Beljapon (ベルジャポン)

たかつ みよし

第1話 自分探しの留学 ~花の王国へ~

 今年の初夏はいつもよりジリジリと暑く感じる。

 自宅の部屋を出て、大きな重いスーツケースの上にスポーツバッグを乗せ、背中には大きなリュックを背負い、月見 文(つきみ ふみ)は実家のある山梨を出た。


 先月、入社5年目に入った会社を依願退職し、六月の後半は有給を消化しながら引っ越し作業を進め、住み慣れた川崎の街にサヨナラを告げて山梨へ戻っていた。川崎もこの山梨も梅雨の真っただ中であった。文は梅雨が嫌いだ。梅雨の後の「夏」が一番好きな季節である。そのジメジメした梅雨が明けたと思ったら、この暑さだ。大好きな夏に次のステージに向かうことが出来る喜びは、どう表現して良いのか言葉も見つからなかった。

 文はそんな全ての住み慣れた環境を振り切るように、後ろを振り返る事もなく、成田へ向かう電車に乗った。


「みんな暫くサヨナラだ」


 成田空港出発ターミナル。外気はむせるような暑さなのに、この空港は早めの夏休みに入った者たちで、バカンス気分の文と同じ世代の若者が多かったので、文は思わずイラっとして溜息が漏れた。


(こっちは、覚悟という大きな「荷物」をトランクに一杯詰めこんで・・・へし折れそうな心と闘っているのにさ、良い身分だよね・・・)


思った瞬間、「想い」が天から舞い降りてきた。


(あ、そっか!私が勝手に重い空気、って思っていたものは、この「覚悟」っていう不安の重さだったのかもしれない・・・)


そう納得できた瞬間、文の心は何故かフワッと軽くなっていた。


(よし!何が待っているのか分からないけれど、自分で決めた事だもの。精一杯チャレンジして生き抜くしかないよね!)


 この為に貯金を始めたのは、丁度二年前。この二年間、贅沢を封印し、ひたすら「貯金」と「学び」に費やした。悔いはない。一度きりの人生。自分で切りひらかなくちゃ、誰もレールを敷いてはくれない。例え敷いてくれたとしても、そんな人生はツマラナイ! 自分でチャンスをつかみ取っていかなくちゃ。

チャンスは、降ってくる時もある。掴みにいかなければならない時もある。でも、両方に共通しているのは、チャンスに対しての「アンテナ」を張っているかどうか、ということだ。


 二年前までの文は、精神的にとても疲れていた。

手を抜けない自分の性格が一番の原因だということは分かっているが、それでも必死に働かない大人達に腹が立って仕方なかった。苛立っていた。人生を諦めたような大人たちを見ている事に嫌気がさしていた。自分もあんな風に歳を重ねていくのかと思うとゾッとした。「自分」を取り戻したかった。取り戻す、というよりも、本当の自分を探したかった。ただ、目の前の仕事にブツブツ文句を言いながら、何となく日々をやりすごし、黙って給料という労働の対価をむさぼる大人達・・・

恥ずかしくないのだろうか?そんな自分の働く姿を自分の子供たちに堂々と見せられるのだろうか?一生懸命働こうとは思わないのだろうか?見ているコチラが悲しくなってくるのだ。

 自分は、どうなりたいのだろう? 何を目指しているのだろう? どんな時に幸せだと思えるのだろう? どうしたら心から「生きている」と思えるのだろう? せめて・・・文は、自分がいつか、出会うであろう未来の自分の子供たちに必死に働く姿を見せられる大人になりたいと思った。誇れる「何か」を得たかった。


 何もかも恵まれたこの「日本」という環境に身を置いていると、見つけ出せなくなる気がしていた。言葉も通じる。習慣も地域によって差はあるが、日本人として理解が出来る。食事も食材も困ることは無い。分からない土地に行ったとしても、大体の「あたり」がつく、という環境は実に恵まれている。もっと「孤独」に追い込まれなければ、内なる自分はでてこない、と思った。


************


 文は、子供のころから「時代劇」が好きだった。日本人の精神論的な要素が詰まっているところが一番心惹かれているのだ。時代劇に出てくる昔の人達は、皆それぞれ必死に生きている。礼節を重んじながら、覚悟を持って生きている。でも、とても生き生きとしている。勿論、お芝居であることは分かっているのだが、きっとあの時代の人達は、芝居の世界のままに違いない、と文は疑っていない。でも、今の日本には、あの「魂」がないように思われてならないのだ。それが悲しかった。

 時代劇の面白さは、人だけじゃない。建物やモノが古い事も興味の対象であった。物も情報も限られた、あの時代に機能的で日本の風土に合った物が実は沢山あって、実はドンドン消えていっている。大人になって自分のお給料で大好きな雑貨を買う時には、古い物やさびれた雰囲気のものを好んで買っていた。アンティーク、骨董などは飽きずにいつまでも眺めていられる。その時代を想像すると、文の空想が止まらなくなるのだ。


 文は、何でも便利になっていく世の中だけど、昔のように不便を楽しむことも、とても大切だと思っていた。不便はきっと、時間やモノをも大切にしてくれると思っていた。便利になると同時に人間たちは、何かを忘れてきてしまっているようにしか思えないのである。だから、わざわざ不便な事をすることが文は好きだった。

 コッチの道の方が近道・・・だけど、遠回りしてみよう。レンジでチン!してしまえば簡単だけど、あえて手作りしてみよう。大好きなお酒も買えばすぐに飲めるけれど、自分でレモンや梅、ゆずを漬け込んだお酒は、待つほどに美味しくなる。飲みながら待っていた時間が「つまみ」になる。携帯を取り出し、SNSで近況を伝えてしまえば、早い上に楽だ。でも、ペンを取りだし、便箋をどんな柄にしようか悩んでみたり・・・そんな風に生活を楽しみたいのである。


 だからなのか、文の中での不便な事と生活を楽しむことは「海外」だった。海外といえば、長い歴史のある、それでいて古い建物や物を大切に受け継いでいくヨーロッパに興味があった。それでいて、ファッションや食、暮らしぶりなどは、常に世界をけん引している。新旧が絶妙なバランスで維持されている印象がヨーロッパにはあると思っていた。

 若者が海外に留学をする、といえば「アメリカ」が定番のはずなのだが、文はアメリカに興味が湧くことはなく、ヨーロッパの小国ベルギーを「自分探しの逃避行先」に選んでいた。小さいが故に何となく掌に収まりそうな感覚があった。「この国しかない!」と直感ではあったが、渡欧先を決めた。それが二年前である。留学の本、海外での暮らし方の本、海外旅行の本など買いあさり、インターネットでも検索出来る限り調べてみた。住みながら、もし他国へ旅に出るときにアクセスが良さそうな所がベルギー国、ブラッセル市だった。日本企業も多く入り込んでいるようだ。上手くいけば、アッチで就職できるかもしれない、という淡い期待を持って旅立つまでの準備を始めることにした。


まずは、資金作り。アレコレ考える前から、質素倹約を心に決めて、貯金をすることに努めていた。ゴールを決めて、そのゴール時には今の会社を退職し、アパートも引き払い、一旦、実家へ荷物を送ろう、というところまでは早い段階で決めていた。


 高校を卒業し、実家を出て、今の会社に一年勤めた頃、ふと周りの大人たちを意識して見るようになっていた。

自分の仕事を余裕もって出来るようになり、もともと好奇心旺盛で貪欲に物事に取り組むことが信条の持ち主の文にとって、この一年経過した頃は、迷路の中だった。

自分はもっと仕事をモノにしていきたいし、学びたい!という欲があるのだけど、周りの先輩が許さないのである。もっとゆっくり仕事を進めるように注意される。文にミスが多いからではなく、そつなく仕上げているにもかかわらず、である。これではヤル気も失せる。もっと上司に恵まれていたら、今日、成田空港出発ロビーにはいなかっただろうな、と深い溜息が漏れたのだった。

 

 出発までのザックリした計画を立てて、次に住居選びと語学留学を目的にして学校選びを始めた。その他にアルバイトをしながらでなければ、すぐに貯金も底をついてしまうだろうから、アルバイト先も何となく決めておきたかった。ヨーロッパは、税金や物価がメチャクチャ高い!日本の消費税の倍以上だ。働きながら学んだほうが、少しは余裕をもって生活できると考えていた。全てのリストアップを始めて、調べられる限り自分で調べてから、コンタクトを取らなければならない所とコンタクトを取ろうと慎重に計画を進めた。


 前向きな気持ちになると、あんなに嫌でたまらなかった会社も「貯金を作る場所」と思えば何でもなかった。もしかしたら、大人たちも色々な事を諦めているのかもしれない、ふと考えたりもした。


