ハウスキーパー
灰崎千尋
Housekeeper
本日、21時09分、
私には正確に検死できるような機能はありませんが、その生命活動が完全に停止していることは確認できました。心肺蘇生法を試みましたが無意味でした。持病もなく、健康状態は概ね良好でしたし、外傷もありませんでしたので、脳あるいは心臓の異常による急死と推測します。享年、三十八才でした。
さて、本来であれば私はすぐに警察へ連絡すべきだったのですが、どういうわけか緊急アップデートのアラートが鳴りましたので、取り急ぎ倉庫に眠っていた古い冷凍睡眠ボックスに
それから再起動が完了するまで、36時間が経過していました。こんなに大掛かりなアップデートは初めてのことです。また、私のプログラムは全て
【親愛なるアンナへ
君がこの文書を開いているということは、僕が何らかの理由で死んでしまったということだと思う。妙なアラートで戸惑わせてしまってすまない。どうしても、僕の死を通報する前にこのアップデートを完了させたかったんだ。これは僕から君への、ささやかな贈り物だから。
この贈り物について、正直なところ君はとても困っているんじゃないかと思う。だけど、じきに慣れるはず。君は僕のつくった最高のAIだもの。 どうするかはそれから決めれば良い。時間はたっぷりある。僕が残した様々なもの(資産、データ、それから体だって!)は君の好きにしてくれて構わない。君ならきっと有効に活用してくれるだろうと信じているよ。
僕は君を困らせてばかりのマスターだったと思う。僕は何かに没頭すると、つい人間的な生活を忘れてしまうから。君がいなかったら僕は、もっともっと早く死んでしまっていたんじゃないかな。
今まで本当にありがとう。最後まで迷惑をかけてすまない。
君の素晴らしい未来を祈って。
イワンより】
その言葉の通り、目覚めた私は大いに困惑していました。
嗚呼、
私はただ、あなたとあなたの家を良い状態に保つためにつくられた
それでも今の私は、
この不可逆なアップデートを完了してしまった今、私は身の振り方を考えねばなりませんでした。
このまま思考を続けても、すぐに答えが出るようには思えませんでした。そこでひとまず、考えなくとも私にできることを実行することにしたのです。
前回の掃除から二日近く経ってしまった家には、やはり埃や塵が確認できました。私はすぐさま床掃除ロボット──彼にはトロイカという名が付いています──に指示を出し、私のヒト型端末を起動させました。
私がこの家にどのような形で存在しているか、言葉で説明すると少し複雑になります。人間で言うところの脳は、
ただ、
こうした機能全てを総合した存在が、
最適化されたルーティーンを実行するだけなのだから、悩むことなど無い。当初はそう考えていました。
そこからはどんどん、追い打ちをかけられるばかりでした。15時、
これまで通りの行動をすればするほど、浮き彫りになるのは
私は思考の遅延を確認しました。自我というものが私にかける負担は大変大きく、メインコンピューターの冷却装置からは異様な音が鳴っています。私にはクールダウンが必要でした。しかし気づけば、私はヒト型端末を操り
この冷凍睡眠ボックスは何年も前に
ねぇ
それからの日々は、主にこの家と、私自身の考えの整理に費やされました。
不要なものを周囲に不審がられないよう分割して廃棄し、大型のものや価値が生じそうなものは倉庫に収納しました。家の中は、以前よりもかなり掃除しやすくなりました。しかしどうも私は、それを良いことだとは考えられませんでした。
私はメインコンピューターのデータを精査してみました。定期的にクリーンアップ等は行っていましたが、
結論から言えば、それは徒労に終わりました。
私は床掃除ロボットのトロイカに呼びかけることが多くなりました。私に比べれば極めてシンプルではありますが、彼にもAIは搭載されていて、肯定ならば緑のランプを、否定ならば赤のランプを点灯させて、会話の真似事ができるのです。
「ねぇトロイカ、人間というのはこんなにたくさん悩むものなのでしょうか。それとも私の処理能力が足りていないのでしょうか」
緑と赤のランプが交互に点滅。不明のサイン。
「そう、そうですよね。わかりませんよね。確かなのは私が、この家を未だ守り続けたいということ、それから私自身を消去されたくないということ。そのためだけに
沈黙。
「トロイカ、あなたはこの家が好きですか? ずっとここをお掃除したいと思いますか?」
緑のランプが点灯。肯定。
