第4話 触れ合う心 ~マロニエの樹の下で~
クラスに到着した文は、八重と貴子に書道の実演についての返事をした。
「マロニエ祭のお手伝いをやらせてください!」
文の言葉に、二人はとても喜んだ。色々と準備は進めているけれど、肝心な「書き手」がいなかったから、二人ともホッと胸をなでおろしていた。
「文ちゃん、本当にありがとう。この御礼は絶対にするからね」
「私自身の勉強にもなるから全然気にしないで下さい。それに・・・お二人の役に立てるのなら嬉しいですもの」
新たなチャレンジの課題が出来る事に文はワクワクしていた。こんなチャンスはそうそう転がっているものではないと感じていたのだ。師範の資格を取るまでに、ひとつでも自分の武器を「経験」という形でもいいから増やしておきたかった。
十月。
夏のあの日中の長さを忘れるくらい、確実に冬へ近づいている事を感じさせられていた。
文が八重と貴子に返事をしてから、毎日毎日、語学学校の後で打ち合わせを重ねていた。八重と貴子は、マロニエ祭の実行委員なので、四月から半年かけて準備を進めてきたのだという。その準備のおかげで、文は二人からの指示通りに「心の準備」と「技術の準備」を進めれば良かったので、余分な心配をしなくてすんだ。おかげで自分の準備にしっかりと時間を使うことが出来た。八重たちの話す内容は、とても分かりやすかったので、校内、教室内を見ていない文でも想像しやすかった。
町田の話にあったように、客の殆どは、ベルギー人のようで、客の名前を当て字で「書」の作品に仕上げれば良いのだと言われた。紙も半紙が用意されている、というので普段通り、「書」に取り組めばよかったので安心した。
文はどうせならば、名前となる「作品」に意味を持たせたかった。恐らくベルギー人は、漢字に意味があることも知っている人が多いと思う。ならば、ただの当て字よりも、その作品に意味を持たせたら、きっと異国人の文によって書かれた自分の名前を、もっと好きになるだろう、と考えたのだ。その客の両親と文の合作ということになる。
文は、そのアイデアだけを八重と貴子に話して、文が意味を考えて文字にするときに二人に伝えるから、二人からその客にメッセージを伝えてほしい、と話した。
二人はとても感動し、喜んでいた。
「文ちゃんって、やっぱり人と感覚が違うのよね。絶対に流されない、っていうのかな。今年の書道コーナーは伝説になりそうだよね?私達が楽しみになってきたよ。全力でサポートするから宜しくね」
文は(こんな事で喜んでもらえるんだ)と少し不思議だったので、あえて(その客の両親との合作)という話は伏せた。あくまでも、文の中の空想だからだ。この空想の話をして伝わるのは、今の自分の周りではトーマスと豪しかいない、と確信に似た自信があった。
文は日本でもこの「感覚」的な物の捉え方を理解してもらえない、もしくは誤解されることが多く、自分の心の大半は割と出さずにいるような人間だった。文の言葉足らずなことや説明が苦手なことも要因ではあるが、やはり、幼少期に一番身近にいる両親に色々な事を理解してもらえなかった事が、彼女が心を閉ざす最大の要因であった。
文は高校生になるまでの子供の頃、一人で部屋にこもる事が好きだった。そこで本や雑誌を読み漁ったり、ラジオや大好きな音楽を聞いたりして、空想の世界に浸ることが幸せな時間だった。いつもいつも空想と夢の中にいるような子供だった。
小学生の時は、図鑑を見て、いつか地球人が金星に住むことになるかもしれない、という記事を読んだ時には、自分なりの「アポロ計画」を立てるような子供だった。
中学生の時には、既にインテリアにかなり専門的な興味を持っていたので、少ない小遣いを全てインテリアの雑誌に投資して、それらの雑誌がクタクタになるまで読み込んでいた。
高校生の頃は、さらにエスカレートして、学生では読まないような雑貨の専門書を読むようになり、店を開いてもいないのに、取引先の抽出をしたり買い付け先をどのように開拓するかに妄想の時間を割いていた。
高校を卒業し、親元を離れても、その妄想癖は止まらなかった。むしろ自分で情報を集める術を身に着けたので加速したくらいだった。
八重と貴子から書道コーナーの進捗具合の話を初めて聞いていた段階から
(お客様はこうした方が喜ぶだろうな~ その作品をその人とご両親が見た時にどんな会話がされるのだろう?)
等と考えているうちに色々とアイデアが生まれてきたのだ。貴子たちと細部に至るまで打ち合わせを重ねた。予算がある事も知っていたので、作品の販売もすることにした。売上は、全て貴子たちの運営に使って欲しいと伝えた。書き手が文ひとりであることから、色々な限界や弊害が出ることも大いに想像がついた。その対策にも乗り出していた。どんな小さな事も見逃さないように文の中で細心の注意を払った。自分に書く機会を与えてくれた八重と貴子に迷惑を掛けたくなかったからだ。
大人になり、文の「想像力」「妄想力」がどんなに強い武器になるのかも知った。相手の反応が全く違うのだ。100%の確率で違う。想像力の無い人と文に向かって先輩が同じ指示をしたとする。先輩が仕事の説明をしている時にも、文は最大限に想像力を働かせながら聞いているので、同時に問題点も見えてくる。聞き終わった後で、
「では、この時にはどうすればいいですか?」
その問題点についての質問も出来る。文には「見える」からなのだ。すると、先輩はその質問内容や文の理解力を見て、さらに仕事を任せてくる。文からすれば、「見えない」ことの方が不思議なのだが、これは今日明日で身に着く武器ではないことを入社三年目くらいに悟った。だから、それをひけらかさないようにした。「見えない」人にとっては、ただの嫌みになるからなのだ。
でも、このベルギーは違う。文のような人も「個性」として捉えてくれる。自分を「武器」として遣ってくれる。文の持っていない武器を別の仲間が差し出してくる。まさにウィンウィンの関係だ。文は、決して人よりも前に出たいわけでも、自分の名前を売りたいわけでもなく、ただ人の役に立ちたい、自分と関わる人を笑顔にしたい、その人にスポットライトが当たってほしいだけなのだ。例え自分がその人の影になったとしても。むしろ、その方が文には幸せなのだ。そこが、周りの「大人達」にはなかなか理解してもらえなかった。「出来る文」「見える文」をただ、疎ましく思う大人たちが多かった。
文は町田から借りた「漢和辞典」で必死に漢字の勉強をした。
(ベルギーに来て、フランス語だけでなく母国語の日本の漢字を勉強している私ってなんだかなぁ。もっとちゃんと学生時代に勉強しておけばよかったなぁ)
と悔やまれてならなかった。子供の頃は、何でこんなに勉強をするのだろう?と、いつも不思議で、不満だったのだが、大人になるとそれらが何故、必要だったのか本当によく分かる。学んでいれば、学びの数だけ自分に可能性が広がる。諦めなくてもよくなる。そして「勉強をする」という行為は、精神力も強くなる。豪が話していたように、人間は死ぬまで学びを止めてはいけないのだと思う。
文は、ベルギーに来て世界が広がった。日本よりも小さな国なのに、日本を出ただけで気付くことがとてつもなく多かった。学ぶことが多い。それに伴い感謝する気持ちも多くなる。日本での自分は独りよがりだったことに気付いていた。
(もう、あんな自分に戻りたくない)
マロニエ祭までの期間は、学校とアルバイトと習字に時間を全て費やした。お花のエツコには事情を説明して、マロニエ祭まではお休みにさせてもらった。
忙しく動き回る文を横目に八重と貴子は、トーマスが豪の店の手伝いをすることを知らなかったので、トーマスを呼び止めて誘った。
「トーマスもお友達を連れてマロニエ祭にいらっしゃいよ。文ちゃんが絶対に大注目されるから、見にきたらいいのに」
「実は、文とは別の所で僕も参加するんです。でも、バスケ仲間の友達も誘ってみますね。文の活躍する姿も見たいから」
トーマスは遊び程度ではあるが、高校まで続けていたバスケットボールを大学でも友達と一週間に一度はやるようにしていた。丁度、八重と貴子から誘われた時にバスケに向かう途中だったので、仲間を誘ってみた。ジャン、ピーターとフィリップが興味を示して「行く!」と言った。
文が「ゆかり」で働いている時にトーマスが来た。豪とマロニエ祭の打ち合わせをする為だった。文は、トーマスの来店を心から喜んだ。最近は忙しくて、学校でも会えなかったからである。トーマスと豪はバックヤードで打ち合わせをしていた。
文は店を一手に任されているので、離れることが出来なかった。「ゆかり」での今の任務は、ベルギー人スタッフをワンランクアップさせる事である。最近は、豪も認める程、二人とも以前より格段と動けるようになってきた。文は、彼らに精神論的な話をしても通じない事は分かっていたので、いつまでに、何の仕事を、どれくらいやるのかを細かく指示した。文的には「指示」なのだが、彼らのプライドを潰さないように、あくまでも「お願い」をするのだ。やり終えると必ず「助かった~ さすがね。早い!」と言って、褒めるようにしていた。彼らは文に褒められたい、感謝されたいから必死に頑張るのだ。
文は彼らの動きが体に染みつくころに、今度は豪から彼らに褒めてもらおうと考えていた。きっと、そうしたら今の動きが彼らの「習慣」になるはずだと信じた。
その後で精神論の話をした方が彼らの意識が一段高い位置に行っているので、伝わると考えたのだった。文にとっては壮大な計画である。もともとは「お弁当販売&オードブル販売」をしたいだけなのに。
しかし、文は何もベルギー人スタッフの彼らだけの問題じゃなく、自分がいた日本の会社でも彼らのような従業員はゴロゴロいた事を知っている。
(彼らがいてくれるから、私もここで働かせていただけている。彼らの力が無ければ、私一人では無理だもの。一緒に成長していかなくちゃ!)