 渡欧する、と決めた日から一切の外食を断った。コンビニも絶った。全てを自炊に切り替えて、当たり前のようにコンビニで買っていたドリンクも全てマイボトルに詰め込んだ(そんな大層な事ではないけど、お茶や水ですらコンビニで買っていたことを思うと大層なことかもしれない)。大好きなお酒ですらレモンや梅が沢山手に入った時に手作りして、他のものには手を出さなかった。

渡欧を決めてからの文は、極貧生活をしているはずなのに、生活が豊かに感じられていた。目標を持って前に進み始めると面白い事に色々と気付くものだ。初めは「贅沢を我慢」していたはずなのに、途中から「我慢することが楽しく」感じられるようになる。それが二年を通じて分かったことだ。しかし、これが分かったことがその後の海外生活で、如何に役に立つことかを知る事になるのだった。

断捨離も始めた。売れる限り全て売ってみようと思った。本、CD、DVD、洋服、雑貨・・

 日本に戻ってきたときにまた、使う物のリストを作って、直前まで使うけど、出発の時には実家に預けていく事にした。日本に戻った後も最低限での生活からスタートをさせたいので、小さなものまで処分することにした。新品で日本的な物は、アッチでのお友達づくりの時のプレゼントに使えそうなものとしてよけておいた。家具は一切持っていくつもりが無かったので、出発直前まで使うものと(実家行き)、処分する物に分けた。小さなアパートに住んでいた文だったが、物がなくなると、物に溢れていたようには思えなかったアパートが、「無駄」って多いものなんだなぁ、と感慨深く思うのだった。一度に処分すると、それはそれで寂しいので、少しずつ処分していった。売れると「留学貯金箱」に入金していった。 チャリーン!という音が「ガンバレ!」という音に聞こえるから不思議なものだ。

 もともと貯金していたお金に加えて、「決めた日」からの貯金。目標額は五百万。二年間だけ欲しい洋服も行きたい旅行もカフェも居酒屋も封印した。ベルギーに行けば、絵本を見るような、旅のカタログに出てくる風景を沢山、見ることが出来る、きっと。それに美食の国、チョコレートの国。ビールの国である。それまでのガマン、ガマン。


渡欧するときには最低限の洋服だけを持っていき、現地調達を心がけることにした。「勿体ない」と思うかもしれないが、これが案外、アチラの生活に馴染むための少し近道だったりする。使い慣れた日本のものを持っていくと安心するだろうけど、アチラの文化や生活に触れた、とか馴染んだことにはならない気がした。


 唯一、語学学校選びは、どうしてよいか分からなかった。文の目的が典型的な語学留学ではないからだ。しかし、折角行くのだから、フランス語が話せるようになってみたい。だけど、勉強に明け暮れるような「学生」にはなりたくないと思っていた。

住むところもどちらかと言えば、静かな住宅街が好ましかった。幸いブラッセルは日本企業も多く、日本人学校もあるので、日本人が多く住んでいる。ならば、文にでも住む所があるということだろう、と彼女は考えた。語学学校が近くて、ブラッセルの中心部ではない所で探してみようと思った。ワンルームで十分だ。

 それから、働くところは、アパートと学校の間にあるといいな、と思いを巡らせてみた。候補となっている学校はブラッセルの中心からやや南にあるので、そちらの方面で探してみようと考えた。早い段階でかなり生活環境について絞り込んでいた。便利な世の中だ。インターネットという物がある。この時代に生まれた事に感謝だ。


 次に自分の目的を明確にしたかった。観光になってしまわないようにしたかった。「自分探し」の留学ではあるのだけど、何かを確実に掴んで帰国したかった。それが語学でもいい、何かの技術でもいい。日本に帰国して、自分にとって自信となるものがほしかった。その為には、留学の目的を明確にしなければならない。


 出発するまでの間に集められる欲しい情報を積極的に集めようと考えた。SNS等で、ブラッセルに滞在中の人や滞在歴のある帰国者などと繋がってみたり、情報を集めることにした。それだけでなく、図書館や本屋などからの情報も積極的に集めた。

調べているうちに文は、自分が既にブラッセルに住んで学校に通い、スーパーで買い物をしてアパートで生活しているような錯覚に幾度となく陥った。空を見上げても、ベルギーの空を見上げた事も無いのに、ベルギーにいるような気分になる事もあった。

「今日の帰りはデレーズに寄ってから帰ろう!」

などと普通に考えていることもあった。文自身が驚くほど自分の計画にのめりこんでいた。


(一体、私の何がそうさせるのだろう?)


 渡欧目的は、やはり子供のころから大好きな雑貨屋さんを帰国後に開きたいから、その為に必要な情報や物を入手することだった。

文の目指す雑貨屋は、大好きな珈琲を飲める場所にしたいので、その知識も習得したいし、雑貨の見聞を深めるために色々な事を経験したい、と考えた。子供のころから住環境にも興味があったので、異国のそういう文化にも触れたかった。食べることも好きな文は、日本以外の国の食事にも興味があった。何でも出来る限り吸収したいと思った。雑貨は、生活そのものを豊かにするモノだから、興味のある色々な事にチャ レンジしたかった。


 アルバイト先は、言葉の壁があるため、日本食材の店、日本食レストランなどを片っ端から当たる事にして、リストアップをした。実際に先方に連絡を取るのは、一年前からにしようと決めた。あまりにも前では、店側も難色を示すと思ったからだ。それは、日本で働いていた際に人事に関わる仕事もしていたからこそ気付いた事だった。何事も経験だ。文にはコレと言って何も取り得はないけど、必死に働いた「経験」はある。そこで身についた知識や目で見たもの、感じたもの、聞いたものは全て「財産」だという自負はあった。証券会社の総務、経理をガッツリ経験して得たものが生かせるかどうかは分からないけれど、今の文には「財産」だった。

 語学の壁を少しでも克服するために、フランス語のCDを音楽でも聴くように四六時中流し聞き、大好きな映画は、なるべくフランス語映画をチョイスして観るようにした。まだ知らぬ世界を想像することは楽しみでもあり、同じくらい不安でもあった。


 数々の準備と覚悟を決めて、成田空港出発ロビーに立っている事に文は自分自身が誇らしかった。ここまで何とか出来た、来ることができた。ここからが本当のスタートだ。これだけの準備が出来たのだもの。ここからもきっと頑張れる。上手くいくはずだ。何より「生きている」実感が湧いていた。


 勤めていた日本の会社は、仕事の内容はやりがいもあり、楽しかったのだが、働く人たちに目指すべき人達がいなくて、文は自分を見失っていた。

ヤル気があるのだか無いのか分からない直属上司。知識や経験もあるのに、それを出さずにそっと定時に来て定時に帰る先輩たち。問題提起をすれば、聞く耳を持ったフリをするが、改善しようともしないし、諭すこともしない上司。問題従業員がいても見て見ぬフリの仲間たち。そんな腐りかけた部署の部下たちは上司を飛び越えて、他の部署の上司に相談したりする。そうすると、腐った部署の上司は、自分の立ち位置だけは守ろうとする。組織が機能しなくなるのだ。

 管理職は、自分の椅子を守る事に必死で、何をしなければならないのか?何を守るべきなのか?が分かっていないから、いつも問題点が的外れである。それは、とどのつまりが管理職の椅子が守れるかどうかの議論をしているからだ。もしくは、その椅子よりも上級な椅子に座れるかどうかだからだ。

 公務員の定年を迎えた業界未経験の天下りが入社して、さらにその環境が悪化した。事務所内で怒号が飛ぶ内容は、ハンコの順番だったり、提出文書の文字サイズや改行ピッチだったりする。何のために働いているのか、文は段々見えなくなってきてしまって、脱力感でいっぱいだった。

そういう「残念」な人生の先輩方も勿論、良い存在とは思えないが、文は悟っていた。


(どんな人間と働いても折れない「自分」を探し出さなければ、私は一生、人のせいにしながら生きていく事になる。全ては自分が決めることなのだから、「自分」を探す旅に出よう!この環境を嫌だ、いやだと感じる自分の事が一番嫌なのだから)


 この甘い空気とは、しばらくお別れだ。自分で見えない土地を耕し、切り開いていかなくてはいけない。泥臭く汗をかかなければならないのだ。耕した土地から、どんな芽が出てくるかは自分次第なのだから。


    *****


 飛行機の席は窓側を選んだ。日本の景色にキチンと別れを告げて、ヨーロッパの景色を見て「覚悟」を決めたいからだ。日本からベルギーへの直行便はなく、文は、シャルル・ド・ゴール空港のあるフランスを乗り継ぎ地に選んだ。そこからは、電車で移動した。フランス語に、初っ端から挑戦してみようと思ったからだ。