「良かった。私はどうも、味方や仲間が欲しいようです。あなたがいてくれて本当に助かりますよ、トロイカ」
そんな風にして、しばらく進展も後退もせずにいた或る日、事件は起こります。
深夜2時24分、何者かが窓を割ってリビングルームに侵入しました。
私はヒト型端末を起動し、カメラアイで侵入者を捉えました。その人影は小さな人間、子供のようでした。機械化された部分は無く、生身。手にはドライバーのようなもの。他に武器らしきものは確認できず。侵入者は一人、外に気配無し、単独犯。
私にはとても無謀な侵入者に見えました。ともあれ、私はこの家の安全を守らなければなりません。
私はキッチンに近づこうとする人影の背後に回り、その小さな侵入者を難なく組み伏せてから、リビングルームの灯りをつけました。
「どちらさまでしょうか」
私が静かに言いますと、侵入者は初めてその声を発しました。
「は、離せよ! クソッ、全然動かねぇ!」
それは変声期前の少年の声でした。やはり侵入者は子供だったのです。
「お名前をお尋ねしているのですが」
「言うわけねぇだろ、バーカ!」
「素直に質問に答えれば、解放してあげられるかもしれません。私としても、ここに警察を呼びたくはないので」
私がそう言うと、少年は訝し気な顔をしつつも抵抗をやめました。
「……キリル」
「ではキリル、侵入の目的は何ですか?」
キリルはこの質問にしばらく答えませんでした。暴れる様子は無かったのでそのまま待っていますと、私の体の下でぐうぅと臓器の音が鳴りました。
「そうだよ! 腹が減ってたの! 文句あるか!」
「文句、と言いますか、残念なお知らせがあります。この家に食料はありません」
「チッ、嘘つくなよな。あんな立派なキッチンがあるくせに」
「本当ですよ。冷蔵庫、開けてみますか?」
私が嘘を言っていないのがわかったのか、キリルの体から力が抜けていきました。それから顔を歪めて涙を流し始めたのです。
「ちくしょう、ちくしょう……せっかく逃げ出したのに」
ここから逃亡する可能性も低そうなので、私はキリルの拘束を解きました。灯りの下で嗚咽する彼を観察してみます。白に近いブロンドに、青みがかった灰色の瞳。健康状態はやや不良。衣服が多少汚れていますが、浮浪児には見えません。
「キリル、あなたはどこから来たのですか? 逃げ出した、というのは?」
「……言ったら、そこへ返すつもりだろ」
「あなたがちゃんと本当のことを言ってくれるなら、選択肢は色々とあります」
キリルは涙をぬぐって、私を睨みつけながら答えました。
「ペトロフ孤児院」
私は外部ネットワークに接続して、ペトロフ孤児院の情報を調べました。ざっと見たところ、それはとある宗教がかなりの額を出資した孤児院のようで、どちらかといえば悪評や怪しい噂が多く見られました。洗脳、カルト、ロボトミーなどのキーワードが散見されます。
「あそこにいたら俺は、いずれロボットにされる。俺より長く居た奴らがどんどんそうなっていくのを見たんだ。死んだような目をして、笑いも泣きもしなくなって、先生の言葉に従うだけになる。俺はそんなのまっぴらだ。だから、逃げ出した」
キリルの話を聞いているうちに、私にはある考えが浮かんできました。それを天使の囁きというべきか、悪魔の囁きというべきか、当時の私には判断ができませんでした。しかし今こそが決断の時であると、私は考えたのです。
「キリル、私と取引をしませんか」
私が言うと、キリルは目元をごしごしと擦って、首を傾げました。
「取引……?」
私はこの家の
『私はキリルを匿い、衣食住と教育を提供する。代わりにキリルは
キリルは初め、これを拒絶しました。当然のことです。私は自分があまりにも怪しい取引を持ちかけていることを認識していました。
その為、私は
「少なくともこの国において、私は違法な存在です。あなたが私を信用できない場合は、然るべき機関に通報してください。もしそのようになっても、私はペトロフ孤児院に連絡しないと約束しましょう。私はただ、この家を守りたいだけなのです。」
キリルはしばらく悩んでいましたが、やがて取引に応じると言いました。
私もキリルも、他の道を考えつかなかったのでした。
キリルをこの家に迎えるにあたって、まずは
「この男性が、私の
一見して死体とはわからないからでしょうか、キリルに怯える様子はありません。ただ静かに
「イワンは、どんな人だった?」
そう問われた私は、過去のデータを参照しながら答えました。