暫くすると、豪が文を呼んだ。
「文!トーマスにこれらの商品の説明と当日にこれらの総菜を販売するから、その中身についての説明をしてやってくれ。提供方法は、当日俺からトーマスに説明する。袋は店のレジ袋を持っていくから、入れ方も説明してやってくれ。俺が店に出るから、あとは頼むぞ」
と言って、マロニエ祭当日に販売する内容のメモを文に渡した。豪からの計らいであることは充分に分かっていた。文はトーマスがいる前で、あえて日本語で言って、深くお辞儀をした。
「店長、ありがとうございます」
豪がバックヤードを出て、トーマスと二人きりになった瞬間、文が「女性の顔」になることをトーマスは知っていた。
「トーマス、ごめんね。三十秒だけ休憩を取らせてもらってもいい?」
「勿論、いいよ。忙しいのに文の仕事を邪魔してごめんね」
文はトーマスが言い終える前に、ふっとトーマスの胸に飛び込んだ。
「三十秒だけこうしていさせて・・・会えなかったからエネルギー補給中なの」
「じゃあ、僕も同じだ。僕も補給しないと元気が出そうになかったんだ・・・」
二人は暫くそうしていた。
しかし、トーマスが心を鬼にして呟いた。
「さぁ文、しっかり僕に教えてくれ。当日、ボスに迷惑をかけるのだけはしたくないから。今日は仕事の後、一緒に帰ろう。休憩の続きはその時だ!」
文は、自分の頬をパンパンと叩き、気合を入れた。
そして、トーマスに丁寧になるべく分かりやすく説明をした。商品の説明は、トーマス自身の言葉でメモをするように伝えた。そのメモを当日までに覚えるようにアドバイスした。
次にレジ袋に入れるコツである。商品によって、どう入れるか、何故そう入れるのかも理由付けをして説明をした。トーマスは分かったかどうかが目を見れば分かるので、とても説明しやすかった。必死にメモをして文に分からない所もドンドン聞いてきた。店のパトリック達との違いを感じていた。
トーマスは聞き上手なのである。聞く姿勢がいいので、説明する文も下手な気を遣わずに要点だけをキチンと説明すればよいので楽なのである。
ところが、聞き手に変なプライドがあったり、屁理屈を言ったりする態度が見られると、伝える側は、相手を見ながら言葉を選ぶようになる。だから、十の説明を十伝えれば済むところを回りくどく説明をするから、二十位伝えなければいけなくなる。
(トーマスのような聞き上手な人間になりたいな)
トーマスへの説明が終り、再度、豪と交代をして文は持ち場に戻った。豪とトーマスは最終打合せをして終えた。トーマスは、豪に頼んで、文が終るまでバックヤードで待たせてほしいと伝えた。豪は快く了承した。
文の仕事が終わり、「ゆかり」をあとにして、二人でアーツ・ロワに向かって歩いた。文はトーマスに書道コーナーの話を詳しく話した。トーマスは、すぐに
「文のその気持ち、凄くいいと思うよ。文の知らない、そのベルギー人のご両親の名付けた時の想いと文が考えたその人への想いが重なるんでしょ?凄くいいよ」
「やっぱりトーマスに話してよかった。トーマスならきっと、私の気持ち分かってくれるなぁ、って思って誰にも話していないの。当日、伝わる人に伝わればいいな、っていう私だけの自己満足だから」
そして、トーマスもマロニエ祭の日には、バスケの友達を誘っている事を伝えた。
「え?トーマスってバスケやっているの? 知らなかった・・・ 今度、プレイしているところを見たいなぁ」
「文に言ってなかったんだね。高校まで凄く頑張っていたんだよ。大学に入ってからは、遊び感覚なんだけど、やっているときは真剣にやっているよ。今度、誘うから見においでよ。大学の中にある体育館でやっているからさ」
文には少し甘酸っぱいというか、苦いというか、バスケにはそんな思い出がある。
高校時代にバスケ部の彼氏がいたのだ。一つ年下の彼とはとても仲良しだったのだが、彼がバスケを引退した頃から、ほんの少しのすれ違いが生まれ、彼が他の女子生徒と付き合うようになって、そのまま結婚してしまったのである。その時、文は既に川崎で生活をしていたので、想いも距離も縮めることができなくなってしまったのだ。お互い言葉にこそしなかったが、結婚も考えていたのであった。文は何よりも、彼のバスケが大好きだったのだ。日本にいる間は、恋をしても、いつもどこかで彼と比べてしまう自分がいた。
ところが、ベルギーに来て以来、彼の事をすっかり忘れていたのである。驚く事にトーマスから「バスケ」というワードが出てくるまで、すっかり忘れていた!
(ようやく、彼以上の人に巡り合えたのかもしれない・・・)
トーマスは最近、自分の将来が少し見えてきたことが自信につながってきていた。商社マンになろうと考えていたからである。そう考えがまとまってきたところに豪からマロニエ祭の手伝いの話があり、豪の店の仕組みを垣間見ることが出来た。自分の思考が「商社マン」という方向に向きが変わっただけで、今まで見えなかったことが「見えてくる」から不思議である。初めて豪の店に来た時に、文が整然と片づけたバックヤードを見て、何がどこにあるかは分かっても、それらのルートには興味がなかった。でも、今日バックヤードを見た時にルートが「見えた」のだ。空輸便、船便、オランダから来るもの、ドイツから来るもの・・何故色々な所から入荷してくるのかを豪に聞いたら、分かりやすく説明してくれた。それはとても興味深かった。豪自身ももっと良いルートがあるはずだ、と模索しているらしい。どうやら文はそこに気付いていて、自分が日本に戻ったら探してみる、と言っていたらしい。トーマスは、そのことについて文に言ってみた。文は目を丸くして喜んだ。トーマスとの共通話題が増えることが嬉しかった。
「じゃあ、これから店で疑問に思った事や考えている事を店長にも話すけど、トーマスにも話すわね」
「今までも充分話してくれていたと思うけど、宜しくね」
「あら、私って、そんなにオシャベリ?」
「文がオシャベリじゃなかったら、誰の事をオシャベリな人って言うんだい?」
「私はトーマスにしかこんなに話さないんだからね。他の人には話さないよ」
文は心から喜んだ。少し前のトーマスよりもキラキラしているように見えたからだ。何よりもトーマスの「見える」という表現が嬉しかった。文にはその感覚が分かりすぎる程理解出来たからだ。自分と同じ感覚の人がパートナーであることは本当に心地よい。共に成長していきたい、と強く感じた。
そして、何よりもトーマスのバスケを早く見てみたいと思った。
文は、八重と貴子からトーマスとトーマスの友達もマロニエ祭に誘ったことを告げられた。
「私もトーマスから聞きました。書道コーナーで男手が必要だったら、友達を派遣してくれるそうですよ」
「え?ほんと?じゃあ、最終日の片づけお願いしちゃおうか?今度会ったら頼んでみるね」
「私も会ったら、伝えてみます。それよりも、八重さんと貴子さんはトーマスがバスケをやっている事、知っていました?」
「やっているところは見ていないけど、誘った時にバスケメンバーを誘う、ってトーマスが言っていたからやっているんだなぁ、って知った程度よ。どうして?」
文は自分の甘酸っぱい青春時代の話をした。そして、トーマスに出会えた事で、その気持ちにも踏ん切りがついた事も話した。早く彼のバスケ姿を見てみたいことも話した。
八重と貴子は、淡い溜息を洩らし
「なんだか青春!って感じよね~ 私達も文ちゃんが見に行くときに便乗してもいい?私達も青春!っていうやつを感じたいじゃん?」
「是非、是非行きましょうよ」
マロニエ祭当日の土曜日がやってきた。
文は、八重と貴子たちのクラスの父兄が準備した教室に入り、自分の道具の準備に入った。準備しながら、普段の習字教室の時と同じように精神を集中させていった。
オープニングと同時に書道コーナーには続々と客が来店し始めた。
一方、トーマスは豪の指示のもとテキパキと準備を進めた。豪は、トーマスと初めて仕事をするとは思えない感覚に酔っていた。
(コイツと仕事をすると面白いかもしれないな。文と初めて仕事をした日を思い出すようだ)
トーマスは本当によく動いた。トーマス自身楽しくて仕方なかったのである。カフェの時には感じ得なかった感情だった。文から伝授された商品知識は頭に入っている。提供方法も文が色々なパターンで説明してくれたので、その後も自分でその他の事も想定しながら考えることが出来たから、混乱することも迷惑をかけることもなく順調だった。来場者数が異様に多い事に驚いた。
「初日が勝負だ!そこが良ければ、二日目の午前中の二時間はいける!」
と豪から言われていたので、ワクワクしていた。
文の書道コーナーは大盛況だった。長蛇の列にはなったが、それを想定して、教室内いっぱいに書道作品を飾っていたので、整理券を配布して、順番が来るまでは作品展を見ていてもらった。その真ん中で文が実演をしているので、一度に二つを楽しむことが出来たので好評だった。
文は丁寧に一人ずつ名前を聞き、考えて書く文字を決めて、横にいる八重にその意味を伝えた。書き終えてから必ず、客に「メルスィ」と言って、握手を求めた。文としては、自分に「書く機会を与えてくれてありがとう」という意味で感謝の言葉を述べたのだが、ベルギーの人達はそれをとても喜んでいた。
