも多くの刺激を求めていた。どのような商品が並んでいるのかがとても興味のある所だった。全ては自分の夢のためである。国によって、扱う物が違うのであれば、それらを自分の記憶にインプットさせておきたいのだ。だから、多くのマーケットを見たかったのである。

 インターは、グラン・プラスのクリスマスマーケットとは違って、多国籍だった。でも、アメリカン色が少し強い気もした。トールペイントやデコパージュの手作りのものや手作りリースなどが多く販売されていた。一つ一つのお店に時間をかけて見物した。ヨーロッパの各国の工芸品も沢山並べられていた。

 ガラスのオーナメント等は、目を見張る美しさだったけど、割らずに日本はおろかアパートにすら持ち帰る自信がなかった。ため息をつきながら眺めた。くるみ割り人形、操り人形などもあった。

レースの工芸品もベルギーを初め、フランス、イタリアなどからレースも並んでいた。編み方によって違いがあるのは、ボビンを始めたからこそ気付けた小さな発見であった。


 手作りが大好きなトーマスも刺激を受けている様子は隣にいてよく分かる。時折、「これなら僕にでも作れそうだから、後でメモしておくことにするよ」と囁いた。その度、文はトーマスとの未来が確実に近づいているような気がしてならなかった。文は、参考商品として、トールペイントの小さな木のツリーを購入した。


インターナショナルスクールを出て、ワーテマルボワフォーのコミューン前広場に来た。バスを待っていると、目の前に美味しそうな肉屋が見えた。ガラス越しに見えたハムが美味しそうだったので、トーマスの腕を引っ張って店内に入った。中は綺麗に清掃が行き届いた冷蔵庫が店の奥まで続いていた。朝市のような冷蔵庫だ。

奥の方にハムがずらっと並んでいたので、店先で見たハムを探した。あった!

「そのハムを味見してもいいですか?」

「はいよ」

と言って、おじいちゃんの店主は文とトーマスの分を一枚ずつ切り分けてくれた。

ストッケルのハムも美味しいけど、こちらの方が断然美味しかった。迷わず購入した。

トーマスは文が美味しいものに出会う時の幸せそうな顔が大好きだった。見ている自分も幸せな気分になるからだった。おじいちゃんは、隣のハムも文とトーマスに差し出した。日本でもよく売られている、見た目は周りが赤い普通のハムなのだが、味が全く違う。めちゃくちゃハムの味が濃厚でジュウシィなのだ。文はこちらも購入した。

バスの中でそれぞれのハムを半分ずつに分けて、トーマスと自分の分に分けた。

「これで、トーマスと同じものを食べられるね。うん、幸せ」

「ありがとう、文」


 こんな風に色々な事を彼女と分け合って暮らしたい。特に彼女の寂しさや辛さ、そして肩の荷をちゃんと分け合って軽くしたい。文の屈託のない笑顔を見る度、その裏に秘められた部分を知るトーマスは考えるのだ。


 街がクリスマス一色になるとエツコの花屋もどんどん忙しさが増して来て、文も大忙しだった。特にアレンジメントの商品は飛ぶように売れた。また、教室も生徒たちが自宅にアレンジメントの花を飾りたくて、毎日定員いっぱいだった。


火曜日。

久し振りに八重と貴子が花のレッスンの日だから、ついでに文のアパートへ迎えに行くから一緒に行こう、と誘ってきた。二人とも車の運転をしているからである。文のアパートから花屋へ向かう時は、トーマスの大学、つまり文たちが通っていた語学学校を横目にしながら通り過ぎていき、その先に花屋はあるのだ。

 カンブルの森めがけて車を進めて、カンブルの森の入り口で右折をする。そのまま真っすぐ街中に向かって走っていくと右手に大学が広がる。


「文ちゃん、どうにか試験合格していてよかったね。これで語学の方はおしまい?トーマス先生もいるからね」

「そうなんですけど、目的が語学留学だから、もう一つ通おうと思っているんです。コミューンの斡旋先にはなるんですけど、入国前に店長が申し込んでおいてくれた所があるので、そこにも三月から二か月ですけど通うつもりでいます」

「本当に頑張り屋さんなんだから! また、体調を壊さないようにしなくちゃダメよ。トーマスが心配するからね?」


 丁度、大学の所を通過するところだった。ふと、運転手の八重を除く文と貴子は同時にある光景を目撃してしまった。

「あ!」

と、同時に声を出した。トーマスが丁度校門から入っていくところだった。だが、二人でその先の言葉が出てこなかったのは、同じことを思ったからだった。

「どうしたの?」

八重が聞いてきた。文は貴子が答えづらいと思い、

「トーマスが女性と二人で並んで歩いていたんです」

「きっと、クラスメイトでしょ?」

「そうです。クラスメイトです。何度か彼女がトーマスの横にいる姿を学校に通っていた時も見ているんです」

「トーマスは、文ちゃん一筋だから問題ないよぉ」

「だといいんですけどね? 私には、思い出したくない過去があるから。あのような光景はシャレにならないんですよ。さぁ!今日はクリスマスのアレンジメントだから、余計な事は放っておいて、頑張りましょうね」


 カラ元気を出したが、心は沈んでいた。八重と貴子もカラ元気にのってくれてはいたけど、気遣いしている事はよくわかっていた。


 花屋での文は、黙々とエツコに指示された作業をこなし続けた。働いていないと変な事を考えてしまいそうで怖かった。救いだった事は、生徒である客たちが、エツコの課題をとても楽しそうに仕上げて取り組んでいる事だった。出来上がった作品がキラキラしていた。同じ花材を使用していても、こんなに作品に違いが生まれることが毎回、文には不思議だった。それでも皆がお花を飾る事を想像しながら帰っていく満足そうな姿を見ると、文も幸せな気持ちになるのだった。

 生徒が帰ると文のレッスンの番だ。生徒への指導を横で聞きながら、文も真ん中の作業部屋で生けるのだ。店頭の花の作業をしながら。生徒は、レッスンだけでなくお互いの情報を交換し合いながら、レッスンよりも話に花を咲かせているが、文は「仕事」としてやっている。生徒が帰った後は、文が仕上げた作品にエツコが手直しを入れるのである。それらを一通りメモして、急いで片づけ、昼食を軽くとって、ゆかりへと向かう。自分の習い事が無い日は、基本的にはエツコの店へ顔を出すようにしている。

 おかげで文は、日本の花屋でも簡単なバイトが出来るまでに短期間で成長していた。好きな事というものは、覚える力も吸収力も違うものだ。好きだからこそ、覚える事、知る事に取りこぼしが無いように集中するので頭にも残るのだ。

 文が綺麗に整えた冷蔵庫や店内に、午後からはエツコが一人で立つ。作業場も文が動きやすいように整理整頓をしているので、エツコは自分の店でありながら「使いやすいお店ねぇ~」と、いつも感心するのだった。


土曜日。

再び文はトーマスとゆかりの仕事後に待ち合わせた。

縁導商社のクリスマスパーティへ招待されているからだった。

 文は、パーティ用の私服を持っていなかったので、仕事帰りにヌーヴ通りの店で購入した。ラッキーな事にソルドの季節だったので、格安で購入できた。

日本にいるアンティークビーズでジュエリーを制作する文の友人の作品をいくつか持ってきていたこともラッキーだった。普段も友人のピアスはつけていたが、やっぱり正装の方が彼女の作品は似合うな、と思った。コサージュもバッグに付けて楽しむために彼女の作品をいくつか持ってきていたので、使うべき時が来てコサージュも喜んでいる気がした。

 文が居候をしていた部屋で着替えて、身支度を整えた。トーマスはスーツで登場した。お互いに会った瞬間、顔を紅潮させた。その姿を見ていた豪は、茶化した。

「おぉ?二人ともお似合いじゃないか? 文、トーマスの事、惚れ直しているんだろ?」

「もぉ! そうですけど何か文句ありますか?」

「トーマスも何をボケっと突っ立っているんだ? 姫をエスコートしなくちゃダメだろ?」

「あ、そうでした・・・文、とっても可愛いよ」


文は、火曜日に見た光景を今は忘れるようにした。

(だって、目の前にトーマスはいるじゃない!)


