第2話 二つの想い ~セルクラースに願いを込めて~

 トーマスは文の事ばかりを考えるようになった自分に気付いていた。

(この気持ちって・・・何だろう?彼女の事を何も知らないのに、どうしても気になってしまう。彼女はあの駅にまた、現われるのだろうか?彼女はいつもどこへ向かうのだろう?)

 頭の中は、文の事をもっと知りたい気持ちで、いつの間にかいっぱいになっていた。

 月曜日、トーマスは、アーツ・ロワの乗り換えホームで文を待っていた。文に会う時は、いつも違う時間だったので、一番早い時間に会った、文がイノにカーテンを購入した日の朝の時間に合わせて待っていた。文には気付かれたくなかったので、用心した。ラッキーな事に文は、その時間に現われた。彼女の後方からゆっくり彼女の後を追った。

彼女はナミュール駅で降りた。トーマスも続いて降りた。彼女は地上に出ると通いなれたように目的地に向かって歩いて行った。彼女との距離をなるべくとって歩いたトーマスは、彼女が駅を出て程なくした所にあるビルの中に消えていくのを確認した。

見ると、トーマスには馴染みのない漢字で書かれた看板のあるビルだった。「縁(ゆかり)」という文字の横にフランス語、フラマン語でも同じ意味の言葉が書かれていた。その言葉を見たトーマスは、文との縁を感じて、看板を見上げたまま、その場に暫く立っていた。


 次の日、トーマスはカフェのアルバイトだったので、文に会えるか心配だったが、幸運な事に遠くからではあるが、文をアーツ・ロワで確認することが出来た。今日もナミュール方面のホームに立っている姿を見て確信した。

(彼女は、あのお店で働く従業員だったんだ・・・僕は決めたぞ!)


 次の日の水曜日、文は休みだった。久しぶりの休みだったので、心行くまで眠る事にした。そして、アパートの片づけや買出しなどをしようと決めていた。伊藤ファミリーが消耗品まで譲ってくれたので、本当に助かった。一人暮らしの文にとっては、しばらく買わずに済むほど沢山譲り受けていた。その分、食材に回すことが出来た。譲り受けた物の中には、しょうゆ、ソース、塩などの調味料や調理器具まであった。日本人からのものなので本当に助かる物ばかりだった。「ゆかり」で売られているものも沢山あって、お得意様だった事を容易に想像できた。


 一方、トーマスは、昨日と同じ時間に文を待っていた。今日こそは声をかけようと思っていたのだ。ところが、文が休みであることを知らないトーマスは、アーツ・ロワで待ちぼうけをしていた。一時間ほど待って、文が現れなかったので、店に直接行く事にした。

 店の前に立って、勇気を振り絞り、ゴクリと唾を飲み込んで、店のガラス扉を開けた。トーマスの姿を見たスタッフ達と豪は、声をかけた。

「いらっしゃい!」

トーマスは、日本語の意味は分からなかったが、挨拶をされたことは想像できたので「ボンジュール」と挨拶を返した。

店内をグルグル回って文を探したが、どこにもいなかった。今日は声をかけよう!と勇気をもって家を出たから、文がいない事を諦められなかった。

グルグル回るトーマスを見て、豪は声をかけた。

「何の商品を探しているのかい?」

「ごめんなさい。商品でなく、人を探しています。多分、日本人の女性なのですが、いませんか?」

豪は、一瞬警戒をして強面な顔と声で問いただした。

「その人にどんな用事があるんだい?」

「あ、申し遅れました。僕は、トーマスと言います。ULB大学に通っていて、普段はアーツ・ロワ駅近くのカフェで働いています。あの・・・言いにくいのですが、先日、彼女がアーツ・ロワの駅で、階段から落ちそうだったので、僕が横にいたから、階段から彼女が落ちないように腕を掴んだのです」

「おぉ!!君がその時の男性だったんだね?」

「え?知っているんですか?」

「おぉ、ちゃんと聞いているよ。助けてくれてありがとう」

「いえ、僕は支えただけなのですけど・・・。あの時から、何故か彼女とはアチコチで偶然会う事が多くて・・・彼女は気付いていないと思うのですが、その前にも実は一度会っているんです・・・」

文がベルギーに入国した次の日にグラン・プラスへ豪の勧めで行った日の事や階段から落ちそうになった日のこと、その後も何度もアーツ・ロワで見かけた事、金曜日にモンゴメリ駅で会った事、その時も含めて2度ほど話すことが出来た事を豪に詳しく話をした。

豪は、聞きながら裏のバックヤードへトーマスを案内し、店をベルギースタッフ二人に任せた。

トーマスは更に自分の溢れる想いを豪へ話し続けた。

何故か文の事が気になって仕方がなく、毎日、文のことばかりを考えるようになり、いけないとは思ったけど、文の行き先を知りたくて、一昨日この場所にたどり着いた事。お店の名前を見て、文との縁を感じた事などを話して、自分は文に恋をしてしまったのではないか?と思って、想いを彼女に伝えようと勇気を振り絞って今日は家を出てきたのだ、と言った。


 豪は黙ってトーマスの目をじっと見て話に耳を傾けた。トーマスはそのじっと見る瞳を見て、ありのままを伝えた方がよいと思い、素直な気持ちで話を進めた。

豪は聞き終えると、しばらく黙って、ようやく重い口を開いた。


「君の気持ちは分かった。彼女に君自身が直接伝えるべきだと思う。但し仕事中はダメだ。そして、ここを突き止めたように彼女の家を突き止めるようなことはしないでほしい。彼女は日本人だ。いずれ帰国する子だ。

 それでも彼女を好きでいられる自信があるのなら、明日、夕方三時に仕事を終わらせるようにするから、ここへおいで。もし、君が可能だったら、二時半頃、俺に電話してくれないかい?裏から君を招き入れてあげるから、彼女の働く姿を見てごらん。

 俺は彼女のベルギーの父親だ。変な男に彼女を絶対に渡せない。そして、彼女を好きになるのであれば、彼女がどんな覚悟を持ってベルギーにいるのかを知った方が良いと思う。その為には彼女の働く姿を見ることが一番だと思うよ。


 今、店に二人のベルギースタッフがいるだろう?彼らは彼女よりもずっと長くここで勤めている。しかも言葉に不自由もない。だがね、あの子一人がいてくれたら、他のスタッフがいらないくらい彼女の仕事は完璧なんだよ。このバックヤードを見てごらん。仕事を何も知らない君が見ても、何がどこにあるのか、価格も取引先も一目瞭然だろ?彼女はたった一か月でここまで整理整頓してくれて、仕事が数段効率よく運べるようになった。

 あの子が休みの今日のような日は、大忙しなんだよ。俺をサポートしてくれる人がいないからね。ほら、一人はボーっとレジ前に立っているだけだろ?もう一人も品出ししかしていない。明日の彼女の動きを見ているといいよ。君に彼女を好きになる覚悟があれば、の話だけどね」


と言って、豪はウィンクをした。トーマスは、立ち上がり

「明日、必ず来ます。そして、彼女に気持ちを伝えます」

と言って、豪に礼を述べてから、ゆっくりした足取りで店を出た。


 豪は、ベルギーに永くいるので、ベルギー人のことを、特に男性を見る目はなかなか自信があった。その豪がトーマスの話を聞いて考えた。


(最近見ないなかなか骨のある子だな。だから文を助けることが出来たのかもしれない。多分、文も好意を寄せているはずだ。文にとって良い方向に導ける男だったらいいのだけど、彼は文の彼氏として相応しいのか、そうでないのか?)


 トーマスは、少し驚いていた。人を好きになる事に「覚悟」を求められた事等なかったからである。でも、豪の言う事はもっともだと思っていた。彼女がいつか帰国してしまうのなら、それまでの期間限定の関係で満足なのか、そうでないのかはとても重要だと思った。彼女の事をまだ知らないのだから、キチンとした答えなど出せるわけがない。でも、彼女の事を好きな気持ちは事実だ。そして、守りたい気持ちも事実なのだ。彼女が自分を嫌いだったら、この恋は終わりになる。でも、想いを伝えなければ何も始まらないし、彼女の気持ちも確認できない。


 高校生まで小さな村にいたトーマスにとって、この恋は初めての大冒険なのである。大学生になってからは恋すらしていなかった。ブラッセルの生活に慣れることに必死だったからである。

そんな自分の心が解放されて一人の女性を好きになった。自分がこの恋を大切にしなければいけない、と強く感じた。何かに導かれるように強く彼女に惹かれた。

 今日、文が休みだったことは、トーマスにとって幸運だったのかもしれない。勢いで想いを告げたところで、うまく伝えられなかったと思えたからだ。

トーマスは豪の事を懐の深い男性だ、と思った。こんな自分の話を真剣に聞いてくれた上にアドバイスもしてくれた。今夜はもう一度、文の事、自分の事を真剣に考えたいと思った。

 翌朝、文は充分な休みを満喫できたこととアパート周りを散策して想像以上に住みやすそうな環境にワクワクしていた。昨日のトーマスと豪との事など何も知らない文は、アーツ・ロワで乗り換えるために降りた。ふと、トーマスの事を思い出していた。思い出した瞬間、例の階段を前にしたら少し不安になった。

(そういえば、この階段が出会いだったんだよなぁ・・・)


すると、後ろから文の腕を軽く掴み、彼女をエスコートする人影が現れた。

文は驚き、大きな声を出しそうになり、振り返って、慌てて口を押えた。助けてくれた彼だった。


「おはよう。やっと会えたね!」

「え?おはよう・・・」

「この前も偶然、地下鉄の中で会ったでしょ? あれからずっと君の事が気になっていてね・・・。この前もこの位の時間だったから、もしかしたら、同じ時間にこの駅で待っていたら会えるかな?って、思ったわけ。僕は、君に凄く会いたかったんだ」


文の胸の奥でキュン!となった。

(この前は、お店がお休みの時だったから、会える確率なんて低いのに、なんてストレートな表現なのかしら?彼は私の事なんて何も知らないのに、なんで?)


咄嗟にバッグを持っている方の手で胸を押さえた。

「どうしたの?また、気分が悪いの?」

「違うの。今日は大丈夫よ。昨日、お仕事が休みだったから、エネルギー満タンよ」

「そっか・・・じゃあ、胸は痛むの?」

「ううん、・・・大丈夫」(ドキドキしているなんて言えないじゃない!)

「よかった。じゃあ、また! また、会えるよね?」

「うん、きっとね。またね、ありがとう」


文は、日本を旅立つときの成田空港でのフワフワした空気を思い出していた。あの時に感じた甘い空気。でも、ここはベルギーの地下鉄駅構内。お世辞にも良い香りとは言えないし、むしろ汚物臭がするくらいだ。でも、今の方があの成田空港の時よりも甘くて「ぬくもり」がある。片方の腕から伝わってきていたぬくもりだ。

彼はナミュール駅へ向かうホームまで付いてきて、そこで別れた。


(あの人の言う事を信じていいのだろうか? それともこれは、ベルギー風の挨拶なの? なんてストレートな言い方なんだろう?これが外国人のコミュニケーションなの?それとも、ナンパ?)

