第3話 新しい生活 ~ULB~

 文は、語学学校が始まったら、アルバイトを月曜日から木曜日の学校終わりの時間から四時まで働くことにした。三時間だけだけど、生活費のためには頑張らなければならなかった。それに加えて土曜日も朝から三時まで働くことにしていた。


 文の九月のプライベート予報は(忙しくなるでしょう)だった。習字教室に加えて、花のレッスンも始めるからだ。

他にも文は、グラン・プラスに並ぶボビンレースの店も気になっていた。レースそのものをというよりも、ボビンレースを編む事に興味を持っていた。ボビンレースの店でおばあちゃん店主がボビンを華麗にさばきながら、レースを編み上げていく姿を見てから虜になっていた。


文にとって、ベルギー生活の序章である八月が静かに終わりを告げていた。


九月。

いよいよ語学学校が始まった。学校へ行く前にベルギーの空気に少しでも慣れたらいい、と思って七月から入国したが、まさか「彼氏」まで出来るなんて、六月の日本にいた自分が想像できただろうか? 日本から「自分をさがす」目的で来た留学である。

しかし、トーマスのおかげで自分の気持ちも一変した。全てを前向きにとらえられるようになっていた。日本での反省点にも向き合えていた。日本では、どれか一つを選ぶことが「善」だと思っていたが、この国での文は、欲張りも良い事だと思えるようになっていた。


今日からまた、新しい事が始まる。クラスにはどんな外国人が集まり、どんな授業をして、どんな毎日が始まるのだろう? そして、トーマスともどうなっていくのだろうか?

トーマスも学生だが、文はトーマスのキャンパスを知らない。聞いても分からないと思ったので、あえて聞かなかった。

文は、アパートからもアルバイト先の「ゆかり」からも程よい距離にあるブラッセル自由大学、通称ULBの中にある語学学校へ通い始めた。三か月の短期的な授業だが、テストもあって、宿題も出るらしい。


 七月、八月は散々、地下鉄を利用していたが、学校へはバスで行く事になった。アパート近くのケイム広場から出ているバスに乗り、学校近くまで乗って行く。乗り換えれば、門の目の前まで行くが、乗り換えずに歩いても、そんなに変わらない。山梨では、歩いて五分のコンビニでも車で移動していたことを考えると、環境というものは実に恐ろしいモノである。

 そして、授業が終わったら、門の目の前のバス停から飛び乗り、ナミュール駅まで直行するバスに乗れば、めでたし、めでたし「ゆかり」にご出勤である。

アパートからアルバイト先へは、地下鉄に限るが(バスも出ているが、少し長い距離になる)ブラッセルは交通網がしっかり整備されているので、とても便利だ。


 ブラッセルのバス、トラム、メトロなどは、一枚の切符で一時間以内であれば、どこまでも行くことが出来る。例えば、目的地まで三十分かかるとする。一枚の切符を出発地の乗車したバス・トラム・メトロの券売機に通す。三十分して目的地に着く。三十分間、目的地で遊んで、帰りの乗り物に乗る。出発してから一時間以内に乗れば、その先目的地に一時間後に到着しても問題なく、一枚の切符で行くことが出来てしまう。素敵な切符だ。このことを理解して行動すると、節約できるのである。ストッケルの朝市も切符1枚で往復できるのである。貧乏学生には素晴らしい仕組みだ。


 文のクラスは、初級クラスで十人程のクラスだった。日本、中国、ベトナム、オーストラリア等様々な国から集まっていた。その中でも日本人は文を含めて三人いた。文以外は、駐在員の奥様だった。

初めの授業は、今後しばらくのカリキュラムの説明と自己紹介で終わった。午前中だけの授業なので、苦痛になる頃に丁度良く終了することも有難かった。

 自分の貯金で通う事になった学校だけど、こういう事が無ければ留学も出来ないのだから仕方ない。それでもクラスの顔ぶれを見たが、何とか三か月頑張っていけそうな気がした。


早速、日本人マダムの八重と貴子が傍に来た。どうやら、二人は知り合い同士で申し込みをしたようだ。

「文さん、ってお呼びしていいかしら?これからヨロシクね」

「こちらこそお願いいたします」

「留学でこちらにお一人でいらっしゃったの?」

「はい、勿論一人です。七月に入国して家の準備も終わったので、今日から勉強!って感じです」


八重も貴子も、凄い、凄いを連発していた。自分たちは旦那さんの転勤にくっついてきただけだから、ご主人の会社のベルギー人秘書が全て、面倒を見てくれるらしい。この語学学校の申し込みも秘書が手続きをしてくれたのだそうだ。

文は住む世界が違うのだろうなぁ~と感じていた。それから、「ゆかり」の宣伝をしておいた。二人のマダムは既に「ゆかり」のお客様だった。

「是非、日本食材のお買い物にいらしてくださいね。学校が終れば、アルバイトに出ています。土曜日も朝からおりますのでお待ちしていますね」


 初日は無事に終了した。初めて、学校からアルバイト先に向かうので、少し不安もあったが、皆に別れを告げて校舎の建物から出た。すると、目の前にリュックを背負う見慣れたシルエットの男性が建物前の道を歩いているのを発見した。


「トーマス!」


その声に敏感に反応したトーマスが振り向き、文の顔を確認すると、一瞬にして明るい表情になって、こちら目掛けて駆け寄った。二人は抱きしめ合った。


「この大学にいたの? 知らなかった!」

「僕もだよ。やっぱり僕たちは何かあるね。文もここに留学していたんだね? 学校って言っていたから、何か語学の専門学校のような所に通うのかと思ったよ。聞けばよかった!」

「私も聞いておけば、朝から不安にならずに済んだのに、ばかだね。会えてよかったわ。トーマスがいてくれるのなら、これからも心強いわ・・安心」


文は、トーマスに出会ってから涙もろくなっている。語学学校の事で頭がいっぱいだったので、張りつめていたのだ。どこかで怖かったのかもしれない。トーマスは、少し笑いながら

「そうだよ。僕が居るから大丈夫。心配しなくていいから。でも、勉強は代わってあげられないから文が頑張るんだよ」

文は、うん、と言って涙を拭いた。


「今からアルバイトに向かうの。トーマスはまだ授業が続くでしょ?」

「うん、授業はおわったけど、教授に会いに行くんだ。色々相談があってね。勉強も教えてもらおうと思ってさ。文のおかげで色々考えた事もあって、聞いてもらうよ」

「そっか・・トーマスが元気になってよかった。またね」

もう一度、お互いのぬくもりを確かめるように軽く抱き合って別れた。


 文は自分の強運が怖かった。全てが夢で冷めてしまわないかと思うほどだった。

八重と貴子は、目の前で繰り広げられたラブシーンに目を白黒させて驚いていた。そして、トーマスと離れた文を追って、興味津々で聞いてきた。

「文さん、あのカッコイイ人は誰なの?」

「こちらでお付き合いすることになった彼なんです」

「カッコイイわね~ 二か月で彼が出来るなんて凄いじゃない? びっくりしちゃったわ。今度、紹介してね」

「よかったぁ。彼、今までモテた事がないし、カッコイイって言われたこともない、って言うんですよ」

「あら、そうなの~? よっぽど他にカッコイイ人がいたのかもね。でもさぁ、何か素敵な巡りあわせと出会いがあったのね? 今度、ゆっくり聞きたいわぁ」


と言われたが、二人のマダムとも別れた。「ゆかり」に戻って、簡単に昼食を済ませてすぐに仕事へ入らなくてはならなかったからだった。


 店長の豪へトーマスと同じ大学であったことと、偶然に会えたことを報告した。

「あれ?文は知らなかったの? トーマスがULBなことをさ。俺は彼から聞いていたから知っていたんだけど、てっきり文も知っていると思っていたよ」

「さっきまで知りませんでした~ もぅ! 店長はひどいなぁ。意地悪だよ~」


 一方、トーマスは文に会えたことも嬉しかったのだが、その文とこのベルギーで出会った事で、今日はやらなくてはいけない事があったから、文とは違って気持ちを切り替えていた。