 指定されたレストランまでタクシーで向かった。ブラッセル郊外のとても広いレストランだった。帰りは、加藤が送ってくれるというので、甘えることにした。

入った店内は薄暗くて、既に出席者は、席についてパーティが始まっているようだった。入り口で加藤を呼び出してもらい、加藤に席まで案内してもらった。


「よく来てくれたね。ありがとうございます。月見さん、トーマス君」

トーマスは慣れたもので、自然に加藤と握手を交わしていた。文は、トーマスと腕を組み、片時も離れずにいた。加藤は、一つのテーブルを案内した。そこには日本人とベルギー人の縁導商社の従業員が座っていて談笑していた。加藤が予め、文の事を話していたようで、加藤が二人を紹介すると、それぞれ自己紹介をしながら握手を求めてきた。

 そのテーブルの人達と色々な話を文とトーマスはした。とても刺激的な時間だった。縁導商社は、ヨーロッパと日本の食品を取り扱う商社だった。オランダにある大きな商社の傘下にあるため、食品だけでなく他のものも扱いはあるが、九十五%は食品なのだという。その為、ゆかりにも出入りしているのだ。

 文の独自の発想や気配りで、日本の食品をヨーロッパに広めるアイデアの開発に携わる事は出来ないか?というのが文にアタックしてきた目的だったのだ。

あのマロニエ祭で、あの書道コーナーは、ずっと変わらない人気のコーナーだったのだが、今年は初めて趣向を変えてきたので、長年、マロニエ祭に携わっていた加藤は目を付けたのだ。誰がどんな仕掛けをしてきたのか?と。担当の実行委員に内容を聞いて回り、ベルギー人スタッフの何人かが文の作品を購入して、その時の感動を伝えてきたことから、文にどうしても会って話を聞きたかったのだと話していた。

 文は、もし、日本で働くとしたらどの都市で働くことになるのか?と尋ねた。加藤は、東京か横浜になると思う、と応えた。文はやってみたい、と考えていた。

そして、トーマスが他のベルギー人スタッフと話をしている事を確認して、加藤と日本語で話し始めた。

 トーマスが今、大学三年で、再来年の夏に卒業となる。その後、恐らく結婚することになると思う、その時に自分はベルギーに戻ってきたいと思うのだが、それでも良いのか?と。

 加藤は、本来であれば、ベルギーで雇いたいのだ、と言った。だが、帰国することを聞いていたので、日本にいる加藤の先輩に文の事を紹介したら、是非会ってみたい、と言っていたので、その前に加藤が文の意向を確認したいと考えたのだ、と言った。文は、もう迷う必要もないな、と考えた。

「前向きに考えさせていただきたいので、帰国後、その方に面接していただきたいです。その後のご判断は、お任せ致します。もし、お気に召さなくとも私は何も問題ありませんので、厳しいご判断をしていただければ幸いです」

文は、トーマスの事が順調に進むことになったら、折角の縁があって就職しても、すぐに寿退社もしくは育児休暇、なんてことも考えられるから、厳しい判断の上で採用してほしいと考えたのだ。


「ありがとうございます。良いお返事を聞かせていただいて本当に嬉しいです。今夜は心行くまで楽しんでください。そして、なるべく色々なスタッフから話を聞いてみて下さい。このテーブルがわが社のスタッフで、他のテーブルはお取引先だったり、わが社の社員のご家族だったりします。隣のテーブルは、親会社のリヤンのスタッフがいるので、ね」

「承知いたしました」


 文は、横でトーマスがとても楽しそうに縁導商社のスタッフと話をしている姿を見て安心した。そのうち、トーマスが手招きをした。「僕のそばにいて。お願い」と、囁いた。

スタッフの一人がトーマスを隣のテーブルの別のスタッフに紹介をしていた。隣のテーブルにも日本人が一人いて、文に自己紹介をしてきた。その日本人と一緒にトーマスが隣の会社のベルギー人スタッフと話す内容を聞いていた。縁導商社のスタッフは、その隣のテーブルのスタッフにトーマスを紹介した。


「彼も商社の仕事に興味があって、今、大学で学んでいるのだそうだ。興味の幅が広いからウチよりも御社の方が彼向きかな?と思ってね・・・」

などとリヤンのスタッフに向かって話をして紹介していた。


「へぇ、そうなんですね?」

文の隣にいた日本人スタッフは文に聞いてきた。文はトーマスを売り込むチャンスだと思い、彼の想いを代弁した。

「たしかにそれだったら、縁導さんの所では、彼にとっては挑戦の幅が手狭になってしまうね?これは、楽しみな人材の発掘が思わぬところで出来たのかもしれないですね?」

「ご縁があれば嬉しいですね」


その後もその日本人スタッフは、文との関係を聞いたり、文の事も何故、今夜ここにいるのかなどを聞いたりしてきた。文は隠さずに丁寧に答えた。

(私を気に入ってもらえたら、きっとトーマスの事も認めてくれるはず)

このチャンスを信じて慎重に言葉を選んで発言をした。


 長い夜は終了した。文にとっては初めての社交界デビューとなった。自分の事よりもトーマスの成り行きが気になって仕方なかった。トーマスも思わぬところで就職活動が出来て、興奮していた。

 加藤が文のアパートまで車で送った。二人で加藤に心から礼を述べた。加藤は、何よりも文の返事が良い返事だったので、「良いクリスマスプレゼントをいただけた」と喜んでいた。加藤の車が見えなくなるまで二人で見送った。


「文のおかげで今夜は本当に充実していたよ。ありがとう。僕の未来の扉を開けてくれたのは、間違いなく文だね?君には感謝の言葉しかないよ」

「開けたのは、間違いなくトーマスだよ。私はキッカケを作ったに過ぎないわ。また、どちらかの会社の人が会いに来てくれるといいね?」


「文、次は僕からのプレゼントのディナーにつきあってくれよ?二十四日のイヴだからね?」

「うん、分かった。楽しみにしているね。」


イヴがやってきた。

仕事を定時で終わらせて、トーマスと待ち合わせた。文は、自分がお気に入りのヴィタメールのチョコレートの詰め合わせを豪へプレゼントした。豪からは、ミニボーナスが支給された。

「沢山あげられなくて悪いな」

「いただくのも申し訳ないですよ。ありがとうございます。花嫁貯金にしますね。店長、メリークリスマスです。明日は、お休みをいただきありがとうございます」

「おう。また、明後日頼むな。二人仲良くするんだぞ」


トーマスは、グラン・プラスにあるラ・メゾン・デュ・シーニュ、別名「白鳥の館」のレストランを予約していた。文が言葉にこそ出さなかったけれど、以前から気になっていたお店だった。

「トーマス、私、このお店に入りたかったの。よく知っていたね?嬉しい! ありがとう」

「そうだったんだね?よかった。文が食べられるものが沢山あるといいのだけど・・・」


文は、ベルギーを選んで留学してきたにもかかわらず、乳製品全般がアレルギーの為、口にすることが出来ないのだ。年齢と共にアレルギー反応は出なくなっていたが、生まれた時から口にしたことが無かったので、苦手だった。他にもジビエも苦手だった。それは、スーパーの肉売り場にそのままの姿で吊るされているのを見て、とても食べる気が起こらなくなってしまったのだ。パスタの中のムール貝は問題ないが、バケツで出てくるムール貝も苦手だった。