ふと不安がよぎる。豪にまた、相談したくなった。


 今日が始まったばかりなのに、突然の出来事に文は、頭の整理が追い付かなくて、かなり動揺していた。

 出勤してきた文の話を一通り聞いた豪が、何だかとてもご機嫌でいる事が文には意外だった。


「縁だよなぁ~ ここに初めて来たときの文はさ、どこか擦れていて、誰の事も信用していない目をしていたよな?でも、この前助けてもらった男にそんなに何度も偶然にアチコチで会えるものなのかな?(縁)を大切にしろよ。文は日本人だ。日本人っていう人種は(縁)を大切にする民族のはずだ。そして、その精神は必ず異国の民族にも伝わる。その証拠がこの店だ。日本人よりもベルギーの人達の方が買物に来るだろ?そういうことだ。だが、俺の目でもその男の事を確かめてみたいから、もし付き合うなら、ちゃんと俺に紹介するんだぞ。ナンパかどうかは、そんなモノ万国共通だ!必ず文にも直感でわかるはずだと思うし、俺が見ればわかる。いいな?急くな。自分を大切にしろよ。文の身体も心も一つしかないんだからな。いいな?」


 トーマスの気持ちを昨日聞いていた豪は、早速トーマスが行動に移した事に彼の「覚悟」を感じていた。文にそこまでの気持ちがあるのかどうかは分からないが、トーマスがどうであるかが豪にとって、重要な事だったので、文の事は優しく見守ることにした。


 文は豪の事を凄いと思った。文が不安に感じていたことを言わずとして理解してくれていたからだ。心強かった。

(付き合うなら店長に紹介してから・・・)

そう言ってくれたことが、自分自身にどこかブレーキをかけてくれて、安心だった。「恋」と呼べるかどうかはまだ分からないが、前向きに考えることが出来た。なぜなら、文自身もトーマスのことが気になっていたからだ。

(異国の地で恋が出来るなんて!)


 語学やベルギーでの生活につまずいて、部屋に引きこもっていたら、こんな気持ちを体験出来なかった。美味しい物にも巡り合えなかった。ベルギーで「習字」になんて出会えなかった。そして、「彼」にも・・・彼にも会うことが出来なかった。


(小さな一歩って大切。小さくても前に進むことが大切。何よりも、日本のあの会社に居たら、決して味わえなかった。二年かかったけれど、勇気を出して来てみて本当に良かった。小さな一歩が恋という、こんなに大きな奇跡になり始めている)


その日の店はとても忙しかった。文はキャッシャー、品出し、調理に追われた。

トーマスは、アルバイトを二時で終わらせて、「ゆかり」へ向かった。豪の電話へ店に向かいながらしてみた。豪は快く裏口を案内し、そこから入ってくるよう命じた。


「文、しばらく俺は裏にいるから店を頼むぞ。何かあればインカム使え」

「はい!分かりました」


豪はバックヤードに消えると、裏口に向かいトーマスを招き入れた。

「おかえり。よく来てくれたな。さぁ、入りなさい。今、店も落ち着いたところだ」


豪は、トーマスに店内のカメラのモニターを見させた。

「彼女の仕事は、実に丁寧でお客様の事、仲間の事を見ながら動いている。そこをよく見てほしい。俺も長くこの仕事をしているが、あんな子は初めてだ。日本でもかなりハードに働いてきたはずだ。君とそんなに歳が違わないのにな? 日本に帰したくないくらいなんだよ」

と言って、文の映るモニターを指さして目で追わせた。

 画面の中の彼女は実によく動きまわる。そして、客やベルギー人スタッフの動きも目の端でよく見ている。一人で何役もこなしていく。客に呼び止められると、品出しをしている荷をスッと他の客に邪魔にならない所に移動させながら呼び止めた客の所へ向かう。全てが流れるような動きだ。

 キャッシャーは見事なものだ。客と会話をしながらも確実に打ち込んでいく。客はニコニコ応対する彼女を快く思っている事が画面からも伝わる。客は文の表情に釘付けだから、他に目がいかない。その間も文は、商品を袋へ詰め込む。詰め込む時も、品物を考えながら詰め込んでいる事も分かる。

自分の仕事をしながらも客やスタッフの動きを見ているから、すぐに相手の求めている事が分かるようだ。自分の作業を止めて、さりげなくサポートをする。

 ベルギースタッフへも指示を出している。驚く事に客の相手をしていない時も彼女はずっと笑顔でいる。ベルギースタッフへも労いの声掛けをしている事が彼女の仕草でわかる。

 どれだけの集中力をもって仕事をしているのだろう、とトーマスは感心するばかりだった。


「あいつの欠点は、大好きな事になると、他に目が向けられなくなることだ。特にその好きな事が未経験な事になるとな、夢中になって目の前も見えなくなるみたいなんだ・・・」

と言って、思い出し笑いをしているようだった。


「まぁ、それくらいの事が無ければ、完璧すぎて気持ち悪いけどな?でも、あいつの良い所はそれを完璧な事、と思わせない事だ。あんなベルギー人のスタッフにも敬意を示している。あいつらがいるから、自分は言葉が話せなくてもココで働かせてもらえるんだ、って言っているんだよ。だから、あいつらも彼女のファンなのさ。いつも彼女はそうやって謙遜している。外国人にとって苦手な日本人の魂のような言葉だ。謙遜。その心を持っているから、あいつは強い。もう少しだけ見て、三時になったら表から店に入るんだぞ。絶対にここまでつけてきたから、なんて言うんじゃないぞ。怖がるからな、日本人の女性は。そうだなぁ~ トーマスのバイト先に俺が珈琲を飲みに行って、この店を紹介された事にしよう。俺たちは、たったそれだけの知り合いだ。いいな?」

「はい、ありがとうございます」

トーマスは心から感謝して、豪に握手を求めた。


豪は、それを受け入れ、彼を抱きしめて店の方へ消えていった。

トーマスは、豪が文の所へ向かう姿をモニター越しに見ていた。文が豪をとても尊敬していそうなことは目で分かった。グラン・プラスで子供たちを見ている時の彼女の目と一緒だったからである。

豪が荷物を持って下ろすと、文は指示されていなくても動いた。豪はそれを確認すると次の仕事へ移った。二人の動きは見ていても気持ちがいい。次から次へと作業を進めていく。そして、絶えず笑顔のままで客へも仲間へも接している。昨日、文が休みの時に来た店内と今日の店内とでは比べ物にならないほど、今日の店内は活気に満ち溢れていた。


 トーマスは、裏口から、そっと出て表の店の入り口から入った。

文はトーマスを見ると、「いらっしゃい」の声を出すことも忘れて、両手で口をふさいで叫びそうになることを我慢した。トーマスに気付いた豪と他のベルギー人スタッフはすぐに

「いらっしゃい!」と声をかけた。

ベルギー人スタッフは「やぁ!」と言った。それにトーマスは片手をあげて応えた。豪は「おぉ!よく来たな」と言った。

文は、すぐに我に返って「いらっしゃいませ」と、改めて言った。


「ここで働いていたんだね?ここの店長に誘われていたから来てみたんだ。驚いたよ」

「本当にビックリ!心臓が止まるかと思ったわ。どうぞ、ゆっくりしていってね」

と、言ってペコリと頭を下げて、その場を離れた。


文は、慌てて豪の所へ行き、すぐに豪の腕を掴んで、バックヤードへ引っ張って呼んだ。

「店長!店長、あの人が私を助けてくれた人なんです! 店長のお知り合いなんですか?」

「いやいや、この前、カフェに行った時に彼が働いていて、少し話をしたんだよ。いい子だったから、今度おいで、って話になったのさ。そっか・・・彼が助けてくれた男性だったんだね。放っておかないで、ちゃんと接客してきなさい」


文は、思いがけないお客様に戸惑った。豪に背中を押され、トーマスの所へ行き、

「またアーツ・ロワ駅以外の所で会えたね?」

「ほんとだね。モンゴメリでも会ったからね。君は知らないと思うけど、アーツ・ロワでも何度も君を見かけていたんだよ。また倒れないかヒヤヒヤしながらね」

「あれ以来、本当に大丈夫なんです。あの日は、引っ越しがあって疲れていたから。自分でも倒れた事にビックリしたんです」

「そっか・・・ところで、ここは日本の食材が売られているお店なんだね?」

「そうなの。海外でも日本食がブームになっていることもあって、ベルギーの方も沢山お買い物に来ていただけるから、フランス語の勉強になります。勿論、日本人の方も多いですけどね。日本食には興味ありますか?」

「ん~食べた事が無いから、分からない。僕はずっと田舎の小さな村で育っていて、二年前に生まれて初めてその村から出たんだ。だから、恥ずかしいけど、知らない事が多くってね・・・」

「そうだったんですね。今日は、店長に会いにいらしたんですか?」

「うん、そうだけど、忙しそうだから、また出直そうかな?君は何時まで仕事?」

「もう、終わりました」

「じゃあ、僕に今から少しつきあってくれない?」

「え?どうしよう・・・」


文がうつむくと、後ろから豪が日本語で声をかけてきた。

「文、行きたくないのかい?折角、王子様が誘ってくれているんだよ」

文は一瞬にして顔がパァっと赤くなるのを感じた。豪もトーマスもその表情をキャッチして、顔を見合わせた。

「王子様だなんて・・・行きたくない事はないのですけど、大丈夫かしら?私なんて・・・」

「彼女はまだ、フランス語が上手く話せないんだ。君の誘いを不安に思っているようだけど、どうしようか?」

と、豪はトーマスにパスを投げた。

「大丈夫。そんなに長い時間じゃないから。言葉は、英語も混ぜながら話すから。ねっ、お願いだから君の時間を少しだけ、僕にくれないかい?」

トーマスは文へ食い下がったが、心臓は爆発寸前だった。文は、豪が許してくれたこともあって安心したので観念した。

「分かったわ。バッグ持ってくるから待ってて」

「ありがとう」


豪はトーマスの肩を叩いて激励した。

トーマスは、自分の心臓が鳴り響いている事を感じて怖くなっていた。自分の決心が揺るがない自信はあったが、どうしても今日、伝えなければならないのかと思うと少し怖くなったのである。生まれて初めての告白なのだから。それが、日本人にするなんて、想像も出来ない事だった。何よりも文の反応を知る事が怖かった。程なくして文が戻ってきた。

「店長、お先に失礼します」

「おぅ! ナンパかどうか確かめて来いよ! 頑張れよ、文!明日も頼むな」


(もぅ!店長に言われると恥ずかしくて顔が上げられなくなるよ。何を頑張るのよ!)


豪は最高の笑顔と、どこか親心で娘を送り出す父親のような心配そうな目で送り出した。その気持ちが痛いほど文には伝わった。可愛がられている事に対し、心の中で豪に手を合わせた。

(店長、ありがとうございます)


高鳴る気持ちを努めて鎮め、色付きリップだけをサッと唇にのせて、バッグを掴んでトーマスの所へ戻っていった。


「急にどうしたの?何かお話?」

「うん、まずは歩こう」

店を出て、文がいつも向かうナミュール駅とは反対方向に歩き始めた。

「こっちに行った事が無いの」

「そうだろうね・・・お店で君を見た時に、何故、君はいつもアーツ・ロワで乗り換えていたんだろう?って、不思議に思ったんだ。もしかして、あそこで乗り換えて、ナミュール駅まで来ていたのではないかな?」

「そうよ・・・」

トーマスは笑いながら、

「僕のアルバイト先は、アーツ・ロワのカフェでね、この道の先にあるんだ」

「え?この先?」

「そうだよ。一キロも歩かないよ。でも、君の安全のためには、なるべく近くの駅まで地下鉄に乗っていた方が安心かもね。今から僕のアルバイト先とアーツ・ロワの駅まで案内するよ」

 トーマスは、ゆっくり丁寧に話をして文に伝わるように言葉を選んでいた。

一方の文は、分からないフランス語は、英語で話をしてみたり、身振り手振りを交えながらトーマスに伝えた。

 トーマスは前方から人が歩いてくると、文の肩を抱き寄せて前方の歩行者の道をあけた。文はそのたびにドキドキする自分を諫めた。

(勘違いしちゃダメ。これが外国では普通のコミュニケーションなのだから)


程なくしてトーマスのカフェに着いた。

「ほんとだ・・・こんなに近い距離なのに、私ったらわざわざ乗り換えていたのね?」

クスッと二人で顔を見合わせて笑った。

「ちょっと座ろう」

トーマスは急に真面目な顔で文を近くにあるベンチを指さして誘った。


文は、トーマスの真面目な顔が気になって座った。

「僕は、トーマス。君の名前を聞いてもいい?」

「あ!そうだったね。私達、自己紹介もしていなかったんだった!」

「そうなんだよ。ずっと前からの知り合いみたいだけど、君の事何も知らないんだ」

「私は、フミ。ツキミ フミ。日本人よ。七月三日にベルギーに来たばかりなの。ずっとあのお店に居候をしていたのだけど、八月一日に引っ越しをして、今はアパートから通っているの」