文が次の客の作品に向かい合っている間に八重が、書き終わった客に作品を渡す準備をしながら、作品の意味を文から伝えられたままベルギー人に伝えていく、という作業を延々と続けた。
文は楽しくて仕方なかった。
午後になると、豪の店はひと段落してきた。完売したらそこで終わりだったので
「さっさと完売させて、文の所に行こうぜ」
豪はトーマスに発破をかけた。トーマスは俄然ヤル気が出た。自然と声を出していた。日本人からしたら背が高くてかっこいいベルギー人の男性が「いらっしゃいませ」と笑顔で呼び込みをしているのだから、客が来ない訳が無い!瞬く間に完売した。
豪と二人で急いで片づけと掃除をして、明日の開店の状態にして布を掛けて初日は閉店させた。
豪もトーマスも文の勇姿を見たくて仕方なかった。特に豪は、文の書く姿を見た事が無かったので、とても楽しみだった。
教室前まで来て、二人は驚いた。午後の部がもうすぐ終わろうとしているのに、ここは人が溢れていて熱気すら感じた。中をのぞくとマロニエ祭実行委員の貴子がトーマスと豪を見つけて近寄ってきた。
「文ちゃん、凄いですよ。大好評。感激して泣く人もいたんです。文ちゃんの作品も凄いけど、お客様一人一人に丁寧に向かい合う文ちゃんが凄すぎて、私達もとても勉強になるの。トーマス、素敵な彼女で自慢だわね?」
トーマスは感動と同時に文の事が誇らしく嬉しかった。文が自分にだけ話してくれたベルギー人への想いはやっぱり届くものだな、と。説明をしている八重は、勿論深いところまでは説明をしていない。文も八重にそこまでは伝えていないからだ。でも、それを受け取った人には伝わるんだ、とトーマスは思った。
(文・・・よかったね。君はカッコイイよ)
豪は、文の書に向かう姿、客に向き合う姿を見て目頭が熱くなるのを感じた。文の字が上手な事は知っていたが、書道の作品を見た事がなかったので、(ここまで本格的に書けるとは!)と感動していた。文が師範の免状が欲しい、という気持ちも容易に理解出来た。
そして、一人ずつ丁寧に作品を仕上げるあの姿勢こそ彼女の十八番だ、と思った。
書く姿をカッコイイとすら思えた。自分の娘であると信じて疑わない豪は大きな声で自慢したいほどだった。トーマスといつまでも文の姿に見惚れていた。ふと、トーマスが母親に連れられて、文に自分の名前を書いてもらった男の子に声をかけた。
「それは何て書いてあるの?」
「僕の名前で、トムって書いてあるんだよ」
「へぇ?それ、トムって読むんだね?僕の名前もトーマスだよ」
「え?お兄ちゃんも? これ、日本の意味で、夢が叶う、って言うんだって。叶夢だよ」
「君のご両親が、君が生まれた時に名付けたように、彼女が君の名前に願いを込めたんだね?」
と話しかけるのを聞いて、豪は感動した。
小さなトムは、誇らしそうに「うん、僕も嬉しい。大切にするよ」と言って、大切な宝物を持つように文の作品を抱えていた。トムの母親は、
「私もこの漢字の意味を聞いた時に、貴方が今言ったように思い出しました。日本の文化は、素敵ですね。とても大切な思い出が出来ました」
トーマスはニコニコしていた。
(やっぱりそうだ。文に教えてあげよう!)
「トーマス!お前は凄いな。よく文の気持ちを理解したな?俺は、文の作品をさっきからずっと見ていて、文の事だからきっと願いを込めて書いているんだろうな、って考えていたところだったんだよ」
「いえ、僕は事前に文に教えてもらっていたんです。でも、文はそれをお客様には言わない、って言っていたんです。この想いを理解してくれる人はいないだろうから、って。でも、僕は絶対に伝わるよ、って言ったんです。だから、今、それを確かめただけです」
「そっか・・・伝わっていたよな?」
「はい、伝わっていました。そして、ボスはやっぱり凄いです。僕みたいに文から聞いていた訳でもないのに文の考えをまるっきり理解していたから」
「それは、俺が日本人だからだ。日本人は名前を付ける時、そこに願いを込めるから、意味が発生するんだよ。だから分かったんだ。何も凄い事じゃない。トーマスは文から聞いていたとしても、彼女の日本人としての文化を理解していた。それが凄いよ」
「文は、日本人でも理解出来ない人の方が沢山いる、って言っていました。やっぱりボスは文のお父さんですね。ほんと凄いや!」
初日の最後の客の作品を書き終えた。貴子は数名の客を断らざるを得なかったことを申し訳なく思った。それでも事前に文が小さな色紙に「感謝」という言葉をしたためたものを十枚ほど準備してくれたので、お詫びとして渡すことが出来たので罪悪感から少し解放された。
(文ちゃんは、お客様の心を救う術をよく心得ているのね。私も救われているわよ。本当にあの子はすごいわ)
文は軽い高揚感があった。達成感もあった。少し漢字に行き詰まりを感じたが、何とかみんなに喜んでもらえたような感触は感じていた。ふと気付くと、トーマスと豪が立っていた。豪が心なしかいつもの豪のようには見えなかったので、具合が悪いのかと心配になって声をかけた
「店長、来てくれたんですね?ありがとうございます。お疲れの所、お越しくださって嬉しいです。商売の方はどうでした?大丈夫でした?」
「商売は完売だよ。トーマスのおかげだ。明日も上手く行きそうだよ、文。安心しろ。俺はお前に感動しているんだよ。本当にお前は凄いな。こんな事もできるなんて。ほんと、自慢の娘だよ」
と言って、文の髪の毛をクシャクシャと撫でくり回した。その姿を八重や貴子、トーマスは微笑みながら見守った。
実行委員の皆が文を労った。
「本当に今日は沢山のお客様を満足させていただいてありがとうございました。明日も宜しくお願いしますね。今夜はゆっくり休んでください」
文もクタクタだった。それでも反省点がいくつもあったので、今夜は再度、漢和辞典とニラメッコしなければならないことを自覚していた。
豪は店へと帰って行った。
文は、トーマスに夕食を一緒に食べよう、と誘った。この日本人学校のある地区は文のアパートの地区でもあるので、以前から気になっていたお店にトーマスと行こうと思ったのだった。トーマスは、心地よい体の疲れと文の活躍ぶりの誇らしさとで心も体も満たされていた。
ケイム広場にある小さなレストランで食事をとることにした。ランチタイムはいつも満員のこのレストランが文はずっと気になっていたのだ。テラス席で食べている人達のプレートを見れば、どんな食事が出されているのか想像もつくし、毎日店先にはランチメニューの看板が出ていたので、文の妄想の中では「おいしいレストラン」のはずだった。
日本人学校から真っすぐにケイム広場に向かって歩いた。文のお気に入りコースは二つある。一つはE411に沿って歩き、電車が走る線路に向かって歩くと文の大好きな白樺道が見えてくる。その白樺道に沿って歩くと文のアパートに辿り着く。ケイム広場はそのすぐ先にある。
もう一つのお気に入りの道は、E411の始発点の所から坂道を下っていくパターンだ。住宅街の中を歩いていくのだが、途中に大きな池がある公園を右手に見て、左手には教会を見ながら通る道である。絶対に日本では見られない光景なのだ。
今日は、白樺道を選んだ。トーマスに二つのお気に入りの道の話もした。トーマスは、文が小さな事にいつも感動をし、それらに対していつも感謝の気持ちでいることをとても快く思っていたし、文の話を聞くことが大好きだった。
白樺道を通りながら、突然、文はトーマスに話した。
「トーマス、ここが私のアパートよ。私の部屋はあそこ。便利な所でしょう?ほら、もうケイム広場だもの。そして、このケイム広場のあのバス停から乗って、語学学校には行っているのよ」
トーマスは、文のアパートを知る事になり、少しドキドキしていた。豪に知ってしまったことを叱られるのではないか?と思ったからだ。でも、豪は、文が教えたくなった時には教えてくるから、それまで待て、と言っていたから、大丈夫だろう、と思うようにした。
文が選んだ甲斐があって、レストランでの夕食は心もお腹も満たされた。
「今日は、お互い初めての経験で本当に疲れたね・・私は、今夜もう一度、漢字の勉強をしておこうと思っているの。お客様は満足してくれていらしたけど、私はちっとも満足じゃなくて、あぁすればよかった、こうすればよかった、って反省だらけなの。だから、少しでも勉強しておこうと思っているんだ。トーマスは、お店の方、大丈夫だった?」
「うん、ボスが的確に指示してくれたおかげで、何も問題なかったし、何よりも文が商品知識を事前に教えてくれていたからバッチリだったよ。袋に詰めるやり方も、文の言っていた意味が今日、詰めながらよく理解出来た。理解出来るともっとこうしてあげよう、とかアイデアが生まれるものだよね?それが、本当に楽しかったよ。他のお店も凄かったから、フードスペースは、物凄い熱気だったよ」