レストランの中は、暖炉があるのかと思うほど暖かかった。活気があって、かしこまらずに食事が出来る雰囲気だった。

席に通されて、ウェイターの男性がメニューを持ってきた。

文はお店のお勧めのサラダと本日のスープ、鶏肉のグリルを注文した。

トーマスはバケツ一杯のムール貝と文と同じようにサラダとスープを注文した。

そして、何といってもベルギービールである。ビールで乾杯をして、クリスマスを祝った。文は黒ビールが好みだったので、シメイ・ブルーを注文し、トーマスはレフブロントを注文した。

 ウェイターが忙しく店内を動き回っているが、どのテーブルの客の事も把握しており、料理が絶妙のタイミングで運ばれてくる。少し遅れそうなときは、声をかけて飽きさせない。文たちにも「おいしいかい?」と声をかけることを忘れていなかった。

「気持ちの良い接客だよね?」

文は笑顔で囁いた。トーマスも笑顔で頷いた。

(文の接客の方が気持ちいいけどな。彼女はこうして、色々な人の接客を研究して自分の技術として生かしているんだろうな)


「文はさ、いつも笑顔が素敵な接客だよね?お客さんがつられて笑顔になるような、そんな笑顔が出来る女性だと僕は思っているよ」

「ん~ それしか取り柄が無いの。笑顔と元気を与えられる接客を心がけているんだ。あの人に会うと元気になるな、笑顔がこぼれちゃうな、みたいな接客をね。まだまだ修行の身だよぉ」

「僕は、常にその気持ちにさせられるけどね」

「トーマスとお客さんは一緒じゃないもん! 特別!」

「それも知っているよ」と言って、笑った。


外は石畳も凍りそうな寒さなのに、とても温かい気持ちになっていた。

「トーマス、今夜は素敵なプレゼントをありがとう。ずっと気になっていたお店に連れて来てもらって、お食事もウェイターの接客も最高なんだもの。とっても満足だよ。ありがとう。明日は頑張って素敵なクリスマスにするから楽しみにしていてね。少しでも長く一緒に居たいから、ランチも一緒に食べない? それまでに夜の食事も粗方準備しておくから」

「文が行ってもいいのなら、すぐにでも行きたいよ」

「今すぐは準備があるからダメ!」

「分かってるよ。じゃあ、十時に行く! ランチは僕も手伝うから一緒に作ろうよ」

「それ素敵なアイデアね。賛成! そうしよ!」


 今年は目まぐるしく過ぎていった一年だった。一年の前半に日本にいたとは思えないほどだ。

 年明けから、留学に向けて、最後の追い込みで貯金をしまくって、断捨離に励み、余分な物を全て捨てて、沢山の事を学んだ会社や上司、同僚とも別れ、住み慣れた川崎の街も離れた。

 不安と同じくらい希望をもって初めての異国の地で沢山の事にチャレンジをして、恋する事も出来た。そして、生涯のパートナーとして歩みたいと思える人に出会えた。今までの人生の中で一番「生きている!」と思える一年だった。苦しい事も辛い事も悔しい事も沢山あったけれど、それらもひっくるめて本当にこんな一年は今までになかった、と思えた。

 文は、全てはトーマスの支えがあったからこそだと彼に感謝していた。それをこのクリスマスパーティで伝えたかった。

 ランチはトーマスの言葉に甘えて一緒に作るとして、パスタにしようと決めていた。パスタソースの仕込みだけをして、あとは茹でるだけに準備を整えた。

文は二日前からデザートの準備に取り掛かっていた。昨夜、ようやく完成し、大きな箱で、そのデザートを隠している。

 今朝は、キッシュとスープ、スペアリブの準備に追われた。サラダは簡単にパーティ前に用意すればいい、と決めていた。あとは、お決まりのデレーズのクロワッサンだ。トーマスを想いながら準備する料理は、文にとってこの上ない幸せな時間だった。

 折角、学んだフラワーアレンジメントでテーブルの上を彩り、インターのクリスマスマーケットで購入したトールペイントのツリーはテレビ台の上に飾った。

 玄関を入った所の床には、グラン・プラスのクリスマスマーケットで購入したカードを並べた。

 文のアパートは家具がない。テーブルも最近、手に入れたばかりだ。それまでは、床で飲食も勉強もしていた。さすがにボビンや習字の練習をするようになって、テーブルが欲しくなったところに、文のアパートの隣に住んでいたアイルランド人のリサが国に帰るから、と言って、文にテーブルセットをもらってほしい、と言ってきたので、喜んで譲ってもらった。小さなテーブルだったけど、一人住まいなら十分だ。

日本から持ってきたスーツケースに布を掛けて、サイドテーブル代わりにしようと考えた。

(何とかパーティっぽくなったかな?)


時計は、十時になろうとしていた。

トーマスが呼び鈴を鳴らしてきた。待ちきれない気持ちが顔を見る前から伝わってきた。

「文、お招きいただきありがとう」

と言って、最高の笑顔でやってきた彼は、片手に大きな荷物を持っている。

「トーマス、それなぁに?」

「はい、どうぞ。見てごらん」


大きな袋を開けると、大きな雪だるまが出てきた。ところが、その雪だるまは、硬いパンで出来ていた。ちゃんとマフラーも巻いている。サンタの帽子もかぶっている。

お腹の所から二つに分かれていて、下の部分にサンドイッチが沢山詰まっていた。

「え?これ何? 初めて見る!しかも美味しそう」

「文の大好きなマイユーのサンドイッチ入り雪だるまだよ」

「もぉ!トーマス、大好き!凄く嬉しいじゃない。ありがとう」


文は、子供のころから感受性が異様に高い。人の気持ちを考えると、胸がいっぱいになるのだ。それは、哀しい事でも苦しい事でもそうなのだが、嬉しい事や楽しい事もそうなのだ。トーマスがどんな気持ちで、この雪だるまを準備したのかを考えると、その時間や想い、行動を考えると、胸がいっぱいになるのだ。


 苦しい事や悲しい事の時は、大抵、文に話をする人は、文が半分以上その辛さを吸い取るので、文に話をすることで軽くなるのだ。話を聞いた文がその感情を一心に受けてしまうのでダメージが大きくなる。誰にも話せていない文の特異な能力だった。文は、その能力を怖がらずに使ってしまうので、常にそのダメージを受けてしまうのだ。それが自分自身のことになると、更に内側に閉じ込めてダメージを無かったことにするので、「病状」となって表れることがよくあるのだ。自分で分かっていながら、コントロールが出来ないのである。

それは、今日のようにプラスに働く時に底知れぬ「幸福感」を味わうことになるからなのだ。


 苦しい事や悲しい事は自分が我慢すれば何とか乗り越えられる。

でも、こういう幸せは、そんなには舞い降りてはこない、と文は思っているからだった。だから、幸せな事があると苦しくなるのである。誰かと喜びを分かち合わなければ幸せ過ぎて苦しくて死んでしまいそうになるのだ。


 文は、トーマスに抱きつき離れなかった。トーマスも文が全身で喜びを感じている事を理解していたので、しっかり抱きしめた。トーマスは、文の小さな肩越しにふと下を見た。沢山の見覚えのあるカードがかわいらしく並べられている事に気付いた。


「文、このカードってあのマーケットに売られていたカードかい?」

「あ!気付いた?そうなの。今日という日にどうしても並べたくて、全種類買っちゃったんだ」

「うわぁ~ 凄いよ。僕もこの絵のファンなんだ。やっぱりいいね。文とは、良い!って思う価値観も一緒で安心するよ。それから、今日は文のアパート初めての日だから、僕を早く玄関から中に入れてくれないかな?」