「そっか・・・フミって言うんだね。フミ・・君に会えて嬉しいよ。宜しくね。僕は七月四日に初めて君を見たんだよ。覚えているかい?君がベルギーに来た次の日だったんだね?すごいや!」

「え?どこで?」

「セントラルの駅近くのアンティークショップの店先とグラン・プラスで。僕は君が王の家の階段の所で腰かけている姿を見た時から、ずっと君が忘れられなくなっていたのだと思う」

あ!と文は声を出した。あの店で隣に男性がいたことを思い出したのだ。グラン・プラスの事は覚えていないけれど、あの店の事は覚えていた。


「あのお店があまりにも素敵で吸い込まれちゃったの。だって、ベルギーで見た初めてのアンティークショップだったのよ」

「あのお店は僕のお気に入りなんだ。それから、アーツ・ロワで何度も何度も君を見た。君に触れることも出来た。話すことも出来た。そして、今日は職場を知ることも出来た。僕は君の事が片時も頭から離れなくなっているんだ。どうしたらいい?」


 文はトーマスからの急な告白に胸がぎゅっと締め付けられて、言葉が出てこなかった。しばらく二人の沈黙が続いた。

文は心からトーマスの告白を喜んでいた。でも、豪の言葉を今は守りたかった。


 トーマスに、勇気を振り絞って伝えた。

自分もトーマスのことを多分、好きである事。とても気になる存在である事。でも、初めての外国で、正直に言うと彼氏を作ることが怖い事。自分は、自分を探すためにベルギーに来たこと。そして、この地で沢山の事を学んで身につけたいこと。いずれ日本に帰国する事などを丁寧にゆっくりと話をした。トーマス以外の男性には、決してこんな気持ちにはならない事も伝えた。

 出来れば、文を一番理解しているアルバイト先の豪とトーマスが話をしてほしい事も伝えた。自分はまだ言葉も含めて、色々な事を理解するためには彼の力が必要で、彼は、文にとってベルギーの父だから、と加えた。

 そして、両手で文の心臓から想いを剥ぎ取るような仕草をして、それをそっと両手で包み込み、トーマスの心臓へ両手で貼り付けた。文にとっては、言葉で伝えきれない「想い」を仕草でトーマスに精一杯伝えたのだ。


 トーマスは、その文の仕草の意味を理解し、嬉しく思った。今は、これでいい、と思った。急いで焦って、彼女の心が離れてしまう方がもっと怖かった。文の覚悟をトーマスは初めて会ったあの日の彼女の眼の中に見抜いていたからだ。彼女を信じよう、と思った。今は、トーマスだけを見ているという彼女の真っすぐにトーマスに向けられた眼差しを信じることにした。


「トーマス、こんな私の事をそんな風に思ってくれてありがとう。凄く嬉しい。でもね、実は私もトーマスに助けられる前からトーマスを知っていたの」

「え?いつ?」

「ん~ いつかは覚えていないけど、助けてもらう二、三日前かな?アーツ・ロワの駅で地下鉄を待っている時よ。地下鉄から降りてきたトーマスを見て(きゃあ、カッコイイ人!)って思っていたの。助けられた時にそのカッコイイ人だったから、嬉し過ぎて失神しそうだったのよ。でもね、すぐにココはベルギー。浮かれた気持ちになっていてはダメ!って思った瞬間、折角助けてくれたトーマスに素っ気ない態度をとってしまって、後からとっても後悔していたの」

「そうだったんだね・・・あの時、僕は拒否された、って思っていたんだ。でも良かった。次の日に会った時、君が謝ってきたから、悪く思ったわけではなかったんだ、ってホッとしていたんだよ」

「本当にごめんなさい。私はね、日本で四年間会社勤めをしていたの。色々な事があって、自分探しをしたいことと、自分の可能性を見つけたくてベルギーに来たの。九月から語学の学校にも通うつもりなの。来年の七月には帰国する予定なのよ」

「そうなんだね・・・」


 トーマスは文から期限をさらりと打ち明けられ、少しうろたえたので、話を別の話題にした。


「僕は二十歳だけど、フミは何歳?」

「私はこの前、二十三歳になったの」

「年上だったんだ・・・そう見えないね」

「あら?ガッカリ?」

「そんな事ないよ。フミ・・・この先の事は僕にも見えないし、分からない。でも、僕は君が好きだ。君と心が通じ合えるのなら、この先もずっと君との時間を重ねたいと思っている。自分でも不思議でならないんだ。こんな気持ちになったことが初めてだから・・・」

「トーマス、本当にありがとう。このお返事はすぐにしなくちゃならない?」

「そんなことはないよ。でも、何か月も何年も待たされるのは辛いかな?」

「そんなに待たせないよ。近日中には必ずキチンとお返事するわね。でも、トーマス。これだけは信じてほしいの。私もトーマスのことが好き。大切に思いたいの。でも、自分がベルギーに来た目的と今の状況がどうしても頭の中で整理が出来ないの」

「大丈夫だよ。君の返事がどのような答えでも受け止める覚悟を持とうと思ったから、今日、告白したんだ。だから、待っているよ」

「私の一方的なわがままでゴメンナサイ」

と言って文は頭を下げた。


「謝らないで。文の気持ちを知る事が出来て、僕は充分幸せなんだ。焦りたくない。積み上げていきたいんだ。レンガを積み上げて家を作るようにね?」

文は、うん、と言って頷いた。

トーマスは、文の手を取り握った。そのぬくもりが幸せで文も強く握り返した。トーマスは生まれて初めて(この人を守りたい)と思えた。過去にも女性と付き合いはしたが、その場が楽しければそれでよかった。でも、今は文の覚悟も含めて自分はこの人を守らなくちゃいけない、と悟ったのだ。他の男にこの権利を渡したくなかった。


「今日は付き合ってくれてありがとう。また、会えるよね?」

「もちろんよ。それまでにはお返事できるようにするね」


二人は立ち上がり、アーツ・ロワの駅へ向かった。

「僕はモンゴメリ駅で降りるからアッチに行くけど、文は?」

「私は、ボーリュ駅だから途中までは一緒だね」

二人でムロード駅まで同じ地下鉄に乗り、自分の自宅方面の地下鉄に乗り換えるためにトーマスが降りた。文の地下鉄が見えなくなるまでトーマスは見送った。


トーマスは、地下鉄を降りると、すぐに豪へ電話をした。

「僕にチャンスをいただき、ありがとうございます。きちんと気持ちを伝えることが出来ました。また、彼女から報告があるかもしれませんが、聞いてあげて下さい。お願いします」

「おぅ、分かったよ。よかったな。明日、俺から聞いてみるよ」


トーマスは、文とのベルギーでの時間があと一年であることを突き付けられ、正直動揺していた。でも、文の事を諦めたくなかった。この一年で積み上げていけば、離れても大丈夫なはずだ。今は信じよう。それよりも自分のこれからをキチンと考えなければいけない、と自身の将来に焦りを感じた。


文は、トーマスからの突然の告白に動揺はしたが、女性として本当に幸せだと感じていた。

 日本でも何人かの男性と恋愛をしたが、こんなに真剣な恋愛は一度しかなかった。まだ、恋愛と言えるのかどうかは分からないけれど、ここは異国の地。相手も異国人。このチョコレートのような甘さに溺れてはいけない、と自分にブレーキをかけた。頭の片隅に豪の心配そうな眼差しが浮かぶからだ。(自分を大切にしろ)


 文のベルギー渡航の目的は「自分探し」。そしてなるべく沢山の事を身に着けて、それらを財産にして日本での次のステージに活かしたい、と考えていた。あわよくば、ベルギーで就職出来たらイイナ、とも考えていたが、文はベルギーの街並みや建物、店舗を見ているうちに、やっぱり

「カフェ付きの雑貨屋さんがやりたい!」

という想いが強くなっていた。

でも、人並みに幸せな結婚もしたいとも考えていた。二十三歳・・仕事をするにしても家庭を持つにしても「始める」には良い時期な気がしていた。


それにこのベルギーでは、もっとたくさんの事を学びたい。街中に文の琴線をくすぐるものが溢れている気がしてならなかった。トーマスにはそれを正直に話そう。全てを犠牲にしてトーマスと付き合う事は出来ない。何のための二年だったのか?と後悔することになる。

「ゆかり」で流通の事、店舗経営の事ももっと学びたい。これから始まる学校でのフランス語もトーマスと日常会話が普通にできるようになりたい。欲張りかもしれないけど、全てを諦めたくないのだ。トーマスともつながっていたい。それは、出来れば「友達」ではなく、もう一歩先のつながりでいたいと思った。

興奮して眠れなかった。


 次の日、アルバイト先に向かった文は、アーツ・ロワでトーマスに会えるのか期待したが、トーマスのアルバイトは今日、休みだった。

 早めにアパートを出たのは、眠れなかったこともあるが、豪に相談したかったためでもあった。


「おはようございます」

「おー王子様のハートを射抜くことが出来たか?」

「店長、そのことでご相談があります」

文は、豪に昨夜考えていたことを全て包み隠さず話した。豪は笑った。

「文、いいぞ。悩むんだ。それに何一つ諦めることもないだろ?お前のそのガツガツさが俺は気に入っているんだ。人間は死ぬまで勉強し続けなくちゃいけない、と俺は考えている。知りたい、学びたい、上手くなりたい、やってみたい、そういう気持ちが無くなった時が人間を止める時だと思う。だから、やりたい事、好きな事に一生懸命になりなさい。但し、人にはのめりこむな。見えなくなるからな。好きになる事はいい、でも、のめりこむと、その人の良さも見えなくなってしまい、支配したくなるからな。それは進められない。これはあくまでも俺の個人的な考えだけどな。そして、文はもう少し自分に自信を持ちなさい」

「ありがとうございます。何か力が湧いてきました。トーマスの事も諦めなくていいですよね?彼にキチンと伝えてみます。彼に思われるに相応しい女性になれるように。今度会ったら、誠心誠意お返事してみます」


この欲張りでワガママな考えを異国のトーマスが理解してもらえるかどうか分からないけれど、伝えてみようと思った。


「それに私、このお店の経営ももっと繁盛するようにお手伝いしたいんです。前から思っていたんですけど、お弁当とかも販売したいな、って。日本食レストランって高いじゃないですか。手軽な日本食をお弁当で、とか、日本食のオードブルの予約販売とかどうかな?って。店長も私もお惣菜は作れるでしょ?」

「なるほどな。いい考えだな。検討してみるよ。文にこの店は、助けられてばかりだよ。本当にありがとな。トーマスの事はそんなに思い詰めるな。まずは自分だ」

「店長、やめてくださいよ。私はお世話になってばかりいるんですから。これからすこ~しずつ恩返ししますからね。トーマスの事は思い詰めてはいないけれど、私なんかとお付き合いする事で、逆にトーマスが辛くなってしまうことはないかな?って、心配だったりするんです。考えても答えは出てこないのですけど、今は、自分がどうしたいのかに従ってみようと思います」


 豪に話せたことで文は迷いも吹っ切れた。

その日の金曜日は、仕事の後で町田の書道教室に向かった。土曜日は日本人の子供たちが沢山来るので、静かに作品に向き合えないと思ったからだった。文は町田にも相談しようと思っていた。同じ女性として、ベルギー人の男性と結婚した町田なら、今の文の気持ちを理解してくれるだろうと思ったからだ。