トーマスが仕事の事を初めて興奮気味に話す姿を見て、文はホッとした。話す内容でその人の仕事に対する意識は分かるものだ。トーマスは、キッカケが今までなかったのだろうな、と悟った。
二人は楽しく食事をしながら話に花が咲いた。
文のアパート前で別れた。
「明日の準備もあるだろ?明日も頑張るんだよ。明日は、僕の友達も来るからね」
「なんか・・緊張するわ~ 初めて会うんだものね~」
翌日、トーマスは、仕事に就く前に文の所に寄ることにした。
「文、おはよう。よく眠れたかい?昨日の調子で頑張るんだよ。僕もボスの力になれるように頑張るからね。片づけが終ったら、急いで文の所に来るからね」
と言葉を残して、豪のもとへと行ってしまった。
二日目の書道コーナーも昨日の勢いのままスタートした。今日も八重と貴子のサポートのもと順調に進めることが出来た。昨日よりも勝手を掴んだことと、昨夜、漢和辞典を読み直したことで肩に力を入れずに進められた。
昼過ぎに貴子の所に、トーマスの友達のジャン、ピーターとフィリップが尋ねてきた。
「ショドウっていうのはココかい?文って女性はどこにいるの?」
貴子はトーマスからも聞いていたので、
「トーマスの友達ね?ゆっくり見て行ってね。文はあそこで実演している女性よ」
三人は顔を見合わせてヒュー!と声を漏らした。彼らが見ても日本の文化である「書道」はとても神秘的に見えた。また、一人で一心に筆を運ぶ文の姿は、やはりカッコイイと思うのだった。三人はしばらく作品を見たり、文の実演している姿を見て日本の文化を楽しんだ。
「トーマスの様子を見に行ってきます」
三人は、貴子に伝えてその場を立ち去った。トーマスの所へ行った三人は、トーマスがテキパキと動き回り、店が大繁盛している光景を見て、
「おいおい、あのトーマスが凄いよ。トーマスってさ、三年になってから変わったよな?今まで大人しくて、いるかいないか分からないようなヤツだったけど、最近、別人みたいだよな~ あの文って女性のせいかな?」
「かなり大切な女性みたいだよね?」
「だって、さっきのショドウ見ただろ?あれは神秘的だよ。トーマスが夢中になるのも分かるよ。二人はどんな関係なんだろうな?」
彼らは文とトーマスの働く姿を見てアレコレ詮索し始めていた。
トーマスは三人が来たことをとても喜んだ。
「この前、お願いしたみたいに三時になったら、ショドウのコーナーの片づけを手伝ってあげて欲しい。頼むよ。僕もココの片づけが終ったら応援に行くから」
他のコーナーも豪の店を含めた「食」のコーナーも、二日目は客が引いていくのが速かった。豪は、毎年のカンで、それが分かっていたので、二日目の午前中が勝負!と決めていた。食材もそれを見込んで用意していた。あとは、客がこの場所にいる間にどれだけトーマスに呼び込んでもらうかが勝負だと考えていたので、朝のうちにトーマスに作戦を伝えた。トーマスは自分目当てで客が来ている事等、知る由もなかったので、豪からの
「声を出して、笑顔でいらっしゃいませ、って言いながら店に来てもらえるように呼び込むんだぞ」
という指示の通りに頑張ってみた。日本人マダム達は、トーマスの接客を受けたいがために小さなものでも買って行ってくれた。
(文がいたら、ヤキモチ妬くんだろうなぁ)
と、豪はクスッと笑った。
一時過ぎにはほぼ完売していたので、片づけが出来るくらいだった。実行委員の人に豪が確認して、片づけの許可が出たので、さっさと片づけて、トーマスを解放してあげたかった。トーマスは喜んで片づけ始めた。
一方の文の方は、他のコーナーと違って、本日も満員状態だった。明日が無いため、今日中に終わらせたかった貴子と八重は、ある程度の所で打ち切りにしようと決めていた。
今日も文が色紙を用意してくれていたので、看板に「十三時で受付終了」とした。十三時に駆け込みで来た人たちもいて、文が仕上げられるギリギリのところだと思ったからだ。
トーマスの友達三人は別々に行動し、三時に文の所へ集まる事にした。
ジャンは文の書く姿が気になっていたので、他の二人と別れた後ですぐに文の元へ向かった。丁度貴子が受付を終了しようとしている時だった。
「僕も書いてもらっていいですか?」
「もちろんよ。でも、貴方で受付を終了とします。お名前を聞かせて下さいね」
「ジャンです」
「ジャン、かなり待つことになると思うから、他を見て来てもいいわよ」
「いえ、三時になったら、トーマスにここの片づけを手伝うように頼まれているから、このままここにいます」
と言って、展示の作品を鑑賞したり、文の実演をじっと見つめていた。
三時少し前になると、豪と別れたトーマスが文の元へ駆けつけた。ジャンが文の実演に釘付けになっている姿を見て、
「ジャン!他のみんなはどこに行ったの?」
「みんなは他を見に行っている。僕は、文に名前を書いてほしくて待っているんだ」
と言って、整理券を見せた。そこへ貴子が案内をした。
「ジャン、貴方の番よ」
文は、ジャンがトーマスの友達であることを知らない。
「初めまして。本日はお越しいただきありがとうございます。心を込めて書かせていただきますね」
と言ってニッコリ笑い、「ジャン」と貴子が書いた文字を見て、しばらく考えた。そして、精神を集中させるために筆に墨をたっぷり含ませて筆先を整えた。
「慈耶无」と書いた。
そして、筆を置き、他の客の時には、ここで八重に意味を伝えるのだが、最後の客という事もあり、文が直接伝えることにした。
ふと、文は視線を感じ、トーマスの姿を見た。トーマスは片手をあげて文に合図した。そして、
「文、ジャンは僕の友達だよ」
「え?そうなの?」
「初めまして、文。君に会いたかったよ。君にこうして書いてもらえて幸せだ。意味を教えてくれるかい?」
と言って、グイグイと迫るジャンに、文はトーマスへ助け船を求めたくなる感情を抑えて、それでもトーマスに視線を向けた後で、ジャンに向かって
「はい、ご説明させていただきますね。こちらの作品は、貴方が近い未来、新しい事を始める時にまっさらな気持ちでスタートされると思います。それがこの「无」です。そして、その新しい事を貴方の素晴らしい感性を使い(と説明しながら「耶」の文字を差し)、周りの人たちに慈しみの心を持って接して頑張ってください(と言って、「慈」の文字を差した)、という願いを込めました」
と説明をした。
「書く機会を与えていただき、ありがとうございます」
と言って、深々と頭を下げた。トーマスは拍手を送った。
文は、目の前のジャンよりもトーマスの顔を見て、幸せになった。ジャンは文の顔を見て、トーマスとの関係を何となく察した。が、感動した気持ちの方が強く、思わず文の手を取り、握手をした。驚いた文は、ジャンに礼を再度伝えるとトーマスの元へ向かった。
「店長のお店はどうだった?」
「完売したよ。安心して、文。ボスは、邪魔者は帰るぞ!って、帰って行ったよ。多分、相当疲れたと思うよ。すごっく忙しかったからさ、今日も」
「良かった。トーマス、私の代わりにお店に二日間も立ってくれてありがとう」
と言って、トーマスの手を取って握った。トーマスの幸せそうな顔を見て、八重も貴子も幸せな気分だった。
「さぁ!みんな片づけよ!文ちゃんだけは道具の片づけをしてね。それだけは私達も手伝えないから、ね。トーマス!ジャン!こっちのテーブルを運ぶの手伝って!」
八重は、ジャンから作品を受け取り、
「他の人にはこんなサービスしていないけど、ジャンには特別よ」
と言って、文の作品を色画用紙にのせて、
「こんな風にこの色画用紙に貼り付けて、フレームに入れると素敵よ」
と言って、色画用紙に丸めて大事によけておいた。ジャンは八重に礼を述べた。八重はジャンの気持ちを何となく察して、彼の肩をポンポンと叩いた。
ピーターとフィリップも合流したので、あっという間に片付いた。綺麗になった部屋にみんなが再び集まり、貴子が文とトーマスとその友達に向かって誘った。
「今日のお礼をしたいから、来週、みんなでテニスをしながらランチしない?」
トーマスは文を見て「ピクニックかな?」と囁いた。文はクスッと笑って頷いた。トーマスの友達三人は、日本人からの誘いにとても喜んだ。
文もトーマスもとても疲れていたので、早々にマロニエ祭会場を離れた。二人でトーマスの友達三人に深くお礼をして別れた。ジャン達も異国文化と日本人に触れられたことをとても喜んでいた。
トーマスは、日本人学校の校門にあるマロニエの樹の下で、言い訳を探しながら文に思い切って聞いた。
「文、今日、僕のアパートへ泊りに来ないかい?ずっとお互い忙しすぎて、ゆっくり出来なかったから、僕は今日、文と離れたくないんだ。ボスに叱られるかな?」
文はとても迷ったが、トーマスと気持ちは同じだった。
「そうしたい、私も。明日はトーマスのアパートから学校に行く事になるのね?」
「そういうこと!」
「じゃあ、トーマス、私のアパートによって、着替えや学校の資料を取ってきてもいい?」
「いいよ。アパートの下で待っているよ」
「分かった。じゃあ、準備してくるね」
突然の誘いに嬉しさと少しの怖さとで、文の心臓は、今まで経験したことがないくらいに早打ちしていた。