文は、自分が有頂天になっている事を恥ずかしく思った。

「ごめんね、トーマス。でも、狭いアパートだから、今、見えているのが全てよ」

「僕のアパートも同じようなものだろ?文の部屋は、シンプルだけど、文がいっぱいに詰まっている感じがするよ。それにベッドが大きいね?セミダブル?」

「そうなの。日本人の家族から譲っていただいたから。おかげで動き回れるよ」

トーマスは笑った。トーマスのベッドは、シングルだったので、文が泊まった時も二人で小さくなってくっついていなければ、どちらかが落ちてしまいそうだったからだ。


 トーマスは、部屋のあちこちにベルギーでの文を感じていた。部屋の奥にある大きなクローゼットには、文の衣類などと一緒に、見覚えのある習字の作品と一緒に道具が整然と並べられていた。最近始めたというボビンの作品が途中の状態で台の上に完成を待っているようだった。

 床から天井まであるクローゼットだが、文が使っているのは、十分の一ほどだった。しかし、そのクローゼットの真ん中に小さく飾られている物をトーマスは見逃さなかった。


「文、これミニチュアでしょ? もしかして文が作ったの?」


そこには、いつか文と二人で食べた「おにぎり」、クロワッサン、水筒、水筒から淹れられた珈琲、唐揚げやサラダのミニチュアたちが水色の布に並べられていて、話し声が聞こえてくるようだった。


「そうなの。全て粘土で作ってみたの。トーマス、分かる?」

「もちろんだよ。テルビューレンのピクニックでしょ?あの時のままだよ。すぐ分かった。なんだか懐かしいね。こんな風に思い出を大切にしてくれる文が僕は本当に大好きだ」

「だって、トーマスとの思い出は全て大切なんだもの。これ見ていると幸せになれるんだぁ」

「ねぇ、文。文がベルギーにいる間に僕達、一緒に暮らせないかな?僕は暮らしたいと思っているんだ」

「私も暮らしたい。でも、自信がないな・・・大切なトーマスの事は、勢いに任せて決めたくないから、もう少し考えさせてね?」

「分かった。一緒に暮らせたら、僕が家や家具を作って、文が粘土で作ったものを並べる、なんていいよね?」


 文はまた、胸がいっぱいになった。大いに想像できるからである。トーマスはミニチュアの食べ物をいつまでも眺めていた。

 部屋の真ん中に目を戻すと、本日のメインテーブルがあった。そこには文らしくバラとヒぺリコム、カスミソウのアレンジメントが小さく邪魔をしないように飾られていて、トーマスを出迎えている事を物語っていた。

 アロマの勉強をしたい、と言っている文だからなのか、部屋はグレープフルーツの香りがどこからかトーマスの鼻をくすぐり、クリスマス気分を盛り上げてくれていた。

 文はトーマスのコートを受け取り、玄関先にあるコートハンガーに文のコートと一緒に掛けた。コートが重なり合って喜んでいるように文には見えた。


 二人でランチのパスタを茹でることにした。もう一つのコンロで文は、予め作っておいたボンゴレのソースを温めた。軽めのランチにして二人向かい合って食べた。文は、結婚したらこんな風な生活が毎日続くことを想像した。トーマスもその気持ちは一緒だった。

(日本に帰ってしまう前に何とかして一緒に住めるように文の不安を取り除けるように頑張ってみよう)


ランチの片づけをして、二人は床に座りながら話をした。

トーマスのアパートはソファがあるのだが、文のアパートは一切余分な物が無かった。それでも、大きなクッションがあったので、文はトーマスに差し出した。文は、トーマスに「ある物」をプレゼントした。


「全然うまく作れなかったけど、私にとって初めてのボビンの作品なの。トーマス、受け取ってくれる?」

「え?いいの?文の分は?」

「私の分は、あの台の上に途中になっているの。本当は二つ作って、上手くできた方をプレゼントしたかったけど、全然遅くて間に合わなかったの。ごめんね」

「むしろ、コッチの方が嬉しいじゃん?だって、文が初めて作ったものだよ?一生に一回しかないチャンスのものを僕がプレゼントされるなんて、最高だよ」

文は嬉しくて泣いた。トーマスは文をクッションに寝かせた。トーマスはそのクッションに肩ひじをつきながら、文の顔を覗き込んでいた。

文の処女作は、ハートの形をしたクリスマスツリーに飾るデコレーションだった。ハートの真ん中と内側にシルバーの糸が編み込まれている。

「これ、ツリーの飾りだろうけど、コースターにしてもいいね?このレースを入れるフレームを僕の誕生日プレゼントのコースターみたいに作ってみようかな?」

「えぇ?それ、凄くいいアイデアね。私の分も作って」

「もちろん、いいよ。僕、木工が好きなんだ」


 文は、ボビンのレッスンの事やボビンにまつわる色々な話をトーマスにしてみた。ボビンを衰退させてしまいたくない事、機械に流されないで欲しい事。ボビンの技術者を絶やしたくない事。

 トーマスも文がボビンを始めてから同じことを考えていたのだという。ベルギーの伝統工芸なのに、ベルギー人よりも日本人が夢中になって学ぶ姿を凄いと思うと同時に、ベルギー人で再興させることはできないのか?と考えていたのだ。それを先日のクリスマスパーティの時にオランダのあの商社のベルギー人スタッフと話をしていたのだという。


「日本人は手先が器用っていうことと、昔の文化を大切にする民族だからボビンに親しみがあったんじゃないかな?ベルギー人に敬遠されるのであれば、国を超えて、得意な人が広げてくれていたらそれはそれで、ベルギーの文化財産を守る事になるよね?ボビンも似たような模様が沢山あるから、ベルギーのボビンレースはどんなものか?っていう物差しがあれば、広めやすいのかな?って。ベギン修道会とかに昔の資料があれば、何かヒントが隠されているかもしれないよね?」

「私、ブルージュにも行ってみたいの。レースセンターにも行ってみたい」

「文が帰国するまでに絶対に行こうね。 ねぇ文・・・ボビンをやっているところを見せてくれない?」

「え?いいよ。下手くそだけどね。グラン・プラスで実演しているおばあちゃんたちと比べたりしないでね」

「そんなことしないよ!」


文は、台をクローゼットから取り出し、編みかけの作品に向き合った。ボビンが動いてしまわないように毛糸をかぎ針で編んだボビンホルダーから一本ずつボビンを外し、綺麗に扇形にして前回編み終えた状態から編み始めた。トーマスは、文のボビンが奏でるカランコロンという音を心地よさそうに聞きながら、文の作品を見ていた。編んでは針で誘導し、また編んでいく。

「文はすごいなぁ。よくここまで編めるようになったね」

「そうねぇ、何となく数学的なんだよね。数学の図形問題を解いている感じかな?私ね、数学が好きなんだけれど、このボビンも、習字も数学みたいに考えると上手く出来るの。私の基本の部分の考え方は、数学なのよ。でも、その基本の先は、技術なの。それは、このボビンも同じような気がするの」

「へぇ、独特な解釈かもしれないね。それにしても、いい音だ・・・今までボビンレースになんて興味を示したことが無かったから、文のおかげだよ」


 トーマスは言葉や態度にこそ出さないようにしていたが、文のクローゼットの中身が少ない事もこの家具がほぼ無い殺風景な部屋の中も文がいずれ帰国する人であることを物語っていたので苦しかった。その苦しさを文のボビンの音が優しくいたわっているように感じていた。

半分まで編み終えて、文は片づけた。


「さぁ、二人きりのパーティを始めましょうよ。今夜はゆっくり過ごそうね。クリスマスにトーマスと一緒に眠れるなんて凄く嬉しいの。私ね、トーマスと一緒に寝てる時が一番幸せで疲れもぜ~んぶ飛んでいくから、ぐっすり眠れるのよ」