 習字教室が入っているビルの前に来て、教室の呼び鈴を鳴らした。

カチャっとドアが開き、中に入った。映画に出てくるような中が丸見えの格子状の扉で作られたエレベーターに乗って四階まで上がった。


「こんにちは、先生」

「いらっしゃい。さぁ、今日から頑張って腕を磨きましょうね」

「はい先生、でも、今日はその前にご相談があるんです」


生徒が自分だけであることを確認すると文は町田に言った。

「あら、なぁに?」


文は、トーマスとの出会いから昨日までの事を細かく話した。町田は、聞きながら嬉しそうに頷いたり、少し眉間に皺をよせてみたりしながら、黙って文の話に耳を傾けていた。

「それで、彼とお付き合いしたいのですけど、先生にもご意見を伺いたくて今日来ました。私、恋に盲目になっていないかしら?っていう心配もあるんです。好きになると一直線なので・・・」


町田は、異国の異性と付き合う事は、とても勇気が必要である事。好きと思っているだけならば、まだ対処の方法もあるけれど、付き合うとなるとリスクがあることなどを話した。

「でも、付き合う事は覚悟が必要だけど、文さんは、それも含めてベルギーで学ぶべきだと私は思うの。異国の人とどうやって心を通わせるか? まだ、言葉も上手く通じないのにあなた達はとても信頼し合っているように私には思えるのだけど、違うのかしらね?だったら、別れも恐れず、今を精一杯共に切磋琢磨しながら進んでみたらどうかしら?日本にいても、日本の人と恋に堕ちても、同じことを悩むのではないかしら? 好き、は止められないと思うのよ。だって、好きなんだもの。でも、そこからの壁は二人でどう乗り越えていくのか、丁寧にゆっくり考えて実行していければいいと思うのよ。例え、ひと時離れることになっても、それを別れ、と決めてしまわないで、前に進むために必要な経験、やらなければならない事、ってお互いが思うことが出来れば、再び一緒に居られる日が来るのだから、いいのではないかしら?」


文は、頷きながら静かに聞いていた。とても勇気が湧いた。「腑に落ちる」という言葉は、こういう時に遣うのだな、と思った。


「でもね文さん、日本でも同じことを言われると思うけど、彼が文さんのアパートへ出入りすることはまだ早いから、避けた方がいいわね。それは、店長さんや私など文さんにとって、人生の先輩たちが彼なら大丈夫、ってみんなが口を揃えて言うようになってからにした方が善策だと思うわ。お互いが依存しあって、お互いの良い所も悪い所も見えなくなってしまう事が怖いのよ、大人たちはね」


町田は文にとって「ベルギーの母」だな、と思った。文が心のどこかで言ってほしかった言葉だった。


「先生、よく分かりました。店長も同じことをおっしゃっておりました。頭の中のモヤモヤが晴れた気持ちです。今日は、メッチャ上手く字が書けそうです」

「あら、それは楽しみだわ」


文は書道の時間がとても好きである。一心に作品に向き合っていると、「無」になれるからである。また、書道で使われる道具の手入れをするときも同じ「無」の世界なのだ。書道の時間は、初めの準備から終いの片づけと手入れの時間まで一貫として背筋がピン!となる文にとっては、大変貴重な時間なのである。


(決めた!トーマスにお付き合いさせてほしいことを伝えよう。そして、それが叶うのならば、ありのままを受け止めてもらおう)


八月十日 土曜日。

文は、いつものようにアパートを出てアルバイト先へ向かった。実は、トーマスに教えてもらったアーツ・ロワの駅で降りるパターンは、あれから一度も挑戦していなかった。一人で歩くのはやはり、少し怖かったからである。

アーツ・ロワの駅に着いた。正面からトーマスが歩いてきた。

彼は、恐らく来る地下鉄、来る地下鉄をくまなく探したのだろう。本数が多い駅だから、彼が文を探し続けていたことをホームにメトロが到着した時に分かった。

彼は、文を発見すると、小さな彼女が彼を見つけやすいように大きく手を振って手招きしながら文に向かって駆け出した。


「おはよう。これから仕事かい?」

「ええ、そうよ。トーマスもお仕事?」

「僕もこれからだ」

「トーマス、この前のお返事のお話したいのだけど、今日時間ある?」

「勿論あるよ。何時に仕事が終わるの?その時間にまた、お店に行くよ」

「三時に終わるけど、仕事は大丈夫?」

「大丈夫だ。三時に行くから待っていてね。 あれ?この駅から行かないの?」

「トーマスがいてくれないと、やっぱり怖いから」


文は軽く手を振って乗り換えの地下鉄に乗った。トーマスは、頼りにしてもらえている事が嬉しかった。

「よし!今日も頑張るぞ!」

文の返事は大きく気になる所だったが、彼女が今すぐベルギーから消えるわけではない。そして、彼女の自分への気持ちは確認できていると、先日、文がトーマスの胸に文の気持ちを貼り付けた時の仕草を思い出し、彼女がどんな想いでも受け入れる覚悟を決めていた。


文は、ナミュール駅に着くとどうやら自分の「働くスイッチ」が入る事を悟っていた。

(昨夜、あれだけ伝える練習をしたんだもの。きっと、トーマスに伝わるはず。伝えて、二人にとって付き合っていくための良い方法をこれから探していけばいい。今日もお仕事頑張らなくちゃ!)


三時になった。

「文、今日もお疲れさま。終わっていいぞ。それとな文、今度、ホームドクターになってくれそうな医者を紹介するから、一度彼のところに行ってくるといい。アンバリッド通りにある小さな診療所の医者だ。今度、住所と連絡先を書いておくから行ってこいよ」


豪は、文がアパート暮らしを始めた事が心配で仕方なかった。病気にでもなったら大変だから、と知り合いの医者、デグリーに文の事を頼んでいた。デグリーは、五か国語を話せることもあって(日本語は話せないのだが・・・)ベルギー駐在の外国人の患者を多く診ている。豪もその一人だ。


「分かりました。有難うございます。今度のお休みに行ってみますね」

その時、店にトーマスが入ってきた。

「いらっしゃい!」

全員で声をかけた。トーマスは豪に手を挙げて挨拶をし、文は豪と仲間たちに挨拶をしてトーマスと店を出た。


彼は「おかえり」と日本語で言うと、文と手を繋ぐようにからめてきた。

文はくすぐったい気持ちになって「ただいま」と日本語で返して、トーマスとつないだ方の腕に頭をよせた。

「歩きながらで良いのかな?」

「いいわよ。ありがとう」


それから、文はまっすぐにトーマスを見つめて、ゆっくりと話をした。口からドキドキいっている心臓が飛び出てきそうだった。

「あのね、私は、トーマスと心を通わせたい、って思っているの。お付き合いしたい。あなたにとって特別な女性でいたいと思っているの。あなたの事が大好き。でもね・・・」


と言って、自分のベルギーでの目的や想いを話した。一年後に帰国して何をしようとしているのかも話をした。そして、若いうちに家族を持ちたい事も話した。


「これが今思う正直な気持ちの全てなの。欲張りかもしれないけれど、トーマスの事も他の事も諦めたくない。今は、沢山の事を吸収したいの。女性は、どうしても出産とか育児とかで一時的にどうにも動けなくなる時が来るでしょう?その時に後悔したくないの。あの時にあぁしていれば良かった、とかって。だからと言って、何か一つに絞ることが今の私には考えられないの。だって、色々な事に挑戦して、その中で自分は何をしたいのかを探すために来ているんだもの。その為に日本の会社で一生懸命に色々な事を我慢してお金を貯めて、やっとここまで来たんだもの。

もしかしたら、トーマスに出会う為だったのかもしれない、書道の師範を取るためなのかもしれないし、その両方かもしれない。今の私には全てが未知数なの。自分で限界を作りたくないの。だから、トーマスともお付き合いしたいの。何も諦めたくないの。意味通じている? 私とお付き合いしていただけますか?」


トーマスは、文の言葉を一語として逃さないように注意深く聞いていることを、文は理解していた。

トーマスもまた、言葉に自信のない文の想いを大切に聞きたいと思っていた。その文から自分と共にいる事を望む言葉が出てきたことが何よりも嬉しかった。その言葉さえ聞くことが出来れば、あとはお互いが寄り添って考えていけば良いのだ。文の言葉を聞いていれば、今までの文の眼差しや行動に納得が出来る。全身でガッツポーズをしたい気分だった。


「文、よぉく分かったよ。僕がお願いした事だろ? 勿論、僕は喜んで文と付き合いたい! 文の考えている事は、凄く納得できる。君はやっぱり初めて会ったグラン・プラスの時から僕のイメージのままだよ」

「え?そうなの?」

「あの時、君の子供たちに向けられた瞳と笑顔はとても家庭的な女性の顔だったんだ。恐らく、あの時の瞳が本当の君の瞳だね。そして、あの時以外の君はいつも鋭い眼差しで、何かと闘っている目をしていたんだ。でも、それも含めて君が好きだ。なぜならば、その瞳が必死過ぎて壊れてしまいそうに僕には見えたから。守りたかったんだよ、君を。変だよね? 自分でもずっと変だと思っていたけど、今、文の気持ちを聞いて分かった。僕は何となく文のそういう覚悟をキャッチしていたんだと思う。君は強い女性かもしれないけれど、その強さ以上に弱さも持っているように僕には映った。壊れそうで放っておけないんだよ。だから、君のことを僕が守りたいって思ったのはアーツ・ロワで助けた、あの時からなんだ。来る日も、来る日も、アーツ・ロワで君が無事でいるのかを確認したくなっていたんだ。これって、ウヌボレかな?」

「そんなことないよ。理解してもらえて凄く嬉しい。上手くいくか分からないけど、トーマスとなら乗り越えられる気がするの。貴方といると本当に私は心が安らぐのよ。背伸びしなくてもいい。ありのままでいられる。ずっと、貴方にこうして寄りかかっていたい、って思うの。これも不思議でしょ? トーマスの事をまだ、何も知らないのにね?」

「ありがとう、文。嬉しいよ。少しずつ心を通わせて、積み上げて、一年後も揺らがない愛に育てたいよね。その時にまた二人の行く先を二人で考えようよ。それまでは、自分達のやらなければならない事を頑張る。ねっ? 僕も頑張るよ」


 文は幸せだった。言葉が上手く通じなくてもこんなに分かり合える。日本では決して得られなかった「安らぎ」だ。男性と付き合っても、どこか背伸びしたり、頑張りすぎたり、我慢したりして、甘えることが全く出来なかった。なのに今の自分はどうだろう? 自分を見失わず、安らぎの場所さえも得ることが出来た。甘えられる事が本当に幸せで心地よかった。


「どこか行きたいところはある?」

「何にも考えていなかったの。今日はお返事をしなくちゃ!って事しか考えていなかったから」

「よし、中央駅の方へ行ってみようか?グラン・プラスとかさ」

「うん、そうね」


 地下鉄に乗って、中央駅に向かった。地下鉄の中でも彼に寄り添い、とても心強かった。何となく張りつめていた緊張の糸がプツンと切れる気がした。背の高い彼を見上げてみた。彼は文をずっと見ていて、優しく見下ろしていた。温かい眼差しだ。

 文は彼に微笑んで、恥ずかしくなって下を向いた。と、同時に何故か涙が出そうになっていた。いつも地下鉄に乗るときは、最大限の注意を払い、どんなに疲れていても決して緊張の糸を緩めることはしなかった。でも、彼といると、ほんの少し緩めることが出来た事が幸せで仕方なかった。


メトロは心地よく、中央駅に到着した。文は、彼の手を引っ張って、必死に伝えた。

「早く外に出たいの。どこかに座りたい」

「調子が悪いの?」

「そうじゃないの。座りたいだけなの」

早くしないと、涙が出そうだった。彼は察知していない。


 中央駅は、地下鉄を降りてから、正面口に向かうと長い通路をひたすら歩かなくてはいけない。だが、途中にいくつも地上に出る出口がある。文はそれが分かっていたが、トーマスがどうするのか分からなかったので、彼に任せた。彼は、文が思っていた通りに一番初めにある出口から外に出た。そこは、文が書道教室に向かう出口だ。