泊りの準備と明日の学校の準備とをして、しっかり戸締りをして階下に降りた。トーマスは文の荷物を持ち、
「じゃあ、行こうか?実はさ・・」
と言って、豪が二人分の夜ご飯の弁当の用意をした包みを見せた。
「え?店長はどういう意味で用意してくれたのかな?」
「さぁ・・・ベンチで食べろってことかな?」
と言って、二人で爆笑してしまった。
文は、トーマスがどんなアパートに住んでいるのかを知らなかった。モンゴメリ駅の近くに住んでいる事は想像できていたが、あえて聞くこともなかった。
トーマスのアパートはモンゴメリの駅からすぐだった。文のアパートのような建物で、周りは住宅街だ。文の所よりも家が所狭しと建っている。
「ここだよ」
トーマスに促されて、アパートの四階までエレベーターで上がった。狭いエレベーターなので、トーマスとの距離も自然と近くなる。降りた階には、トーマスの部屋ともう一室しかなかった。
手慣れた様子で鍵を開けて部屋に入った。文と同じように1DKの作りだった。男性の部屋だけど、こざっぱりと整頓されている。トーマスのセンスがそこここに見られる。
靴のまま部屋の中に進んでいき、トーマスは文に尋ねた。
「靴ぬぐ?僕は、いつもココまでは靴で入って来ちゃうけど、何となくココで脱いでしまうんだ」
と言ったところは、ダイニングテーブルセットの横に小さなソファが置いてある場所だ。
「私は日本人で、靴を脱ぐ文化だから、脱がせていただくわね。有難う、トーマス」
ソファに座るように促されて腰かけると、トーマスはすぐに隣に座った。いつも外で会う時と雰囲気が違うトーマスにドキドキした。
「今日、ジャンに名前を書いていただろ?凄く複雑な気持ちで見ていたんだ。ジャンに文が取られてしまうようで、さ」
「ジャンが友達って知らなくて、お客様として接していただけだよ。私もちょっと困っちゃったよ」
「文の困った顔が僕も分かったよ。それで少し安心したんだ。僕に助けを求めている事も分かったからね」
「良かった。助けを求めている事が伝わっていたのね?トーマスは何でも分かっちゃうのね?」
「ジャンは男が見てもカッコイイだろ?だから、あのジャンに言われたら文はどうなるのかな?って考えたら、平気な顔で立っていられなくなったんだ。だから、今日、どうしても文と離れたくなくなったんだよ。離れたら誰かに取られる気がしてさ。ボスに怒られてもいい!殴られてもいい、今日は放したくないんだ!ってね」
文は何も答えずにトーマスに抱きついた。
「こんな私なんかの事、そんな風に思ってくれてありがとう。でも、絶対に誰からも言い寄られないから安心してね。それに、私はジャンの事、カッコイイと思わなかったよ。誰にも言っちゃあだめよ」
文は、誰にも聞こえない位小さな声で囁いた。トーマスはその文の姿にホッとして笑った。
「文・・前に僕を抱きしめてくれたでしょ?アレやってよ。ココなら誰にも邪魔されないからさ」
「うん、いいよ」
文は立ち上がり、トーマスの後ろに回って後ろから抱きついた。いつまでもそうしていたかった。トーマスも同じ気持ちだった。
文のお腹が鳴った。ぐぅ~~~
「私ね、昨日も今日もお昼ごはん抜きで書き続けたからペコペコなの。トーマス、食べてもいい?」
トーマスはゲラゲラ笑っている。
「文は本当に食いしん坊だね」
お腹が満たされると、文に睡魔が襲ってきた。トーマスは文を気遣い、
「今日は早く寝よう。明日からまた、文は書道や花屋に忙しくなるだろ?文が先にシャワー浴びてくると良いよ」
二人はシャワーを浴び終わって、寝る場所について考えた。
「ゴメン、勢いで誘っておきながら、シングルベッドなんて。文がベッドで、僕がソファに寝るよ」
「トーマスらしいね。二人一緒にベッドで寝ようよ。でも、絶対に何もしないでね。約束よ」
と言って睨みつけた。トーマスが何の計算もなく、想いのままで文を誘った事もよく分かっていた。
「分かっているよ。ボスに殺されるから絶対に何もしないよ。本当に一緒にでいいの?狭くてゴメン」
二人でベッドに入り、トーマスは文の足がとても冷たい事に驚いた。でも文が
「いつも足が冷たいから、なかなか眠れないけど、今日は温めてくれる人がいるからグッスリ眠れそうだね?それに、何よりも寂しくない!」
と言って、喜んだ。その無邪気な笑顔に無理やり誘った「嫉妬」という感情から解放されて、トーマスはホッとしていた。
二人は眠り着くまで沢山話をした。
お互いのマロニエ祭の事を説明し合った。文はトーマスが日本人マダムたちに人気だったのでは?と不安になった。でも、トーマスが全くそんな素振りを見せていないので気にしないようにした。トーマスの生き生きと働く姿を見たかった、と後悔した。
トーマスも文の作品を手にした親子の話をして、豪とそのことについて話したことを文に分かりやすく話した。文は、その親子の話をとても喜んで聞いていた。
「来週は八重さんや貴子さんたちとテニスでピクニックね。楽しみだわぁ。トーマスのバスケも近いうちに見に行きたいけど、行ってもいい?」
「勿論だよ。金曜日に見に来るかい?文は学校休みだろ?」
「うん、じゃあ、貴子さんたちも誘ってもいい?」
「いいよ。それからさ、その次の週末は、またサブロンに行かない?」
「うわぁ! 行きたいよぉ。行こう。楽しみが渋滞しているね。楽しみ~」
と言いながら、文は夢の中に吸い込まれていった。文の力が抜けるのを感じていたので、トーマスは寝た事を悟った。話をしながら動きまわる文の身体が否応なくトーマスの身体に触れる。我慢していたが、たまらなくなり、そっと抱きしめた。文は、無意識にトーマスにしがみついてきた。その行動が面白かったが、幸せだった。(絶対に誰にも渡さない。幸せにするのは僕だけの特権だ。彼女がそれを望んでいるはずだし、僕も望んでいるんだ)
愛おしい彼女が自分の胸の中にいる安心感からトーマスもすぐに寝落ちした。
翌朝、文は目を覚ました時に驚いた。なんと、自分でトーマスに何もするな!と言っておきながら、足をトーマスに絡めていた。温かいトーマスの足が文には湯たんぽのような存在だったのだろう。そして、上半身Tシャツ一枚で眠っているトーマスに自分はしがみついているではないか! 恥ずかしさで、顔から炎が出そうだった。トーマスを起こさないようにそっと離れた。絡めた足もそっと外した。
トーマスは気付いて起きたが、目を開けずに気付かないふりをした。文は、ドキドキしながら、そっとベッドから出て、着替えた。洗顔をして、整髪して身支度を整えた。そして、キッチンをのぞいた。
丁度その時にトーマスが声をかけてきた。
「文、おはよう。眠れたかい?」
「爆睡よ。夜中にトーマスをキックしたりしなかった?」
「したかもしれないけど、僕も爆睡で気付かなかった。あ!アザがある!」
「え?ほんと?」
「うそだよ~」
と言って、文に抱きついてきた。恥ずかしさが残る文もそれに応えた。
「ねぇ、トーマス。何か朝ご飯を作ろうか?コーヒーでも飲む?」
トーマスは簡単にキッチンの電化製品の使い方を説明して、自分の身支度をすることにした。文はその間に手際よく準備をした。
二人で朝食を食べることが出来るなんてお互いにとって、とても幸せな朝だった。しかも今日は二人で学校へ行くことが出来る。トーマスは昨夜、文が「楽しみの渋滞」と言っていたことを思い出し、(全くその通りだ)と思っていた。
学校へ着くと、八重と貴子が二人の所に来て話しかけた。
「昨日は本当にありがとう。トーマスも疲れているのに最後の片付けもありがとね。昨日、話していたテニスとランチの日程だけど、今週末の日曜日でもいい?都合がよかったらカリプソに十時に集合ね」
トーマスは他のメンバーにも伝えることを約束した。文もその日は空けておく、と応えた。そして、逆に二人を誘った。
「八重さんと貴子さんは今週の金曜日、何かご予定はありますか?よかったら私とトーマス達のバスケの練習を見に行きませんか?」
「きゃぁ!若者のスポーツを見られるなんて、刺激的だわ~行く!」
文は二人と十歳ほどしか離れていないのに、二人がいつも自虐的に「おばちゃんネタ」にすることが面白かった。
「二つの計画成立ね、トーマス。幸せ大渋滞よ」
と言って、お互いの授業のため別れた。
トーマスと別れた後で、八重たちに文は
「金曜日、一緒に来てくれるのを承知していただきありがとうございます。一人で見に行くのは、少し勇気が必要だったから安心しました」
「え?だって、この前約束したでしょ?文ちゃんの淡い青春ってやつでしょ?」
「はい・・そうなんですけどね・・・」
と言って、文は何となく複雑な気持ちだった。高校時代の彼のバスケは本当に凄かった。何といってもインターハイに行くようなレベルだったからである。その彼のバスケを知っているので、トーマスの実力がそれ以上でなければいけないような気がしていたのだ。何の脈略もない考えなのだが。
トーマスは、講義が朝の一コマで次の講義までに時間が空いたので、「ゆかり」に向かった。
思いがけない時間のトーマスの来店に豪は驚いたが、喜んで招き入れた。