 トーマスにとっての新学期の大学初日は、自分探しだった。休みの間、考えていた事、聞きたかったことを教授に思い切って尋ねてみた。


「私のパワーポイント、もしくは向き、不向きについて、教授から見て、どのように映っているのか伺いたくて、今日は参りました」


教授は突然の質問に戸惑いはしたが、やんわりと答えた。

「面白い事を突然聞いてくるね。君にしては珍しい質問だ。でも、とても良い質問だと思うよ。その情報をなるべくたくさんの人から聞いて集めると良いと思う。私から見る君は、文章をまとめる力や図形やイラスト等で表現する力がとても優れていると思うよ。相手に伝えるための武器を持ち合わせているようだね。それから、講義内容や君のまとめた資料を拝見しているとマーケティングに興味があるのかな?と感じていたのだけど、違うのかな?」

「ありがとうございます。それすらも現在、絞れていないので、もっとリサーチしてみたいと思います。おっしゃる通り、私はマーケティングにとても興味を持ち始めています。ただ、漠然としているので、これから深く自分と向き合って、考えていきたいと休み中に考えておりました」


 トーマスは、教授のアドバイスのように友達からもバスケ仲間からも同じように質問をして情報を集めた。こうして集めてみると、トーマスは自分自身に全く興味が無い人間だったんだな、と感じ反省した。もっと自分を知る事から始めなくてはいけない。文がいつも言葉のどこかで伝えてくれていたことを思い出していた。

「私の心が読めるみたいで凄い」

「一緒にいると安心する」

「説明の仕方が分かりやすいから、言葉が分からない私には理解しやすい」

それらの言葉を裏付ける言葉が教授や友達からも聞かされた。

周りの人達からは、初めて聞く言葉だが、文は、事あるごとにトーマスに言っていた。それは、トーマスにとって「勇気」と「自信」になる言葉だった。改めて自分をいつも支えてくれる彼女の事に感謝した。


(文は初めから僕のことをちゃんと見てくれているんだ。今夜はもっと今まで学んだ事の振り返りをしてみよう。何か分からないけど、もうすぐ何かに辿り着けそうな予感がする)

彼女の存在がいかに自分の中で大きいのかを思い知った。文の言葉が無ければ、こんな風に動くことも出来なかった。そして、自分の腕の中に先ほどいた彼女のぬくもりを改めて思い出していた。

(僕のパートナーは彼女しかいない!)


火曜日。

文は、授業の後でイクセルにある花屋へ行く事に決めていた。習字教室の町田が

「彼女は、今、開業準備中だからチャンスよ。物件が見つかったばかりだから、きっと手伝ってもらえることを喜ぶわ。彼女には電話しておくから行ってきなさい」

と言っていたからだ。弁当を二個用意してきた。時間も気にせずに行けばいい、と言ってくれていたので安心だった。

日本のようにカチカチ型にはめてこない人づきあいが文には合っている気が最近してきていた。


授業が終わり、帰ろうとしていたら、トーマスが目の前にいた。

「トーマス!!」

「文!やっぱり会えた!」

二人は抱き合った。文は、咄嗟に名案が浮かんだ。


「トーマス、これからどうするの?」

「午後の授業の前にランチしてくるよ。文はアルバイトかい?」

「ジャーン!」と言って、花屋のエツコに渡すはずだった、弁当を見せて、

「トーマス、お弁当ランチしない?」

「え?でも、これは文のものではないの?」

トーマスは心配そうな顔で言った。でも、文はトーマスに花屋の話を一刻も早くしたくてウズウズしていたので、エツコの弁当の事はどうでもよかった。

「いいの。私の分も準備してあるし、本当は、このお弁当は花屋のエツコさんにお土産で持っていこうと思っていたものだけど、彼女にはいつでも持って行けるから。ねっ、トーマス食べましょう。それに彼女は私がお弁当を用意している事は知らないんだもの」

と言って、舌を出した。

トーマスは文の手料理をまだ食べた事がなかったので、思いがけずに幸運が舞い降りてきたことを素直に喜んだ。ベンチに二人で腰かけて文が弁当を広げた。


「これが日本式のお弁当よ。私がゆかりで販売したいと考えている物なの」


トーマスは、意図せずして日本の文化に触れられている自分を幸せ者だな~と感じていた。

文は丁寧に弁当の中身の説明をした。中身はおにぎりとだし巻き卵、そしてコロッケだった。日本を離れたエツコが懐かしんでくれそうなメニューにしてみた。


「これは、おにぎりって言って、お米よ。それを海苔で巻いているの。中は、昆布と焼いた鮭なの。そっちは、卵。こっちはコロッケっていって、ベルギーのポテトを揚げたあのおかずに似たもの。おにぎりは、こうして食べるの。」

と、言って、ラップでくるまれた、おにぎりのラップを少しめくって、手づかみした。

「ベルギーの人がサンドゥィッチを手で食べる方法と同じよ」


トーマスは、一番味が想像できそうな出し巻き卵から口に運んだ。

「これ、卵なの? 凄く美味しい。卵じゃないみたい。甘いんだね」

次に、コロッケを食べてみた。文が例えたポテト揚げとは比べ物にならないほどの美味しさにこちらも感動していた。文は、トーマスが美味しそうに食べる顔を見て、とても幸せな気持ちになった。最後にトーマスは真っ黒なおにぎりを心配そうに食べた。

しかし、すぐに笑顔に変わり、美味しくて力が湧いてくるような食べ物だ、と表現した。

トーマスは、弁当の中が色彩豊かに詰められていて、感動しきりだった。

(一体、日本人の食文化はどうなっているのだろう?中身も全く温かくなくて冷たいのに、どうしてこんなに心が温かくなって、おいしいのだろう?)


 文は、弁当を食べてもらうことも嬉しかったが、トーマスと共有したいと考えていた事を早く話したくて、自分の弁当を食べることも忘れて一生懸命に話した。そして、思わぬところからチャンスがまた、舞い込んできたことも話した。

トーマスは、自分の事のように喜んで聞いていた。

「だから、今日はこれからエツコさんのお店に行ってくるの」

文は思いがけず、トーマスと弁当を食べることが出来た事と自分の「想い」を告げられたことで心も腹も満足だった。

「文、どれも凄くおいしかったよ。ありがとう。午後の授業が頑張れるよ。お花屋さんが素敵な出会いであることを祈っているよ。明日も授業かい?」

「ありがとう、トーマス。私もあなたとランチが出来て凄く幸せ。明日は授業の後、仕事に行ってくる。店長に沢山報告することがあるから」

「じゃあ、僕は今日、文のボスに会いに行ってもいいかな? 文がこの前、望んでいたようにボスに文との事、色々お話したいんだ。君のベルギーの父さんにね」

「うん、分かった。店長に明日は仕事に行くから、って伝えてね」


二人は離れることを惜しむかのように別れた。

文は、トーマスが店長に何を話しするのか分からなかったが、店長となら安心であった。店長は文の良き理解者であり、きっとそれはトーマスにとっても同じだと思ったからである。


 文は、アルバイトへ向かうようにバスに乗り、イクセルの花屋へ向かった。初めて会うエツコの事が楽しみであった。

店であろう入り口に佇み、本当にココがその店であるか不安に感じ、キョロキョロと窓越しから中の様子を伺っていた。テーブルの上に幾つかのバケツに入った花が色々と無造作に置かれている。どう考えても花屋だろう、と考えて勇気を振り絞って、ドアを押した。