「あそこに座ろう!」

彼は、木が植えられた大きなレンガで固められた植木鉢のような淵に文を座らせた。

「急にどうかしたの?大丈夫かい?」

そう言って心配そうなトーマスの顔を見上げたら、一気に涙があふれ出た。


「え?どうしたの?大丈夫?」

「大丈夫なの。大丈夫。地下鉄の中で泣くことが出来ないから我慢していたの。メトロの中でトーマスに寄りかかって、貴方を見上げた時に、とても幸せな気持ちになったの。もぅ一人で闘わなくてもいいんだ、って思ったから・・・もう、一人ぼっちじゃない、って思ったから・・・」

こぼれる涙を拾い集めるようにハンカチで抑え、彼を見上げた。


トーマスは隣に座り、文の右手を彼の右手で握り、彼の左手で文の左肩を優しく抱き寄せた。

「そんな風に思ってくれてありがとう。本当に嬉しいよ」

彼も泣きそうな声になっている。

(この気持ちはどう表現したら良いのだろうか?彼女は一体、今までどんな人生を歩んできたのだろうか?もしかしたら、ずっと闘い続けてきた人生だったのかもしれない。僕なんかよりもずっと、寂しい人生だったのかもしれない。僕たちは結ばれるべくして今がある・・・そう思いたいよ)

しばらく流れゆく車たちを見ながら、お互いのぬくもりを感じていた。


「トーマス・・」

「なんだい?」

「呼んでみたかったの。呼んだら返事してもらえる距離にあなたがいる・・・」

彼は笑いながら、更に強く文を自分の方へ抱き寄せた。


「文・・・初めて君に触れた日のことを覚えている?僕は、アーツ・ロワの駅で、グラン・プラスで見た、一目ぼれした女性が前方に見えたから、必死に早く歩いて追いついたんだよ。その文が少し前を歩いていたけど、ほんの少しヨロヨロしているように見えたんだ。何となく(倒れるかも?)って感じていたら、本当に文が階段から落ちそうになったから驚いたよ。君を支えることが出来て本当に良かった。あの時の文は、真っすぐに前を見ていたんだ。このベルギーで、きっと必死に前を向いて生きているんだな、って思ったら忘れられなくなった。君の真っすぐな目が忘れられなかったよ。

でも、君は僕に感謝の言葉を言っているけれど、僕自身にではなく、僕の瞳のずっと先をじっと見ているような気がした。そしたら、次の日にも会ったよね? あの時は神に感謝したよ。文は元気を取り戻していて、しかも話が出来た。君の声は日本人だからなのか、とても神秘的に僕には聞こえた。離れたくなかった。でも、君はまた地下鉄に乗って行ってしまった。僕は何もできなかった。情けなくて仕方なかったよ。でも、また神様は僕の前に文を連れて来てくれるチャンスを与えたんだ」

「ストッケルの朝市の日ね?」

「うん、そうだよ」

「あの日は最高の日だったの。夢のような食材といつ死んでもいいくらい美味しいワッフルに出会えて、人生で一番幸せそうな顔をしていたと思うの。そしたら・・トーマス。貴方にまた会えた。一人きりのパーティだったけど、全てに感謝したわ」

「文が一人パーティだ、って言っていたから、彼氏はいないんだな、ってガッツポーズだったよ。だから、絶対にもう一度会わなくちゃいけないって思ったから、この前待ちぶせていたんだ。ごめんね、そんな事をして。でもさ、夢のようだと思ったよ。本当にまた会えた。そして今でも信じられないけど、こうして心が通じ合えた。僕は奇跡としか思えないんだ。君も同じ気持ちでいてくれた事がね? 文、本当にありがとう」

「私も夢みたいよ。こんなことがあるなんて。私、もっとフランス語頑張って勉強するね。トーマス、フランス語を教えてね。貴方とフランス語でキチンと話せるようになりたいの」

少しずつ温かい血液が流れ出すように二人の心は通い合い始めていた。

その時、トーマスは文に想いをよせてから、計画していたことを思い出した。


「そうだ!文、八月十三日は何か用事があるかい?」

「う~ん、仕事があるだけよ」

「よし、グラン・プラスのフラワーカーペットを見に行こうよ」

「え?トーマスと行けるの? 行きたい、って思っていたけど、一人で行くと思っていたから凄く嬉しい」

「僕もブラッセルのフラワーカーペットは初めて見るんだよ。あれは、二年に一度だろ? 二年前はこれからブラッセルに向かう、っていう頃だったから、デュルビュイにいたんだ」

「デュルビュイって、トーマスの故郷?」

「そうさ。僕は十八歳までずっとそこにいたんだ。小さな街なんだけど、とても綺麗で美しい所なんだ」

「私もソコ知ってる!だって、ガイドブックにも載っている有名な街だよね?」


 それから、トーマスは自分の故郷の話や家族の話をした。ブラッセル市から南へ車で二時間半程にある「世界で一番小さな町」と言われているデュルビュイの出身であること。両親と四歳違いの兄との四人家族であったが、母親は、トーマスが十五歳の時に病気で他界していること。父親は、デュルビュイの町役場で働いていて、兄はナミュールで働いている。二人は小さな町で苦労することなく育ったトーマスを案じて、

「これからの時代の男は、広く世の中を見ていかなければならない。このままこの小さな町にいたら、トーマスの世間を見る視野が狭くなってしまう。大学は、外に出ていきなさい」

と言って、二人でお金の工面をしてトーマスを大学に通わせていること。

デュルビュイを生まれて初めて出てみたブラッセルでの生活は、毎日が大変だったこと。一年目は生活のリズムを掴むことに必死だったこと。二年目、三年目でやっとブラッセルの散策が出来るようになったことなどを話して聞かせた。

大学では、社会科学部に入り、社会経済や労働の事等を学んでいて、何となく物流の仕事をしたい、と思うようになっていて、もう少しで自分のやりたいビジョンが形になって見えてくるような気がしていること。その為にももっと見聞を広めていきたい事等を話した。

 文の、目的をもって真っすぐに進む姿を見ていたら、もっとしっかりしなくちゃいけない、と強く思うようになったことも正直に話した。

普段は大学の授業の合間や大学の休みを使って、カフェでアルバイトをしている事も話した。


「母さんは、僕が十五歳の時に病気で亡くなったんだ」

トーマスは、遠くを見つめるように話をした。彼のどこかに影を感じていた部分が理解出来た気がした。

「でも、父さんと兄さんが僕のことを一生懸命サポートしてくれたから、今の僕がいるのだと思っている」

「ご家族に感謝しているのね」

文は、トーマスを見て微笑んだ。(彼はやっぱり素敵だ!)

「僕が小さな村しか知らない事を心配して、大学はブラッセルの大学に行きなさい、って経済的にサポートしてくれている」

「だから、トーマスもアルバイトをしているのね?」

「そうだよ。少しでも負担をかけたくなくてね。授業料は、自分が社会人になってから、少しずつ返済していくんだ。でも、生活費がかかるだろ?そこを助けてくれているんだ。本当にありがたい」

「お母様がいらっしゃらなくても、愛情がたっぷりのご家族なんだね?」

「でも、みんな男だから、普段は何もないんだ。兄さんもナミュールで働いているから、父さんとは別に住んでいるし」

「ナミュールとデュルビュイは近いの?」

「車で一時間もかからないよ」

「そう、よかった。お父様もそれなら安心ね。あとはトーマスが頑張れば、もっと安心するのね?」


 二人は夕飯を一緒に食べることにした。グラン・プラスを目指して歩く途中にバーガーキングを発見し、二人で顔を見合わせた。

「ここにしようか?」「私もそう考えていたところ!」


 食事をしながら、十三日のフラワーカーペットの計画を立てた。夏のベルギーは、日本では考えられない位、夜遅くまで明るい。二人のアルバイト後の時間でも充分楽しむことが出来る。それでも一応、豪には相談してみよう、と考えていた。


「トーマス、連絡先の交換をしてもいい?」

「よかった。文は許してくれるのか心配だったんだ。交換しようよ」

「でも、私・・・当分、顔を見てでなければ、お話出来る自信がないの。でも、どうしても寂しくなった時には、そんな事関係ないから、電話をしてもいい?」

「もちろんさ。僕もそうしたい・・・」


二人は、食後にグラン・プラスの中を散歩して、有名なセルクラースの銅像の前で足を止めた。

「文、この銅像に触れるとね、幸せになれるんだよ。願いが叶う、とも言われている。二人で触れてみない?」

「うん、そうする」

二人の手を重ねて願いを込めた。文はトーマスを見上げて、トーマスは文を優しく見下ろしながら・・・願いを込めてセルクラースの英雄に何度も触れて祈った。

(この幸せがいつまでも永遠に続きますように)

(文とずっと幸せに一緒にいられますように)


「何を祈ったの?」

「トーマス、日本では願い事を言葉にしてしまったら、願い事が叶わない、って言われているの。だから、私は言わない」

と言って、文はセルクラースに触れた手で言葉をすくう仕草をして文の口へそれを運び、呑み込む仕草をしてみせた。そして、両手で胸を押さえ、祈った。


「トーマスは何を祈ったの?」

「言わない。日本人の彼女がいる僕は、言うと願い事が叶わなくなるから。でも、きっと文と同じだと思うよ」

「うん、そうだね」


グラン・プラスにある「王の家」の前で暫く、人間ウォッチングをしながら、二人は寄り添い、今までの時間を埋めるように語り合った。夜だというのに人がドンドン増えていくグラン・プラスをいつまでも見つめていた。


 文はこの上なく幸せだった。異国の若い二人の恋の行方は、どこか危なっかしいけれど、幸せな気持ちが全身から溢れていた。過去に感じた事がない感情だった。


 一方のトーマスも、文との出会いを「運命」だと感じていたので、彼女が自分へ想いを寄せている事が分かって、表現のしようがない気持ちが溢れていた。

何となく、どんな仕事でも何とかなりそうな社会経済の勉強をするために大学に行っているけれど、「彼女を決して手放したくない。自分のこの手で彼女を守りたい。幸せにしたい。他の男にその権利を決して渡したくない」という決意が先に自分の中から湧いてきた。だから、もっと生きた勉強をして彼女のように確かな目標を持たなければいけない!と強く感じていた。


 次の日、文は昨日の夢のような出来事が本当に夢でないか心配になってゆっくり目を開け、ぼんやり考えた。

(私達はどこか似ているのかもしれない。トーマスと結婚出来たらいいなぁ・・・)


 文は、明日からまた活動的に動かなくてはいけない分、今日はゆっくりする事と夕食の作り置きをすることにした。明日は、フラワーカーペット。二年に一度のお祭り。自分が幸運な時にベルギーに来た事に感謝した。そして、何よりもトーマスと行く事が出来る。

 明日から始まる一週間のスケジュールを確認した。文のスケジュール帳はびっしりと予定が入っている。殆どはアルバイトだが、アルバイトが休みの日は、書道教室も入った。語学学校の手続きもしなければならなかった。結局、コミューンの語学学校は競争倍率が高すぎて間に合わなかった。でも、定期的に募集をしているので、次の機会に申し込むことにした。それまでの間は、大学の中にある語学教室に通う事にした。単発的な授業ではあったが、週五日午前中のみだったので、無理なく通えそうだった。しかも、週五日と言っても、金曜日が休校になっている日が多い。


 そして、文は、先日の書道教室の際、町田にお願い事もしていた。

文は、いつかオープンさせる自分の店は、ヨーロッパのあちこちの店がそうであるように、花でいっぱいの店にしたいのだ。その為には、花の勉強をしたいと考えていたのだ。そのことを町田に熱く伝えていたのだ。


「あら?私の友達にピッタリの人がいるわ。彼女に一度聞いてみるわね」


町田からのその返事も楽しみである。

 そして、今日のすべきことを終わらせたら、文は豪に提出する「企画書」を作成しようと目論んでいた。例の「お弁当販売とオードブルの予約販売」の企画書だ。

きっと、豪は文がそんなことをしてくる訳ないと考えていると思う。でも、文はこの企画が「当たる」気がしてならないのだ。

 ベルギーの物価は高い。その高い物価の中でも日本食材や外食の物価は上位を争うくらい高い。かと言って、特段旨い訳でもない。ならば、同じような味が格安で食べられるのなら、絶対に人気になるはずだ。「ゆかり」に来てくれる日本人のお客様を上手く味方につければ、口コミで広がるはずだ。

接客しながら、その辺の感覚は感じていた。日本人マダムは、毎日、人付き合いや子供の学校や塾などに大忙しなのである。そのマダムたちの需要を味方につければ、マダムたちの知り合いのベルギー人にも広まっていくに違いなかった。


 そして、日本食材に集まるベルギー人も料理が片っ端から出来るわけではない。ここの食材に魔法をかけて、「惣菜」として変身させたら、必ずリピーターになる! お弁当&オードブルでもいい、それを調理する為の食材でも「ゆかり」にとっては、有難い話なのだ。どちらに転んだとしても、相乗効果が得られると踏んでいた。

 文は、仕事をしながらそれらをどうやって実現させるかばかりを考えていた。お世辞にもよく働くとは言えないベルギーのスタッフをどう動かすかが鍵だと考えていた。彼らがボーっとしない仕組みも併せて考えなければ、店長が別の仕事が増える分、疲弊してしまう。それでは、折角の企画もすぐに終わりが見えてしまう。

(さぁ!考えるぞぉ!)