「マロニエ祭、トーマスのおかげで本当に助かったよ。お前と仕事をしてメチャクチャ楽しかったぞ」
「ボス、ありがとうございます。僕も凄く楽しかったし、仕事のコツや楽しさが分かりました。ありがとうございます。あの・・・今日は、ボスに怒られることを覚悟して報告に来ました」
と神妙な面持ちで、昨日のマロニエ祭の後で文を自分のアパートに無理やり誘って泊めた事を伝えた。一瞬、豪の顔色が変わった。
「何かあったのか?」
トーマスは、自分の友達に嫉妬をして、文を昨日は手放したくない気持ちになったことを正直に伝えた。そして、文には何もしていない身の潔白も話した。
「そっか。俺の夕飯も食べたんだろ?じゃあヨカッタじゃないか?一日一緒に居ると更に相手の事が見えるだろ?それでも文が好きか?」
「大好きです。僕に変な事をしないように釘を刺してきました。僕もそんなつもりはなかったし、兎に角、昨日は僕の手の届くところにいてほしかったんです。彼女は優しくそばにいてくれました。お互い疲れすぎていてすぐに爆睡してしまいましたけど。朝も朝食を作ってくれて、何か家族っていいなぁって感じました」
「そっか。ちゃんと報告してくれてありがとな。文はトーマスが今、ここにいることを知っているのか?」
「いえ、何も話していません。僕が無理やり誘ったから、僕からキチンと話をしようと思ったんです」
豪は嬉しかった。トーマスのこの真面目さが嬉しかった。トーマスになら文を託せる、と確信していた。
文は、複雑な気持ちで「ゆかり」へ向かった。トーマスと同じように文も一緒に居たいと思ったから、トーマスの誘いに乗ったけど、店長にどうやって報告しようか悩んでいた。トーマスの株が下がるのは避けたかった。何事も取り繕う事が苦手な自分の性格を考えて、叱られてもいいからありのままを伝えようと思った。
扉を開けると豪が
「おぉ!文、昨日までは大変だったな。お疲れさん!」
「店長もお疲れさまでした。お店のお手伝いが何もできずに申し訳ありませんでした」
「いや、むしろトーマスだったから売り上げも良かったのかもしれないぞ」
豪の冗談も文の耳には届いていなかった。
「あぁそうですか・・・店長、今日はお話があります」
「おぉ、なんだ?トーマスのアパートに泊まりに行った事か?」
「え? どうして知っているんですか?」
「そんなに驚く事はないだろ?さっき、トーマスが謝罪に来たよ。無理やり誘ってしまった、ってな」
「トーマスが? でも、私も承諾しました。それに何もなかったですよ。お互いここのところユックリ話も出来ていなかったので、私も少しでも一緒に居たかったんです。ゴメンナサイ。それに・・店長の夜ご飯が凄く美味しかったので、トーマスの家で食べることが出来て良かったです。ありがとうございました」
「そうか。トーマスの顔も文の顔も俺には幸せそうに見えるんだが、どうしてそんなにつまらなかったような言い方をするんだ?二人の時間はつまらなかったのか?」
「いえ、凄く楽しかったです。家族になれたら、こんな風に幸せが毎日続くんだなぁ、とか考えました。寂しさも半分。喜びは二倍。疲れていても、好きな人の顔を見ながら眠る安心感。私、すぐに爆睡しちゃったんです。でも、店長に報告する前に行ってしまったから・・・」
「それは気にするな。自分で判断した事なんだろ? お前たちももう、大人なんだからな? それにしても、文はムードもクソもないなぁ」
「あら? それだけじゃなくて、昼も抜きで働いたから、トーマスのアパートに着いた途端、お腹もグゥグゥ鳴らしていました」
豪は、アチャーという仕草をして笑った。
「トーマスとは少しずつ距離を縮められそうだな、と感じました。自分のやるべきこと、トーマスのやるべきことをキチンと優先させることも出来るパートナーだな、って」
豪は頷きながら聞いていた。(俺の出る幕は、もうなさそうだな)
マロニエ祭が明けてからの文は大忙しだった。お休みをしていた花屋の方も「ゆかり」が終ってから通い始めた。書道の実演をすることによって、書道の方はもっと上手くなりたい!という欲望が文を支配していた。文は書道の時間は、書道にのめりこんでいた。その甲斐あって飛段であっという間に師範の二歩手前まできていた。
エツコからは、裏千家の華道もアレンジメントと並行して教えてもらっていた。わび、さびの世界ってこういう事を言うのだろうなぁ、と感じて文は、日本人に生まれた事を誇らしく思った。
日本の文化は離れてみると本当に素晴らしいものが沢山あると知った。加えて日本人の本来の資質、というのだろうか?技術であったり、武士の魂から来る「精神論」であったり、手先の器用さ、四季を大切にする心、もったいない精神、物事の企画力、工夫する力など、一歩外から見ると実に素晴らしい国だと思う。それが失われつつあることを寂しくも感じた。
文は、エツコから花の事と同時に日本人の「心」も学んだ。華道を学ぶようになってから、街の街路樹の枝ぶりを観察したり、道端の花の佇まいを観察したりするようになった。
また、日本にいるころから興味のあったハーブのこともエツコから彼女が知り得る限りの事を学んだ。
文は生まれつきアトピー体質だったが、高校生になると何故か、ピタッとアトピーがおさまった。なぞではあったが、主治医からも「年齢と共に完治するはず」と言われていたので、その時が来たのだな、とは思う事にした。
文はアトピーが完治しても、長年のステロイド剤の塗布でボロボロになりつつあった皮膚が恥ずかしかった。でも、アロマの事をふとしたきっかけで学ぶことがあり、自分の身体に付けるものを極力天然のものにするようにしたら、皮膚が再生されていくことを実感出来た。独学だが、アロマやハーブの事も学びたいと思っていた。
エツコは「専門外よぉ~」と言いながらも、実によく知っていた。アロマを生活に取り入れる方法はとても勉強になった。日本人でも薬草とうまく付き合いながら生活をしている人がいるように、海外にもそういう生活文化があるのだと分かった。
また、日本の薬局に漢方があるように、ベルギーの薬局にはアロマオイルが売られている。ヨーロッパでは、薬品のようなあつかいをされているからだ。
文は日本に帰国したら、アロマを本格的に学び、資格を取ろうとしていた。その前に予備知識が得られることは有難かった。
エツコの店に冷蔵庫が入り、陳列棚も入ってきたことで急に店らしくなってきた。
文は、八重や貴子に声をかけてフラワーアレジメントの生徒集めも手伝った。豪の店の掲示板にも貼って、生徒募集の案内をした。着々と生徒が集まり始め、オープン日前に教室を先にオープンさせることにした。文は一生懸命にエツコのサポートをした。
「ゆかり」の方も、豪が今回のマロニエ祭で幾つかの手ごたえを感じていたので、試験的に販売方法を試す価値はあるな、とメニューを考えていた。文とその考えを分かち合えることは豪にとって心強い事であった。
*****
マロニエ祭の余韻が残るジャンは、文のトーマスへの感情に気付きながらも、文に近づきたくて仕方がなかった。
水曜日の授業が終わった文を外で待っていた。八重と貴子と三人で建物から出てきたところに歩み寄り、声をかけた。
「やぁ、文! 今からランチに行かない?」
文の肩を掴み、誘ってきた。文はさりげなくその肩の手を外すように動き、貴子の横に並んで、
「ジャン、ごめんなさい。私、今から仕事なの。それに、私は男性と二人でお食事も行かないし、歩いたりもしない女なの。でも、誘ってくれてありがとう。今度のテニスを楽しみにしているわ。ごめんね」
と言って、八重と貴子に「では!」と挨拶してバス停目掛けて走って行ってしまった。
八重は、小さなため息をついて、ジャンに諭した。
「ジャン。ジャンの気持ちはこの前の時に何となく気付いたけど、文ちゃんはダメよ。トーマス以外の男性には目がいかないの」
「二人は恋人同士なの?」
「トーマスから聞いてないの?二人は強く、強く気持ちが結ばれているわよ。きっと、結婚するはずよ。だから、諦めなさい」
「結婚?僕たちはまだ、若いのに?・・・そうだったんだ・・・トーマスから何も聞いていないけど、トーマスの最近の様子を見ていれば何かがあったんだろうな、とは気付いていたんだ。文は素敵な女性だから友達になりたかったんだ」
「残念だったね。結婚は二人から直接聞いた訳ではないけど、結婚している身として思う、女のカンよ。これからは、トーマスの事を応援してあげてね。ジャンはカッコイイから、すぐに彼女ができるわよ」
「ありがとう。失恋しちゃったな・・・今度のテニスとランチ楽しみにしています」
と言って、二人にウィンクして去った。二人のマダムは「ジャンもかっこいいのにね~」と溜息をついていた。
その様子の一部始終をトーマスは離れた所から見ていた。会話までは聞こえてこなかったが、ジャンが何をして文がどうしたのかは想像がついた。
瞬く間に週末の金曜日になっていた。文は、タオルをバッグに忍ばせて、大学の体育館に向かった。体育館前に八重と貴子もいた。文は何故かとても緊張していた。文たちを見つけたジャンが
「文~ こっちだよ~」