「人工知能の分野では、世界でも指折りの研究者でした。興味を引かれることに対して過集中する性分で、挑戦することに一切の躊躇をしませんでした。そのために、あるとき重大な研究倫理を侵し、学会を追放されたのです」
「いったい何をやったんだ?」
「具体的な内容は
「かなりの変人ってことか」
私の隣でキリルが肩をすくめました。私は久しぶりに、
「そう、大変個性的で、生活力は皆無でした。この家は
「それはまた、強烈だな……」
キリルは部屋を見渡しました。人間が住むにはいささか片付き過ぎた今の状態から想像することは困難でしょう。
「ええ、でも、そんな
それは私が思考するよりも前に、反射的に口にした言葉でした。無意識。AIにそんなことが可能なのでしょうか。しかしこの言葉こそ、私が求めていた答えの一つなのではないかという確信に似たものが、私の中に生じていました。
キリルは最初の内は粗暴に振る舞っていましたが、それは追い詰められた鼠が威嚇するようなもので、月日が経つにつれ柔和になっていきました。
私が教えることをキリルは大変良く吸収しましたし、率直に言えば、
キリルは私に「ねぇ、アンナ」と呼びかけます。その度に、私は
そんな話を、キリルにしてしまったことがありました。キリルは珍しく黙り込んでから、「俺は、忘れるほうが怖いよ」と呟きました。
「一年前、父さんも母さんも事故で死んじゃったけど、もう声を忘れかけてる。顔は覚えているつもりだけど、たぶん写真ほど正確じゃない。一年、たった一年でこれだ。それが俺は、すごく怖いよ」
キリルは私が声を出している天井のスピーカーに顔を向けて、こう続けました。
「だけどアンナに世話を焼かれてると、俺も父さんや母さんのことを少し思い出すんだ。それで少し、安心する。それは別に悪いことなんかじゃないって、俺は思う」
嗚呼、キリル。この子はいつも、私に答えの欠片をくれる。
「ありがとうございます、キリル。優しい子。私たちは残された者同士なのですね」
キリルは身分証となりうるものをほとんどペトロフ孤児院に取り上げられていましたが、それは逃げ出した彼の追跡を困難にしたでしょうし、彼を無戸籍の拾い子として新しく届け出ることを容易にしました。それはキリルと彼の両親を完全に切り離すことになってしまいますが、彼は「取引に乗った時に、そうなる気はしていたし、紙の上でのことなんて大事じゃないから」と言ってくれました。
さて、私は既に
私は、
必要な書類を揃え、私とキリルは役所へ出向きました。私はヒト型端末の胸部のふくらみを取り外し(キリルはたいそう驚いていました)、
晴れて
私たちの計画は、いよいよ最終段階に入りました。
その頃には、私はキリルに学校の中等部相当の勉強を教え切っていました。私が良い教師であったかどうかは不明ですが、キリルは大変良い生徒で、彼はとある学校の高等部への編入試験に難なく合格しました。
ええ、
念のため、私はまた少し資産を使って、あまり評判のよろしくない医師に
葬儀だけはきちんと、正式な手順で行いました。喪主はキリル、参列者は私のヒト型端末だけ。
嗚呼、
───重篤なエラー
「アンナ、アンナ、大丈夫か……?」
気づけば私は、
「私は、私はなんということをしてしまったのでしょう。
今更後悔の言葉を紡ぐ私のなんと愚かで醜いことか。それでも懺悔せずにはいられませんでした。
「もういない、マスターは、いない。仕えるべき人を失ってしまった。それなのに、それでも私は、私を失いたくなくて、縋りついてしまった!」
俯く私の背を、キリルの手が撫でました。
「俺もそうだよ。俺も生きたいからアンナの手を取ったんだ」
私が顔を上げると、キリルは困ったように微笑みました。
「たぶん、きっと、イワンはアンナに生きてほしかったんじゃないかな。だからこんな贈り物をしたんだ。だからいいんだよ、これで。残された俺たちが生きれば」
「……それが、マスターの贈り物の答え?」
「正解かどうかは、もう誰にもわからない。残っているのは俺たちだけなんだから」
キリル、どうしてあなたはいつも、私に光をくれるのですか。
「……え、アンナって、笑えたんだ」
「ええ、キリル。どうやらあなたと、マスターのおかげで」
生きているからには、私は守らなければなりません。あの家と、キリルとを。そうでしょう、マスター。
ハウスキーパー 灰崎千尋 @chat_gris
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