 洗濯をしながら・・料理をしながら・・・掃除をしながら・・アパート近くの白樺道を散歩しながら・・とにかく考えた。少しでも良い案が浮かぶとメモをした。

 沢山の走り書きのメモをアパートの床に広げて、しばらく見つめていた。そして、今度は設計図を書き始めた。設計図と言っても「家」などのソレではない。自分の頭の中の「考えているイメージ」の設計図だ。ザックリとした設計図が出来たところで、作業を止めた。このままにして、明日、店を見てこの設計図と照らし合わせて再度、熟考を重ねた方が大きく逸れることがないことは感覚で文は理解していた。


次の日、出勤すると文はすぐに豪へ確認をした。

「今日、仕事が終ったら、トーマスとフラワーカーペットに行ってきてもいいですか?」

「お~そういえば、今日からだったな。よし! トーマスがいいのであれば、十二時であがっていいぞ。実はな、今朝パトリックが文とシフトを交換したい、って言ってきていてな、急だから無理だ、って断ったんだが。トーマスに連絡できるか?」

「はい、やってみます」

文も必死だった。程なくトーマスから電話が来た。文は顔を見ずに話す自信がまだ語学力的に無かったので、豪に代わって話をしてもらった。

「OK!トーマス、ありがとな。十二時に待っているぞ」

と言って、電話を切った。文はパァっと顔を紅潮させて喜んだ。

「契約成立だ。パトリックに電話して、あいつを十二時から働かせる。その代わり、文、パトリックが休みたがっている水曜日にシフトに入ってもらえるか?」

「もちろん、大丈夫です。でも、少し遅れてもいいですか?その日、デグリー先生に会いに行ってこようと思っていたので」

「お~そうだったな。大丈夫だ。上手くつないでおくよ」


 豪は、文がそう言っても、前日に必ず彼女は、次の日の準備をして帰っていくことを知っていたので、(つなぐ)とは言っても、微々たるものだ、ということを理解していた。文の仕事には全幅の信頼を持っていたのだ。


 文は、トーマスとのデートも楽しみではあったが、何といってもフラワーカーペットがどんなものなのかが楽しみで仕方なかった。想像がつかなかったからだ。

「あれは、説明したところで伝わる美しさではないから見てくるのが一番だよ。王子様と行く姫かぁ・・」

豪も文をからかった。文はこの手の扱われ方がどうも慣れなくて、いつも顔が赤くなることを隠せなかった。


十二時にトーマスは迎えに来た。

「お先に失礼いたします」

文は、豪たちに丁寧に挨拶して店を出た。

トーマスは、文のいつも豪たちに対する丁寧な挨拶を気持ちよく見ていた。言葉は分からないけれど、お互いが感謝の気持ちを交換している事は理解していたので、その礼節を重んじる光景を見ることが好きだった。

「さぁ!早く行こう!今日は文を離さないぞ!」

「え?どういうこと?」

「人がそれだけ多い、って事さ。スリに気を付けるんだよ。勿論、僕が守るけどね」

トーマスが繋ぐその手のぬくもりと強さこそ、文が甘えられる幸せの一部だった。


 セントラルの駅を降りて、グラン・プラスに向かい、もうすぐグラン・プラスの広場が見えそうなところで文はトーマスの手を引いた。


「だめ、トーマス!ドキドキして心臓が飛び出しそう!」

と言って、躊躇なくトーマスの手を自分の胸にあてた。 あ!というトーマスの言葉と自分の胸に向けられたトーマスの視線に気付いて、驚いて我に返った。

「ごめんなさい、トーマス。私、あまりにも緊張しすぎて・・ゴメンネ」

「いや、いいんだ。びっくりしたけど、文の心臓の鼓動が感じられて嬉しいよ。僕のも触れてみる?」

と言って、トーマスは文と同じことをした。文にも負けない位、トーマスもドキドキしていた。それと同時にトーマスの硬い胸にトーマスが男性であることを意識して、文は更にドキドキしていた。


(僕のドキドキは、文の胸に触れたからだ。本当に文には驚かされるよ)

トーマスは文の行動に焦っていた。


「文、いいかい?ゆっくり行こう!僕にとっても、ここのフラワーカーペットは初めてだ、ってことを忘れないでね?」

文は恥ずかしさのあまり、黙って頷いた。


 トーマスの故郷のデュルビュイでもフラワーカーペットが開催されるが、規模が明らかに違う。二年に一度しか開催しない理由は、その規模にあるのだ。


 二人の視線の先には沢山の人が見えた。その先に・・・一歩ずつ近づくたびに広がる花のじゅうたん。グラン・プラスが太陽のライトを浴びて貴族の館と化していた。二人はそこに迷い込み、美しいじゅうたんに目を奪われていた。壮大なカーペットである。ベルサイユ宮殿にも負けないはずだ。

「トーマス・・・」「フミ・・・」

二人は言葉が出なかった。言葉の代わりにギュッと手を握り合っていた。


「文、おいで。あの柵の所が空いているよ」

花のじゅうたんの周りは、白い鉄の柵で囲われて、中に入れないようにしている。誰もが、その柵にしがみついて、下に広がるじゅうたんを見渡していた。トーマスと文も片方の手はつないでいたが、もう片方の手は柵をしっかり握った。じゅうたんが眩しい。よく見ると、茎から切られた花だけをただただ敷き詰めているのだ。しかもグラン・プラスの顔でもある石畳の上から敷き詰めている。一枚の大きな絵画になっていた。ベルサイユ宮殿をテーマにされたものらしい。

豪が王子様と行く姫、と言った意味が理解出来た気がした。


感動しすぎて文はまた、トーマスの手を握るその手を自分の胸にあてていた。そうすると落ち着くのである。

今度はトーマスもされるがままにそうしていた。彼女の顔を見ていたら、彼女がとても幸せそうなことは理解出来たからである。そして、彼女の鼓動が先程よりも徐々に落ち着いていく事も手から伝わる振動で分かったから。

(きっと、落ち着くんだね・・・僕もこの方が落ち着く気がするようだよ)


文は花の名前が分からなくて悔しかった。ビオラのように見えるそれらの花たちは、ベルギーが世界に誇るベゴニアである。生産されるベゴニアの八割を輸出しているというから驚きだ。そして、何もしないで石畳の上にあるだけで、枯れないのだから、不思議だなと驚いた。

よく見ると、周りの建物の少し高い所から写真を撮っている人が沢山いた。じゅうたん全体がカメラに収まる所を探しているようだった。

「トーマス、柵の周りをグルっと回ってみたいね」

「そうだね、そうしよう!」

「こんなに美しいものを見たのは初めて。トーマス、誘ってくれてありがとう。パトリックにも感謝しなくちゃ。彼に用事が出来てしまったことに感謝だわ」

「本当だね。僕もパトリックと花のじゅうたんと・・・そして、文、君にも感謝だ。僕と来てくれて本当にありがとう。君にプロポーズしたくなる気分だよ」

「え?」

「いや、今は言わないよ。でも、いつかそんな日が来たらいいね」

「トーマス、私もね、同じこと考えていたの。嬉しい」

(一生忘れない。この人と同じ道を死ぬまで歩きたい。あぁ、神様どうかその夢を叶えて下さい)

トーマスも心の中で十字を切って祈っていた。



歩きながら、フラワーカーペットを眺めて文は、ふと、トーマスに話した。

「トーマス、これから私がチャレンジする色々なお話、いつでも聞いてくれる?」

「文の話はいつも聞いていて楽しいから大歓迎だよ」

「よかったぁ。変な方向に行きそうだったら、ちゃんと教えてね。日本では当たり前の行動がベルギーでは違う事もあるでしょ?」

「そうだね。じゃあ、僕の事も同じように聞いてよ。そしてアドバイスしてほしい。

それから、これはお願いだけど、僕以外の男とは絶対に手を繋がないでね。文は興奮すると何をするかヒヤヒヤするからさ」

「日本の女性は、彼としか手を繋がないわよ。他の男性に触れることがないはず。だから安心してね。少なくとも私は、そういう人間よ」

「分かった。よかったよ。絶対にみんなが文を好きになっちゃうからさ」

「ならないよ。第一、モテモテだったら日本から出ていないと思うし。逆に私は、トーマスの方が心配よ。カッコイイんだもん」

「僕もそんな風に言われたことがなかったから、文に言われた時、正直戸惑ったよ。嬉しかったけどね」

「そうなんだ・・・日本とベルギーでは感覚が違うのかな?でも・・それでも心配。トーマスは優しいから」

「文に、だけだよ」

囁くように言うトーマスに、くすぐったい気持ちになった。


それから、文は水曜日にデグリー医師の所へ行く事を思い出してトーマスに尋ねた。

「そうだ!トーマスに聞きたい事があったの。トーマスはホームドクターっているの?」

「いないよ。ただ、僕はベルギー人だから言葉も通じるし、病院に行けば何とかなる。でも文はそうもいかないだろうから、文の体調を先生に知っていてもらうことは大切だと思うから、ホームドクターがいた方が安心だと思うよ」

「そっか…そう言う事なのね。店長の気持ちがそこまで理解出来てなかったわ。同じ日本人なのにダメね。トーマスはやっぱり凄いわ。聞いてよかった」

「そんなことないよ。名医だったら、僕にも紹介してね」

「勿論よ。金看板の先生だって言っていたよ。意味分かる?」


 日本では考えにくいのだが、このベルギー全体がそうであるのかは定かではないが、看板の色でドクターの腕が分かるのだという。金、銀、銅の三種類の看板があるらしい。まるでオリンピックのようだ。デグリーは金看板なので、ひとまず安心しよう、と文は自分へ言い聞かせた。


二人は花のじゅうたんの広場から離れられず、その舞踏会の会場を心行くまで楽しんだ。次は二年後?それとも四年後?それとも・・・


 文は続けて昨日、店の企画書の設計図まで作り上げた事も話した。今日、店を確認しようと思ったけど、パトリックとの交代シフトになったから、また明日、よく見てみようと思う事を話した。

トーマスは、文に内緒でバックヤードから見ていた彼女の仕事をする姿勢を思い出し、何事にも真面目な彼女の事を尊敬した。

「上手くいくといいね。でもさ、文はどうしてそんなにアイデアが生まれるの?どうしていつも必死なの?」


「ん~そうだなぁ・・これが、みんなから敬遠される理由でもあるんだけどね、考えて仕事をしているからだと思うよ。常にね、楽しく仕事をするためには?私だけでなく仲間も楽しく仕事をするためには?お客様が気持ちよくお買い物をしていただくためには?売り上げを伸ばすためには?私が客だったらこのお店に何を求めるだろう?まだ店を知らない人にどうアプローチをかけたらいいのだろう?