窓から日本の大地が見えて、そのうちに見えなくなったので、座席の画面でどこを飛行しているのかを確認したら、日本を離れていた。

ホッとしたら、急に二年間分の「疲労」が出たような眠気が文を襲った。



 旅立ち前の一年間は、アルバイト先の選定から始めた。SNSで繋がっていた人達に現地でアルバイトを探している店を紹介してもらったりした。その中に、二件の日本食レストランと日本食材の店一件を紹介してもらった。紹介してくれた日本人は、文と入れ替えで日本に帰国が決まっている駐在員の奥様だった。迷惑をかけたくなかったので、紹介だけしてもらって、店の人とはメールでのやりとりをすることにした。時差もある上に文はまだ働いている身の上だ。なかなか先方と話が進まない事がお互いにストレスになってしまうからだ。


 何度かそれぞれの店の店長とやりとりをしていく中で、文は日本食材の店「縁~ゆかり~」にアルバイト先を決めた。そこで働きながら、語学学校に通うことを許してくれたからだ。店長の橋本 豪(はしもと ごう)は、ベルギー人の妻がおり、子供はいなかった。もし、自分達に子供がいるとすれば、文くらいの子供がいただろう、とメールにはあった。親のまねごとをさせてほしい、ともあった。その代わり、仕事も生活態度も厳しくする、と。豪は、他の店の店長たちとは違い、とても文の「やりたいこと」に寄り添って返事をしてくれていた。豪自身が日本を離れて長くなるので、店舗内は豪が教えるから、基本フランス語で、と言っていた。豪は細かく状況を文に伝えていたので、この豪の店で働く事に決めたのだ。


 語学学校は、豪の情報で、コミューンといって、日本でいう役場のような所が斡旋する語学学校があることを知った。そこならば、コミューンにもよるが日本人がほぼいないらしい。コミューンの語学学校は、現地に着いて、アパートが決まってから、決めることにした。

 その他にも大学の単発的なフランス語講座も受けられるらしい。しかもリーズナブルだ。高卒の文は大学に行った事が無かったので、この大学内にある授業を選ぼうかな?と考えた。まずは、資料を取り寄せてから、申し込みをすることにした。 

大学の中の語学学校は、期間が短いので、それが終了したら、コミューンに移行していこうと考えたのだ。

 大使館に一年間の滞在許可を申請するにあたっても、豪が快く力を貸してくれた。文は、豪の厚意を無駄にしたくないと強く思った。

(働きながら必ず恩返しをしていこう!)


 豪は、長年の客商売でのカンで、文の真っすぐな考え方、捉え方に好感を覚えていて、たとえ一年だとしても、店にとっては必ずプラスになる、と根拠のない自信を持っていた。文からは、細かく履歴書と職務経歴書が送られていたので、そこからも充分に判断することができた。何よりもメールのやりとりで文の人となりが十分に伝わっていた。文を紹介してくれた駐在員の婦人からも、SNSでの文とのやりとりの内容を聞いていたので、文が二年前から着実に準備を進めていたことも報告を受けて知っている。

(これで最悪なお嬢さんだったら、俺の見込み違いとして、俺自身が痛い目に遭えばいい)


       *****


 どれくらい寝たのだろう?文が起きた時には、ロシアの上空だった。機内は、眠りについている人、映画鑑賞をしている人、ワインを飲みながら読書をする人、様々な過ごし方でフライトを楽しんでいるようだった。


 そして、成田を飛び立ってから十二時間後、フランス、シャルル・ド・ゴール空港に到着した。現地は夕方だが明るかった。初めて見るフランスの景色は、成田の窓から見た飛行場の景色とは、やはり違った。それに・・・空が近く感じる。窓からの景色に見とれて、降りることも忘れそうだった。他の乗客に続いて、文も飛行機から降りた。思わず、鼻から大きく息を吸い込んでみた。

(これがヨーロッパの香りなんだわ)

皆の後に続いて、ドンドン・・・ドンドン・・・歩き進めていくと、スーツケースがぐるぐるとベルトコンベアの上を回る所に辿り着いた。文はもう一度、大きく深呼吸してみた。全てが初めての事で、肩に力が入っていることを悟ったからである。

慌てず・・・急がず・・・そういうモノは、全て日本に置いてきたんだもの。この初めての経験をむしろ楽しまなくちゃ。

 無事に大きな荷物を受け取り、大行列のパスポートコントロールを抜けて、荷物チェックを受けて、無事にフランスの地に足を踏み入れた。

 そこからは、タリスに乗るために電車のホームへと向かった。初めての海外なのに(なんだったら、飛行機も初めてだった!)、日本と違って、言葉も分からない割にイラスト表示や案内表示が分かりやすいのだろうか?迷うことなく、駅へ向かうことが出来た。電車のチケットも、つたない英語で何とか伝えることが出来た。日本の旅行会社の人にチケットの購入方法などを伝授してもらっていたことも大きかった。それでもそれらにチャレンジしているのは紛れもなく文自身であった。

一つ一つのミッションをクリアするごとに、文の心はもっと前向きになり、いつしか異国の地で胸を張って歩く自分に気付いた。

 周りの人からすれば、こんな事くらい誰でも出来るでしょ?と思うことかもしれない。でも、日本から離れた事が無い、いや、日本国内でも本州から出た事がなかった文にとっては、大きな冒険なのだ。パスポートコントロールを通過する事も、荷物チェックを受けることも、全てが「恐怖」でしかなかった。「挑戦」だった。まして、日本と違って「犯罪」の臭いしか感じられない異国の地だ。日本人というだけで狙われているようで仕方がなかった。クタクタに疲れてはいるけれど、居眠りなんかできなかった。気が抜けない事は「空気」から伝わってきて感じていた。


文のドキドキに反して、車窓から見える景色がベルギーに入ったことを、家の雰囲気や道路などから、初めて見る文に視覚で伝えてきていた。


 電車は、ブラッセル市ミディ駅に到着した。空港のパスポートコントロールを味わっていたので、またあんな感じなのかな?と思いきや、どこにもその存在はなく、フランスからベルギーに「入国」したにもかかわらず、まるで東京から山梨に「帰ってきた」かのように「普通」がそこにあった。キョロキョロと周りを見渡しながら、大きな戸惑いを隠せないまま、次なるミッションはブラッセル市内の交通である。目的地の「ゆかり」までは、豪から事前に情報をもらっていたので、心強かった。


 ベルギーの人が日本に来たら、ひらがなや漢字という初めての「文字」に向き合わなければならないが、日本からベルギーの場合、フランス語もオランダ語も分からないが、「アルファベット」には免疫がある。英語読みすれば、何とか読み取れる。「何とかなる」のである。文の価値観は見事に崩れた。

(な~んにも分からない、って思っていたけど、何となくアタリがつくものね♪)


 ところが、一番困ったことは、駅を降りてから豪のお店に向かうまでが、フランスに到着してから一番苦労した。手元に地図が無いので、豪からの説明だけでお店を探し出さなければならなかったのだが、出口によって風景も変わる。一瞬パニックを起こしそうになったが、「出口によって」の見え方を変えてみた。豪から説明のあった見え方のする出口が分かれば、容易な事であった。

 どうにか店の前に到着できたのは、もう夜も遅くなり、暗くなり始めていた。豪が気にかけて外を見ていたので、文が到着するとすぐに出て来た。豪は、豪快に文を抱きしめて、店の中へ招き入れた。

「遠くから本当によく来てくれたな。今日からは俺の娘だぞ。さぁ、入れ」


恥ずかしがる間もなく、自己紹介をする間もなく店の奥へと促された。それでも、どうにか気持ちを整えて、文は

「一年間、色々と教えていただきありがとうございました。店長のおかげで無事にこちらまで、来ることが出来ました。本当にありがとうございます。そして、これからの一年も、ご迷惑ばかりおかけすることになると思いますが、どうぞ宜しくお願い致します」

と言って、深々と頭を下げた。

 豪はその文の立ち居振る舞いを見つめて、感慨深く、この一年の文とのメールのやりとりを思い出していた。そして、移動の疲れを気遣って早く寝るように促した。文はその夜、泥のようにベッドに倒れこみ、深く、深く眠りに落ちていった。


 翌朝、目覚めた文はシャワーを浴びた後、ベルギー初の朝食にありついた。

今日は豪の計らいで、文は一日フリータイムとなった。昨夜、豪から

「ブラッセルと言えばグラン・プラス! 明日は自分の力でグラン・プラスの周りを散策してきなよ。明後日からはガッツリ働いてもらうし、アパートも探さなくちゃいけない。忙しくなるだろうからさ、明日はゆっくり、ノンビリ観光しておいで」