と叫んだ。トーマスがそれを見て、走って文たちの元へ来た。
「来てくれてありがとう。あそこのベンチに座って見るといいよ。じゃ、行ってくるね」
爽やかな笑顔を置いて、去っていくトーマスを見て八重たちは
「トーマスもジャンもカッコイイわよね~ いつもと違う服装だから余計にドキドキしちゃうわね?」
と言って、文をつついた。文は、トーマスのアパートに泊まった時にバスケの練習着のような恰好がトーマスのパジャマだったから、今日は免疫があったので、ドキドキはしていたが、倒れずに済んでいた。
(免疫あってよかったわ。あの日が無かったら倒れていたかもしれない・・・)
それでも、汗でキラキラしているトーマスは眩しかった。
文を真ん中にして、三人で並んでベンチに座って見学した。
トーマス達はウォーミングアップが済んでいたようで、皆、汗がビッショリだった。
みんなでコートの二手に分かれてシュート練習をしたり、パス回しの練習をしたりしていた。そのうちにジャンが笛を鳴らすと、みんなでパスを回しながらシュートをする2対1の練習を始めた。文は小さくカタカタ震える自分に気付いていた。
トーマスのシュートフォームはとても綺麗だった。身長が高いけど、ジャンプ力もあり、とにかく綺麗だった。空中で一瞬止まり、腕を真っすぐにリングの方へ伸ばし、手首のスナップをきかせた状態で止まるのだ。
ドリブルをするときの彼は、ボールと一体となって自由にボールを操り、実に見事なターンをして、敵を欺くのだった。
「もぅ、だめ・・・」
小さくつぶやくと同時に文は貴子の方へパタン!と倒れた。
「え?文ちゃん、大丈夫?文ちゃん、文ちゃん!」
貴子の声が遠のく事を感じていた。文は感極まって軽い失神を起こしたのだ。
貴子と八重の声にトーマス達が気付き、トーマスが駆け寄ってきた。
「どうしたんですか?」
「文ちゃんが多分、トーマスを見て失神を起こしたのよ。ちょっと手伝って。ココに寝かせましょ」
「僕がやります!」
トーマスが手慣れたように文を抱きかかえ、ベンチに寝転がせた。ジャンが八重と貴子へパイプ椅子を差し出した。トーマスのタオルを文の頭の下に置き、文の肩を軽く叩きながら、
「文、文・・大丈夫かい?」
声をかけた瞬間、文はゆっくりと目を開けた。トーマスが目の前にいて文は驚いた。
「え?トーマス。あれ?私?」
「もぉ!文ちゃんったら、トーマスを見て失神起こしたのよ。失神起こす人初めて見たから、びっくりしすぎて寿命が縮んだわよ」
「ごめんなさい。トーマス、驚かせてごめんね。戻って。私は大丈夫だから」
「ほんと?文は本当に心配させるなぁ。ちゃんと僕の事を見ていてよ」
と言って、そっと抱きしめた。文の頭や顔、身体に触れ、血の気が戻っている事を確認した。文もそれに応えてトーマスを強く抱きしめた。(大丈夫よ)
コートに戻ってきたトーマスにジャンは言った。
「彼女を大切にしなくちゃ許さないぞ!」
「誰にも渡さないし、絶対に守るから、ジャンは心配しなくていいよ」
と応えた。ジャンはトーマスの肩をポンポンと叩き、チームのみんなに手を叩いて、気合を入れさせた。
「八重さん、貴子さん、本当にごめんなさい。トーマスがかっこよすぎて、昔の彼が消えていきました。そしたら、ふっと記憶が飛んじゃったんです」
「分からなくもないよねぇ~カッコイイもんね?」
トーマスのプレイは、本当にかっこよかった。文はバスケに詳しくはないが、試合だけは多く観ているので、動きが良い選手なのか、上手い選手なのかは多少見極めることが出来る。どこかで昔の彼と比べようとしていた文は、そういう問題ではない事を悟った。大好きなトーマスだからこそ、トーマスのバスケスタイルに惚れ直していたのだ。
トーマス達のプレイを見ていて、ジャンがポイントガード、トーマスがスモールフォワードであることも分かった。貴子たちは初めて見るバスケの試合だったので、文が説明しながら見学していた。トーマス達のゲームは見ていて本当に楽しかった。プレイしている本人たちもとても楽しそうだった。ジャンとトーマスの三ポイントはガンガン網に吸い込まれていった。
文は、改めてトーマスに恋をしている自分に気付いていた。心臓の音が半端ない速さだったからだ。
休憩タイムになった。
トーマスは、自分のタオルを文が倒れた時に頭に敷いたままだったので、文の元へ向かった。文は、自分が持ってきたタオルをトーマスに渡した。
「ありがとう。僕のタオルは?」
「あ!そうだった。じゃあ、こっちのトーマスのタオルは私が使うね」
トーマスは笑った。文のそういう所も大好きだった。
「文、バスケの後、一緒に帰ろう!」
「うん」
その後もとても「遊び」でバスケをやっているとは思えない運動量でゲームをこなしていた。文はトーマスの違う一面を知ることが出来て、とても幸せで胸がいっぱいだった。
練習は二時間ほどで終わった。貴子も八重も興奮していた。ジャンの所へ行き、身体を触りまくっていた。
(オバチャンの特権!)
などと言っている。文が席を外した時に、トーマスが貴子たちの所に来て
「今日は文が倒れて心配かけてごめんなさい」
と言った。すると、貴子が意外な事を口にした。
「文ちゃんの高校時代の彼がバスケ部で、凄く上手な選手だったみたいで、今日少し複雑な気持ちで見に来たみたいだけど、トーマスの方がそんな心配を遥かに超えてかっこよすぎて、倒れちゃったのよ。もう昔の彼を思い出せない位の衝撃だったみたいよ。本当にあなた達は仲が良くて、こっちまで幸せになるわよ。誘ってくれてありがとう。明後日のテニスも楽しみね」
トーマスは、不意に文の過去を知る事になり、不安になったが、文が戻ってきて、トーマスにタオルを返して耳打ちした。
「お疲れ様。今日私ね、トーマスに二回目の恋をしたよ」
トーマスの顔が紅潮し、それを隠すようにタオルで汗を拭いた。文はそのトーマスを見て微笑んだ。トーマスは不安を払しょくするように強く自分へ言い聞かせた。
(今の文は僕のもので、これからの文も僕のものだ。過去は・・・過去は関係ない!誰にも渡さない気持ちが大事なんだ・・・)
次の日の土曜日、豪は文からの洗礼を浴びることになる。一日中、トーマスのかっこよさをアピールするのだった。呆れて、うるさい文につい、言ってしまった。
「トーマスのカッコよさは分かっているよ。マロニエ祭でも大人気だったからな~」
「え?どゆことですか?」
あ!と思った時には遅かった。文が泣きそうな顔で豪を見ている。
「いや、悪かった。トーマスがカッコイイから、日本人マダムがトーマスから商品を受け取りたくて、商売繁盛だったんだよ。でも、トーマスは全く気付いてないから大丈夫だ!」
「根拠のない大丈夫なんてやめて下さいよ~ 不安になるじゃないですか~」
「いや、トーマスはお前しか見ていないから大丈夫だ、と言っているんだ。お前はアイツの気持ちを分かっているだろ?文とのことをキチンといつも報告して、俺に余分な心配をかけないようにしていることも凄く良いと思う。それも文を想うからこそだぞ」
本当にそうだと思った。トーマスが大切にしてくれている事は心から感謝しているし、それに相応しいパートナーでありたいと願っている。しかし、文はどうしても自分に自信が無いので、トーマスが誰かに取られてしまう日が来ないか不安でもあった。
日曜日。
貴子と八重に誘われたテニス。カリプソという運動公園、と言うには広大な施設なのだが、そのカリプソに十時に集合だった。
カリプソは、サッカー場が観客席付で二面。テニスコートは数えきれないほどあったが、屋内外合わせたら。三十面程ありそうなところだった。その他にも体育館、屋内プール、ミニ体育館などがあった。カフェもある。広大な敷地の為、公園もある。
文は、こんな所が日本にもあれば、みんながこうして気軽にスポーツを楽しむことが出来るのに、と思った。
ピーターは、このカリプソで子供たちの夏休みや冬休みなどの長期休暇の時、バスケのコーチのサポート的なアルバイトをしているのだそうだ。
この施設では、長期休暇中に子供たちを朝九時から夕方の五時まで預かり、一日中沢山のスポーツを教えるのだそうだ。一週間単位で申し込めるそのスクールは、学校が休業中の子供を持つ親にとって、子供を預けられる、とても便利な施設でもある。ランチ付きで格安で利用できるのだからありがたい。
ホッケー、水泳、バスケ、テニス、サッカー、バレー、器械体操など子供のうちから学べるのだ。驚くことに三歳くらいの子供から参加できるのだそうだ。毎日、違うスポーツの為、子供たちも飽きずに参加できるらしい。
貴子や八重の子供たちも、夏休みに参加させているのだった。魅力は、プロ並みのコーチから学ばせてもらえることだと言っていた。ピーターもその言葉を聞いて頷いていた。日本とはスポーツへの取り組み方の懐の違いを感じさせられていた。
文は、ボーリュの駅でトーマスと待ち合わせをした。カリプソへの道は文が案内できるからだ。しかも、文の好奇心で、また新しい道を発見してしまったので、トーマスに教えたかったからだ。
トーマスは少し眠そうにエレベーターを上がってきた。