「こんにちは!」

すると、階下の方から返事をする声がして、階段を上がってくる人影が見えた。

「あら?もしかして佳子さんの生徒の文さん?」

「そうです。月見 文と申します。開店前のお忙しい時に押しかけてしまって申し訳ありません」

「いいのよぉ。だって、手伝っていただけるんでしょ?」

「もちろんです。私に出来ることは何でもおっしゃってくださいね」


 どうやらココは、エツコの住まいも兼ねているようで、階下は自宅になっているようだった。店舗は表側の店舗が日本式で言うと、六畳くらいのスペースで、真ん中の部屋が八畳くらいのスペース、一番奥にも十畳程のスペースがある作りになっていて、三つの部屋は垂れ壁になっているだけで、ドアもなく続き部屋になっていた。日本とは違い、天井も高く、店舗の広さのわりには広く感じた。

エツコから、冷蔵庫が届いたら、表側の店舗スペースに置き、そこに当然だが売り物の花を並べる。キャッシャースペースも表側に設置すると説明を受けた。カウンターも近いうちに搬入されることになっているという。

続きの部屋の八畳は、作業スペースで、アレンジメントや花の手入れ、ラッピング等の作業を行うスペースになるそうだ。


そして、一番奥が・・・と言って、案内をしながら文を見た。

「ここに生徒を集めて、華道やアレンジメントの教室を開こうと思っているの。だから文さんには、なるべく沢山の日本人の方に声をかけていただいて、生徒募集のお手伝いもしていただきたいの」

その部屋だけは、大きな木のがっしりしたテーブルが置かれていて、エツコの気合が伝わってくるようだった。そして、ここにみんなでお茶やお菓子をいただきながら、アレンジメントをしている風景を想像したら、急に楽しくなってきてしまった。エツコは、そんな文の表情を見て、

「そうだ!折角、今日初めての買い付けに行ってきたから、文さんもアレンジメントやってみない?」

「え?やりたいです!」

エツコは、五種類ほどの花を表のスペースから持ってきて、大きなテーブルに並べた。そして、沢山積み上げられた段ボールの一箱から小さな白い磁器の花びんを出して、文へ差し出した。

「これに生けてみましょうよ」


 文は初めて習う、花の稽古が楽しくて仕方なかった。しかもマンツーマンである。エツコの手は魔法のようで、手際よくシャキシャキと花を見ながら、適当な長さに切り、次々に生けていくのである。まるで初めから計算されたように、何の迷いもなく生けていくのだった。片方の文は、一度切ってしまったら戻せない恐怖から、「切る勇気」がなかなか出てこないのだ。そんな文を見てエツコはヒントを与えた。

「もし、これらのお花たちが道端に咲いていたとしたら、風に揺れながらどんな風か想像してごらんなさい。それが想像できなかったら、文さんの結婚式にこれらのお花が文さんの目の前に飾られているとしたら、どんな風か想像してごらん」


文は、どの場面も鮮明に想像できて、その風景のどちらにも隣にはトーマスがいた。

二人で公園を歩いている光景。

二人でバージンロードを歩く時の両サイドに飾られる花の光景。

そんな夢見心地のような妄想の中で花材に向き合っていたら、自ずと作品が仕上がっていた。

「素敵じゃない!文さんは真っすぐな人なのね。作品に現われているわ。これもとっても素直で文さんらしい作品だけど、これに少し手を加えて・・」

と、何本かにエツコがハサミを入れて、少し向きを変えたりしただけで、そこに「風」を感じたり、「太陽の光」を感じたりすることがとても不思議な体験だった。心から素敵だ!と思った。花をとてもよく知っていて、とても愛している人の作品なのだと思った。


 また、書道の世界と一緒で、「余白の美」が花の世界にもあるような気がした。その余白があるからこそ、花も葉も生けられていながら生命の表情を投げかけられる。

文は(この人の元で、ベルギーにいる間は、お花の勉強を重ねるようにしよう)と決めた。そして、エツコは続けて文に言葉を差し伸べた。


「文さんさえ良ければ、アシスタントのようなお仕事をしていただけたら、お給料はお支払できないのだけど、お花の事全般に教えて差し上げられるわよ、無料で。アレンジ、華道、ラッピングなどをね」


 文は喜んで、その話を受けることにした。そして、エツコへどんな目的で花を習いたいと思ったのかをなるべく細かく説明した。その話をエツコはとてもよく聞いていた。そして、だったら、丁度良かったのね、と話をして「契約成立」となった。

 文は片づけや掃除も決して嫌いではなく、むしろ好きな方だったので、掃除が苦手なエツコには丁度良かったのである。アルバイトが休みの日、もしくはアルバイト終了後にエツコの店舗へ向かう事になった。

(明日から忙しくなるぞぉ!)


トーマスは、講義の後で、豪の元へ急いだ。

豪はトーマスの来店を喜んだ。娘がいない間の息子との秘め事のような気持ちだったからである。

「よく来たな。今日は落ち着いた日だから、丁度良かったよ。ゆっくり遊んでいけ」

文がそうであるように、トーマスも豪が大好きであった。その「好き」には、尊敬のスパイスがたっぷり入っている。しかし、今日のトーマスは不安な気持ち半分を持って、豪へ思い切って聞くために来店したのである。


「あれからしばらく経ってしまって申し訳なかったのですが、僕は文とこのままお付き合いをしても良い男ですか? もしダメだ、って言われても別れたくないけれど、ボスに聞かなければいけないのだと思うと、ずっと不安でした・・・」

「そっか・・そいつは悪かったな。トーマスがもっと自信が持てるように何か言ってあげなくちゃいけなかったなぁ。文はトーマスに出会ってから、おそらく本当の文がドンドン内面からでてきて、それは俺も含めた周りにとって、とても良い状況なんだよ。だから、俺はトーマスに感謝している。感謝の大半は娘をあんなに幸せそうな顔にしてくれたことだけどな。文の顔を見ているとコッチまで幸せになる。それはトーマス、君のおかげだよ」

「町田先生にも同じような事を言われました」

「そっか、やっぱり他でもそうなんだな。だから、このまま文の事を頼んだよ。俺はな、文がトーマスに地下鉄で助けてもらった時から、彼女がトーマスに惚れている事を知っていた。彼女はその気持ちを必死に隠しているようだったけど、俺は知っていたんだ。文は、ベルギーに彼氏を作る目的で来たわけではなかったから、必死にその気持ちを封印していたんだろうなぁ。トーマスと会えた!話をした!と言っては、そこのカウンターにけつまづく程、喜んでいたんだぞ? ところが、トーマスも文と同じ気持ちでいた!しかもかなり積極的に、な?」

「僕もどうして文の事がここまで好きになるのか分からなかったんです。でも、グラン・プラスで見かけて気になっていた女性を助けた瞬間、こうして彼女を助ける男は僕じゃなければ嫌だ、って思ってしまったら、こうなっていただけです。運命なのかな?って。今までこんな風に人を好きになったことが無いので、自分でも戸惑っているのです。本当に彼女を守れるのか?って気持ちが大きくて。しかも彼女は遠い国の日本人だから・・・」


と言って、少しうつむいた。トーマスは自身の生い立ちや家族の事、故郷の話などを文に話したように、豪へも話して聞かせた。豪は静かに頷きながら、トーマスの話を受け止めていた。


「文はトーマスにとって、母であり、妹でもあり、そして大切なパートナーなんだね、きっと。だから彼女を手放したくないんだよ」

「そうかもしれないです。母の面影を彼女の中に探してはいないけど、彼女が僕を支えてくれる時には、いつも大地のような大きな心を感じるのです。でも、いつもは年上の女性なのに危なっかしいから守ってあげたくなる位可愛くて仕方ない。昨日も大学で会った時に、お互い同じ大学だったことを知らなかったから、感激してたんですけど、彼女は(これで安心だ)って言って泣いたんです」

「え?あの文が? 俺が文にトーマスと同じだよ、って言ってなかったからなぁ。アイツなりに不安だったんだなぁ・・」

「そうなんです。彼女はいつも明るく強そうでありながら、本当に張りつめているんだな、って感じました。大学に僕がいるだけで彼女が安心だったら、僕がいる意味もあるな、って心強く感じました。彼女がいつもそうやって僕の存在意義を教えてくれるんです」

「そうかもしれないなぁ。こんなオッサンの俺にも、文は店長!店長!って心地よくさせてくれている。

人は寄り添いながら成長していくんだ、って言われるけど、彼女を見ていると本当にそうだな、って感じるな?