と言われていた。

 朝食後、早速、「地球の歩き方」を引っ張り出し、グラン・プラスへの行き方をチェックしてみた。

地下鉄やバスなどに使うことが出来る「乗車券」の買い方さえクリアできれば、何とかなりそうだった。


 店内を観察したい気持ちを抑えて、居候先の店「ゆかり」を出て、ポルト・ド・ナミュール駅へ向かった。昨日、ここへ到着した時は、「観光客」のような文だったが、今日からはベルギー人に混ざっている住人だ。そのことが少し誇らしかった。


アーツ・ロワの駅で乗り換えて、セントラルに向かった。

セントラルの駅を降りて、中央出口を目掛けて歩いた。どんな景色が待っているのかを想像するだけで心臓が止まりそうだった。

改札と言っても、日本のように切符を切る人もいない。何もない。でも、文には、

(私にとっては、ここが中央改札口)

思える場所があった。駅の顔ともいえるその場所は、セントラル駅の中でとても趣がある場所だったからだ。


 大抵の駅は、ホームに降りる、または上がる階段口または、エレベーター口が改札で、乗車券を通す機械が設置されている。そこを抜けてしまえば、単なる駅の構内、またはホームとなる。日本のようにキッチリしていない。そこが文には、何となく居心地が良かった。日本での文は、「普通は・・・」とか、「本来ならば・・・」とかという「こうあるべき!」みたいな考え方をしてしまいがちになる。そういう「自分の中のツマラナイ常識」を、このベルギーは、片っ端から(ふん、くだらない!)と言って、捨てていってくれるような気がしていた。


 セントラル駅を出て、目の前の横断歩道を渡り、高架をくぐって右折して、人々が一番多く流れる方向へ下っていくとグラン・プラスがある。文も人の流れに身を任せて歩き始めた。

しばらく歩くと、ホテル・ノボテルの正面にこじんまりとしたアンティークショップを発見することが出来た。

文の心は踊った。(何てラッキー!)

 店のガラス越しに飾られた品物の数々が初めて見る物ばかりで、傍から見たら、窓にしがみつき、オモチャをねだる子供のように、文はいつまでもいつまでもウィンドゥにしがみついて眺めていた。

 ふと隣に同じようにずっと立っている男性の姿に気付き、文は我に返って最初の目的地、グラン・プラスを目指すことにした。




 文と同じ店のガラス窓に飾られたアンティークを見ていたトーマスは、無類のアンティーク好きであった。特にこの店は、いつ見ても掘り出し物がある。特に買い求めるわけではないが、何かインスピレーションをくすぐる物に出会えそうで、ついつい覗き込んでしまうのだ。今日は、珍しく自分の特等席に先客がいた。しかも東洋人の女性だった。同じ歳くらいの女性に見えたけど、観光で来たのだろう、とボンヤリ考えながら、トーマスはグラン・プラスへ向かった。

 トーマスは、大学生活が2年経ち、ようやくブラッセルにも慣れてきた。人口の多さと時間の流れ方に、幾分か慣れてきて楽しめるようになった。トーマスは、アルバイトが休みの日は市内を散策するように心がけている。アパートに引きこもっていては、折角の家族の想いに応えられないと一年前に気付いたからだ。


 文は、グラン・プラスの「王の家」前の階段に座り、ボンヤリ人と景色を眺めていた。当たり前だけど、外国人ばかりだ。いや、正確に言うと文が外国人だ。どこを見ても日本人はいない。万歳をしたい気分だった。とうとう来ることが出きた。檻から抜け出した気分だった。不安の方が大きいはずなのに、その不安と闘う事の方が楽しみで仕方なかった。自分の口角が上がるのを感じていた。


(不安を克服する、ということは学ぶという事。そして、私自身が成長できる、ということ。私の中にある潜在的な何かがきっと、ベルギーで見つかるはず。そう信じたい。変わりたい。本当の私を見つけたい。誰かのせいにして人生を楽しくないものにするよりも、自ら切り開いて、自分の手で楽しい人生にしなくちゃ!ツマラナイ大人達のようにならないために私自身を探し出さなくちゃ!)


誰を見るでもなく、空中を凝視している文は、自分自身と語り合っていた。自分の覚悟を確かめていた。


 文の近くへ同じように階段に腰かけたトーマスは、買い求めたワッフルを口に運びながら、フラワーカーペットの準備を始めようとしているスタッフの動きを見ていた。今年は二年に一度のフラワーカーペットの年だ。多分、開催実行をするスタッフたちが設計図などをもとに打合せをしているのだろう。この素晴らしい石畳の上に飾られるフラワーカーペットは、トーマスにとって、ブラッセルで初めてのお祭りで、とても楽しみだった。

ふとトーマスは、自分が座る隣の階段にいる文に目が留まった。

(あれ?さっきのアンティークショップにいた子だ)


 文の真っすぐな眼差しにドキッとしながら、吸い込まれるようにじっと彼女を見つめていた。暫くの間、どこか遠くをじっと見ていた彼女は、目の前で遊ぶ子供たちに気付き、視線を落とした。子供たちを見つめる彼女は、さっきの毅然とした眼差しと違って、とても優しい目で微笑んでいた。トーマスは、彼女の視線と表情から目が離せなくなっていた。胸の奥がキュッとなることを感じていた。三十分程、文もトーマスもその場から離れることはなかった。

(あの子供達に向けた彼女の眼差しが、本当の彼女だ・・・)


 文は、グラン・プラスの中にあるレースショップのウィンドゥを眺める事を思い立って、立ち上がった。文の目的の一つ、ボビンレースをまずは、見学したかったのだ。トーマスは、気になる彼女に話しかけることも出来ずに彼女を静かに見送った。


 レースショップにもアンティークレースが飾られている。文は目の保養になるこのような店が大好きなのである。レース店の隣には、文が愛してやまないチョコレートショップもある。文にとっては幸せな場所だった。

 彼女は、グラン・プラスをグルっと回ってみた。なんて素敵な場所なのだろう。いつまで見ていても飽きないこの場所は、建物といい、建物に施された彫刻といい、石畳といい、建物同士のバランスといい、この広場の調和が完璧だと思った。圧巻、羨望、どんな言葉も陳腐な言葉にしか思えない位、素敵な場所だった。


日本からの移動の疲れもあったので、文はグラン・プラスをあとにすることにした。

(これからは、ここの住人なんだもの。また、お休みの日に来よう)


 再びセントラルの駅を目指した。周りの景色を眺めながら歩いていたら、(書道教室)という張り紙を発見した。

(あれ?私、字が読める?いや、日本語だよ! え??なんで?? ベルギーに書道教室??? ん~行ってみよっか!)


 文は、その張り紙があるビルに向かった。一階に旅行会社が入ったそのビルの四階が書道教室だった。扉が固く閉ざされていたので、勇気を振り絞って、ドアの所にある呼び鈴を鳴らしてみた。呼び鈴の所にも「書道教室」と貼られていたから文にも理解出来た。


ブー、と呼び鈴が鳴り、すぐに女性の声で

「どうぞ~」

と返事が返ってきて、扉があいた。扉を開けて廊下を進むと、目の前に鉄格子のエレベーターと隣には螺旋階段があった。

(何だか外国の映画みたい!!)

自分の勇気にご褒美をあげたい気持ちだった。


エレベーターで四階まで上り、目の前の開け放たれた扉から入った。

「こんにちは~失礼いたします」

日本語で入ってみた。

「は~い!あら?初めての方ね。いかがいたしましたか?」

この教室の主である町田佳子は文に尋ねた。


「私は昨日、日本から来ました、月見 文と申します。こちらでは教室をされているのですか?窓の張り紙が気になって、お約束もしないまま来てしまいました」

「あらぁ!気になさらないでね。ようこそ、ベルギーへ。そして、ようこそ私のお教室へ。さぁ、そこに掛けて。ここは、お教室よ。一応、日本の書道連盟にも加入しているから昇段試験も受けられるの」

「え?では、師範の資格とかも頑張ったら取得できますか?」

「えぇ、もちろんよ。他にも、ただ書くだけでも大歓迎よ」

「私、申し込みしても良いでしょうか?お月謝とかも教えていただけますか?何せ貧乏学生なので・・・」

「月に二千円の月謝でいいわよ。道具はあるの?無ければ、しばらくは貸してあげられるけど、出来たら早いうちに自分用の道具を買って欲しいわ。そのくらいよ。気軽に来て欲しいの」

「ありがとうございます。何でもお手伝い致しますから、おっしゃってください。今月は、引っ越しがあるので、来月からお願いしてもよろしいでしょうか?」

「もちろんよ。今月も、遊びに来るくらいならいつでもいらっしゃいよ。正式に始める前に文さんの現在の腕前を知っておきたいのもあるから」

「分かりました。是非、また寄らせていただきますね」

「ベルギー生活が楽しくなることを祈っているわ」

「ありがとうございました。また、来ます」


町田は、日本で言う学校の先生のような女性だった。気さくというよりは、ピシッとした教育者のような存在感ある女性だった。文は感覚的に

(この女性には色々な相談事が出来そうだな)