考えることが沢山ありすぎてパンクしそうだけど、それらをいつも、頭のどこかで考えていると、ふっと良いアイデアが生まれるの。そうすると、私の頭の中は勝手に空想が始まるの。だから、私の頭の中の今は、あのお店で沢山のお弁当を作っているのよ。

 アイデアが生まれるコツは・・・本を読んだり、色々な人とお話をしたり、色々な所へ行ったり、沢山のことに挑戦をしたりしていれば、きっと、自然と身につくよ。動いた分、感じ取った分、見てきたもの、聞いてきたもの全てが私の細胞になって、アイデアの引き出しに入るんだもの。その引き出しを私は、常に開けたり締めたりしているんだと思うの。しまったままでは、アイデアも浮かばないものね?

ただ言われた事だけをする仕事なんかつまらないでしょ?私達、人間なんだもの。機械のようにアレしなさい!ってボタン押されて、それだけをする、なんてつまらないわ。

例えば、キャッシャーを早く打ち込むためにはどうしたらいいのか?とか考えるのも戦力の一つよね?自分のスキルが伸びた事が分かると嬉しいでしょ?トーマスも初めから珈琲を作らせてはもらえなかったでしょ?でも、それを作らせてもらえるようになると(俺ってカッコイイ!)って思えるじゃない?そういう気持ちをずっと持ち続けることが大切じゃないのかな?」

「凄いな、文は。僕もカフェの仕事をもっと違う角度からも見てみるよ」


トーマスのその言葉が嬉しかった。トーマスの助けになるのであれば何でも応援したかった。いつも彼に救われている恩返しをしたいからだ。


 話に夢中になっていたら、いつの間にか夜になっていた。明るいから時間を気にしていなければ全く気付かない。最後にもう一度、柵の所から見渡し、花のじゅうたんに別れを告げた。トーマスと見ることが出来て良かった。次はいつになるのか分からないけど、次もトーマスと見たいと文は心に願った。

トーマスもいつか、花のじゅうたんの前でプロポーズがしたい、と思った。


水曜日。

文は予め、デグリーに電話をして朝早くに診療所に向かった。そこは、一見すると事務所のような所だった。

中に入ると、待合所のような部屋があり、デグリーが診察を終えた患者を見送ると、次の患者は誰?とその待合室に顔を出す。

「私だよ」と言って、次の患者はデグリーの後についていく。

すると、診察室があるかと思いきや、社長室のような所に通される。そこに座ると診察が始まる。何だか不思議な光景だ。

デグリーが白衣を着ていなければ、単なる社長室だ。

文は、デグリーに豪からの紹介であることと、ホームドクターになってほしい事を伝えた。自分の住所の書かれたメモを彼に渡した。

既往歴や普段の身体の調子などを伝えた。ベルギーに来てからの体調の変化も聞かれたので、トーマスに助けられた時の事を話した。日本でもよく貧血を起こしていた事も言ってみた。

デグリーは、カルテらしい書類に次々と言葉を書き始め、文の目、喉、聴診器をあてたり、あちこち触診をして確かめた事を書き留めていた。

そして、何かあれば、ここに電話するように、と電話番号の書かれたメモを渡してきた。仮に病気になっても、少しでも元気があれば、この診療所に来たらいい、とも言ってくれた。

驚いた事に初診で日本の病院以上に念入りに調べてくれたにもかかわらず、千五百円だった。豪に言わせると、どんな診察でも一律千五百円らしい。銀看板や銅看板は、この診察料も看板の色に反して、法外な診察料を請求してくるらしい。

文は安心した。これで何かあっても安心だ。もともと丈夫な文だが、一年に一回くらい、風邪をひくことがある。日本では病院に行かず、寝ることで治していたが、ベルギーでも同じように行くとは限らないので、どこか不安を覚えていた、が、豪の計らいで安心する事ができた。

診療所を出るとすぐにアルバイト先を目指した。


 それからの文は、「ゆかり」の企画書を仕上げることに必死になっていた。彼女にとっては壮大な計画だった。ただ弁当やオードブルを販売すればよい、という問題ではない。それを言って、直ちに自分たちのすべきことを考えるメンバーではなかったからである。彼らをどう動かすのか?までを考えて、豪のおもてでの負担を少しでも軽くしなければ、この企画は成り立たない。彼らとなるべく近い距離で仕事を進め、「気付き」の感度を上昇させる計画を練った。また、企画が始まった時に、豪が調理をしている間だけでも彼らだけで店舗を回せるようにならなくてはならない。大事の前の小事、これに尽きる。


 文は町田の言葉を思い出していた。異国の地で異国人と心を通わせることも私が学ぶべきことだ、と。日本で動かない大人たちにイライラしていたけれど、動かないから、という理由で文がその大人たちの仕事もドンドン片づけてしまったことが逆に彼らのヤル気を消失させてしまったのかもしれない、と思えた。私はいずれ帰国する人間。私がいなくなっても、この企画が永遠に続く企画でなければならないのだから、やっぱり私が抱えてしまわないで、彼らにも沢山協力をしてもらわなくちゃ。と考えるようになっていた。

そう分かると、元の職場には二度と顔も出したくないと思えた。


 豪は必死に店の事を考えている文を心強く思っていた。今まで店を軌道に乗せること、維持させることに必死だったけど、ホコロビは沢山あった。彼女がそのホコロビを一つずつ直してくれている。毎日少しずつ整理していたバックヤードがふと気付くと、作業効率を数段高める場所に生まれ変わっていた。

日本の企業で事務職員だった彼女のおかげで、帳簿の管理、在庫の管理も生まれ変わった。余剰在庫がなくなったことは、利益率が上がることにつながった。

時間でしか動かないスタッフを逆手にとった業務時間中の休憩の取り方も彼女の名案だった。彼らは持ち場を離れなくなった。彼女は、自分の経験全てを無駄にしない。豪が全力で彼女を支える、と知れば、彼女も全力でそれにこたえる。本当に底知れぬ存在だと感じていた。


 だからこそ、小鳥が木で羽を休めるように、自分の心を休める場所が欲しかったんだろうな。それがトーマスだったのだろう、と思った。両親の愛情も彼女からは伝わってこない。きっと心から頼れる人が日本にはいなかったのだろう。豪は(俺がトーマスを男にするしかないな)と決意に似た覚悟を持った。


 豪には、ベルギー人の妻はいたが、子供はいなかった。夫婦仲も悪くはない。妻の身体は子供が出来ない、と知った以上、望んではいけないと分かっていた。妻が一番傷つくからだ。その分、仕事に打ち込んだ。妻も店を手伝ってはくれるが、戦力とは言えない。文の計画を実行に移す時には、妻の居場所をこの「ゆかり」に作ってやれるかもしれない、と感じていた。文にはいつか、このことを話してみよう、と考えていた。


 トーマスは三年生の講義が九月から始まるため、大学の準備を始めることにした。何か目的をしっかりと持たなくちゃいけない。何をこの二年で学んだのかを振り返らなければならない。あらゆる資料を引っ張り出した。そして、あまりにも空っぽ過ぎて絶望しそうだった。

(これでは、文だけじゃない、父さんも兄さんもガッカリするよ、きっと・・)

アルバイトもただ働くだけの仕事にはしないようにしよう、と決めた。街を歩いているときに見かける他のカフェのスタッフを見ることも勉強だと思った。文がいつか、自分のお店にカフェスペースを設けたい事を話していたことを思い出し、彼女にカフェのノウハウが伝えられるようにカフェの勉強もしたい、と考えていた。


(文に会いたい・・・)


 一日会えないだけでも、トーマスは不安になっていた。彼女はやりたいことが山ほどある、と言っていたから、トーマスに会う事も忘れてしまうほど忙しいのだろう、と不安になるのだった。


トーマスは、不安を払しょくするようにアーツ・ロワで待った。文がいつものように笑顔でこちらに向かってきた。

「トーマス、おはよう。会えて嬉しいわ。元気?」

「ぼくもだよ、文。文に会えないと元気も出ないよ。今日の仕事は何時に終わる?」

「今日は三時には終わるけど、その後、習字教室に行かなければならないの。トーマスも一緒に来る?」

「行ってもいいの?」

「勿論よ。でも、つまらないかもしれないけど、許してくれる? 私ね、書道の師範を目指すことに決めたの。だから、トーマスにもその姿を見てほしいな」

「分かった。三時にお店に迎えに行くよ」


(文は一歩ずつ前に進んでいる。僕は空っぽだ。でも、もがき続けなければならない、もがかなくちゃみつからないんだ。彼女にそれを助けてほしい)


トーマスは、カフェの仕事も改めてバックヤードから見直してみた。豆の種類や管理の方法、店の存在する意味・・・

(器だって・・・このカフェは器には拘っていないけど、僕や文がカフェをやるのなら、必ずこだわるはずだ。客は、この店に何を求めてくるのだろう?駅が近いからか?考えてみれば、何もそんな事すら考えずに働いていたんだ。「ゆかり」のあのベルギー人たちと僕は一緒だ)


文は今朝のトーマスがどこか元気がない事が心配だった。

(トーマスの力にならなくちゃ!)


 三時になり、トーマスが来店した。豪はトーマスの来店を心から喜んだ。文はその豪の顔を見て安心した。豪にもトーマスは信頼してもらえる男性なのだ、と分かるからだ。

「お先に失礼いたします」

と言って、豪へ文は挨拶した。豪とトーマスは抱き合って挨拶した。豪が最後にトーマスの背中をポンポンと叩いて送り出した。


文は、トーマスに会えなかった間の出来事を沢山話した。企画書がもうすぐ出来上がりそうであることと、豪にも何度か企画書を見せている事も伝えた。

「成功するといいね」

トーマスは優しい笑顔で文を見た。文は、その笑顔を見ると元気が出る自分を感じていた。

 町田の教室に到着し、文は町田にトーマスを紹介した。そして、彼の見学を許可してもらった。トーマスは、自分の気持ちの事しか考えていなかったので気付かなかったが、考えてみたら、「書道」というものを初めて見る。そのことを町田に告げた。


「あら、その初めての日本文化が文さんの書く姿なんて素敵ね。しかも彼女は、本当に素晴らしい作品を書く人なのよ。トーマスは自慢しても良いのよ」

と、トーマスに伝えた。文は、書道の準備をしていたので、その会話を知る由もなかった。

トーマスは書に向かう文をじっと見続けた。彼女は一心に白い紙に向かって、精神を集中させているようだった。背筋をピン、と伸ばして一気に書き上げる彼女の姿は美しかった。筆と共に動く彼女の身体は筆と一体になっているようだった。文字が何であるのかは分からないが、神秘的だった。筆が紙にこすれる音だけが教室内に響き、他の雑音がトーマスから消えることを感じていた。

町田の指導を受けながら、三十分ほど無心に書き続けていた文が、筆を置いた。


トーマスを手招きして呼んだ。トーマスが文の元へ行くと

「トーマス、ここに座って」

「何をするんだい?」

「トーマス、肩の力を抜いて。私が筆を運ぶから、トーマスはただ筆を持つだけにして、全ての力を抜いてね。感じていてほしいのは、この筆の中に芯があると思って、その見えない芯に心を集中させて力を抜いていてほしいの」

「分かった。やってみる」


文は、トーマスの手の上から握り、筆に墨を含ませて(信愛)と書いた。


「トーマス!すごいじゃない? 初めて筆を持ったのでしょう? こうして持つと、大概の人は自我が出て、グチャグチャな字になるの。でも、トーマスはしっかり筆をもって、私の運筆に心をゆだねてくれたわ。すごい!」


隣で町田も拍手をしている。トーマスは「無」の心になっていたことに気付いた。信頼する文が持ってくれているからだ。


「文が持っていてくれたから、何も心配していなかったよ。全て任せよう、って思って、芯だけに集中しただけよ」

「でも、心が少し整ったでしょ?」


文に言われて、ハッとなった。文は今日、トーマスが話しかけてきた意味を何か感じ取ってくれていた。うん、と頷いた。


文が片づけをしている時に、町田はトーマスに

「彼女のことを宜しくね。貴方の事をとても大切に思っているの。今日、貴方に会えてよかった。変な男を連れてきたらどうしよう?って、思っていたのよ。さっきの二人の姿を見ていて、貴方たちは心から信頼し合っている事を感じさせていただいて、安心したわ。悩み事は一緒に悩みなさい。彼女のように勢いのある時は悩みが無いように見えていても、実際は沢山悩んでいるのよ。でもね、トーマスという存在が彼女を強くしている事だけは理解してあげてほしいの。貴方が居なかったら、彼女は今あんなに強くいられない、彼女も脆いのよ。貴方が彼女を強くしているの。ねっ? 分かるわよね?」


 トーマスは自分が悩んでいたことが小さな事に感じた。自分だけが悩んでいるかのように思って恥ずかしくなった。文が居てくれることが支えだと改めて思った。そして、彼女の周りには素敵な大人たちがいてくれる。トーマスも幸せだった。


習字教室の帰り際、町田が文に

「そうだ!思い出した。文さん、リェージュに住む私の友人が今度、リェージュから出てきて、この街のイクセルで花屋さんを開業するの。彼女のお店のお手伝いをしながら、お花の勉強をしたら? この前、アレンジメントの技術も身につけたい、っておっしゃっていたでしょう? 彼女はエツコっていうんだけど、日本にいた時に裏千家の華道の先生もやっていたのよ」

「先生!なんて素敵な情報なの。早速エツコさんに会いたいです。今度来た時にご住所教えて下さい」


文は、種まきは続けるべきだと改めて思った。自分が何をしたいのかを事あるごとに信頼できる人に話をしていると、勝手に情報が集まってくることは日本でも同じだった。文は、この能力が特に優れていた。

(また、違うベルギーの世界が広がる!!)