「文、実は僕もそうなんだ。初めさ、緊張して眠れないかな?って思っていたけど、文の安心したような寝顔を見ていると、僕もす~っと眠れるんだ。僕達って変わっているのかもしれないね? 昔、前世とかで夫婦だったりしてね」

「そうだったら、凄く嬉しいなぁ。ベルギーに来た意味もあるわよね?」


 文は、デザートの箱を見せたくて、トーマスをスーツケースのテーブルの前に座らせた。スーツケースの上にその箱を置き、

「とっても楽しく作った私のデザートです!」

と言って、箱を上にあげた。箱はそのデザートを隠すための蓋だった。

デザートはクッキーやお菓子で作った「お菓子の家」だった。屋根には粉糖の雪も積もっている。お菓子の家の玄関先にはフワフワのスポンジケーキで出来た雪だるまが置かれている。

屋根は板チョコ。玄関の扉は、ウェハウスで作られていた。家の横には暖炉に使う薪に見立てた、豪の店で販売している日本の小枝の形をしたチョコが積まれている。玄関先からマーブルチョコのアプローチが続き、その先にクッキーで作られたポストが立っている。ポストにはこの家の住人である二人の名前が書かれていた。


(トーマス&フミ)


ポストの中には小さなカードが入っている。トーマスは無言で(見てもいい?)と、カードを指さして聞いている。文は(どうぞ)と手で応えた。

「メリークリスマス あなたに会えてよかった ずっと一緒だよ」

メッセージが書き込まれたカードだった。トーマスは目を伏せた。小さなカードを三本の指でつまんだまま目を伏せていた。文は、大きなトーマスを丸ごと包むように抱きしめた。トーマスは言葉を失うほど感動していた。


「文、これは凄すぎるよ。感動し過ぎちゃう。文、もう一度言わせてほしいよ。真剣に僕と一緒に暮らすことを考えてほしい。僕達には時間が無いんだ。この楽しい時間をもっと永く持ちたいよ・・・」

「トーマス、ありがとう。私も同じ気持ちなの。でも、私は時間が無いのでなく、これから永遠の時間が続く、って思いたいの。永遠に続ける為だからこそ、慎重になりたいの。そして、永遠に続く自信が自分にほしいの」

「そっか・・そういう事なんだね。よかった。文は僕から離れたがっているのかと思ったんだ。僕も文が自信をもって僕と暮らしてくれるように頑張るから、前向きに考えてほしい」

文は大きく頷いた。


トーマスはミニチュアと同様、このお菓子の家も隅から隅までじっくり見ていた。

(本当にお家や手作りが好きなんだね)


それから文は、準備していた料理を手際よく温めなおしながら、テーブルとサイドテーブルいっぱいに並べた。トーマスは夢のようなクリスマスパーティに感動していた。

(昨日のレストランよりもスゴイ料理じゃないか! 文と結婚したら、僕も子供たちも楽しいだろうなぁ)

ゆっくりゆっくりクリスマスの夜の時間は更けていった。

トーマスがシャワーを浴びている間に文は食事の片づけをした。

文がシャワーを浴びている間、トーマスはベッドに座り、文が居ない部屋を眺めていた。文が扁桃腺炎になったことや語学学校の勉強をしている姿、マロニエ祭の準備をしている光景、テルビューレンの時や大学で一緒に食べた弁当を作っている文の姿、色々な文の事を想像した。


ベッドから香りがしてきたことに気付いた。


(文は女の子だなぁ。アロマの香りと共に生活しているんだな。みんながつけている香水とは違う癒しの香りが文からはいつもしていたけど、この部屋は文そのものだ。落ち着く。帰りたくなくなる)


考えていたら、いつの間にかベッドで横になっていた。文はシャワーから出てくると、トーマスがベッドで寝ていたので驚いた。


(トーマスが寝ると、ベッドも小さく見えるから不思議)


なんだか笑えてきた。トーマスは文の気配を感じて目を開けた。

「文の部屋は落ち着くなぁ、って考えていたら寝ちゃったよ。ごめん。何を笑っているの?」

「だって、トーマスが寝ると、そのベッドでも小さく見えるから不思議、って思ってね。トーマスどいてみて。私が寝ているところ見てよ。ベッドが大きく感じるから」

「あ、ほんとだ。そりゃ、文は小さいからね。仕方ないよ」


ベッドに入り、二人は今夜のメニューのおさらいをした。文はトーマスが持ってきたマイユーのサンドイッチが美味しくて止まらなかった、と話した。トーマスは、スペアリブの作り方やキッシュを作るのが大変じゃなかったか気遣った。そして、何よりもお菓子の家の作り方に話題は集中した。

文は風呂上がりのトーマスの髪が好きだった。前髪を全ておろしてクシャっとしている。その前髪の隙間から栗色の瞳が真っすぐに自分を見ている。誰にも渡したくない気持ちになるのだ。その上、風呂上がりのトーマスはバスケマンの恰好をしているので、文のハートへ直球ど真ん中に刺さってくるのだ。筋肉質な両腕、割れた腹筋はTシャツを通しても分かる。文の冷たい足を温めてくれるトーマスの足は、やはり筋肉質でゴツゴツしているのに文には心地よい。ずっと絡めていたくなる。

「トーマスは、腹筋とか体を鍛えているの?」

「そうだね。毎日でもないけど身体は動かしているよ。いつまでも文にとってはカッコイイ男でいたいからね」

「かっこよすぎて目まいを起こしそうだよ。お腹も堅いし、凄いね。私なんか全身プヨプヨ。恥ずかしくなっちゃう。ほら、ここなんてプヨプヨの代名詞みたい」

と言って、二の腕を揺らしてみた。トーマスは笑い出して、文の二の腕をずっと触り続けた。

「これ、面白くて気持ちいいね。女性がムキムキなのは、僕はあんまり好きじゃないかな?」

「じゃあ、このままでいる!」

トーマスは優しく笑った。

「文、この香りは何の香りかな?」

「これはね、ローズウッドっていう香りなの。私の精神安定剤みたいな香り。普段は一人で寝るでしょ?色々考えると不安になったり、トーマスに会いたくなって寂しくなったり、そのうちに眠れなくなったりするの。でも、習い事にも行かなくちゃいけないし、その後は仕事も待っている。睡眠は大事でしょ?だから、グッスリ眠るためのおまじないみたいな香りなの。この香りを嗅いだら絶対に眠れる、ってね」

「たしかに心が落ち着く香りだよね?さっき、この香りがどこからともなくしてきたときに、文の香りだ!って思って安心しちゃったんだよね。なんか分かるよ、それ」


 トーマスのベッドと違い少し大きな文のベッドは、寝る時もトーマスの胸の広さを感じて安心してすぐに眠れた。トーマスも伸び伸びと眠れるので、文の寝息と共に秒殺で眠りに落ちた。


 翌朝、ぐっすり眠った文は、いつもの朝と違い、目覚し無しで起きることが出来た。

(心も体もスッキリしている。エネルギー満タン。準備OKって感じね)

トーマスはスースー寝息を立てている。トーマスが文を自分の身体で包むように眠っているので、その腕をゆっくりと外した。トーマスが起きそうになったので、

「トーマスはまだ寝ていてね」

その両手をそっと自分の胸にあてた。トーマスは寝ながらも文の行為を理解していた。自分のその手からは、文の鼓動と祈りを感じていた。

(どうか私から彼を奪わないで下さい。私と彼の想いが永遠に続くようにお導き下さい)