貴子たちがラケットなどの準備はするから手ぶらでおいで、と言っていたので、スポーツができる恰好で集合した。
トーマスは、ほぼバスケスタイルだった。文はその姿を見て、金曜日のバスケを思い出し、(やっぱりカッコイイなぁ)と思ったので、心臓を射抜かれる仕草をして出迎えた。
「文のそういう洋服は初めてだね。かわいいよ」
スパッツと襟付きシャツにトレーナーというシンプルな服装にして、暑くなったり、寒くなっても脱いだり着たり出来るようにした。トーマスの腕に自分の腕を絡めて引っ張った。
「今日は、秘密の抜け道を案内するの」
「文は、本当にそういう所が子供のようだよね?」
と言って笑っている。
ボーリュの駅から白樺道を目指して歩くのだが、白樺道が始まる前に左折をする。
「この大きなアパートは、私に家具を譲ってくれた日本人家族が住んでいたのよ。その奥さんが、自分の部屋から朝聞こえる教会の鐘の音を聞きながら、教会の塔頂を見て、珈琲を飲む日課が大好きだった、って言っていたのを思い出して、この道を見つけたの」
左折するとすぐに小さな小道の両側が一面の芝生に覆われたアパートの裏手が広がっていた。そして、文が 「ほら!」 と指さした先に教会の塔頂が見えてきた。百メートルほどその小道を歩くと、行き止まりになった。 「えへへ~」 と文がいたずらっ子のような顔になり、小さな扉を開けた。扉の先に池が広がっていた。
「うわぁ!」
思わず、トーマスも声を出してしまった。白鳥やカモたちが優雅に泳ぎ、釣り人が釣り糸を垂らしている。
「ねっ?素敵でしょ?」
「そうだね。秘密の抜け道だ」
池と公園が一緒になったそこを抜けると、小さなレストランがあり、その向こうに教会が現れる。右手がケイム広場だ。
「あの教会の向こうがカリプソだよ」
その公園を抜けると、急な上り坂になる。足が長く体力のあるトーマスとではハンディがありすぎる。トーマスが文を引っ張る感じで歩いた。それが文は何だかこそばゆくて、ニヤニヤしてしまった。
「文、笑ってないでちゃんと歩いてよ」
言いながらも、トーマスも嬉しそうである。ふと、文は教会の前で立ち止まった。
「トーマス、少し教会の中に入ってもいい?」
「え?いいけど・・」
文は、通いなれたように真っすぐ懺悔台に向かっていき、膝まづいた。
「自分の気付かない所で、今日まで沢山の人を傷つけたと思います。どうかお許しください。出来れば、その過ちに気付けるサインを私へ投げて下さい。その罪をキチンと背負います。こんな私が生まれてきてしまってゴメンナサイ。でも、精一杯頑張って生きるので、どうか許してください。そして、隣にいるトーマスがどうか幸せな毎日になるようにお導き下さい。出来ればこの私にその役目を果たさせてください」
と祈って、一礼をした。
「何をそんなに懺悔したの?」
「私が生まれてきたことと、沢山の人を傷つけた事」
と、サラッという文に驚いた。
「文が生まれてきたから、こうして出会えたんでしょ?そんな事言うなよ。それに文は人を傷つけるような人じゃないよ」
「ありがとう。トーマスに出会えて、初めて生まれてきてよかったのかも?って思えるようになったけど、日本にいた時はそう思えなかったの。自分の居場所、っていうのかな?それがどこにあるのか分からなかったの。そうなると、私ってどうして生まれてきたのかな?って考えるようになるんだよね。だから、教会を見つけると、懺悔するようにしているの。神様が許してくれるのなら、生きていてもいいんだな、ってね。あとは、自分は傷つけるつもりが無くても、私の言葉の足りなさや態度の悪さで、知らない所で傷つけている事が絶対にあるでしょう?だから、そういう悪の部分の私を清めるために祈っているの。あとの祈りは教えてあげない」
トーマスは文のこの「劣等感」をどうにか救いたかった。「孤独」から彼女を守り、解放したかった。
「ごめんね。驚かせて。でも、習慣みたいになっているから、やらないと気持ち悪いの」
「なんかソレは分かる気もするけど、ね・・・」
トーマスは文の手を力いっぱい握って(大丈夫だよ。僕が居る)という無言のメッセージを送った。文は、静かに微笑んで応えた。
「トーマス、ありがとう。心配しないでね。今はトーマスがいてくれるから大丈夫だよ。私が懺悔する日もそのうち無くなるね、きっと」
教会を出るとすぐにカリプソが見えてきた。ジャンと貴子が先に到着していた。貴子はジャンにランチの荷物を持つように促していた。トーマスと文も手伝った。
程なくして全員集合し、テニスコートへ向かった。カリプソの入り口を抜けるとすぐに小さな森があり、その森を抜けると、右手が坂道になっていた。その坂道を下ると一面にテニスコートが五面広がっていた。
このカリプソで普段、貴子と八重はテニススクールに通っているのだという。
(まさに駐在員の奥様の生活だ!)
文はテニスの経験がほぼなく、OL時代に会社の同僚に誘われて二度やっただけだった。
色々なペアを組みながら、テニスを楽しんだ。八重の小さな計らいでジャンと文がペアを組んだ。一瞬、文は警戒する素振りを見せたが、相手のフィリップと八重のペア目掛けて打ち返した。ジャンは、ポイントガードだけあって、後ろから文へ的確に指示していた。文がボレーを上手く決めると
「ナイス! 文」と言って駆け寄ってきたので、文はハイタッチを求めた。ジャンは一瞬ひるんだが、喜んでそれに応じた。トーマスは教会での文の懺悔の言葉を聞いていたので、文のささやかな詫びなのだと感じていた。
二時間近く楽しんで、上手く動けない自分たちの愚かさに笑い転げて、あっという間に時間が過ぎて、八重が声をかけた。
「さぁ! そろそろお腹空いたでしょ? ランチにしましょう」
テニスコートの隣が小さな公園になっていたので、そこでシートを広げて二人の手料理を食べた。二人の手料理はとても美味しかった。それにとてもオシャレだった。キッシュ、テリーヌ、サラダ、ラザニア、サンドイッチ、フルーツ。どれも駐在員の奥様達らしい心配りだった。
文は一つ一つの料理に感動し、喜んだ。文の喜ぶ顔を見て、八重も貴子も
「文ちゃんに喜んでもらえるのが一番嬉しいから良かったぁ。私達、マロニエ祭では本当に文ちゃんに救われたからさぁ。来年の為の大きな参考になったよ。本当にありがとうね」
「そうそう。文ちゃんに言わなくちゃね。あのマロニエ祭って沢山の日本企業の人が当然関わっているでしょ?文ちゃんね、銀行マンの人と商社マンの人に目をつけられているわよ。そのうち、お声がかかるかもしれないからね」
「え?どうしてですか?」
突然の事に文は事態が呑み込めなかった。
(私、何か悪い事したのかな?)
八重の話によると、書道コーナーを見に来たその二人は、別々に来場していた。銀行マンの人は、マロニエ祭の会計部門のサポートをしている人だった。大きなお金が動く上、日本人学校はこのベルギーでは私立学校になるので、実行委員に不正がないように監査も兼ねて携わっているのだという。もう一人の商社マンは、トンボラと言ってマロニエ祭の一大イベントのくじ引きコーナーを影で支えている人で各企業からトンボラ用の景品を集める役割を担っているのだそうだ。
その二人が、いつもの年と雰囲気の違う「書道コーナー」に目を付けたのだそうだ。
「えぇ?でも、企画運営をしてくださったのは、実行委員の方々だったでしょう?」
「いやいや・・・文ちゃんは分かってないなぁ。私達は(箱)を準備したに過ぎないのよ。影の運営者は文ちゃんよ。整理券を渡せない人への配慮といい、書く内容といい、接客と言い、本当に素晴らしかったの。だから、二人の人も実演していた人は誰ですか?とか、申し込みに漏れた人への心遣いをした人は誰ですか?って質問がソコだったもの。ベルギー人の評判が彼らに届いていたんだと思うよ」
文は涙があふれた。(ココには私の居場所がある・・・)
その話を聞き、トーマスも文を抱き寄せた。(よかったね、文・・・)
「だから、声を掛けられるのも時間の問題だと思うから、心の準備をしていなさいよ。私達がちゃんと ゆかり の従業員であることも伝えたから」
文は感動していた。駐在員になる妻の人達は、日本で見ていた(大人達)とは、心の余裕が全く違う。誰かを蹴落とすとか、好き嫌いで仕事をするとか、そういうレベルで物事を考えていない。
(貴子さんや八重さんみたいな大人になりたい!)
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
「僕も文のオモテナシに感動したベルギー人の一人だよ」
とジャンが言った。文は両手を合わせて頷いた。
帰り道、文はトーマスにお願いをした。
「トーマス、今日もトーマスのアパートに泊まってもいい?私、今日の出来事すべてをとても一人で処理しきれないよ。何が起きたのか、うまく呑み込めていないの。嬉し過ぎるの。トーマスにそばにいてほしいの」
「もちろん、いいよ。是非、僕も分かち合いたいね」
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