口吻

@shinjukumarunouchi

第1話

 カップラーメンにお湯を入れて後悔した。ミニサイズのにしとけばよかった。こんなグー一つ分よりちょっと大きい空き容量今おれの腹にはないんじゃないか。

 煩悩だけで買ったのである。後先考えないでやんのばあーか。食欲、性欲、麻薬中毒と何が違うんだ。食欲だって立派な依存だ。報酬系の繰り返しによって二〇億回の心拍を消費する。ゾウもネズミもバカもクズもスティーブ・ジョブズも二〇億回。いや、ジョブズは死んだんだっけ。気の毒になあ。おれの寿命勝手に使って長生きしてくれりゃあよかったのに。

 片手にカップラ、片手に割り箸、どかっと座ったちゃぶ台の上でおれは蝶を飼っている。黒い羽に青い線の入った大きな蝶だ。名前は忘れた。ググれば出るだろう。そいつをベランダで見つけたとき、青い空の射光に切り取られて晴れ間の水たまりみたいにきらきらするその羽がきれいだと思った。ここで手を伸ばして捕まえてみたならば、このおれという独創的な男が大人になってもなお持ち続ける子供のような美しい純真さが保証されるような気がしたので、お尻からそーっと、にじり寄って、跳ねるバネみたく掴んだら掴めちゃったから今彼ないし彼女はそこの安い虫かごにとっつかまって入れられている。

 おれは具材のえびをぷりぷりと歯噛みする。割り箸の香りが醤油に混じって鼻腔に抜ける。蝶はクリアケースの中で時折羽をばたつかせている。プラスチックの壁はつるつるして掴まりづらそうだった。中で砂糖水を吸わせたティッシュをひとかけら無造作に転がして、白色のLEDと散らかった部屋をてらてら反射するその蝶々入りケースは、正直思ってたよりもみすぼらしく不潔であさましかった。そばにゴミを半分ほど詰めたゴミ袋が口を開けたまま転がっている。ああ、明日ゴミの日か。出さなくちゃ。麺をずるずる音立ててすする。たまごとえびと謎肉以外全部まずい。

 捕まえた土曜の昼さがり、電気をつけなくても青く明るい部屋の日差しの面積の中で蝶はまだもうちょっと元気だった。蝶は急に羽すら満足に広げられないような透明な壁に閉じ込められたことをすぐに悟って、羽も足も触角も普通の虫けららしくバタバタやって抵抗した。今白球の下にいるそいつははたまに思い出したように羽を開いたり閉じたりするくらいで、生きることに必死だったときより知性があるように見えると言ったらそうっちゃそうだ。愛した女が結核にかかるとより一層美しく見えるらしい。咳き込む姿は白く細く弱々しく、掻き抱くのが躊躇われるほど蠱惑的だ。先に生きた数多の男たちがそう言っている。なぁにが「蠱惑的」だ。ムラムラするってはっきり言え。おっと、いかんいかん。彼女と自然消滅したので妬み嫉みが前に出る。自然消滅なんて言うけどあいつの方が終わり、と思ったから終わりなのだ。全ては彼女の気まぐれで、下僕のおれには終わった瞬間の時刻すら知らされない。本人はおしゃべりでやかましい性質だったが、おれに言わせれば静かにしてる時の横顔がかわいいやつだった。前髪が、とか目の形が、とかあいつはことあるごとにギャンギャン喚いていたけれど、時たますん、と黙って静かにしている時の鼻から薄い唇、顎にかけたラインが実に整っていた。きめの細かい白い肌を見るのに邪魔になるからおれとしては髪型は後ろで一つにまとめている時が一番好きだったけど、あいつはくるくる曲げて体積を増やした邪魔そうな髪を肩に引っ掛ける微細な角度に執心しては、「かわいいでしょ?」とおれに意見を押し付けた。そうは言ってもやっぱり後頭部から側面にかけた横顔が好きだったので、体位はバックが一番良かった。顔布団に押し付けて尻だけ持ち上げさせるやつ。あいつはそんなに好きじゃなさそうだったけど。

 濡れた割り箸をちゃぶ台の上に放る。口紅が置いてある。あいつが置いて行ったやつで、取りに来るとの連絡もない。女って口紅がないと困りそうだなと思うけど、あいつは困るよりもおれに連絡をとるめんどくささを忌避する方を取った。つまりはそういうことなのだ。上位互換はどこにでも転がっている。好みの顔と乳の形をしたAV女優の名前で検索すればいい。その前にひとっ風呂浴びるか、はぁ。

 

 二日目のタオルを頭に引っ掛けながら、おれはなんとなく部屋の明かりを消した。気まぐれなことをやってセンチメンタルに浸ろうとする浅ましい自意識がそこにあるが明文化はしない。まだ寝るつもりは更々ないがスマホをいじるだけなので部屋が暗くても別段困りはしない。久々に鳥瞰したらなんだかやけに眩しくて嫌になったのだ。ブルーライトとは言い得て妙で、テレビを流しっぱなしにしていると部屋は青い。敷きっぱなしの布団の上にどかっと座り込む。

 暗い箱の中で蝶が、羽をひらひらやっていて、おれは彼女が見せびらかしてきた黒いスカートのことを思い出した。甘ったるい香水の匂いを歩く度に振りまいて、彼女は高円寺の商店街でタピオカを吸いながら「人生たのしー」と薄っぺらく言った。ちゃぶ台の上で口紅を手に取った。真っ赤な芯を捻り出して、あのすらっと通った鼻筋の横顔をのこと思い浮かべた。化粧をするとき特に無防備になって薄く半開きになる赤い唇。安いクリアケースの壁面に、口紅を塗る変な男が歪んで映り込んでいる。

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