 トーマスと入ったカリプソの隣の教会の鐘がそろそろ鳴る事を知っていたからだ。

遠くで鐘が鳴った。トーマスにも聞こえていた。文は鐘が鳴り終わるまでそうしていた。


 そっとベッドから抜け出して、身支度を整えて朝食の準備をするためにキッチンに入った。

 トーマスは、呆然としながらゆっくりと目を開けた。文が何かを祈っていたことは分かっていたからだ。彼女はいつも、何かに怯えているように祈る。彼女の祈りの真意を知りたいと思っていた。


 文は、昨夜のコンソメスープをアレンジしてシーフードコーンクリームスープにしていた。あとは残りのキッシュとフルーツをテーブルに並べた。トーマスが起きて、文を手招きしている。

「どうしたの?」

「起こしてくれなくちゃ起きられない」

文は笑いながら「大きな赤ちゃんですね~」と言って、トーマスの腕を引っ張ろうとした。トーマスは逆に文を引っ張った。

「何を祈っていたの?」

「言わないわよ。でも、トーマスが大学を卒業してからのことよ。それで分かるでしょ?」

トーマスは、言葉にして聞きたかった。

「今度は文が祈っていない時にそれを聞かせてよ。文の言葉で聞きたいよ」

「そうだね。ちゃんとトーマスには伝えなくちゃね。二人の願いでもあるはずだからね? さぁ、トーマス、今日から年内は忙しくなるでしょ?私もゆかりが忙しいの。あと一頑張りしなくちゃね? 三十一日は、またココに来る?日本人にとって、三十一日って少し特別なんだ」

「もちろん、また泊まらせてくれる?」

「うん、だって、次の日はお店もお休みなんだもの」

「うわっ!よかった。文を独り占めだ。誰にも邪魔させないぞ~」

「私もトーマスを独り占めだね。誰にも渡さない!」


朝食を済ませて、二人並んで出勤した。トーマスは着替えを全て置いていった。文には大晦日に泊まるから、と言ったが、トーマスなりの小さな計画だった。

(一緒に住むんだから、少しずつ僕のものを増やしていこう!)


明るく笑顔で出勤してきた文を見て、豪は何事もなかったことを悟って安心した。

(文は頑なに守っているんだな。トーマスが耐えられるか心配だから、そろそろ声をかけとかなくちゃいけないかもしれない)


「文、トーマスは近いうちに店に来てくれるかな?」

「ん~いつかは分からないですけど、大晦日は確実に来ると思います」


 年末の稼ぎ時に文が元気でいてくれることが店にとっても、豪にとっても安心な事だった。文は初めての年末商戦をどう乗り切るか、どう売り上げを伸ばすかを考えることに夢中になっていた。

 年末の忙しさは、日本でもベルギーでも同じだな、と文は感じていた。文の勤める「ゆかり」が日本食材の店であるから、ということもあるだろうが、人々のせわしなさは国が違っても同じだと思う。


 花屋のエツコも、年末は大忙しだった。文が少しでも手伝ってくれることが有難かった。文は基本、店舗の掃除や花の手入れがメインの仕事だった。整理整頓、掃除を進んでこなしてくれる文の存在がエツコは有難かった。嫌な顔一つ見せず、むしろ、この空間にいられる事をとても楽しんでいるように見えた。その姿を見ると、エツコも俄然ヤル気がモリモリ出てくるから不思議だ。いつも笑顔でパキパキと動き、手を休めることをしない文は根っからの「働き者」だった。エツコがコーヒーを淹れたりしなければ、どこまでも働いてしまうのだった。


 文の提案で、年末の店頭には日本の正月を思わせるアレンジメントを置いて販売した。これが、実は「大当たり」だった。欧州の人々はその昔から現在に至るまで東洋の文化を好む人が多い。文の発想もまた奇抜で、ただアレンジメントを並べるのでなく、庭園に見立てたようなディスプレイ棚に並べたのだ。玉砂利や盆栽を配置して、それらのアレンジメントを並べれば、否応なしに異国の地の庭園を想像させられる。エツコも自身で発想力が豊かな方だと思っていたが、文の型にはまらない発想には驚かされることが多い。彼女は「形」に出来る技術を持たないだけで、細部にまで発想が出来ているので、技術を持った者は、よりリアルに彼女の発想を再現できるのだ。そして、驚くことに文はそれが自分の才能であることを理解していない。才能であることを伝えても形に出来ないから、ただの空想者で、最も凄いのはエツコ達のように「形」に出来る技術者だと信じているのだ。この謙虚さこそ文の最大の武器だとエツコは思っている。日本を知るエツコは、文のこの謙虚さの意味を理解しない、席取り合戦が好きな日本人や、自分の名前を残すことに必死な日本人には、文の存在が「脅威」でしかなかったのだろう、と想像する。

(コッチの生活の方が文ちゃんには合っているんだけどな~)


「文ちゃん、今年は本当に助けてくれてありがとう。お礼になるかどうかは分からないけど、お正月のアレンジメント作ってみない? 日本のような花材はないけど、店頭に並べているアレンジメントなら教えられるわよ」

エツコは、枝ものと花材と真っ黒の花器で正月用アレンジメントのミニ教室を文のためだけに始めた。文はエツコの粋な計らいに感動し感謝した。


「うわぁ、これでお正月が迎えられますね? エツコさん、ありがとうございます」

エツコの店は三十日で今年の営業は終了となった。エツコがリエージュに帰省する為である。


 豪の店「ゆかり」では、三十日から天ぷらを沢山販売することにした。事前にお知らせもしていたため、予約も多く入っていた。遠い海外に来ているとはいえ、日本人はやはり「習慣」を大切にする民族である。日本にいる時よりも大切にするのかもしれない。文としては、お節料理の販売もしたかったのだが、今回は豪が見合わせた。

日本人の駐在員は、大概の家族はバカンスに出かけてしまうからである。豪としては、大晦日の天ぷらで今年は様子を見たかったのである。しかし、豪の心配に反して、天ぷらの売り上げは好調だった。文は、来年の天ぷらもお節料理も完全予約販売でやってみたらどうか?と提案した。カスタマイズできるお節料理だったら、ニーズがあると思ったのだ。来年、ここにいられない自分がもどかしかった。豪は、文の意見を取り入れて今回のデータを全て記録に残し、文の提案も残した。戦略がまだまだある、ということは商売人にとっては「生きる道」が断たれていない証だ。豪は本当に文の存在が心強かった。


 トーマスは、大晦日のアルバイトが休みだったため、早めにゆかりに来て豪たちを手伝った。トーマスが来店すると、豪が独り占めすることが文は何となく嬉しかった。自分の大切な人が気に入られ、認められていることは嬉しいものだ。


「文!表は頼んだぞ!」

「はぁい」


 豪は、トーマスをバックヤードに連れ出し、片づけと棚卸を手伝わせながら、気になっていたことを聞いてみた。

「お互いのアパートを行ったり来たり楽しそうだけど、トーマスは大丈夫か?」

「え?大丈夫ですよ。文と一緒に居ると本当に安心で楽しいです」

「そっか・・前にトーマスに忠告したと思うけど、文は典型的な日本人女性だ。ガードが固くてトーマスが我慢できずにいるんじゃないか、って心配でな?恐らくアイツは、トーマスに全てを許す時が結婚を決める時だと思う。それまで耐えられるか?」

「大丈夫ですよ。そういうことが目的で文と一緒にいる訳ではないし、それくらいの我慢は平気です。ただ、早く一緒に暮らしてみたいな、という願望はあります。この前、それを文にも伝えました」