と感じていた。頼れる大人がいることは異国の地で安心だ。居候先の豪もその一人だ。文は幸先の良いベルギー生活のスタートが出来て安心した。


 次の日から、文は豪の元で店の切り盛りのノウハウを学んだ。もともと働くことが大好きな文は、今までに携わったことがない業界の仕事にとてもやりがいを感じていた。接客業は得意である。でも、ここは異国の地。日本人のお客様も多いが街の中心に近い事もあり、ベルギーの人々も同じくらい来店するお店だった。

 覚えることが沢山あり、文の小さなメモ帳は、毎日真っ黒だった。文は覚えることが不得意なので、仕事を終えると部屋にこもり必死に復習をしたり、フランス語に変換したりして、手探りで仕事を覚えた。1か月とはいえ、無料で居候をさせてくれている上に食費も光熱費もかからない。さらに働いた分はお給料もいただける。何としても恩返しをしながら働くよりほか、文には手立てがなかった。


 豪が地元の不動産屋の知り合いに声をかけていたので、いくつかの物件をその不動産屋から文は紹介されていた。

「時間を見つけて、部屋を見に行って来いよ。学校とココとの距離感も大事だからな。どっちも通う事がしんどくなったら台無しだ。住むところはその位大事だぞ。店は都合つけて抜けていいから、アパート選びを優先させなさい」

「店長、本当にありがとうございます」


 豪は、文にとって豪が自分で言うようにベルギーの父親のような存在だった。豪もまた、文が日本いる時からメールのやりとりをしていたので、考え方がぶれない文に信頼を寄せていた。会ってみて、メールで感じていた彼女へのイメージにズレがなかったので更に安心したのである。それ以上の人柄だったのだ。

(彼女の一年が実り多い一年になってほしい)そう願っていた。


 その後、文は、二件ほどアパートを下見したが、思うような物件はなかった。家賃が高い事と街中過ぎることだった。文の仕事がお休みの日に合わせて案内してもらったのだが、キチンとお断りした。

だが、二件を見ることで具体的に不動産屋へどのようなアパートが良いのかを伝えることが出来たことはヨカッタ。何事も無駄にしない文の性格だ。


豪は、そんな文と不動産屋のやりとりを傍で見ていて、

(この子は、頭脳がどうとかではなく、人として賢い女性だな)

と感じていた。普段の働きぶりを見れば、強く感じずにはいられなかった。日本で働かない大人たちにストレスをためて渡欧してきた理由も納得だった。


 文は、不動産屋から今度の木曜日にボーリュの物件を見に行かないか?と誘われた。木曜日は営業日なので文は一瞬戸惑った。

「文!行ってこい。別に一日かかる訳じゃないだろ?午前中、お前が陳列とキャッシャーと仕込みをやってくれたら、午後は休めばいいよ」

「ありがとうございます!午前中に仕事をちゃんと終わらせるので、午後のお休みいただきます」


そのアパートは文が気に入れば、八月一日から住むことが出来る、というのだ。願ったりかなったりだった。


七月二十五日。

居候先から地下鉄に乗って、ボーリュの駅まで向かった。現地で不動産屋と待ち合わせたので、文は、アルバイトの「仕事終わり」のイメージを持って出発してみた。


物件は、ボーリュの駅から十分程歩いた住宅街の中にあるアパートだった。大きなアパートが並ぶ中、そのアパートはこじんまりしていた。高速道路E411の始発地点を横目で見ながら、白樺道を通り、大きくカーブした道の先にアパートはあった。

(このロケーション、とっても気に入った!)

さびれてもいなく、繁華街でもなく、何となく人の気配を常に感じていられる街並みなのに、白樺道や池、線路も通っている。すぐ近くには、空想にまで登場していたスーパーマーケットのデレーズもある。デレーズのあるロータリーの所には二つの路線のバスが走っている。その向こうには、ワーテマルの駅もある。

不動産屋の人にアパートへ案内された。

日本で言う二階が空室の部屋だった。見ると「M階」となっている。

部屋に入ると、日本のサイズで言うワンDKの他にバスルームとトイレが一緒になった部屋と洗濯室があった。何よりもありがたいのは、作り付けの収納がかなり大きいことだった。

(ここに決めた!家賃もこの前の物件よりも断然安いし、ロケーションと部屋の作りが最高だもの!)


不動産屋もかなり自信のある物件だったらしく、誇らしげだ。豪に相談して決めることにした。

「返事は、明後日までには連絡します」

と言って、別れた。

店へと戻る道も、今度は店に出勤することをイメージしながら向かう事にした。


 ボーリュから地下鉄に乗り、アーツ・ロワで降りて、乗り換える。地下鉄を待っているときに隣のホームの地下鉄から降りてきた人達を何気なく見ていた。その中の男性に文の目は止まった。

(あ、あの人カッコイイ!ベルギーの人って、あんまりカッコイイと思える人がいない国だと思ったけど、あの人はカッコイイ。まだ、他にもカッコイイ人っているのかしら?)

ミーハーな気持ちがムクムクっと彼女の心から顔をのぞかせた。

その男性は、同じくらいの年齢のように見えたが、ゲルマン系の顔立ちが多いベルギーで、栗色の髪の毛、肌の色は色白でフランス人やドイツ人っぽい印象だった。身長も百八十cmを越えているようだった。瞳の色も栗色のように見えた。

(もうすぐ一か月が経とうとしているのに、イイ男がいない国かと思ったけどいるじゃん。久しぶりに目の保養ができてよかったぁ!)

くだらないことを考えながら店へと向かった。


「店長、今日は良い物件に出会えたので、そこに決めたいな、と思ったのですが、一人で決めてしまう事が不安だったので保留にしてきました。店長にもし、お時間があるようでしたら、一度一緒に見ていただけませんか?」

「そうだな・・・周りの環境も見ておいた方がいいな。よし、土曜日に行ってみるよ。土曜日は、アンバリッド通りに用事があるから、そのついでに見に行くよ。行くときは車で一緒に行くけど、帰りは一人で帰ってこられるよな?」

「もちろんです。お手数かけてしまって申し訳ありません。宜しくお願い致します」

「俺もその方が安心だからな。じゃあ、不動産屋にはそう言っておくよ」


 文は、一つずつ整っていく環境にワクワクしていた。居候生活は金銭的には助かるけれど、それでは何の意味もなくなる。踏み出さなくちゃ!ミッションをクリアしている達成感があった。


そして、土曜日がやって来た。二人で豪が運転する車に乗り、アパートへ向かった。豪は、「ここなら安心だ」と太鼓判を押した。その場で不動産屋にOKを伝えることが出来た。

引っ越しと言っても、入国の時の荷物しかない。あとは、お店に貼られている日本人からの譲り物でなんとかしようと決めていたので、一番大切なカーテンを購入するために窓のサイズを測った。

(今度のお休みの日にカーテンを探してみよう!)

あれこれ頭の中で引っ越しの準備となるものを想像しながら、文は地下鉄に乗り込んだ。

(ちょっと疲れたな・・まだ午後の仕事があるから、がんばらなくちゃ!)


 地下鉄のボーリュ駅からアーツ・ロワまで行って乗り換えた。アーツ・ロワで降りる客は、大抵乗り換えのための客が多い。文も人の流れに身を任せて階段へと向かった、が、背の低い文は、階段で人の波に呑み込まれそうになってよろけた。上りの階段でフラッときた彼女は、文よりほんの少し斜め後ろにいた男性に支えられて、体制を持ち直した。

「ごめんなさい。ありがとうございます」

立て直せたことにホッとした文は、息を吐くようにその男性に礼を述べた。男性は「大丈夫?」と心配そうに覗き込んだ。

その優しい瞳に目が覚めて「はい、大丈夫です。本当にありがとう」と笑顔で応えて男性の次の言葉を遮るように彼の顔を見てから、日本人らしくお辞儀をして、前を見た。

(あれ?この人、この前のカッコイイあの人だ!)


文は、異国の地にいることを思い出して、自分を戒めた。

(ここで弱い所も、スキを見せたりする事もだめ!もっとシッカリしろ、私!)