 だから、トーマスは自信をもって文の彼氏でいればいいんだよ。文が選んだ男なんだからな。前にも話したが、トーマスにお願いしたい事は2つだ。彼女の目的を達成させてやること。邪魔をしない。もう一つは、彼女の家を突き止めるような行為をしない事。その二つだ。文がトーマスを招き入れたい、と思えばきっと文からそう言うはずだからな。

だが、日本人の女性はベルギーの感覚とは違うから、そこは許してあげて欲しい。彼女は特にその気持ちが強い日本人であることが、トーマスを苛立たせる日が来る気がして心配なんだよ。だから、二つの俺からの願いを覚えていてほしいんだ。それ以外は、もうトーマスも文も大人なんだから俺が出る幕はないよ」

「よかった。ボスにゆるしていただけて、僕も自信になります。あとは自分自身の問題なんです。文が日本に戻ってしまったら、どうやって彼女を守ることが出来るのだろう?その前に僕はどんな所で働くのだろう?それは彼女を幸せにしてあげられる事だろうか?って考えていると不安になってしまうんです」

「待て、トーマス。そこは、文の事は考えずに考えるべきことだぞ。トーマスはどんな仕事をしたいんだ?カフェの店員か?それとも別の仕事か?」

「勿論、カフェの店員ではないけれど、今は漠然と経済の流通の部分に携わる仕事をしたいな、とは考えているのだけど、漠然とし過ぎて的を絞れていないのです」

「トーマスが好きなバスケの事でも(流通)が関係するだろ?例えばバスケ用品、NBAのグッズ販売、大きく言えば選手の流通もあるぞ。自分の好きな事をもっと考えてごらんよ。(流通)から考えるから難しくなるんだよ。(好き)なこと(興味)のあることから考えて、そこから(流通)に結び付けた方が、例えば今はその道に流通の経路や販路が無ければ、トーマスがその道を切り開く事も出来るだろ?そうすると道は永遠に広がっていくと思うよ。

その思考に文を入れるな。文も自分の好きな事にトーマスの存在を入れていないだろ?お互いはその(好きな事)(仕事)のサポーターであり、それらと戦った後の休息の場所、のはずだよ」


 トーマスの曇った顔がみるみる晴れていく事を豪は理解していた。

「ボス!ありがとうございます。難しい方程式が解けた時のような気持ちです」

「よかったよ。トーマスは迷走していたんだな?」

「文が言っていたことは当たっている。(種まき)や情報発信をし続けなければ、自分の道が拓けない、チャンスが通り過ぎていく、って教えてくれたんです」

「文がそんなこと言っていたんだ?凄いな、あいつは。だから、トーマスは俺に相談してくれたんだね?」

「自分では相談のつもりではなかったんです。文が言うように信頼できる人に自分のやりたい事を話せば、必ず道が切り開かれる、っていうのを見て知っていたから。

文は習字教室でストッケルの情報や花屋の情報などを確実にモノにしているんです。だから、僕もちゃんと伝えていこう、って思ってこの前も教授や友達に僕の性格がどんなふうにみんなには映っているのかを聞いてみたり、今日はボスに文との交際を全面的に許していただきたくて、その為には僕の事を理解してほしくて話に来てみた、それだけだったんです。でも、大学のみんなの話やボスの言葉は、僕が前に進むキッカケの(全て)でした。そのヒントをくれたのが文だったんです。お二人には感謝しかないです」

「感謝してもらうのは、トーマスに(道)が出来た時でいいよ。でも、文には感謝しろよ。彼女は君自身の背中を押してくれた人だと思うから」

「はい。今日はボスに会いに来てヨカッタ。これからも遊びに来てもいいですか?あ、手伝いも勿論しますよ」

「おぅ、そうか。じゃあ、今日は手伝って行けよ。その代わり、飯は食わせてやるからな!」


豪は、文を娘のように思っているようにトーマスの事も息子のように感じ、可愛い二人を親心で大事にしていこうと心の中で決めていた。


金曜日。

文は授業が終わると、習字教室に行くため帰りの身支度の準備をしていた。


「あら文ちゃん、今日はアルバイト?」

最近、八重も貴子も文に親しみを込めてこう呼ぶようになっていた。


「いえ、今日は習字教室に行く日なんです」

「え?お習字もやっているの?」

「はい。師範の資格を取ろうと思って頑張ってみようかな?って・・・」

貴子は興奮気味に八重に向かって叫び、文に願い事をしてきた。

「ここにいたじゃない! ねぇ文ちゃん、そしたら十月に日本人学校でマロニエ祭っていう行事があるのよね。その日は学校関係者だけじゃなく、日本企業の方々やベルギーの人達もたっくさんいらっしゃるの。文ちゃん、そのお習字の腕前を披露してくれないかしら?」

「腕前なんて、滅相もない!でも、私なんかで出来ることかしら? お二人の役に立ちたいです。町田先生に相談してみてもいいですか?月曜日にお返事できるようにしますから。その時でもお返事は間に合いますか?」

「もちろん、大丈夫よ。良いお返事を待っているわね」

「ありがとうございます。では、急ぎますのでお先に失礼いたします」


手を振り、見送りながら、八重と貴子は二人で顔を見合わせて

「文ちゃんって、いつも風のように去っていく子だと思わない?忙しくしているわよね~ 青春!って感じ?あの子にこの大役を引き受けてもらえたら、成功したも同然よね?」

と笑った。


文は、町田の教室に着いて、すぐに町田へ聞いた。

「先生、マロニエ祭で書道の実演披露を頼まれたのですが、私でも出来そうなことですか?」

「おぉ!早速日本人マダムに目をつけられたのね?素敵じゃない?文さんでも充分出来ることよ。大半は、ベルギー人向けに書いて差し上げるの。例えば、トーマスって日本語の当て字で書いてあげたりするのよ」

「へぇ~ 面白いことするんですね。漢字をいっぱい知っていなければならないみたいですけど、やってみようかしら?」

「お手本だけを見て書いてばかりいるより、まっさらな紙に書く事もお勉強よ」


確かにそうだと思った。文は典型的なマニュアル人間なので、何か決まりごとが無ければ、失敗しそうで恐怖なのである。書道も好きな文字をまっさらな半紙になど書いた事がなかった。普段のお稽古では、半紙に縦横の線が印字されたものに書いていたし、プライベートで書く時も、半紙を縦横に折って、線をつけていた。

(挑戦する価値は十分にあるわね)

その日は、習字道具一式をアパートへ持ち帰った。色々な外国人の名前で当て字を書く練習をしてみたかったからである。

翌日のアルバイトで、豪へマロニエ祭に参加することを伝え、その土曜日に休みが欲しい事を伝えた。


「いいんだよ、その日は。どうせ開店していても全くお客さんが来ないんだ。だから、俺たちも毎年、小さな店を校舎内で出させてもらっているんだよ」

「え?そうなんですか?じゃあヨカッタ」

「文にも手伝ってもらおうと思ったけど、トーマスにでも手伝わせようかな?」

豪はとても嬉しそうに話している。その顔を見て、文はハッと思い出した。


「そういえば、店長!この前、トーマスが来ませんでしたか?店長に会いに行きたい、って言っていたんだけど・・・」

「おぉ、来たよ。沢山話をした。文、よかったな、大好きな人と付き合うことが出来てさ。トーマスには聞いていないのか?」

「実は、今週は忙しくて大学でも会っていないんです」

「そうだったのか。文に怒られるようなことは何も言ってないつもりだからな。しかし・・トーマスは文の事が大好きなんだな~ 俺はそれが嬉しいよ。メチャクチャ大切に思ってくれている。それにトーマスは真面目なんだな。これからが本当に楽しみな若者だよ」