「そっか。安心したよ、トーマス。文もきっと一緒に暮らしたい、と思っているはずだよ。アイツが望めば、一緒に住めばいい。焦らずに前に進めるといいな?」

「はい、文も同じように望んでくれていました。僕も焦りたくはないけど、文の帰国までの時間がどんどん短くなると思うと、切ないです」

豪は、自分も同じだ、と言わんばかりに、無言でトーマスの肩を叩いた。


 大晦日の営業が無事に終了して、文は豪へ挨拶をした。

「今年は本当にお世話になりました。店長に何度も何度も救われて、そのたびに元気と勇気をいただきました。ありがとうございます。そして、お仕事も一年間お疲れさまです。来年もどうぞ宜しくお願い致します。店長、どうぞ奥様と良いお年をお迎えくださいね」

豪は久しぶりに聞く「日本式の挨拶」を感慨深く聞いていた。

「トーマスと文も良い年を迎えるんだぞ!」


 トーマスと文はクリスマス以来の再会に喜びを抑えきれなかった。外は足元からシンシンと冷えてくる。歩道のアチコチには、ピンク色の凍結防止の塩が撒かれている。二人の心もまさしくピンク色のようにポカポカだった。

文のアパートに到着すると、文は「年越しそば」をふるまった。トーマスは、基本的に好き嫌いがないことと好奇心旺盛な性格が功を奏していて、日本食もかなり食べることが出来るのだ。

 トーマスに日本の大晦日の話をしたり、豪へ挨拶した内容を説明したりした。トーマスは、礼節を重んじる日本の文化にとても興味を示していたからだ。

(この蕎麦で文と一緒に長生き出来るのなら、毎年、文と一緒に食べたいなぁ)


「文と出会って、まだ半年。でも、あと半年しか時間はないけど、来年も沢山思い出作ろうね。僕は、来年いよいよ就職先を決める。男として文と人生を共に出来るように頑張るよ。そして、自分の目指したいマーケティングを確立できる所で働けるようにするから応援してね。文がこうして傍に居てくれると何でも頑張れる気がするんだ。何でも乗り越えられる気がする。文の事は一生かけて大切にするからさ、だから、僕を信じてこれからもついてきてほしい。

それから・・・これは、お願いなんだけど、来年の四月に僕の故郷、デュルビュイに一緒に行ってくれないかい?兄さんや父さんに会って欲しいんだ。ダメ?」

「嬉しい。トーマスのその言葉は、とっても大切な約束事、って受け止めていいのね?それに、ご家族には、私もご挨拶させていただきたいな、って思っていたの。許されるならお母様のお墓参りもさせていただきたい。私にトーマスを引き合わせてくれたのは、お母様とお父様だものね?」

トーマスは文の思いがけないお願いに嬉しさのあまり抱きしめた。

「ありがとう。そんな風に考えてくれて、本当に嬉しいよ。文に会えてよかった。僕の大切な約束事も受け止めてくれて、本当にありがとう」


「それから・・トーマス。私は貴方の成功を一番に祈りたいと常々思っているの。貴方が選ぶ道に間違いなく進めるように、ね? 私はそんな貴方の後をどこまでもついていきたいの。トーマスのパートナーとして相応しい女性になりたいの。トーマスが傍にいてくれたら、私も何でも頑張れると思う。トーマスがいつも私の味方になってくれて守ってくれたら、私は他に何も望まない。貴方がいつも私を守ってくれるように、支えてくれるように、これからもずっとそうであってほしいの。そしたら、私は貴方の一番の理解者になって応援者になれる。トーマスとずっと一緒に居たいの。

トーマスの就職先が決まって、次のステップに進むまでは、私は日本で働きながら学んで待ちたいと思っている。貴方が私を必要としてくれたら、いつでも日本から駆け付けるから。

 だから、私の帰国までの時間は少ないけれど、一時的に離れる時間よりも、その後の一緒に居られる時間の方がずっと長くなると思うの。町田先生もそうお話して下さったの。今は、一時的に離れている時に、私は絶対に寂しくて挫けそうになるから、トーマスが言ったみたいに来年も帰国までの間、沢山思い出を作って、離れる時間のお守りにしたいの。上手く伝えられないけど、意味、分かる?」

「ようやく捕まえた!ありがとう、文。よく分かるよ。言葉にして文の気持ちを教えてくれてありがとう」


トーマスは文の心の声をようやく聞けた気がした。いつも文が何かを祈っている事は分かっていたが、それが何であるのかが、ようやく言葉にして聞くことが出来た気がした。トーマスは、文の孤独と喪失感から彼女を救い、自分が彼女を守り抜く事を心に留めている。そして、必ず文を迎えに行くために日本へ行こう、と心に決めたのだ。

いつまでもいつまでも二人は寄り添っていた。


「ねぇ、トーマス。私ね、ブルージュにも行ってみたいの」

「分かった! ボビンレースの本場を見たいんだよね?前にも言っていたよね?」

「そうなの。一緒に行ってくれる? ボビンの仲間でなく、トーマスと行きたいの」

「勿論、行くよ。さっき言ったでしょ? 沢山思い出を作ってお守りにするんでしょ?」

「よかった。ブルージュ、どんなところなんだろうなぁ?」

「じゃあ、思い切って、日曜日に行こうよ。文の妄想が溢れる前に行かないと、僕はその想いを持ちきれない気がするからさ」

 トーマスはクスクス笑いながら言った。文の妄想が止まらない事が分かっているからだ。フラワーカーペットの時のように文は「妄想」が先走るので、行く前から胸がいっぱいになってしまう事が容易に想像ついた。また、その時の文の顔や仕草を想像して、トーマスはクスッと笑った。


「ほんと?行こう! よかったぁ。本当に溢れそうなのよ。やりたい事や見たいもの、色々な事がベルギーはありすぎるのよ。ホント困っちゃう」


 夜中の十二時になると外では一斉に花火が鳴り響いた。文は初めての出来事にビクッとして驚いた。


「文、新年おめでとう。ベルギーでは新年を迎えると花火を打ち上げる若者が多いんだよ」

「日本では考えられないわ。日本では、十二時になるとベルギーでいうところの教会にお参りに行くの。日本では神社っていうところなんだけどね。静かに厳かに新年を迎えるのよ。今年は行けないけど・・・いつか、トーマスと一緒に参拝出来ると良いなぁ。

トーマス、新年あけましておめでとう。今年は私達にとって重要な一年になるわね?」


 文の祈りの姿は、書道をするときの文のように神秘的だった。一心に願いを込めている。文が願う姿を見つめていたら、トーマスの心がポワンと温かくなることを感じていた。

(文の願いは、きっと僕の事だ。今、その願いが僕の中に入った?)

トーマスも祈った。

(今年が人生で一番の勝負の一年になるはずだから、何としてもチャンスをつかみに行ける一年でありますように。文との生活が、このまま永遠に続きますように)


「ねぇ、トーマス。バスケは大学がお休みでもみんなで集まってやっているの?」

「もちろん、やっているよ。一週間に一回はやらないと、身体も動かなくなっちゃうからね。バスケだけは遊びでもいいから、ずっと続けていきたいスポーツなんだよね。一人でも出来るでしょ? どこかの会社に入っても、続けられたらいいなぁ。バスケの為の身体づくりも嫌いじゃないしね。また、練習見においでよ。今度は頼むから倒れないでくれよ」

「今度は大丈夫。私ね、高校生の時にバスケ部の人と付き合っていたの。同じバスに乗る人でね、話したこともなかった人だったの。クラスの男の子からバスケの試合を見に来い、って誘われて行ったら、そこに彼がいたの。バスケが凄く好きなその彼のバスケを見ていると、とても幸せだったの。縁がなくて、別れてしまったけど、バスケを観る楽しさをその彼から教えてもらったのよ。彼もトーマスと同じことを言っていたわ。バスケだけは仕事がどんな仕事に就いても続けたい、ってね。彼と同じことをトーマスが言うから、びっくりしちゃった!」