男性は、そんな文を見て、さらに心配そうな顔をしたが、文のキッと前を見つめるその顔を見て、それ以上何も言えず、手を軽く挙げて、文を見送った。

「じゃあね、気を付けて」

文は、彼に再度軽く会釈をした。この地下鉄の臭いとベルギーの人達の体臭というのか、香水の香りというのか、色々な臭いが混ざり合って、尚且つ、人々の流れに翻弄されて、上手く流れにのれなかったことを文は悔やんだ。


 もともと貧血体質の文は、学生時代、卒業式や入学式でまともに最後まで体育館内にいることが出来なかった経験を持つ。大抵、父兄の化粧の香りや一張羅を着てくる大人たちの服に付着したナフタリンの臭いなどに酔って、貧血を起こして倒れるのがお決まりのパターンだった。


 一方、文を助けたベルギー人の男性は、トーマスだった。トーマスは、アーツ・ロアの駅に到着し、アルバイト先に向かおうと前方を見たら、先日のグラン・プラスで階段に座っていた東洋人が歩いていたので驚いた。自然と歩行を早め、文のすぐ後ろに追いつくことが出来た。彼女を見ると、どこか具合が悪そうな足取りだったので、(大丈夫かな?)と思った瞬間、彼女はよろけた。咄嗟に腕を掴んで支えた。彼女は体制をうまく整えて、すぐにトーマスを見て礼を言ったが、すぐに目をそらした。

顔色が凄く悪かった。(日本人かな?)とても心配で声をかけたが、彼女は助けを拒否するような眼差しだったから、それ以上は何もすることが出来なかった。彼女に嫌われたのかな?と思ったくらいだった。折角、彼女に会えたトーマスは、彼女を静かに見送る事しか出来なかった。(また、会えるかな?)


 文がアルバイト先の「ゆかり」に着いた時には、すっかり体調は回復していた。

取引先から戻った豪に地下鉄の話を報告したら、体調を気にかけたが、文は完全に復活し、調子も戻っていたので心配しないように伝えた。心のどこかで、あのかっこいいベルギーの男性が、階段から転げ落ちても不思議ではなかった自分を助けてくれたにもかかわらず、素っ気ない態度をとってしまったことが胸の奥でチクンとなっていた。(また、会えるかな?)


 次の日はアルバイトがお休みだったので、豪は心配したけれど、文は、グラン・プラス方面へ行く事に決めていた。カーテン探しをしたかったからである。

地下鉄の駅で少し不安にはなったが、今日は昨日のようには混んでいない事を確認するとホッとした。

 アーツ・ロワの駅に到着した。乗り換えてセントラル方面に向かうためにまた、地下鉄を降りて階段に向かった。やはり、人が少ない分、自分のペースで歩くことが出来る。ふと・・

文の肩をトントンと叩く人物がいて、振り返った。昨日、文を救ってくれたトーマスだった。彼女はトーマスに再び会うことが出来て、どこかホッとして頬を染めた。


「昨日は、本当にありがとうございました。貴方が支えて下さらなかったら、私は階段から落ちていました。きちんとお礼を伝えることが出来なくてごめんなさい。そして、本当にありがとうございます」

と片言のフランス語で身振り手振りを交えながら、必死に伝えて、何度もお辞儀をした。彼は、フランス語を理解した、というよりも文の身振り手振りと必死に礼を伝えようとする「気持ち」を理解した。


「あれから大丈夫だった?」

「はい、大丈夫です。ホラ、とっても元気!」

「よかった。あの時、真っ青な顔をしていたから、目的地に無事に到着できたのか心配だったよ」

「心配かけてゴメンナサイ。でも、外の空気を吸って、街の緑を見て、空の曇天を見たら、この通り元気になったの」

と、笑顔でガッツポーズを見せると、彼は笑い始めた。


「ベルギーの空の色で、元気になる人は君だけだよ」

文もつられて笑った。ベルギーに来てから、こんな風に笑ったのは初めてかもしれない。

文の地下鉄が到着したので、彼とは別れた。彼は、窓から文が彼を見ている間、ずっと手を振り続けていた。彼女はそれだけで元気が湧き上がってくるのを感じていた。

(会って、キチンと挨拶出来てよかったぁ。それにしてもヤッパリかっこいい!)


 トーマスは、(何ていう奇跡的な出会いなんだ! アンティークショップのウィンドゥで初めて会ってから、昨日と今日。ずっと気になっていた彼女にまた会えた! 話せたよ! ラッキー!)と一人興奮していた。


         *****


 文は、グラン・プラスに行くついでに(書道教室)に顔を出してみた。道具の話や文の作品を見てもらうためだった。

鉄格子のエレベーターで上に上がり、先日のように教室の中へ進むと、本日は先客がいた。

「こんにちは!」

その先客であるベルギーの女性ノエルは文へ親しみのこもった挨拶をした。文もつられて「こんにちは」とノエルと町田に向かって挨拶をした。


「文さん、お時間あったら、一枚作品を仕上げてみない?」

「今日はそのつもりで参りました」

「あら、よかったわ。その後で入会するかどうかの最終のお返事をいただくわね」

既に作品が書けるように準備がされていた席に腰かけた。子供の頃は足がしびれながら正座して作品と向き合っていたので、椅子に座って書くことに多少の違和感はあったが、久しぶりに嗅ぐ墨の香り。文は頭の中がリセットされるような感覚を感じていた。


「盆踊り大会」というお手本が目の前にあった。

筆にたっぷりの墨汁を含ませて、毛先を整えながら、何年振りかに筆を握った興奮した気持ちを必死に「無」の境地に誘導していった。頭の中がスーッと軽くなる事を感じた瞬間、文は書き始めた。

お手本の町田の文字は、クセもなく、お手本に相応しい文字だった。

一気に書き終えて、筆先を再度整えて、筆をおいた。自分の筆以外の筆を使う事も、線のないまっさらな紙に書く事も、初めてだったので、文はとても緊張していた。


「あらぁ!かなり本格的に学んでいらっしゃったのね。真っすぐで力強い文字を書くのね?素敵だわ」

「お習字は中学一年までしか通っていなくて、好きだったのですが、続けられなかった自分の意志の弱さに後悔があったので、機会があったら、絶対にまたやろう!って、思っていたところに、まさか外国の地でまた向き合うことが出来るなんて、想像も出来ませんでした。とても気持ち良かったです。自分の文字が私は好きではないのです。迷いが沢山見え隠れしていて、私には心もとない文字にしか見えてこないのです。もっと、堂々とガツン!としているけれど、繊細な文字を書きたいのです」

「目標が高くていいわね。私の中ではとっても楽しみな生徒さんよ」

「私も先生の元で一から学びたいです。やっぱり八月から通いたいです。週に一回だけになると思いますが、頑張りますのでお願いします。道具ですが、実は、文鎮、硯、筆、下敷きは持ってきているのです。でも、心新たに始めたいので、筆と小筆、半紙、墨汁は買い求めたいです」


 文が作品に向き合っている姿をノエルはじっと見つめていた。文の作品をみて、

「日本人の書く姿は美しい。文字も綺麗で神聖なものだわ」

とても興奮していた。聞くと、ノエルが普段来る時は、ベルギーの生徒ばかりで、日本人になかなか会えなかったらしい。町田の書く姿しか見ていなかったノエルにとって、町田だけでなく、日本人が書道をたしなむ姿は、とても興味をそそるのだという。


 文とノエルは、お互いがその場で自己紹介をして、話に花が咲いた。

「ボーリュに住むのなら、私の住んでいるストッケルには来たことある?金曜日に朝市が並ぶのだけど、文は知っている?」

「朝市ってどんなお店が並ぶの?ストッケルにも行った事が無いの。ボーリュに住むのも八月からなのよ。今はナミュール駅近くに居候しているの」


 文は、現地の生きた情報がたまらなく嬉しかった。現地の情報はどんな小さなことでも自分の琴線に触れたモノには、全てアクションを起こしていこう!と決めていたので、ノエルの情報はとても嬉しかった。

ノエルも文が自分の情報を喜んでいる事が見て分かったので、嬉しかった。彼女に朝市マップをその場で手書きして渡した。

文は、そのメモを掲げて、書道教室をあとにした。

「ノエル、ありがとう!行ってみるわね。町田先生、今日は楽しいお時間をありがとうございました。八月から早速参ります」


書道教室のあるビルを出て、グラン・プラス方面へ向かい、ヌーヴ通りを目指すつもりだったが、やはり、ヌーヴ通りに向かう前にグラン・プラスでボーっとしたかった。


文は、先ほど書道に向き合って、自分で発見できたことがある。

(私にとっての書道はひとつのストレス解消法かもしれない)

ということだった。この綺麗な景色を見てぼーっとする事も癒しの意味でストレス解消なのだが、書道もそうなのだ、という事を今日知ることが出来た。

(書道の時間をこれからも大切にしよう)


 文は、七月生まれである。両親からは、苗字が「月見」なので、文の生まれた七月が別名「文月」であることから、名前を「文」にした、と聞いたことがある。

また、小学校の頃に書道教室の先生に「遠い昔、文月生まれの人は、お習字が上手いと言われていたらしいぞ」と聞かされたことがあった。

(何となく導かれたのかもしれないな)