文は自分が褒められているように凄く嬉しかった。父のような存在の豪からの言葉に胸が温かくなることを感じていた。


*****


 その日のアルバイトが終ると文は、サブロン教会へ向かった。目的は、週末に並ぶアンティークマーケットを見るためだった。

初めて訪れたサブロン教会は、こじんまり佇んでいるように見えるが、文には壮大な教会に映った。表通りから見えるステンドグラスといい、教会の形といい、ほれぼれとする教会だった。

 ベルギーに来て初めての蚤の市に、恋人に会うかのようなドキドキと胸高鳴る気持ちを抑えられない、言葉ではとても表現できない感情を隠しながら「市」の端から見始めた。様々なアイテムが並ぶその市は壮大だった。

家具、レース、洋服、楽器、アクセサリー、食器、人形、オモチャ、カメラや時計なども並んでいた。大好きな銀のカトラリーに目を奪われているときに肩を叩かれた。

「文!」

振り返るとトーマスだった。文は、銀のカトラリーに心奪われていたはずなのに、一瞬にしてトーマスへと心と目が動いていた。

「トーマス!会いたかったぁ。今日、店長にもトーマスに今週は会えていないの、っていう話をしていたところだったのよ」

「文がアンティークマーケットに興味があるなんて思わなかったから、僕もびっくりだよ」

「あれ?私話していなかったかしら?こっちにいる間に小さなものは今のうちに仕入れておくつもりなのよ。その為にも目を肥やさなくちゃいけないでしょ?だから大好きを通り越して、アンティークを愛しているの。まぁ、あくまでも趣味と仕事の間のようなところだけどね。でも、トーマスに会えたことの方がもっと幸せ」

「でも今、そのシルバーカトラリーに目が釘付けだったよ」

「だって、素敵なんだもん。それにどんな風に使っていたのかな~って、考えていたの。トーマスはアンティークに詳しいの?」

「詳しいわけではないけど、好きだから多分、文よりも沢山のマーケットを見ていると思うよ。道具類は特に好きかな?ほら、このアイロンとかね。これは、この中に熱い石を入れてアイロンとして遣っていたんだよ。石とアイロンの重さと熱で衣類のしわが伸びるのさ」


トーマスといると何もかも幸せ色になる。その上、共通の趣味があるなんて文には心強かった。

「トーマス、今日このままアンティーク巡りに付き合ってくれる?」

「もちろんだよ。文が言わなかったら、僕が同じセリフを言うところだったよ」

文はあまりにも嬉しくて、トーマスの腕に巻き付いて喜んだ。突然の文の行動にトーマスは驚いたが、文のこれらの行動には段々慣れてきていた。

(文のこの行動は僕だけに向けられて、誰も知らない行動であることが何よりも嬉しいよ)


トーマスは、サブロンの市の中をくまなく案内し、文の質問にも分かりやすく説明をした。分からない所は店主に聞き、文にも分かりやすく伝えた。文は、自分が買い付けのバイヤーにでもなったかのようにトーマスの情報を頭の中にインプットしていった。

(学校の勉強もこれくらい覚えられたら良かったのになぁ)


トーマスが仕事後の文を気遣い、カフェに入ろう、と誘った。文は、トーマスもカフェ店員であるので喜んで応じた。トーマスがカフェで働く時間は、文は「ゆかり」で働く時間なので、トーマスの働く姿を見られないのである。


「トーマスは、どんな制服を着ているの?」

「カフェの時かい?制服なんてないよ。ここのカフェの人と同じさ。でも、上着は襟付きのものにしようとは心がけているよ」


文はトーマスの顔を見ながら、トーマスの働く姿を想像したら、ドキドキしてきた。


「変な顔で何を見ているの?」

「トーマスが働く姿を想像していたの。カッコイイんだろうなぁ~ トーマス目当てで来る女の子とかもいるんじゃないかなぁ?」

「そんな子いないよ!僕も文の働く姿見たいなぁ~」(本当は一度だけ見たけど)

「私は全く変わらないわよ。この服にエプロンつけるだけだもの。それにトーマスはお店に来てくれて、私のエプロン姿見ているでしょ?」

「そうだけどさ・・・ずっと見ていたいんだよ」


暫く珈琲を飲みながら、互いに見つめ合っていた。ふいに文は、昨日の八重たちとの会話と先程の豪の話を思い出し、トーマスにマロニエ祭の話をした。


「凄いじゃないか、文。実演なんてさ。僕も文の書道の姿に感動したベルギー人の一人だから、他のベルギー人にも喜ばれると思うよ。それに、僕もボスの手伝いが出来るなら文と同じ場所にいられる、ってことだから嬉しいよ。是非、ボスのお手伝いをさせてほしいよ!」


カフェをあとにし、トーマスがこのままグラン・プラスのアンティークショップへ行こうと誘ったので、文は微笑んだ。

「二人が初めて出会った、あのお店ね?私はトーマスって気付いていなかったけど」


サブロンから緩やかにセントラル方面に向かって上っていき、トーマスお気に入りの店に到着した。生憎、店は休みだった。が、ショゥウィンドゥのライトが点いていたので、並べられた商品を窓越しに見ることが出来た。

出会ったあの時のように。文は夢中になって覗いた。文のお気に入りは、珍しいポストカードであったり、レースやブレード、刺繍されたリネン、缶、ボビンなどだ。


「女性らしいものが好きなんだね?」

「だって、女性だもん!」

トーマスは、小さな子供にイイコ、イイコとするように文の頭をポンポンと優しくなでた。その感触が文は嬉しかった。


 *****


「ねぇトーマス、明日は何か用事がある?」

「何もないよ」

「明日、私とピクニックしない?」

「ピクニックって何?」

「お散歩して、ランチして、またお散歩して・・・」

「いいね。行こう!」

「ランチは私が作るから楽しみにしていてね。ストッケルの食材でトーマスをおもてなししたいの」

「文ありがとう。明日が楽しみだ」


七時を過ぎ、トーマスが言った。

「明日も会えるから、今夜は帰ろうか?」

「そうだね。帰ってからピクニックの準備をしなくちゃ」

「ピクニックだったら、テルビューレンの公園に行ってみない?」

「トーマスのオススメ?」

「そうだね。とってもきれいな所だよ。公園に行くまでの道のりも、ね」

「じゃあ、そこがいい!楽しみにしているね。帰ろうか? ねぇトーマス、私、このグラン・プラスがやっぱり、とても好きなの。また、一緒に来てくれる?」

「もちろんOK。また来ようね」


セントラルの駅から、文のアパート方面に向かう地下鉄に乗り、トーマスはムロードで乗り換える為に降りた。

「じゃあ、明日、十時にモンゴメリの駅で待っているよ」

トーマスは文が見えなくなるまで手を振って見送っていた。


次の日の朝、ベルギーにしては珍しく青空が垣間見える日曜日だった。天気は問題なしのようだ。

文は、昨夜仕込んでおいた、「唐揚げ」を揚げて、スパゲティサラダを添えて、アルバイト先で購入した「さつまいも」で、スイートポテトを作った。パンは、アパート近くにあるデレーズのパン。文はここのパンが好きだった。最後に水筒にたっぷりの熱いコーヒーを注いだ。「唐揚げ」の臭いは「魔物」だ。散歩の途中でプ~ンと香りがしたら、文は百パーセント腹が「グゥ~」と鳴る自信があった。だから、密閉容器に詰め込んで、匂いが漏れないように配慮した。