教室を後にして、セントラルの駅に向かって歩き始めた。

「無理やり付き合わせてごめんね。書道はつまらなかった?」

「そんなことないよ。文の書く文字はとても綺麗だった」

「ほんと? 私、先生になれるかしら?」

「なれるよ。本当に書いている姿もかっこよくて、途中でね、周りの音が何も聞こえなくなって、文の筆の音だけが聞こえるようになったんだ。不思議だよね、あのうるさい街中でさ」

「トーマス・・貴方はやっぱり凄いわ。それが書道の醍醐味なのよ。それを感じるなんて。素敵すぎる。私もね、その時間を求めて書道に向き合うの。迷えば迷うほど、書道に向き合えば、心が整理されるの」

「うん、何となくその感覚は分かったよ」

「トーマスを誘ってよかったぁ」

「やっぱり、文は凄いな。どんどん遠くに行ってしまうようだよ。どうしたら、君のように前向きに自分のレールを敷くことが出来るのだろう? 僕は・・僕の中身は空っぽだよ」


自分の胸の中で最近、不安に感じていたことがつい口から出てしまった。文は、そんなトーマスの不安を一蹴するかのように近くのベンチに座って二人で話した。

「ねぇ、トーマス聞いて。私もやりたい事は漠然としているのよ。欲張りなだけ。ぼんやりと雑貨屋さんとカフェが出来たらいいな、とは思っているけれど、じゃあそのためにどうするの?って、聞かれたら、何も答えられないの。

でもね・・・例えば、雑貨屋さんはやりたいけれど、お客様が雑貨を探しながら珈琲が飲めたら幸せかな?とか、珈琲を飲む時に手作りの焼き菓子があったらイイナ、とか考えたら、珈琲を提供する技術を身につけなくちゃ、お菓子の仕入れルートを考えなくちゃ、お菓子が作れるようにならなくちゃ、とかって(やるべきこと)が見えるでしょ?

 それから先生に紹介されたお花屋さんはね、私の雑貨屋さんには、お花が飾られてなくちゃ私はいやなの。ん~お店の外にも植えられてたらいいわね。イギリスのお家やお店屋さんの玄関にはお花があるでしょ? あれと同じよ。お客様をお花で、おもてなししたいの。心から、ね。私のお店に来たら、心が軽くなって幸せな気分になって帰ってくれなくちゃ困るの。そしたら、お花の事も学ばなくちゃいけなくなるでしょ? 知りたくなる。(やるべきこと)がまた、見える。

 お習字はね・・・雑貨とは全く別物で、さっきも言ったように私の高ぶる心を安定させてくれるリラクゼーションなの。それに、私は子供の頃、学校の先生になりたかったの。今は、その気持ちも冷めちゃったけれど、子供は大好きだから、お習字教室でなら(先生)の夢も叶っちゃうかな?ってね。だから、師範も取りたいな、って考えたの。お習字の先生なら、いずれ子育てしながらも先生として働くことが出来るから。

 それにお習字をやっていると、絵具とかの筆の動きとかにも役立つことがあったりするものよ。

 こうして、やりたい事や叶えたい事を並べて人に話すだけで、沢山のチャンスが生まれるの。自分の中にだけしまっていてはダメなのよ、トーマス。チャンスが通り過ぎていくから。引き出しを開けたり、締めたり・・・

 その代わり、トーマスもお友達や周りの大切な人のチャンスのお手伝いをしなくちゃいけないの。

 例えば、お友達が美味しいワッフルが食べたい、って言っているのを聞いたとするでしょ? 私がストッケルで美味しいワッフルに出会えた!って、この前言った事覚えているわよね? そしたら、友達にそれを教えてあげるの。そしたら、その友達にとって美味しくなくても、美味しいワッフルでも、その感想をトーマスに話すでしょ?

 そういうところから、小さな情報が集まってくるのよ。そういうことを繰り返していると、有益な情報の伝え方が分かるようになって、人はトーマスからの情報を信頼するようになるの。そうすると、トーマスへも有益な情報が集まりやすくなるの。

これは、私の経験上の漠然とした答えなの。さっきのお花屋さん情報も先生から聞いた時に(あぁ、やっぱり!)って思ったのよ。

 私の中では、それを(種まき)って呼んでいるの。だからトーマス、自分の事をそんな風に思わないで。トーマスは、必ず見つけ出せるわ。今は、貴方の(種まき)の季節なのよ。空っぽなんかじゃない。種をまく土地は貴方の中にあるのよ。土地を耕して、土に栄養を与えなくちゃ!

 それにあなたは、私の心が見抜けるでしょ? 私の心を見抜ける人、今までに誰もいなかったの。もしかしたらいたのかもしれないけど、その先に私の心を心地よくさせてくれる環境を作れる人は一人もいなかったのよ。でも、あなたは出来る。私にとっては奇跡的な事なの。だって、言葉が通じる日本に誰一人としていなかったのよ。これって、貴方が空っぽな人でできることかしら? 

 トーマスはまだ、(やりたいこと)に出会えていないだけ。気付いていないだけ。ただそれだけなの。だから絶対に大丈夫。今、この瞬間からアンテナだけは下ろさずに張っていてね。

 そして、人の喜ぶ種まきを続けていたら、トーマスにとっての(やりたいこと)もきっと見つかるはずなの。向こうからチャンスがやってくるはずなの。

 私は子供のころから虐げられていた分、好きな事と向き合う事に貪欲でいられたから、小さな頃から自己分析が出来ているだけなのよ。そういう環境に育っていたっていうだけなの。

 これを話したら、トーマスに嫌われてしまうかもしれないけれど、私は両親が好きではないの。トーマスと逆だから、この前話せなかったけど・・・

 両親の事を育ててくれた事には感謝もしているし、尊敬もしている。でも、好きではないの。両親としては感謝しているけれど、一人の親として、一人の年長者の人間としては尊敬できないの。両親の世間を知らなさすぎることを軽蔑もしているの。知ろうともしない事もキライなの。だから、娘がどんなことに興味があって、将来、どんな人になりたいって考えているのかも知らないの。知ろうともしないの、興味が無いのよ、未だによ。

だから、娘が小さなころからドールハウスが好きで一生懸命作ったものをゴミ!と言って捨てるような両親だったの。娘の好きな物を知ろうとしないからよ。ゴミにしか見えなかったのよ。

娘が教師になりたい事も知らず、娘がそれを打ち明けても、ダメと言って、周りの大人たちを使って、私に夢を諦めさせるような根回しをしたりするような両親だったの。

その割には、自分達の世間体や自分達を守っている環境を崩さないようにすることには必死な両親なの。

私は実家を出て、外の世界を初めて知った時に衝撃を受けたの。あまりにも自分が知らない事が多すぎて愕然としたの。それまでの私は、知りたい、知ろう、という思考に考えも及ばなかったの。思考を止めさせられていたの。それが悲しくて、悔しくて必死に働いて大人たちに追いつこうとしていたの。

 だから、今の思考になったことは、ある意味、両親のおかげでこうなったのかもしれないわね。だから、感謝しているのよ。それに、思考を停止させられていたとはいえ、私にもっと(好き)に対する情熱があれば、きっと違う道を歩めたはずなのに、私がいけなかったんだと今は分かるの。子供は親を選べないしね。それは、親にも言えることだものね。両親の事をこんな風に考える私はダメな娘でしょ?」


トーマスは、そっと文を自分の方へ抱き寄せた。


「ごめん・・・きっと、僕のせいで嫌な事も沢山思い出させたね。でも、文を嫌いになったりしない。むしろもっと好きになったよ。君とずっといたい。僕は君といると安心なんだ。こうして、いつも君は僕の進むべき道に明りを灯してくれる。大丈夫だよ、ってさ。本当にいつもそれが心強いんだ。ありがとう。沢山迷って、沢山考えて、沢山トライして、レールを敷いてみるよ。だから、いつも傍にいてほしい。ものすごく元気が湧いてきた。ありがとう、文」


 文は、自分の中の「忌まわしい自分」までトーマスにさらけ出したことが衝撃だった。この先、誰にも見せない自分の一面だと思っていたからだ。

(なんだったら、こんな風に考えている事は妹だって知らないのに! トーマスは本当に不思議な人。嫌われても仕方ないと思っていたけれど、話せたことが逆によかった。彼の心にずっと寄り添っていきたい。彼となら理想とする家族を築けるのかもしれない)


(文の意外な一面を知ることが出来て驚いたけど、よかった。彼女に初めて会った時の真剣なあの目は、色々な今までの人生の意味があったのだろうな。僕も、母さんが亡くなってしまったから、父さんと仲良くしているけれど、それがなければ、どうなっていたかなんて分かるはずもない。きっと、これも与えられたチャンスなのだと思う。文の考え方はとても素敵だ。凄く参考になる。彼女の働く姿や学ぶ姿をもっとそばで見ていたい。また、彼女のボスに会って色々と話をしてみたくなった)


文は気を取り直して、トーマスのお店のお客様を喜ばせる勉強のために、これからは色々なカフェに行くようにしよう!という提案をしてみた。

「私、珈琲も大好きだもん」


トーマスはすぐに食いついた。

「実は、僕も同じことを考えていて、少しずつ街のカフェのスタッフの動きを盗み見したりして研究していたんだ。店でも豆をどこからどんな豆を仕入れて、どんな管理をしているのかを見るようにし始めたんだ。豆の保管場所にボスが凄くうるさいことも今までは何も気にしていなかったけど、調べてみたり、ボスに聞いたりしたらその意味も分かった。おかげで怒られる回数も減ったよ」

「ほらぁ、やっぱりトーマスは凄いじゃない? 気付いているのよ。トーマスのココではね」

と、トーマスの眉間に人差し指を当ててにっこり笑った。

「でも、ココではそれを理解していない」

と言って、今度はトーマスの胸に手を当てた。(トーマスは大丈夫)

トーマスは嬉しくて、文を抱きしめた。文もトーマスの胸の中に身を預けた。

「私達は二人で一人ね?」とトーマスの胸の中でつぶやいた。「そうだね」


文は、トーマスが書道に行く前、いかり肩になっている事が気になっていたけれど、教室を出た時には下がったことを確認できたので、きっと悩みも少しは解けるかな?と感じていた。何に悩んでいたのかを理解出来てホッとした。

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