と考えていた。文は物事というものは、その人にとって全て何かで繋がっていて、偶然というよりもその人にとっては、全ての事が「必然」で起こるのではないか?と考える女性だった。そう考えると、どんな出来事も、どんな人との出会いも、どんな景色も、全てに意味があるから、無駄にしたくないと思えるのだ。


 日本でも書道教室は街中にいくらでもある。飛び込むチャンスはベルギーよりもあったはずなのだ。なのに、日本では全く目に留まる事もなく、何故異国の地、ベルギーで日本の文化である「書道」を日本人の文が始めているのかを考えると、文の仮説が正しく感じるのであった。


 ヌーヴ通りに向かった文は、イノのデパートに行ってみた。カーテン選びをしたかったのである。とりあえず、部屋の中が丸見えにならないようにしなければならなかった。

お洒落なカーテンよりも、安くて外に光が漏れないものを探して購入した。ベランダに出る掃き出し窓の所だけでもどうにかしたかったのである。他の部屋は窓が小さかったので、バスタオルなどでも代用が出来ると判断したのだ。

 どうにかお目当てのサイズのものを買うことが出来た。青緑のような色のカーテンにした。住んでいるのが女性であることを悟られにくいカーテンにしなくちゃならないからだ。遮光用のレースのカーテンも併せて購入できた。

郊外に行けば、もっと安く買えることは容易に判断出来たが、仕方がない。でも、文の頭の中の予算では、充分に格安で買うことが出来た。


 イノを出て、帰り道はモネ劇場の横を通り過ぎた。

(街中にこんな素敵な建物がゴロゴロあることも日本では考えられない事だよね~街を歩いているだけで楽しくて仕方ない!街そのものが美術館みたい!)


 文は、どんなに心の中でワクワクしていても、周りへの警戒心は決して緩めることない行動をしていた。財布も2か所以上に分けて持つようにしていた。自分の身と財産は自分で守るしかないのだ。


本日の目標

・書道教室への申し込み

・カーテン購入

2つのミッションをクリアした時点で急に空腹であることに気付いた。文の鼻をくすぐるかのようにワッフルの香りがあちこちからしてくる。グラン・プラスを通り過ぎ、ノボテルに向かう途中のパノのパン屋さん横のワッフルを買い求めた。日本では決してできない「食べ歩き」をしてみた。

お行儀が悪い!!なんてどこかから聞こえてきそうだけど、文はやってみたかった。

(うん、最高!やってみたかったことが出来るって嬉しい。でも、やっぱり、座って食べた方が落ち着いて食べられて美味しいのかもね)

居候先へ帰ることにした。


 店に着いて、改めて店内掲示板の「売ります!買います!」情報を眺めた。

豪からベッドを借りて寝かせてもらっていたので、文は布団付ベッドか、日本式布団セットのどちらかを譲り受けたかったのである。

日本企業の異動シーズンでもあったので、何件か候補があった。

 早速、片っ端から電話してみようと思った。文の新しいアパートに近い人が良いと思って、近い順に電話をすることにした。

運よく一軒目の家族が快く譲ってくれることになった。しかも、貧乏学生と知って、

「貰っていただけるだけで、こちらは助かるから無料で引き取って下さらない?無料の代わりに、レンジや洗濯機、冷蔵庫も現地で調達したものだから、日本に持って帰る事が出来ないの。受け取ってくださらない?」

というのだった。(ラッキー!)


 しかも、八月一日がその家族の引っ越し日なので、(こんなに引っ越し日が切羽詰まっているにもかかわらず、誰も引き取り手がなかったらしい)午前中に引き取ってほしい、というではないか。まさに文にとっては、願ったり叶ったりである。豪にも、八月一日は、午後出勤にさせてもらえるように交渉した。豪は気持ちよく送り出してくれた。


 八月一日。引っ越し当日。

日本人の伊藤ファミリーは、文のアパートのすぐ近くにある大きなアパートに住んでいた。引っ越し業者が、文のアパートまで運んでくれたので、文も助かった。今日から温かいベッドに入って眠ることが出来る。使いかけのシャンプーやボディソープ、トイレットペーパーなど、直前まで使わなければならない消耗品も譲り受けることになった。神様のような家族だ!

 文は、豪に頼んで伊藤ファミリー四人分のお弁当と飲み物を用意した。食べやすいようにおにぎりとだし巻き卵と唐揚げとシコンのサラダを添えた。飲み物はアイスティのガス入り二本(日本には無いから飲めない!)とノーマルタイプのものを二本用意した。

「このまま無料でいただくと罰が当たりそうですので、せめてお弁当だけでもお受け取りいただけると嬉しいです」

と言って渡すと、家族全員で文の心遣いにとても喜んだ。


「貴女が引き取って下さらなかったら、現地のベルギースタッフに渡して処分してもらうしかなかったの。本当に助かってしまったわ。押し付けちゃってごめんね」

伊藤夫人は言っていたが、文にとっては本当に有難かった。お互いの連絡先を交換して別れた。


 伊藤家からの大きな段ボールの中には大小様々なカーテンも入っていた。

早速、文はカーテンを取り付けて、あるべき場所へ譲り受けた電化製品を設置して、アルバイト先へ急いで向かった。豪が文の分も、と言って伊藤ファミリーに渡した、お弁当と同じものを(引っ越しそばならぬ、引っ越し弁当だな)と思いながら、自分へ(引っ越しおめでとう!)とお祝いしてからアパートを出た。


 ボーリュから再び、ナミュール駅に向かった。アーツ・ロワの駅で、トーマスが文を見かけたが、明らかに急いでいる文を発見すると

(あれだけ元気だったら、今日は倒れることはないだろうな)

と思って、文を優しく見守り、無事にナミュール駅に向かうホームに立つ文を確認すると、安心してトーマス自身のアルバイト先へ向かった。

(何だかあれ以来、放っておけない人だなぁ)


文は、豪の店に戻ると

「店長、午前のお休みありがとうございます。お弁当も喜んで下さいました。私にまでありがとうございました。アパートでお弁当を食べながら引っ越し祝いしてきましたよ」

と言って、二階にある今朝までいた居候部屋に向かった。一か月間、自分を守ってくれた部屋なので、文は心を込めて掃除をした。

「店長、本当にありがとうございます。このご恩は一生忘れません。必ず仕事でお返しいたします」

とベッドの上に手紙を残した。



 店に戻ると店長の豪は、

「お疲れさん!これから、俺はお前を守ってあげられないから、きっちり戸締りして自分で管理するんだぞ」

「はい、色々防犯対策しようと思います」

「それから・・・明日の店は午後からにしようと思っているから、午後からの出勤にしてもらってもいいか?」

「はい。あ! 店長、明日って金曜日ですよね?」

「おぅ、そうだよ・・・」

「あぁ、なんてラッキー! 店長、明日の午前は頼まれても絶対に休みます。鶏肉が私を待っているから!」

「はぁ??」

「ストッケルの朝市に初めて行ってきます!」

「おぉ、あそこは美味しいものが沢山あるからな。行ってこい、行ってこい」


豪は、文が色々な事にチャレンジすることを知ると、目を細めて気持ちよく送り出してくれる。文は豪の表情でそれが分かるのが嬉しかった。


 その日の夜、文が使っていた部屋の前を通った豪は、文が居なくなったことが少し寂しくなって、部屋をのぞいてみた。

綺麗に掃除されていて、文が来た時よりも綺麗になっていた。そして、ベッドの上にあった手紙を読み、目を細めた。

「あの子は地に足がついている。立つ鳥跡を濁さずとは言うが、本当にあの子は今どきのお嬢さん、というよりも古風な感じの子だよな~ 不思議な子だ。責任もって、俺の所で預かって、責任もって日本に送り出せるようにしなくちゃならないな」


その日の文は一日の疲れがどっと出て、入国した日と同じく泥のように深く眠った。


 次の日の金曜日は予定通りストッケルの朝市に出かけることにした。

文はノエルとの会話を思い出していた。

「ストッケルの駅前広場に金曜日、朝市が立つのよ。食材やお花のお店が沢山並ぶの」

「ノエルのお勧めのお店は何?」

「鶏肉とハムかしら?」


 ノエルの話を聞いてから、食いしん坊の文は、唐揚げが頭から離れなくなっていた。日本を離れてから、自分が作る唐揚げを食べていなくて、ノエルの「鶏肉」という言葉に一瞬にして「唐揚げ」が浮かんでしまってから、文は金曜日が待ち遠しくて仕方なかった。店の出る場所もノエルに地図を書いてもらったから心強かった。