「トーマス、気に入ってくれるかしら?」

勢いよく誘ってしまったけれど、文はトーマスの好みも聞いていなかったし、大丈夫かが心配になった。もし、好きな食べ物でなかったらどうしよう?という不安が急に押し寄せてきた。

(公園だったら、フリッツやサンドイッチの屋台が出ている可能性も高いから大丈夫かな?途中、食べるものを見つけたら、トーマスに聞いてみよう・・・)

喜びと不安も一緒にピクニックのバッグに詰め込んで、アパートを出た。


モンゴメリの駅で下車するのは初めてだ。トラムの始発駅でもある。今日はその始発から終点まで乗るのだ。


トーマスは、文が迷子にならないように、彼女が降りるホームで待っていた。

「おはよう、文。よく眠れたかい?」

「おはよう、トーマス。ドキドキして眠れなかったの。でも、ほら!」

と、弁当が入ったバッグを見せた。

「早くランチの時間にならないかな?楽しみだ」


44番のトラムに乗り、二人並んで腰かけた。窓側に座った文は、昨夜、興奮して眠れなかったので、トーマスが隣にいる安心感からついウトウトしてしまった。

トーマスは、心許して自分にもたれて眠る文がたまらなく愛おしかった。人生の中で一番幸せな時間だった。

(絶対に彼女の事をどんな事からも守ろう)


トラムは、ソワーニュの森に差し掛かった。トーマスは文を優しく起こした。

「文、起きて。外を見てごらん」

「え?あ!トーマス、ごめんなさい。寝ちゃった!」

「いいから。外を見てごらん」

トーマスが優しく微笑むので、安心して外を見た瞬間、文は未だかつて見た事のない風景がトラムの前方からも文の横の窓からも目に入ってきて、心奪われてしまった。トラムの線路の両側にどこまでも続く木々。木々のトンネルの中を走っているような、それでいて、木洩れ日から差し込むベルギーらしい優しい光がスポットライトのようだった。文は感動で言葉が出てこなかった。トーマスを握る手に思わず力が入ってしまった。そしてまた、その手を自分の胸にあてた。

トーマスは、それを見て、また幸せな気分になった。


「トーマス・・・なんて素敵な景色なの。ありがとう。とても気に入ったわ。なんて素敵なの?」

どこまでも続く緑のトンネルは異次元に向かっているような不思議な空間でもあった。隣のトーマスの顔を見る余裕などなく、ただただ景色を堪能していた。

 トーマスは、感受性の強い文の顔を見ることが自分の幸せの一部である事に最近気付いていた。

 しばらくすると、テルビューレン公園に着いた。テルビューレン公園は、ソワーニュの森の中にある公園なのだ、ということも初めて知った。

昨日文は、ピクニックの説明をするときに「散歩して、ランチを食べて、また散歩して」などと、少しいい加減な答え方をしたけれど、ここはその「ピクニック」にぴったりな公園だった。トーマスは自分と感受性が似ているのかもしれない。文はそう感じたら、ふっと笑ってしまった。


「何が面白いの?」

「もしかしたら、トーマスと私は似ているのかな?って思ったら嬉しくなっちゃった」

「そしたら・・今日は、二人の色々な事話をして確かめようね」

「そうね・・・楽しみ」


公園を歩いていたら、小さな屋台が出ていた。そこでは、フリッツとワッフルが売られているようだった。急に文は、弁当の事が心配になってしまった。


「トーマス、私ね・・・トーマスの嫌いな食べ物を聞くことを忘れてしまって、勝手に私が食べたいものを作ってしまったの。今日、このメニューを作ろう!って決めていて、昨日、お話していた時に、だったらトーマスと一緒に食べたら、もっと美味しくなるかも!って、勝手に決めてしまったの。ごめんなさい、トーマス」

「何を言っているんだい?嫌いな食べ物があったら、先に文に言っているよ。この食材だけは勘弁してくれよ、ってさ。それに、鶏肉料理だろ?ストッケルの話をしていたし。鶏肉は大好きだから安心していいよ」

文は、トーマスの優しさが嬉しかった。日本人の感覚に近い「優しさ」だと思った。

トーマスは、食べ物の話をしていたら腹が空いた、と言って笑った。昼にはほんの少し早かったけど、ゆっくり時間をかけて味わいながら食べたかったので、

「食べようか?」

と言ってみた。

「よし、あそこの芝生で食べよう」

トーマスは一面が芝生の場所を指さした。

(シート持ってきて正解!)と、文は心の中でガッツポーズをした。


芝生に到着すると、無造作にトーマスは座った。そこへ文がシートを広げた。

「何をするの?」

「ここに座るの。ここは、私のお部屋。だって、今日はトーマスをおもてなしするんだもの」


トーマスは、文のおもてなしにいちいち感動した。シートに座ると文がいくつかの弁当箱を並べた。スプーンとフォークを紙ナプキンにくるんできたので、それをトーマスへ差し出した。文は箸で食べることにした。

そして、最後に水筒とおしぼりを取り出した。紙コップにコーヒーを注ぎ、おしぼりを差し出して、

「トーマス、まずはこれで手を拭いて。日本人は綺麗好きなのよ」

文はおしぼりで手を拭いてみせた。

「日本人の男性は、ここで手の次に顔を拭くの。女性は絶対に拭かないわ。だって、化けの皮が剥がれちゃうから!」


トーマスは大爆笑だった。そして、思いっきり顔を拭いた。その姿に文はトーマスのノリの良さを喜ばしく思った。。トーマスはコーヒーを飲みながら、待ちきれない想いを伝えた。

「早くランチを見せてよ」

「見るだけよ~」

トーマスは少しすねた顔をした。文は、ゆっくりと丁寧に広げていった。

「この箱はお弁当箱。本当は、一人一個のお弁当箱なのよ。この前、大学で一緒に食べたでしょ? でもね、ピクニックや外のパーティの時は・・」

と言って、一つずつ開けてみせた。

「わぁ!なんて綺麗なんだ。凄いね、文」

「本当?嬉しい。美味しいと良いのだけど・・・これは、唐揚げ、こっちはサラダ。こっちはデザート。パンはデレーズよ」

と言って、ウィンクした。トーマスはハートが射抜かれたような仕草をした。

「食べてもいい?」

「もちろん。だって、トーマスに食べてほしくて作ったんだもの」


トーマスはその言葉を聞いて一瞬手が止まり、少し泣いているように文には見えた。色々な想いが溢れて胸がいっぱいになっていた。デュルビュイを離れて、休日をこんな風に過ごせる日が来ることも、母を失ってから、自分のために女性からの愛情こもった料理が食べられる事も、精神的に満たされた日が来ることも、自分を頼ってくれるパートナーが出来た事も全てが夢のような幸せだった。文は、トーマスが嬉しくて泣いたのだと思ったので、あえて何も言わなかった。代わりに優しく彼に微笑んだ。