 彼の話をするときの文の笑顔が悲しそうであることをトーマスは初めて知った。でも、その顔は、その当時の幸せな時間が確かにあったことを物語っている。それほど綺麗な顔だった。文の手を握りながら話した。そうしなければ、文の心がトーマスの知らない「バスケ野郎」に連れていかれそうだと思ったからである。


「僕も初めは学校のチームでやっているだけだったけど、ドンドンはまって、四年位前かな?一番バスケが楽しく感じるころに(一生続けたいスポーツだな)って思うようになったんだ。文の彼にヤキモチをやきたくなるけど、その人のバスケへの想いは凄く分かるよ。でもさ、文の今は僕だけの文だし、彼が手放してくれたおかげで文に出会えた。これからの文もずっと、勿論、僕だけのものだよね?」

「勿論、分かっているよ。私も彼と別れたのは、もしかしたらトーマスに出会う為だったのかな?って、この前の練習を見ていた時に思ったの。今の方があの頃よりも、ず~っと幸せだから、そう感じるのよ。ところで、練習は金曜日なの?」

「そうだね~大体、金曜日かな?体育館を年間通して確保できているのが金曜日なんだ。他の曜日も空いていたら、そのチームに掛け合って、借りたりもするけどね。大体は金曜日さ」

「また、時間を見つけて見に行くね」


 静かに大晦日から元旦を迎えることが出来た。二人はとても幸せだった。夏からの駆け足で過ぎてきた日々がウソのようにゆっくりと時間は過ぎて、二人は眠りについた。


 翌朝、文は雑煮を作った。それだけでは、トーマスが気の毒に思い、カルパッチョやサラダも用意した。

 カリプソの教会の鐘の音が心地よく響いた。トーマスは幸せそうに寝ていた。トーマスの寝顔を見ていると文の心も満たされた。


(本当にあのまま山梨に埋もれていたら、トーマスに会えなかったね? 川崎に出て、必死に働いていたら彼の心も離れてしまったけど、今がある。あの時は立ち直れないかと思ったけど、しっかり踏ん張って、海外まで来ちゃった。気付いたら、彼の事を忘れるくらい立ち直っていた。どんなにつらい事があっても受け止めて前に進むことって,困難だけど大事よね・・・その先にこんな幸せが待っているんだったら、私達、頑張れるよね?トーマス。可愛い寝顔)


文は鐘の音を聞きながら、そんなことをボンヤリ考え、珈琲を飲んだ。文の珈琲の香りでトーマスが目覚めた。

「ふみ~~~遅くまで寝て、ごめ~ん、おはよう」

文は、トーマスを思いっきり抱きしめた。

「おはよう、トーマス。トーマスの寝顔が可愛すぎて食べたくなっちゃった!」

「え?じゃあ、食べてよ!」


 朝食を食べてから、ケイム広場の方へ散歩に出かけることにした。毎日が目まぐるしく過ぎていく文にとって、まだまだケイム広場の周りですら知らない所が多い。トーマスと一緒であれば、心強いから、あちこち見て歩けると思ったのだ。ベルギー生活に慣れてきたとはいえ、慣れない道は怖いものだ。


 ケイム広場の中にある小さなショッピングセンターには、スーパーマーケットのデレーズ、郵便局、旅行代理店、カメラ屋、床屋、婦人服店、クリーニング屋、本屋、チョコレート屋、パン屋、そしてトーマスと入ったレストランが入っている。そして、文がお気に入りの小さなアンティークショップも入っている。ガラクタ屋と言ってもいいようなそのお店は、見ているだけでも楽しい。そして、文の直感ではあるが、このケイム広場の近くには他にもアンティークショップがあるように思えていた。店主が客と話す内容が上手く聞き取れなかったが、内容からして、この近くにありそうなニュアンスの会話を耳に挟んだからだ。

 ケイム広場からボーリュの駅方面は歩いてみたが、それらしいお店は無さそうだった。そうなると、一人では少し行きづらいワーテマル駅方面にありそうだ、とにらんでいたのだ。そのことをトーマスに話すと喜んで言った。

「じゃあ、散歩しながら探検してみようよ。文は探検が好きだろ?」

トーマスは、文をニヤニヤしながら見た。文の性格をよく掴んでいる。


 ケイム広場のショッピングセンター地下駐車場から上った先にある路地を真っすぐに進んでみた。トーマスも文もアンティークの臭いをキャッチする鼻は利いているとお互い自信があった。

正月なので、どのお店も閉まってはいたが、百メートルほど進むと左手に家具屋らしき店が現れた。すぐに二人とも立ち止まった。

「わぁ!」

お互いが顔を見合わせた。小さな店舗ではあったが、間違いなくアンティーク家具のお店だった。小物もいくつか並べられていて、トーマスが好きな道具類が家具の上や壁、家具と家具の間などに無造作に置かれていた。二人でいつまでも見ていた。

 トーマスは、家具よりも道具の一つ一つに目を配り、どんな代物があるのかを物色していた。窓越しでなく、店舗に入って見てみたい、と強く思った。この店は、家具の修復も行っているようで、店舗の奥を見逃さなかった文は、そこを指さしてトーマスの腕を引っ張った。


「トーマス! あそこ見て!あそこはもしかして、家具を修復する工房じゃない?」

「わぁ、ほんとだ! 僕、初めて見るよ。今度、店が開いている時に見に来たいなぁ」

「ホントよねぇ。私、あの家具がよく見てみたい!」

「大きな家具だね~ でも、あの家具がリビングにあったら、それだけで凄く重厚感があるリビングになりそうだよね?」

「でしょ~? あれ、絶対に素敵な家具よ」


 その家具は、オーク材で作られていて、高さは一八〇センチほどあり、幅は三メートル程ありそうなキャビネットだった。奥行きは遠くから見る限りでは三十センチくらいしかなさそうだった。

三つのパーツから出来ているようで、両サイドは幅五十センチくらいで高さはそのまま一八〇センチでオーク材の扉がついていた。

真ん中は、格子状のガラス扉が四枚あって、高さは一五〇センチくらいだ。中は、飾り棚が何段か見える。その上が、鏡付きの飾り背板になっていた。

 文のお気に入りは、その飾り背板の部分に小さな棚が両サイドについた、ガラスの扉があった。そのガラス扉の片方が開いていて、扉の中が見えないように可愛らしいカーテンが施されていたことだ。細かいところまで実に手を抜かないデザインに惚れ惚れしていた。

小さな、小さな扉なのに、扉の内側の上下にカーテンポールがあり、小さな可愛らしいカーテンは、そのポールに通されていたのだ。文が食い入るように見つめているので、トーマスは文の心をそんなに何が鷲掴みにしているのか気になった。が、文が黙っているわけもなく、豪速球で話し始めた。トーマスはなだめるように話した。


「今度、お店が開いている時に絶対に見に来ようね。あの家具は、まだ入荷したばかりのようだよ。これから、修復作業に入りそうな感じだよね?」

「え?そうなの?」

「ほら、見てごらん。扉や脚が結構ガタついているよ。あれは、まだ売り物にはならないよ。だから、無造作にあそこに放置されているのさ。休み明けは、きっとあの奥の工房行き間違いないね?」


 トーマスからそう言われても、文はその素敵な家具から目をそらすことが出来ずにいた。そして、興奮するときに必ずするトーマスの手を自分の胸に持ってきて、じっと見ているのだった。


「文、あの家具は日本に持っては帰れないよ」

「もぉ! トーマスの意地悪。分かっているもん」


文があまりにも食い入るように見ていたので、意地悪を言いたくなった。トーマスは、文が一体どんな妄想を膨らませて、あの家具を見つめているのか聞きたい気持ちだった。出来れば、その妄想の中に自分がいたらいいのにな、と思った。それから二人は、五日のブルージュの約束をして、年末年始の短い休暇は終わった。

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