豪が作る唐揚げはこの前食べてとっても美味しかったのだけど、やっぱり自分が作る唐揚げが文の中ではナンバーワンだった。

ボーリュから地下鉄に乗り、ムロード駅で降りて乗り換える。終点のストッケルまで鶏肉奪取の旅に出る。この日の為にノエルから朝市の心得を伝授してもらっていた。


*お腹を空かしていく事。

*片っ端からちゃんと味見出来るものは味見をする事。

*値切るのでなく、おまけをつけてもらえるように常連を目指すこと。

*そして・・・ストッケルに店を構えるパンとケーキのお店マイユーによって、必ずパンを買ってみること。


 初めて降り立つストッケルの駅は、構内にタンタンの絵が所狭しと描かれていて暗いイメージのある地下鉄駅とは程遠くオシャレだった。駅を出た街は、文の住む所よりもハイセンスな所だった。オシャレなノエルにピッタリな街だな、と思った。日本人マダムの姿もチラホラ見える。

目指すは「唐揚げ」!!鶏肉を目指し探し歩いていたら、偶然にもノエルお勧めのハムのお店を発見した。

文は食べ物で臭いがキツイものが苦手だったが、ベルギーで食べるハムは、少し独特なスパイスの香りがするものが多かった。しかし、そのお店のハムは、芸術的な美しさで並べられていて薫りも豊かだった。陳列の仕方も上手だと思った。

朝市の店をよく見ると、どの店もディスプレイが素敵で、日本とは全く違う事に驚いた。この朝市は、お腹も視覚も満腹満足にしてくれる素敵な場所だった。

(ノエル最高よ。ありがとう) 


ノエルから伝授されたフランス語で

「そのハム、味見させていただける?」

勇気を振り絞ってハム屋の店主に聞いてみた。

クマのような店主は、赤ら顔でニッコリ微笑んで、一枚文へ差し出した。日本だったら、一枚をさらに切って、四分の一くらいにしたものを差し出されそうだけど、店主のお腹と同じで太っ腹だ。

そのハムは、ハムの中に色とりどりの野菜が細かく入っているものだった。口に入れた瞬間、ハムの優しい脂分がジュワ~っと口いっぱいに広がり、その脂分を細かい野菜たちが見事に掃除していくかのように、呑み込むとサッパリした後味のハムだった。何枚でも食べることが出来てしまいそうな魔物のハムだった。すると、文の食べている顔をじっと見ていた店主は、続いて隣のサラミを切って差し出した。

「え?これも食べていいの?」

「もちろんさ、どうぞ」

うわぁ!このサラミ、臭くない上にさらっとした感じ。まずは、視覚と嗅覚が合格!さらに食べてみると深い味わい。お酒が何杯も呑めてしまいそう・・・

「気に入ったかい?」

「えぇ。とっても。どちらも百グラムずついただくわ」

「はいよ。ちょっとオマケしてあげるよ。君は幸せそうに食べてくれるね。俺も何だか幸せな気分だ。ありがとうよ」

「私も美味しいハムに巡り合えて幸せ。また、来るわね」


 あまりにもラッキーだった。料理が大好きな文は、良い食材に出会えたことに幸せを感じていた。ノエルと店主に感謝だ。

次に目指す「唐揚げ」の材料である鶏肉屋さんは、ハムのお店の三軒隣だった。鶏肉の他にも色々な肉、ハムも売っていた。が、このお店は、やはり鶏肉が一番美味しそうなのである。

 そういえば、さっきのハム屋さんも他に肉などが売られていたけれど、ハムしか文の目には入らなかった。やっぱり、ここの朝市の店は自分の店の強みを知っているんだな、と思った。だから、こんなに狭い市の中に肉屋が何件も、八百屋が何件も、果物屋が何件あっても、潰し合わないでいられるのだろうな、と感心してしまった。

ハムの見せ方。鶏肉の見せ方。何だか勉強になる。

「もも肉一キロ、むね肉一キロお願いします」


 いやぁ、さすがに二キロの肉と二百グラムのハム。重い!!鶏肉は冷凍して少しずつ使うつもりだからいいんだ!と文は自分に言い訳してみた。毎週、ストッケルに来るとなると、交通費もかさむ。やはり、貧乏学生にはまとめ買いが一番賢い。伊藤ファミリーから譲り受けた冷蔵庫とは別の小さな冷凍庫が活躍してくれるだろう。


 最後にロータリーの向こうにお城のように見えているパン屋さん。その名も「マイユー」。店内に入るとパンの香ばしい香りが文の鼻をくすぐり、空腹の胃袋に警笛を鳴らした。「ぐぅ~~~」

会計に並ぶ客の列も長い。どれも美味しそうなパンばかり。そして、焼き菓子も美味しそうである。ケーキが好きでない文だが、ここのケーキはどれも美味しそうだった。

 バゲットとクロワッサンを買って店を出た。早くアパートに戻りたい!

自分の性格を理解している文は、朝市でも、あまりよそ見をせず、今回の目的である「鶏肉」と「ハム」を購入したら、マイユーのパンを買って帰ろう!と、心に決めていた。色々見てしまったら、目移りするに決まっている。午後には仕事もあるのだから、急いで帰らなくてはならない。心を鬼にして、ロータリーに並ぶ朝市とマイユーに別れを告げた。


 ストッケルの駅に戻った。駅に着くと、今度は朝、ここを通り過ぎた時には全く気付かなかったのだが、駅の中にサンドイッチとベルギーワッフルを販売しているお店があった。

文の胃袋はこの香りで撃沈した。

「ワッフル一つください」


文は、いわゆるリェージュワッフルと呼ばれる、楕円形の硬めのワッフルが大好物。一口ほおばると、サクッと砂糖の塊に出くわす。その塊が口の中でとけだし、次のワッフルと共に胃袋目掛けて食道を通過していく。この幸せは、ベルギーでなければ味わえない。

ベルギーワッフルを食し、待望の鶏肉と思いがけず出会えた宝石のようなハム。そして、黄金色のパンたち。今日一日は最高に幸せだ。

昼前だというのに、もぅ一日が終ってしまっても良いような幸せな気分だった。


 地下鉄に乗って、一路自宅のアパートを目指した。幸せな気分で地下鉄に揺られていると、モンゴメリの駅に到着した時、文は心臓が破裂しそうだった。

アーツ・ロワで文を救った彼が乗ってきた。

「やぁ!」

「こんにちは」

「おや?買物?」

「はい、ストッケルの朝市に行ってきたの」

「良い買い物は出来たの?」

「えぇ、とっても。今夜は一人で楽しいパーティになりそうだわ」

彼は顔をクシャっとさせて笑った。すぐにムロードに到着したので文は降りた。

「じゃあ、またね」

「素敵な週末を!」

走り出した地下鉄の窓から、今度は彼がずっと文が見えなくなるまで見ていた。文も彼が乗る地下鉄を立ち止まって、手を振り見送った。

地下鉄を乗り換えて、アパートへ向かった。

「今日は怖いくらい幸せな一日だったなぁ。今から仕事へ行くのが嫌になるくらい」


文は、アルバイト先で豪にトーマスの話をした。

「店長、聞いて下さいよ。また、あの彼に会ったんです。あっ!」


話したくて仕方がなかったので、目の前にカウンターがある事を忘れて思いっきりぶつけたのだ。先日、地下鉄で助けてくれた彼に、また会ったことを興奮しながら話した。


「縁だなぁ・・そんなに興奮する前に目の前のカウンター位、ちゃんと見とけよ」

豪は微笑みながら、嬉しそうに話す文の表情を見逃さなかった。


文も「縁」を感じていた。カッコイイと思った人(店長には内緒だけど)に助けられて、また別の場所で、会うなんて素敵な縁だわぁ、と宙をうっとり見つめていた。

(でも、きっと食いしん坊だと思っているわよね?)


 次の日、アルバイト先へ向かった文は、昨日は素敵な事が沢山あって、美味しいパンと美味しすぎるハムで本当にパーティのような気分だったことを思い出していた。

朝市で少し使い過ぎた分、アルバイトを頑張らなくちゃ、と気合を入れてアパートを出た。アーツ・ロワの駅に到着すると、魔の階段が目の前に現れたけど、今日の体調は絶好調な事もあって、不安はなかった。

 その文の姿をアルバイト先へ向かうトーマスは、少し離れたところから見守っていた。足取りもしっかりしている文を見つめていた。

(本当に気になって、心配したくなる不思議な人だなぁ)と考えながら、含み笑いをしていた。彼女の真っすぐな目がそう思わずにいられないのだ。トーマスから見た文は、毎日必死に生きているように見えた。それはマイナス的な要素の必死というよりも、彼女のキラキラした表情が実に楽しそうで真剣な眼差しだったからだ。文が乗り換えて無事に地下鉄に乗る姿を見届けてから、トーマスはアーツ・ロワの出口に向かった。

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