トーマスは、まず唐揚げを食べた。

「さっきから凄く美味しそうな香りがして、たまらなかったんだ」

一口食べると、彼は目を丸くして叫んだ。

「旨い!文、旨いよ。どうしてこんなに美味しいものが作れるんだい?」

「日本人ならみんな作れるわよ」

「いや、僕は文のから揚げ以外は美味しいとは思わないと思うよ。次は・・・サラダ食べてもいい?」

「どうぞ、召し上がれ」

「え?これはパスタかい?これも美味しい。初めて食べるサラダだ。これも旨い」

「ありがとう、トーマス。すっごく嬉しい。じゃあ、デザートも沢山作ったから一つだけ先に食べてみて?」

と言って、スイートポテトを差し出した。日本のお弁当のおかず入れによく使うアルミパックにいくつも作った。ひと口で食べられる大きさの方がいいと思ったからだ。


「なんだ?これ。ポテトかい?甘いけどなんだろう?」

「そうよ、日本のポテト。さつまいも、っていうの。フリッツとは違って、甘いポテトなの。日本人の女性が大好きなポテトなのよ」

「文・・・君は本当にスゴイ女性だ。ランチは、やっぱり、ゆっくり食べようね?」

「うん、そうしよう。どれも気に入ってくれて嬉しい。トーマス、ありがとうね」

文は、トーマスが喜びながら食べる姿を見た時に一瞬、自分の未来が見えた気がした。トーマスと自分と子供がいる家族の風景を見た気がしたのだ。


「文は、これらの作り方をどうやって覚えたの?」

「小さな頃からお手伝いをしていれば、自然と身につくものよ」

「日本人の女性はみんなそうなの?」

「多分、みんなそうだと思うよ。苦手だ、っていう人もいるけど、大抵の女性はみんな作れるんじゃないかな?」

「ベルギーの女の子たちは、こんなこと出来ないよ、絶対に。お菓子なんて絶対に作れない」

「トーマスが知らないだけじゃないの?」

「ん~そうかもしれないけど、僕の母さんはやってなかったよ。それにベルギーの料理はこういう料理じゃないんだ」

「そうなのね。これから色々教えてもらわなくちゃ」

「これからも文の料理を食べること出来る?」

「もちろんよ。また、ピクニック行けばいいし、大学でも食べようよ」

「良かった。嬉しいよ。ありがとう」


一瞬、文は「家に行きたい」などと言われないか不安だったが、トーマスは純粋に文との時間を楽しんでいた。豪の忠告も守っている。


 二人は一時間以上かけて、お互いの話をしながら食べることを楽しんだ。文が最も求めていた時間だった。

「この前、文がエツコさんへのお弁当を食べさせてくれただろ?あの料理は、母さんが亡くなって以来、女性が作った初めての料理だったんだ。それが文で、心から嬉しいんだ。母さんの料理を最後に食べたのはいつだろう?本当に文の手料理は美味しいよ」


文は、先程のトーマスの涙の訳を知った気がした。

「そっかぁ。喜んでもらえると私もますますトーマスのために作りたくなっちゃうな。でも、日本食っぽくなっちゃうけど、これからはトーマスの好みも研究して頑張るね。私ね、料理が上手と言う訳ではないけど、キッチンに立つことが好きなの。勿論、疲れた時は何もやらないのだけど、ね。特にストレスがたまっていたり、逆に凄く幸せな気分の時は、お菓子を無性に作りたくなるの。部屋中があま~い香りに包まれると、ストレスもなくなるし、幸せの時は幸せが倍増するの」

「文は面白いね。考え方が独特でいつも面白いな、って思うよ。さて、食後の散歩でもしようか?」

トーマスが言って、その場を片づけた。来る時に少し重かったバッグが二人の胃袋に収まった為、軽くなっていた。お弁当箱もスタッキングできるものにしたので、コンパクトにまとめることが出来た。トーマスはてきぱきと片づけていく文の姿に感心していた。


 散歩のときの二人の距離は、来る時よりも更にトーマスが縮めてきた。文がトーマスの胃袋をつかんだ事もあったが、文のトーマスへの溢れる想いが伝わっていたので、自然な事だった。


「実はね、私、ピクニックは初めてなの。学生の頃の遠足以来かな?」

「えぇ????」

「でも、初めてのピクニックがトーマスで良かった。日本ではね、お花見と言って、桜の木の下でパーティをすることがあるのだけど、外でのご飯はお花見以来かな?これが、お花見だよ」

と言って、スマホを取り出し、日本の会社での「新人歓迎会兼お花見」の時の写真を見せた。


「これが桜なの?きれいな花だね。ベルギーで見た事がないよ。文はこの写真でどこにいるの?」

「ここよ・・・」

指さした先の文は、今の文とは全くの別人だった。

「文はこの時、病気だったの?」

「そう思うよね。とっても元気だったのよ、これでもね。ただ・・・とっても心が疲れていたし、死んでいたの」

「そっか・・じゃあ、ベルギーに来てくれて良かった」

「本当に良かった、って思うよ。店長や習字の先生、お花のエツコさんに学校の八重さんや貴子さん。素敵な大人がベルギーには沢山いて、そして・・・トーマス、貴方がいるんだもの」

文は、トーマスを見上げた。トーマスは身長が高いので、文はいつも見上げなければ、トーマスの顔を見ることが出来ない。トーマスを見上げた先に秋の空が広がっていた。トーマスの優しさと秋の空が、とても似合っていた。遠い昔、こんな風景を見た気がしていた。


 テルビューレンの公園はどこまでも美しく、一日歩いていても飽きない公園だった。あちこちで子供たちが走り回り、あちこちで文とトーマスのように恋人たちが愛を語り合い、また一人の時間をまったりと過ごす大人達がいたり、日照時間が限られているベルギーなので、日光浴をしている家族も沢山いた。


 しばらく散歩をして、芝生にもう一度座ることにした。文は、トーマスの事をもっと知りたかったので、彼に質問をした。普段、どんなことを大学で学んでいて、大学が休みの日は何をしているのか?など聞きたい事、知りたい事が沢山あった。


 彼は、いつものように文に分かりやすく、ゆっくりと話した。二人の会話は基本、フランス語ではあるが、文が分からない言葉をトーマスは英語に切り替えて話をしていた。時には、文がいつも持ち歩いている手帳にペンで絵を書いたりもした。文は、和仏辞典と仏和辞典、どちらも薄い簡単なものだが持ち歩くようにしていた。文が和仏辞典を持ち、トーマスが仏和辞典を持ちながら話すことにしていた。

文は、自分の語学力が未熟なことを承知していたので、二人の会話を少しでもトーマスにストレス無くすためにどうしたら良いのか?を考えての対策だった。

彼は、辞典の意味を理解すると優しく微笑んだ。

「大丈夫。文は頑張っているし、少しずつ上手くなっているよ。もっと自信を持つんだよ」

文は、トーマスに語学で甘えないようにしよう、と心に決めていた。


 日が傾き始めたので、二人は公園をあとにした。帰りのトラムの旅も最高に素敵だった。緑のトンネルを終えると、また文は、トーマスの腕の中で眠ってしまった。トーマスは、心から彼女を守り続けたいと思った。

(まずは、兄さんに報告しよう!)


モンゴメリの駅に到着した。文はトーマスと距離が近くなった分、離れがたい気持ちになっていた。この一週間なかなか会えなかったことも要因だ。トーマスはそれを察して、

「文、離れたくないんだよね? 僕も離れたくない。でも、僕達にはやらなくちゃならないことが沢山ある、って僕は、今日感じたよ。文、それは僕にとっては君を守るためにやらなくちゃならない事なんだ。君は、どうしてベルギーに来たんだい?それをやり遂げなくちゃならないだろ?また上手くいけば明日、会える。ねっ。だから今日は帰ろう。今日は本当にありがとう。人生で一番幸せな一日だったよ。忘れられない。これからもこういう日が続くのかと思うと本当に君に会えて幸せだ。オベントウも美味しかったよ。ご馳走様」

そう言って、トーマスを見上げる文に優しく微笑んだ。


「トーマス、お願いがあるの。そこに座ってくれる?」

文は嬉しすぎて、幸せ過ぎて、トーマスと離れることが寂しすぎて、その気持ちを表現したくて近くにあったベンチにトーマスを座らせた。そして、トーマスの後ろに回りそっと、彼を抱きしめながら話した。


「いつもトーマスに守られて本当に幸せなの。でも、その御礼がしたくても、私はチビだからいつも、結局トーマスの胸の中になってしまうでしょ?こうして私が抱きしめてあげることが出来なくてもどかしかったの。トーマスの背中は大きいね。トーマスの胸の中も背中も私にとってはユリカゴみたいに安らげる。いつもありがとう。今日もありがとう」


トーマスは、背中から感じる文のぬくもり、彼女の愛情がたまらなかった。彼女の心臓の鼓動も感じていた。トーマスは暫くそうしていた。そして、文の両手を掴み、上に持ちあげて、くるっと文の方を向いた。そして、文を横に座らせて、今日、トラムの中でもそうしていたように文を抱きしめた。


「文は、僕の事をそう思っているのかもしれないけど、実はこうしていて、一番安心しているのは、僕の方だと思うよ。守っているように見えて、実は僕が守られているんだ。文っていう存在にだよ。文は自分の良さを全く理解していないけど、君はそういう女性だ」


文は嬉しくて大粒の涙をこぼした。文が泣き終えるまでトーマスはそのまま待っていた。泣き終えると、文もスッキリしたので立ち上がった。

「私ね、フランス語が少し上手になったみたい。トーマスのおかげだね。ありがとう。トーマスは、話し方がとても上手だから私にも理解しやすいの。早く、トーマスが普通に話せるレベルまで、頑張って勉強するね。お弁当も美味しい、って言ってくれてありがとう」


 トーマスは文の地下鉄まで付き添い、彼女を乗せると、また彼女の地下鉄が見えなくなるまで手を振り見送った。

文はトーマスと別れ、自身の意外な感情表現に驚いていた。男性の前で涙など・・いや、人前で涙など見せた事も無かったのに、トーマスに会ってから、私は一体どうなっているのだろう?と戸惑っていた。

 トーマス・・・本当に不思議な人だ。とても年下に感じない魅力の持ち主だ。私の心を見抜く力がとてもある。トーマスにとってはスケルトン状態のようなものだ。だから、肩に力を入れずにありのままでいられる。取り繕ったところで彼には見透かされているからだ。それをどこかで分かっているから飾らなくていい。

彼を愛している…愛し続けたい…愛されたい。

でも、自分を見失ってもいけない。店長もトーマスもそれを言っていた。もう一度、いや、これから毎晩、眠る前に自分と向き合う時間を作ろう。そして、それをひと言フレーズで日記のように残そう、と思った。

(人間は幸せな事も嫌な事もすぐに忘れる生き物だから)


今夜は・・「トーマスを愛している。愛し続けたい。トーマスに愛されたい」


 文と地下鉄で別れたトーマスは、自分の気持ちにブレーキをかけられたことで自分を称賛していた。文のボスから日本人の女性に対して、ベルギーの女性と同じようにしてはダメだ、と忠告されていたし、特に文は典型的な日本人女性だ、と言われていたこともトーマスの心にブレーキをかけた原因だった。本当だったら、自分のアパートに連れて帰りたいくらい幸せだった。ずっと、気のすむまで(そんな時間は永遠に来ないけれど)離したくなかった。でも、文の心はトーマスと同じであると確信していた。確信しているのに何故か不安だけが募る。それは、彼女がいずれ日本に帰ってしまうから、ということも分かっていた。学生である自分には彼女を引き止める事は出来ない。早く一人前になって彼女を連れ戻したい。ボスが言うように、自分の足元から固めなくてはいけない。

(今日まで曖昧な気持ちで大学の勉強をしていたけれど、もっとしっかり考えよう。どこかに必ずヒントがあるはずだ)

そして、ふと兄のエリックの顔が浮かんだ。


「兄さん、トーマスだよ」

「おぅ、久しぶりだな。トーマスが電話してくるなんて珍しいな。勉強はどうだ?順調か?あと二年だな?」

「うん、本当にお金の事助けてくれてありがとう」

「少ししか助けていないよ。学費はお前が卒業したら払っていくものだから、実際にはお前の力で大学に行っているようなものさ」

「いや、アパートの事も生活費だって父さんと手伝ってくれているじゃない?本当にありがとう。今日はさ、兄さんに相談というか、報告があるんだ」

いつになく神妙な弟の声音に兄のエリックは少し心配になった。


「僕ね、彼女がいるんだ」

「わぉ!すごいじゃないか!おめでとう!トーマスがそんな事言うのは初めてだよな。紹介してくれよ」

「勿論、いつか紹介したいよ。ただ・・彼女は日本人で、留学生なんだ。来年の夏には日本に帰ってしまう。二つ年上なんだよ。でも、僕は彼女を一生、大切にしたいし、守りたいんだ」

「そうなんだね・・・じゃあトーマス、お前が日本についていくのか?」

「そこが分からないんだ。自分でもどうしたらいいのか分からない。ハッキリしているのは、彼女とずっと一緒に居たい。彼女を守るのは僕じゃなくてはいけない、って僕が決めている事なんだ」

「それだけで十分だろ?先を急ぐ必要はない。一つずつ先に進めばいい。父さんのことは気にするな。俺がいるから。今はとにかく勉強を頑張れ。でなければ、働いて彼女を守る事も出来ないぞ。沢山学べば、トーマスのまだ知らない未来のどこかで役に立つかもしれないだろ?選択肢も学んだ数だけ増えるはずだ。今は学ぶことがトーマスのやるべきことだよ。彼女もトーマスとは別れたくないはずだ。だとしたら、一旦日本に戻っても、彼女も考えるだろ?そうやってお互いが考えて、二人にとってのその時の最善策を選びながら進んでいけばいい。

 例えば、来年は離れていても、再来年はベルギーに二人で生活する。三年後には日本で生活しているかもしれない。誰も分かりはしないよ。大事な事は二人の気持ちが離れない事じゃないかな?トーマスが不安でいたら、彼女も不安になると思うよ。不安ならその不安を彼女に言えばいい。彼女も同じ不安を抱えていれば二人で分かち合えばいいんじゃないかな?俺なんて分かち合う相手もいないんだぞ」

「そうだよね。やっぱり電話して良かった。春休みに彼女を連れてデュルビュイに行きたいと思っている。兄さんもその時は来てくれるよね?」

「あぁ、もちろんだ。それまでに父さんには俺から話をしておくよ」

「いつもサポートしてくれてありがとう。おやすみ」


エリックは、弟の告白が嬉しかった。兄を頼って電話してきてくれたことも嬉しかった。国籍なんて関係ないと思っていた。両親もベルギーとフランスの国際結婚だ。トーマスの場合、少し相手が遠い国籍なだけだ。どんな女性なのだろう?あんなに子供だと思っていた弟を一気に「大人」にさせてくれた相手は?と文に会う事を楽しみにした。


月曜日。

文は、夢のような日曜日から目が覚めて「フランス語」との戦いの場に出撃するべく大学へと向かった。

しかし、先週までとは違い、どこかトーマスとの会話でほんの少し聞き取れるようになったことは自分でも感じていた。何故なら、日本人家族からガレージセールで譲り受けた今朝のテレビから流れるフランス語が格段と聞き取れるようになっていたからだ。恋の力はすごい!!

最近、夢の中も日本語ではなく、フランス語と英語が混ざった夢であることが、起きてから笑える出来事である。慣れるという事は偉大だ。これこそが文が望んだ環境だからだ。甘えた環境でなく、自分で切り開く環境を作らなくちゃいけない。上手く耕せてきたのかな?とボンヤリ通学のバスの中で感じた。


(トーマスは、大学を卒業したら、デュルビュイに帰るのかな?お父さんもお兄さんも近くに住んでいるのだから、きっとトーマスもアッチの方で就職するんだろうな~。この先、私達はどうなるのかな?私は、一年後には帰る。その先の事は今は全く分からない。だって、それを探すためにベルギーに来たんだもの。それがトーマスという存在なのだろうか?)


今日のひとこと。

「私がベルギーへ来た目的の一つは(ベルギー人に恋をする事)。

その他に忘れてならない事は、フランス語が話せるようになること、習字で師範の看板をとること、カフェで働けるようになること。お花のアレンジメントの技術を身につけること、今のところはこれくらいだけど、もっと色々な事にチャレンジしたい。この想いを常にトーマスと共有したいわ」

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